懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
ぽたりぽたりと、前髪から液体が滴っている。
ここはどこだ。私は誰だ。私は、今の今まで何をしていた。
誰か、誰か、教えてくれ。
◇
少女は、その瞬間にこの世界に生を受けた。それは単なる比喩ではなく、ちょうど赤子が母親の子宮から産道を通って外気に触れた瞬間のように、少女は正しく、たった今この瞬間に産声をあげたのだ。
そこは、新たなる生命の誕生を祝う祭壇でも、清潔な病室のベッドでも、苫屋の粗末な藁床の上でもなかった。
暗い、暗い、無限のように暗い空間。常人であれば決して見通すことの出来ない深い闇の中。彼女は、己を産んだはずの母親をもたずに、そして泣き声すらあげずに、ただ一人でこの世界に生まれた。
ツンと薬品臭い羊水に塗れた少女は、一糸纏わぬその姿のまま、地に伏せるように低く蹲り、鋭い視線で辺りの様子を伺った。その瞳は、闇の奥の奥にある細やかな瓦礫の破片の一欠片までをも正確に認識している。そばだてた耳は針の落ちた音だって聞き取ることが出来た。
しかし、何も感じない。
ひくつかせた鼻には、自分以外のいかなる生き物の体臭も感じることが出来ない。カビ臭く澱んだ空気と、何かが腐ったような酸っぱい臭いが感じられるだけだ。
それでも彼女は警戒を解こうとしなかった。必死に息を潜め、物音を立てずに周囲を見回し、そして五感の全てを使って敵の存在を探る。
彼女にとって無限といえる緊張の時間は、しかしその実、五分にも満たない短い時間だった。
そして少女は自分なりの結論を下した。
ここには誰もいない。どうやら自分は一人のようだ。
そう考えた彼女は、初めて安心した。ほんの少しだけ体を起こし、きょろきょろと辺りを見回し、それから体の各所に張り付いた薄ガラスの羊膜を取り外していく。あらかたを外し終えると、ガラス片がつけた傷から流れる細い血の滝を舐め取った。何度か、それこそ獣のように傷口を舐めていると、血はすぐに止まった。
人心地がついた少女は、あらためて自分が置かれた状況について考えた。
ここは、どこだろう。
頭上に星は無かった。その代わりに、とっくの昔に寿命を終えた蛍光灯と、穿たれた穴から赤や青のケーブルが見える天井がある。逆に地面の方に目を向けてみれば、そこにあるのは柔らかな土の地面などではなく、冷たくひび割れたコンクリートの床だ。
彼女は、明らかに人工的な空間にいた。そもそも、正方形で区切られた狭い空間など人の手の入らない場所には存在しないのだ。
しかしそれにしては荒廃の様子が尋常ではない。埃はまるでそれ自体が絨毯かカーペットであると勘違いするほどに深く積もり、あちこちに主を無くして糸くずと成り果てた蜘蛛の巣の残骸が垂れ下がっている。部屋の隅に打ち捨てられた用途の知れない機械の山は、赤茶けた錆に覆われていて、二度と彼らの存在意義を思い出すことはあるまい。
そこは、かつて人が住んでいた場所だ。なのに、もうそこには人の気配がない。
見捨てられた廃屋。それが、彼女の生まれた場所だった。
自分の知らない場所だ。
では、自分の知っている場所とはどこか。
少女は思い出そうとした。
まず、彼女の脳裏には瑞々しい森の木々に囲まれた湖の姿が浮かんだ。春の、若葉の眩しい木々を映す湖面、夏の冷たい清水の感触、秋の赤く染まった木の葉で覆われた大地、冬はしんしんと降り積もろ雪が山肌を白く染め上げる…。
次に、煌びやかな宮殿が思い浮かんだ。別に望んで手に入れた住み家ではなかったが、存外に居心地はよかった。なぜなら、いつもあいつがいてくれる。それに、友も、部下も、全てが得難い人達ばかりだった。
そうだ、俺は―――
ザ―――ザザッ
―――お母さん。なんでそんなに私を怖がるの?私はお母さんに愛されたくって、こんなにも頑張っているのに。私は、神様の子なんかじゃあありません。私は、貴方から生まれた、貴方だけの子供なのに―――
