懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
意気揚々と自室に引き上げるルパートの足取りは軽かった。
ウォルという少女の運命は決まったようなものだ。あの麻薬で自我を徹底的に破壊され、この上なく美しい、生まれたままの無垢な赤子が生まれる。その子を、自分の思うままに育てよう。最高の淑女にして最高の娼婦、そして僕の花嫁。
最も想像力を掻き立てるキャンバスの色が多くの場合、白単色であるように、純粋無垢な少女を己の思うままに育てたいという欲望は、古来より数え切れない男共を虜にしてきた。
そしてこの場合、素材は間違いなく極上。
あの美しい瞳が、未完成の肢体の持ち主が、ルパート自身を父と呼び、夫と呼び、主と呼んだ時、それはどれほどの至福をもたらしてくれるのか。
それとも、あの誇り高い精神が、屈服するか。
薬に自我を犯され、精神を破壊される恐怖は、肉体を破壊される恐怖を遙かに凌駕する。己の存在意識がごりごりと削り取られ、少しずつ死んでいく自分を認識し続けるなど、到底人の精神に耐えられるものではない。
おそらく、一日と持たずに根を上げるだろう。いや、もっと短いかもしれない。今この瞬間に、情けない声色で、僕に対して今までの非礼を悔い改めこれからの絶対服従を誓う言葉が聞こえてきても不思議ではないのだ。
それもいいだろう。あの小生意気で悟ったような口ぶりの少女が、どれほど卑屈に地べたを這いつくばるのか。その時に自分を見上げる瞳はどれほど恐怖に染まっているのか。
どちらでもいい。どちらでも、心安らぐ未来図だ。
あの少女が自分の所有物になる未来に、変わりはないのだから。
ルパートは誰に見られるでもなくほくそ笑んだ。
だが、さしあたっての問題として、この昂ぶりをどうにか押さえないと今日は眠れそうもない。そして、昂ぶりは、無理に押さえるよりも思い切り吐き出してしまった方が後腐れがないというものではないか。
ルパートは頬を歪めた。確か、ウォルという名前の──明日にはエレオノラになっているはずである──あの少女に面影の似た生け贄が一人、いたはずだった。
あれはあれで、中々にそそられる素材だった。まだ誰も手をつけていない、無垢の少女。いずれ来るべき前夜祭のために用意した、最高の供物。
葡萄酒は、その価値を本当の意味で理解する人間に飲まれるために存在する。価値の分からぬ下賤な人間や、神などという訳の分からない存在に捧げるためにあるのでは断じてないし、ましてやショウケースに並べてコレクションするなど以ての外だ。
最も芳醇に醸成された葡萄酒が栓を抜かれることなく老い萎びていくのは、美しい花が誰の目を楽しませることもなく枯れ散っていくのと同じくらいにもの悲しい。
だから、ルパートは躊躇しない。欲しいと思ったその瞬間こそが、なによりの食べ頃に違いないのだ。
「……ああ、僕だ。あの子……そうだ、例のあの子だよ。今日、遊ぶからさ。教育部屋に連れてきておいてくれないか……ああ、頼んだよ」
携帯電話で簡単な指示を出すと、ルパートは自室に急いだ。
これから始まる宴に備えて、ウィスキーのロックを一杯、ついでに簡単なものを腹に入れておきたい。少女達に対する愛の教育は、するほうも中々に体力を消耗する。
できればウォルの悶え苦しむ様を見ながら飲りたかったが、これ以上あそこにいると我慢ができなくなりそうだ。あの美酒はまだ飲み頃ではないから、今、力尽くで封を開けてしまえば、一生後悔するだろう確信があった。
なに、あの部屋の様子はきっちりと映像に記録してある。生まれ変わった少女を足下に侍らせながら、少女自身の壊れゆく様子を愉しむのも、中々に乙なものだろう。
再び意識を自室へと向けたルパートは、階段を昇り、上層階に設けられた自室へと急いだ。この城の設計者は中世の建築様式であることに病的なこだわりがあったのか、エレベータの類は設置されていない。上り下りは全て階段である。それでも年若く強壮なルパートには大して苦にもならないのだが。
螺旋階段を昇り終え、地上階に至る。その狭い廊下を抜けると、大ホールがある。
そこには、地下とは比べものにならない華々しい世界が開けていた。
