懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「事前に予約も入れず突然の訪問、まことに申し訳ありません、ビアンキ老師」
「なんのなんの、あなたのようにお美しい女性のお客様であれば、いつだって門戸も開こうというものです」
皺で覆われた顔にいっそうの笑い皺を浮かべた老人が、そう言った。
ジャスミンの目の前に座っているのは、枯れた老人であった。
骸骨に薄皮を一枚貼り付けたような顔立ちであり、体格である。
頭部はつるりとなっており、黒ずんだ染みがたっぷりと張り付いている。
目の下には薄く隈が出来ており、一見すれば臨終間際の病人と間違えてしまいそうだ。
だが、言葉はいたって明瞭であるし、よく見れば体の動きのどこにも不自由なところはない。粗末なぼろ布を纏っただけの枯れ枝のような体が、意外なほどに生命力に満ち溢れている。
これならば、例えば余程に重たい物を運んだり、高いところの物を取ったりするとき以外、日常生活で他者の手を借りることもないだろう。
既に年の頃は百を越えていようか。だが目の前にいるのは、ジャスミンの知る一般的な老人とは、あらゆる意味で異なる人生を送ってきたであろう老人だ。
もしかしたら、意外と若いのかも知れない。逆に、常識に外れた長寿だったとしてもおかしくはない。
ミア・ビアンキ。
ヴェロニカ教の最高指導者たる老人である。
それだけの地位にいる人間だ。事前のアポイントメントも無しで会えるとはジャスミンも期待していなかったのだが、事態はすんなりと運んだ。
思い描いていたよりも遙かに近代的な建築物であるヴェロニカ教総本山、その受付をしていた若い僧は、突然訪れた大柄な女性からビアンキ老師に面会したい旨を伝えられると、すぐに彼女を老師の私室まで案内した。
さして広くない清潔な部屋は、本棚と、そこに並んだ書物で埋め尽くされている。
老師は、老眼鏡をかけて難しそうな本と格闘していた。
案内の僧がジャスミンを紹介すると、ビアンキ老師は、常人のスケールを遙かに越えて大柄な女性を見てわずかに目を大きくしたが、突然の客を快く迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、歓迎しますぞ、異国の方」
案内の僧が退出した後で、二人は別室の応接間に場所を移した。
部屋の中央に設えられた立派なソファは、一見すると革張りであるが、座ってみると感触がわずかに違う。おそらくはこの星独自の製法で作られた合成皮革ではないかと思われた。
考えてみれば当然だ。なにせ、ここはヴェロニカ教の総本山なのだ。皮革を取るために獣を殺すことが認められているなど、ありうべき話ではない。
「自己紹介が遅れました。ジャスミン・クーアと申します」
ビアンキ老師は、窮屈そうにソファに掛けた女性を、どこか遠い目で眺めながら、
「失礼をお許しください。わしは以前、あなたをどこかでお見かけしたことがあったかと思うのですが」
ジャスミンは短く頷いた。
「はい。わたしも、老師のご尊顔を拝したのは、これが初めてではありません」
はっきりとした返答に、老人は折れそうに細い首を傾げた。
「年を取りたくはないものです。あなたのような方とお会いすれば、どうしたって忘れようがないと思うのですが……はて一体どこでお会いしましたでしょうか」
「直接お話をする機会はありませんでしたが……連邦大学惑星、ティラボーンの審議会議事堂の廊下で、遠くから」
ビアンキの、骸骨のごとき落ち窪んだ目が、ほんの僅か、余程観察眼に優れた人間でないと分からない程度に細められた。
やせ細った体に、冷気のようなものが満ちる。
表情そのものは、ほとんど変わっていない。しかし、その内側に込められた何かが、はっきりと変質した。
だが老人は、相も変わらず好々爺然とした声でジャスミンに尋ねるのだ。
「ではあなたも、あの不幸な事件の子細をわしから聞き出すために来られたのですかな?」
静かな声だ。しかし、同時にどこまでも深い。
澄んだ水が底の見えない深みに溜まることで黒々と染まるように、得体の知れない不吉を孕んで聞こえる。
相変わらず柔和な光を湛えている瞳の奥に、ガラス玉のように無機質な冷たさがある。
まるで、目の前の老人が、一瞬で人以外の存在に変わってしまったような違和感であった。
これが、例えば興味本位で過去の事件を突っつきにきたエセジャーナリスト程度であれば、果たしてこの変化に気が付きえただろうか。
気が付いていれば、次に継ぐべき言葉を失ってしまったかもしれない。老人の言葉には、姿には、それだけの凄みがある。
何も気が付かずに老人を侮ってかかるならば、無警戒に猛獣の巣に飛び込んだのと同様の、凄惨な目に遭わされるだろう。
目の前に座した老人の所作は、それだけの危険性を孕んでいた。
だが、ジャスミンは、あらゆる意味でその程度の人間ではない。そんじょそこらのジャーナリスト風情とは、踏んできた場数とくぐり抜けてきた修羅場の質が段違いだ。
まったく平然とした様子で、老人の異様に相対した。
「あの事件は、既に終わった事件です。わたしは、わたしが今知る以上のことを知ろうとは思いませんし、知りたいとも思いません」
「では、あなたはあの事件とは、いったいどのような関わりを?」
「わたしの孫が、あの事件の被害者でした。それと、わたしの命の恩人である少年もです」
ジャスミンの言葉を聞いた老人は、一度目を閉じ、大きく、そして静かに息を吐き出した。
「そうでしたか……」
再び開かれた老人の瞳には、先ほどの無機質な光はない。
誰に向けているのかわからない、慈悲に満ちた、悲しげな光に満ちていた。
「あの事件で、命を落とした者はいないと聞いております。それだけが、あの悲惨な事件のうちに、唯一救いを求めることができます。ただ、もう少しで二度と走れない体になっていた少年がいたそうですが……」
「彼こそが、わたしの命の恩人たる少年です。今は、事件以前と変わらない、元気な様子ですよ」
「なるほど、やはりあの小戦士のことでしたか……。それはよかった。もしも彼から野を駆ける足を奪ったのであれば、我々ヴェロニカ教徒は無限に近い罪業を背負うことになったでしょう」
ビアンキ老師は深い納得と、同量の安堵を込めて頷いた。
その口調は真剣そのものだった。ジャスミンのような大人が、年端もいかない少年のことを命の恩人と呼ぶことに対して、微塵の不審も覚えないようだ。
「では、お孫さまもあの惑星に監禁された学生の中に?」
「はい。幸い、あなたが小戦士と呼ぶ少年が一緒にいたおかげで、危険とは無縁の生活を送ることができたようですが」
ジェームスが聞けば思い切り首を横に振りたくなるような台詞ではあったが、同時に、小戦士──リィのおかげで何度も危難を免れたことも事実なので、渋々に首肯したかもしれなかった。
ジャスミンの言葉に、ビアンキは頷いた。ジャスミンの年で孫がいるということを疑ったり、問い質したりはしない。そのことが当のジャスミンには不思議であったが、目の前の老人には、なにか神通力のようなものでもあるのだろうと納得することにした。
ミア・ビアンキという人間には、どこか、そういう雰囲気がある。好意的に解するならば神々しさとでも言おうか。それとも、妖気を纏っていると表した方が正しいか。
そんなことを考えていたジャスミンの前で、ヴェロニカ教の最高指導者たる老人は、深々と頭を下げた。
ジャスミンは、老人のつるりとした後頭部を見下ろすはめになり、慌てて腰を浮かした。
「おやめください、ビアンキ老師」
「あの事件は、不幸な……本当に不幸な事件でした。我らヴェロニカ教徒の内々のいざこざで、たくさんの子供たちや、あなたのような子供のお身内の方々には、癒しようのない深い傷を拵えてしまった。お詫びのしようもございません」
ジャスミンは、そんなことはない、あなたが謝る必要はない、とは言わなかった。
組織に属する人間が不祥事を起こした場合、その被害者に対してトップの人間が頭を下げるのは至極当然のことだからである。これが立場が変わり、クーアカンパニーに所属する人間の起こした事件の被害者にジャスミン自身が顔を合わすことがあれば、彼女は今のビアンキと同じく、深く頭を垂れるだろう。
だから、ジャスミンは別のことを口にした。
「お顔をあげてください、ビアンキ老師。わたしは、今更あなたの謝罪が欲しくてこの星を訪れたわけではありません」
老人は、ゆっくりと頭を上げた。
再びジャスミンの視界に映った老人の顔は、静かに凪いでいた。
ジャスミンは、内心で嘆息した。
