懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第五十話:悪夢、現実、悪夢

 ビアンキは、寝台に横になり、天井を見上げていた。

 先ほどの、テセル導師との会話を思い出し、自分がどれだけ悟ったふりをしていたのかを省みて、破顔した。

 くつくつと、恐ろしい声で笑った。

 それは、皺に埋もれた、凄烈な声であり、笑みだった。

 もう、笑うしかない。全てを切り捨て、全てを諦めて、それでもただ一つを目指した人生の終着点が、こんなものか。そして、そんな人間が、未来ある若者に対して、あれほど偉そうに説教をするとは。

 滑稽だ。滑稽だ。

 自分は、かの女性に言った。己の背負った荷物を、奪わないでくれ。己をただ朽ちゆく肉にしないでくれ、と。

 だが、老人は知っていた。己の背に、もはや荷など負われていないことを。己の肉に、もはや一片の意味すら刻まれていないことを。

 引き返すタイミングならば、いくらでもあったのだ。全てを詳らかにし、世に真実を伝えることもできた。ヴェロニカの教えの真実を知らしめて、今のヴェロニカ教の虚構を伝えることも。

 自分ならばできた。よしんば不可能だったとして、そのために腰を持ち上げることは、事の成否に関わらず、個人の度量の範囲内だ。

 

 そして、自分は何事もなさなかった。

 

 何事もなさず、全てに見て見ぬふりを決め込み、無数の荼毘を見送った。

 白い煙は、全てこの星に住む、ヴェロニカの教えに身を捧げない人々の死体から立ち上っていた。

 異教徒の、肉の煙だ。

 寿命を迎えた人間は、ほとんどいなかった。ほとんどは、年若い人たち。故郷に家族を残し、仕事で、あるいはやむにやまれぬ事情があってこの星に移り住んできた人達だ。

 彼らは、ヴェロニカの教えに頭を垂れなかった。

 肉を食うな。野生の植物を食べるな。自然からのいかなる収奪も慎み、人はその循環に関わるな。

 それがヴェロニカ教の根幹である。

 およそ、共和宇宙に住む大多数の人間の価値観にはそぐわない、異端の教え。

 入信は容易いだろう。しかし、一生をこの教えに従うことのできる人間が、外にどれだけいるものか。内側にだって、教えを捨てる者はいくらでもいるというのに。

 そして、彼らは死んだ。

 余人は、陰で彼らを嘲笑っていた。ヴェロニカの慈愛を踏みにじった罰だと。当然の天罰であると。外の人間の立ち入らない酒場の席で、ジョッキをぶつけながらその死に乾杯した。その不幸を肴にして大いに盛り上がり、笑い、歌を歌った。

 中には、彼らの死でヴェロニカの大地が汚れると、死体を宇宙に放擲するべきだと放言する者もいたのだ。

 なんのことはない。広く共和宇宙に、慈悲と寛容の宗教として知られるヴェロニカ教の、真実の姿がそれだ。

 であれば、昨今のこの星の状況は、十分に理解の範疇である。

 今までは、巧みにそれを糊塗していただけのこと。そしてあの男は、醜女の分厚い白粉をはがしてのけたのだ。そうでなければ、どうしてたった一年に満たない時間で、これほど世情が乱れるものか。

 面従腹背。微笑みながら余所者を受け入れて、しかし自分たちの仲間にならないと知ればいとも容易く切り捨てる。

 は虫類じみた冷血さ。

 しかし彼らも、ヴェロニカ教の真実は知らない。

 そもそも、一つの惑星に住む数億の人間が、単一の宗教を信奉しているという異常にどうして誰も気がつかないのか。

 遠い昔、人類が惑星の上を、己自身と馬の足で征服するしかなかった時代。死と暴力を用いて信仰を強制した古代宗教ですら、ついに世界の宗教的統一は為し得なかった。

 にもかかわらず、この惑星ヴェロニカではそれが為し得ているという事実。それも、ただの一度の暴力も、拷問も、脅し文句さえ使わずに、だ。移民を分け隔て無く受け入れ、入門を強制せず、教えを捨てた人間を罰することもないというのに。

