懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第五十五話:牢屋の夜

 闇である。

 深い、闇が目の前にある。

 底を見通すことが、出来ない。

 自分が溶け込んでしまうような、境界の見えない、闇だ。

 この場所では、左右の目が映し出す視界は、寸分の違いもない。

 瞼を持ち上げても、下ろしても、変化はない。

 眼球があろうが無かろうが、それすらも関係がない。

 どこまでも深い、漆黒に覆われている。

 その闇の奥から、ぴちょん、と、音がした。

 水の垂れる、音だ。

 どこかで、水が滴り落ちているのだ。

 きっと、石造りの天井で結露した水滴が、重力に耐え難くなり、丸々となって落ちていくのだろう。

 床には、彼の先人の作り出したかび臭い水たまりが広がっており、仲間が落ちてくるのを今か今かと待ち構えている。

 水滴は水たまりに波紋を起こし、やがて同化し、次の仲間を待ちわびる。

 そんな光景が、意味もなく男の脳裏に閃いた。

 音もなく、光もない空間にいると、思考が狂うのだろうか。

 その時、石の床に腰掛けた男の、剥き出しの足の裏を、何かがくすぐっていった。

 反射的にケリーが身を捩ると、かさかさと、神経に障る足音をたてて離れていく。

 ゴキブリか、それとも得体の知れない節足動物が、死体と間違えたのだろう。

 もう、何度目か分からない、感触だ。おっかなびっくり触ってみては、びっくりして逃げていく。そこは、やはり虫の愚かさなのか。それとも、早く自分を喰らいたくて、居ても立ってもいられないのか。

 生憎、まだ生きている。まだ、お前らに集られてやる訳には、いかない。

 男は、くすりと笑った。

 その拍子に、手首に巻かれた鎖が、じゃらりと、重々しく擦れた。

 石の壁に貼り付けになった上半身が、そろそろ重たく感じる。

 いったい何時からこの姿勢でいるのかわからないが、腹の虫がご機嫌斜めなことから、おそらく一昼夜はここにいるのだろう。

 闇の中は、少し蒸し暑い。凍えるよりはましなのかも知れないが、どこかから漂ってくるかび臭さと、肉の腐る臭気の入り交じった粘着質な空気は、どうにも耐え難い。

 男の肌を、汗が、つうと伝い落ちた。滑らかな上半身を鏡の上のように滑り落ち、一糸纏わぬ裸体を通って、石の床で染みへと化ける。

 喉が、乾いていた。

 水分を摂ったのも、この獄に繋がれる前、あの朝食の席が最後だ。発汗量から考えると、そろそろ脱水症状を起こしても不思議ではない頃合いである。

 

「ったく、俺は大切なお客様じゃあなかったのかよ」

 

 掠れた喉で、男は呟いた。

 別に、賓客としてもてなして欲しいわけでは、ない。むしろ、怖気がするくらいだ。

 だが、自分の置かれた状況を鑑みれば、愚痴の一つも溢れようというもの。

 虜囚となったケリーは、疲労と自嘲に満ちた笑みを、浮かべた。

 

 不思議には、思っていたのだ。

 どうして、マルゴたちは、自分とアーロンを置いて、部屋を出て行ったのか。

 アーロンは、自分を、命の恩人だという。大切なお客様だという。

 しかし、第三者の視点に立てば、自分は紛れもない危険人物だ。どう考えても、マルゴのような立場の人間からして、アーロンと二人きりにしていい人間ではない。

 それを、ああも簡単に、何の未練もなく、退出した。

 その異常に、気が付くべきだったのだ。

 

『墓を……あいつらの墓を、暴きやがったな!』

 

