懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第五十一話:奥義

 両側を屈強な捜査員に固められて、ビアンキは、車の後部座席に座らされていた。

 表情を消して、ぼんやりと、フロントガラスの向こうを眺めている。

 真っ暗な道を、吸い込まれるように、車は進んでいく。時折対向車がすれ違い、そのライトが目に眩しいくらいで、あとはずっと、夢の中を走るような道行きだ。

 まるで、あの悪夢のような。

 老人の枯れた頬が、笑みの形を作った。

 

 あれから、総本山のごく一部は、蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。

 ヴェロニカ教の最高指導者である老師全員が、逮捕されるという前代未聞の不祥事。そして、その罪というのが、現ヴェロニカ共和国大統領であるアーロン・レイノルズに対する殺人予備罪及びヴェロニカ政府に対する国家反逆罪である。

 もしもこれが事実であるならば、ヴェロニカ共和国の刑法典に照らせば、極刑に処せられても不思議ではない程の重罪だ。騒ぎ立てるなと言うほうが無理である。

 老師逮捕の事実は、極々少数の、高位の導師たちにだけ伝えられた。

 ヴェロニカ教総本山には高度な自治権が認められており、司法警察の立ち入りについても、老師の過半数以上の賛成があれば立ち入りを拒むことができる。しかし、今回はその老師のほとんどに対して逮捕令状が出されていたため、とりあえず導師には子細を伝えることで筋を通したらしい。

 この場合、果たして導師たちが全会一致で立ち入りを拒んだとして、警察の介入を阻止できたかは甚だ疑問であるが、現実にはそのような事態は起こらなかった。

 それというのも、現ヴェロニカ教指導陣のうち、導師以下の階位の者にはアーロン・レイノルズ大統領の改革路線を支持する者がかなりの割合を占めており、老師たちの求心力は極めて低下していたからだ。

 真っ二つに意見の割れた導師たちは、右往左往するばかりで、事態に対して何ら有効な手を打つことが出来なかった。

 結果として、逮捕劇は極めて速やかに、そして秘密裏に行われた。事実を知らされないほとんどの僧は、今も眠りの中にいることだろう。そして、おそらくは翌朝に、天地が逆さまになったような衝撃を受けるに違いなかった。

 そしてビアンキは、両手に冷たい金属の枷がかけられ、腰には縄を打たれるという、普通の犯罪者と何ら変わらぬ扱いで連行されることになった。

 

 視線を真っ直ぐ前にやったビアンキは、これから自分はどうなるのかと、益体のないことを考えた。

 おそらく自分は、通常の手続きに従って、起訴され、裁判にかけられるのだろう。それこそ、殺人や強盗を犯した犯罪者と同じく。

 ただ一点違うのは、裁判で明らかになるのが真実の行方ではなく、大統領派と老師派のいずれがより大きな権力を握っているかについてだ、ということくらいか。

 結果については言を待たない。あちらは、勝算があるからこそ仕掛けてきたのだ。こちらがどのような手段を用いて反抗したとしても、老師全員の身柄を押さえられているとすれば、最早手詰まりである。導師以下の者がどれほど優秀であったとしても、背負うべき御旗を持たずに勝てるほど、戦というものは甘くない。

 しかし、どうしてこの時期にという疑問は残る。今まで何の前触れも出さず、突然にこの強硬措置だ。油断を突かれたといえば自分達の無能をさらけ出すだけであるが、それにしても違和感がある。

 何か、状況が変わったのだ。あちらが、ことを急ぐだけの理由。それとも、これ以上待つ必要の無くなった、理由。

 そこまで考えて、ビアンキは苦笑いを一つ溢し、それから痩せた背中を固い後部座席に沈めてやった。

 何を慮る必要があろうか。

 ある意味において、これは自分にとって望ましいとすら言える結果だ。

 これで、全てが終わる。

 おそらく、裁判は長期化するだろう。ことの真贋を、正否を問う間に、幾年も過ぎるに違いない。

 その間に、全ては変わる。それが、万人にとって望むべき方角は否かは別にして。

 そして、自分はその間、ずっと分厚い塀の中だ。

 冷たいコンクリートの塀が守ってくれる気がした。それはきっと、如何なる非難も、苦悶の叫びも、全てを遮断してくれるに違いないのだから。

 もしかしたら、自分の長すぎる生は、そこで終わりを迎えるのかも知れない。

 ああ、それは、とても素敵だ。

 全てに倦んだ老人は、うっとりとした笑顔を浮かべた。

 そして、ふと気が付いた。

 自分は、これから警察署へ向かうのではなかった。

 それにしては、どうも道行きがおかしい。

 これだけの規模の事件を取り扱うのであれば、自分の身柄は、当然のことながらこの地区で最も大きいヴェロニカシティの中央警察へと送られるはずである。ならば、車は中央市街へと向けて走らなければならない。

 だが、道はどんどん寂しくなるばかりで、ついには街灯の一本すらなくなってしまったのだ。

 おかしい。

 ビアンキの脳裏で、何かが警告を始めていた。

 

「一つ訪ねるが、この車はどこへ向かっているのかね?」

 

 ビアンキは、自分を拘束した捜査官に向かって問いかけたが、当然の如く反応はなかった。

 まぁ、そうだろうと思う。それに、今更どこに連れて行かれるとしても、慌てるつもりもない。

 ただ、自分と一緒に連行された、あの少年僧のことだけが気がかりであった。

 

「あの少年は、いつ解放されるのだね?」

 

 またしても、返答はなかった。

 ビアンキは、それ以上を問おうとは思わなかった。結果が分かりきっていることに労力を費やすよりは、今はただ、ゆっくりと眠りたかった。

 瞼を下ろしてから数分もしないうちに、細かな振動が体を揺らし始めた。おそらく、舗装された道を外れたのだ。車は相も変わらず、人気のない方角を選んで走っているらしい。

 そして、車内を流れる空気が、冷たく、土の香りを色濃く含み始めた頃合いである。

 車が、ゆっくりと止まった。

 

「到着いたしました。では老師、車から降りて頂けますかな」

 

 口調こそ丁寧であるが、そこに込められた感情の乏しさは、夜気の寒さをいや増すほどであった。仮に断ったとしても、自分の足で降りるのと変わらない結果を強制されるだろう。

 ビアンキは、開かれたドアから、自分の足で降りた。

 

「足下が悪いですからな。気をつけて頂きますよう」

 

 確かに、そこは舗装されない砂利道であった。

 辺りに人気は全く無い。自分達が走ってきた道は、鬱蒼とした森のその両側を挟まれていた。

 だが、それほど暗くはない。薄ぼんやりとだが、足下が見える程度の暗闇だ。月の明るい夜だが、それにしても明るすぎる。

 理由は、すぐに分かった。

 道の左側、森の奥から、うっすらとした光が漏れてきている。それも、炎のつくる力強い光ではなく、電灯の作った窓明かりが、仄かに漏れ出しているような按配だ。

 なるほど、自分はあそこに連れて行かれるのか。

 

「では、こちらへ」

 