豪奢な飾り燭台が天井から吊され、壁面には色取り取りの大理石でモザイク模様が描かれている。天井には、天使と聖母ヴェロニカが舞い戯れる様子がステンドグラスの絢爛な色彩で表されていた。
ルパートは自室へと急ぐ足を止め、ホールのちょうど真ん中に立ち、目を閉じて大きく深呼吸をした。自分が絶対者として振る舞うことのできる地下世界もいいが、この開けた豪奢な空間で一人佇むのも悪くない。
官能的なまでに清涼な山間の空気を、ルパートは肺の隅々にまで満たした。すると、自分が生まれ変わったような気がする。
これは儀式なのだ。あの地下階で染みついた穢れを落とし、この世界に戻るための儀式。
少女達の苦悶の叫びを、噎せ返る淫臭を、忌まわしい全てを祓い落とし、自信と輝きに満ちた表情で自室へと向かおうとしたルパートに、横合いの物陰から鋭い声がかけられた。
「ルパート様、お待ち下さい」
青年にとって初めて聞く声ではなかった。
聞き覚えのある声である。
そして、その声の持ち主に対して、ルパートは好意を覚えるべき理由をたった一つとして見つけることができない。
ゆっくり、殊更ゆっくり振り向いてやる。そこにいるであろう人間のために、わざわざ急いで振り向いてやる義理など、微塵も存在しないからだ。
然り、肩越しに振り返り、身体の向きはそのままに首だけを向けた。
この、洗練された大広間にはちっとも相応しくない、野卑な迷彩服に身を纏った赤毛の少女が、そこに立っていた。
「……ああ、君か。ええ、と……少し待ってくれるかな。そう……確か、マーガレット。マーガレットくんだったかな?」
「……マルゴ。マルゴ・レイノルズです、ルパート様」
ルパートは、口元だけを少しずつ持ち上げて、奇妙な笑みを作った。
「ああ、そうだ。マルゴ、マルゴくん。うん、そうだったね。すまない、僕は中々物覚えが悪くてね。それが人や犬の名前ならともかく、お人形さんの名前だと、一々覚えていられないんだよ。気を悪くしないでくれたまえ」
相変わらず体を正対させることすらなく、顔だけを向けてそんなことを言う。
「で、そのマルゴくんが、僕に一体何の用かな?これでも中々に忙しくてね。お人形さんと遊んでいる時間は、ないんだけれど」
「……その、人形という呼び方を止めていただきたい。わたしには──我々には、敬愛すべき父から頂いた名前があるのですから」
一呼吸間を置いてから、ルパートは鼻で笑った。
「ああ、そうだね。君たちお人形さんは、ぼくの父親に愛されているらしいから、そりゃあ名前の一つももらうだろうさ。だって、そうじゃないと人形の区別も難しくなる。でもそれは、どこまでいっても人形の名前だ。子供が熊のぬいぐるみに名前をつけておままごとをするのと何ら変わらない。人形は人形。名前をもらったくらいでその事実は変わらない。そこのところ、分かってる?」
「……それでも、名前は名前です」
「うん、きみの言うとおり。墓場を掘り返して引きずり出した死体にだって、名前がないと不便だもんね。そうだ、よくあるパニック映画のゾンビの群れにも、一つ一つ名前はあるのかな?あっちで主人公のライフルに頭を吹き飛ばされたのがザックス、そこで人肉を貪ってるのがアネット、今まさに墓石を押し上げて地面から這いずり出てきたのがマルゴ……」
少女たちの出自を知るルパートは、冷ややかな笑みを浮かべ続けていた。
マルゴは、俯き加減に唇を噛み、屈辱に耐えていた。
「……どうして、貴様のような人間が、お父様の息子なのだ……」
ぽつりと零した台詞はルパートの耳にはっきりと届いた。
「……へぇ、君も、人並みに怒ったり、嫉妬したりするんだね。人形で、ゾンビのマルゴちゃんでも、悔しいこととか、あるんだ」
赤毛の青年がへらへらと笑う。
へらへらと軽薄な笑みを浮かべながら、言葉の鞭で少女をいたぶっている。
「ま、あまり調子にのらないことだね。君たちは所詮、父さんのお気に入りのお人形さんだ。どうやったって実の子になれないんだからさ、変な望みを持つと、現実の自分がしんどいだけだよ?」
「……だが、私たちは、あなたよりも愛されている」
苦渋に満ちた言葉を、ルパートは無視した。