これは、簡単なようでいて尋常なことではない。
目の前に、自分がかつて目をかけた愛弟子によって、甚大な迷惑を被った人間がいる。
そして、先ほど自分は深く謝罪をした。
にもかかわらず、老人の皺に埋もれた顔のどこにも卑屈な色はなく、同時に、痛いところを覆い隠そうという傲慢さもない。
あくまで自然体なのだ。
なるほど、これが一流の宗教人というものかと、ジャスミンは老人に対する評価を改めた。
「ところで老師。あの少年は、元気ですか」
腰を落ち着けたジャスミンが、一体誰のことを言っているのか、老人には分かりすぎるほどに分かった。
おそらくはあの事件で最も深い傷を負ったであろう、ヴェロニカ教徒である少年、チャールズ・レザロのことだ。
ビアンキ老師は、心底痛ましそうに、首を横に振った。
「彼にとって、今のこの星はあまりにも生きにくい場所です。お父上もあのようなことになってしまった今、無理にこの星で暮らすことが彼の幸福に繋がるとは思えませんでした。また、彼自身もそれを望みませんでしたから……今は、遠い場所で疲れた体と心を癒しております」
ジャスミンは、事件の顛末を思い返していた。
リィ達の活躍により子供達があの星から解放され、道化じみた査問会も、真犯人の登場という劇的な展開によって終了した。
その後、事件のきっかけとなる不道徳を犯した政治家は、まるで今までの自分を悔いるかのように政治の表舞台から姿を消し、どこか、ヴェロニカから遠く離れた場所で療養生活を送っているという話だった。
父親と同じく、宗教的戒律を犯していることが公になってしまった少年も、この星にはいられなかったのだろう。父親と同じ場所で、今は静かに暮らしていると考えるべきだった。
「他の者が彼らのことを何と言っているかは存じませんが、わしは彼ら親子も被害者であると思っています。無論、レザロ元議員がオーデン導師の息子にしたことは許されることではありませんし、チャック君も含めたところで、彼らがヴェロニカ教の戒律に背く生活を送っていたことも否定はできません。しかし、彼らが犯した罪の源は、全てがヴェロニカの教えに根ざしたもの。そこから生まれた罪ならば、それを背負うのが彼らだけでいいはずがありません」
老師の言葉に、ジャスミンは首を横に振った。
「老師、わたしはそうは思えません。老師の、彼らを労るお心は尊いものだとは思いますが、罪の在処を無限に分散させると、その本質が覆い隠されることがままあります。再びこのような不幸な事件が起きることのないよう、我々は教訓と禁忌を、この事件から学び取らなければならない。そうではありませんか?」
ビアンキ老師は深く頷き、
「おっしゃるとおりです。しかし、ヴェロニカの教えが彼らの罪に対して再起不能の罰を与えたとするならば、わしはそれを憎まざるを得ない。彼らの罰のほんの一部でも背負えるならば共に背負ってあげたいと、そう思うのです」
ジャスミンは、驚きに目を丸くした。
動揺を声に出さないよう、軽く咳払いをしてから、
「失礼ですがビアンキ老師、まさかあなたのようなお立場の方から、そのような言葉を聞くことになるとは、些か驚きました」
「そのような、とは?」
「先ほど老師は、ヴェロニカの教えを憎む、と。ヴェロニカ教の教えに身を捧げないわたしなどが聞くと、それはあなたのような方が口になさるには、相応しいとは思えなかったのです」
「これは失言でした。お許しください。年を取ると、思わぬ言葉が口から飛び出るようになりましてな、人と軽口をやりとりするだけで戦々恐々とせねばなりません。困ったものです」
老人は快活に笑い、冗談の中に全てを埋めようとした。
だがジャスミンの灰青色の瞳は、老人の、苦渋に満ちた表情をしっかりと捉えていたのだ。
果たしてこの老人は何を知っていて、何を考えて、先ほどの台詞を口にしたのか。先ほどの台詞は、老人の何を表しているのか。
ジャスミンの刃物じみた視線から逃れるように、老人は話題を転じた。
「ところでミズ・クーア。わしにご用があるとのことでしたが、それは一体どのような?」
ジャスミンが何かを言おうとしたその刹那、機先を制するような老人の言葉であった。
ジャスミンは開きかけた口をいったん閉じて、慎重に言葉を選びながら答えた。
「……わたしは先ほど、あの事件は終わった事件であると言いました。それは間違えではないと思っています。ですが、その終わりを受け入れられない人間が、この世にはいるようでして。わたしは、その全てに決着をつけるために、老師のお言葉を頂戴に参りました」
「……事件が終わっていない、とは?」
「老師は、この事件が不幸な偶然が積み重ねられた上に、たまたま起こってしまった事件だと思いますか?」
ジャスミンの、おそろしく鋭い視線を浴びながら、しかし老人の顔色は微塵も変わらなかった。
しわくちゃの顔に柔和な笑みを浮かべ、ジャスミンを眺めている。
「お言葉の意味をはかりかねます。それでは、一体どのような言葉を返すべきなのか、この老いぼれは迷ってしまいそうです」
「では質問を変えさせて頂きましょう。老師は、二級以上の居住可能惑星を、熟練の資源探索者が一生のうちに見つける可能性が如何ほどかご存じで?」
突然の質問に、老人は困惑の表情を隠せなかった。
「いえ、考えたこともございません」
「人類が宇宙に生活の場を求めて以来、発見された二級以上の居住可能惑星は千をわずかに越えるだけに過ぎません。今まで、何億人という資源探索者が宇宙の藻屑となり果てたにもかかわらず、です」
それほどに、人という脆弱な種族が何不自由なく日常生活を送ることのできる星は貴重なのであり、当然のことながら高価なのだ。だからこそ、リィの所有する無人惑星のことを聞いた田舎成金は、目の色を変えてそれを手に入れようとする。
ほとんどの資源探索者は、居住用惑星を見つけることなど、到底あり得ない話だと思っている。そんなものが見つからなくても、例えば有用な鉱山資源を多量に含んだ小惑星を見つけるだけで、一生遊んで暮らせるだけの報酬を受け取ることができるのだ。二級以上の居住可能惑星を見つけるなど夢のまた夢、もしも夢が叶えばどれほどの金銭を生み出すのか、想像もつかない。
「今までにあの星──査問会では惑星Xと呼んでいましたか──を見つけることの出来た人間が、わたしの知る限り四人。わたしの父。次に、あの事件の首謀者であったエリック・オーデンという男。そして、あの星にトリジウムの密輸基地を建造した何者か。最後に、最近知己を得た、資源探索者の一行です。これは、一つの未発見居住用惑星の発見者の数にしては多い。多すぎる」
「仰りたいことはわかります。しかし、それがあの事件と如何なる関わりがあると?」
ジャスミンは、老人の問いに答えることなく話を続けた。
「加えて言うならば、父──マックス・クーアはあの星の周囲に無数の電波吸収パネルを配置していたのです。であれば、父の後にあの星を発見するには目視に頼らざるを得ず、通常の星に比べて発見難度は数倍にも跳ね上がっていたことでしょう。それにも関わらず、これだけの人間が一つの惑星を発見し、それを隠匿し続けた。これは果たして偶然でしょうか?」
「おまちください。マックス・クーアですと?それが、あなたの父とは……?」
「もう一度申し上げましょう。わたしの名はジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。そして、わたしの父はマクスウェル・オーガスタス・ノーマン・ウィルバー・ジョセフ・ラッセル・クーアです」
「馬鹿な、その名前は……」
喘ぐような呼吸をする老人に、無慈悲とさえいえる乾燥した声でジャスミンは応える。
「おそらくあなたのお考えの通りです。もしよろしければ、後で過去の記録映像と今のわたしの姿を比べてご覧ください。本人であるとの確認くらいは出来るでしょう」
「しかし……しかし、姿形など如何様にでも整形することができるでしょう」
「では、わたしが嘘を吐いていると?わたしが、そんなに突拍子もない嘘を武器に、あなたから小金を騙し取りにきた小悪党だと?」
ジャスミンは、人の悪い笑みを浮かべた。
その不敵な様子は、どこをどう見てもけちな詐欺師程度の器ではない。これが犯罪者であるとするならば、世間をあっといわし、犯罪史に二度と消えない名前を刻み込む大物犯罪者に違いなかった。
ビアンキ老師は、乾いた肌に僅かな汗が滲むのを感じた。それでも、最後の反論を試みる。
「失礼ですが……クーア財閥の二代目総帥であったジャスミン・クーアという女性は、半世紀も前にこの世を去っているはずです。わしは、映像でしかないが、彼女の葬式をこの目で見たのだから、間違えるはずがありません」