 ケリーの怒声が、朝ぼらけに包まれた食堂を、震わせた。

 ケリーは、紛れもなく怒っていた。怒り狂っていた。

 何故なら、彼が怒り狂うに十分過ぎることを、目の前の男がしでかしていたからだ。

 汚されたのだ。

 あの呪われた星の赤い大地の下で、永遠の眠りについた仲間達の、汚されざるべき尊厳が、汚された。

 ケリーの、今は空隙となった右眼窩に、あのときの光景が再生された。

 火山口のような大穴に、家畜の死体よりも呆気なく投げ捨てられた、仲間の残骸。

 昨日まで、ともに銃把を抱え、空の薬莢と鮮血の飛び交う戦場を駆け抜けた、家族。

 自分の腕の中で、冷たくなった、初恋のひと。

 もう、今は、動かない。どこにいるのかすら、わからない。虚ろな目をした死体の群れの、一部になってしまった。

 その上に、さらに、死体が折り重なる。男も女もない。子供も大人もない。ごみくず同然という一事において、彼らは全く平等に取り扱われていた。

 無限のような大穴は、すぐに、ウィノアの勇者達の残骸で、満杯になってしまった。

 ケリーは、その光景を、じっと見ていた。

 もう二度と光を映さない右目で、じっと見ていた。

 絶対に忘れないために。自分が何者で、何を為すために生き残ったのかを、絶対に忘れないために。

 やがて数台のショベルカーが、大穴へと土を被せていく。

 全てを無かったことに。全てを見えないところに。

 臭いものには、蓋を。

 ああ、そうか。そういうことか。

 俺達は、そういうものだったのか。

 最後の死体の、天に向かって伸ばされたような細い腕が、土砂に埋もれたときに、ケリーは決意した。

 いいぜ。そっちがそういうつもりなら、そういうことで構わない。

 俺は、俺たちは、そういうものなんだ。

 そういう目的のために作られて、そういう目的がなくなったら、何の躊躇いもなく廃棄される。

 それはそれで、構わないさ。それが道具の宿命だ。

 だが、俺は生き残ったんだ。

 だから、そういう目的のために、生き続けてやる。

 ただ、もう、敵はいなくなっちまった。俺たちと同じ有様で、廃棄されたんだ。

 このままじゃあ、目的が果たせない。そんなの、俺を作ってくれた誰かさんに、申し訳がないってもんじゃあないか。

 なら、仕方ないよな。俺がそういう目的のために生きるなら、どうしたって必要なものがある。

 敵だ。

 敵がいなければ、始まらない。なにせ、俺は、そういう目的のために作られたんだ。

 生き延びたんだ。

 刃は当然、矛先を変えざるを得ない。そうしなければ、俺の存在命題が達成できない。

 つまり、これからは、あんたらが俺の目的に、なってくれるんだ。

 そういうことだろう?

 それが、自然で、必然だ。

 そのくらいの覚悟は、当然、持ち合わせて、いるんだろう?

 全てが終わり、小山のように盛り上がった大地を──仲間達の墓標を眺める少年は、もう、泣いていなかった。

 そして、少年は青年となり、全てを成し遂げた。

 殺戮のための道具として製造された彼は、その命題を達成したのだ。

 故郷は死の星となり、仲間達の安息を乱すものはいなくなった。

 ここは、自分達だけの星になった。

 それが、汚された。再び、彼らの死は、汚された。

 大人となった少年は、自らの意味を思い出していた。

 つまり、殺すということだ。その一事のために、自分はこの世に生を受けたのだ。

 だから、ケリーは、そうしようとした。

 今の彼を掣肘するものは、何もない。あったとしても、彼の怒りを阻むことなど出来ようはずもない。

 腹の底を、業火が炙っていた。

 怒りがそのまま殺意へと変換され、血流に乗って全身へと送り出される感覚だ。

 その瞬間、ケリーは、この宇宙で最も危険な生き物だった。

 弾けたゴムのように立ち上がる。椅子が後方に跳ね飛ばされ、間抜けな音を立てて倒れた。

 右手でナイフを掴み、左手でテーブルの上に駆け上り、そのまま、目の前の老人に飛びかかる。

 今のケリーに、善悪は関係ない。是非もない。相手がどういう経緯で故郷を失い、どれほどの苦労を乗り越えて今ここにいるのかも、関係ない。

 ただ、死んだ魚のような両目の、ちょうど中間に、ナイフを突き立てるためだけに、ケリーは男へと飛びかかった。

 

 そして、果たせなかった。

 

 手も足も出なかった。

 

 完膚無きまでに、自分は敗北した。

 

 そして、ケリーは獄へと繋がれた。

 

『あなたは、本当に、わたしの大切な恩人なのですよ。あまり、無茶をされては困ります。なので、どうかそこでゆっくりとなさってくださいな。あなたが天使に必要とされる、その時まで』

 

