懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第四十九話:神の守り人

 遠く、虫の鳴き声が響いている。

 盛夏から初秋にかけて鳴く、美しい声の虫だった。

 山の中腹辺りの草むらに、たくさんの虫が鳴いているのだ。

 じぃじぃ、りんりん、きりきり、と、自分の奏でる音こそが最も美しいのだと、競い合っているようですらある。

 絶え間ない音だ。

 一匹の虫は、そう長くは鳴かない。しかし、一匹が鳴き止めば、どこかでもう一匹が鳴き出す。そうやって、一定の音が、ずっと響いている。

 うっとりするような、音の重なり。

 吹く風は、もう冷たい。

 山は今、麓の季節を先取りしている。夏はとうに過ぎ、秋の気配が漂い始めているのだ。夜ともなれば、空気はぐんと冷え込む。

 しんと、沈んだ空気。虫の鳴き声だけが、どこかから聞こえてくる。

 その中に、異質な音が、時折混じる。

 普段、この山の中では、聞くことの無い音だ。

 ひそひそとした、何とも聞き取りづらい、音。

 草の葉の擦れる音ではなく、梟の羽ばたく音でもなく、狼の息遣いでもない、音。

 その音は、草の海に埋もれた、古びた苫屋から聞こえるのだ。

 人の、声だった。

 普段は人気のないその苫屋から、今夜だけは、薄ぼんやりとした光が漏れていた。

 外見は、朽ちかけた廃屋である。到底人が住んでいるようには見えない。

 背の低い玄関から中を覗けば、仕切りのほとんどない、だだっ広く、飾り気の一切ない屋内である。

 壁に目を遣れば、ぼろぼろの土壁に、ガラスのはめ込まれない小さな窓が拵えられており、そこから仄かな月明かりが差し込んでいる。その月明かりも、格子に張られた蜘蛛の巣に分断され、土間に届く頃には散り散りの細かい粒へ姿を変えている。

 中央には、曼荼羅のような模様の描かれた、敷物が置かれていた。この、朽ちた廃屋には不釣り合いの、豪奢な刺繍が施された敷物である。

 敷物の真ん中には、天井から一本の鎖が垂れ落ち、その先に取り付けられた籠状の金具の中に、橙色の灯りをともした蝋燭が置かれている。

 その灯りをぐるりと取り囲み、幾人かが、木の床に座している。

 いずれも、矮躯の老人ばかりであった。腰が曲がり、時折咳き込み、ひゅうひゅうとした隙間風のような呼吸を、苦しげに繰り返している。

 蝋燭の灯りに照らされた彼らの顔は、深い深い皺で覆われていた。

 そしていずれもが、紫の法衣を身に纏っている。それは、彼らがヴェロニカ教における最高位階である、老師の身分の者たちであることの証左であった。

 

「それにしても、なんともまずいことになりましたなぁ」

 

 うちの一人が、むにゃむにゃとした声で話した。

 どうにも発音が明瞭でないのは、歯のほとんどが抜け落ちてしまっているからだろう。口の辺りだけ、不自然に皺の多い顔立ちである。

 何も知らない人間が見れば、猿の木乃伊が人の言葉を話しているように思えたかも知れない。

 

「まったく、どうして面倒事というものは、こう、次から次へと涌いて出てくるのやら。マークス・レザロの件といい、今回のことといい。先代の老師たちの時には、このような不祥事はほとんどなかったというのに」

 

 その言葉には、どうして自分達だけがこんな苦労を背負い込まねばならないのかという、怨嗟の念が込められていた。

 

「いや、パリロー老の仰るとおりですな。これも神が与え給うた試練かと思えば有り難くも思えますが、それにしてもこの老体には些か堪えます」

「然り、然り。ヴェロニカの教えに身を捧げてきた我らに対してこの為さりよう、神も中々どうして手厳しい」

「トルナコ老。それはあまりにも不遜なお言葉ではございませんかな?神は、今も我らの頭上にいまし、我らの言葉に耳を傾けておられる。ならば先ほどのお言葉、明らかな不敬に当たりましょう」

 

 トルナコと呼ばれた老人が、痙攣するように背をひくつかせて、ぞっとする笑い声を漏らした。

 

「アカオウ老の仰りようも尤もなれど……。今更我らが、神の存在の有無について語ったとて無益にもほどがあろうというものでしょう。そのように不確かなものへの敬意を熱く語るのは、導師連中にでも任せておけばよろしい。我らは、我らだけに課せられた、崇高な使命を果たすためにここに集うたのですからな」

 

 今度は、アカオウと呼ばれた老人が、トルナコそっくりの不気味な笑みを漏らした。

 だが、先ほどと違うことが一つだけ。アカオウの口からは、トルナコの言葉に対する反駁が産み落とされることはなかったのだ。

 他の老師連中も、トルナコの言葉を訂正しようとはしない。ただ、困った人だと苦笑いを浮かべるだけである。

 

「トルナコ老。この集いのうちならばともかく、信徒連中の前でそのようなことはゆめ仰いますな。ただでさえ大統領派の増長が鼻につくというのに、我らの方からきゃつらを勢いづかせてやることもありますまいて」

「ふむ、グリイェ老の仰りようも至極ごもっとも。ただでさえ我らは一方ならぬ苦境に立たされておりますからな、不必要な舌禍など起こして皆々様にご苦労をおかけしては、このトルナコ、痩せ腹をかっ捌いて詫びても詫びきれませぬじゃ」

「しかしトルナコ老のお気持ちも重々分かりまする。何一つの真実も知らぬくせに、訳知り顔で、改革だの革新だのを声高に叫ぶ導師連中の相手を毎日毎日続けておれば、愚痴の一つも漏れようというもの」

 

 これにはほとんど全員が、疲れた笑みを浮かべた。

 そして、彼らの皺に埋もれた瞳の奥には、自分達だけが真実を知っているのだという、隠しがたい優越感が存在していた。

 一同が一頻りの軽口を叩き合った後、上座で丸まった、曇天色の皮膚をした老人が、眠たげな瞼を持ち上げ、とろりとした眼球を空気にさらした。それだけのことで、老人たちの視線が一点に集まり、軽やかだった口元が引き締まるのだ。

