懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
地獄のような、道行きであった。
深い、森の中を歩いているのだ。
いくら月の明るい夜とはいえ、人の目では、闇を見通すのに限界がある。
木々の作り出した暗闇は濃密で、足下すら見えない。時折、突き出た木の枝が肌を引っ掻き、ひりひりと灼け付くように痛みが走る。
途中、幾度も足を滑らしそうになった。その度に、本来必要でなかった力を筋肉に込めねばならず、足取りはどんどん重たくなっていく。
山の夜気は、容赦なく体温を奪っていく。乾いた風は喉を渇かし、唾を飲み込む度に、張り付いた喉がばりばりと裂けるみたいな音がする。
それでも老人が何とか歩けるのは、先を行く少女が、彼のために道を慣らしてくれているからに違いなかった。
「大丈夫かい、じいさん」
少女が振り返る。そうすると、闇にも明るい金髪がはらりと舞い、幻想的な美しさに疲労をしばし忘れてしまう。
だが、そろそろではないだろうか。
老いた自分に、この道行きは最初から無謀だったのだ。
それくらい、分かっていた。それなのに、何とかなると、そう思い誤ってしまっただけのこと。
「……わしのことは、いい。もう、きみだけで行きなさい。もしも捕まったところで、わしはすぐにどうこうされることはあるまいよ。だが、きみはそうはいくまい」
老人の言葉は、もっともであった。もしもこの少女が敵の手に落ちれば、言葉にするのもおぞましいような目に遭わされるに違いなかった。
その点、少女は反駁したりはしない。
ただ、不思議そうに言うのである。
「じゃあ、じいさん、あんた、もうお姉様に会わなくてもいいのかよ。きっと、今会わなけりゃ、二度と会えないぜ」
老人は、果たして、何と答えようとしたのだろう。
もう、会う必要はないと。
そう言えば、再び、少女の無邪気な視線が、胸の奥に二度と消えない傷を残していくような、気がした。
会いたい、と。会って、何を伝えるのかは知らないが、それでも会う必要がある、と。
ならば、言葉は不要だ。無駄口を叩く暇があるならば、たとえ一歩でも、足を前に。
そして、老人は歩いた。つまり、そういうことなのだ。
少女も、先を進もうとした、その時。
木々の向こうから、遠吠えが、聞こえた。
「なんだ……狼か?」
立ち止まった老人の声に、僅かな動揺があった。
この、手元もはっきり見えないような夜に、狼の群れと鉢合わせになれば、即ち死を意味する。武器を持たない人間如き、四つ足の生き物にとっては、飢えを満たすための贄にしか過ぎないことを、老人は知っていた。
少女も、ぴたりと動きを止めた。
「まずいな……」
焦慮を含んだ少女の声。
あやすように、老人が言った。
「狼のことは、気にすることはない。この時期、山には食料が多い。彼らも、おいそれと人には手を出さんよ」
しかし少女は、首を横に振り、
「違う。今のは、縄張りに自分達以外の生き物が進入したことを、群れに知らせる合図だぜ」
「それは、我々が……?」
「いや、多分、追っ手の連中だ。予想以上に追いつかれているらしいや」
少女は、さもつまらなそうに言った。
くんくんと、風に向かって鼻を鳴らす。
「多分、犬がいるな。真っ直ぐに、こっちに向かってきてる。あっちは、追跡用の装備も万全だろうからよ、どんなに頑張ったって、あと1時間もすればケツに噛みつかれるぜ」
それに、あちらには余分な荷物もいないのだ。
自分を余分な荷物であると自覚している老人は、絶望的な気持ちになった。
そして、やはり少女だけでも先行して欲しいと、そう言おうとした、その時。
「なぁ、爺さん。あんた、口は堅いほうかい?」
足を止めた少女が、こちらを見ている。
そんなことを話している場合ではないはずだ。
だが、どこまでも真剣な少女の顔が、老人の口を封じた。
「答えてくれよ。時間がないんだ」
「……わしは、固い方だと信じておる」
「じゃあ、今から見たことも、聞いたことも、全部、誰にも言わないって約束できるかい?」
老人は、おそるおそると頷いた。
「……分かった。これから何が起ころうと、わしは、見ざる聞かざる言わざるを押し通そう」
少女は、深く頷いた。
それからちょうど30分後、その場所に、迷彩服を纏った男達が姿を現した。
顔に暗視ゴーグルを付け、片手に拳銃、片手に軍用犬のリードを握るという、物々しい格好だ。
何人かでチームを組んでいるのだろう、行動に乱れがない。
うち一人が、手で、後続に制止の合図を伝えた。
目標の足跡に、異変があったからだ。
今まで一目散に歩いてきた二人分の足跡が、ここで、何度か止まり、方向を変えたりしている。
方向を変えているのは、先行していた少女のものだ。
おそらく、ここで何かを話し合ったのだろう。
そして、その後は……。
足跡は、急に山道を逸れ、藪の中へと突き進んでいた。
追っ手を巻こうとしているのか……。
だとすれば、何ともお粗末な話だ。藪に入り、草を踏み分ければ、これ以上ないというほどに分かりやすい痕跡が残る。
彼はチームに足跡の発見を伝え、自ら藪の中に分け入った。
ばりばりと、枯れ枝を躙る音が闇夜に響く。この音は自分達の居場所を獲物へと伝え、その焦慮を誘い、体力を削り取るに違いない。
左手に伝わるリードを引く力から、彼の相棒の、興奮している様子が伝わってくる。
目標が近いのだ。臭気の鮮度が、それを伝えているのだろう。
よく訓練され、吠え声一つ漏らさないが、その牙が獲物を求めて逸っている様子が、ありありと分かった。
興奮は、兵士へと伝わり、増幅され、犬に還元される。
一人と一匹は、先を急ぎ、山道を下りた。
やがて、どこからか、水音が聞こえることに気が付いた。
兵士は、足を緩めた。山で水音が聞こえるならば、沢か、滝があるのだろう。足を踏み外して転げ落ちれば、大けがをするか、最悪のケースではそのまま死に至る。
藪を抜け、獣道を下る頃には、ごうごうと響く川の流れが感じ取れるようになっていた。
慎重に歩を進め、一つ小高く膨れた地形を越したところで、彼は眼下に、川が流れているのを見た。
川幅はそれほどではないが、十分な水量のある、川だ。流れが大岩にぶつかるところでは、豪快な飛沫が舞い散っている。
川岸は砂利が敷き詰められたようになっており、そこに、二人分の足跡が続いている。