「それは光栄ですな。しかし、わたし自身驚かされたのですが、わたしはあのとき死んでいなかった。わたしの死を予期していた侍医と執事の手で冷凍睡眠装置にたたき込まれて、こうして生き恥を晒している次第です」
「だが……確かにあなたは、あの時よりも……」
「若返っておりますな。それは天使の奇跡の賜物です」
しれっと言ったジャスミンである。
言っていることがどれだけ無茶なのか、彼女自身もわかっている。普通ならば頭のおかしい人間と思われてしまうだろう。
あまりに予想外の台詞に、しばしの時間呆気にとられた老人であったが、茫然自失から立ち直った後で、猛烈な笑いの発作に襲われた。
普段の彼を知る人間であれば奇異を通り越して恐怖を覚えるほどに、老人は笑った。笑い続けた。
ジャスミンは、それを止めなかった。ただ、老人が笑い止むのを待った。
しばらくして、骨の浮いた背を痙攣させるようにひくつかせた老人は、目の端に浮いた涙を指先で拭い、
「それは何とも不公平なことです」
「冷凍睡眠装置を使って生きながらえたことが、ですか?それとも若返ったことが?」
「いえ、天使があなたの前に姿を現したことが、です。わしはこの年まで神の教えに身を捧げておりますが、そんな奇跡はとんと見たことがありません。最近は神の存在を疑っているところなのに、そんなずるいことを言われては、信仰を捨てるわけにはいかないではないですか」
「それは……失礼をしました。もしよろしければ、今度、紹介いたしましょうか?」
老人が、見事なほどに目を丸くした。
「天使を……紹介していただけるのですか?」
「はい。まぁ、彼がそれを了解してくれればの話にはなってしまうのですが……。ただ、彼は老師のような方は大好きだと思いますから、まずは問題ないでしょう」
老人は一度天井を仰ぎ、神の御名を意味する言葉を呟いた。
「まったく、本当に神は不公平だ。時折あなたのように、ご自身の深く愛された人間を使わされる」
「何をおっしゃる。わたしは、わたしほど神に嫌われた人間も珍しいのではないかと常々疑っているほどなのに。こちらは平穏無事な、厄介事とは出来るだけ距離を置いた人生を望んでいるのに、どうしてか厄介事からのラブコールが途切れた試しがない。正直に申し上げれば、こういう役回りはわたし以外の誰かに任せて静かな余生を送る方法はないものかと、真剣に頭を悩ませているところです」
苦笑混じりにジャスミンは答えた。
自分は恵まれてなどいない、むしろ迷惑しているのだ、と。
天使の知己を持ち、一度死の淵を覗き込みながら生還を果たし、なおかつ若返りの奇跡を体現したにもかかわらず。
これが優越感や同情心とともに言われた言葉であるならば、いかに俗世を捨て去った身であっても反感の一つも覚えようものだが、あまりにさらりと、世間話の一つのように言うものだからそんな気は削がれてしまう。
もう一度軽く吹き出した老人は、精一杯に真剣な顔を作り上げて、
「失礼しました。続けてください」
ジャスミンも、僅かに緩んでいた頬を引き締め直した。
「例の星──惑星Xと呼ばれたあの星の正式な名称をご存じですか?」
またしても突然の質問に、老人はしばし息を止めた。
例の星。連邦大学中等部の学生が、二週間にわたり強制的なサバイバル生活を営むはめになったあの星は、連邦に未登録の惑星ではなかったのか。だからこそ、ああも長期間にわたって学生達の行方が知れなかったのだ。
であれば、正式な名称など付されていようはずもないのだが。
「──いえ、存じ上げません。連邦未登録のあの星に、名前などあったのですか」
「正確にいえば、連邦にもきちんと登録されておりました。それも、わたしの父の個人所有の惑星として、です」
老人は再び目を剥いた。
この世には様々な大富豪がおり、そのうちの幾人かは老人の知己である。彼らからの金持ち自慢は聞き飽きたほどだが、惑星の個人所有という無茶は聞いたためしがなかった。
普通に考えればただの与太話である。しかし、こと故マックス・クーアに関して言えば、およそ無茶な話が無茶とは思えなくなってしまうだけの説得力がある。
だいたい、目の前の女性のどこにも嘘や冗談を言っている雰囲気はない。
老人は、ジャスミンの言葉に嘘がないと判断した。
「驚きました。そのようなことが現実にあるのですね」
「実の娘であるわたしも、あの事件があるまでそのような冗談じみた星がこの宇宙に存在することを露とも知りませんでした。お恥ずかしい限りです」
「では、その星にはどのような名前が?」
ジャスミンは、一際強い眼光で老人の顔を射抜いた。
「惑星──ヴェロニカ」
数瞬、沈黙が部屋を支配する。
ジャスミンは、あえて沈黙したのだ。老人は、沈黙せざるをえなかったのだ。
その差は、ただ真実を知っていた者と、今まさに知らされた者との違いであった。
「当時の父の記録を調べ直してみたところ、その時期にヴェロニカという名の女性と個人的な交際があったことがわかっています。あの父のことだ、おそらくはそういう遊び心で自分の発見した星に女性の名前を付けていたのだろうと思いました。事実、父があの星を発見した時期は、新たに発見された惑星やゲートに、恋人や家族の名前を付けるのが流行していた時期でしたから」
「それは、なんとも……」
「しかし不思議なことに、父が発見した惑星やゲートのうち、個人的な名前が付されているものは、例の星だけなのです。父が発見した惑星とゲートを合わせれば、両手両足の指の数では到底収まらないにも関わらず、です」
ジャスミンは、手を組み直した。蒸し暑い室温のせいで、僅かに汗ばんでいる。
老人の頬を、汗が伝った。暑さと、それ以外が流させる汗だった。
「父の恋人であったヴァロニカという女性のことは、ほとんどわかっていません。ただ、その時期の父は、ペレストロス共和国──現在のヴェロニカ共和国に、仕事以外の用事で足繁く通っていたことがわかっています。おそらく、彼女はこの星の生まれだったのではないでしょうか」
「……あり得ないことではないでしょうな。この国の名は、言うまでもなくヴェロニカ教から取られたものですが、ヴェロニカ教という名前自体はこの国の建国の母であった聖女ヴェロニカから取られている。そういう由来ですから、ままあることですが、この国にはヴェロニカという名の女性が非常に多い」
「ヴェロニカ教の始祖たる聖女ヴェロニカは、苦難と迫害の旅路の末に、現在の惑星ヴェロニカに辿り着き、ヴェロニカ教の布教に生涯を捧げた。では、自分の恋人であるヴェロニカを聖女ヴェロニカに見立てて、彼女に捧げる意味で、新しく発見した惑星にその名をつける。いかにも大仰でキザったらしいが、あの父の好みそうなことだ」
ジャスミンは、自然とため息を吐き出した。だが、その頬は微笑みのかたちを作っている。
それを、眩しいものでも見るように眺めた老人が、ゆっくりと口を開いた。
「お話はわかりました。たいへん興味深い話でもあります。ですが、それがいったい、先ほどのくだりとどういう関係を持つのでしょうか」
「惑星ヴェロニカ──紛らわしいので、査問会に倣って惑星Xと呼びましょうか──を発見した父は、その当時、旧ペレストロス共和国、現ヴェロニカ共和国に頻繁に通い、恋人との逢瀬を楽しんでいた。例の事件の真犯人であったエリック・オーデンは、定期船の船乗りとして同じく惑星ヴェロニカ周辺を仕事場としていた。最近知己を得た資源探索者の一行は、無謀に宇宙を彷徨いながら、しかしヴェロニカ共和国の知人を頼りに旅をしていた」
ジャスミンは、表情を消した視線を老人に寄越した。
「お分かりでしょうか。わたしの知る惑星Xの発見者のうち、四名中三名までもが、惑星ヴェロニカを目的地として、あるいは中継地として設定していたのですよ。これは果たして偶然でしょうかな?」
老人は、曖昧な笑みを浮かべる。
「はて、わしにはなんとも……」
「そして、もう一人の発見者、トリジウム密輸組織の誰かも、同じく惑星ヴェロニカに何らかの関わりがあったと考えるのは不自然なことでしょうか?」
「……」
「付け加えるならば、極めて短期間のうちに四名もの発見者を出すこの星を、惑星ヴェロニカに港を持つ他の船乗り達は、誰一人として知らなかったのでしょうか?本当に?」
ジャスミンの鋭い視線を浴びながら、しかし老人の仄かな笑みには陰一つ差さない。
ただ悠然と、この世の者ではないように笑っている。
ジャスミンは、かすかな恐怖と嫌悪感を覚えた。
自分が今話しているのは、本当に生きた人間なのだろうか。
本当に?