 

「会衆。老師の責務を全うする日常、さぞ苦労も多かろう。その中でわざわざここに集まってもらったのは、他でもない。ヴェロニカ教に訪れた未曾有の危機に対してどう臨むか、それを話し合うためである。どうか忌憚のない意見を述べて欲しい」

 

 曇天色の皮膚をした老人は、老いと疲れに濁った視線で一同を見渡した。

 自身を基準に置いて、左側に二人の老師。

 マンサ教区の司祭であるトルナコ老師。

 ネカ教区の司祭であるグリイェ老師。

 自身を基準に置いて、右側には、やはり二人の老師。

 ケサ教区の司祭であるアカオウ老師。

 エクム教区の司祭であるパリロー老師。

 いずれも、ヴェロニカ教の最重鎮たる顔ぶれである。

 そして、老人の視線は、自分の真正面でぴたりと止まり、そこに座った人間の目を捕らえた。

 

「さて、ビアンキ老。貴殿以外の老師連中は、事態の概要については把握しておるものの、詳細については些か心許ない。当事者たる貴殿から、ことの顛末を報告してはもらえましか」

「承りました、長老」

 

 ミア・ビアンキは、自分を眺める五対の視線を感じながら、深々と頭を下げた。その視線のほとんどが、寛容と暖かみを欠いた、冷ややかで侮蔑に満ちたものであることには気が付いていたが、不平を述べようとは思わなかった。もしも自分が彼らの立場であったならば、やはり同じ視線を被弾劾者に向けていたであろう、苦い自覚があったからだ。

 

「本日の昼過ぎのことでございます。総本山で日常の執務をこなしておりました私に、来客がありました──」

 

 そしてビアンキは語った。ジャスミン・クーアを名乗った女性との会談の一部始終を。

 そもそも、二人が語らったあの部屋には、精巧な盗聴器が仕込まれており、会話の内容は既に全ての老師の知るところとなっているのだ。今更何を隠し立てしたところで、隠しおおせるものではない。

 ビアンキの、要点を押さえた滑らかな話しぶりから、それほど時間を取らずに説明は終わった。

 語るべきを語り終え、静かに口を閉ざしたビアンキ。だが、彼に対してかけられたのは、労いの言葉などではなく、ありありと嘲弄の浮かんだ、糾弾の言葉であった。

 

「ビアンキ老。貴殿は何か勘違いをしておらぬか?」

 

 トルナコが、優越感に口元を歪ませながら言った。

 

「勘違い、とは?」

 

 ビアンキは、問うた。

 トルナコは、ふんと鼻を一つ鳴らし、

 

「我らは、既に、貴殿と女との会話の内容の全てを承知しておる。我らが知りたいのは、それらを受けて、貴殿がいかなる処置を施したかであり、今更二度も同じ話を聞きたいわけではないわ」

「それは、失礼いたしました」

 

 ビアンキは深く頭を下げた。

 言い返したい気持ちがないわけではない。この場に居合わせた全ての者がどのような情報を得ているのかはっきりしない以上、事態の概要を説明しておく必要はあるのだし、もう一度事実関係を整理しておく意味でも、当事者である自分の口から説明をするのは無駄ではない。

 だが、どのように反駁を試みたところで、ここに居合わせる老師連中を言い負かすのは、不可能とは言わないまでも著しく困難であることを、彼は知っていた。肥大化した自尊心を持つ者にとっては自分の意見こそが至高であり、自己と同格、あるいは風下に立つ人間の言葉など、犬猫の鳴き声と変わらぬものと思っているに違いないのだ。

 そして、この場は、あくまで非公式ではあるが、ビアンキを弾劾するために設けられた場であることを、全員が承知している。

 では、被告人席に座った自分の言葉で目の前の老人を退けるのに、どれほどの労力が必要となるか。

 頭の一つを下げて話が前に進むならば、その方がどれほどありがたいか知れないではないか。

 

「ジャスミン・クーアを名乗るかの女性には、すでに草の者を放っております。かの女性が我らの手に落ちるのも時間の問題でしょう」

 

 ビアンキは、淡々とした調子で言った。

 草の者とは、ヴェロニカ教の総本部が組織している、非合法な生業に手を染める者の総称である。

 幼い頃から厳しい訓練を受け、手際には十分な信頼が置ける。何より素晴らしいのは、彼らには宗教的な使命感があらゆる事象に優先されるよう、入念な教育が施されていることだ。

 いかなる指令にも盲目的に従い、決して反抗することはない。ヴェロニカ教にとって都合の悪い人間を闇に葬るのに、これほど都合のよい道具はないだろう。

 そして、その者たちが、あの女性を捕縛するために出動したという。

 トルナコは、なんとも不満げな様子で唇を尖らしていた。おそらくは、ビアンキが手をこまねいて何の対処もしていないことを望んでいたのであろう。そうすれば、ビアンキの失地はもはや挽回不可能なものとなっただろうに。

 

「あの会談の内容では、そなたが妙な手心を女に加えるやも知れぬのと、それが気がかりであったが、どうやら杞憂にすぎなかったようじゃな。ビアンキ老、大義であったぞ」

 

 長老が、やはり重たい瞼の奥の瞳を真っ直ぐに向けて、言った。

 ビアンキは、無言で頭を下げた。

 そして何事かを言うために口を開こうとしたが、それに先んじた者が、嫌らしい声で言った。

 

「しかし、どうにも不可思議よの。先のマークス・レザロの一件といい、こたびの女の一件といい、何故かビアンキ老の担当する教区ばかり、厄介な案件が持ち上がるものよ。や、もちろんビアンキ老に何の責めもないことがはっきりしておるのは、分かっておるがな」

 

 ビアンキの右隣に座した、トルナコの言葉であった。

 

「いやいや、トルナコ老。貴殿の寛容には胸の打たれる思いですが、こたびの女はともかく、マークス・レザロの一件についてはビアンキ老にも責任の一端はありましょう。なにせ、己の担当する教区の信徒が、食肉の大罪を犯していたのですから。これは、責任者である老師の指導が行き届かなかった結果といっても過言ではありませんぞ」

