懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第四十七話:IN THE ABYSS 1 そして少女は囚われた。(15禁)

 夢だ。

 夢を、見ているのだ。

 自分でも不思議だが、これが夢だということがわかる。

 夢の、世界だ。

 夢の世界で、俺は、柔らかなものの上に、大の字になって寝転んでいる。

 閉じられたままの瞼を淡く照らす太陽が、遠く、天頂の彼方に感じられる。

 時折吹く風が冷ややかな空気を運んでくるが、降り注ぐ日の光が肌をあっと言う間に暖めなおしてくれるから、ちっとも寒くない。

 いつまでもここで寝ころんでいたくなる、桃源郷のような陽気。

 ここは、春の国だ。

 常春の国。

 鼻を鳴らすように嗅ぐと、かぐわしい果実の匂いがした。

 甘酸っぱい、豊かな香り。

 この香りは……ああ、思い出した。

 草苺だ。

 昔、よく摘んだな。

 スーシャの森には、地面が真っ赤に染まるほどたくさん、草苺の実る場所があるんだ。

 俺と、蜂蜜色の頭をした悪友だけの、秘密の場所だった。

 毎年雪解けの季節になると、あいつと二人、時間を忘れて摘んだのだ。どちらがたくさん集められるか、競い合いながら。

 太陽の沈む頃、草苺でいっぱいになった籠を二つ、ぶら下げて帰った。

 そして、彼の母親がこしらえてくれた、濃厚なジャムの味。

 パンケーキにたっぷりと塗り、口の周りをべたべたにしながら頬張った。

 ああ、どうして今まで忘れていたのか。これほど芳醇な思い出を。

 ならば、今、俺はスーシャの森にいるのだろうか。背中に感じる柔らかな感触は、スーシャの森の下草だろうか。

 太陽は、ヤーニス神の作りたもうた、それなのか。

 瞼を開けば、それがわかるのに。

 どうしても、瞼が重たい。目の奥につんと残った眠りの残滓が、どうにかして俺を真っ暗な世界に押し止めようとしている。

 夢の世界でまだ眠ろうとしているとは、なんとも物臭なものだと、自分でもおかしくなってしまう。

 こんな話をあいつにすれば、またしても冬眠あけの寝ぼけ熊だの、昼寝好きの獅子だの、ひどいことを言われるに違いない。

 ぼんやりとそんなことを思う。

 そして、思った瞬間に、何を考えていたのかを忘れてしまった。この時間、この空間には、全ての思考をとろけさせる魔性がある。

 どこまでも、心地よく、全てをとろかしていく。無という思考が存在するならば、それは今、この瞬間をいうのだと思う。

 甘い香りの食虫植物に囚われて、ゆっくりと消化されていく虫とは、このような気持ちなのだろうかと、埒もないことを考えて、それすらを忘れて。

 瞼を透過する陽光の粒子が、さわめく草の葉でゆらゆらと揺れている。蜜蜂の細やかな羽音が耳朶に止まり、遠慮がちに羽を休めた後、再び羽ばたいていった。

 なんという、まろやかな世界だろう。

 どこにも、鋭利なところがない。

 ここは、満たされている。

 満たされた世界で、自分は大の字になって、寝ころんでいる。

 

 ──まるで、あの少女と初めて出会った、光輝く空間のような。

 