「臭いを消そうとしたか……」
川に入り、そこを下れば、臭いは水と一緒に流れていく。そして、足跡ももちろん残らない。追跡を惑わすには格好の場所だ。
だが、浅はかだ。川の流れは、相当急激である。この暗がりの中、そうそう長い距離を歩くことは出来まい。
兵士は躊躇いなく、流れに足を踏み入れた。
川は、膝上を僅かに濡らす程度の深さだったが、予想したよりも流れが強い。
兵士は慎重に渡河し、反対側の川原を確かめた。後続の部隊も彼に倣い、目標の痕跡を探そうと躍起になっている。
しかし、痕跡は中々見つからない。
あちら側には、確かに、川へと足を踏み入れた痕跡はあった。なのに、こちら側には、岸に上がった痕跡が全くないのだ。
人が川原を歩けば、石が動く。水が垂れる。これは、どれほど訓練された兵士でも、防ぐことはできないはずだ。
だが、反対側の川原で、石が最近動かされた跡といえば、精々が野の獣の足跡、鳥がほじくり返したような石、風で転がった丸石程度で、どこにも人の足跡が残っていない。
水の滴った跡も、人が水辺から歩いてきたようなものはない。川からの飛沫が飛んだ程度のものだ。
焦りを感じた兵士は、さらに奥へと足を進めようとした。
犬を先行させるために、リードに合図を送る。
「……?」
そこで彼は、異変に気が付いた。
犬が、地面に根を生やしたように、ぴくりとも動かないのだ。
訝しんだ兵士が、近づいて様子を見ると、尻尾が地面に垂れ、耳が完全に後ろに倒れている。
先ほどまでの、勇壮に獲物の痕跡を辿っていた、軍用犬の姿ではない。
まるで、飼い主の体罰に怯え、哀れを乞う、飼い犬の姿だ。
「おい、どうした、いくぞ」
小声で、声をかけてやる。そうすれば、少しは安心すると思ったからだ。
だが、いつだって兵士に忠実であり、常ならば燃えさかる建物の中へだって果敢に飛び込むはずのその犬は、いやいやと首を振りながら、どうしたってその場を動こうとしない。
さすがに異常を感じた兵士が辺りを見回すと、他のコンビも、だいたい同じような有様であった。
優秀な軍用犬の全てが、隠しようのない恐怖に、体を強張らせていたのだ。
冷たい感覚が、一滴、熟練の兵士の背を滑り落ちた。
いったい、何が起こっているんだ……。
その時、背に感じた冷たさと同じくらいに冷たい何かが、兵士の額を打った。
最初に一滴、すぐにもう一滴。
顔を上げると、既にそこには月明かりはない。星明かりも、最後の一つが、分厚い雲に覆い隠されようとしているところだった。
天候が、変わった。
おそらく、大雨が降る。
ひょっとしたら、犬の怯えもこれだったのだろうか。確かに、このままこの場所で捜索を続けて、鉄砲水にでも飲み込まれれば、絶対に助かるまい。
追跡に気を取られて、今の今まで気が付かなかった自分に、腹が立った。
チームリーダーもそのことに気が付いたのだろう、通信機に、追跡の中断と、一時避難が告げられた。
兵士達は、任務の失敗を予感した。
◇
東の空が、やや青ざめ始めている。もう少しすれば、それは鮮烈な橙へと色を変え、朝の到来を告げるのだろう。
夜更けの驟雨に洗われた空気は、まだまだ冷たいが、少しずつ夜が遠ざかり始めているのが分かる。
ジャスミンは、まんじりともせずに、玄関の前に立っていた。
じっと、前だけを見つめて、微動だにしない。
彫像のようですらある。
その彼女が動いたのは、森の奥からこちらに向かって歩いてくる、二人の人影を認めたからである。
ジャスミンの顔を、僅かな安堵が覆った。
「遅かったな。いや、早かったというべきか?」
二人とも、頭のてっぺんからつま先まで、濡れみずくである。雨宿りもせずに、移動を続けたのか。
夏場とはいえ、雨は想像以上に体力を奪う。冬場であれば、それこそ命の危険もある。
だが、二人の足取りは、思った以上にしっかりとしている。これなら、すぐに体を温めれば、大事に至ることはあるまい。
ジャスミンの杞憂を吹き飛ばすように、人影の片方が、疲れた笑みを浮かべた。
「おはよう、お姉様」
「どうやって帰ってきた?まさか、あそこから走ってきたわけでもないだろうに」
ヴェロニカ教の総本山までは、ジャスミン達の潜伏している隠れ家から、車で2時間をくだらない。
それは、人の足が一夜で踏破できる距離を、大きく凌駕している。
いくら若く、人並み外れて頑健であるメイフゥとはいえ、何らかの乗り物を使わなければ、移動できる距離ではあり得ない。
メイフゥは、やはり微かに笑っただけで、答えなかった。
ジャスミンも、それ以上、メイフゥを問いただすことはなかった。彼女らが無事にここまで帰ってきてくれたのだから、その移動手段などどうでもいいことなのだし、体中、雨水と汗でびしょびしょに濡れ、疲弊しきった様子のメイフゥを気遣いたかったというのもある。
「疲れたろう。湯を沸かしてある。まずは、体を温めなさい」
「うん、ありがとう、お姉様」
メイフゥは、力ない笑みを浮かべた。
普段の彼女の、屈託のない笑顔ではない。
疲労と自嘲を浮かべた、後ろ向きな笑顔だ。
ジャスミンは、その理由を、痛いほどに理解していた。
「メイフゥ。ことの子細は、全てダイアナから聞いた」
メイフゥの体が、小さく竦んだように、ジャスミンには見えた。まるで、母親に折檻されることを恐れる、少女みたいに。
ジャスミンは、ゆっくりとした歩調で近づき、メイフゥの前に立った。
濡れ鼠のメイフゥは、唇を噛み締め、じっと己の足下を睨み付けている。
唇の端から、一筋、赤い線が、つぅと伝った。
「きみに責任が全くなかった、とは言わない。ウォルをこの星に慰留し、今回の騒動に巻き込まれる切っ掛けを作ったのは、きみなのだから」
メイフゥは、一言も答えなかった。
ただじっと、震える視線で、自分の足下を睨み付けているだけだ。
「だが、一番悪いのは、ウォルを手籠めにしたゲス野郎であって、きみじゃない。きみが悪かったとしても、一番責任を負うべき人間は、他にいる。絶対に、そこだけは履き違えるな。きみは、そこまで弱い人間ではないはずだ」
メイフゥの足下に、ぽつりぽつりと、染みが出来ていく。
食いしばった歯の隙間から、耐え難い嗚咽が漏れ出す。
懸命にしゃくり上げるのを堪えている少女を、ジャスミンは、母親のように抱きしめてやった。
「どうしよう、おねえさま、あたし、どうしよう、もしも、ウォルが、しんじゃったら、どうしよう……」