 それでも、この星にはたった一人の神しかいない。

 この星には、他のいかなる神の威光も、届かない。

 

 なぜなら、この星の上に、ヴェロニカの神に跪かない人間の生きる場所は、存在しないからだ。

 

 みんな、死ぬ。

 異教徒は、死んでいく。

 ばたばたと、死んでいく。

 赤子も、老人も、女も、男も、金持ちも、貧乏人も、聖者も、人殺しも。

 死んで、死んで、死んでいく。

 誰も生き残らない。

 誰が手を汚すわけでもない。

 誰しもが、人知れずに死んでいく。まるで寿命を迎えた猫のように、いつの間にか姿を消し、そして記憶からも消え去って。

 残るのは、ヴェロニカの教えに身を捧げた信徒達だけ。

 だから、この星に神は一人しかいない。

 誰も、そのことに気がつかない。己の群れから外れた人間の死を、悲しまないからだ。それを当然と思うから、この星の真実に誰も気がつかないのだ。

 無関心だ。

 この星に巣くう恐るべき魔物に名前を与えるならば、きっとそう名付けられる。

 この星の真実。そして、ヴェロニカの教えの奥義。

 誰も知らない。気がつかない。

 だが自分は、知っていた。全てを知っていた。

 知っていて、何も為さなかった。何を為そうともしなかった。

 ただ、何も為さなかった師を習い、それを言い訳に、あるいは拠り所に、瞼を下ろし、耳を塞ぎ、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。