 遠くで、さわさわと、草の揺れる音がした。

 風の奏でるそれではないと、すぐに気が付いた。周囲の草むらの鳴き声の中で、その音だけがあまりにも異質だったからだ。

 さくりさくりと、霜柱を踏みしだく、軽やかな音も一緒だ。

 冬の残った森の奥から、何かが近づいてくる。

 きっと、森の獣だと思った。

 それも、狼か、熊だろう。

 鹿や兎は、人を恐れて近づかない。彼らにとっての人間は、恐るべき狩人なのだ。

 普通ならば、狼や熊だって、好んで人には近づこうとしない。あいつも言っていたが、人の肉は旨いものではないからだ。

 だが、この森の狼や熊はみんな、ゲオルグ小父さんの友達だから、小父さんの臭いのする俺に興味を持ったのかもしれない。

 それとも、冬眠あけで腹を空かした彼らが、たとえ不味くても構わないからと、餌を求めてさまよっているのだろうか。

 ならば、彼らの餌になってやるのもいいかも知れない。どうせ、これは夢の世界の出来事なのだ。

 それよりもなによりも、この重たい瞼をそのままにしておきたい。木漏れ日の闇のなかで、寝転がっていたい。

 だから、俺は、ゆったりと、そのままで。

 足音が、少しずつ近づいてくる。無遠慮に、少しだって怖がることなく。

 やがて、右の耳の隣で、足音は止まった。太陽の光の半分が、不躾な闖入者のために覆い隠されてしまう。

 きっと、俺の顔を覗き込んでいるのだろう。こんなところで大の字になって眠っている人間の、間抜け面を確かめているのかも知れない。

 俺は、それとも俺の紛れ込んだ誰かは、はっきりと眉を顰めたはずだった。

 

 ──おい、そこをどいてくれないか。せっかく俺は(わたしは)、こんなにも気持ちよく眠っているのに。

 

 しばらくの間、閉じた蕾が開くくらいの時間があって、やがて影は姿を消した。

 陽の光が戻ってきた。ああ、これでようやく、もう一度、眠れる。

 そう思った、まさにそのとき。

 ぺとり、と、肌に何かが触れた。

 わたしの(俺の)太股を、何か、すべすべしたものが撫で回している。

 獣の舌にしては冷たく、獣の毛皮にしては滑らかで、獣の尾にしては重たい感覚。

 人の、掌だった。

 人の掌が、わたしの太股を、撫で回しているのだ。

 こんなことを、このわたしに対してするのは、この世に一人しかいない。

 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。まったく、どうしてこんな馬鹿げた馬鹿のために、あの安らかな世界から舞い戻ってこないといけないのか。

 自分でも嫌になる。

 

『……なに、してるの』

 

 絶対零度の声の先で、そいつは、わたしの乳房の間に顔を埋めようとしているところだった。

 陽光を受けた緑色の瞳が、きらきらと輝いている。

 黄金と同じ色艶の髪の毛が、きらきらと輝いている。

 まるで、俺の知っているあいつと同じ姿形をした、わたしの知っているこいつ。

 子供みたいに微笑みながら、わたしの上に覆い被さってきた。

 柔らかな巻き毛が降り落ちて、頬をするりと撫でていく。その悪戯げな感触が、こいつに相応しすぎて、少しだけ微笑んだ。

 そんなわたしを見て、彼もくすりと笑う。

 逆光で影になったその笑顔が、わたしを見下ろして、わたしはそれを見上げていた。

 組み敷かれたわたしは、きっと、どこかの乙女のように見えたのだろうか。

 

『なにをしているのか、聞いているんだけど。あなたは答えてくれないのかしら、シャムス』

 

 シャムス。

 それは、俺の娘の名前じゃないか。

 それとも、ああ、そういえば。

 その、言葉の意味は。

 纏まりかけた思考が、少年の笑みによって解かされていく。

 そして、俺にシャムスと呼ばれた少年は、わたしの首筋に顔を埋めて、夢を見るように呟いた。

 

『ああ、君は本当にいい匂いがするね、カマル』

 