「要件がそれだけなら、僕は先を行くよ。そうそう、君も父さんに見捨てられたくなかったら、もっと見栄えのする服の選び方を勉強したほうがいいね。その襤褸、汗臭くて鼻が曲がりそうだ。今後、僕の前では着ることのないよう、切望するよ」
そう会話を打ち切り、歩き出したルパートに追いすがりながら、マルゴが鋭く詰問した。
「待ちなさい。まだ話は終わってないわ」
「……なんだよ、鬱陶しい。まだ何か用?」
「あの子を返しなさい」
ルパートの肩がぴくりと動き、その足が止まった。
やはり顔だけを、ゆっくりとマルゴの方に向けていく。
「……あの子?あの子って、誰のことかな?」
「……白々しい言葉を。あなたが一度取り逃し、私たちが捕まえた生け贄の女の子。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。あの子を連れ出したのは、あなたでしょう」
ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。
ああ、そうか。
あの子のことか。
僕の愛しい、エレオノラのことか。
「……知らないね。僕はそんな女の子を連れ出した覚えはないよ」
「堂々と嘘を吐く……!そもそも、一度失敗すればすっぱり諦めるという、お父様との約束だったはずよ!それを……!」
「誤解があるようだから言っておこう。失敗したのは僕じゃない。現場の、無能極まる軍人共だ。僕の立案した作戦は完璧だったんだからね」
ルパートの本心であった。
作戦に不備があったとは思えない。
目標の潜伏する建物の地下階。その出入り口の全てを封鎖し、表口と裏口から同時に特殊部隊を突入させる。それも、対テロリスト制圧用に厳しい訓練を積んだ猛者共だ。
あの少女と、もう一人──こちらもそれなりに興をそそる屈強そうな女は、たった二人で憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部を壊滅させた。
容姿に騙されてはいけない。到底侮っていい獲物ではない。それは理解していた。
だからこそ用意した完全武装の特殊部隊である。あの汗臭い連中の存在意義は、そういう危険な連中の相手をすることにあるのではないか。
そして、相手はたったの四人である。
四人!それに対して、こちらが投入したのは十人を越えていたのだ!
隠し扉?得体の知れない洞窟?その程度の不測の事態が生じるなど、それこそ想定の範囲内ではないか。
ルパートは、憮然とした様子で彼の作戦の不備を指摘し全ての責任を押しつけてきた軍人共の筋肉質な顔を思い出して、不快感に唾を吐き捨てた。
「でも……まぁ、作戦の最高責任者だったのは僕だ。それは認めよう。だから、失敗の責任は全て僕に帰する。当然の道理だね。だから、僕はもう、あの女の子のことは諦めたよ。誓って、僕があの子を部屋から連れ出したんじゃない。約束する」
予想外に真摯なルパートの言葉に、マルゴはたじろいだ。
あの少女を軟禁していた部屋は、この城の最奥部にある。どう考えても、外部の人間が容易く侵入できる場所ではないし、あの少女が一人で逃げるなど出来ようはずもない。
だいたい、彼女の監視を命じられていたマルゴの同僚の食事に睡眠薬を盛ったのが、この城の内部の人間でなければどこの誰だというのだ。厳重な監視装置の電源を落としたのが、この城に精通する人間の仕業でなければどこの誰の仕業だというのだ。
そして、少女は姿を消した。
最初から犯人をルパートと決めてかかっていたマルゴは、少なからず動揺した。どう考えても、全ての状況はこの男が犯人であると告げているのに。
「……では、地下階の探索をしてもよろしいか?」
「駄目だね。あそこは僕の趣味の空間だ。僕の許し無く、誰も立ち入らせるつもりはないし、今、君にその許可を与えるつもりもない」
「しかし──」
「もしもどうしても僕が怪しいっていうなら、君の大好きなお父様に言えばいいじゃないか。あなたのどら息子が大切な生け贄の少女を盗みました。だから、地下階を探索する権限をお与え下さいってね」
言われるまでもない。既にマルゴは、いの一番にこの城の最高権力者の元へ赴いている。