 その結果が、この有様である。

 自己の内側には虚無だけが残り、外面は老いと疲労に朽ちかけ、そして何も残らない。

 今や遅しと倒れるのを待つ、枯れ木のように。

 老人が願うのは、全ての終わりであった。

 それが自分の終わりであっても構わない。己が人生を捧げた教えの終わりでも、構わない。この星の終わりであっても構わない。

 もう、全てが億劫であった。

 だから、ビアンキは目を閉じていた。

 いつの間にか垂れ落ちた瞼が、彼を眠りの世界に誘う。

 予感が、あった。

 最近は、馴染みとなった悪夢を見る、予感である。

 深い深いどこかへと、ひたすらに落っこちていく、夢。

 それが、今日は少し違った。

 真っ暗闇。

 見渡す限りの、深くねばっこい闇の中。

 ビアンキは、必死で逃げていた。

 暗い、暗い道を、必死で走っている。

 いつの間にか痩せ衰えた足腰が、驚くほど軽快に、地を駆けている。

 夢の中の老人は、老人ではなかった。だが、若者というほどではない。

 壮年の、全ての奥義を師から伝授され、苦悩に塗れた日々を送った、年の頃。

 全てを為すには年を喰い、全てに無視を決め込むには若すぎた、年の頃。

 老人ではなくなったビアンキは、駆けた。その、懐かしい感動に気がつくでもなく、あまりの恐怖に手足を泳がせながら駆けていた。

 背後から、何かが近づいてくるのだ。

 周囲の濃密な闇を押し返すほどに光り輝く、炎と溶岩を纏った何か。

 それは、きっと恐ろしいものだ。

 自分を押しつぶし、焼き尽くし、どろどろに溶かすものだ。

 自分という存在を、完膚無きまでに殺し尽くす、何か。

 そんなものに追い立てられて、ビアンキは必死に走った。ふわふわと頼りない地面を、水の中みたいに弾力質な空気の中を、藻掻きながら走った。

 振り向いてはいけない。

 振り向けば、目を焼かれる。

 だから、老人は走った。後ろにいる何かの、光の及ばないところに向かって。

 くらいところ。くらいところ。

 じめじめとして、肌寒くて、自分以外の立ち入る隙間のない、みっしりとしたところ。

 ビアンキは、虫のように逃げた。冷たくて重たい石の裏を探して。

 いつしかビアンキは、無数の足を動かしていた。

 ビアンキは、おぞましい虫になっていた。

 かさかさと這いずりながら、石を探す。後ろから、重々しい足音とともに、何か大きな存在が追いかけてくるのだ。

 捕まえられれば、自分は殺される。昨日だって、一番仲の良かった友人が、無慈悲な靴底で踏みにじられて殺されたのだ。

 自分たちは、醜い虫けらである。その認識が、無数の脚を動かすビアンキを、いっそう惨めにさせた。

 虫は、複眼の瞳に涙をにじませながら蠢いた。

 不公平だ。どうして自分たちだけが、こんなめに遭わなければならないのか。自分たちは、何一つ悪いことをしていないのに!

 

 ああ、そうだ。

 私は、何一つ悪いことをしていない。

 何も、何も為さなかったのだ。

 何一つ、悪いことすらも、しなかった。

 