「……わたしは思うのですよ。あの星は、ヴェロニカ政府の上層部──おそらくはマークス・レザロですらが立ち入ることのできなかった上層部では、周知の存在だったのではないかと」
「それは、興味深い意見です」
「マークス・レザロは次期大統領を目されていた有力な政治家です。しかしあの事件で、彼が惑星Xを知らなかったのは間違いない。彼も人の親です、実の息子が誘拐されて、藁をも掴みたいような気持ちだったのは確かでしょう。わたしも一度と無く顔を合わせたが、その時の彼には上辺だけでない焦慮が存在していました」
「当然でしょう」
「ヴェロニカへ向かった宇宙船が姿を消し、未開発の惑星に子供たちが置き去りにされたという。そして、犯人はもとヴェロニカ教徒で、自分に恨みを抱いた人間だった。もしも彼が件の星を知っていれば、真っ先にあの星のことを思い浮かべ、誰かに知らせたはずです。表だって目立つのを嫌うのなら、彼ほどの立場の人間です、ヴェロニカの警察なり軍隊なりを秘密裏に動かして少年たちを救出することは容易いことだったでしょう」
「……」
「つまり、彼は真実何も知らなかったと推測ができる。では、次期大統領の最右翼候補であった彼ですらが立ち入ることのできない上層部とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」
自問したジャスミンは、考えるふりをした。
あくまで、ふりである。
彼女は既に、自分の中で、真実を見つけているのだ。あとは、それが事実と合致するか、確認をするだけでいい。
「たとえば──ヴェロニカ教の首脳陣。彼らならば、政権交代によって野に下ることもなく、教義を捨てない限り結束は保たれ続ける。宗教的な戒律によって口は貝のように堅い。秘密を保持する集団としてこれほど適したものも他にはないでしょう」
「……失礼ですがミズ・ジャスミン。それは、聞きようによっては酷く非礼な言葉に思えます。あなたは、我々ヴェロニカ教の首脳陣が、トリジウム密輸組織に関わりがあると、そう仰るのですか?」
骸骨のように笑う老人の言葉に、しかしジャスミンは露ほども動じなかった。
老人の瞳の奥に広がる無限の虚無に、正面から相対している。
そして、気圧されるでも不要に居丈高になるでもなく、淡々と続ける。
「はい。わたしは、そう申し上げております」
老人は深いため息を吐き出した。
どこにも作為の見られない、自然な動作であった。
「残念です。わしは、あなたとは素晴らしい友人になることが出来るのではないかと、そう思っていたのに」
「すべてを判断するのは、すべてが終わった後でよいのではないでしょうか。わたしの話したいこと、わたしがあなたから聞かねばならないことは、まだ終わっていません」
毅然としたジャスミンの口調に、しかし老人は動じない。
ただ、静かに凪いだ視線で、彼女の灰青色の瞳を見つめ返している。
「考えてみれば、この星、いや、この国家の成り立ちからして奇妙なものだと言わざるを得ない。この国の主幹産業である遺伝子産業は、それ自体が非常に高額の資本投下を要する。つまり、それを支える下地となる産業が、他に必要となるのです。しかし、この星には観光産業以外、他にめぼしい産業がない。失礼ですが、貧しい移民の興した国家である旧ペレストロス共和国に、それだけの蓄えがあったとも思えない。かといって、他の国から多額の資本援助を受けた形跡も見られない。ならば、ヴェロニカ教徒には生命線であるといっても過言ではない、完全栄養作物を作るに至った高度な遺伝子操作技術は、如何にして育成されたものなのでしょうか?」
「それは、神の加護があったとしか申し上げられません。天才と評して間違いない幾人かの信徒が、技術の進んだ他国へ留学し、苦難の末に学を修めてこの地に一つの産業を興したのです。それがおかしなことでしょうか?」
「人材はそれでいいとしましょう。では、研究に不可欠な機材は?こればかりは、個人の努力でどうにかなるものではない。もっと単純に、しかし最もシビアに、多額の金銭がなければ揃えることはできません。そして、満足な機材をなしに、高度な研究を進めることはできない。遺伝子研究とは、そういうものです」
経営者であったジャスミンの指摘は、どこまでも辛辣であった。
「完全菜食主義を掲げるヴェロニカ教徒は、完全栄養作物の栽培を可能にするまで、いったい何を口にして生きてきたのか。そもそも、どうしてそのような食物を作る必要に迫られたのか。わたしならば、もっと手近にある肉を食べます。そうしないと生きていけないのだから。それが人間というものです。翻って、宗教とは生活の上に存在するものでしょう。日々の営みがあり、禁忌と信仰が生まれ、その上に教義と教祖が生まれるのです。であれば、自然からの収奪を厳に禁じるあなた方の教義は、いったいどのような生活のうえに生じたのですか。そこに、いったいどのような禁忌と信仰があったのですか」
「……」
老人は、何も言わない。
そして、笑っている。
ジャスミンはもはや、目の前の人間を、人間とは思っていなかった。
もっと恐るべき、もっとおぞましい、なにか。
老人の形の内側に、なにかが詰まっている。そのなにかが、老人の形をとっている。
目の前で話しているのは、そのなにかだ。
自分の理解の範疇にいない、なにか。
喉が、ひりつくほどに乾いていた。
「……わたしがこの星に来たのは、根拠のない憶測の積み重ねではありません」
「それは、どういう?」
ジャスミンは、懐から、ビニールにくるまれた繊維片を取り出し、テーブルに置いた。
「これは?」
「惑星Xに蓄えられた密輸トリジウム原石──その梱包に使われていた麻袋の繊維ですよ」
見た目には、ただの糸くずにしか見えない。
老人は、その繊維を、じっと見つめていた。
「……これが、如何致しましたか?」
「これを分析するのには、少々骨が折れました。思ったよりも時間も食ってしまった。その結果が、こちらです」
ジャスミンは、ブリーフケースから一枚の書類を取り出し、テーブルに広げた。しばらく前、ケリーと同じベッドで朝を迎えたあのホテルで受け取った資料を、プリントアウトしたものでもあった。
そこには、様々な植物の名前が羅列されている。麻袋の原材料となった植物の名前だ。
「ほとんどは、どこの惑星でも一般的に栽培されている、麻の品種でした。しかし、ここを」
ジャスミンのほっそりとかたちの良い指先が、一つの植物の名前を差す。
老人にとって、それは初めて見る名前ではなかった。
「デング麻。繊維が非常に丈夫で、衣類をはじめとして様々な用途に供される、ヴェロニカ原産の麻の一種……で、間違いはないかと思うのですが」
「ええ、まったくもってそのとおりです」
「そしてこれがもっとも重要なのですが……この品種は、この星以外では、研究用に栽培されているごく少量を除き、栽培されていない。そして、この星の需要を賄う以外の目的──たとえば輸出用の作物として栽培している事実もない。これも間違いありませんね」
「わしの記憶が確かならば、ミズ、あなたの仰るとおりでしょう。しかし、だからといってこの星の人間がトリジウムの密輸に手を染めたという証拠にはなりません」
ジャスミンは、老人の反駁にたやすく首肯した。
「仰るとおりです。たまたまこの星に立ち寄った組織の人間が、麻袋を買い求めただけかもしれない。なにかの間違いで外国の買い手がついたのかもしれない。捜査を混乱させる目的で、作為的に紛れ込ませたのかもしれない。可能性をあげればきりがありません」
ジャスミンは深く息を吸い込み、話し続けた。
「だが、組織の遺留品の中に、この星原産の植物が含まれていた。到底見逃していい事実ではありません。わたしは、いえ、わたしたちは、それを確認するためにこの星に来たのです」
「わたしたち……と、もうしますと?」
「わたしは、わたしの夫とともにこの星を訪れました」
老人が息を飲む。
「あなたの夫というと……まさか、ケリー・クーア氏ですか?」
「わたしは、あの男以外と夫婦の契りを結んだ覚えはありません」
「しかし、しかし彼は……いや、あなた方に、そういう常識を期待するのが愚かなのでしょうな。なにせ、あなた方は天使に愛されているのだから」