「それを言うならば、こたびの女とて、例の一件に端を発して、この星のことを嗅ぎ回った結果でありましょう。加えるならば、どこの馬の骨とも知れない輩がこの国の大統領に成りおおせ、我が物顔で総本山にのさばる始末となったのも、全てはかの事件への対応が不味かったからに他なりません。であれば、ビアンキ老の責任問題は、当然のことながら立ち上がりましょう」

「これは困ったことになりましたな。老師が責任を取るとなれば、それは自らの立場を辞する以外に方法はありませんが、しかし鬼才を謳われたビアンキ老の後釜となると、人選に窮しますぞ」

 

 グリイェ、アカオウ、パリローが、背をひくつかせながら言う。

 ビアンキは、ただひたすらにじっとして、老師たちの嘲弄に堪え忍んだ。

 元々、史上最年少で老師の位階を得たミア・ビアンキという人間に対して、他の老師連中は好意の視線を向けたことがない。自分自身を優れた人間であると確信しているが故に、自分よりも若輩の身のくせに、自分と同格に成り上がったビアンキのことを認めることが出来ないのだ。

 だから、今回の一連の事件は、ビアンキ以外の老師にとっては、長年溜まりに溜まった鬱憤を晴らし、溜飲を下げるになんとも都合の良いものだった。ことあるごとにビアンキを槍玉に挙げては、嫌らしい快感に浸っている。

 たとえ今回の事件が自分の足下に墓穴を掘るものだったとしても、それよりもビアンキをこき下ろす方が遙かに重要であるらしい。

 唯一、ビアンキの正面に座った、この中では最年長の老人が、どうしたって感情の表れない乾いた瞳を、じっと向けているだけであった。

 

「それにしてもあの女、言うに事欠いて、まさかジャスミン・クーアを名乗るとは、中々冗談の分かる者ではありませんか」

 

 アカオウが、言った。

 年の割には脂ぎった皮膚をたるませながら、なんとも愉しそうに笑う。

 

「あの女を捕らえたら、如何いたしますか?」

 

 トルナコが、面白くもなさそうに答えた。

 

「知れたこと。まずは我らの手によって、神の愛の何たるかを十分に理解させてやればよい。それでヴェロニカの教えに帰依するならばよし、あくまで拒むというのならば、それが運命である。遺跡の他の連中と同じように、大いに肉を食わせ、大いに野の実を喰らわせてやればよいではないか。ヴェロニカの教えを受け入れぬ人間がこの星にとどまれば、どうせ一年と保たずに土へと帰るのだ。我らが気に止めるようなことではあるまいよ」

「つまりは、いつもどおりということですかな」

 

 トルナコは頷いた。

 別に、彼らが手を汚す必要など無いのだ。

 ヴェロニカ教に仇なすものは、全て、この星に点在する遺跡へと送られて、強制労働に従事することになる。

 別に、一生をそこで過ごせという訳ではない。あくまで、ヴェロニカの教えに背いた罰として、数ヶ月、あるいは数年の労働に耐えてもらうだけだ。

 そして、望めば、外の世界と同じように、肉を食べ、自生植物を食べることもできる。

 そうすれば、勝手に死んでくれる。

 それが神の御業であることを、老師たちは知っているのだ。

 

「なんとも惜しいことですなぁ。あの女、中々見れた顔立ちでしたし、体の方も頑丈そうでした。あれならば、適当な草の者と番い合わせれば、さぞ丈夫な子を為したでしょうに」

「あの女が我らの説法に頭を垂れれば、そういう使命を授けてやるのも一つの使い道でしょう。いや、むしろあの女はそのまま遺跡へと送れば、そこらの男連中よりも役に立つかも入れませんぞ」

「確かに。あの体格ですからな、普通の男よりも腕力だけはありそうじゃ。その分、頭のほうが足りていないようじゃったが……」

「ジャスミン・クーアを名乗りながら怪しまれないと思っているあたり、どう考えてもまともな思考能力の持ち主とは思えませんな。立ち振る舞いは健常者を装えてはおりましたが、おそらく知恵足らずの類なのでしょう。憐れなことです」

「それは困った。そんな愚物が相手では、我らの説法も馬の耳に何とやらですな」

 

 老人達が一斉に笑った。

 所々で、隙間風のような、不快な音が鳴る。それは、老人の、抜け落ちた歯の隙間に空気が触れて、鳴らす音だった。

 ビアンキは、じっと目を閉じた。耳を閉じるためには両の手を動かす必要があり、そのような動作をすることさえ億劫になるほど、彼は気力を奪われていた。

 予想していたことではある。しかし、これほど無意味な時間の浪費に付き合わされるとは、想像の上を行っていると言わざるを得ない。

 

「そういえば、ビアンキ老よ。貴殿に、あの女は言っておったな。自分は、本物のジャスミン・クーアであると。そして、どうやら貴殿もそれを認めておったようじゃが……」

 

 トルナコが、涙の浮いた目尻を枯れ木のような指先で拭った。

 ビアンキは、まったく平然とした様子で答えた。

 

「ジャスミン・クーアを名乗るあの女の外見が、本物のジャスミン・クーアに酷似していたのは事実です。しかし、公式に、クーア財閥の二代目であるジャスミン・クーアは既に死亡しております。様々な巷説があるのは承知しておりますが、それも全て根拠薄弱な与太話のみ。であれば、かの女性は皆様方の仰るとおり、自らをジャスミン・クーアであると信じ込み、そのあげくに顔まで整形してのけたのでしょう。なんとも憐れなことです」

 

 トルナコは少しばかり興が削がれたような様子で、

 

「まぁ、おそらくはそんなところであろうな。いや、かの高名なビアンキ老が血迷ったのではなくて安心しましたぞ。まさかあれが本物のジャスミン・クーアであるなどと貴殿が仰るようであれば、貴殿の担当する教区に住まう、数多の信徒の行く末を本気で心配しなければならないところでしたからな」