しかし彼女の父である、腐った魚の目をした老人は、穏やかに微笑みながら首を横に振った。それがどういう意図なのかはマルゴには皆目検討もつかないが、しかしルパートに手出しが出来なくなったことだけは明白であった。
それでも、もしもルパートがあの少女を攫ったことが明らかになり、マルゴ自身がその確証を得たならば、力尽くでも乗り込んで、少女の身柄を奪回するつもりだった。あの少女の美しい体を、尊い生け贄となるべき清い魂を、目の前の変態の好きにさせるつもりはなかった。
なのに、この軽薄で悪辣な男がさっき言った言葉──自分はあの少女を部屋から連れ出していないという言葉には、真実の重みがあった。
だから、マルゴには分からなくなってしまったのだ。自分の取るべき行動が。
「……さっきの言葉は本当でしょうね。あなたは、彼女を連れ出す行為の一切に関与していない」
「天のヴェロニカ、大地の精霊、そして父親の名前に誓って、僕は関与していない」
このとき、マルゴは質問を間違えたのだ。
今あの少女は地下にいるのか。それとも、あなたはあの少女に危害を加えていないか。
そう問えば、ルパートの瞳に浮かんだ真実の色は、自ずと違うものになっていたはずなのに。
「……わかりました。無駄な時間を取らせて申し訳ありませんでした」
肩を落としたマルゴが背中を向けようとするのを、
「おい、待てよ」
「……何か?」
「人を無実の罪で疑っておいてさ、その態度はないんじゃないの?それともそれが、君の敬愛するお父様とやらに教えてもらった作法なのかな?」
少女は、ぎしりと歯を噛んだ。
しかし外面には一切の屈辱を出さず、軍靴の踵を合わせ、背筋を伸ばし、深々と腰を折り曲げて、
「申し訳ありませんでした、ルパート様。今後、このような無礼を働くことが無いよう、しっかりとした事実究明に努めますので、どうか今回に限り、ご寛恕の程を」
「うん、いいよ。何せ僕はこの星の大統領でもあるアーロン・レイノルズの一人息子だ。自分でも呆れてしまうほどに寛大だからね、人形風情の非礼は笑って許して上げるさ。だから、さっさと自分の犬小屋に帰れよ。目障りだ」
背中にマルゴの無念の視線を感じ取りながら歩く廊下は、痛快そのものであった。
再び姿を現した階段を昇り、最上階に辿り着く。
ルパートと、彼の父親のためだけに用意された階層だ。当然そこでは親子が顔を合わせることも少なくないが、朝の挨拶の一つだって交わされたことはない。
そも、父親は、その息子を視界に収めようとはしない。無言で通り過ぎていくだけだ。
だから、ルパートも無言で歩く。長大で暗い廊下を、一人無言で。
「お帰りなさい、ルパート君」
ルパートは、その言葉が特定の誰かの口から出たのだと錯覚し、思わず口元を綻ばせた。
そして、瞬時に過ちを悟り、怖気のする自己嫌悪と戦う羽目になった。
屈辱だった。何より屈辱だったのは、先ほどの顔をこの男に見られたことだ。
「ずいぶんご機嫌ですねぇ。何か良いことでもあったのですか?」
にやにやと、ただでさえ細い視線を尚更細めて、何が楽しいのか自分を見つめるこの男。
仕立ての良いスーツをだらしなく羽織り、剃り残した無精ひげを愉快そうに撫でつけている、この男。
アイザック・テルミン。
アーロン・レイノルズ大統領の右腕である。
「……あんたかよ。なんで、高々第一秘書風情がこんな場所にいやがるんだ。ここは、俺と親父の私室しかない階だぜ」
「ええ、ですから大統領と、今後の政局についての相談を。いくら第一秘書といえど、勝手気ままに政治を玩具にしていいわけではありませんから、たまにはお伺いを立てに来ないと不味いでしょう?」
それはつまり、アーロン・レイノルズという男が、政治という分野においては目の前の男、アイザック・テルミンの傀儡に過ぎないことを意味している。
少なくとも、大統領に近しい人間の間では、それは周知の事実であった。アイザック・テルミンという男の優れた政治的センスがなければ、これほど見事に政権を奪取することが難しかったのは、大統領本人ですらが認めるところである。
しかし、何故だかルパートにはこの男が気にくわない。父親の恩人であり、間接的には自分の恩人でもあるはずのこの男が、そして今は自分とあの少女の仲人となってくれたこの男が、どうしても気にくわなかったのだ。