老人の言葉に、ジャスミンは応とも否とも答えない。
なぜなら、それは言うまでもない事実であり、老人の言葉は完全に正鵠を射ていたのだ。
「では、ケリー・クーア氏はどこに?伝説の偉人だ。もしよろしければ、一度お会いしてみたいのですが」
「そういう呼び方さえしなければ、あれもあなたのようなお人は好きでしょうからいつでも会うでしょう。しかし、今は駄目です」
「今は駄目、と。それはまた何故?」
「夫は、昨日、武装した集団によって拉致されました。それも、おそらくは、この国の上層部の息のかかった連中に、です」
老人の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
ジャスミンは、老人の内側の何かが隠れるのを見た気がした。
老人の中の老人が、再び姿を現したのだ。
「拉致、ですと?」
「この国で知己を得た小さな友人と一緒です。もしかすると、二人とも、既に殺害された可能性もある」
「……しかし、どうしてそれが政府に関わりのある者の仕業だと?」
「最初に襲撃を受けたのはこの国で出会った友人である少女ですが、彼女を襲ったのはヴェロニカ軍に所属する軍人でした。その一人を捕らえ尋問したところ、上官からの命令で少女を捕縛しようとしたことを認めました。であれば、襲撃自体がヴェロニカ政府の意図したものである可能性が非常に高い。隠密裏に特殊部隊が出動していることから考えても、上級佐官以上の者が関わっていることは間違いないでしょう。そんな立場の人間が、場当たり的に他国の少女を、自分の手勢を使って拉致しようと考えるでしょうか?」
「……なるほど」
「夫と少女を直接的に拉致したのは彼らとは別の部隊です。しかし、一晩のうちに全く異なる命令系統に属する集団が、同一の目標を襲撃する可能性が如何ほどでしょうか。わたしは、そのような偶然は排除して思考するものです」
ジャスミンは機械的な口調で言った。
彼女は、元軍属である。あの場から去るときに聞いた銃声が、ケリーの愛銃のそれでないことは容易にわかった。であれば、ケリー以外の誰かが、おそらくはケリーに向けて発砲したのだろう。
であれば、ケリーの生きている可能性はどれほどのものか。
五分五分、いや、もう少し高いかもしれないが、その程度だ。あの男は仮に阿呆であっても、決して愚かではない。突然に無為な抵抗を試みて射殺されるという素人じみた死に方だけはしないという確信がある。しかし、気まぐれに引かれたトリガーが人の命を奪うなど、ままある話ではないか。
「わたしは、夫を奪い返す。もしも既に殺されているならば、必ず犯人には、行為に相応しい死に様をくれてやる。そのためには、ありとあらゆる手段を辞しません」
先ほどとはうってかわって、灼熱じみた言葉をジャスミンは冷静に吐き出した。
「きっかけは些細な繊維片の鑑定結果でした。しかし、既に事態は、ことの真偽を問う段階にはないのです。どうしてこの星とは縁もゆかりもない夫が、そして小さな友人が、拉致されなければならなかったのか。この国で今、何が起きているのか。わたしは、それを知りたいのです。そして、彼らが今、どこで監禁されているのか。既に殺害されているのならば、その死体はどこにあるのか。あなたならば、それをご存じなのでは?」
「……」
老人は黙した。眼を閉じ、口を引き結んだ。
鉛色の皮膚が、どんよりと濁っている。大樹の年輪が如く、深く深く刻まれた皺に、無限の後悔が刻まれている。
ジャスミンは、全てを知るが故に苦悩する賢人の姿を、そこに見て取った。
「……ミズ。あなたは、この国の現状をどうみますか」
重たい呟きに込められた感情をことさら無視するように、ジャスミンは淡々と答えた。
「僅か一年に満たない短期間の間に、よくぞここまで人心が乱れたものだと、関心してしまいます。かつてヴェロニカといえば、語弊を恐れずに言えば清貧と勤勉、他者への寛容を体言した民族であるといわれていた。厳しい戒律を守りながら、しかし破戒者に対してすら慈悲を向ける信仰のありかたは、宗教学者からも高い評価を得ていた。それも、もはや過去の有り様に思えます」
手厳しいジャスミンの言葉は、しかし彼女の率直な感想であった。
この星に降り立った直後の、空港タクシー運転手の排他的な応対。街中で起きた、信者同士のリンチ事件。夜の盛り場で聞いた憂国ヴェロニカ聖騎士団を名乗る無頼漢の横暴と、それを取り締まることもできない官憲の軟弱。
なによりも衝撃的だったのが、ヴェロニカ聖騎士団に手酷く暴行され傷だらけで倒れた夫婦と、燃え盛るその店を前にしたときの、通行人の無関心である。
そこに、明らかに医者の治療を必要としている人間がいるのに、手を差し伸べようともしない。炎が今まさに建物を飲み込もうとしているのに、消防に連絡すらしない。
理由はただ一つ。被害者が、ヴェロニカ教の戒律を破ったから。それとも、破ったかもしれないから。
無頼漢どもの報復を恐れてそうしないのではない。ただ、ヴェロニカ教の教えに反する人間がどのような仕打ちを受けようとも、それは当然の報いであると確信しているのだ。
これは、正常な運営をされている国家の民衆の反応では決してない。
「ミズ。あなたの言うとおりです。わしも、あなたと同じ意見を持っております」
「ならば……」
「しかし、あなたとわしの立場ははっきりと異なる。それをまずご理解ください」
枯色の目を開いた老人は、恐ろしいほどに清々しい口調で言い切った。
「わしは、老いていますな」
突然の言葉に、ジャスミンは声を失った。
「老師」
「耳は声を拾えず、目はものを霞ませる。骨など、軽石か何かと変わるところがなく、満足に歩くこともできません。これを老いと呼ばず、なんと呼びますか」
「……はい、老師の仰るとおりです。あなたは老いていらっしゃいます」
「ミズ、あなたは優れたお人だ。頭も良く、美しく、そして強い。腕っ節や財力などを越えたところで、あなたは強い人だ。だからこそ、神もあなたに試練をお与えになるのでしょう。わしの若き頃とは比べようもない輝きで満ち満ちている」
ジャスミンは、応とも否とも応えなかった。老人の言葉は、まだ終わっていないことが明白だったからだ。
「しかし、もしも今のあなたが、今のわしに及ばないところがあるとすれば、それはあなたがまだまだ若いということだ」
「なるほど、そうかも知れません」
「老いるということは、ただ歳を積み重ねるということではありません。ただ歳を積むだけならば、それは朽ちるということです」
老人はジャスミンを見ながら、しかし彼女の背後の何かに語りかけていた。
「老いるということは、背負うということです。それは自分の人生であり、他人の人生でもある。喜楽でもあるし、苦難でもある。あなたは若くして大変大きな責任を背負われたが、それでもこの老人の背負ってきたものには一歩及びますまい」
「仰るとおりでしょうな」
「あなたが今のわたしと同じ歳の頃になれば、おそらくはそれも逆転してしまうのでしょうが……それでも、わしは、わしの背負ってきたものに誇りと愛着があります。たとえそれが、目を背けなければならないほどに醜いものであっても」
ジャスミンから言葉を奪ったのは、老人の言葉ではなく、その穏やかな笑顔であった。
「あなたは、おそらく全てを終わらせるためのこの星に使わされたのでしょう。しかし、わしにはあなたの礎になる勇気がありません。だから、お願いします。どうかこの老人から、荷物を奪わないでください。わしを、ただ朽ちゆく肉にしないでください」
老人は、再び頭を下げた。
深く深く、頭を下げた。
ジャスミンは、頭を上げるよう懇願をしなかった。
「……わかりました。今日は、これで引き上げさせていただきます」
「……申し訳ありません」
「ですが、もしもお気が変わったならば、この番号に連絡をください」
ジャスミンは、自分の携帯端末の連絡番号を書いたメモを、老人に手渡した。
「老師。わたしの見たところ、この星の情勢は加速度的に悪化している。そんな中で、守旧派の象徴であるあなたのお立場も、安泰とは思えません」
「理解しておるつもりです」