なんだ、今のは。
少女は床に手をつき、激しく嘔吐した。胃の中は、ずっと昔からそうであったように空っぽだったから、黄色い胃液だけが喉の奥から漏れ出した。
喉の奥を、強烈な酸が焼いた。その熱痛と、そして床に付いた手を切り刻む窓ガラスの破片。その両者の痛みですら、今の少女の脳髄には届かない。
頭の中で次々と再生される記憶。彼女は、荒れ狂った大河のようなそれを押しとどめようとしたが、一度決壊した河の流れを人の手で押しとどめるのか不可能なのと同じく、その現象は彼女の存在そのものを弄び蹂躙した。
―――父上。私が貴方の息子ではないとはどういうことでしょうか。何故、私の前で跪くのですか。私は、貴方の息子です。貴方だけの息子です。父上。どうか、顔を上げて下さい。そして、私の名を呼んで下さい。どうか私を、陛下などと呼ばないで下さい―――
―――止めて。その注射は嫌なの。私が私じゃなくなるの。私は私でいたいの。だから、痛いのは嫌なの。誰の血も見たくない。もう、誰も殺し
たくなんて―――ない。私はお絵かきが―――好きなの。赤い絵の具はあまり好きではありません。それに、乾くと黒くなる。お母さん、お父さん。私を
助けて。誰だ。あれは、何だ―――。一瞬で斬り殺した。腕っききの兵士を。俺ですら手こずる、歴戦の勇士を。あの子供は、なんだ
。金色の髪―――。緑柱石の瞳。陽光で
、きらきらと輝く。
ああ、なん―――と美
しい痛いです。痛い
です。お腹の―――中が、
真っ赤に染まって、ぐるぐると紐のよ
うなもの―――が見えていて、どく
りどくりと、何かが流れていく。どうして、この人達は笑っ
ているのだろう。こん―――なにも
嬉しそうに。こんなにも苦しんでいる私を見ながら、こんなにも嬉しそうに、この男は俺を
いたぶるのか。そうだ、俺が国
王で、タウ―――には銀山だけ
じゃあなくて金
山もあるからそれを聞き出そうとしているのだ。いや、それだけではない
か。そうでなければ、どうしてこの男―――はこんなにも嬉しそうに私
の頭の中の灰―――色の部分
に針を突っ込んでそこ
をぐりぐりといじるのだろうかわたしがな―――にかいけないことをしたのでしょうか
『医学の発展のため――――――』やめてやめてそこはきらないでそこをきられたらわたしがいなくなる『人類の進歩
のため、仕方ない―――』めのまえが
あかくくろくそまってちかちか―――ちかちかちかちかちかちか『いまい
ちだな。もっと麻酔を―――減らしてみよう―――』ああ、ライオンがおれをたべようとおおきなくちをあけておそいか
かってくるせをむけてにげたらくわれるくわれるわけにはいかないおれにはおれをまってくれているひとが『どうしてこの程
度の数値しか出ない―――』おとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさん
―――『出来損ない―――』
たたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけて
―――『解剖する価値もない―――』
だれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかか
―――『愛玩動物―――』
嗚呼。
助けて、お兄ちゃん。
その刹那、少女は、冷たく固いコンクリートの床の上で、白目を剥いて失神した。
次に少女が目覚めたのは、彼女が失神してからちょうど二十四時間が経過したときだった。
ほとんど無造作に起き上がったその様に、辺りを警戒するような様子は見当たらない。のんびりと頭を掻き毟り、大欠伸をし、猫のように伸びをする。
一日前の、緊張しきった獣の有様が嘘のようだった。
そして、もう一つ違うこと。
それは、爛々と、闇の中に光る黒い瞳。
自らが狩るべき者、自らが殺すべき存在を自覚した、獰猛な光りだった。
◇