 捜査員の中でも格上と思しき男が先導する。

 ビアンキは、無言でそれに従った。仮に逃げようと騒いだところで、自分の両脇には屈強な男が二人もいる。どうしたって逃げ切れるとは思えない。

 振り返ると、後続の車から、数人の男が降りてくるところだった。うちの一人が、先ほどの少年僧を肩に担いでいる。

 まるで麻袋のように担ぎ上げられた少年僧は、手足を麻縄で縛られて、ぴくりともしない。

 ビアンキは視線を前に戻し、黙々と歩いた。

 しばらくすると、わずかに森が開けた場所に、建物が見えてきた。

 かなり大きな建物で、近づいてみると相当に圧迫感がある。ちょっとした体育館よりも一回り大きいくらいだろうか。

 外観は、すでに人の手が入らなくなって久しい按配だ。暗くてはっきりわからないが、所々に濃い錆びが浮いている。

 風に運ばれる空気の中に、古い肥料の臭いがする。

 どうやら、これは、村落に設置された共同倉庫の類らしい。農機械や堆肥、収穫した作物を保管しておくため、村の外れに大規模倉庫が建てられるのは、珍しいことではない。

 しかし、既に使われなくなって久しいのだろう。ここに至るまでの道も、元はそれなりに整備されていたのかも知れないが、既に見る影もなかった。

 ビアンキは、正面の、観音開きになった扉から、中に入った。

 途端、鼻を強烈な生臭さが刺激した。

 思わず嘔吐きそうになったのを、何とか堪える。それは周りの男達も同じだったようで、強烈に顔を顰め、無意識だろう、口の辺りを手で覆っている。

 

「どうぞ、中へ」

 

 促されて歩を進める。

 屋内は、どんよりとかび臭く、粘ついた空気だった。

 がらんとした屋内は、中から見ても年月の経過による損耗が激しい。窓ガラスはほとんどが叩き割られたようになっており、そこに古びた蜘蛛の巣がかかっている。

 天井に掛けられた鉄骨の梁からは、細かく明滅を繰り返す裸電球が吊り下げられている。それが、この建物における唯一の灯りらしい。

 隅の方には、乱雑に積み上げられたガラクタや、果たして中に何が入っているのか想像も出来ないような梱包がみっしりと埋まっている。いくつか、生ゴミを入れるのに使うポリバケツも並んでいるが、そこには生活感の欠片も無く、不穏な空気だけが漂っている。

 そして、奥へと進めば進むほど、濃密になっていく生臭さ。

 ビアンキは、どうにも嗅ぎ慣れない臭いに眉を顰めた。

 

「ああ、これは失礼を。あなたは、そういえば、死を穢れとし、肉食を禁忌とする、ヴェロニカ教の聖職者であらせられましたなぁ。であれば、このように不快な臭いを嗅ぐのは、生まれて初めてかもしれませんねぇ」

 

 奇妙に後を引く喋り方であった。

 ビアンキは、声のした方向に視線を遣った。

 そこには、少壮の男が立っていた。

 ブラウン色の豊かな髪は綺麗に撫でつけられ、ぱりっと着こなしたスーツには一部の隙もない。そのままビジネス雑誌のモデルにでも使えそうな格好であるが、無個性と言い換えることも出来る。

 ただ、そのにこやかに歪められた顔。にこやかを装った、蛇のように嫌らしい顔だけは、どのように糊塗したところで雑誌の表紙には不釣り合いであった。

 

「きみは……確か、一度会ったことがあるな」

 

 ビアンキは、言った。

 男は、さも嬉しそうに手を鳴り合わせた。

 

「おお、これは光栄の極み!かの名高い大ビアンキ老に顔を覚えて頂いているとは!恐悦至極とは正しくこのことですな!」

「確か、アーロン・レイノルズ大統領の後ろに控えていた……そうだ、名前を……」

 

 老人の脳裏に蘇ったのは、目の前の男がその時に差し出した名刺の名前ではなく、昨日の昼過ぎに顔を合わせた、大柄な女性の声であった。

 

『ちなみにね、オーデンの勤務していた船会社の表向きの経営者はまったく聞いたこともない人物でしたが、その相談役に、アイザック・テルミンという男が収まっていたことが分かっています』

 

 そうだ。

 この男の、名前。

 

「人違いであれば許して欲しい。確か、アイザック・テルミンくん、ではなかったか」

 

 男の顔から、一度表情が消えた。

 空白に戻ったそれに、驚愕の色が付き、歓喜の色が付き、最後に爆発した。

 

「ブラボー!おお……ブラボー!」

 

 顔をくしゃくしゃにして、テストの満点を母親に褒められたように大喜びをした男──アイザック・テルミンが、ビアンキのもとまで駆け寄り、その手を取った。

 

「光栄だ!光栄だ!老師、まさか本当にワタクシ如きの名前を覚えて頂いているとは、想像だにいたしませんでした!嬉しい!ああ、ワタクシはこの世に生まれてきて、本当によかった!ハレルヤ、神の恩寵はここに実在した!」

 

 テルミンは、大はしゃぎで、握ったままの手をぶんぶんと振った。その度に、ビアンキの両手に嵌められた手錠の鎖が、じゃらじゃらと金属質な音を立てた。

 

「おや?」

 

 その音に気が付いたのか、テルミンは手を止め、老人の両手首を繋ぐ手錠に視線を落とした。

 そして、老人の顔を見て、再び手錠を見て、最後に老人の顔を見て。

 にたり、と、は虫類のような笑みを浮かべたのだ。

 

「ああ、そういえばそうでしたねぇ。しかしビアンキ老、あなたに不快な思いをさせるのも、もうしばらくの間だけです。どうか、ご辛抱くださいな」

 

 テルミンは踵を返し、もとの立ち位置まで戻り、再び振り返った。

 

「さて、まずは老師、ご多忙の中、このようにむさ苦しい場所までお越し頂いたことに、心から感謝申し上げます。我々は、老師を心から歓迎する次第でございます」

 

 テルミンは、深く腰を折った。

 

「本日、老師にこのようなところまでご足労頂いたのは、他でもありません。古今東西天上天下、まことの名僧と名高いミア・ビアンキ老師と、分不相応は重々承知ですがこのアイザック・テルミンとで、我らがヴェロニカ教の明日について大変重大な話し合いをさせて頂くためです。いやいや、お怒りまことにもってごもっとも、老師のご不快さこそと身の縮む思いでございますが、何とぞご容赦の程をよろしくお願いいたします」

 

 テルミンの長口上に、ビアンキは些かうんざりしたような面持ちで言った。

 

「ごたくはよい。して、貴殿はどのような話し合いをするために、わしをこの場に引きずり出したのだ?」

 

 テルミンは、大いに傷つけられた表情で、

 

「引きずり出したとは心外です!老師、ワタクシは本当に……」

「ごたくはよいと申したぞ!」

 