 アーロンは、なんとも痛ましげな表情で、鎖に繋がれたケリーを見下し、そう言った。

 もう少しで殺されそうになったという、怒りや恐れは微塵もない。

 きかん坊の子供を見るように、困ったように眉根を寄せて微笑みながら。

 そうなのだ。

 あの男は、自分を、正しく歯牙にもかけていない。

 それだけの力が、アーロン・レイノルズという男には、備わっていたのだ。

 だから、マルゴ達も、あっさりと部屋を出て行ったのだろう。もしもケリーが力一杯暴れ回ったとしても、アーロンには傷一つ付けられないことを、知っていたから。

 全くもって無様な話だ。

 ケリーの、端正な頬に刻まれた自嘲の笑みが、より凄惨なものになった。

 

 ああ、認めよう。ここまでは、とことんなところまで、負け犬ムードだった。

 

 だが、ここまでだ。

 

 このまま、終わらせるものか。

 

 仲間達の死を穢した報い。そして、自分をここまで虚仮にした、報い。

 あの男は、殺す。必ず。

 ケリーは固く決意した。

 しかし、何をするにしても、まずはここから脱出しなければ、話は前に進んでくれない。

 ケリーは、手錠の嵌められた腕を、強く動かしてみた。

 闇の中に、激しい金属音が鳴り響く。手首に、鋭い痛みが走る。

 しかし、手錠の先の鎖は、ちっとも緩んだ気配がない。

 当然だ。人間の力程度でどうにかなる枷など、枷の意味を為さないものではないか。

 

「うるさいな。静かにしてくれないか」

 

 闇の中から、ぼそりとした声が、聞こえた。

 ケリーは、内心で身構えた。今の今まで、この空間にいるのは自分だけだと思っていたからだ。

 目を凝らしても、闇の奥に何が潜んでいるのか、分からない。右目の義眼があれば話は別だが、人の目では、この暗闇はあまりにも分厚すぎるのだ。

 奥から、くつりと、笑い声が聞こえた。

 

「そう警戒しなさんな。俺もあんたと同じ、ただの獄囚だよ。飛びかかろうったって、くそったれ鎖が邪魔して出来やしない」

 

 闇の向こうから、じゃらりと、金属質な音がした。

 それは、今、ケリーの両手首に巻かれたものと同じ、錆びた鎖の音だろう。

 ケリーは、肩を竦めながら言った。 

 

「ああ、そいつは安心だ。こんな間の抜けた場所に一人っきりってのも、どうにもぞっとしないと思っていたところだぜ。話し相手の一人でもいれば、少しは気が紛れるってもんさ」

「奇遇だな。俺も、あんまり退屈なんで、そろそろ辟易していたところだ。袖振り合うもなんとやらってやつだな」

 

 どうやら、闇の向こうにいる人間も、ケリーと同じように肩を竦めたらしかった。

 声は、それほど若くない。闇の向こうにいるのが、年配の男性であることをケリーに教えた。

 だが、声自体には十分な精気が漲っており、矍鑠とした様子が目に浮かぶようですらある。

 ケリーは、おそらくは初めて出会った声の主が、なんだか気に入ってしまっていた。

 

「しかしお若いの。あんた、どうしてこんな辺鄙な場所にぶち込まれたんだ?いったい、どんなヘマをやらかした?」

 

 その声を聞いて、ケリーは苦笑した。

 だいたい、このような場所で話題になることなんて、相場が決まっている。自分がどのような罪を犯して獄に繋がれるはめになったのかと、あとは身の上話くらいのものだ。

 

「ま、大して悪いことはしてねえよ。ちょっと、この国の大統領を、殺そうとして失敗しただけさ」

 

 それは、普通であれば十分過ぎるほどの大罪である。

 姿の見えない声の主は、呵呵大笑に笑った。

 

「そうかそうか、そいつはいい。この国の大統領は、文句のつけようのないクソ野郎だ。だから、そいつを殺そうとするのは、悪いことじゃなくて良いことだ。だから、お前さんは大して悪いことをしてねえ。まったく、正直者じゃないか!」

 

 ケリーも笑った。

 このような、光の一条も差し込まないような獄に繋がれて、気の合う人間と出会ったのが、なんとも不可思議で面白かった。

 