この男の前では無頼な口調になってしまうのも、そのためであった。
「如何でしたかな、あの少女の味は。ルパート君は相当彼女にご執心であったようですから、感無量といったところではないですか?いや、この宇宙に本当の想い人と結ばれる人間がどれほどいるのか……羨ましい限りです」
ウォルをマルゴ達の監視下から攫い、ルパートの支配する地下層へと連れて行ったのはこの男の仕業であった。
無論、ルパートはそのことを知っている。しかし、彼自身はその計画を事後的に聞かされたのであり、立案から実行に至る一切の課程を関知していない。だからこそ先ほどのマルゴの詰問にも涼しい顔で通すことができたのだ。
「ワタクシは生憎、あの年齢の異性に劣情を覚える性質ではありませんが、それでもあなたに引き渡すのが惜しくなるほどの美しさでしたからなぁ。さぞかし良い声で啼いてくれたのではありませんかな?」
「……うるせえな、約束はきっちりと果たす。記録映像は後であんたの部屋に届けさせるさ。それでいいんだろうが」
「ええ、まさしくワタクシの心配していたところはそこでして。興奮のあまりに我を忘れたルパート君が、記録装置の電源を入れ忘れていては一大事と、一応の確認をしに参った次第です」
テルミンがルパートに、ウォルの身柄を引き渡すときの、唯一の条件がそれであった。
今後、この少女に施す全ての行為を映像で記録し、その逐一を自分に渡すこと。
ルパートにしてみれば、自分と愛しい少女との営みを他人の目に触れさせなければならないのは、あの少女の素肌を目垢で汚すようで不快だったが、不承不承に頷いた。この交換条件を受け入れなければ、彼女は永遠に自分のものにならないのだ。ならば、四の五の言っていられる状況ではなかったのである。
約束を反故にすることも考えたが、それはこの、いけ好かない男に負けるようで嫌だった。
「要件はそれだけかよ」
「それだけです。ルパート君も色々と忙しいようですし、要件も終わりました。今日はこれで失礼しますよ」
テルミンはくすくすと笑った。
しかし、一向に歩き出す気配がない。じっとルパートを眺めている。
その視線が不快で、ルパートは自分の部屋へと足を向けた。
「あ、そうそう、一つだけ質問してもよろしいでしょうか?」
ルパートの背中に向けて、テルミンが声をかけた。
振り向くと、そこに先ほどのにやにや笑いはない。
「……なんだ、言ってみな」
「ええ、ルパート君は、ワタクシがどうしてルパート君と彼女の愛の営みの映像を欲しがっているのか、不思議ではないのかと思いまして」
ふん、と鼻を鳴らした。
「この世には色々な趣味の人間がいるぜ。中には、他人のまぐわいを見なけりゃおっ立たないっていう変態だっているもんだ。あんたがあの映像で何をしようが、俺は関知しねえよ」
「なるほどなるほど、そういうこともありますか。ふむ、ではワタクシは、そういう特殊な性癖の持ち主であるということにしておきましょうかねぇ」
体を折り曲げて笑うテルミンを、親の敵であるかのように睨み付けながら、
「……つまらないお為ごかしはいらない。あんたにはあんたの思惑があるんだろう?その上で、あんたは俺を利用する。俺は、あんたを利用する。それが一番分かりやすい」
「ええ、ええ、そこがルパート君の一番の長所ですねぇ。大変自分に正直で、他人に対してペシミスティックだ。話の通りがよくて大変助かります」
テルミンの細められた瞼の奥に、針のような光があるのをルパートは見逃さなかった。
この男は果たして自分の味方なのかという、惚けた疑念をルパートは抱かない。
これは、自分と同じ類の生き物だ。つまり、自分の享楽と欲望のために、他人の人生を踏みにじって一切の後ろ暗さを覚えない人間。もっとはっきりといえば、自分以外の人間を人間と認めていない人間。
そして、同種の生き物は、得てして天敵同士であるもの。
蛇は蛇を喰らい、蛙は蛙を喰らう。
ならば、そもそも味方であるはずがない。
しかし、共通する目的のためであれば、不倶戴天の敵同士でも同じ船に乗ることもできよう。
この男がどういう意図でもって自分に近づいてくるのかは知れない。だが、自分が付け入るだけの隙を見せなければいいだけの話。