 大喝が、屋内を圧した。

 残り少ない窓ガラスが、まとめて砕け散るのではないかというほどの、声量。

 到底、老人の声帯から放たれたとは到底思えない声であり、気迫である。

 テルミンの周囲と、老人の周囲を取り囲んでいた屈強な男達が、思わず仰け反るほどの迫力であった。

 しかし当のテルミンは、相も変わらずの薄ら笑いを浮かべ、背を猫のように曲げながら言った。

 

「ええ、ええ、老師がそのおつもりならば、話は早い。いや、ワタクシも、もう少しで眠ろうかというところを、大事な用件が云々とかで、このような場所まで引きずり出されたのですよ。いわばワタクシも被害者でございます。これが宮仕えの悲しさですなぁ」

 

 ごほん、と軽く咳払いをし、

 

「本日、ワタクシから老師にお願いしたい話し合い、その議題は、まさしくこの星の明日、そしてヴェロニカ教の明日についてでございます。我が主でもございます、アーロン・レイノルズがこの星の大統領の席について以来、ヴェロニカ教の首脳陣と我が主との間は、お世辞にも蜜月とは言えないものでございました。そうではありませんか?」

 

 テルミンは、幼児に語りかけるときのように、小首を傾げて相手に同意を求めた。

 ビアンキは、怒りとまでは言わないまでも、極度の不快感に堪え忍ばねばならなかった。

 

「レイノルズが大統領になった経緯から申し上げまして、現在のヴェロニカ教の首脳陣、つまり老師の方々と仲良く手を取り合って、とは中々いかないのは承知しております。なにせ、ヴェロニカ教の腐敗を糾弾するために立ち上がったのが、何を隠そう我が主、アーロン・レイノルズでございますからなぁ」

 

 前回の大統領選挙で、ほぼ当確とまで言われていた最右翼候補である、マークス・レザロ元上院議員の食肉疑惑。そして、それに端を発した、大混乱。

 その大渦を最も上手に泳ぎ切り、最終的にこの星の最高権力を握ったのが、アーロン・レイノルズという男だ。

 ならば、テルミンの言い草は、事実無根の大嘘というわけではない。

 そして、テルミンは、悲しげな声と表情で続ける。

 

「しかし、しかしですよ。この国に住むほぼ全ての人間がヴェロニカ教に帰依している現状を鑑みますと、政権と教団が反目し合い、意思疎通が為されないというのは、甚だもって不自然であり、政教両面において今後の国家運営に多大なる支障をきたすのではないかと、我が主は考えられました」

 

 テルミンの表情が、ぱっと明るくなる。

 

「そこで、今までのことはお互い水に流し、今後は手に手を取り合い、歩を揃えて、ヴェロニカ共和国とその人民の未来を考えていこうではないかと、我が主はそう考えておいでなのですよ!どうです、素晴らしいとは思いませんか!お互いを許し、認め合う!これぞ、全宇宙に寛容をもって知られる、ヴェロニカ教の精神、その真髄ではございませんか!」

 

 テルミンは、天を抱き抱えるように両手を広げ、その感動の大きさを表した。

 しかし、それを見たビアンキは、極めて冷ややかに応じた。

 

「貴殿の仰ること、一々もっともよ。しかしその方法が、大統領暗殺だの国家転覆だのの与太話に託けて、この身をここまで拐かすか。先ほど貴殿の話ぶりとはどうにも趣が異なるのだが、こは如何に?加えて言うが、ヴェロニカ教の老師はわし一人ではない。そしてわしは、老師の中では最も若輩よ。人選を誤ったな、他の老師を頼るがよいぞ」

 

 ビアンキの鋭い視線に、しかしテルミンは、ただでさえ細い視線をより細めて、

 

「なるほどなるほど、我々のやりようについて、色々なご意見をお持ちなご様子。まぁ、一番最後についてはもはや問題にならないのですが……。とりあえず、最初のほうからやっつけていきましょうか」

 

 テルミンは軽く咳払いをして、

 

「さて、老師。まずあなたは、あなた自身にかけられた嫌疑が、与太話と仰いましたな?」

 

 ビアンキは無言である。まるで、答える価値を見いださないかのように、じっとテルミンを睨み付けている。

 テルミンは、初めて真剣な調子で言った。

 

「与太話。貴方方が大統領を暗殺しようとした、それが与太話と?」

 

 口元が、少しずつ笑みの形を作っていく。

 

「では、これはどういうことでしょうかな?」

 

 テルミンは、懐から取り出した音声レコーダーのスイッチを、入れた。

 ざりざりと、砂嵐のような音が響き、その後で、はっきりとした人間の声が聞こえた。

 

『……れにしても、なんともまずいことになりましたなぁ』

 

 テルミンは、くすくすと笑っている。

 

『まったく、どうして面倒事というものは、こう、次から次へと涌いて出てくるのやら。マークス・レザロの件といい、今回のことといい、先代の老師たちの時には、このような不祥事はほとんどなかったというのに』

 

 耳に馴染みのある声を聞いて、ビアンキの背をぞわぞわとした不快感が下っていく。

 レコーダーから流れる音声は、ビアンキにとって、確かに聞き覚えのある内容であった。

 それは、ヴェロニカ教の最高指導者である、老師のみが集うことを許された会合の際に交わされた、会話の再現である。

 

 盗聴されていた──。

 

 どういう経緯か知れないが、そのデータが、目の前の男の手に入ったのだ。

 淡々と、機械から流れていく音声は、さきほどの会談の全てを審らかにしていった。

 ビアンキと、ビアンキの元を訪れたジャスミンとの、会話の概要。

 それを受けて、ビアンキがどのような処置を施したか。

 ビアンキを糾弾する、他の老師たちの罵声。

 それらが、第三者的な視点から見ると、何とも間の抜けた緊張感とともに流れていく。

 そして、最後に、静まりかえった一同を睥睨するような声が、重々しく響いた。

 

『これより各人、此度の事態をヴェロニカ教の存亡にかかる変事と捕らえ、事実関係の確認を急いで欲しい。そして、もしもビアンキ老の見立てどおり、この地図があの男の手によってばらまかれているという確証が取れたならば……』

 

 必死に震えを押さえるビアンキの目の前で、レコーダーに写し取られた長老の声が、重々しい調子で、決定的な発言をした。

 

『アーロン・レイノルズ大統領は、我らの手によって粛正する』

 

 テルミンは、かちりと、レコーダーの停止ボタンを押した。

 

「さてさて、どこの家庭でも台所の裏事情はどろどろしているのが相場ですが、ご多分に漏れず、このヴェロニカ教総本山の台所も、中々にどろどろしているようですなぁ」

 

 くすり、と含み笑いを漏らす。

 

「草の者?いや、初めて聞きましたよ。そのようなものがいて、そして女性の拉致まで行ってくれる?いやはや、何とも便利ですなぁ。ワタクシも、そのような汚れ仕事を引き受けてくれる便利な部下がいてくれればと、何度も夢見たものですよ」

 

 屈強な男達を周囲に侍らしたまま、テルミンは続ける。

 