連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官。それが、アレクセイ・ルドヴィックという男に与えられた社会的な肩書きである。
物々しく、そして舌を噛みそうになるほどに長い役職名だが、しかしやっていること自体は単純そのものだ。
お偉方の尻ぬぐい。少なくとも、彼は自分の仕事をそのようなものだと認識していた。
だからといって、彼は自分の仕事を忌み嫌っていたわけではない。光があれば自ずと闇が出来るように、肥大化した連邦の施政の影には、必ずしも美しくない、衆目に晒すことが好ましくないような事実がたくさんある。掃いて捨てる程にある。ならば、誰かがその掃き掃除をしなければならないのだ。
それは、連邦の威厳と存在意義を守るために有意義な仕事といってよかった。例えその仕事の大半が、政治家の下半身の醜聞をもみ消したり、官僚の子女の素行不良を金で解決したりする仕事であったとしても、だ。
それに、野心もあった。確かにドブ側のゴミ浚いにも似た汚れ仕事であることは間違いないが、しかしそれは連邦の闇の部分を知るための仕事でもある。当然、いくらでも取り替えの利く木っ端役人などに任せてよい仕事ではないはずだったし、それを知る自分は、これからの人事において相当のアドバンテージを得たといっていいはずだった。また、自分が世話をしてやったお偉方との間に、強力なパイプが生まれるのも美味しい事実である。
彼は、その低すぎる身長と後退した額の生え際を除けば、年の割にまずまず若々しく精力的といっていい人間だった。当然、そういった人間のほとんどがそうであるように、人並み以上の出世欲もある。
既に40も半ばを迎えたその容貌はお世辞にも整っているとは言い難いが、どこかに染み出すような愛嬌がある。だからこそ、このように陰鬱な仕事が勤まるのかも知れないが。
実のところアレクセイは有能な人間だったし、それ以上にある種の天才であった。人から頼まれた厄介事を、自分以外の他人に押し付ける才能である。そしてその成功を自分のものとし、その失敗を他人のせいにして自分には被害を及ぼさせない、世渡りの才能だ。だから、彼は上司にはすこぶる評判のいい人間だったし、同僚や部下からは蛇蝎のごとく嫌われていた。
彼自身、そのような周囲の評価は自覚している。自覚して、そして鼻で笑った。なにせ、彼の人事評定を定めるのは同僚や部下ではなく上司なのだ。その他大勢がどれほど外野から喚き立てたところで、彼の出世街道の脇を転がる空き缶やゴミ屑以上の何ものでもない。そんなもの、一顧だにする価値もないものだ、と彼は考えている。
つまり、彼は現在の自分の有り様に、すこぶる満足していたのだ。
しかし、だからといって今、現在進行形でこなしている仕事が愉快になるかといえばそうでもない。やはり、仕事には陽気なものと陰気なものがあるのだから。
『これは君しか出来ない仕事だ』
その言葉は、彼自身が自分の手に負えない厄介事を部下に押し付けるときの決まり文句であったため、自分が上司からそのように仕事を言い渡されたときはさすがに緊張の色を隠せなかった。
ごくりと生唾を飲み込んだアレクセイに、殴打の武器になりそうな程に分厚い資料の山が手渡される。彼はその一番上の、極秘と赤い判の押された報告書の部分だけを手に取り、大急ぎで文章を読んだ。
『…証拠隠滅、ですか』
それが、彼が今回の自身の仕事に与えた評価だった。
上司は、それを肯定も否定もしなかった。
『詳しいことは言えんが、これはこの共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼすことなのだ。私は、今までの君の仕事ぶりを高く評価している。だからこそ、この仕事を君に任せるのだ。ルドヴィック君、君は私の期待に応えてくれるね?』
アレクセイは、その脂ぎった顔面を紅潮させながら、重々しく頷いた。