 だからこんなに追い立てられている。こんなにも必死で逃げている。

 恐ろしい。背後から追いかけてくるのは、きっと自分だ。自分が、自分を踏みつぶすために追いかけてくる。

 老人の虫は、きぃきぃと耳障りな鳴き声をあげて、必死に命乞いをした。

 だが、足音は止まってくれない。むしろ怒りに火を注いだみたいに、ますます勢いを増していくばかり。

 ビアンキの心を、真っ黒な絶望が覆っていく。

 もうだめだと、これでおしまいだと。

 足音はいよいよ、背中のすぐ後ろまで差し迫ってくる。地面を揺るがすその音が鳴り響くたびに、ビアンキの、外骨格で覆われた小さな体が宙に浮き上がる。

 それでも、ビアンキは必死に蠢いた。

 キチン質の脚を動かし、いくつもの節に分かれた胴体をくねらせて、触覚をぴくぴくと振りながら、必死で逃げた。

 そして、見つけたのだ。闇と闇の間に、ちょうど自分の体を滑り込ませられるような、小さな隙間を。

 虫は、歓喜した。

 これで最後とばかりに、必死に脚を動かした。

 足音は、もはや耳を直接叩かんばかりになっている。

 あまりの恐怖に崩れ落ちそうになる膝を、ほとんど無理矢理に奮い立たせて、最後の力を込めて裂け目に向かって飛び込む。

 するりと、最初から定められていたかのように、虫の体は裂け目にぴたりと収まった。

 無限の安堵が、虫を包む。

 涙を流しながら、ほう、と溜息を吐き出したとき。

 いつの間にか、ビアンキは老人に戻っていた。

 それだけではない。

 あの、闇と闇の裂け目が、虫となっていたビアンキを包み込んでいた隙間が、いつの間にか紫の豪奢な法衣に変じていた。

 ビアンキは、紫の法衣を纏っていた。

 それは、ヴェロニカ教の、老師と呼ばれる階位の者だけが身に纏うことを許された、高貴な法衣である。

 ビアンキは愕然として、振り返った。

 振り返った先に、光は無い。

 だが、光よりもなお輝かしい、黄金に染まった瞳の女性が、佇んでいた。

 佇み、無言で、ビアンキを見ている。

 紫の、至高の法衣を纏ったビアンキを、じっと見ている。

 老人は、恐怖の叫び声を上げた。

 狂ったように、それとも事実として狂いながら、叫び声を上げていた。

 怖かった。その女性の、視線が。自分を、信用に足る人間だと言ってくれた女性の、確固とした視線が、どんな化け物よりも恐ろしかったのだ。

 声を限りに叫び、手足をばたつかせて這うように逃げたビアンキ。

 いつしか、赤毛の女性はどこかへと消え失せた。

 ビアンキは、魂丸ごと抜け落ちたように座り込んでいた。

 そうだ。

 背後から追いかけてきたのは、あの女性だったのだ。

 とても大きな女性であった。それは体格も、精神も、何よりも魂そのものが。

 ビアンキは、その光輝に瞳を焼かれ、そして立ち上がる気力を根こそぎ奪われてしまった。

 闇に戻った暗闇の中で、ぽつねんと一人、荒々しい呼吸音だけを供にして、座りこけている。

 ビアンキは、一人だった。一人、自分の内側だけを見つめている。

 そこには、足場のない暗黒が広がっている。先ほど駆けた闇よりもなお濃い、暗黒。

 出口の無い、暗闇だ。いつから自分がここにいるのか、どうして自分がここにいるのか、老人には分からなかった。それを知るには、彼は暗闇に親和し過ぎていた。

 分かるのは、今、自分がここにいることだけだ。

 じっと一人、佇んでいる。思考を放棄しながら考えるふりをする、救いがたい阿呆のように。

 そうだ。もうずっと、自分はここにいる。

 この夢を見る前から。全てを知り、全てを為さなかった時から。

 もう、出口を探して彷徨うこともなくなった。何度も何度も、長い時間をかけて探したのだ。それでも見つけることができなかった。ならば、今更見つかるものか。

 端的に表せば,ビアンキは諦めてしまっていたのだ。

 目を閉ざし、足を止め、ひたすら終わりを待ち望む老人は、しかし微量の未練を込めて思う。

 

 もしも、もしも、この足がもう少し力強かったなら。

 もしもこの目がもう少し鮮明だったならば。

 

 自分はここにいなかったかもしれない。

 ここに暗闇は無かったのかもしれない。

 選ばれなかった選択肢は、宝石の如き輝きを放っているように思えた。

 選ばれた選択肢が、自分を責め苛むが故に。

 だから、この闇を生み出したのは自分だ。

 そして、暗黒に飲み込まれた。

 いや、そもそもここに暗闇はあるのだろうか。

 あるのだろう。自分が暗闇を認識するということは、ここに暗闇があるということだ。

 しかし、暗闇は、そこにあるものなのだろうか。何も無いから、そこを暗闇と呼ぶはずなのに。

 であれば、暗闇とはなんだ。何も無いはずなのに、何故それだけが、ここにあるのだ。

 知っている。自分は、それが何故か、何なのかを、知っている。

 

 私だ。

 ミア・ビアンキという人間が、暗黒そのものだ。

 私の中に広がるがらんどうの空間をこそ、暗黒と呼ぶのだ。

 私が、名付けたのだ。

 だから、暗黒があることを認識できる。なぜなら、私自身が暗黒そのものなのだから。

 私はいったい、何者なのか。

 幼き日より、ただ一つの教えに身を捧げ、己の身のうちに信仰を詰め込んできた。

 師を信じ、教えを信じ、神を信じ。

 

 全てを疑わず。

 

 肉を食わず、酒を飲まず、享楽を味合わず。

 

 全てを楽しまず。

 

 ひたすらに、一心に、

 

 ならば、私を形作るのは、ヴェロニカの大地に根付いた信仰そのものだ。

 私は、信仰だ。

 ヴェロニカ教だけが、私だ。

 だから、私は、暗闇なのだ。

 ヴェロニカ教を包み込む闇が、私そのものだ。

 いや、ヴェロニカ教に詰まった闇が、私そのものだ。

 私の内側には、何も存在しなかった。

 あれだけひたぶるに詰め込んできたはずの何物かは、私の内に沈殿し、内側から膨張し、私を圧迫し、いつの間にか消え失せて。

 何物かがあった場所には、ただ、暗黒だけが広がっている。

 私を構成していたはずの信仰は、いつの間にか暗闇へと姿を変えたのだ。

 今、信仰は、私の内に存在しない。外側より、私を責め立てるだけだ。

 