「そして、その便利な人間を従える貴方方の言う、粛正とは、いったいどのような行いを指すのですかな?不肖、このアイザック・テルミンに、その子細をご教授頂きたいのですが、如何でしょうか、老師?」

 

 いたぶるような口調であり、仕草であった。

 だが、ビアンキには、ほとんどその内容は伝わっていない。

 ビアンキは、その身を貫いた衝撃に耐えていた。

 それは、レコーダーから流れた内容そのものに対してではない。

 あの時、あの場での会話が、何者かに盗聴されていた、という事実に対してだ。

 間抜けというほかない。自分達は来客室に盗聴器を仕掛け、その会話を盗み聞きしていたというのに、あっさりと逆のことをされて、首根っこを押さえつけられたのだ。

 そして、盗聴器を仕掛けたのが、いったい誰なのか。

 長老を交えての会談が行われたあの庵の存在を知る者は、ヴェロニカ教でも極めて限られた人間だけである。

 会談に参加した老師。そして、その送り迎えをしたお付きの導師。おそらくはこれくらいのものだろう。その中に、いわゆる大統領派の含まれていないことは、全ての老師が承知していた。

 いわば、老師派の選りすぐりだけが、あの庵のことを知っていたのだ。

 であれば、この情報を売ったのは、老師か、それとも老師の信頼厚い、老師派の導師ということになる。

 つまり、裏切りだ。

 自分達の信頼する何者かが、大統領派に、自分達のことを売った。それとも、獅子身中の虫を飼ってしまっていた。

 どちらにせよ、勝負は、とうの昔に決していたのだ。

 自身の希求する未来図などとは全く別の方向性の敗北感に、ビアンキの体はたまらない疲労で満ちていった。

 

「さて、老師。黙っていては分かりませんよ。これがどういうことか、説明して下さいな」

 

 弾むような調子の声である。

 対してビアンキは、地の底から滲み出るような、重たい声で言った。

 

「……貴様らは、この程度の証拠をもって、我らを獄に繋ぐことが出来るとでも思っているのか」

 

 不法に収集した証拠は、その証拠性を著しく減ずることになる。

 それに、仮にこのテープが証拠として用いられたとしても、果たして大統領暗殺という重大事に関する密談と取られるか。精々、次の選挙で大統領不支持を打ち出すと、その程度にしか認識されないのではないか。

 結論として、この程度の証拠で立件できるはずがない。立件できたとしても、如何様にでもとぼけることはできる。

 これがこの男の隠し球かと、ビアンキは拍子抜けすらした。裏切り者の存在には強い衝撃を受けたが、この程度を切り札としているようでは、テルミンという男も存外底が浅いか。

 そう思ったのだ。

 しかし、当のテルミンは、驚いた表情を作り、しらっとした調子で答えた。

 

「何を仰る。この程度の証拠で、かの名高い老師の方々が、恐れ多くもこのヴェロニカ共和国の大統領の暗殺を企てたなどと、我らも声高に喧伝するつもりは毛頭ございませんよ。そんなことをすれば、物笑いになるのは我々の方ですからなぁ」

「……どういうことだ」

「ですから、最初から申し上げているではありませんかぁ。ワタクシは、老師、あなたをここにお招きしたのです。決して、逮捕やら拘禁やら、そのように乱暴な手を用いたのではありませんよ。少なくとも──」

 

 明日の朝にはそういうことになっています、と、テルミンは言った。

 ビアンキは、内心ほぞを噛む思いだった。

 大統領の力が日に日に強大になっているのは十分に承知しているつもりだったが、ここまでの無茶を平然とこなせるほどに、それは肥大化していたのか。

 それでも、内心はともかく表情だけは落ち着いたままのビアンキに対して、テルミンは続ける。

 

「そして、もう一つ。老師が先ほど仰ったのは、確か、そう、他の老師の方々へ筋を通して欲しいと、そういうことでしたかな?」

 

 こめかみに指をやり、難しげな顔で言った。

 

「その点については、どうかご心配なく。既に、話は終わって、全て水で流しておりますので」

 

 ビアンキは、またしても声を荒げるはめになった。

 

「話は通した、だと!馬鹿な、他の老師はともかく、長老が、大統領に膝を屈するものか!」

 

 それは、ビアンキにとって確信であった。

 長老は、この星の実質的な支配者はヴェロニカ教の頂点に立つ者であるとの自負を、誇りに昇華させて持ち抱えている人間だ。だからこそ、ヴェロニカ教の改革を掲げるアーロン・レイノルズと折り合いが悪かったのである。

 その長老が、今更変節するだろうか。いや、それだけは無いと言い切れる。

 だが、目の前の男のへらへら笑いの奥には、真実の匂いがする。どうにも、嘘を吐いているという気配ではないのだ。

 

「老師、老師。ワタクシが申し上げましたのは、あくまで話が終わっているという一事についてのみです。あまり先走らないでくださいよ、まいっちゃうなぁ」

 

 こりこりと頭を掻きながら、そんなことを言った。

 

「……なるほど、つまり話はしたが、断られた。なので、わしの方に話を持ってきたと、そういうことか。ならば残念だな、わしも、貴様らの傀儡となってまでヴェロニカ教の老師でいようとは……」

「ああ、もう、だからね、老師。いいですか?ワタクシは、先走らないで下さいと申し上げたのですよ?順を追って説明いたしますので、しばらく黙っていて下さいな」

 

 どうどうと、手で押さえるようなジェスチャーをしながら、テルミンが言った。

 

「ワタクシと、ビアンキ老師以外の老師の方々は、もう既に話は終わっております。そして、もう、色々なことは水で流したのですよ。それでお終い」

 

 言葉を返そうとしたビアンキを押しとどめたのは、テルミンの言葉ではなく、テルミンの仕草であった。

 半笑いのテルミンが、右手の人差し指を、下に向けているのだ。

 

「ほらね、水で流した後があるでしょう?」

 

 言われてビアンキは、床を見た。

 電灯の灯りがあまりに頼りないため、言われるまで気が付かなかったが、確かに床が濡れている。それも、コップの水を溢した、程度ではない。もっと盛大に、床一面が一度水浸しになったように、広範囲に渡って床が滲んでいる。

 

「いや、本当は、ここまで水で流さないといけないとは、思っていなかったんですよ。だって、皆さん、本当に小さかったから。でも、以外と、いっぱい詰まっていらっしゃったんですねぇ」

「……詰まっていただと?それは、どういう……」

 

 テルミンが、ひくりと鼻を動かした。

 くんくんと辺りの空気を嗅ぎ、ハンカチで口元を押さえる。

 

「どうですか、老師。我々は、本当に頑張ったんですよ。頑張って、水で流したんです。だから、少し臭いが残るくらい、許してくれますよねぇ?」

 

 臭い。

 先ほどから強く漂う、生臭さ。

 水。

 洗い流した、後。

 この男は、目の前のへらへら笑いを浮かべたこの男は、何を言っているのだ。

 何を言うつもりなのだ。

 ビアンキの頭を、ぐるぐると、不吉な単語が踊った。

 