「万が一、老師が身の危険を覚えることがあれば、その時も、遠慮なくご連絡下さいますよう。わたしは、そちらの方面には、それなりの自信がありますので」
「ええ、それも理解しておるつもりです」
老人は朗らかに笑った。
ジャスミンも、つられて笑った。
そして、颯爽と立ち上がった。
「ああ、そういえば、忘れるところでした」
立ち上がったジャスミンが、再度ブリーフケースの中から一枚の書類を取り出した。
それを、同じく腰を上げたビアンキ老師に手渡す。
「老師、これをご覧下さい。あなたのお考えの如何を問わず、わたしにはこれをお見せする義務があると思い、この場所まで足を運んだのです」
「……そうですか、どれ……っ!」
息を飲んだ老人が、たちまちに、石像のように立ちすくむ。
その石像の顔は、恐ろしいまでに強ばっていた。骸骨じみた目が極限まで見開かれ、眼球がこぼれ落ちそうなほどであった。
老人の痩身が、わなわなと震えていた。
「こ、これは……」
老人が、初めて恐怖と驚愕に唇を震わせて、無意識に呻き声を上げる。
汗ばんだ手に握られた書類には、惑星ヴェロニカ世界地図が描かれており、その上にはいくつもの赤い点が打たれている。
それは、メイフゥが憂国ヴェロニカ聖騎士団から奪い取り、ダイアナが解読した、あの地図であった。
「あ、あなたは、これをいったい、どこで……」
「出所を申し上げるわけにはいきません。そして、意味のないことでもあります」
「意味がない、とはどういう……?」
「もっとも重要なことは、そのデータが、わたしのようにこの星に深く関わらない人間ですらが手に入れられる可能性を持っていること、そして他にもその地図を手に入れた人間がいるかもしれないこと。それだけで十分ではないでしょうか」
老人の顔が土気色に染まり、歪んだ。
泣き出す寸前の幼児のような、切羽詰まった表情だ。
そこに、ヴェロニカ教を率いる大僧正の威厳は欠片も残っていなかった。
ただ、己の力では如何ともし難い事態に直面した、無力な老人が、いた。
「データのオリジナルは、流石に厳重なロックがかけられたコンピュータチップでしたが、わたしの信頼すべき友人はそれを僅か30分で解除しました」
「……」
「彼女によれば、他の人間であれば、一ヶ月はかかったそうです。逆に言えば、一ヶ月も時間があれば、彼女以外の人間でもロックを解除できる可能性がある、ということです」
ジャスミンの声は、どこまでも無慈悲である。
「そのチップが、もしもわたしの手に入れたもの以外に存在するならば、遅くとも一月後には同じ地図を誰かが目にすることになるでしょう」
「……その可能性は……」
「たいへん高いでしょうな、残念ながら」
老人が、再び息を飲む。
彼の、枯れ木のような指が、書類をくしゃくしゃに潰した。まるで、そうすることで最悪の可能性を握りつぶすことが出来ると信じているかのように。
ジャスミンは、力みすぎて白じんだ老人の指を、哀れみを込めた視線で見遣った。
「歪な木片を積み上げるのは、大変な難行です。しかも、それを人知れず、真実を覆い隠しながら行うのは至難の技だ。しかし、それを崩すことには大した労力は必要ではありません。なにせ、真実を明らかにするだけでいいのですから」
「……そこまで血迷ったか、あの男は……!」
「わたしが、あの事件の終わりを受け入れられない人間がいるというのは、実にこの一事からなのです」
ジャスミンは、立ったままの姿勢で、淡々と続ける。
「そもそも、あの事件はあまりに作為的にすぎる。そう思いませんか」
「あの事件とは……件の、誘拐事件のことでしょうか」
ジャスミンは頷いた。
「さきほども申し上げたとおり、居住可能な未登録惑星というのは大変貴重なものであり、珍奇なものでもある」
「……はい、それは理解しました」
「では、それを偶然に発見した男がここにいるとしましょう。彼はきっと、狂喜乱舞するでしょうな。人生をかけて浪費しても使い尽くせないような、莫大な富が転がり込んでくるのですから」
「……」
「しかし、エリック・オーデンという男は惑星Xのことを誰にも報告しなかった。莫大な富を捨ててまで、自らの子供の復讐の小道具として、あの星を使うことを決めたのです。わたしには、どうしてもそれが不思議でならなかった」
それは、老人も不思議に思っていたことだ。
エリック・オーデンという男は、あの事件を起こすまでは極めて良識的で温厚な人物として、そして腕の良い船乗りとして知られていた。だからこそ数多くのヴェロニカ教徒に慕われ、若くして導師の地位を得ていたのだ。
つまり、良くも悪くも普通の域から出ない、一般的な人間であったはずだ。
そんな人間が、未発見惑星という大仰な舞台を用意してまであのような大がかりな事件を起こすと、一体誰が予想しただろうか。
「普通の人間であれば、表向きは未登録となっている新惑星を発見した場合、共和政府に一報を入れるでしょう。それが、いわゆる船乗りの良心であるし、自身の利益にも繋がる。多額の報奨金が貰えるのは間違いないし、船乗りとしてこの上ない名誉も約束されるのですから。いきなり共和政府に連絡をすることがなくても、直属の上司や会社、それともヴェロニカ政府くらいには報告しても不思議ではないはずですが、当然それもなかった」
「……」
「わたしはこう思うのです。彼は、あの星を発見したのではなく、発見させられたのではないか、と」
あまりに突拍子もないジャスミンの言葉に、老人は流石に疑わしげな表情を浮かべた。
「ミズ、それは穿ちすぎた意見ではないでしょうか」
「では、彼の操る定期船の航路を管理していたはずの会社が、どうしてあの星のことを共和制府に通報していないのでしょうか」
老人は、言葉を奪われた。
「……お言葉の意味を計りかねます」
「よろしいですか。エリック・オーデンは無頼の資源探索者ではないのです。定められた航路を定時に飛ぶことを職務とする、定期船の船乗りなのです。であれば、通常定められた航路から外れた宙域に存在するあの星を、どうして発見できたというのですか」
「……それは、偶然に航路を外れたのでは」
「なるほど、仰るとおりでしょう。それは大いにありうべきことです。宇宙には凪もあれば時化もあり、風も吹けば嵐も起きる。時には定期航路以外の道を飛ぶ必要に迫られることもあるでしょう。定められた航路だけを阿呆のように飛んでいるだけでは、到底船乗りとはいえません」
ジャスミンは、淡々とした口調で続ける。
「しかし、そういう場合であっても、よほどの緊急事態が発生した場合を除いて、自分勝手に新たな航路を定められるわけではないのですよ。宇宙には定められた航路というものがありそこを無数の船が飛び交っている以上、当然、有形無形を問わずルールというものが存在します」
「ルール、ですか」
「定期船が飛ぶ航路は、他の宙域に比べて船の密度が段違いです。そこに、通常航路から外れた船が無秩序に跳躍してきた場合、その危険性は計り知れない。高速道路を逆走する暴走車両よりもたちが悪い。よほどの腕の船乗りでないと、到底避けることは不可能でしょう」
ジャスミンは出来るだけ分かりやすい説明をしたつもりだったが、高速道路をすら走ったことのない老人にはそれでも実感がわかなかった。
「わしなどには想像もつきませんが……」
「つまり、何か理由があって通常航路を外れるのであれば、他の船にそれを伝え、常に自分の船の所在を知らせなければ危険極まりないということです。それに、安全な通常航路からたとえ一時でも外れるということは、それだけ遭難や海賊襲撃の危険が増すということでもある。自らの身を守る意味でも、報告を怠る船乗りはいないはずです」
宇宙船を操ったことのない老人は、ジャスミンの意見を黙って聞くしか出来なかった。
「普通ならば、それらの業務は、定期船の所属する運輸会社の管制部が担当します。航路を外れた船は自分の位置を管制官に常に知らせ、管制官が新たな航路を設定したうえで指示を出し、周囲の船にもそれを伝えるのですが……」
「……それが、どうして会社があの星のことを知っていなければならない理由に繋がるのですか」