 やめてくれ、ゆるしてくれ。

 

 私の内には、何も存在しないのだ。

 がらんどうだ。風船人形だ。

 だから、こんなにも萎んでしまった。皺だらけになってしまった。

 

 朽ちてしまった。

 

 いつの間にか、老人の周囲を人間が満たしている。

 顔のない、人間の群れ。名前を失った人間は、もはや人間ではなく、ただ老人を苦しめる鏡でしかない。

 老人は、頭を抱えて蹲った。目を閉じ、耳を塞ぎ、駄々っ子のように首を振り。

 

 もう、構うな。

 

 突けば割れるぞ。触れなば砕けるぞ。

 そして、私の内側から、暗黒が漏れ出すぞ。

 暗黒が、何も無いが、この星を埋め尽くすぞ。

 いいのか。それでいいのか。

 ヴェロニカ教に封じられた暗黒は、この星を包み込み、人の心を喰い荒らし、この星を無人の荒野に帰すだろう。

 偽りより生まれたヴェロニカの教えは、本来あるべき場所に帰されるだろう。

 そして人々は、故郷を失い、流浪の旅へと還される。

 

 それとも、いや。

 

 ああ。

 

 そうか。

 

 それが、望みか。

 この世の運営を司る何か絶対的なものがいるならば、それが今の私を見ているならば。

 私のうちより全てを解き放つこと。この暗黒を、あるべき場所に帰すこと。

 ただ、それを望んでいるのか。

 そして、あの、光輝の女性を遣わしたか。

 私の暗黒を照らし出すために。暗黒のうちに隠れた、微小の私を照らし出すために。

 そうならば。もしも、そうならば。

 私は──。

 

「老師さま、老師さま」

 

 気遣わしげな声が、ビアンキの意識を浮上させる。

 肩を揺さぶられる感覚がどこか霞がかっていて、ようやく自分が眠っていたのだと理解した。

 眼球にへばりついて離れようとしない瞼をようやく持ち上げてみれば、薄暗がりの中、心配そうに眉根を寄せた少年僧がいる。変声期前のような高い声から、おそらく年の頃は13,4だろうか。

 寝台に体を起こし、ぐるりとあたりを見回せば、そこは自室の寝台である。

 

 ああ、そうだ。自分はここで眠っていたのだった。

 

 そう思い至って、ようやく老人は人心地をつくことができた。それでも、背中をべったりと濡らす冷たい汗は寝台までを重く湿らしていたし、心臓は早鐘よりもなお早く拍動している。

 悪夢を、見たのだ。せめてもの幸福は、そのほとんどを覚えていないことだ。

 だが、老人は何が自分に悪夢をもたらしたのか、その根本的な理由は十分に心得ていたのだから、胸を押しつぶすような悪寒は一向に休まることはなかった。

 そういえば、いつ自分はこの部屋に辿り着いたのか。眠りに落ちるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。

 いつの間にか、自分でも気がつかないうちに自室へと引き上げていたのだろうか。前後不覚の態に陥っても、そういうことはままある。泥酔した労働者の足が、持ち主の意志を無視して家路へと向かうように。人間にはそういう便利な機能があることを、老人は知っている。

 次に気になったのが、自分の意識を現実へと引き戻してくれた声の主だった。

 若々しい活力に満ちたその声の主は、自分の世話係を命じられた、馴染みのある少年のものではなかった。

 部屋の薄明かりの中を見上げてみれば、思ったよりも高い位置に顔がある。年齢の割には、背の高いほうなのだろう。中々に整った顔立ちで、線の細い頬には、不安と焦燥の色がたっぷりと浮いている。

 老人のぼんやりとした視線をどう受け取ったのか、恐縮しきった様子の少年が、若竹のようなほっそりとした体を縮めながら、口を開いた。

 

「無断で寝所に立ち入ったご無礼をお許しください。ただ、あまりにも苦しそうな声が聞こえましたもので……」

 