「まぁ、ビアンキ老師は、彼らとは長いお付き合いですからねぇ。もう一度水で流すのも面倒ですが、最後に一度だけ、お見せしましょうか?」

 

 テルミンは、心底愉しくて仕方ないといった様子で、部下の男達に指示を出した。

 男達は、あまりの嫌悪に眉を顰めたが、上役からの命令だから、指示には従った。

 貧乏くじを引かされたかたちの五人の男が、重たい足取りで建物の隅まで歩いて行き、そこに並べられてあったポリバケツを、一人一個、担いで戻ってきた。

 どさりと、重たい音とともに、五個のポリバケツが、ビアンキの前に並べられた。

 

「さぁ、これを見て頂ければ、老師もご理解頂けると思いますよ。我々が、水に流すのに、どれほど苦労したかを」

 

 男達が、一斉にポリバケツのふたを開けた。

 ぷん、と、鼻を刺すような臭気が漂い、ビアンキは思わず顔を背けそうになった。

 しかし、どうしても、目は、雑然と並んだポリバケツに吸い寄せられる。

 そして、男達は、それを、同時に、蹴り倒した。

 

 ばしゃり、と、水の弾ける音がした。

 

 ぬるり、と、何かが滑り出してきた。

 

 がらり、と、ポリバケツの転がる音がした。

 

 そこまで認識して、次の瞬間、老人の意識を空白が満たした。

 

「ほらね。見て下さいよ。これなんて、頭の半分が吹っ飛んでるんですよ。吹き飛んだ脳漿やら歯の欠片やらを集めるのに、どれだけ苦労したか」

 

 頭を半分吹き飛ばし、残った片目で、恨めしそうに宙を睨み付けた、血塗れの死体。

 それは、ネカ教区の司祭であるグリイェ老師だった、死体だ。

 

「これなんて、中々笑えるでしょう。腹を撃ち抜いてね、でも大口径の銃だったから、背中に穴が開いてしまっているんですよ。そこから色々飛び出して、もう、掃除に大変だったんですから」

 

 苦悶の叫びに口を開き、舌をだらりと伸ばしたままの、臓物塗れの死体。

 それは、 マンサ教区の司祭であるトルナコ老師だった、死体だ。

 

「この人はね、銃で死ぬのが怖いって泣き喚いたんです。困ったから、ロープと毒薬、どちらがいいか、選んでいただきました。まぁ、首つりを選んで頂いたのはけっこうなんですけど、しかし、事の前に大小は済ませておいて欲しかったなぁ。もう、臭くて臭くて」

 

 顔を青黒く染めて、目玉の飛び出した、糞尿塗れの死体。

 それは、 エクム教区の司祭であるパリロー老師だった、死体だ。

 

「この人は可哀相でした。急所を狙って引き金を引いたはいいけど、一発では死にきれなかったんですねぇ、2,3分の間は、細かくうごめいてるんですよ。殺してくれ、殺してくれってうるさくって……。ワタクシ達がそんなこと出来ないのを知ってて言うんですよ。意地悪だと思いませんか?」

 

 こめかみとこめかみに小さな穴を開け、それ以外は生きていた時とほとんど変わらない様子の、涙と鼻水に塗れた死体。

 それは、 ケサ教区の司祭であるアカオウ老師だった、死体だ。

 

「ある意味、この人が一番驚いたかなぁ。だって、銃を構えたまましばらく動かないと思ったら、なんとそのまま死んでいるんですもの。もしかしたら御寿命だったんですかねぇ。だとしたら、ある意味一番羨ましい死に方だ。掃除も楽だったし、言うこと無し!」

 

 静かに、安らかに目を閉じて、しかし他の死体と同じく、汚水に塗れた死体。

 それは、長老とビアンキが呼んだ、ビアンキの師匠だった男の、死体だ。

 

 そこに、五体の死体が並んでいた。

 ほとんどは、生の中途で、望まざる死を強制された死体。

 そして、ビアンキが知っている人間の死体ばかりだった。

 

「……これが、大統領の遣り口か……!」

 

 我に返ったビアンキは、噎せ返るような死臭の中、憎悪の籠もった声で呟いた。

 

「よかろう、ならばわしも殺すがよい!死して後も怨念となりて、貴様らの首元に齧り付いてくれるわ!」

「老師、ですからね?ワタクシの話を、最後まで聞いて下さいね?」

 

 テルミンは、五体の死体を前にして、憎悪に燃えるビアンキを前にして、それでもなお楽しげに笑っていた。

 ビアンキは、その顔を見て、己の憎悪が揺らぐのを感じた。

 何者だ、この男は。どうして、五人分の死を前にして、このように笑っていられるのだ。

 老人の頭から灼熱とした思考がすぅと引いていき、残ったのは、亡霊に背を撫でられたような恐怖であった。

 

「ワタクシが老師に、このように汚らしいものをお見せしたのは、ワタクシ達が色んなものを水に流すのにどれだけ苦労したか、それを分かって欲しかっただけなんですよ。だって、迷惑を被ったのは我々なんですから、少しは労いの言葉とか、欲しいのが人情ってもんじゃありませんかぁ?」

「自分で殺しておいて、よくぞ言ったものよ!」

「ああ、もう、やっぱり分かってくれてないもんなぁ。そういうふうに誤解されると、傷付いちゃうよなぁ」

 

 テルミンは、悲しげな顔で言った。

 

「ワタクシ達は、この人達に何の危害も加えていませんよ。ただ、この人達が死にたいって仰るから、どうにかしてくれって仰るから、仕方なくそのお手伝いをさせて頂いただけなんです。そんな、人を殺すなんてとんでもないこと、ワタクシ達がするわけないじゃないですかぁ」

 

 テルミンは、続ける。

 

「そりゃあね、自殺をするための銃を貸してあげたり、ロープやら毒薬やらを貸してあげたりはしましたよ?でも、それは、どうしても貸して欲しいって、この人達にお願いされたからなんですよう。その上、死んだ後の処理まで面倒みてあげて。本当、迷惑したのはこっちなんです。どうか信じて下さいなぁ」

 

 テルミンは、両掌を、自分の目の前で合わせた。

 ぱん、と、間の抜けた音がした。

 

「このとおり、ね?」

 

 翳りのない笑みを向けながら、そんなことを言った。

 その笑みを見て、初めてビアンキは気が付いた。

 目の前の男の、へらへらとした笑みの底に、何かがある。

 黒くて、どろどろとして、とぐろを巻いて、すぐにでも飛びかかり、毒牙を突き立てようとしているものが、いる。

 それが何かは分からない。分からないが、それは酷く危険なものだ。

 この男は、それを飼い慣らしているだけなのだ。

 

「……ものは言い様だな」

 

 ビアンキは、掠れた声で言った。

 

「なるほど、貴様が言うとおり、彼らは自らの意思で、死を選んだのかも知れん。しかし、そこに追い込んだのが貴様でないと、どうして言える?」

 

 テルミンは、初めて、お道化のためではなく驚いた表情を浮かべた。

 そして、驚きの顔が、徐々に笑みに近づいていく。しかしその笑みも先ほどまでとは違い、薄ら寒い、底冷えのする笑みであった。

 