「そういうあんたは、いったい何をやらかしたんだい?」

「それも、大したことじゃない。この国に住まう害虫の住処を、いくつか燻蒸消毒してやっただけだ。ついでに、そこに住んでる害虫連中も、一緒に駆除してやったがな」

「そいつは大した善行だ。全くもって、こんな場所にいれられる意味がわからねえな」

「ああ、お若いの、あんたの言うとおりだ。この世の中、何か間違えているに違いない」

 

 二人は、大いに笑った。

 

「しかし、あんた、その右目はどうした。あんまり穏やかな様子じゃないが、大統領派のやつらにやられたのか?」

 

 闇の向こうから、何とも気遣わしい声がした。

 ケリーは、驚いて、答えた。

 

「あんた、俺の顔が見えるのか?」

「ああ、見えるとも。俺達の目は、あんたらと違って、特別製なんだ。これくらいの暗がりなら、十分に見通せる。あんたの、ぽっかりとした右目だって、十分に見えている」

 

 ケリーは、無事な方の左目をぱちくりとさせてみたが、やはり暗闇は墨を溢したよりも濃密で、どうやったって声の主の顔は見えなかった。

 自分には相手の顔が見えないのに、相手には自分の顔が見えている。不愉快というわけではないが、どうにも承伏しがたいものを感じてしまうケリーだった。

 唇を尖らせて、拗ねた顔つきになる。

 そんなケリーを見て、声の主は、もう一度笑った。

 

「むくれるなよ、お若いの。これであんたも、人の気持ちってやつが分かっただろう。相手だけ見えているのに自分には見えないってのは、あんまり気持ちのいいものじゃない。特に、俺やあんたみたいな人種の間ではな」

「ああ、嫌ってほどにわかったさ」

 

 吐き捨てるように言う。

 そしてそのあとで、氷で背筋を撫でられたような、違和感を覚えた。

 さっき、闇の奥の男は、何と言った?

 これで人の気持ちが分かったか、と。

 まるで、普段ならば、ケリーこそが、暗闇の奥を見通せることを、知っているような口ぶり。

 そして、俺やあんたみたいな人種、という言葉。

 ケリーの眉根に、僅かな険が込められた。

 

「おいおい、どうした、お若いの。そんなに難しい顔をして、何か怖いことがあったかね?」

 

 声は、相変わらず飄々として、掴み所がない。

 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。

 深入りするのは危険かも知れない。しかし、だいたい、このような場所で、お互いが虜囚の身の上なのだ。もしかしたら相手はそう装っているだけなのかも知れないが、だとすればどれほど警戒したところで、声の主が自分を殺すのは、赤子の手を捻るよりも容易いに違いない。

 ケリーは、腹をくくった。

 

「なぁ、あんた。あんた、俺のことを、知っているのか」

 

 声の主は、相も変わらず脳天気な声で、

 

「ああ、知っている。よく、知っている、何せ俺たちは、こんなくそったれな場所で、辛気くさい面を付き合わせているんだ。なら、知らないはずがないだろう。なぁ、義眼のシンデレラボーイ様よ」

 

 ぞわりと、背中の産毛が立ち上がる感触を覚えた。

 義眼の海賊とは、ケリーがこの宇宙を飛び回り、ありとあらゆる組織から追い回されていた頃の、呼び名である。

 そしてケリーは、この宇宙で最も巨大な財閥の令嬢と、結婚をするはめになった。

 それが、今から50年ほども前の話。

 海賊ケリーと、シンデレラボーイ・ケリークーアが同一人物であると知らない人間は、一匹狼ケリーの噂を聞き絶えて、既に半世紀が経っていることになる。

 既に死んでいると、普通ならば思うだろう。

 反して、二人が同一人物であると知っている人間ならば、ケリーが宇宙船事故で故人となったことを知らないはずがない。

 いずれにせよ、今の自分を知る人間が、そう簡単に転がっているはずのないことを、ケリーは知っている。

 ならば、暗がりの奥にいる老人は、いったい何者なのか。

 

「ふん。あんたのそういう顔が拝めるだけで、みっともなくこの世にしがみついてきた甲斐があるってもんだな。まったく、情けない面だ、そいつは」

 

 声の主は、心底楽しそうに言った。

 ケリーは、憮然とした顔で呟いた。

 