果たして、特異能力者と呼ばれる人間に対する非人道的な人体実験の証拠を隠滅することが、この広大な連邦宇宙の安全保障に対してどのような影響を及ぼすのかは分からないが、少なくとも彼が今まで手がけてきた、安全保障とは名ばかりの仕事に比べてその重要度が高いのは明らかだ。であれば、それを成功させたときの彼の評価に与える影響も当然大きい。無論、失敗したときのそれも同じく、だが。
彼は、その資料を手早くカバンの中に詰め込み、その日は定時に帰宅した。家で落ち着いて資料を読み込むためである。
その資料に記されていたのは、彼が今まで見聞きしていた連邦政府の恥部ではなく、正しく闇の部分であった。彼もこの職場についてから相当の噂話を耳にしているので、この組織が綺麗事だけでなりたっているのではないことくらい重々承知していたのだが、しかしその資料の詳細は彼の図太い心胆を寒からしめるに十分過ぎるものだったのだ。
それは、正しくこの世の地獄だった。
被験者が生きたままの解剖実験、その切り離したパーツが部位ごとにどれほどの時間を生きられるかの記録、特異能力者の能力値を測定するための脳外科手術、その能力の限界を引き延ばすため脳内鎮痛物質を除去した上での覚痛実験、麻薬の禁断症状が特異能力に及ぼす影響、その能力を次代に残すための交配実験、人と獣、果ては外骨格生物とのキメラの作成と軍事転用の可能性の模索…。
その一つが明るみに出るだけで連邦政府の屋台骨を揺るがしかねない、非人道的極まる実験の数々だった。彼は、指の震えを押さえるためにキャビネットからアルコール度数の高い酒を取り出し、瓶に口を付けて直接煽った。空っぽの胃の腑が焼け付くようだったが、その熱痛にも似た感覚が今の彼には有難かった。
それでも何とか一通り目を通し終えた彼は、広すぎる額から垂れ落ちる汗を拭おうともせず、しばらくの間茫然と時を過ごした。
なるほど、これは確かに共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼす仕事と言っていいだろう。この事実が外に漏れれば、下手をすれば連邦に対する不信感を招き、マース合衆国その他の軍事的野心に油と強風を注ぎ込む結果にもなりかねないのだから。
彼は、そう理解した。彼の上司もまた同じように理解していた。しかし、その上の上の上あたりの人間は、この件がもっと直接的な意味で共和宇宙の、というよりは人類の存続について重要な意味を持つものだと理解していたのだが。
翌日からアレクセイは、この仕事を専門的に取り扱うようになった。昨日まで彼の処理していた事案は全て後任者に引き継がれ、彼の手元には一切の仕事は残らなかった。
彼の周囲の人間は、机を空っぽにして別室に居を移した彼を見て、一体何事が起こったのかと訝しんだ。中には、彼が重大な失敗を犯して上司の怒りを買い、あらゆる仕事から干されたのだろうとほくそ笑む者もいたものだ。
しかし、ほくそ笑んでいるのは、誰よりもアレクセイその人だった。一晩の衝撃から目覚めて、この仕事の重要性をあらためて認識したのだ。この仕事を完璧にこなすことが出来れば、今後の彼の役人人生は正しく輝かしいものになるだろう。自分には到底手が届かないものと諦めていた数々のポストが、今の彼にはただの通過点にしか思えなくなっていた。
『この件の処理を、君一人で全てこなすのは当然不可能だろう。何人か、君の手足として働く人間を選びたまえ。可能な限り便宜を図ろう』
初日の仕事は、その人選からだった。
有能な人間であることは最低条件に過ぎない。次に、口が堅いこと、彼に忠実であること、そして何より彼の手柄を横取りしないこと…。
彼は上司から与えられた人事評価書類を手繰りながら、その人間の評価を真剣な面持ちで眺め続けた。そして、その中から数人を選び、彼のプロジェクトチームに加えるための段取りに奔走した。その結果、十人ほどの人間が彼のために与えられた別室に居を移すことになり、前日までは臨時の会議室として以外の存在意義を持たなかったその部屋は、アレクセイを主としてにわかに活気を増したのだ。