「大丈夫だ。ウォルは、強い。絶対に、そんな男や薬なんかに、負けない。だから、大丈夫だ。まだ間に合う」
「うん、うん、でも、でもね、でもねぇ……」
「今は泣きなさい。だが、すぐに泣き止みなさい。きみの弟が帰ってきたときに、そんな情けない有様を見せるわけにはいかないのだろう?何せ、きみはあの少年の、姉なんだから」
「……ひぃ、ん……うえぇえ、うえぇぇぇん……」
メイフゥは、ジャスミンにしがみつき、泣いた。
人目も憚らない、幼児が癇癪を起こしたみたいに、大声を上げて泣いた。
ジャスミンは、自分の服が涙と鼻水で濡れるのを厭わず、ずっと抱き締めてやった。
やがて、少女の慟哭は、啜り泣く声に変わっていった。
「落ち着いたか?」
ジャスミンの声に、メイフゥは、恥ずかしそうに顔を上げて、笑っていた。
先ほどの、薄暗い笑顔ではない。まだ幾分影が差しているとはいえ、それは前を向いて歩くことを決意した人間の、笑顔であった。
「ごめんね、お姉様。情けないところ、見せちまったよ」
「ああ、たいそう情けなかった。だが、安心しなさい。子供は、大人に甘えるのが仕事なんだ。依存し過ぎることはもちろん問題だが、上手に甘えることの出来ない子供も、それはそれで危なっかしい。そういう意味では、安心したくらいだ」
真剣な面持ちで言う。
メイフゥは、真っ赤に泣きはらした目を、にっこりとさせた。
「かなわないよなぁ、お姉様には」
体を、名残惜しげにジャスミンから離し、鼻を一つ啜ると、
「じゃあ、風呂に入ってくるよ。出来れば、飯の用意、お願いしときたいんだけど、いいかな?」
「ああ。きみの弟ほど手の込んだ料理を期待されても、困るがな」
「あいつ、料理は上手いんだよ。裁縫も上手いし、家事はだいたいそつなくこなす。あたしは、あいつより腕っ節が強いだけさ。そんで、あたしが苦手なことは、だいたい、あいつは上手いんだ」
ぐいと、服の袖で顔を拭ったメイフゥが、自分のことを話すみたいに、嬉しそうに言った。
そして、家の中へと消えていった。
メイフゥの後ろ姿を見送ったジャスミンは、再び視線を前に戻し、残ったもう一人の人物に対して頭を下げた。
「老師。このような厄介事に巻き込んでしまい、本当に申し訳ありませんでした。償いは如何様にでもさせて頂きますが、どうか今は、我々と行動をともにして頂きますよう、よろしくお願いします」
疲労に、肌を鉛色にしたビアンキは、疲れを吹き飛ばすような笑顔を浮かべた。
「それを言い始めれば、全ての原因は、我らに帰することになりましょう。このような、ヴェロニカ内部のごたごたに、あなたのようにお忙しい方を巻き込んでしまい、こちらのほうこそお詫びのしようもございません」
「では、お互い様ということにしておきましょうか」
ビアンキは、笑った。ジャスミンが全てを水に流そうとしていることを、理解したからだ。
なんとも気持ちのいい、すっきりとした笑顔である。
ジャスミンは老人の笑みに、昨日顔を合わせた時に感じた、得体の知れない怖気を感じることはなくなっていた。
文字通り、憑き物が落ちたような、顔だったのだ。
「何か、ありましたか、老師」
「何か、とは?」
「失礼ですが、まるで、昨日とは別の方とお話しているような気がします」
老人は、笑顔を収めて、真剣な調子で言った。
「わしは、今日、初めて、神の声を聞いたような、そんな気がします」
「神の声、と」
ジャスミンの訝しげな声に、老人は、確と頷いた。
「長く平和を保った──それがたとえ表面上のことに過ぎなかったとしても──この星に、今、このような事態が起こっているのも。その中で、あなた方がわしの元を訪れたのも。そして、今、わしがこうして、おめおめと生き恥を晒しているのも。全てが神のご意志だったように、今は感じます」
「ヴェロニカ教に神はいないと、そう仰ったのはあなたご自身なのに、ですか?」
ジャスミンの、いささか意地の悪い質問にも、老人は、苦笑一つ溢さない。
ただ、優しく凪いだ瞳で、先ほどメイフゥが消えた、玄関の扉を眺めている。
ジャスミンは、それ以上、質問はしなかった。
「老師もお疲れでしょう。何か、暖かいものでも入れましょう。それに、濡れた体をそのままにしておけば、悪い風邪を召すかもしれません。着替えの方も、用意してあります」
「ご厚意はありがたく頂戴いたしましょう。ただ、茶のほうはわしに煎れさせて下され。ちょうど、よいものを手に入れましたでな」
「それは楽しみだ。是非、お願いします」
ジャスミンとビアンキは、揃って玄関へと足を進めた。
◇
インユェが隠れ家に帰着したのは、太陽が地平線から完全に顔を出した、その直後のことだった。
バイクのエンジンを切り、フルフェイスのヘルメットを外した少年。ほぼ正面から差し込む陽光に照らし出されたその顔は、濃い疲労に彩られていた。
あれから、道無き道をバイクで下り、街まで辿り着いた。そこで自分のバイクを乗り捨て、適当に見繕った誰かの所有物であるバイクを失敬し、ぐるぐると街中を走り回ってからここまで来たのだ。
尾行の可能性がある時は、神経質なまでに臆病なくらいでちょうど良い。それが、メイフゥやヤームルから、ことあるごとに叩き込まれてきた教訓の一つであり、インユェはその教えを完全に実行した。
思ったよりも時間はかかってしまったが、これで自分が尾行されているという可能性はないはずだ。車はもちろん、ヘリや飛行機の存在にも気を配った。万が一衛星で監視されている可能性も考慮して、地下やトンネルも潜った。
そして、やっとの思いでここまで辿り着いたのである。
誰のものとも知れないバイクから降り、かちこちになった足の筋肉を無理矢理に動かして、隠れ家の玄関を潜る。
すると、なんとも食欲を刺激する、良い香りが漂ってきた。
「やっと帰ってきたか」
廊下を歩き、リビングの扉を開けると、テーブルの正面に、赤毛の女性がどっしりとした様子で座っていた。
インユェは、僅かに体が強張るのを感じた。先日、この女性にこてんぱんに伸されて以来、頭ではなく体の方に、凄まじい苦手意識をすり込まれてしまったのだ。
「もう、我々は食事を済ませた。きみも、さっさと済ませなさい」
確かに、テーブルには一人分の食事が残されている。