ルパートは鼻で笑った。
あの少女を手回ししてくれたのには素直に感謝している。だが、それだけだ。感謝の念だけならば、道端で落としたハンカチを拾ってくれただけの赤の他人にだって向けられる。
そして、感謝の念以上のものを、ただで渡すつもりは一切ない。
アイザック・テルミン。
あんたが何を考えてやがるかは知らないが、最後に出し抜くのは俺だ。そして、あの少女を、俺だけの奴隷にしてみせる。
◇
ルパートとの短い邂逅を終えたテルミンは、自室に引き上げた。
スーツの上着を脱ぎ、ハンガーにかける。
ネクタイを緩めて首元をほぐしながら、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、よく冷えたそれを直接呷った。
口から食道に、そして胃に落ちていく冷たい感触は彼の好むところだ。
アルコールはいけない。あの灼熱感は人の理性を奪い取り、正常な思考を妨げる。熱せられた思考を強制する。
熱せられた思考は、隙だ。
隙を見せれば、食われる。この自分が、餌と成り果てる。
そういう世界だ、ここは。
一息ついたテルミンは、ベッドの端に腰掛けた。
大柄な彼の体重に抗議するように、ベッドが大きく軋み声をあげた。
目の前に、大きなスクリーンがある。何も写さず、真っ黒だ。
テルミンはサイドボードの上のリモコンを取り、映像装置の電源を入れた。
画面に、薄暗い部屋が映し出された。
石造りの頑丈そうな造り。全体的にじめじめとしていて、石壁の所々に苔がむしている。
照明と呼べるものは、壁に設えられた燭台に、蝋燭が立てられているだけだ。その弱々しい火が、時折吹き込む風にゆらゆらと揺れている。
テルミンは、画面に写されている場所がいずこか、知っていた。何せ、その部屋を映すためのカメラを、秘密裏に設置したのは彼自身なのだから。
うす暗く陰気なその部屋は、この城の地下室の一つだ。ルパートは教育部屋と呼んでいたか。
中世の城の地下室といえば、もともと公明正大な目的のために作られたものではありえない。この城を建てた人間だって、何のためにその部屋を作ったのかあやしいものである。
しかし、今ほど凄惨な目的のために作ったであろうか。
そこには、少女が写されていた。それも、年端もいかない少女だ。
長い黒髪が、腰まで届いている。瞳は黒く、利発で意志の強そうな顔立ちである。
どこかに、くだんの少女の面影がある、少女だ。
そして、無惨な姿だった。
両手を鎖で縛り上げられ、天井から吊されている。爪先は床に届くことはなく、ぶらぶらと、精肉される前の肉の塊のように宙を揺れている。
局所を隠す頼りない下着以外、何も身につけていない。その姿を望んだのが彼女ではないことくらい、誰が見ても明らかであった。
縛り上げられた手首は鬱血し、赤黒く染まっている。反対に、その整った顔立ちからは血の気が引き、哀れを誘うほどに真っ青になっている。
『痛い!下ろしてよ!どこよ、ここは!?帰してよ、わたしを家に帰して!』
怯えの色濃い表情に精一杯の虚勢を張りながら、自分の正面に立った男に対して叫び声をあげている。
彼女の正面に立った人間に、テルミンは見覚えがあった。
先ほどまで、自分と話をしていた青年だ。
名前を、ルパート・レイノルズという。
テルミンの顔が、苦笑に歪む。
「いやいや、お盛んなのは結構なことですが、明日まで待つこともできないのですか」
明日になれば、彼が恋い焦がれていたあの少女を、思う様にいたぶることができるのに。
今日は、その少女に似た、別の少女を生け贄に定めたらしい。
テルミンは、少女と何事かを話している。集音マイクを備えない隠しカメラでは会話の内容までは拾えないが、少女の表情が凍り付いた瞬間だけはテルミンにもわかった。
そして、その少女を挟むように二人の男が現れた。
少女と比べれば猛獣としか形容しようのない、屈強な男であった。表情を隠すための覆面をかぶり、手には鞣し革で作られた懲罰用の鞭を携えている。きっとその覆面の下には、堪えきれない悦びに歪んだ醜い顔が隠されているのだろう。
少女の青ざめた顔から、いっそう血の気が引いていく。一度だって日の光に当たったことのないような美しい肌が、蝋人形じみた不健康な白さで染まった。