人体実験の行われていた研究所の数は、その実験の数に比べれば驚くほどに少ない。それは、その実験が胸を張って人類のためだと公言できない類のものである何よりの証拠であったのだが、彼にとっては都合のいいことであった。それに、その研究所の集中していたとある星の大陸は、原因不明の地盤沈下によって三年前に消失している。彼はその異常事態も、神が彼のために仕事の一部を肩代わりしてくれたのだと思った。
となれば、それ以外の施設は相当に数が限られることになり、現在進行形で研究を進めている施設はそれこそ数えるほどになる。しかもそのいずれもが政府のお墨付きを受けずに違法研究にうつつを抜かす、いわば暴走した研究施設であった。そのうちの一つには共和宇宙の最高学府の一つと呼ばれる教育機関の研究所も含まれていたが、この際の彼には関係がない。
彼はまず、現在把握している過去に違法研究を行っていた施設に徹底した査察を行うことにした。以前そういった施設で働いた人間を取り込み、その知識をもとに施設の内外の取り調べ、帳簿を洗い出し、研究員の尋問等を行った結果、そのいくつかが現在も資料を隠し持ち、あるいは現在進行形で研究を進めていることが分かった。
その結果は、アレクセイにとって満足すべきものだった。彼がその役職に就いたからには、最低でも一つか二つは実効的な成果を上げる必要があったのだ。『調査の結果怪しい研究所は見つかりませんでした』などという報告をあげるのは無能者の仕事である。仮に真実がそうであったとしても、そこはでっち上げだろうが脅迫だろうが、何らかの結果を形として残さなければ有能な人材と扱われることはない。彼はそれを痛いほどに理解していた。そういう意味でいえば、馬鹿な研究者達がそのとち狂った探求心を発揮して諦め悪く実験を続けていてくれたことは、彼の余計な仕事を一つ減らす結果になったと言えるだろう。
それらの結果はすぐさま報告書に纏め上げられ、彼の直属の上司に報告される。上司はそれを満足げに受け取り、更に上へと報告する。それが何度か繰り返された結果、その研究所には、問答無用の援助打ち切りの通告と、今後の研究結果の学会への発表禁止が通達され、そこで働いていた研究員には事実上の死刑宣告がなされるのである。
結果として閉鎖されたそれらの施設で非人道的な扱いを受けていた被験者は数多い。彼らに対してどのような救済を行うべきかは意見が別れた。一番多かった意見は、口をきける者には相当の金を掴ませて黙らせる、どうしても聞き分けのない人間はその記憶を操作して外に放り出す。もう口もきけなくなった人間は『人道的な処分』を行うというものであり、大方がそれに同意した。もっとも連邦の首脳達に意見を求めれば、青い顔で別の方法を提案したかも知れなかったが、しかしこの程度の案件についてそこまでの上申はされなかったのだ。
そのようにして、幾つかの案件がアレクセイの手によって処理された。彼がこの件についての対応窓口となるのにそう時間はかからなかった。このまま事件が収束に向かえば、当然第一の功労者は彼ということになるだろう。
まずまず満足すべき結果であった。
ただ一つ汚点があるとすれば、現在違法研究を堂々と行っているほとんど唯一の研究機関であった連邦政府最高学府のお抱え研究機関を摘発したことで、その学長が彼の事務所に怒鳴り込んできたことくらいだろうか。その時は流石の彼も対応に苦慮し、上司にあるがままの事実を報告した。少しの間だけ渋い顔をした上司は、彼のデスクに設えられた電話を取り、彼の知らない内線をプッシュした。
その結果は驚くべきものだった。
事務所の一番奥の、VIP用の会議室で、怒り狂う学長をなだめすかしていたアレクセイとその上司の元を訪れたのは、彼自身ですら数えるほどしかその顔を見たことのない、連邦主席その人であったのだ。