「知ってるかい?」

「何を?」

「義眼の海賊は、死んだんだぜ。もう、何年も前の話だ」

「それは、ケリー・クーアって男のことだろう?知ってる。それは、よく知ってる」

 

 噛み締めるような、声だった。

 ケリーは続ける。

 

「じゃあ、どうして俺が、その死人と同じ人間だって結論になるんだい?」

 

 声の主は、興を削がれたように言った。

 

「おいおい、つまらないことを言うもんだな、あんた。一度死んで、頭が固くなっちまったか?」

「それでもいいさ。答えてくれよ」

「匂いだよ」

 

 闇の奥から、こともなげな声が聞こえた。

 

「顔や声は、簡単にいじれる。あんたと同じ顔、あんたと同じ声の人間なら、その気になれば百人だろうが千人だろうが、簡単に用意できる」

「ああ、知ってるぜ。嫌ってくらいにな」

 

 人為的なそっくりさんのせいで、危うく暴行魔にされかかったことのあるケリーは、頷いた。

 

「だが、人間の匂いってやつは、これが中々厄介なもんだ。指紋だろうが声紋だろうが、挙げ句の果てには遺伝子検査だろうが誤魔化せる名うての変装名人も、こいつだけは上手かった例しがない。どうしたって、ぼろが出る」

「当たり前だ。誰が、そんなもんをわざわざ誤魔化そうとするかよ。だがな、いくら匂いが一緒だからって、死んだ人間と同一人物だなんて、普通の人間は考えたりしないもんだぜ」

「普通の人間だなんて、辛気くさいことを言うなよ。俺には分かるんだ。あんたが、ケリー・クーアご本人様だってことがな。それで十分だろう」

 

 なるほど。

 理屈はよく分からないし、果たして匂いで個人の特定が可能なのかどうかも極めて眉唾な話ではあるが、声の主は、自分のことを知っているらしい。

 ケリーは、その声をどこかで聞いたことがないか、真剣に思い出してみたが、どうにも思い当たる節がない。それが、本当に聞いたことがないのか、忘れてしまっただけなのか、一度聞いたのに声質が変わってしまったのか、それすらも分からないのだが。

 分かっていることは、ただ一つだ。

 あちらにはこちらのことがほとんど審らかで、こちらにはあちらのことが何一つわからない。

 どうにも、気分がよろしくなかった。

 

「今日は厄日だな」

「ほう、そいつはどうしてだ」

「もう、ほとんどの煩わしいこととはおさらばしたつもりだったのさ。一回死んで、蘇って、これでようやく気楽に宇宙を飛び回れると思ったら、このざまだ。ここの大統領閣下といい、あんたといい、どうして俺をそっとしておいてくれないんだい?」

 

 如何にも情けない調子の声に、闇の奥で誰かが身を捩って笑い、その度に鎖がじゃらじゃらと鳴った。

 

「そいつは無茶な注文ってもんだな。あんたには、一生厄介事が付きまとうんだぜ。あんたは、そういう星のもとに生まれた。あんた自身が望んだとしても、他の何かがそれを許しちゃくれない。あんたはどうしたって、一生、平穏な生活を送ることは出来ないだろう。それは、あんたの奥さんも同じようにな。ざまあみやがれ」

 

 声の調子は、相も変わらず砕けきっているのに、どこかに皮肉な響きがある。

 ケリーは、確信した。

 この男、闇の奥にいる得体の知れない男は、ケリーという人間を、快く思っていない。

 いや、これもおそらくだが、ほとんど間違いなく。

 憎んでいる。

 

「あんた、俺の女房を知っているのか」

「ああ、知っているとも。女にしておくのが勿体ないくらい、迫力満点な女だった。あれは、本当にいい女だった。お前の女にしておくのが、勿体ないくらいにな」

「そいつはずいぶん高く買ってくれたもんだ。伝えておくぜ」

「是非伝えておいて欲しいものだ。あなたのファンの死に損ないが、こんな辺境で、性懲りもなく生きてたってな」

 

 今度は、幾分自嘲の込められた声であった。

 しかし、これで間違いない。

 この男と自分は一度ならず顔を合わせたことがあるのだろう。そして、どうやら、ジャスミンも。

 ケリーのことを知っている人間は、この宇宙に、数え切れないほどにいるだろう。同じく、ジャスミンのことを知っている人間もだ。

 だが、ケリーとジャスミンの二人と顔を合わせた人間となると、これは極端に限られてくる。

 政財界の人間ではない。闇を隔てて感じられる雰囲気には、宇宙を生活の場とする男達に特有の、荒んだ雰囲気があるからだ。

 しかも、ほぼ間違いなく、海賊だ。

 だが、ケリーはともかく、ジャスミンが交流のあった海賊とは、いったい誰だ?