「……ほう。例えば、どのように?」

「知るか、そのようなことは。ただ、おぬしが外道であることを、わしが知っておれば十分よ」

 

 テルミンは、にんまりと笑った。

 

「ええ、ええ。まぁ、そういうことで構わないでしょう。例えば、先ほどのテープを聴かせて、これが暗殺を企てた物的証拠だと言い聞かせたり。世の中には、ビアンキ老師、あなたのように聡明な方ばかりではなく、けっこう馬鹿も多いものですからね。このままでは貴方方の名誉も地に落ちる、貴方方を信頼しているたくさんの信徒に迷惑がかかる、裁判にかけられればどうせ死刑だ、ならば不名誉に塗れた後の死をえらぶよりはいっそのこと……。そう囁いてやったら、面白いくらい単純に死んでくれましたよ。いや、本当のところは、長生きしすぎて生きることに疲れていたんですかねぇ。あ、一応言っておきますが、これは例えばの話ですからね」

 

 くつくつと、乾いた笑い声がビアンキの耳を刺した。

 

「まぁ、あの長老さんだけは、少し違うようでしたがね。あの人は、ある意味ではもっとつまらない死に方だった。あの人はね、ビアンキ老師、大統領の下風に立つのが心底許せなかったんですよ。このまま生きていても、どうせ気にくわない奴の足下に這いつくばって生きなければいけない。それなら死んだ方がましだ。きっとそう考えていました」

「……どうしてわかる、そんなことが」

「決まってるじゃないですか。私は今まで、彼と同じ目をして死んだ人間を、腐るほど見てきたからですよ」

 

 さらりと、こともなげに言った。

 そして、足下に転がった死体の頭を、革靴の先で軽く小突いて、

 

「これは全部、事故死で処理します。そうすれば、我々も迷惑しませんし、教団も迷惑しないでしょう。一番丸く収まります。まぁ、教団上層の人間にだけは、事実をあるがままお伝えしますがね。痛くもない腹を探られるのも困りますし。そして、老師としてヴェロニカ教を率いる資格があるのは、ビアンキ老、あなただけになる。ほらね、我々がお話するのは、あなただけでいい。いや、お互いにとって話が早くて助かりますね!」

 

 いつの間にか、テルミンの表情が、もとの、軽薄なへらへら笑いに戻っていた。

 

「我々の手の内はこんなところです。どうです、がっかりされたでしょう?」

「……それで、望みはなんだ、言ってみるがいい」

「はい、では遠慮無く。実はね、あなたの手で、老師にしてほしい方が一人、いるんですよ」

 

 老師に、する?

 てっきり、大統領の傀儡となることを要求されると思っていたビアンキは、意外な要求に言葉を飲んだ。

 そんなビアンキの様子を楽しむように、テルミンは続ける。

 

「あなたは、守旧派の象徴の一人でもある。そんなあなたが我々に唯々諾々と従う様子を見せれば、人は我々が何か無体な要求を突きつけ、あなたに服従を強いていると思うでしょう。だが、守旧派のあなたが引退し、あなたの意を受けてその後を継いだ若者がヴェロニカ教の指導者となって大統領と和解すれば、人々は世代交代というイメージを真っ先に植え付けられ、それほど悪印象を持たない。ま、つまらないイメージ作戦の一環ですな」

 

 何ともつまらなそうな調子だ。

 

「それと、もう一つ。こちらの方が重要なのかも知れませんがね。実は、当人に頼まれたんですよ。是非、あなたから直接、老師の位階へと昇るための秘蹟を授けてもらえるよう、取りはからって欲しい、と」

「……なんだと?」

「ワタクシは、こういうことをもったいぶるのが、あまり好きではないんですよねぇ。なので、ちゃっちゃと終わらせてしまいましょう。そろそろ出てきて頂いて結構ですよ」

 

 テルミンが振り返り、物陰の方に声をかける。

 ざり、と、靴底が砂利を踏みにじる音が聞こえた。

 そして、ぼんやりとした灯りの中、すらりとした長身の青年が姿を現した。

 ビアンキは、驚かなかった。むしろ、そういう気がしていたのだ。

 

「こんばんは、先生……と言っても、今日お会いするのは、これで二度目でしたかね」

 

 ビアンキは激高したりしなかった。

 ただ、いつもと同じような調子で、愛弟子だった男に、話しかけた。

 

「もう、既に日付は変わっておる。だから、今日、わしとおぬしが顔を合わせるのは初めてだ、テセル」

 

 ヴェロニカ教の導師の法衣を纏った、痩身の青年が、寂しそうに笑った。

 

「驚かれないのですか?」

「驚いておるし、信じたくもない。しかし、事の遣り口から考えて、やるとすればおぬしだと、薄々気が付いておった」

 

 もし、テルミンという男がビアンキ以外の老師を排除したいのならば、わざわざ自決に追い込むという残酷な仕打ちをせずとも、いくらでも排除のしようはある。本当に逮捕し、政治の表舞台から葬り去ってやってもよい。もしくは、秘密裏に殺害することだって別に難しいことではないだろう。

 だが現実に、老師らは巧みに袋小路へと追いやられ、人生にピリオドを打つための弾丸を、自分の手で発射した。死への恐怖に戦きながら、しかし結局は、死よりも恐ろしい何かを回避するために、枯れた指先に最後の力を込めたのだ。そこまで、追い込まれたのだ。

 その、執拗なまでの悪意。それだけが、今もへらへらと笑っている、不気味な男には些かそぐわなかった。

 あの男は、やると決めたら即座にやるだろう。最も早く、最も効果的で、最も労力の少ない方法で。

 ならば、自殺に追い込むなどという、迂遠な方法を取る必然性がない。

 

「私はね、先生。本当に、あの連中が大嫌いだったのですよ」

 

 ビアンキは、何も言わなかった。

 

「あなたを罵倒する、聞くに堪えない雑言もそう。ヴェロニカの神の力を己の力と履き違える、傲慢さもそう。口ばかり達者で、何一つ為すことの出来ない愚鈍さもそう。とにかく、何一つを認めることもできなかった。あれは、生きていても百害あって一利無しの害虫だ。ならば、己の名誉欲に相応しい死に様をくれてやろうと、そう思ったのです」

 

 テセルは、薄ら笑いを浮かべながら、言った。

 

「冷静に考えれば、たったあれだけの証拠で自分達の身が破滅するわけがないと、わかりますよ。普通の人間ならね。しかし、彼らにはわからなかった。肥大化した自尊心がそうさせたんです。老化した脳細胞がそうさせたんです。だから彼らは、道を誤ったんです。そして、生きていれば、きっと、もっとたくさんの人を巻き添えにして、道を間違えたでしょう。そしてその間違えた道の行く先に、断崖絶壁がないと、どうして言えますか?」

 

 ビアンキは、愛弟子の言葉を、黙って聞いていた。

 

「だから、己に相応しい死に様を選んで頂いた。先生、私は何か、間違えていますか?」

 