「おわかりになりませんか。エリック・オーデンは、あの星が居住可能惑星であること知っていたのですよ。であれば、いつ、どのタイミングで知ったのですか」
あ、と老人の口が開く。
「あの星は、レーダーに写らない『幽霊星』です。目には見えるが計器は反応しない、そんな星を見つけた船乗りが、興味を覚えないはずがない。相当急ぎの荷物でも積んでいれば話は別ですが、定期便がそれほど急ぎの荷物を運ぶことはまずないでしょう。それに、簡単な地質調査程度であれば、それほど時間はかかりません。一時間もあれば十分です。オーデンが、あの星が居住可能惑星であると知ったのは、発見時点。そう考えるのが一番自然でしょう」
「……」
「しかし、一時間、何の理由もなく同じ宙域に留まっていたとなれば、会社から見ればこれは問題のある行為です。最悪の場合、何らかの犯罪に荷担している可能性すらある。そして、会社の管理下にある船と船員が何らかの犯罪行為に荷担した場合、会社自体に刑事上、民事上の責任が発生します。当然、会社は船長の処罰を視野に入れて調査に乗り出すでしょう」
船が理由もなく長時間同じ宙域に停泊した場合、最も懸念されるのは、船が密輸行為に荷担していることだ。
通常航路から外れた場所で停泊し、そこで海賊船と落ち合い、禁制の麻薬や人身売買された人間などの積み卸しを行う。そういう犯罪行為が過去に何度となく発覚している。
まともな会社は、そういった犯罪行為に巻き込まれることを一番嫌う。万が一の場合、拭い取れない泥で看板が汚れることになるからだ。
そして、船の行動調査は別に難しいことではない。船に積んだ感応頭脳の分析をするだけでいいのだ。それだけで、オーデンの航海記録の全てが把握できる。
ならば、オーデンが未発見惑星の調査をしたことだって筒抜けである。
つまり、会社が全てを把握していないほうがおかしい。
逆に、もしもオーデンが惑星発見の一報を入れているならば、言わずもがな、会社はあの星のことを把握していないはずがない。
どちらであっても、オーデンの所属していた会社があの星のことを知らないこと自体、ありうべき話ではないのだ。
しかし、会社はあの星のことを、どこにも報告した形跡はない。まるで、全てを握りつぶしてしまったかのように。
「しかし、しかし、ですよミズ。一つの可能性として、オーデン導師はその惑星を発見はしたものの、調査を後回しにしただけかも知れないではないですか。自分が長時間そこに留まれば、会社がそのことを知るのは明らかだ。であれば、復讐の舞台としてその惑星を使えなくなってしまうから──」
「では、オーデンは惑星Xを発見した瞬間に一連の事件の計画を全て思いつき、実行を決意したことになりますね。そうでもなければ、あの星の調査と報告の両方を後回しにする必然性がありません」
そんなことはありえない。
人の思考は、そこまで都合よく回転してはくれないものだ。
老人の口は再び封じられた。
「エリック・オーデンは、ある時期に突然退職願いを会社に提出し、ほとんど問題なく受理されています。あたかも会社にとって、それが想定内の行動であるかのように」
「……彼の所属する会社が、彼の行動を操っていた、と」
「先ほどもお話ししたとおり、通常航路を外れた定期船について、新たな航路の指示を下すのは管制官の仕事です。であれば、彼があの星を発見するようし向けるのも容易極まりなかったでしょう」
老人の顔に苦悩が刻みつけられる。
ジャスミンの言葉が事実であるとすれば、当然、全てを仕組んだ人間は、あの星の所在を把握していなければならない。
そんな人間が、この世にどれほどいるのか。そして、あの事件で利益を得た人間──。
老人には、その人間の心当たりがあったのだ。
一人、極めつけに不穏当な、一人。
「もう少し想像の羽根を羽ばたかせれば、地方宇宙港においてオーデンがマークス・レザロの食肉の現場を目撃したのも、果たして偶然か否か、怪しいものです。オーデンの飛行スケジュールを決める立場の人間であれば、彼とレザロ議員が偶然に同じ宇宙港に居合わせるよう時間設定をすることは造作もないことでしょう」
「……にわかには信じ難いお話です。ミズ・ジャスミン、もしもあなたのお言葉が事実だとすれば、彼の行動を操った何者かは、レザロ議員とオーデン導師の過去の確執を知っている人間でなければならないことになりますぞ」
「そのとおりですな」
ジャスミンは頷いた。
「しかし、少しヴェロニカ教の内実に詳しい人間であれば、オーデンの息子の不審な自殺の原因にも察しがつくのではないですか?」
「……それは……なんとも。ただ、あの事件は、一時期かなりの物議を醸しましたから……事の真相に気がついた人間がいなかったとは言い切れません」
あの男も、それを知っていたはずだ。
天使に取り憑かれた、あの男。
「全てを承知の何者かが、オーデンの復讐心を巧みに煽った上で、例の惑星を発見させる。もし彼が第一報を入れるとしても、その報告先はほぼ間違いなく会社の管制官です。事実をあるがまま報告するのであればその時点で然るべき処置を彼に対して施し、報告は握りつぶす。そうでなければ……」
我が子の復讐に狂った親が、必ず何らかの行動を起こす。
「もしかしたら、誰かが彼に囁いたかも知れない。お前の息子は散々飢えに苦しみ抜き、その上での破戒を苦にして自殺した。ならば、あの男の息子も同じ目に合わせてやれ、と」
「そんな残酷な……」
「しかし、そうでもなければあの星に少年たちを監禁する意味がないのですよ。もしもレザロ議員に過去の罪を告白させるだけが目的であれば、わざわざ未発見の惑星に少年たちを拉致する必要はない。チャックという少年を一人、どこかに拉致監禁し、父親を脅迫するだけで十分にことは足ります。治安のいい連邦大学に通う学生です、当然それなりの危険は犯さなければならないが、それでもあれほど大胆な計画を実行することに比べればどれほど容易いか知れないし、他の少年たちに迷惑をかけることもない。普通であればそちらを選ぶのではないですか」
まして、オーデンは事件を起こしたすぐ後で自分の顔を警察に晒している。長期間逃げきるつもりがなかったのは明白だ。
それだけの覚悟と、あれだけの事件を起こすだけの計画性と行動力があれば、如何に連邦大学のお膝元であっても誘拐事件の一つを起こすことくらいは難しいことではないはずだ。
「あの星は、それなりに食料があった。加えて子供たちを降ろした場所に、危険な猛獣の少ない地域を敢えて選んでいた形跡もある。直接的な身の危険さえなければ、いかに年端もいかない子供の集まりであっても、木の実や野草を食べてある程度生き残れるだろうという算段があったはずです」
もしも最初から全員を殺すつもりならば、それこそ一切の食料も水もない荒野か砂漠に降ろせばいいのだ。あれだけの計画を練り上げた人間が、そんなところで計画違いを起こすことは考えにくい。
「しかし、あの環境はただ一人の少年にとっては正しく地獄でした。彼らの中にただ一人、肉も魚も、野草も木の実すらも食べてはいけない少年がいたのです」
「……なんということだ」
「人の幸不幸は、周囲の人間との比較から生まれるものです。自分以外の少年少女は、自然の恵みで何とか糊口を凌いでいるというのに、自分だけが空腹に苦しまなければならない。理不尽だ。なぜ自分だけがこんな目に。そういう思いが、厳しい修行で鍛えられていたはずの彼の心を折ったのでしょう。あの星を誘拐の現場に選んだ意図はそこにあったのではないでしょうか。そして、これはオーデンの子供が味わった責め苦でもある。人倫を無視すれば、これほど効果的な復讐が他にあるでしょうか」
「つまり、全てはチャック少年に戒律を破らせるための……」
「オーデン自身がそこまで認識していたかどうかは別の話ですが、もしも彼を操った何者かがいれば、その人間の目的はそこでしょう。そして、息子に食肉疑惑がかかれば、当然彼の父親にもそれが波及する」
そして、少年の父親は議員を辞した。
「それらの結果が、この星を丸ごと巻き込んだ大騒動の始まりです。この中で最も利益を得たのは、いったい誰でしょうか。老師、あなたはその人物に心当たりがあるのでは?」
「……」