驚いたのはアレクセイだけではなかった。その上司も、そして学長も驚いて目を丸くした。しかしその直後、学長は顔を真っ赤にしてアレクセイの調査の違法を切々と説いた。そして、その研究の有効性もである。
『よろしいですかな、主席。この者の違法な調査の結果、我々の研究にはとてつもなく大きな遅延と取り返しの付かない障害が生まれました。それは、人類全体の損失と言っても過言ではないものなのです』
よく言う、とアレクセイは思った。仮に彼らの研究が人類全体の総意に適うものなのならば、日の当たるところで堂々とすべきなのだ。それを、最高学府の名前などどこにも出さない地方研究施設の地下に、浴びるほどの税金を使った最高水準研究設備を密かに運び込み、そして脅迫や拉致を含む違法手段で揃えた実験材料を切り刻みながら、何の臆面もなくよく言ったとはこのことであろう。
それに、その研究の結果、人類全体に奉仕するような素晴らしい研究結果が表れたとして、その研究結果は学長本人の立場を強固とするためにまず奉仕させられるのは目に見えている。自分自身の利益を奪われたと弾劾するならいざ知らず、まるで自分が人類全体の奉仕者であるかのように被害者面をするのはいっそ見事と言うべきであったかも知れない。
ほとんど無限にも続くかと思われたアレクセイとその上司に対する非難の嵐を、マヌエル・シルベスタン三世は真剣な面持ちで聞き続けた。所々、相づちを打つように頷いたりもした。
やがてしゃべり疲れたのだろうか、赤ら顔で息を切らした学長は、途切れ途切れの調子でアレクセイ及びその上司の罷免と、研究の即時再開を求めた。彼は、そのあまりに当然の権利は叶えられるものと信じて疑わなかった。でなくば、多忙を極める国家元首がこんなせまっくるしいオフィスに顔を見せる理由が無い。これは、不当な弾圧に対する義憤に燃える、学長たる自分に対する誠意の表れなのだと心から信じ切っていた。
しかし、三世の返答は冷淡を極めた。
『申し訳ありませんが学長、あなたの要求に応じることは出来ません』
『…ほう、それは何故?国家主席として広い視野と見識を誇るあなたのお言葉とも思えませんな』
さすがに怒鳴り散らしたりはせず、その内心を押し殺しながら学長は尋ねた。それでもこめかみの辺りに太い血管が浮き出ているのは隠しようもない。
『この者達の調査態度に見直すべき点があったのなら謝罪させて頂きましょう。そして強く言い聞かせておきます。しかし、彼らの行った調査と、その後の処理自体には何の違法性もない。それは、連邦憲章以下各種法律に照らしたところで明らかです』
『主席、私はあなたの狭量さに失望を隠せません。あなたは、我々のする研究がどれほど多くの人達を幸福へと導いてきたか、知らないわけではありますまい?』
『ええ、よく存じ上げております』
主席は頷いた。確かに、その研究所が行った実験の成果として、数々の難病の治療方法や画期的な人体補助器具が生み出されているのは事実だったのだ。そして、その成果によって救われた人間が数多くいることもまた事実である。だからこそ、非合法の人体実験という危ない橋の通行許可証を彼らに認め続けたのであり、多額の予算を組みもしたのだ。
彼も、若い頃は今よりも理想に燃えている時期があった。そんなとき、彼の父たる当時の国家主席から、そういった施設の存在を聞かされた。当然、若かりし日の彼は怒った。そのように、人を人と思わぬような、前時代的な在り方が許されていいのか、と。
彼の父は、そんな彼を、遠い昔の自分を眺めるように優しく見つめながら、特に優しい声で諭したものだ。この世は全て綺麗事のみで丸く収まるわけではない。清濁併せのむとは安い言葉であるが、為政者として必要な資質の一つである、と。
なおも噛み付く息子に、父親は諭した。
『昔、お前は一度大病で死にかけた。そんな時にお前を死の淵から救ったのは、彼らが違法な研究によって生み出した特効薬の一つだ』
マヌエルは、それ以上の弾劾を口にすることが出来なくなった。