 ビアンキは、首を横に振った。

 

「テセル。お前は正しい。本当に、正しい。お前は、正しいことをしたのだ」

 

 老人は、どこまでも寂しそうな顔で、言葉を話した。

 言葉ではなく、その表情が、老人の心根を、愛弟子へと伝えていた。

 

「だが、正しいテセルよ。お前の言うことが本当に正しかったならば、どうしてそのようなつまらない人間のために、お前のその手が汚れる必要があったのだろうか。わしは、そのことだけが、どうしても残念でならないと思うよ」

 

 老人は、この短い時間に、十歳も年を取ったように見えた。

 そんな老人を真っ正面から見て、テセルは言った。

 

「先生。私はあの時、先生が私に奥義を授けて下されば、先生と一緒にヴェロニカ教を改革していこうと考えておりました。しかし、現実はこうなりました。もう、私も引き返すことはできません。どうか先生、あらためて私に奥義を伝授いただき、その後は静かな余生を過ごして頂きますよう」

「断れば、如何するか」

「断りませんよ、先生は。何故なら、私に奥義を授けないままあなたが──この世でたった一人、ヴェロニカ教の奥義を知るあなたが死ねば、ヴェロニカ教の真髄がそこで途絶えてしまうからです。あなたは、きっとその罪悪感に耐えることが出来ない」

 

 テセルは、真っ正面の視線で、そう言った。

 ビアンキは、苦笑した。まったく、この弟子は、どこまでも師匠によく似ている。そして、ついにはその思考まで追うことが出来るようになったらしい。

 これは、きっと喜ぶべきことなのだろう。何せ、弟子が師匠に追いついたのだ。先を生き人を導く人間にとって、これほど嬉しいことはないはずだ。

 ああ、そうだ。これは、喜ぶべき事なのだ。

 

「では、ヴェロニカ教の真髄などどうでもよい、奥義などわしの代で途絶えさせても一向に構わぬと、そう言えば?」

 

 ビアンキの問いに対して、テセル、少しも惑うことなく、

 

「ならば、先生 に近しい人間を、一人ずつ殺していきます。考えられ得る最も残虐な方法で拷問し、声が果てるまであなたの名前を泣き叫ばしてから、殺します。まず手始めに、あそこで眠っている少年から殺しましょう。先生さえよろしければ、今すぐにでも始めましょうか」

 

 テセルは、屈強な男に担ぎ上げられた、憐れな少年僧を指さしていた。

 その揺るぎない様子を見て、ビアンキは、微苦笑を浮かべた。

 まったくもって、この弟子は自分とよく似ている。もしも昔の自分がテセルと同じ立場に立てば、おそらくは全く同じ行動と思考をしていたであろう、自覚があった。

 ビアンキは再び、テセルの瞳を覗き込んだ。

 そこは、ヴェロニカ教への情熱と、明日への希望で燃えていた。ただし、その炎は情熱に燃えさかる赤ではなく、自分と他人とを焼いて厭わぬ青炎である。

 止める術は、ない。きっと、この青年は、どこまでも走り続ける。

 ならば、走り続ければいい。走って走って走って、走り狂った先に、存外、答えはあるのかも知れない。自分の足の届かなかったどこかへと、この青年ならば辿り着けるかも知れない。

 老人は、そう思った。否、そう思い込もうとした。そう思い込むことで、罪悪感から逃れるための蜘蛛の糸としたのだ。

 

「わかった、テセル。今、この場にて、おぬしにヴェロニカ教の奥義を伝えよう。そうすれば、おぬしは導師から老師へと階位を昇り、名実ともにヴェロニカ教の指導者としての資格を得ることになるだろう」

 

 老人は、過去から連綿と受け継がれてきた奥義が、自分の代で失われるのを恐れたのではない。

 名も知れぬ少年僧が、自分の意固地のために死ぬのを、恐れたのではない。

 もう、全てに疲れていたのだ。そして、背に負った荷物を、誰かに預けたくなった。

 それだけだった。

 

「人払いを」

 

 老いたビアンキが、縋り付くような声で、テルミンへと言った。

 テルミンは、薄ら笑いを浮かべながら、首を横に振った。

 

「その必要はありませんよ。ワタクシは、全てを知っているのですから」

 

 その言葉を聞いて、テセルは怪訝そうな顔をしたが、ビアンキは深く納得した。

 この男は、あのアーロン・レイノルズの懐刀なのだ。そして、あの誘拐事件にも、深く関わっている。ならば、全てを知っていない方がおかしいのか。

 

「しかし、全てを知っているからといって、別にここにいなければならない理由にはなるまい。席を外して頂けると、有り難いのだがな」

「まぁまぁ、どうぞお構いなく。ワタクシはね、あなたの話す内容については、ある程度の推論は持っていますよ。おそらく、それは事実と言い換えても何ら遜色ないものでしょう。ただね、あのようにくだらない内容の事実を、あなたが、どのような表情でお弟子さんにお教えするのか、それだけは、ほんの少しだけ興味があるのです」

 

 テルミンの顔に浮いたサディスティックな色香を見て、ビアンキは、説得の無駄を悟った。

 

「では、他の者は……」

「それこそ、ただの木石か何かと一緒に考えて頂ければ結構ですので、お気になさることのないよう、お願いします」

「しかし……」

「ワタクシが先ほどまで、何故ああも得意げに、秘密話を語っていたと思いますか?これらはね、ワタクシが話すなと命令したことは、絶対に話しません。いや、話せません。それこそ、物理的に口を引き裂かれても、舌を引き抜かれても、ね」

 

 くすくすと、テルミンは笑った。

 承伏しがたい表情をしていたビアンキだったが、程なくして頷いた。どういう理屈かは知らないが、この男が言うならば、それは事実なのだろう。ビアンキは、そう考えるようになっていた。

 そんなことより、もう、休みたい。ベッドに入って、いや、コンクリートの上でも一向に構わないから、ただ、横になって、休みたい。

 そして、もう二度と、目を覚まさないように。

 ビアンキは、ただ、それだけを願っていた。

 

「では、我が弟子よ。心してお聞き」

 

 テセルの細い喉が、ぐびりと蠢いた。

 ビアンキは、淡々とした調子で、言った。

 

「ヴェロニカの奥義は即ち、ヴェロニカ教の真実であり、その成立の経緯についての子細である。そして、ヴェロニカ教の、その教えの真実は……」

「ヴェロニカの、真実は!?」

 

 隠しきれない興奮で頬を赤らめたテセルが、大きく身を乗り出した。

 そして、ビアンキは、あっさりと言った。

 

「ただの、するな話だよ」

 

 テセルは、ぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。

 その後ろで、くつくつと、テルミンが笑っていた。

 

「ああ、失礼。別に悪意があったわけではありませんよ。ただ、つい笑ってしまっただけですので」

 

 ビアンキは、努めてテルミンの言葉を無視した。

 そんなビアンキに、硬直を解かれたテセルが、食いつくようにして問うた。

 