 カマル。

 その名前で呼ばれた俺の体が、無限の歓喜に打ち震える。

 少年の耳に届かない、小さな小さな吐息が、ほぅと漏れ出す。

 そして少女は、すぐに口を噤む。漏れ出した吐息が、首筋を愛撫する少年の舌先によってもたらされたのだと思われては、わたしの沽券に関わるからだ。

 だが、少女は幸せだった。

 どれほどの幸福を積み重ねれば、人はこれほど喜べるのか。

 わたしは、ただ、幸せだった。

 この人と肌を合わせることができる。

 この人にわたしの名前を呼んでもらえる。

 この人が、ここにいる。

 それだけで、わたしはここにいることを許される。

 俺の目線の先で、少女と口づけを交わし、鎖骨のくぼみに舌を這わせた少年は、最後に少女の乳房を口に含んだ。

 乳房の先端に、少しざらついた少年の舌先が触れる。

 赤子がするように強く吸いつき、子犬がするように軽く甘噛みをする。

 胸の奥が、虹色の温もりで満たされていく。

 少女の体が、小さく震えた。

 視界の端に写り込んだ、少女自身の銀髪が、陽光に染まって、黄金に映える。

 まるで、目の前の少年の、美しい髪のように。

 まるで、太陽に照らされた、月の光のように。

 ああ、そうだ。

 シャムスは、太陽を意味する言葉だ。

 カマルは、月。

 ならば二人は、太陽と、月なのだ。

 少女は、果てのない蒼穹を、陶然として見上げる。

 そしてわたしは手を伸ばし、彼の頭を抱きしめた。

 それは、彼の行為を容認する合図のようなもの。

 少年の無邪気な笑みが、とても眩しくて。

 途端に、わたしの身体を知り尽くした少年の指先が、繊細にわたしの体を愛撫し始める。

 もう、何回も、何千回も、数え切れないほどに睦み合ったのだ。わたしの身体のうちに、彼の指先と唇に愛されなかった箇所はない。

 彼も同じだ。シャムスの身体のうちに、わたしの指先と唇の触れていない箇所はない。

 蛇の交合よりも濃密に、二人の体は絡みついた。

 それでも、足りない。まだ、足りない。

 彼は飽きもせずにわたしの身体を貪っていく。わたしは、彼の身体に溺れていく。

 快楽に耐えるようにして人差し指を噛む少女は、どこまでも愛らしかった。普段の、獣としての彼女を知っている少年は、自分の前でだけそういう姿をさらけ出してくれる少女を、どれほど愛おしく思ったことか。

 少年の体が薄く汗ばみ、少女の体が桃色に色づいていく。

 少年の分身が堅く屹立し、少女の分身が潤みを帯びていく。

 そして、二人は一つになった。花が蝶を望み、蝶が花を望むように。

 シャムスはカマルを貫き、カマルはシャムスを包み込んだ。

 俺は、少女の視点で、二人を眺めている。

 他人のまぐわいを見て楽しむ趣味はないが、絡み合う二人の身体は、一途に美しかった。

 少年の身体は引き締まり生命力の詰まった若木のようだったし、少女の身体は丸みを帯び始め、母性の目覚めを感じさせる。

 神の造りたもうた最初の人間のように、二人の体は輝かしかった。

 俺は、単純に、二人を好ましいと思っていた。

 少女の視線で見る世界は、少女の五感で感じる世界は、限りなく完成されていた。

 愛する幸せではなく、愛される幸せ。

 やがて二人の行為は最高潮を迎える。

 少女の最奥に杭を打ち込んだ少年の身体が快楽に震えて小さく痙攣し、その直後に、忘我の表情を浮かべた少女の背中が大きく反り返った。

 少年が少女の中に精を放ち、少女はそれを受け入れたのだ。

 二人は、ほとんど同時に果てた。

 荒々しい吐息が辺りを満たし、行為の証である男女の混ざった体液が、少女の太股を、とろりと伝い落ちる。

 少女の意識を、黄金色の霧が包み込む。荒々しい吐息の音が、疲労感とともに、遠い世界へと遠ざかっていく。

 違う。わたしが、別の世界に沈み込んでいく。

 少女は、覆い被さるシャムスの体重を心地よく感じながら、眠りの底に落ちていった。誰にも邪魔されることのない、無限の眠りの中へ。

 ああ、そうだった。

 

『誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね』

 

 少女の、たった一つのお願いは。

 どうしたって、俺に叶えられるものでは、なかったのだ。

 

 

「ひどい夢だ……」

 