色々と言いたいことはあった。自分と姉に全てを押しつけて自分は家でぬくぬくしていやがったのか、とか、散々走り回ってやっとの思いで帰ってきた自分にお疲れ様の一言もなしか、とか、そういう言葉だ。
だが、何を言っても言い負かされそうな気がしたので、止めた。
その代わりに、せめてもの意思表示として、視線に不機嫌なものを込めて睨み付けてみたが、自身のそれよりも遙かに恐ろしく、そして冷たい視線で返されて、インユェはあっさりと視線を逸らした。
別に負けたわけではないと内心で自分を慰めて、席に座る。
四人がけのテーブルは、自分の席以外は、既に満員であった。
正面に、気にくわない、でか女。
右手に、自身の姉である、メイフゥ。
左手には、先ほど、倉庫で見かけた老人が座っている。確か、名前をミア・ビアンキと言っただろうか。どうやらヴェロニカ教では相当の重鎮らしいが、自分には全く関係ないことだからどうでもいい。
そして、テーブルに並んだ料理らしきものに視線を遣って、インユェはげんなりと肩を落とした。
別に、食べ物とは到底思えない異物が並んでいるわけではない。しかし、缶を開けただけのコンビーフやアスパラガス、封を切って暖めただけのレトルトシリアルのパウチなんかが、そのまま並んでいるのはどうだろう。
栄養バランスは悪くないのだが、これは文化的食事という表現は到底できない。ただ腹に収めるだけの食事だ。
内心で毒づいたインユェだが、口の中に唾液が湧いてくるのは、どうにも止めようがなかった。一晩中、緊張とともにバイクを走らせ続けたのだ。体は、自身が想定していた以上に疲労し、回復のための栄養分を欲している。
フォークを取り、無言で、目の前の食べ物を征服していく。意外と旨かったのが、何とも業腹であった。
「さて、これで全員、揃ったようですな。それでは、茶でも煎れて進ぜましょうか」
意外なことに、最初に口を開いたのは、ビアンキであった。
好々爺とした表情で、いそいそと立ち上がり、リビングに併設されたキッチンに立った。
到底、ヴェロニカ教の指導者、ひいてはヴェロニカ共和国の重鎮であった人物とは思えない、庶民的な様子だ。
「老師、なにもあなたが自ら、そのようなことをされなくても」
少し慌てた様子のジャスミンであったが、当のビアンキは、本当に嬉しそうな顔で、
「最近は弟子連中が、こういう楽しみの全てを老いぼれから取り上げていくのですよ。わしは、茶を煎れるのが好きなのですがね。ミズ・クーア、あなたも老い先短いこの老体から、生き甲斐を取り上げ為さるので?」
かくしゃくとした様子でそんなことを言うのだから、ジャスミンとしても返す言葉がない。
浅めの溜息を一つ吐き出し、浮かしかけた腰を落ち着けた。
そんなジャスミンを尻目に、ビアンキは、老人とは思えない手際の良さで湯を沸かし、隣のコンロで何かを炒り始めた。
途端、胸を漉くような、名状し難い香りが、全員の鼻腔をくすぐった。
花のように香しい、コーヒーのように香ばしい、不思議な香りだ。
ビアンキは適当なところで手を止め、炒り上がったものをコーヒーミルに流し込み、ごりごりと挽いた。細かく砕かれたそれを、フィルターを収めたマグカップに入れて、上から熱湯を注ぎ込む。
「本当は、もっと違う入れ方をする茶なのですが、まぁ、こんな方法でも大丈夫でしょう」
湯気の立つマグカップを、人数分用意して、老人はリビングへと戻った。
盆の上に並んだそれを、各人に配った。
湯気と、良い香りの立ちのぼるマグカップの中には、澄んだ濃茶色の液体が、なみなみと入れられていた。
「どうぞ、試してみてくだされ。久方ぶりゆえ、味の方は保証しませんがな」
「頂きましょう」
ジャスミンは、躊躇いなく茶を啜った。
途端、豊かな芳香が口中を満たし、仄かな甘みが舌を覆った。
砂糖など、一粒だって入れていないはずだ。しかし、得も言われぬ不思議な甘みを感じることが出来る。
ジャスミンは暖かい吐息をついて、頬を綻ばした。
「素晴らしいお手前です」
「うん、お姉様の言うとおり、これはいけるね。あたし、こんなに旨い茶は初めて飲んだよ。じいさん、これ、何から作った茶なの?」
ジャスミンと同じように、ほっこりと微笑したメイフゥが、言った。
ビアンキは、にやりと、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
「何も特別なものではないぞ、メイフゥくん。これはな、そこらに生えている草の実を、茶に煎じただけのものよ」
予想外の言葉に、ジャスミンは、目を丸くした。
「老師、よろしいのですか。わたしなどが申し上げるのも僭越ですが、ヴェロニカ教では確か……」
「ええ、言うまでもなく、野の青果を口にすることは、きつく禁じられております。これでわしも、唾棄すべき破戒僧の仲間入りと、そういうことになりますな」
楽しげな声で、老人は言った。
「ですが、この茶を頂くことは、わしが若い時分には、禁忌でも何でもなかった。この星のどこの家庭でも、この茶を普通に啜っておったものです」
「それはどういう意味ですか?」
「なんということはありません。ただ、教義が書き換えられたと、それだけの話です」
ビアンキは、あの山道で愛弟子にしたのと、同じ話を語った。
だが、愛弟子が返したほどの驚きを、この場に居合わせた三人が浮かべてくれなかったのは、少し寂しそうだったかも知れない。
「驚かれませんか」
ビアンキの声に、ジャスミンは、
「そういうこともあるかと思っていました。何せ、今でこそ人体に必要なあらゆる栄養素を含むという、菜食主義者には夢のような野菜を作っているヴェロニカ共和国ですが、その作物が完成する前には、当然今と異なる食生活を営んでいたはずです。我々からすれば、それは別に驚くようなことではありません」
「仰るとおりです。しかし、我らのように閉じた世界に暮らす人間にとっては、これほど些細な変化に、天と地がひっくり返ったような衝撃を受けたものです。全く、馬鹿馬鹿しいと言えば、これほど馬鹿馬鹿しいこともないのでしょうが……」
ビアンキは、自らの煎れた茶を啜り、ほう、と息を吐き出した。
「この茶は、カラという植物の実を、焙煎して拵えたものです。お口にあったようで、よかった」
「カラとは、確か、酒の原料に使う?」
ビアンキは、ジャスミンの言葉に驚いたようだった。
「何故それをご存じで?」