「それはどうも、色々と気苦労をおかけします。全て我が身のいたらなさ故、皆様にはお詫びのしようもございません」

 

 ビアンキは再び深く頭を下げた。

 場に、しらけたような空気が流れた。

 その空気を切り裂くように、弱々しく、しかし重々しい声が響いた。

 

「女のことなどどうでもよい。もしもそれがかのジャスミン・クーアであるならば、それはそれで使いようがある。無論、そうでないならばそうでないで、然るべき用途に使えばよい。まったく使い物にならぬならば、遺跡にて野垂れ死んでもらうだけよ。いずれにせよ、その身柄を確保した後のことであろうな」

 

 長老が、ぼそりと呟く。

 至極もっともな意見であったので、この場に居合わせた全ての人間が頷いた。

 長老は続ける。

 

「その女が、この星の真実に気が付いたかどうか、それもどうでもよいことだ。しかし、どうしても看過出来ぬことがある」

「かの女性が手にした、地図、ですな」

 

 ビアンキが、探るように言った。

 長老が、深く頷く。

 

「現物は?」

「ここに」

 

 それは、ビアンキが、ジャスミン・クーアを名乗る女性から受け取った、この星の世界地図である。ビアンキはそれを手にした瞬間、あまりの衝撃に破り捨ててしまったが、あとからそれを丁寧に修復したのだ。さすがに継ぎ接ぎの後は残っているが、それでも地図の表す事象は十分に読み取ることができる。

 地図にはいくつかの大陸が描かれ、その上に、赤く描かれた三角形がいくつも付されている。

 この場に居合わせた老人は、全て、この赤い三角形の意味するところを知っていた。そして、それが公になったとき、どのような混乱がこの星を覆い尽くすかを。

 先ほどまで不必要に饒舌だったビアンキ以外の老師は、重たいものを飲み込んだように、一様に押し黙ってしまった。現物を目の当たりにしたことで、あらためて事態の深刻さに思いが至ったのかも知れない。

 

「して、ビアンキ老。貴殿はこの事態について、どう考える?」

「……不本意ではありますが、あの女性が考えているとおりかと。この地図は、この星とはそれほど関係の濃くない外国の人間が手にする可能性を持つほど、広範囲にばらまかれていると考えるべきでしょうな」

「ふん、何を血迷ったことを!」

 

 先ほどまで色を失った顔であった、トルナコが声を荒げた。

 

「件の女の言葉を信じるならば、この地図をばらまいたのはあの男ということになるが、それはあり得べき話ではない!」

 

 他の老師も、異口同音にトルナコの発言を支持した。

 

「何かの故あってあの男がヴェロニカの真実に気が付いたとしても、それは独占することで初めて己に益をもたらすもの。であれば、どうしてわざわざ声高に秘密を暴いて回るというのだ!」

「正しく!さらに言えば、事実が審らかとなりこの星が大混乱になった暁には、ヴェロニカ政府などあったものではないわ!共和宇宙政府を名乗るハイエナどもがこの星を貪り尽くし、残るのは荒廃した大地と飢えた民衆のみ。そうなったとき、誰が一番ばばを引くのか、少し考えれば明らかであろうが!」

 

 ビアンキは、それらの罵声に一言も答えなかった。

 その程度のこと、言われるまでもなく理解している。

 だが、あの女性からこの地図を見せられた瞬間、ビアンキは理解してしまったのだ。この地図をばらまいたのは、間違いなく、この星の大統領であるあの男、アーロン・レイノルズであると。

 ビアンキは、大統領に当選した直後のアーロン・レイノルズが、ヴェロニカ教の総本山を訪れた時のことを思い出していた。

 あの、人の暗部を照らし出すかのような、粘着質な光に満ちた視線。死んだ魚よりもどんよりとした目で、天使との邂逅を高らかに語ったあの男。

 あの男ならば、やる。理屈ではなく、勘などというものでもなく、もっと深い、本能じみたところでビアンキは確信していた。

 無論、彼の意図するところを論理的に説明ができるわけではない。この地図をばらまくことで、あの男がどのような利を狙っているのかなど、全く未知数だ。

 だが、それをいうならば、他のどんな人間が最初にこの地図を手にしたのであっても、それをばらまくことで利益があるとは思えないのである。

 まともな思考をする人間であれば、もっと別の方法でもって利益を得ようとするだろう。この地図から得られる巨万の富は、そのおこぼれ程度であっても人の一生をもって散財できる財産額を遙かに凌駕する。であれば、例えば現ヴェロニカ教の指導陣に掛け合い、秘密の保持と引き替えにある程度の分け前を要求するのが普通であろう。そうでなくとも、この情報を然るべき筋に提供すれば、その情報料だけでも莫大なものになるはずである。

 ならば、この地図をばらまいた人間の意図は、およそ普通の人間が持ちうる視点とは、全く別の場所にあるのではないだろうか。

 そして、そのような視点を持ち、さらにこの国の、ヴェロニカ教の機密に触れうる人間と言えば。

 ビアンキの脳裏に浮かんだのは、たった一人の男の固有名詞でしかなかったのだ。

 

「さて、この地図がこの世に一枚の物であるならば、問題はない。女の身柄を手に入れ、我らの思うがままにすればよいのだからな。しかし、ビアンキ老の言が正しく、もっと広範囲に流布されていた場合、我らも覚悟を決めねばなるまいて」

 

 長老が、疲労に倦んだ声で、言った。

 

「これより各人、此度の事態をヴェロニカ教の存亡にかかる変事と捕らえ、事実関係の確認を急いで欲しい。そして、もしもビアンキ老の見立てどおり、この地図があの男の手によってばらまかれているという確証が取れたならば……」

 

 五対の視線が、長老の口元に集中した。

 

「アーロン・レイノルズ大統領は、我らの手によって粛正する」

 

 