 少女は──ウォルは、怨嗟の籠もった呟きとともに目覚めた。

 自分が少女となり、少女として愛される夢。視覚だけでなく、五感の全てで味わってしまった少女の至福。

 まるで覗き見でもしてしまったような罪悪感と、図らずも女としての幸福を味わってしまった嫌悪感が綯い交ぜになって襲ってくる。

 所詮夢の世界の出来事だったのだと言い聞かせても、それでは説明の付かないリアリティが、あの夢には存在した。

 そうだ、さっきの夢はただの夢ではない。あれは、この身体──ウォルフィーナと呼ばれた少女の身体に刻まれた、いや、彼女の魂の最後の残滓がこの体に刻み込んでいった、最古の記憶だ。

 前世の──ではなく、原初の記憶。この世界が生まれる前、魂が輪廻の旅を始める前の、最初の記憶。

 今、思い出した。

 この夢を見るのは、初めてではない。

 この体に宿り、少女としての生を受け入れた日から、毎日のように見ていた夢だ。

 誰かが、ウォルに知らせようとしていた。この体の来し方を、この体の行く末を。

 どうして自分があの星で迷子になったのか。

 そうだ。俺は、まさしく俺自身の意志で、あの崖から飛び降り、急流に身を任せたのだ。

 あれは、決別の合図だ。偽りの伴侶に対する、決別だった。

 そして、月は太陽を得て、銀盤の輝きを得る。

 遠い昔、血風のたなびく戦地で、青い瞳の歌人に聞かされたではないか。

 太陽と、月と、闇のお伽噺。

 

 ──まさか自分が、その因縁を背負い込む羽目になるとはな。

 

 少女の瑞々しい頬に、捨て鉢な笑みが刻み込まれた。

 

「……ねぇ、あなた、大丈夫?」

 

 闇の中を手探りするような弱々しい声が、ウォルを現実へと引き戻した。

 ふと気づけば、濃厚な闇が周囲を満たしている。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火が遠くに見える石壁に灯っているだけで、手元すらはっきりと見えない。

 噎せかえる黴臭さと、僅かな血臭。

 それらを塗り返すほどに濃厚な、吐き気を催す、得体の知れない饐えた臭気。

 何より、後ろ手に拘束された両手首と、冷たい枷を履かされた両足首の感覚。

 背中に感じる石畳の固い感触が、芋虫のように転がった自己を認識させる。

 

 ──なるほど、遠い昔、一度こういう目に遭わされたことがあったな。

 

 苦笑したウォルは、否応なく自身の置かれた状況を理解した。

 牢獄。

 そうだ。自分は、捕らわれたのだ。あの家で、冷たい目をした奇妙な子供たちに襲われた。

 インユェは、無事だろうか。

 気丈を装って実は繊細な少年が、どこかで泣いていないかと思い、少女の胸がずくりと痛んだ。

 

「……ねぇ、わたしの声、聞こえてる?それとも、もう耳が聞こえないの?」

 

 肩を、やはり弱々しく揺さぶられる。

 はっと気がついて、そちらに視線を向けると、そこには女の子がいた。

 見覚えのない、顔だ。だが、闇の中でも整った顔立ちであることがわかった。

 整った顔立ちの少女が、心配そうに自分をのぞき込んでいた。

 

「……ああ、大丈夫だ」

 

 ウォルの、はっきりと自我の残った声に、見ず知らずの少女は胸を撫で下ろしたようだった。

 

「よかった。久しぶりに、話し相手ができた……」

 

 少女の声は、涙で滲んでいる。

 暗闇に沈んだ表情が、僅かに綻んだようだ。

 ふと気がつけば、目の前の少女は、一糸纏わぬ裸体だった。

 いや、全くの裸体ではないのか。何故なら、その細い首を覆うようにして、無骨な皮の首輪が巻かれているのだから。

 少女自身がそれを望んだとは思えない。首輪を巻かれて喜ぶのは、服従することを本能に刻まれた飼い犬だけだ。

 ウォルは、彼女の生きた世界にも、年端もいかぬ異性を飼い犬のように扱って悦に入る、腐った人間のいたことを思い出していた。

 なんとなく自分の体を見下ろしてみる。

 やはりというべきか、素肌を覆う何物も存在しない。そして、首には重たい皮の環が巻かれている。そこには太く頑丈そうな鎖が付けられており、鎖の反対側は壁に打ち込まれた杭に繋がっているらしい。