そして彼は父の後を継いで為政者となり、その過程として清濁併せのむ技量と心構えを身に付けていったのだ。
それらの結果として今、学長と相対する彼は、あくまで淡々とした口調で言った。
『確かにあなた方の行っていた研究は、人類全体に資するものでした』
『現在行っている研究です。そして、資するものなのです』
憮然とした学長は、主席の発言を微妙に修正した。それから表情を微妙に変え、そのまま続ける。
『さすが主席です。あなたが今仰ったとおり、我々の研究は広大な宇宙に手を広げ、その全てを包み込もうとしてる人類の大きすぎる体を健康に保つため、なくてはならないものなのです。ならば、それが故なく中断せざるを得ない現状の時間の浪費がどれほどの損失が、分からぬわけではありますまい』
『中断ではありません。中止、しかも永久的な凍結です』
今度は主席が、学長の発言を修正した。毅然とした、如何にも有能な為政者然とした様子で、だ。
対する学長は、先ほどの主席ほどには落ち着いていなかった。
いよいよ自分の主張が通らないらしいと自覚したのだろうか、本日最大の噴火をした。
『何故です!?何故いまさら、研究を中止しなければならないのですか!?まさか、極めて局所的で限られた人道主義にとらわれたわけではありますまいな!そうでしたら、私は心底あなたを軽蔑しますぞ!この広大な宇宙の頂点に立たれる為政者であるあなたが、大局を見誤り、たった一人や二人の被験者の人権のために人類全体の幸福の追求権をないがしろになされるのですか!?』
口角泡を飛ばす有様で学長は叫んだ。ほとんど、幼児が泣き喚く様子と変わらない。
アレクセイはこの遣り取りを冷ややかに見つめていた。この男は人類全体という言葉がどうしても好きなのだなと感心したほどだ。
確かに、一人の人間の犠牲で百人の命が助けられるならば、その一人の命は見捨てられて然るべきだ。別に過度の人道主義者ではないアレクセイもその点には深く同意する。
しかし、その一人には、取捨選択を司る神の一人子が選ばれることはない。選ばれるのは、いつだって声の小さい、何の権利の主張も許されない弱い人間達である。もしもこの学長の下で働いていた研究者達が、自分の子供達や両親を率先して実験材料にしていたというのであれば、彼はこの場で土下座をして己の不明を詫びてもいいと思った。
そんな彼の内心を忖度したわけでもあるまいが、主席は淡々と答えた。
『学長、落ち着いて聞いて頂きたい。私は、別にあなたの仰るところの、安っぽい人道主義にとらわれたわけではありません』
『では、何故!?』
『先ほどあなたも仰ったでしょう。私は局所的な人道主義にとらわれることなく、人類全体の奉仕者として活動している。私があなた方の研究を排斥するのは、正しくこの一点からなのです』
『戯言を!いいですかな!?私の研究で、よしんば一人の人生が台無しになったとして、その先には百人、千人の幸福が待っている!そのためならば、私は敢えて汚名も被ろう!その覚悟を、あなたは無価値と断ぜられるか!?』
ほら地がでた、とアレクセイは内心でほくそ笑んだ。研究が『私の』研究と様変わりをし、そして『汚名を被る』という自己犠牲的な言葉も、裏を返せば自分達が行ってる実験の高度な違法性の認識の現れである。そもそも、部下の違法の責任を上司が償うのは人間社会の古来から当然の仕儀なのだ。それをさも自分が勇者であるように言われたのではたまらない。
主席も、諦めたような顔で首を横に振った。
『いいですか、ブラッド学長』
それは、癇癪を起こした我が子に語りかける母親の声の優しさと、ほとんど変わるところがなかった。
『私の言葉ではあなたに納得して頂くのは難しいようだ。なので、あなたの言葉で説明申し上げましょう。確かに、一人の犠牲で百人が救われるならば素晴らしい。私は為政者として、迷いなく一人の犠牲を選択するでしょう』
『ならばっ!』