 少年は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。

 そうだ。そういえば、自分は眠っていたのだ。そんなことも、すっかりと忘れていた。

 緩慢な動作で体を起こした老人は、疲れた笑みを浮かべた。

 

「いやいや、どうして君が謝る必要があるものか。悪いのは廊下まで響くような声で寝ぼけていたわしのほうだ」

 

 ふと視線を向けた窓の外は、どこまでも深い闇に包まれていた。

 先ほどの悪夢で見た、彼岸の情景はどこにもない。無色の、暖かい闇に包まれている。その闇がどれほど醜い情景を覆い隠しているのだとしても、それが心休まる光景であることに違いはなかった。

 ビアンキは、安堵の詰まった溜息を吐き出していた。

 ああ、なんとも無様な。それとも、なんとも相応しい。

 少しだけ自己を取り戻した老人は、しわだらけの顔に、自嘲の笑みを浮かべた。

 

「やはりお疲れなら、何か薬を……」

「大丈夫。少し休めば元に戻る。それより、君こそこんな時間に起きていては明日に差し支えるのではないかな。そうだ、明日の朝の説法は、わしの割り当てだった。もしも寝坊で遅れたりしても、決して大目に見たりはしないからそのつもりでいなさい」

 

 ビアンキは、あくまで気安く、悪戯っぽく言い放った。

 だが、少年は返事をしなかった。にこりと笑いもしない。ただ心配そうに、人生の大先達である老人を見つめている。

 寝台からそれを見上げるビアンキには、少年の無垢の視線が、どれほど眩しいものに、そして痛ましいものに思えただろう。

 

「いつもわしの面倒を見てくれている子は、今日はどうしたのだね?」

 

 少年は、不安そうに言った。

 

「あいつ……いえ、彼は、今日は体調が悪いとかで、部屋で休んでいます。なので、同室の僕……いえ、私が、老師のお世話を仰せつかりました」

 

 ビアンキは、いつも自分の世話をしてくれている少年の、そばかすの散った顔を思い出していた。

 

「体調が悪いと言うが、大事はないのかね?」

「は、はい。お医者様は、ただの風邪だと……」

「それはよかった。では、部屋に戻ったら、彼に、ゆっくりと体を休めるよう言っておいてくれ」

「わ、わかりました!確かに伝えておきます!」

 

 しゃちほこばった様子をどうしても崩せないらしい少年に、ビアンキは、精一杯に柔らかい笑みを作って、話しかけた。

 

「君は、今年でいくつになる」

 

 それはそれは、優しい声であった。

 生涯不犯を貫いたビアンキは、もしも自分に孫か、それともひ孫でもいたとすれば、この少年の年頃だろうかと、埒もないことを思ったのだ。

 老師に初めて自分のことを尋ねられた少年は、相も変わらず緊張に総身を固めて、

 

「今年で14になります」

 

 若々しい声であり、姿であった。

 よく見れば、布でくるまれた少年の頭部から、一筋、淡い色の頭髪が零れ落ちている。

 出家した僧ではないのだ。在家の信者がその子女を、教育の一環として短期の修行に出すのは珍しいことではない。

 

「君のご両親はご健在かね?」

「はい。お父さんもお母さんも、元気です」

「兄弟は?」

「妹が二人います。上は今、断食修行の真っ最中で……。いつも電話で、お腹が空いたお腹が空いたって泣き言を言ってます」

 

 そうか、それは大変だ、とビアンキは頬を僅かに持ち上げた。

 ごくごく普通の、この星ではありふれた家族だった。

 教えを守り、よく働き、家族を大切にする。

 ビアンキの胸を、暖かいものが満たした。もしもヴェロニカの教えが彼らを幸福にしたのならば、自分にも何か、果たせた役割があったのかもしれないと思えたのだ。

 たとえ幻想であったとしても、今の老人にとって、藁よりも確固として暖かいものであった。それを掴んだとして、誰が彼を非難しうるだろうか。

 ビアンキの、枯れ枝のような掌が、腰を折った少年の頭に乗せられた。

 