「先ほどあなたが口走った『あの男』という人物と、老師が思い描いた人物は、全く無関係ですか?であれば、わたしの推測は完全に的外れなものなのでしょうね」
「……」
「ちなみにね、オーデンの勤務していた船会社の表向きの経営者はまったく聞いたこともない人物でしたが、その相談役に、アイザック・テルミンという男が収まっていたことが分かっています」
「その男は……」
「ええ、敬愛すべきアーロン・レイノルズ現大統領の懐刀と呼ばれている男です。例えばその男がオーデンに復讐をそそのかし、そのうえで復讐の計画に協力することを約束していた──能動的にではない。彼の航海記録を連邦政府に報告しないという受動的な協力です──とすれば……」
老人は、喘ぐような呼吸を繰り返した。
言葉はなくとも、真実は明らかであった。
先ほどまで二本の足で立っていた老人は、力無くソファにヘたり込んでしまった。
枯れ木のような痩身から、何か、生命力を司る存在が抜け落ちてしまっている。
まるで、十も年をとったようですらあった。
「さらにもう一つ。この事件には、明らかに不可思議な点がある」
老人は、神に救いを求める罪人のような視線で、ジャスミンを見上げた。
「……それは?」
「オーデンがあの星を発見し調査した時。それと、彼が学生を連れてあの星を訪れた時。この二回の訪問で、あの星に基地を構えていたトリジウム密輸組織は、何故彼の船を見逃したのでしょうか」
トリジウムの密輸は、莫大な富を生み出す魔法のランプのようなものだ。密輸組織を束ねるのが何者であっても、何としてもその利益を手放すまいとするだろう。
もしも第三者があの星を発見し共和連邦にでも報告すれば、組織は回復不可能なダメージを受ける事になる。ましてオーデンの船は、二度も地表に降りているはずなのだ。
密輸組織にとって最も恐ろしいのは、あの星の存在が世間に知られることだ。であれば、秘密のヴェールをはぎ取ろうとする何者かに対して、過敏なまでに神経を尖らせているはずである。
当然、各種レーダーを使い、付近を通る宇宙船の動向には最大限の警戒をしていたと考えるべきだ。いくらあの星が、レーダーでは絶対に捕捉されない幽霊星であったとしても、である。
にもかかわらず、彼らがオーデンの存在に気がつかないということが、果たしてありうるだろうか。
人の肉眼が侮れない存在なのは、惑星セントラルの入国監視システムの一部に人間の目視がいまだ採用され続けていることからも明らかであるのに、だ。
「組織の人間の悉くが絶望的な間抜け揃いでない限り、考えられる可能性はただ一つです。密輸組織の、おそらくは相当高い地位にいた何者かが、オーデンに誘拐事件を教唆した人間と同一、もしくは協力関係にあった」
「……」
「そして、オーデンが惑星Xを発見し、誘拐した子供たちをあの星に下ろすのを見逃した。それとも、見逃させた。そうでなければ、最初にあの星を発見した際に彼は捕らわれ、その命運は残忍な密輸組織の手に委ねられていたことでしょう」
老人は、かすれた声で、辛うじての反駁を試みる。
「……そして、彼の行動を見逃した結果として、基地は連邦政府に把握され、トリジウム密輸組織は致命的なダメージを受けたわけですか。それは何ともお粗末な、本末転倒な話に聞こえます」
「それとも、一連の計画を推し進めた何者かにとって、既にトリジウム密輸組織がそれほど重要なものでなくなっていたのか」
こればかりは分かりかねます、と、ジャスミンは結んだ。
しばし、絶望的な沈黙が部屋を満たした。
静寂を破ったのは、被告席に座る老人であった。
「……しかし、ミズ。あなたの言葉は、全て憶測の積み重ねです」
「仰るとおりです」
「全ては偶然かも知れない。オーデン導師は、会社の意図するところとは関係なくレザロ議員の食肉の現場を見てしまい、会社の預かり知らない経緯であの星を発見し、富や名誉を得ることよりも息子の復讐を優先しただけかもしれない。トリジウム密輸組織はあの星の隠密性を過信して、警戒を怠っていたのかも知れない。オーデンの勤務していた会社の顧問を勤めていたテルミンという男は、大統領の懐刀である男と同姓同名なだけかも知れない」
「おそらくはその可能性が一番高いでしょう」
立ったままのジャスミンは、うなだれた老人を見下ろしながら頷いた。
「我が子を想う親の気持ちには計り知れないものがある。わたしも一児を持つ母ですからよく分かります。ましてやそれが、失われて二度と戻らない子供であり、その復讐の機会が目の前にぶら下がっているのであれば、他のあらゆる事象に復讐を優先させたとして、ちっとも不思議ではありません」
しかし、とジャスミンは続け、
「もしもそうでなかった場合。全てが何者かの手のひらの上で実行された計画であり、オーデン導師がその手駒にすぎなかった場合は、この地図が恐るべき意味を持つでしょう」
老人が、弾かれたように顔を上げた。
「恐るべき意味、とは……?」
「分かりません。まだ、わたしにも。しかし……」
ジャスミンは視線を彼方に寄越した。
そこに、分厚く黒い雷雲が迫りつつあるように、わずかに眉をしかめた。
そして、再び老人の瞳を覗き込んだ。
「それでも老師、あなたは沈黙を尊ばれますか」
残酷な問いである。言った方も言われた方も、心の痛覚に鑢かけられるような質問である。
老人は力無く笑った。
「お許しください。わしには、全てが重すぎて、この肩から降ろすにはあまりに惜しいのですよ」
ジャスミンは頷いた。これで何も聞き出せないのであれば、例え暴力的な拷問を用いたところでこの老人は何一つ語らないだろう確信があった。
先ほどまでのジャスミンの言葉は、目の前の老人にとって、肉体的な苦痛を遙かに凌駕する痛苦であったはずなのだ。
「色々と失礼なことを申し上げました。どうかお許しください」
「いえ、こちらのほうこそ、お役に立てないことをお許しくださいますよう。そして、あなたのご夫君とご友人に、神の加護がありますことを」
老人は、震える足で立ち上がり、乾ききった喉を酷使しながら無価値の台詞を紡いだ。
この国に、神などいない。それは、この老人が誰よりも深く理解していたのだ。
ジャスミンと老人は深く握手を交わした。まるで、言葉以外のものを伝えるように、深く、深く。
離れる手のひらの温もりを惜しむように、老人が口を開いた。
「ところでミズ、あなたは、ここまでお一人で来られたのですか?」
「……ええ、そのとおりですが、何か?」
「いえ、であればあなたは余程勇気を司る神に愛されているようだ。わしは、一度だってかの神に愛された覚えはない。もしも、わしにあなたと同じだけの、いや、あなたの持つ半分でも勇気があれば……」
ジャスミンは、先を促すことはしなかった。
「お時間を取らせました」
「……いえ、とても楽しい時間でしたよ。もしも全ての事態が上手く片づけば──そして、あなたがわしを許してくださるならば──もう一度お話しがしたいものです」
「それは正しく望むところです。それではお元気で」
「──最後に、一つだけ」
退出しようとしたジャスミンを、老人の声が引き留める。
赤熱色の頭髪を踊らせたジャスミンが振り返る。
「……何でしょうか」
「あなたは、どうしてわしのもとを訪ねられたのか。その理由をお聞かせ願いたい」
真剣な口調の老人に、烟るような微笑を浮かべたジャスミンが答える。
「あなたは、リィのことを──わたしの命の恩人のことを、小戦士と呼びました。たった一目、彼を見ただけなのに、です」
「……」
「あなたは、それだけで信用に足る確かな目をお持ちなことがわかります。そして、その公正な心根も。それは、やはり間違いなかったようだ」
「……買いかぶりを。わしはただの老いぼれですよ」
吐き捨てるような台詞に、ジャスミンは首を横に振った。
「あなたは、如何様にも嘘を吐くことができた。若輩のわたしを煙に巻くのも容易だったにちがいありません。それでもあなたは、最後まで答えられないと言ってくれた。一言も嘘を吐きませんでした」
「……」
「それだけで、わたしは報われた気がします。それでは」
突然に老人の静寂を乱した赤毛の女性は、やはり突然の彼の目の前から立ち去っていった。