 完全に、鎖に繋がれた獣の有様だった。いや、四肢を拘束されていることを加味すれば、今から焚き火で丸焼きにされる豚や猪のほうが幾分近しいだろうか。

 身じろぎをすると、じゃらりと鈍い音が鳴った。

 

「大丈夫、わたしたちが大人しくしてる間は、あいつらも無茶はしないから。少なくとも、最初のうちは、ね」

 

 ウォルの顔を覗き込んだ少女が、絶望の込められた暗い瞳で、うっすらと笑った。

 生きながらこの地獄に放り込まれた先輩として、せめてここで長生きする術を後進に教授しようとしているのだ。

 あらためて少女の身体を観察すると、肌の所々が赤く染まり蚯蚓腫れに腫れ上がっていた。場所によって青黒く染まっているのは、内出血が沈殿しているのだと思われた。

 その一事で、彼女がどういう扱いを受けているか、ここがどういう場所なのか、十分すぎる程十分にウォルは理解した。

 例えば戦乱が巻き起こり、村々が蹂躙され、女子供だけが生き長らえた時。夜盗に拐かされた女達が、最初の夜を迎える時。そこにどれほど酸鼻を極める光景があるのか、ウォルは知っている。

 一言でいえば、地獄だ。男が畜生道に堕ちる地獄。女が女に生まれたことを後悔する、地獄。

 ウォルは、ここはどこだと、少女に尋ねることはしなかった。この少女が、どういう経緯かは知らないが、自分と同じく捕らわれの身なのは明らかなのだ。ならば、ここがどこかなど知るはずもない。

 代わりに、ウォルは少女に尋ねた。

 

「君の、名前は?」

「わたし?わたしに名前なんてないわ。あるとすれば、そうね、犬よ」

 

 少女の頬が、自嘲に歪む。

 どういうことかと問いかけるウォルの視線をかわすように俯いた少女は、淡々とした調子で続ける。

 

「……わたしたちはね、ここでは名前なんて許されていないの。わたしたちは、わたしたちを捕まえた男たちを楽しませるだけのペットなの。そう割り切れば、彼らも一応は優しくしてくれるわ。それに──」

 

 少女は、言葉を強く噛み切った。

 だが、ウォルの心は、少女の言葉の先を聞き取っていた。

 

 ──そうでも思いこまないと、ここでは生きていけないもの。

 

 ウォルは、自身を聖人君子だと思ったことは一度もない。何度となく人を騙したし、もっと直接的に人を手に掛けたこともある。

 数え切れないほどにある。

 他者の人生を踏みにじり生きてきたのだ。

 だが──それとも、だからこそというべきか。

 ウォルにも、許しがたい邪悪というものは存在する。己の罪深さを自覚するがこそ、その価値観に外れた存在を容認することができない。

 かつて己の妻が敵の手に捕らわれ、嬲り者にされかかったときに感じた、腹の底を焼くような怒り。

 今、ウォルの目の前にいるのは、彼女の価値観でいうところの邪悪に相当する何者かに蹂躙された、哀れな少女であった。

 

「……では質問を変えさせてほしい。俺は、君のことをなんと呼べばいい?君の理屈でいうならば、俺も君も犬ということになるだろうが、それではお互いを呼ぶのに不便だと思うのだが」

 

 ウォルの『俺』という一人称に奇異を覚えたのか、僅かに眉を狭めた少女だったが、やがて諦めたように、

 

「……ローラ。外の世界では、そう呼ばれていたわ。でも、あまりわたしのことをそう呼ばないでね。色々なことを思いだしちゃうから」

「……わかった、できるだけ努めよう。では一つ尋ねるが、もしも俺が大人しくしていなければ、どんな目に遭わされるのだろうか」

 