「この星についた最初の夜に、とある酒場で、カラという名前の植物から作った酒を出されました。洗練された味とはいえませんでしたが、非常に力強い旨味のある、酒でした」
ビアンキは、嬉しそうに頷いた。
「わしは酒を嗜みませんが、しかし周りの人間は、あなたと同じことを言っていた。そして、あの芳醇な香りは、今でも思い出すことが出来る。そうですか、まだ、あの酒を出している店が、あったのですか」
「ですが、それも今年で終わりだと言っていました。その酒を造る職人が、既に故人であるから、と」
ジャスミンは、表情を消して、言った。
それだけで、ビアンキは、どういうことかを悟ったようだった。
静かに目を閉じ、名も知れぬ誰かに黙祷を捧げた。
「その方は、ヴェロニカ教徒でしたか?」
この言葉に応えたのは、ジャスミンではなかった。
「ヤームルは……あたしらの親代わりの人はさ、その人、ヴェロニカ教徒じゃなかったって言ってたぜ。ヴェロニカ教徒でもない人間が、どうして野のカラを採っただけで殺されなけりゃならないのかって、憤ってた」
「その、ヤームルという御仁の仰るとおりでしょう。我らヴェロニカ教徒は、教徒以外の人間が肉を食べようが野の青果を食べようが、それを非難することはありません。それが、生き方の違いだからです。ですが、今の時代、そのような主義主張は、時代遅れなのかも知れません」
ビアンキは、言葉を句切り、
「しかし、ヴェロニカの失われた伝統を、ヴェロニカ教徒以外の人間が伝えていたというのも、なんとも皮肉な話です。その方はおそらく、カラの採取が禁じられる前のヴェロニカを、ご存じだったのですな」
窓の外の、波打つ草の海に目をやり、ぽつりと呟いた。
そして、テーブルをぐるりと見回し、最後にジャスミンに視線を置き、決意を込めた声で、言った。
「ミズ・クーア。わしを、許して欲しい。わしは、嘘つきだ。そして、惰弱者だ。昨日切った啖呵を飲み込んで、恥知らずにも、あなたに全ての荷物を預けようとしている。それを、あなたは許してくれるだろうか」
ビアンキの言葉の意味を、ジャスミンは正確に理解した。
この老人は、自分がひたすらに背負ってきた荷物を、今、自分に預けようとしているのだ。
ジャスミンは頷いた。
「わたしでよろしければ。ただ、わたしは、あなたに何一つ約束できません。そして、わたしはこの星に対して、何ら責任を負っているわけでもない。もちろん、この星に住む、あらゆる人々に対しても。それでもよろしいのですか?」
老人は頷き、
「そんなあなただからこそ、わしは荷物を預けるつもりになった。そして、きみたちにも」
ビアンキの視線は、メイフゥとインユェにも向けられた。
初めてインユェが口を開いた。
「へっ?なんで、俺?」
情けない声で、インユェは自分を指さした。
だが、ビアンキは、メイフゥの方を見遣り、
「メイフゥくん。きみがそうならば、この少年も、そうなのだろう?」
メイフゥは、表情を消して、躊躇いがちに頷いた。
インユェには、一体何のことか分からない。自分とメイフゥに、姉弟である以上の共通項があるのだろうか。
ビアンキは、再び、決意めいた視線をインユェに寄越した。それだけで、年若いインユェは、なんとも居心地の悪い思いを味わうはめになったのだ。
「ならば、きみたちにも、全てを知る権利があるのだと、わしは思う。もしもこの星に神がいて、その方が運命の糸を弾いていらっしゃるならば、それをこそ望まれるだろう」
ビアンキは、マグカップを傾け、カラ茶の最後の一滴を飲み干した。
そして、誰を見るでもない視線を彼方へと向けながら、口を開いた。
「わしが語るのは、この星に住む人々の歴史、そして彼らが信仰する神の歴史。少し長くなるが、よろしいか?」
全員が、その表情に差はあれど、頷いた。
「この星、今は惑星ヴェロニカの名で呼ばれるこの星は、人類が宇宙探索の歴史を機織り始めて、極々初期に見つかった星であり、そして、直後に見捨てられた星でもある」
「見捨てられた星、ですか」
ジャスミンの声に、ビアンキは首肯した。
「さよう。これだけの緑があり、水資源も豊富、鉱山資源こそ乏しかったが、居住用惑星としては申し分ない条件を備えたはずのこの星は、我らの祖先が移住するまで、宇宙開発からは完全に取り残された星でした」
「そいつはおかしいぜ、じいさん。これだけの星を、宇宙への足がかりを喉から手が出るよりも欲しがっていた当時の人類が、放っておくわけがねえ。今の時代でだって、こんな好条件の居住用惑星が見つかったら、とんでもない騒ぎになるのは間違いねえんだぜ」
「無論、理由無くこの星が見捨てられたのではない。寧ろ、深刻な理由があった」
全員の視線が、ビアンキの口元に集中していた。
「理由は至極単純。この星への移住を始めた先遣隊の悉くが、原因不明の病で全滅したのだ。それも、一度や二度ではない。都合十回以上に及ぶ移住計画は、その全てが、一年のうちに隊員の全員死亡という悲劇的結末をもって頓挫しておる」
ジャスミンは、訝しげに首を傾げた。
「十回以上に及ぶ移住計画の全てが失敗し、参加した隊員の全員が死亡した、と。老師、わたしは宇宙開発の歴史には人並み以上の知識を備えているつもりですが、そのような重大事件について、初めて聞きました」
「これは、あくまで我らのうちに口伝で伝わる歴史ゆえ、真実か否かは分かりませぬ。だが、十回以上の移住計画を進めて、無為に隊員を死なせたとあれば、それは計画責任者の無能を示すことにもなりかねん。それを望まぬ誰かが、全てを闇に葬ったとして、わしはそれほど不思議ではないと思う」
「なるほど。失礼しました、続けて下さい」
ビアンキは頷き、
「当然のことながら、原因の究明は、速やかに、そして徹底的に行われた。正体不明の病原菌、毒物汚染、未知の放射線の存在……。ありとあらゆる角度から研究と検証が行われたが、原因らしき原因は見つからず、誰も立ち寄ることの無くなったその星は、熟練の船乗りでも近寄らない呪われた星となった」
「それで、見捨てられた星、か。そいつは無理もないかもね」
メイフゥは、そう呟いた。
宇宙生活者である彼女には、当時の船乗りや移民達の気持ちが、手に取るように分かった。
宇宙は、人が勝負を挑むには、あまりに広く、あまりに深く、何よりも凶暴だ。人智を越えた何かがそこには宿っていて、自分達を飲み込むために大きな口を開けているのだと、偏執的な妄想に取り憑かれたことのない船乗りが、この世にいるのだろうか。