 最後に庵を退出したビアンキは、暗い山道を、一人歩いていた。

 手燭の儚い灯りだけが頼りの、何とも心細い道行きである。

 遙か先に、ヴェロニカ教総本山の建物から漏れ出す灯りが見えるが、今の老人の足下を照らし出すには、彼我の距離が開き過ぎていた。

 ただぼんやりと、儚げに揺れて見える。

 まるで、誘蛾灯のようだと思う。であれば、総本山へと足を向けている自分は、さしずめ灯りに魅せられた羽虫ということになるのだろうか。

 他の老師は、お付きの者が用意した籠で、我先に帰って行った。帰り際に、かかる事態を引き起こしたのはお前の不手際なのだから、出処進退を考えておくようにという有り難いお言葉まで頂いた。

 そして、矮躯の老人達は、まるでご神体か何かのように、丁重な様子で運ばれていったのである。

 ビアンキは、その一人一人を丁寧に見送ってから、山道を下り始めた。

 先ほどあの場に居合わせた人間の中で、山道を己の足で歩けるほど健康なのは、ビアンキだけだった。

 それも、いつまで続くのやら。

 最近、とみに体の調子がおかしい。

 無理もない。普通の人間であればとうに墓の下で眠りにつくほどの時間を、自分は生きているのだ。まだ己の足で大地を歩けることを、神に感謝しなければならないくらいだ。

 いったい自分はいつまで生きることが叶うのか。

 いや……。

 自分は、いつまで生き続けなければならないのか。

 ビアンキは、天を仰いだ。そこには、まん丸に肥え太った満月がある。黒一色に染まる夜空が、その一点を中心に、ほんのりと黄金色に色づいている。

 自分が死ねば、あそこに辿り着けるのだろうか。

 それは叶わぬことだろうと、老人は自嘲の笑みを浮かべた。

 

「先生!ビアンキ先生!」

 

 道行きの先から、若々しい声がした。

 先ほどまでビアンキの耳を痛めていた、老人の声ではない。

 視線を前方にやると、仄かな灯りが、蛍のようにゆらゆらと、少しずつ近づいてくる。

 灯りは程なくして火の玉ほどの大きさになり、それが自分の手にしているのと同じ、手燭のそれであると分かる。

 やがて、ビアンキにとって見知った顔の持ち主が、息を弾ませながら走り寄ってきた。

 

「テセル導師。どうしたのだ、このような夜更けに」

 

 手燭を持ったまま器用な様子で膝に手をつき、息を整えた若者が、精気に満ちた笑みをビアンキに向けた。

 

「こんな夜更けにどうしたとはこちらの台詞です、ビアンキ先生。先生も、もうお若くはないのです。お一人でこんな山道を歩かれて、何かあればどうなさるおつもりだったのですか」

 

 微量の非難の込められたその言葉に、ビアンキは、会合が終われば迎えに行くから連絡をして欲しいと言っていた、テセルの言葉を思い出した。

 これは不味いことをしたと、一度へそを曲げると中々直らない弟子のことを思って苦笑が浮かんだ。しかし、もしも約束を覚えていたとしても、やはり自分は一人でここまで来ただろうと納得した。

 ビアンキは、満面に笑い皺を浮かべた表情で、言った。

 

「何かあれば、わしはそれを受け入れるだけのことよ。足を踏み外して沢に滑り落ちれば、そこに生える野草の肥やしとなって死ぬ。獣に襲われるならば、その獣の晩飯となって死ぬ。いずれにせよ、我が身はこの世で最も尊ぶべき、自然の循環のうちに戻るのだ。それだけのことではないか」

 

 いかにもヴェロニカ教徒らしいビアンキの言葉に、しかしテセルは眉を顰めた。

 

「先生。私を含めた、凡百の信徒であればそれもよいでしょう。しかし先生の背負われた職責は、それほど軽いものではございますまい。今、あなたがお隠れになれば、我らは何を頼りにこの混乱を乗り切ればよいのですか。今後は、ゆめ斯様なことを仰いますな」

 

 極めて厳しい調子の声であった。

 昔からそうなのだ。テセルという、若くして導師の地位を得た麒麟児が、ほんの小僧でしかなかった頃から、ビアンキは彼の面倒を見ていた。

 良く言えば一途な、悪く言えば融通の利かないところがある少年で、指導者であったビアンキを悩ませたりもしたものだ。

 だが、その小僧が成長し、これほどと思うような若者に成長した。

 ビアンキは、自分を先導して歩く、テセルの背中を見上げた。

 昔は、自分が守り、導く立場だったのだ。それが、いつの間にやら、守られ、導かれる立場になっている。

 時の流れは偉大なものだと、老人は密やかな笑みを零した。

 

「それにしても、お疲れでしょう、先生。今日もあの老人達は、いつもの調子だったのですか?」

 

 老人達、という言葉には、隠しきれない嫌悪が覗いている。

 ビアンキは、若人の血気を窘めるように言った。

 

「立場を弁えよ、テセル導師。あの方々はヴェロニカ教を束ねる老師であり、わしの先達なのだ。直接お前が指導を頂いたことがなくても、紛れもない大先輩である。そのような物言いは無礼であろう」

「これは失言でした。以後あらためますので、どうかご寛恕を」

 

 そうは答えたが、テセルの言葉に反省の色は見られない。それほどに、彼は、ビアンキ以外の老師連中を毛嫌いしていた。 

 テセルは、幼い頃からビアンキのもとで修行を積み、導師の位階を得てからもビアンキの下で働いている。自分はビアンキの一番弟子であるという自負もある。

 ならば、そのビアンキに対して狭量で非礼な振る舞いを繰り返し、そのような自己を省みることも出来ない他の老師連中など、どうして容認することができようか。

 あれらは、正しく取るに足らない存在であると考えている。

 そして、ビアンキは、テセルの気持ちを重々承知しており、若者の心遣いを有り難いものと思いつつも、しかし自分への依存の強さに危機感も感じるのだった。

 ビアンキは、肩の辺りが急に重たくなったような気がして、ふと、辺りの風景に目をやった。

 そして、老人は、足を止めた。

 

「……どうされましたか、先生」

 

 テセルが振り返ると、ビアンキは、茂みの方に目を遣り、ぼうっとそこを眺めている。

 訝しく思い、足早に近寄る。

 