 一瞬、身を固くしたローラは、どんよりと暗い瞳でウォルの隣を指し示した。その時点でウォルは、ローラの四肢が自由なことに気が付いた。だが、首輪に繋がれた頑丈な鎖は、彼女の逃亡を妨げるに十分過ぎる役割を果たしているのだろう。

 ウォルは、ローラの指した方向に、枷のついた重たい首を回した。

 闇に慣れた目がかすかに捉えたそこには、やはり年端もいかない少女がいた。

 いや、少女だったものが、いた。

 石積みの壁にもたれ掛かり、だらりと四肢を投げ出した格好で座り込んでいる。

 首に枷はなく、四肢にも枷はない。それでも逃げようとしないのは、その気力すら奪われたからか、それとも手首と足首に刻まれた深い断ち傷からか。

 おそらくは手足の腱が断ち切られている。あれでは、自力で立ち上がることはもちろん、地べたを這いつくばることすら難しいだろう。

 顔立ちは、やはり美しい。しかしそれは人形の美しさであって、人間ならば誰しもが持っている生命力とでもいうべきものがすっぽりと抜け落ちていた。

 虚ろな瞳は、ガラス玉と言い表すには濁りすぎている。きっと彼女の見てきた醜いものが、その瞳から透明感を、自我の輝きを奪いとったのだ。

 病み疲れたように力ない表情。ぶつぶつと何かを呟いている口の端からは、どろりと糸引く涎が垂れ落ち、頬から鎖骨まで粘ついた橋を架けている。

 彼女もウォルたちと同じく生まれたままの姿に辱められているが、それを恥じる気力すら存在しないのかも知れない。あるいは、自分の置かれた状況を理解する知性そのものを壊されてしまったのだろうか。

 

「あの子も、最初ここに連れてこられてきたときは、もっと元気だったの。絶対に逃げ出してやるんだって、警察に知らせてあの連中を死刑にしてやるんだって息巻いてたのに……」

 

 ふと見れば、少女の薄汚れた太股の内側に、涎の垂れる口元に、ほつれた髪の毛に、乾いた糊のような白い物体がこびりついていた。

 ウォルも、かつては男だった身の上だ。それが一体何なのか、知らないわけではない。

 男の、欲望の象徴だ。

 そして、少女を責め苛んだ、行為の残滓。

 先ほどから鼻孔を犯す不快な臭気がなんなのか、ようやく理解できた。

 これは、饐えた体液の臭いだ。

 だが、それだけではない。まだ何か、ウォルの鼻には馴染み深い、異臭が漂っている。

 饐えた体液の臭いなど、まだかわいいと思える、何かの臭い。

 

「あいつはね、わたしたちが嫌がれば嫌がるほど、喜ぶのよ。もっと泣き叫べ、もっと泣き喚けって。わたしは、嘘でも悦ぶふりをしているの。そうすればあいつ、すぐに興味をなくしてくれるから、嫌な思いも短くてすむわ」

 

 自らを犬と呼び、そしてひそやかにローラと名乗った少女は、薄ら寒くなるような笑みを頬に刻んだ。

 

「でもね、その子はまだ、幸せなのよ」

 

 どういうことかと問いかけるウォルの瞳に、少女は淡々とした口調で、

 

「だってその子まだ人間の姿をしているもの。手足の爪をはがされたり焼きゴテを当てられることはあっても、鞭で打たれたり針で体中を刺されることがあっても、それは幸せなうちなのよ。だって今はまだ目に指を突っ込まれて目玉を掻き出されたりしてないし耳や鼻を削ぎ落とされたりもしてないわ。咥えさせる時に邪魔だからって歯は全部引き抜かれてるみたいだけど、手足の指を切り落とされて口に押し込まれたり煮えた油を頭からかけられたりはしてないはずよ……今はまだ、ね」

 

 何かを思い出しているのだろう、ローラは、紙切れのように薄っぺらく、ざらついた笑みを浮かべた。

 