人が、文明と知識の光でもって駆逐したはずの、闇夜に潜む化け物の類が、この宇宙にはひしめいている。人の生み出した光程度では、宇宙の隅々まで照らすことが出来ないのかも知れない。
「そして、その呪われた星を買い取ったのが、我らの祖先である人々である」
星を買う。
荒唐無稽な話であり、現在においても、マックス・クーアなどの極々例外を除けば、星の個人所有など認められてはいない。
だが、そういう曰く付きの星であれば、買い取るというのも不可能では無いのかも知れない。
「当然、安い買い物ではなかった。貧しい人々が、爪に火を灯すようにして貯めた金銭を持ち寄り、何とかして買うことが出来た」
「老師。それが、この星の公の歴史にある、建国譚の人々ですか?」
ジャスミンの質問に、ビアンキは深く頷いた。
「彼らは、古来より独自の宗教観と生活様式を頑なに守り続け、それが原因で周囲の民族から迫害され続けた人々らしい。ごく一部の指導者を除き、本当に貧しい生活を送ってきた。そして、宇宙時代が始まっても、その迫害が止むことはなく、あらゆる新天地において移住を拒否され、最後まで母なる惑星に残らざるを得なかった」
それは、ジャスミンも知る、この国の歴史であった。
「だが、母なる惑星の環境は、既に人の住めるものではなくなっておった。資源は枯渇し、大気と水は汚染され、動物はおろか植物も満足に育たない。そのまま母なる惑星に住み続ければ、民族はいずれ根絶やしになる、それは誰しもが分かっておったのじゃ。そして、彼らは最後に決断した」
「それが、呪われた星への移住、ですか」
「うむ。無論、いきなり全員が移住したのではない。そうすれば、過去の失敗をそのままなぞることになるのは目に見えておったからの。有志のうち、後顧の憂いなき者が、宗教的な使命感を胸に秘め、宇宙の果てへと旅立った」
「彼らは、報われたのですか」
ビアンキは、首を横に振った。
「一年を待たず、全ての人間が病死した。当然と言えば、当然すぎる結果だった」
しかし、と、ビアンキは続ける。
「彼らと、初期の移住計画を進めた先遣隊との違いは、その情熱にあった。それとも、追い詰められたが故の危機感が、恐怖に勝ったのやもしれません。とにかく、彼らは諦めなかった。十度で駄目なら二十。それで駄目なら三十と、何度も何度も人を送った。移住する場所も、時期も変え、自らの命を実験台にするように挑み続けた。彼らにとって幸いだったのは──それが個々の隊員にとって幸福だったかは別にして──志願者に事欠かなかったことです。普通、移住計画の失敗した惑星に、好んで行きたがる人間はいない。それが十も続けば、誰一人手を上げなくなる。しかし、彼らは一度たりとて諦めなかった。それが、彼らの歴史に刻まれた迫害の深刻さの裏返しと考えれば、あまりにも憐れなのですが……」
「そして、移住は成功した?」
「いや、全て失敗に終わった。いずれも、当初の、政府が推し進めた移住計画の隊員と同じ病を原因として、一年と待たずに死んだ。無論、原因も不明なままでした」
「ひでぇな。じゃあ、全員犬死にかよ」
メイフゥは、声を荒げて言った。
彼女は、宇宙生活者である自分に誇りを持っている。だからこそ、そのような形で、宇宙を目指した人間が使い捨てにされたことに、深く憤っているのだ。
「だが、成果が全くなかったわけではない。ついに、移住計画は、都合四十二度目、幾万を超える信徒の屍の上に、成功を見る」
「それは、何故?」
「四十二度目の計画に参加した隊員の中に、ヴェロニカという名前の女性が、いたからよ」
ビアンキは、静かに目を閉じた。
「彼女が何者だったのか、あらゆる記録にも、我らの口伝にも、その詳細は残っていない。ただ、第四十二回移住計画隊の隊長だった彼女は、その天才的な閃きをもって、この星に巣くう病魔の正体を見破ったのです」
「病魔の正体、ですか」
「考えてみれば、これほど単純なこともなかった。しかし、当時の常識では、その正体を見つけ出すことは、困難を極めたのもまた事実。それまでの計画の責任者を徒に責めるわけにもいくまいよ」
ビアンキは、ジャスミンの方に顔を向けた。
「ミズ・クーア。あなたは、その正体に、気が付いているのではないですかな?」
ジャスミンは、答えない。
ビアンキは、苦笑して、続ける。
「ヴェロニカは、四十一度の失敗の犠牲者、その全ての経歴に目を通し、この星での生活ぶり、死に至るまでの過程を紐解き、全ての結果を集計した。そこまでは、今まで、誰しもが試みたことです。そして、誰も真実に辿り着けなかった。しかしある日、ついに彼女は、一つの結論に至った」
「それは、一体?」
「原因は、この星の食物にある。いや、この星で育てた食物に、というべきか。そう、確信を得たのですよ。病に早く罹るのは、働き盛りで食欲も旺盛な男性の若者が多かった。それに比べ、同年代であっても、比較的食の細い女性などは、病に罹るまでに長く時間を必要とした。そして、彼らの摂っていた食事の内容も、肉を盛んに食べた者は病の進行が早く、野菜や穀物を食事の中心にしていた者は病の進行が緩やかだった」
「この星の作物に、毒が入っていたと、そういうことかい?」
メイフゥの質問に、ビアンキは首肯した。
「早い話がそういうことだ。初期の宇宙移民は、今のように、食料を他星系から輸入するなどという方法で確保することが不可能だった。理由は、輸送コストが莫大なものになるためよ。つまり、食料は全て現地調達に頼らざるを得ん。無論のこと、そのための地質調査や生態系調査は必要不可欠だが、それでも、極々稀に、解明不可能な毒物というものもある。この星は、正しくその毒物に汚染されておったのよ。肉を食う人間のほうが病の進行が早かったのは、おそらく生物濃縮された毒物を摂取した結果に違いないと、彼女は気が付いたのですな」
「……そんなもんのせいで、何万人もの宇宙移民が死んだのかよ」
「うむ。もしも、現在の技術水準を得た後にこの星が見つかっておれば、彼らは死なずにすんだ。ある意味では、犬死にさせたと言われても、返す言葉もない」
まるで自分自身が全ての責任を負っているように、ビアンキは言った。
そして、続ける。