「そうか、もう、カラの実る時期なのだなぁ」

 

 ビアンキは、魂の抜かれたような声で呟いた。

 テセルも、ビアンキと同じ草むらに目をやった。

 実を付けたばかりの青々とした植物が、寒々しい山肌一面に群生していた。

 夜へと染まりつつある冷たい風が、月明かりに照らされた草の海を、ざわざわと波立たせている。撓わな幼実を付けた穂が、一度風が吹く度に腰を折っては、いかにも億劫そうに頭を持ち上げる。

 テセルにとっても、見慣れた草である。

 草の名を、カラといった。

 気温の変化に強く、並大抵の干ばつや多雨程度にはびくともしない、生命力の強い植物である。それ故、亜寒帯から熱帯に至るまでの広範囲に生息域は広がっており、この星のどこでもカラの群生している光景を見ることができる。

 夏を過ぎ、初秋になると、麦に似た実を大量につける。その豊かな実りは、鳥や虫をはじめとした多くの野生動物にとって貴重な食料となる。そして彼らが運ぶ種子は遠く離れた場所で地に落ち、芽を出し、根を張り、次の秋には再びいっぱいの実をなす。

 この星の生態系の根幹を形作る植物といっても過言ではない。

 そして、この星でカラを口にしない生き物は、ただ一種類だけ。

 

「本当だ。しかし、カラとは高地でも育つものなのですね」

 

 テセルは、感嘆のこもった調子で呟いた。

 カラという植物は、もっと標高の低い、平野の川沿いなどに良く生えるものではなかったかと思う。このように標高の高い、しかも切り立った山肌には、もっと相の異なる植物が優勢なのではないのだろうか。

 直弟子の驚いた様子に、ビアンキは相好を崩した。

 

「カラは、この星のどこにでも育つ。秋に霜が降りるような寒地から、砂漠の一歩手前のような荒野まで。高山、湿地、海岸……。無論、それぞれ微妙に品種は異なるが、全てカラの仲間だ。そして、全ての動物にその実を喰らわせ、この星の豊かな生態系を支えている。これは、そういう植物なのだよ」

 

 ビアンキは、風に遊ばれるカラの穂を、愛おしげに眺めた。

 

「もう少しして穂が熟すと、種子は自然と地に落ちる。それを拾い集めて、粉に挽いてやってパンを焼くと、びっくりするほど美味しい。味は麦に似ているが、香ばしさや甘さが、一段と奥行きのあるような気がしたな」

「老師、それは、栽培されたカラのこと……でございましょう?」

「いや、今、我らの目の前にあるように、ヴェロニカの大地と風に育まれた、野生のカラよ。野生のカラには、人の手を加えたカラとは違い、どこか力強さがある。特に、酒にするとその違いが如実に分かったものだ」

「し、しかしそれは……」

 

 狼狽したテセルの声に、老人は笑顔で問うた。

 

「重大な戒律違反ではないか。そうだろう?」

 

 テセルは、青ざめた面持ちで首肯した。

 ビアンキは、微笑みながら頷いた。

 

「そのとおり。だがな、我らが回帰祭と呼ぶ祭りの、最初の趣旨は、カラのもたらす豊かな恵みに感謝を捧げることにあった。大地の恵みに感謝し、人も自然の一部であることを噛み締め、その恵みを有り難く頂く。祭り囃子の中、香ばしく焼けたパンと、芳醇なカラ酒の匂い。ああ、今は、そんなことすら禁じられてしまったのだな。思えばなんともつまらない世の中になったものよ」

「今は……と、仰いますと……?」

「野生のカラを口にすることが禁じられたのは、極々最近のことだ。そうだな、この国が共和宇宙に加盟する、少し前のことだったのではないかな?」

 

 それは、三四半世紀ほども昔の話である。

 昔。そういってしまえばそうなのだが、ヴェロニカ教の歴史そのものから考えれば、昨日のことと言っても過言ではないほどに現下のことである。

 その時点まで、この惑星では、自生する植物の採取が禁じられていなかった、ということか。

 テセルは、我が耳を疑う思いであった。

 

「そう……なのですか?」

「わしが、テセルよ、今のお前ほどの歳の頃のことだ」

 

 いまだ而立に至らぬ青年の導師は、納得しかねるような様子である。

 無理もない、とビアンキは思った。

 

「誰も、教えてくれなかったか?」

 

 テセルは機械的に頷いた。

 

「そうだろうなぁ。今思い返してみても、当時の混乱は凄まじいものがあった。この星に住む全ての人間は、今の今まで当然の如く受け入れてきた行いが、ある日突然に、神の栄光を汚す罪悪だったと宣告されたのだ。ほとんどの人間は容易に納得はしなかったが、しかし同時に恐怖した。己が今まで、どれほど深い業罪を拵えたのかと、恐れおののいた。であれば、わざわざ己の罪の深さを、我が子や他人に伝えようものか」

 

 テセルは、ごくりと唾を嚥下した。

 

「そして、お主達のような若い世代には、カラを含めた全ての自生植物を口にすることが罪であるという教育が施される。そうすれば、知識や伝統など、いとも容易く書き換えることができるのだよ」

「それは……教義が改竄されたと、そういうことですか?」

「身も蓋もない言い方ではあるが、つまりはそういうことだな」

 

 ビアンキは、気のないふうで言った。

 しかし、初めてそれを聞かされたテセルは、平然としていられようはずもない。青天の霹靂と言い表して、なお不足なほどの衝撃を受けた。

 唇を戦慄かせながら、口を開いた。

 

「あの……老師。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 

 ビアンキは、無言で頷いた。

 

「その……私の学んだヴェロニカの教えでは、動物性タンパク質、そして自生する青果の全てを口にすることは許されざる罪であると、そう記されておりました」

 

 それは、この星に住む人間であれば、よちよち歩きの幼児ですらが知っている、ヴェロニカ教の一番基本的な教えである。

 テセルは続ける。

 