「神が君に与えたもうた中に、家族よりも大切なものはないことを知りなさい。そして、君は全てをかけて彼らを守らなければならないことを」

 

 ぽかんと丸くなった少年の瞳に、喜色が浮かんでいく。

 頬を紅潮させて、少年は頷いた。

 

「はいっ!」

 

 元気の良い返事に、老人は目を細めた。

 

「良い返事だ。では、夜が明けて説法の時間になったら、もう一度来てくれるかね。一応は時間に起きるつもりだが、老師が寝坊したとあっては示しがつかないから、念のため」

 

 ビアンキの下手な冗談に少年は笑みを零しかけたが、すぐに生真面目な表情を作った。

 一礼し、部屋から退出していく。

 その後ろ姿を見送ってから、ビアンキは再び寝台に横になり、肺に詰まった空気の全てを吐き出すような、重たい溜息を吐き出した。

 ビアンキは、まんじりともせずに天井を見上げていた。何のことはない、目を閉じるのが恐ろしかったのだ。

 目を閉じた後に見える暗闇が、どうしても恐ろしかった。

 こうして天井を見上げていれば、いずれ睡魔が襲ってくるだろう。睡魔に犯された脳髄ならば、恐怖とは無縁のままに眠りの世界へと旅立てるはずだ。

 ビアンキは、闇夜に震える幼子よりも臆病な心持ちで、ただただ自分が消え失せる瞬間を待ち望んでいた。

 音の無い部屋に、時計の秒針の音だけが響いている。

 どれほど時間が経ったのか。

 ビアンキが我知らずに目を閉じて、うとうととし始めた頃合いである。

 物々しい声が、壁の向こう側から聞こえてきた。

 

「……あの、老師さまは、今、就寝なされたところで……」

「おまえのような者の意見は聞いていない。さっさとそこをどけ」

「しかし、老師さまはは本当にお疲れのようでして……。何かご用なら、翌朝でも構わないではありませんか」

「さっさとどけと言っている。これ以上聞き分けがないと、貴様のためにもならんぞ」

 

 言い争う人間の声。片方は若さと義憤に燃え、片方は他者を見下す傲慢さに満ちていた。

 平穏を尊ぶヴェロニカ教の総本山では、常ならばあり得ないことである。

 

「か、帰って下さい!そもそも、老師さまのお部屋をこのような時間に訪れるなど、無礼ではございませんか!」

「やかましい、どけ、小僧!」

 

 ごん、と、固いものがぶつかる音がして、直後、少年の力ない悲鳴が聞こえた。

 そして、つまらないものを睥睨する声。

 

「まったく、手間をかけさせやがって……仕方ない、おい、この小僧も一緒に連れて行け。あまり騒がれると面倒だ」

「はっ、了解しました」

 

 流石に訝しんだビアンキが目を開けると、少年の手によって閉じられたはずの扉が、乱暴に開け放たれる光景が飛び込んできた。

 居丈高な足音が、静謐だった部屋に立ち入ってくる。

 部屋の照明が、ビアンキ自身以外の手で点けられた。

 眩しさに手庇しつつ、体を起こしたビアンキの前に、数人の、屈強な体格を誇る男が並んだ。

 

「ミア・ビアンキ老師ですな」

「そのとおりだが、君たちは何者だ。そして、何用があってこのような時間、わしのもとを訪ねたのだね?」

 

 無表情に、ビアンキの言葉を聞いた男達。

 そのうちの一人が、一枚の紙をビアンキに突きつけながら、高らかな口調で言った。

 

「ミア・ビアンキ。あなたを、アーロン・レイノルズ大統領の殺害を企てた罪および、ヴェロニカ共和国に対する国家反逆の罪で逮捕、拘禁する」

 

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