「原因は、朧気ながら分かった。しかし、だからといって解決策があるわけではない。他星系から食料を運ぶのは不可能。ではこの星で食料を生産するしかないが、しかし原因の毒物が一体何なのか、それが何に含まれていて、どのような経路で最終的に人の口に入るのか、全てが謎だ。その上、時間は無限にあるわけではない。度重なる失敗に人々の心は病み疲れ、母なる惑星の状況はいよいよ退っ引きならないものへと悪化していく。誰の目にも、刻限が差し迫っておるのは明らかでした」
ビアンキは、閉じていた瞼を、静かに持ち上げた。
「伝説では、それは満月の夜だったらしい。ヴェロニカは、四十二回目の移住計画に参加した全ての人間を一同に集め、右手に麦に似た植物を掲げ、言った。『我らは今後、この星では、この植物以外は口にしない。動物の肉も、決して口にしてはならない。最低限の栄養を得るために乳を飲む以外、その他の動物性食品を口にすることも禁じる』、と」
「そりゃあ、中々厳しいお達しだねえ」
メイフゥが、しみじみと言う。
人は、食べることを何よりの楽しみにする生き物だ。その生活の場が、故郷から遠く離れた未開の惑星ともなれば、食へと求められる娯楽の比重はいや増すに違いない。
ヴェロニカという女性は、その全てを捨てよと言ったのだ。そして、得体の知れない、この星原産の植物だけを食べろ、と。
「皆、何が何やら分からなかったに違いないと思う。下手をすれば、あまりの重圧に精神を病んだのだと誤解されたとしても不思議のない状況だ。それでも彼女の指示が、ある程度まで行き届いたのは、培ってきた彼女への信頼というものが確固としていたからでしょうな」
「それで、全員が、そのヴェロニカってぇ女の人の言うことに従ったのかい?」
ビアンキは、首を横に振った。
「そんなはずはない。ヴェロニカは気が狂ったのだと、彼女を見放した者も多くいた。その人達は、自分達の中からリーダーを選出し、勝手に行動を始めた。しかし、一年も経たぬうちに、結果はあまりにもはっきりと現れた。ヴェロニカの指示に従い、この星原産の麦に似た穀物と、少量の乳──それも、脂肪分を抜き、脱脂粉乳としたものだけを口にしていた人々は、誰一人として病に罹らなかった。しかし、彼女の指示に従わなかった人々は……」
「全員が、死んだ」
ジャスミンが、ぽつりと呟いた。
ビアンキは、頷いた。
「しかし、これは綺羅星のような成果であった。ヴェロニカが、一体どのような方法をもって、その植物には毒が含まれていないのかを解明したのかは分からないが、それでも病を、毒を避けるための方法が確立したのだ。母なる星から、本格的な移民団が訪れ、迫害のない、自由なる大地を祝福した。ほとんど単一の食品しか口に出来ないというのは確かに苦痛ではあったが、彼らが受け続けてきた迫害の歴史、母なる惑星の汚染された環境の中で生きることに比べれば、何ほどのこともない。幾万の犠牲の上に、ついに移民計画は成功したのだ」
「ちなみに、その麦に似た植物ってのは……」
「言うまでもなかろう。今、我々が茶にして飲んだ。カラという植物よ」
ビアンキ以外の全員が、マグカップに残った小豆色の液体に目を落とした。
「……じいさん。ってことはさ、こいつには毒は含まれてないんだな」
「そのおかげで、我々はこの星で生き抜くことができた。カラに毒は含まれておらん。それは、間違いない事実じゃ」
メイフゥとインユェは、胸をなで下ろした。
この星の食物が毒物汚染されていると聞いたときから、気が気でなかったのだ。
明らかにほっとした様子の二人を眺めて、僅かに目尻を落としたビアンキだったが、すぐに表情をあらためた。
「このようにして、移民は成功した。しかし、本当の悲劇は、その先に待っていたのです」
「悲劇、とは?」
「浅ましい、あまりに浅ましいことよ。母なる星の豪奢な宮殿の中で最後までぬくぬくと暮らし、新天地の安全性が確約された後でようやくこの星を訪れた、民族の指導者達が、ヴェロニカを排除にかかったのよ」
ビアンキは、苦々しい声で続けた。
「彼らの危機感は凄まじいものがあったのだろう。都合数万人の、勇気ある計画隊の命を奪った病魔の原因を、朧気ながらも突き止めたヴェロニカという女性には、惜しみない尊敬の念が捧げられた。当時の彼女は、建国の母とまで讃えられておったらしい。それに比べ、指導者たちは、嵐の危機が去った後で、頑丈な砦からひょっこりと顔を出したに過ぎん。民衆の尊敬がどちらに集まるか、言うまでもなかろう」
「……伝説の中では、聖女ヴェロニカは、火刑に処されたとありますが……」
「いや、そこまでの事態には及ばなんだ。しかし、考えようによっては、もっと悲惨な事態が起こった」
「それは、一体?」
ジャスミンの前で、ビアンキは、うっすらとした笑みを浮かべた。
「内戦です」
ごくりと、誰かが唾を飲み込んだ。
「度重なる迫害に耐え、絶望的と言われた移民計画を成功させ、ようやく新天地に辿り着いた人々は、その足で、同胞の屍を踏みにじり始めたのです。かたや、ヴェロニカを旗頭に掲げた民衆軍。かたや、旧指導陣が率いる政府軍。この星に辿り着いたばかりで、重火器すらほとんど揃っていないはずの彼らは、まるで原始人がそうするように、石槍や弓矢を武器として、それまで凍える夜に肩身を寄せ合って励まし合ってきた隣人と、殺し合った」
「……馬鹿馬鹿しい」
「この争いは、今の子供達には、食料を巡る深刻な争いがあったのだと伝えられている。結果として、全移民のうち、約一割が戦死した。間接的に命を落とした人間を合わせれば、三割ほどの人間が、ようやく辿り着いた理想郷で、無駄死にをするはめとなった。その中には、食糧難を理由に野の食物に手を出し、病死した人間も数多くいたから、今、子供達に教えられている歴史も、あながち間違ったものではないのかも知れんな」
ビアンキの顔を、皮肉な笑みが覆った。
「内戦は、民衆軍の勝利で幕を下ろし、旧指導陣の全ては処刑された。しかし、内戦の混乱の中で、建国の母と呼ばれたヴェロニカは行方知れずとなり、民衆は仰ぐべきシンボルを喪失した。だが、民衆が一つにまとまるためには、その心を纏めるための旗がいる。そして、彼らはヴェロニカを聖女と崇め奉り、旧来自分達が信仰してきた教義に、彼女の教えを混ぜ込み、二度とこのような悲劇が起きぬよう、一つの宗教を成立させた。それが、ヴェロニカ教の始まりよ」
しんと、リビングに、重苦しい空気が流れた。