「せ、先生。それはいったい、どういう意味でしょうか。何かの暗喩ですか、それとも暗号、謎かけ?」

 

 テルミンは、慌てふためくテセルの様子を見て、口元を手で隠しながら笑った。

 ビアンキは悲しげな顔で、首を横に振った。

 

「違うのだ、テセル。これは、本当に、言葉のままなのだ」

「言葉の……まま、とは……?」

「転んで怪我をするから、廊下を走るな。夕飯が食べられなくなるから、おやつを食べ過ぎるな。母親が幼児に向けて、そう言って注意をするだろう。あれと同じだ。ヴェロニカ教は、ただ一つの注意事項を伝えるためだけに、自然との調和を保つだの、神の愛だの、聖女だの、ごたごたしい錦の飾りを付けているに過ぎん。だが、その本質を辿るならば、それはただのするな話へと帰着する。それが、おぬしが生涯を捧げて到達しようと熱望した、ヴェロニカ教の真実であり、奥義だ」

 

 テセルが、呆然とした顔のまま、首を横に振った。

 まるで人形のような表情で、まるで人形のような顔色で。

 

「すみません……。どうやら、私の頭は、思ったよりも悪いらしい……先生の仰っている意味が、よくわからない……」

「……自然との調和を保つために、それとも神の愛が故に、獣肉や野の青果を食してはならないのでは、ない。全く正反対だ。獣肉を食してはならないから、野の青果を食してはならないから、その理由として、自然との調和だの神の愛だのが選ばれたのだ。食ってはならない理由として、誰もが納得するような理由が選ばれた、それだけの話なのだ。そうして、ヴェロニカ教は成立した。この星に住む如何なる人間も、肉を食わないようするために、野の青果を食わないようにするために」

「それ……だけ……?」

「もう一度言うぞ、テセル。この星に、聖女ヴェロニカなどいなかった。当然、神もいなかった。自然との調和を保つという理想も、存在しなかった。全ては、ただ食うなと、その一事に権威を付加するために作られた、まやかしなのだ。虚像なのだ」

 

 それはあたかも、聖顔布という聖遺物がまずありき、その後に聖女ヴェロニカという人格が付与されて、一つの奇跡譚が生まれたように。

 『食うな』という単一の指令を徹底させるために、戒律という最も重たい足枷を付与しようと意図し、そのために教義が、そして宗教が生まれた。

 本末の転倒。因と果の逆転。実質と形式の反転。

 これが、ヴェロニカ教の真実であり、そして奥義であったのだ。

 

「そんな……」

 

 テセルは、かくりと膝を折り、地面に跪いたままの姿勢で、神に助けを求める信徒のように、ビアンキに縋り付いた。

 ふるふると、唇が、細かく震えている。

 突然、ビアンキに掴みかかり、唾を吐き散らしながら大声で喚いた。

 

「いや、違う!先生は、先生は嘘を吐いている!ヴェロニカ教の奥義は他にあり、私を煙に巻くために、そのような世迷い言を……!」

「違う!違うのだ!だからテセルよ、わしはあの時、おぬしに奥義を伝えることができなかった!おぬしが誰よりもヴェロニカ教に対して真摯であるが故に、これほど残酷な事実を伝えることが、出来なかったのだ!」

「では、何故食ってはいけない!神が嘘なら、愛が嘘なら、なぜ肉を、青果を食ってはいけないのだ!言ってみろ!言えるものなら言ってみろ!」

 

 ビアンキが、精一杯に叫んだ。

 

「食えば、死ぬからだ!」

 

 テセルが、固まった。

 

「……食えば……死ぬ?」

「……そうだ。伝説にあるだろう。肉を食い、乳を飲み、野生の青果をもぎ取った者は、手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ、と。あの伝説だけは、完全な事実なのだ。だから、誰もそれらに手を出さないよう、仰々しい伝説を作り、禁忌を作り上げ、厳重に封をした。それが事実だ」

 

 テセルの総身から力が抜け、前に倒れていくのを、ビアンキは、その痩せた両腕で抱き止めた。

 テセルは、悪霊でも抜け落ちたかのように、すとんと師匠の胸に納まり、そのまま、消え入りそうな声で呟いた。

 

「では……ヴェロニカに、神は……」

「おらぬ。もとより、この国に神はおらぬのだ」

「自然との……調和……理想……」

「理想など、ない。調和も、もとより考えておらぬ。これは、ただ生き抜くための術よ。その集大成よ」

「……真理……」

「……そんなものは……どこにも……ない……ないのだ……!分かれ、テセル……!」

 

 テセルは、ぶつぶつと何事かを呟き、ついに何もしゃべらなくなった。

 目は虚ろで、瞬き一つしない。

 それは、テセルであって、テセルではないものだった。

 テセルという個人を人間たらしめていた、自負、自尊心、知識、社会的地位、それらを含んだ、もっと大きいもの。その一切合切が、全て、水泡に帰したのだ。

 額に汗して稼ぎ、爪に火を灯す思いで貯め込んだ全ての財産が、ガラクタだと知らされた。

 酒を飲まず、享楽を味あわず、愛する人を作らず、子を成すこともなく、およそ人の求める全ての幸せに背を向けて、積み上げてきた財産が、全てガラクタだと知らされた。

 テセルの中の、致命的なものが、決定的なまでに、崩壊したのだった。そうすることで、テセルの体は、辛うじて生にしがみついているのだ。

 ビアンキは、愛弟子の体を、強く抱きしめた。今、目の前で何とか生きている青年は、数十年前、老師から奥義を伝授された直後の、自分だったからだ。

 これでテセルは、自分と同じになるのだろう。神への信仰でぱんぱんに膨れあがっていたテセルの内側は、何ものも含まない暗黒へと姿を変えるのだろう。一寸の光も差し込まない、暗黒へと姿を変えるのだろう。

 ここに、また、ビアンキが、生まれた。いや、ヴェロニカ教の老師が、生まれたのだ。

 そして、また、生まれるのだろう。いずこかの前途あるヴェロニカ教徒が、その身の内の熱き理想を、冷たい暗黒へと変える日が、来るのだろう。

 ああ、憐れなテセルよ。老人は、力を限りにテセルを抱きしめた。しかし、テセルの体に力が戻ることは、二度となかったのだ。

 テルミンの笑い声だけが、高らかに、どこまでも高らかに、廃屋の中に響いた。

 

「ああ、おかしい!たったこれだけの事実を知らされた程度で、人は斯くも脆く崩れ去るのか!ああ、これが人の弱さか!くだらん、実にくだらん!そして滑稽だ!これぞ、最高の喜劇だ!きみたちは、最高の役者だ!ありがとう、よくぞここまで笑わせてくれた!できればきみたちに、労いの花束でも贈りたいところだよ!」

 

 笑いに途切れ途切れさせながら、テルミンはそう叫んだ。

 腹を抱え、体を折り、息も絶え絶えに、笑った。笑って、笑って、笑った。

 

「ああ、もう、うるせぇなぁ。おちおち昼寝もできやしねえじゃねえか」

 

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