『しかし、その百人の幸福を追求するために十億七千五百万人にも及ぶ人命が危機にさらされる可能性があるならば、私は百人の幸福を切り捨てることを選びます。何の迷いもなくね』
『…何人ですって?』
『聞き取れませんでしたか?ならばもう一度申し上げましょう。十億七千五百万人です』
学長は唖然とした顔で尋ね、主席は青ざめた顔色でそれに答えた。まさかそのような答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう、弁舌家でならす学長は咄嗟に返す言葉も思い浮かず、茫然とした表情を浮かべ続けた。
『…あなたは何を言っておられるのだ?』
『あなたの知らないことです。あなたが私の言っていることが理解できなくとも、あなたには何の責任もない。そして、あなたが知る必要のあることでもない』
そう言い捨てて、主席は立ち上がった。
それはことさらに彼の権威を高めようと演出した結果ではなく、純粋に、彼の脳裏に蘇った恐ろしい記憶を振り切るための儀式のようなものだった。
『私の伝えるべきことは全て伝えました。これ以上の話は、お互いにとって時間の無駄というものでしょう』
『ま、待って下さい主席!』
『もしあなた方がこれ以上の違法研究に手を染めたいのであれば、今の私が為すべきことも為せることもありません。どうぞご自由に。しかし、私がその事実を把握したときは、可能な限りの厳罰をもって処断させて頂く。その時にこそあなたは、この共和宇宙の最高指導者の権力がどの程度のものかを知ることになるでしょう』
『そ、そんな!あと一歩なんだ!あと一歩で、医学史に私の名が載るような偉大な研究の成果が…!』
『では伝えましたぞ、ブラッド学長』
縋り付く学長を振り払い、主席は会議室を後にした。
残されたのは茫然自失の態で床にへたり込む最高学府長と、唖然として二人の会話を見守っていたアレクセイとその上司である。
やがて我を取り戻した二人は、未だ我を忘れたように口を開きっぱなしの学長の両脇を掴み、丁重にオフィスの外に放り出した。今のその男に、先ほどまで力強く二人を弾劾していたときの若々しさも威厳も、欠片として存在していなかった。
嵐のような時間が過ぎ去った後で、アレクセイは上司に己の不始末を詫びた。別に彼の仕事自体に問題があったわけではないことは他ならぬ行政庁の長からお墨付きを頂いてしまったわけだが、しかしこういうときは一応の謝罪と、事態を収めてもらったことに対するお礼をするべきなのだ。
それに答える上司の声は、未だ何か夢を見ている様子であった。
自分のオフィスに帰ったアレクセイは、興味半分の視線で自分を見る部下達をぎらりと睨みつけ、そして黙らせた。内心で両腕をあげて大喜びをしながらもここまで演技ができるあたり、ひょっとしたら彼の天性は役者の方面でこそ輝いたのかも知れなかったが。
上出来である。
これだけの案件、責任者が誰かと考えなかったこともないが、しかしまさかこの宇宙の最高権力者であるとは思わなかった。当然自分の報告書は彼のもとまで上げられているのだろうし、その結果が彼にとって満足いくべきものだったことは先ほど証明されたようなものだ。
これで、彼は今まで自分が望むべくも無いと思っていた地位にある人間と強力なパイプで結ばれていることを知った。これまで世話をしてきてやった、凡百の政治屋共とはわけが違う。父、子、孫と三代続く、燦然たる血統書付きの一族に、自分の名を知って貰えたのだ。しかも、ほとんど間違いなく有能な官吏として。このことに喜ばない方がおかしい。
あとは、今は限りなく細く頼りないこのパイプを、ことあるごとに太く長くしていくだけである。そうすれば、いずれは連邦主席補佐といった要職に就くことも夢ではないように思われた。
彼は、自らの幸福を神に感謝したものだ。
彼のもとに奇妙な報告書が舞い込んだのは、彼自身のこれからの輝かしい前途に対して自宅で盛大な前祝いを催した、正にその翌日のことだった。