ビアンキは、しゃべり疲れて乾いた喉を潤すために、マグカップに湯を注いだ。
再び、カラ茶の芳醇な香りが、部屋を満たす。
「……話はわかったよ、じいさん。でもさ、肝心なところを教えてもらってないぜ」
「肝心なところ、とは何のことかな、メイフゥくん」
メイフゥは、豪奢な金髪の中に手を突っ込み、がりがりと掻きむしった。
竹を割ったような性格の少女には、宗教がどうの内戦がどうのという話は、あまり性が合わなかったらしい。どうにも、苦み走ったような表情だ。
「その、何万人っていう移民の命を奪った、この星の毒物ってのは何なのさ。そこをぼかしたままじゃあ、生殺しってもんだぜ」
「おお、そうじゃな。すっかり忘れておったよ」
ビアンキは、ほくほくと笑った。
その表情が、メイフゥなどには、とてつもなく恐ろしい何かに見えたのだ。
「病で死んだ人間の症状は、正しく伝説のとおりよ。メイフゥくん、きみは、ヴェロニカ教の教典に目を通したことはないのかね?」
メイフゥは、総本山へと向かう途中、車内で読んだ、鈍器と見紛うほどに分厚い書物のことを思い出して、げんなりとした顔つきになった。
「ああ、一度見たことがあるよ。でも、最初の1ページで諦めちまったんだ。あまりにも面白みがなかったからさ」
「ならば、十分だ。その、最初の1ページには、一体何と書かれていたか、覚えているかな?」
メイフゥは、宙を見つめながら、記憶の紐を引き寄せた。
「ええっと、確か……ヴェロニカの大地がどうのこうの……そんで……」
「『病を乗せた風が吹き、赤子も老人も死んだ。手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ』……でしたか」
ジャスミンは、教典の一節を諳んじた。
ビアンキは、良くできた弟子を眺めるように、嬉しそうな表情で、
「その通り。その一節が、正しくその病の症状なのですよ」
「手足を石のように強張らせた。つまり、四肢末端の神経障害、もしくは筋肉組織の麻痺、硬直。舌は言葉を失った。つまり、言語を司る高次脳機能の一部に障害が生じたか、それとも発音器官に麻痺が生じたか……。最後に、口から胃の腑を吐き出したというのは、内臓の融解に伴い猛烈な嘔吐が起こっていると、そういうことでしょうか」
「非常に正確な表現だと思う。正しく、初期の移民達は、そのような、言語に絶する地獄を味わい、腐敗した内臓を口と肛門から吐き出して、死んでいった」
想像するだけで身の毛もよだつ、あまりに悲惨な死に様だ。
しかし、メイフゥの顔から表情を奪ったのは、普通の少女のように、死体の有様を想像して吐き気を催したからではない。
「……四肢の麻痺と硬直、言語障害、そして内臓の融解、だって?」
メイフゥは、驚愕していた。おそらく、一生で、一番驚愕していた。
ただでさえ大きな瞳が、限界まで見開かれ、まるで眼球がそのまま零れ落ちそうな有様だ。唇は細かく戦慄き、血の気をすっかり失ってしまっている。
少女の体が細かく震えるから、マグカップの中のカラ茶が、さざ波を起こした。
姉のただならぬ様子に、インユェが、心配そうに声をかけた。
「おい、メイフゥ、どうしたんだよ。何があったんだよ」
「……ありえねえぇだろ、そりゃ。だって、たった一つの鉱山じゃない。この星全体だぞ?そんなのどう考えたって……」
「おい、姉ちゃん!どうしたんだよ!」
椅子を後ろに倒して立ち上がったインユェが、がたがたと震える姉の肩を、前後に揺さぶった。
それで、ようやくメイフゥは、インユェの存在を認めた。
「……おい、インユェ。お前、さっきの話を聞いて、何も気が付かなかったのか?」
「何もって……何がだよ。ちゃんと説明してくれよ。俺、ちっともわかんねえよ」
インユェは、盛大な雷が落とされるのを覚悟した。こういうとき、姉はいつだって、あほぼけかすと連呼して、頭の回転の遅い弟をなじったものだ。
しかし、今のメイフゥには、そんな余裕すらないようだった。
「……あたしとお前が資源探索者になったとき、師匠が言ってたじゃねえか。資源探索者は、宇宙を馬鹿みたいに彷徨うだけじゃ駄目だ。時には頭を使って、資料とにらめっこすることも大切だってよ」
インユェは、ヤームルが紹介してくれた、気難しいそうな職人気質の老人を思い出していた。
あまりにぶっきらぼうな物言いに、最初は好感の一欠片も持てなかったが、今は尊敬している人だ。自分がこの凶暴な宇宙を旅して、極々僅かな可能性の中から資源を探し当てることが出来たのも、その人のおかげだと感謝している。
その人の教えは、全て頭に焼き付けてある。今更、指摘されることでもない。
「ああ、それくらい、分かってるけどよ、それが何だってんだよ」
「じゃあ、師匠はその時、何て言ってた?どういう資料がお宝に繋がるって言っていたか、言ってみな」
「ええっと……鉱物をたっぷり蓄えた小惑星を探したけりゃ、その星系の成り立ちを追えとか……ある種の鉱山は未発見のうちに鉱毒被害者が出ることがあるから、ハッキングしてでも病院のカルテを漁れとか……」
その時、インユェの脳裏に、引っかかるものがあった。
そうだ。あれは、鉱毒の講義を受けていた時だ。
確か、さっき、あのでか女が口にした症例に当てはまる鉱毒が、あったんじゃないか。
極微量の毒素を口にしただけで、四肢に麻痺性の障害が現れ、言語障害が発生し、最終的には体中の組織が壊死して、腐敗した内臓を吐き出しながら死んでいく、鉱毒病。
筆舌に尽くしがたい苦痛を患者に与える、悪魔のような病。
しかし、資源探索者の間では、その病は、こう呼ばれている。
黄金病。
それは、金鉱脈が中毒を引き起こすからではない。この病を引き起こす原因となった鉱物が、金以上に、金銭になる鉱物だからだ。
その鉱物の名前を──。
「トリジウム……」
インユェが呟いたのは、この共和宇宙で、最も稀少で、そして最も高値で取引される、鉱物の名前であった。
インユェは、あまりの衝撃に、ちょうど先ほどまでの姉と同じような表情で、固まってしまった。
この場では、ただ一人、ジャスミンだけが、静かな面持ちで、ビアンキの次の言葉を待っている。
そして、老人は、はっきりと言った。
「おそらく、皆さんの考えている、とおりでしょうな。この星は、惑星ヴェロニカは、それ自体が巨大なトリジウム鉱山なのですよ」