「ねえ、新しく連れてこられたあなた。ここではね、そういうことをされないことが、幸せっていうの。だからね、あなたも妙な希望を持っちゃだめよ。希望を持ったら──昔を思い出したら、今の自分がつらくなるわ。そして、あいつはそういう顔の女の子を眺めるのが、一番大好きなの」

 

 うっすらとした微笑みに、隠しきれない狂気が垣間見えた。

 そして、ウォルは気がついた。

 自分を囲む暗闇のあちらこちらから、消え入るほどに微かな、うめき声が聞こえることに。

 あちらの暗闇に、一人。そちらの暗闇の中に、二人。

 その奥に、三人。その更に奥の方に、数え切れないほど。

 その全てが、四肢を失った芋虫のような身体で、冷たい地面を這い回りながら、口々に啜り泣き呻き声をあげている。

 

 ──おとうさん、おかあさん、わたしはここよ、はやくたすけにきて。

 

 ──くらいよう、くらいよう。めが、みえないの。

 

 ──おいしゃさんをよんで。てあしが、こごえるようにつめたいわ。

 

 ──もう、きっとわたしはだめ。だから、どうかさいごはきれいに、やすらかにしなせて。

 

 ──ここは、どこ。おうちに、かえして。

 

 ──して。おねがいだから、もう、ころ──

 

 そうだ。思い出した。

 この臭いは、戦場の臭い。

 肉が腐り、膿が溜まり、そのさらに腐敗した臭い。

 生きたまま蛆の苗床となった、人間の臭い。

 人が、生きたまま死体になっていく、臭いだ。

 ウォルは、こみ上げてくる酸味の強い吐き気を強引に飲み下した。

 

「わたしたちも、いつあの子たちみたいになるか、わからないのよ。少しでも刃向かえば、あの男に気に入られれば、すぐにわたしたちもああなる……」

 

 ──かつん。

 

 石畳を叩く固い音が、遠くから聞こえた。

 ウォルは、目の前の少女の華奢な肩が、びくりと一度、大きく跳ね上がるのを見た。

 どうしたのかと問いかける前に、ローラの声が途切れ、唇が細かく震えはじめた。吐く息が浅く早くなり、暗闇に染まった顔が、目に見えて青白く染まっていく。

 

 かつん、かつん。

 

 かつん、かつん。

 

 交互に響くその音は、固い靴底の革靴が、地面を叩く音だ。

 己の存在を居丈高に知らしめながら──自分に怯える少女達の苦悶を愉しみながら、一歩一歩、ゆっくりと。

 

 かつん、かつん。

 

 かつん、かつん。

 

 部屋の至る所で、絶望に満ちた呻き声があがる。狂気に染まった絶叫。救いを求めて神に祈る声。

 

「あ、あいつが、違う、ご主人様が来るわ。いい、あなた、絶対に逆らっちゃ駄目よ。絶対に、逆らっちゃ駄目。わたしたちは、犬なの。だから、何をさせられても、何をしても、恥ずかしくなんかないわ。絶対に逆らっちゃ駄目。何を言われても、言うとおりにするの。だから、逆らっちゃ駄目、逆らったら、殺される……」

 

 繰り返される呟きは、むしろ自分に言い聞かせているふうですらあった。

 ローラが譫言のように繰り返している間にも、靴音は近づいてくる。

 

 かつん、かつん。

 かつん、かつん。

 

 ……かつん。

 

 足音が、止まった。

 ウォル達の閉じ込められた、牢屋の前で。

 

 きちりと、錆びた鍵穴の回る音が鳴り響き、牢獄を、張り詰めた静寂が満たす。

 誰も、一言もしゃべらない。呼吸音を聞き咎められることすら恐れるように、息を潜めている。正気を失い、死を希う少女達すらが、母親に折檻される子供のようにじっと押し黙っている。

 そして、部屋の扉が開かれる。

 ウォルの視界を、蝋燭の淡光が満たした。

 

「こんにちは、僕のかわいい天使達。今日のご機嫌は如何かな?」

 

 端正な顔立ちの青年が、気持ちの悪い笑みを浮かべて立っていた。

 

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