「そして、人間は自然の循環に立ち入らず、自然からの略取を厳に慎む。では、野生のカラを口にすることは、どうして罪とされなかったのですか。人が地に落ちたカラの種子を口にすれば、その分だけ、野の虫や獣は飢えて死ぬことになりましょう。来年に芽を出すカラが減ることになるやも知れません。ならば、これが戒律に触れること、明々白々だったのではないでしょうか。どうして当時のヴェロニカ教徒は、何の疑いもなくカラを口にできたのか、私などには不思議でたまりません」

「おぬしの言うことは一々尤もよ。実のところ、あの頃でも、皆、カラを口にすることが破戒に当たるのではないかと、内心で畏れてはおった。だからこそ、これほど早く新たな教えが徹底されることになったのだろうが……」

 

 老人は、遠い目をして彼方を見遣った。

 遠い昔、彼の足が、野原を飛ぶように駆けることの出来た頃。遠くに見える我が家、その煙突から立ち上る白い煙に、今日の食卓に並ぶであろうご馳走を想像してわくわくしていた、あの頃。

 初秋になれば、黄金色に色づいたカラの稲穂が、今が食べ頃だというふうに頭を垂れる。鳥も虫も、長く苦しい冬に備えて、お腹いっぱいに大地の恵みを味わう。

 そして、人間も。

 無論、他の生き物を押しのけて、全ての恵みを独り占めするのではない。それは、ヴェロニカ教の教えに反する、恐るべき愚行だ。

 だから、ほんの少しだけ。ほんの少し、神様のくれた偉大な恵みのおこぼれを、ありがたく分けてもらう。

 それが、この星の、当然の生活であった。

 若者は、老人の、澄み切った瞳の奥を、じっと見つめていた。

 

「教義が書き換えられる前はな、カラは神よりの授かり物とされておった。他の動植物を口にするのは罪であるが、この星を潤すカラという植物だけは、自然も人も、分け隔て無く口にしてよいとされておったのよ」

「……ならば、我らの祖先は、この星の動物や、自生する植物を、平然と口にしていたのですか?」

「それは、わし自身もな」

 

 老人は、確固とした様子で頷いた。

 

「軽蔑するかね?」

 

 テセルは、咄嗟に開いた口を震わせ、しかし何事も話すことが出来なかった。

 ビアンキは、笑った。

 

「正直者だな、おぬしは」

「も、申し訳……」

「よい。もしもわしとお主が反対の立場であったとすれば、おそらくはわしも、今のおぬしと同じように考えたであろう。気にすることはない」

 

 老人の言葉に、しかしテセルは肩を落としている。

 それが、ビアンキに対する失望からなのか、それとも自己嫌悪からなのかは、分からない。

 

「だが、誤解して欲しくないのは、我らとて、他の星々の民と同じように自然から無制限に搾取したわけではないということだ。我らは、誓って獣の肉は口にしなかった。獣の乳は口にしなかった。カラをはじめとしたいくつかの植物を除いて、野の草木を口にすることもなかった。それは、どれほど時代が移り変わろうと、守り続けなければならん。人が、この星で生きていく以上は、な」

 

 天を見上げた老人が、囁くように言った。

 誰に言い聞かせているわけではない。ただ、自分にだけ言い聞かせていたのだ。

 

「……先生。もう一つ、質問をお許しいただけますか」

「よいぞ。おぬしらしくもない。今更何を恐れる必要があるか」

「私がこの世に生を授かる前、ヴェロニカ教徒が、ある種の野生植物を口にしていた。それはよいのです。しかし、どうして他の星の宗教にはそういった思想が生まれることはなく、このヴェロニカ教にだけそのような教えが生まれたのでしょうか。そして、どうして教えが途中で変わり、全ての野生植物の摂食が禁止されるに至ったのでしょうか」

 

 テセルは、真剣な眼差しで問うた。

 

「ふむ」

 

 老人は軽く頷き、

 

「わしがその問いに答える前に、まず問おう。テセルよ、その質問に対して、おぬし自身はどのような解を持つ?」

「……私は、全ての野生動植物の摂食が禁じられているのは、それがヴェロニカの教えだから、としか学んでおりません。先ほども申し上げたとおり、そうすることで、人と自然との関わりを最小限に抑え、自然の循環と人の営みを切り離すのだと。それが、ヴェロニカ教徒の勤めであると」

「では、その教えが、ヴェロニカ以外の手によって改変されたことについては?」

「そのことについては何とも……。今の今まで、私が学んだ教えこそ、聖女ヴェロニカの教えであると確信しておりましたがゆえ」

 

 青年は、困惑に満ちた視線で答えた。

 

「テセル。わしはおぬしの問いに対して、解を持っておる。おそらく、この世で最も正しい解だ。しかし、それをおぬしに授けるわけにはいかん」

「先生、それは……?」

「偶然か必然か、今のおぬしが口にした問いの解は、そのままヴェロニカ教の秘奥と同義なのじゃよ。それは、導師の位階の者が知って良いことではない。ただ、老師だけが知ることを許される……」

 

 ごくりと唾を飲み込む音が、静寂に響いた。

 

「ただ、考えるのは自由じゃ。だから、考えよ。どうしてこの星にヴェロニカの教えが根付き、そして今に至ったのか。それが何を意味しているのか。考えて考えて、考え抜くがよい。おぬしならば、遠からず正しい解を導き出すことも叶おう」

 

 ビアンキの言葉に、テセルは頷かない。

 手燭を掲げたまま、じっと、彫像のように固まっている。

 ビアンキが、訝しく思い、口を開こうとした、その瞬間である。

 テセルは、突然に手燭を彼方へと放り投げて、地に膝をついた。

 

「如何いたした、テセルよ」

「先生。いえ、ビアンキ老師。どうか、どうかお願いします。どうか、今、この場で、私に、ヴェロニカ教の奥義を授けて頂きたい!」

 

 テセルは、ビアンキを見上げながら、切羽詰まった声で続ける。

 

「わたしは、この世界の真理を見極めんがためにヴェロニカ教の門戸を叩き、ヴェロニカの教えに帰依いたしました。しかし本懐未だ至らず、霧の中を泳ぐような日々を過ごしております。このままでは、遠からず私は道を失い、教えの何たるかを忘却してしまうのではないかと、それが一番恐ろしいのです。加えて、このような心持ちで、導師として、他の信徒を教え導く大責をこなせるとは到底思えません」