 そして、つい最近、同じような思考をしたことがなかったか?

 あれは確か……。

 

「俺はな。あんたと出会ったら、一度聞いてみたいことがあった」

 

 楽しげな調子の声が、ケリーの思考を途切れさせた。

 まるで、酒場のあちこちで、グラスをかち合わせながら交わされるような、楽しげな声。

 

「……なんだい?」

「海賊たちの墓標の上で空けたヴィンテージワインの味はどうだったね?さぞ美味だったかい?」

 

 男の声は、相も変わらず楽しげであった。

 楽しげなまま、その奥に、煮えたぎるような憎悪を湛えていた。

 ケリーは、闇の奥から、自分を狙う銃口が延びてくるような、そんな気がした。

 

「……意味がわからねぇな。もう少し、分かりやすく言ってもらえると有り難いんだがね」

「そうか。宇宙を捨てて白亜の宮殿に住み替えた、クーア財閥の三代目様には、俺たち海賊如きの言葉はそんなに野卑に聞こえたか。なら、もう一度言ってやるさ。何度でも言ってやるさ。昔なじみを切り売りして拵えた札束のベッドは、さぞ寝心地が良かったろうな、共和宇宙経済の怪物よ」

 

 くつくつと、暗い笑い声を溢して、声の主は笑った。

 

「仮にも海賊の王と、キングと呼ばれた男がするには、ずいぶんと阿漕な真似だったよなぁ、ケリー・クーア。親父に助けられた恩なんて、とっくの昔に忘れちまったんだろう?それとも、海賊如きに命を救われた過去なんて、大財閥の入り婿様には、消し去りたい過去でしかないのかい?」

「親父だと?」

「ああ、なんだ、お前、命の恩人の名前も忘れちまったのか?いいだろう、思い出させてやる。全身傷だらけで重度の栄養失調を起こした、一分先にも地獄行きの列車に乗り込みそうなガキを、助けてくれたのは誰だ?生まれも育ちも知れないてめえに、シマの全部を継がせてやるとまで言ってくれたのは誰だ?まさか、人非人のお前でも、そんなことまで忘れちまったとは言わんよな、ケリー・クーア?」

 

 どすの利いた声で、言った。

 血の滲み出るような、声だった。

 そのような声を、どういう人間が出すのかを、ケリーはよく知っている。

 一番信頼の出来る、人間だ。

 こういう声をした人間になら、無防備な背中を預けても良い。金銀財宝を満載した積み荷を、何の保険も無しに託しても構わない。

 そして、最も危険な、人間だ。

 こういう人間の誇りを穢したとき、愚かな罪人は、痛覚をもって仁義の重さを知るはめになる。

 そして、たいていの場合、その教訓を後々の人生に生かすことは出来ない。生かそうと思っても、自分そのものが生きていないのだから。

  

「忘れるはずがねえさ。爺さんだ。俺を助けてくれたのは、爺さんだよ」

 

 命を救ってくれたのも。

 そして、ケリー・エヴァンスという復讐鬼を、辛うじて人間と呼べるかたちに鋳直してくれたのも。

 ケリーが思い浮かべたのは、ジャスミンと共に出会ったときの、杖をついた老人の姿である。

 初めて出会ったときは、こんな巨人が、この共和宇宙にいるのかと目を疑ったのに、いつの間にか、自分の方が大きくなっていた。

 なのに、いつまでも、自分のことを若造と呼び、しかし、嬉しそうにキングと呼んでくれた。

 

「おい、あんたも、爺さんの知り合いなのか?」

 

 ケリーの言葉に、声の主は、初めて声を荒げた。

 憎しみに歯を食いしばり、その隙間から絞り出すような声で、叫んだ。

 

「口を慎め、裏切り者!貴様が、貴様如きが、親父を、大海賊シェンブラックを、そんなふうに呼ぶ資格があると思うのか!」

 

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