少女が、口を開こうとした。
だが、その口は意味のある言葉を発することは出来なかった。
あまりにも無防備な少女めがけて、思い切り鞭が振り下ろされたからだ。
耳をふさぎたくなるような、肉を打つ音が響く。
それに少し遅れて、少女の細い喉から、叫び声と聞き間違うほどの悲鳴が放たれた。
『ぎゃんっ!?』
少女の体が、電気を通されたように跳ね回る。少女を吊した無骨な鎖が、ぎちぎちと、不快な音を立てる。
少女の白い肌に、二筋、赤黒い線が走っていた。一本は背中を縦に割るように、もう一本はわき腹をえぐるように。
黒い瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が流れ落ちる。苦痛と、屈辱と、いわれない暴力を振るわれる理不尽さが流させる涙だった。
『どうしてよ……どうして、わたしがこんな目に……たすけて……おとうさん、おかあさ──』
再び振るわれる無慈悲な鞭が、少女の言葉を遮った。
先ほどの映像を再生するように肉の弾ける音が響き、
『いぎぃやああぁぁいたいいたいやめてやめてぇええぇ!』
立て続けに振り下ろされる鞭に合わせながら、調子の狂った悲鳴が響く。
美しい少女の声とは思えない、地の底から響くような叫び声だ。
ルパートの狂笑が、少女の悲鳴に重なる。この世に、これほど狂った二重奏があるだろうか。
感極まった様子のルパートが、拷問役の男から鞭を奪い取り、自分で少女を嬲り始めた。
鼻歌を口ずさみながら鞭を振るい、優しく少女に語りかけながら鞭を振るった。
目を血走らせ、涎をだらしなく垂れ流しながら、しかし天上の至福に体を震わして。
彼が一切の手加減なく鞭を振るう度に少女の悲鳴が響き、それが段々と弱々しいものに変わっていく。
きっと彼女は、自分が今、悪夢の中にいると思っているのだろう。それは決して間違いではない。悪夢とは、往々にして目を開けている間に見るものほど、悲惨になるものだ。
程なくして少女の柔肌は、一面赤黒く腫れ上がり、すぐに裂けた。
皮が弾け、血が飛び散り、桃色の肉が覗く。
それでもルパートは鞭を振るい続けた。少女が泡を吹いて失神し、痙攣しながら糞小便を垂れ流しても、止めようとしなかった。
少女は、あるいは幸せだったのだろうか。腐臭漂うこの教育部屋に連れて来られた最初の日に、天上へと旅立つことができたのだ。長く幽閉され、ルパートの欲望に晒され続けている少女達からすれば、羨望に値したかも知れない。
やがてルパートは少女の身体を下ろし、その上にのしかかった。
アイザック・テルミンは深い愉悦を湛えた表情で、画面に写るルパートの狂態を眺めている。
くつくつと、テルミンは笑った。
「ルパート君の高尚な趣味も、なかなか悪いものではありませんが……これは、やはり眉を顰める人の方が多いのでしょうねぇ」
テルミン自身に、嫌がる女性、しかも年端もいかない少女を痛めつけて性的興奮を得る趣味は全くない。まして、その死体を抱くなど嫌悪に値する行為だ。
ただ、このように無意味なことをして悦に入る、ルパートという人間の人格を楽しんでいただけだ。
画面に写された少女は、魂の失われた視線で、じっと天井を見つめている。彼女の身体はルパートに組み敷かれ固い石床に押しつけられているが、抗議の声はおろか、苦痛の呻き声を漏らすこともない。
もう、息をすることもない。
ただ、ごりごりと、前後に揺さぶられている。
ルパートがその欲望を吐き出した後は、野獣の餌になるか、それとも城の近くの湖に打ち捨てられるのか。
どちらにせよ、少女の死体は誰に弔われるわけでもなく、大いなる自然の循環の中に返されるのだ。ある意味では、もっともヴェロニカ教に相応しい埋葬方法なのかも知れないが。
特殊な性癖のある人間以外の、哀れと怒りを誘うに十分過ぎる光景だった。
「いいですねぇ。あの少女も、これと同じ、いや、もっと凄惨な目に遭って頂かなくては」
にこやかに細められた視線は、無惨な少女の死体と狂った青年の交わりではなく、もっと別のものを眺めていた。
その視線の先にあるものは、彼自身の栄達した未来と、祖国の栄光あふれる様子だった。