 

 テセルは深く頭を垂れ、地面に額を擦りつけた。

 

「身の程知らずであること、増上慢であることは重々承知しておるつもりでございます。しかし、どうか、どうか私に奥義を授けてください。もとより私は、ヴェロニカ教の明日のためにこの身を捧げる覚悟は出来ております。どのような苦行にも耐えて見せまする。ですから、どうか、どうか奥義を!」

 

 ビアンキは、若者の分不相応な願い出に、怒りを感じたりはしなかった。

 今、地に額を擦りつけて、奥義の伝授を乞い願う若者がいる。

 老人の胸中を灼いたのは、深い悲しみであった。

 ビアンキは、知っている。その若者がどれほど真摯にヴェロニカの神に仕え、学んできたかを。そして、若者の心根がどれほど誇り高いものであり、このような願い出をすることにどれほどの羞恥を感じているのかを。

 何故、老人は、若者の真意を理解できたのか。それは取りも直さず、今の若者の姿こそ、ビアンキという老人が辿ってきた道程であったからに他ならない。

 彼自身、師匠に対して幾度も幾度も頭を垂れた。そして、ヴェロニカ教の奥義を伝授してくれるよう、執拗に迫った。

 師匠は、一度だってビアンキを叱らなかった。ただ、優しい声色で、若者の逸る心を窘めたのだ。

 若かりし日のビアンキは、師匠の考えが理解できなかった。

 自分は優秀であり、どこまでも高く飛ぶことが出来ると思っていた。であれば、ヴェロニカの奥義を早い時期に知ることが出来れば、それを足がかりとすることで、より高みに、今まで誰も立ち入ることの出来なかった真理にまで手が届くかも知れないではないかと、そう思っていた。

 いや、自分ならば出来ると確信していた。

 奥義を授けてくれない老師連中は、自分の才覚を嫉妬しているのだと、そう思い込んだ時期もある。自分以外の全てが、自分の足を地に繋ぎ止める鎖に過ぎないのではないかと、そう思い込もうとした時期もある。

 ビアンキは、ほろ苦いというには幾分棘の鋭い感情で、己の半生を眺めていた。

 そして、おそらく、目の前の若者も同じことを考えているのではないだろうか。

 今になって、理解した。あの時の師匠は、なんと深い愛情と、同じく深い悲しみをもって、己に接してくれたのだろう、と。

 

「テセル、頭を上げよ」

 

 ビアンキは膝を折り、テセルと同じように地に座した。

 

「老師……」

「おぬしの気持ちは良く理解した。そして、おぬしにこそヴェロニカ教の奥義を授かる資格のあることも」

「では……!」

 

 ビアンキは、テセルの輝かしい顔の前に、皺だらけの掌を掲げた。

 

「だからこそ、おぬしには、この日この場で奥義を授けることはできぬ」

「……それは、何故ですか?」

「その理由を話すことも叶わぬ。だが、わかってほしい。わしは、おぬしが憎くてこのような振る舞いをするのではない。そして、老師や導師といったくだらぬ階位の差を理由として、おぬしに奥義を伝授するのを拒むわけでもないのだ」

「……」

「おぬしは、本当にわしによく似ておるよ。若くして導師の位階を授かり、それ故に悩み、苦しんでおる。真理を、ヴェロニカ教の奥義を授かれば、道が開けると、そう思っておるのだろう」

 

 青年の無言は、そのまま肯定と同義である。

 

「だが、その懊悩は、全ての人間が、ただ己の力をもって切り抜けるべきものだ。それは、おぬしのように才覚溢れる者であっても変わらぬ。だからこそ、おぬしが一足飛びに解を得れば、その解の価値に気が付かず、更なる苦悩を抱え込むであろう。これは、決して年寄りの冷や水だとは思わず、どうか真剣に心に止め置いて欲しいと乞い願う」

「……わかりました。もとより、私如き若輩には許されぬ願いだったのです。先生、どうか忘れてください」

「いや、少しでも己を高めようというおぬしの心根は、同じヴェロニカ教へと身を捧げた者として心強く思う。さぁ、立っておくれ。おぬしの手燭は燃えてしまったからな、わしのものをあげよう。そして、わしを導いておくれ」

 

 テセルとビアンキは同時に立ち上がった。

 そして、ビアンキは己の手燭をテセルに手渡し、先を行く若者の歩みを追った。

 

「テセルよ。わしはおぬしにヴェロニカの奥義を伝えることはできぬ。だが、一つだけ覚えておいて欲しい。ヴェロニカの教えに限らず、この世には不変のものなど、何一つ無いということを」

 

 先を行く若者の首が、縦に振れた。

 

「無論、承知しております」

「ならば良い。生き物も、ことわりも、星も、宇宙そのものも、時の流れに逆らうことは叶わぬ。全て、己の来し方と行く末に応じて、その姿を変えていくものよ。そして、それは何ら恥じ入るべきものでもなければ、忌まわしいものでもない。寧ろ、はじめのかたちに固執し、如何なる変化をも受け入れぬ存在をこそ、わしは忌まわしいと思う。恐ろしいとすら思うよ」

「……」

「わしの老い先は、それほど長くはあるまい。無論、他の老師や、長老も。であれば、次代のヴェロニカ教を担うのは、おぬしだテセル。だからこそ、来るべき変化を恐れないでおくれ。ヴェロニカの教えが時代とともに移ろうことを、忌避しないでほしい。それは、そうあることを求められて、そうあろうとするものなのだから」

 

 若者は、一度も振り返らなかった。

 ビアンキは、ぐるりと辺りを眺めた。

 美しい、この宇宙で最も美しい自然の調和を保った、ヴェロニカの風景だ。少なくとも、老人はそう確信していた。

 この風景が、いかなる信条のもとに守られたものであったとしても、その結果だけは尊いものではないか。それだけは、誇ってもよいのではないか。

 老人はそう自分を納得させて、山道を下っていった。

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