懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「さて、うちの若い衆が、おたくのところにお邪魔しているらしいな。色々と迷惑をかけただろう。まずはそれを詫びさせて欲しい」
凄みの利いた声で、男は言った。
そして、背後に控えた物々しい配下とともに、深々と頭を下げたのだ。
居合わせたヴェロニカの僧たちは、男の醸し出す暴力の気配よりも、集団の規律正しい有様にこそ、恐怖を覚えた。
この年、史上最年少の若さで導師の位階を授かった、ミア・ビアンキという若い僧も、その一人であった。
畏怖と興味を隠しきれない視線で、その男を見ている。
精悍な、男であった。
顔に刻まれた皺の具合は、すでに還暦を迎えた老人のそれであるはずなのに、全身から漏れ出す威圧感が、老いの気配を押し殺してしまっている。その証拠のように、全身の筋肉は大きく盛り上がり、きっちりと纏った仕立ての良いスーツを、下から押し上げている。
尋常ではない、存在感だ。
大木のように揺るぎなく、巨石よりも頑健で、太陽よりも朗らかな。
しかし、その下に、底なし沼にも似た、暗く粘っこい何かを抱えている。
そんな、男だ。
オールバックに流した、黒々しい髪。額に刻まれた幾筋もの傷跡。サングラスの下に隠された、鷹よりも鋭く、細い視線。
それが、柔和に笑み崩れている。嬉しそうに笑っている。
そのアンバランスが、たまらなく、怖い。今にも引き絞られそうな引き金のように、それとも、トランプで作られたタワーのように、ふとした切っ掛けでその笑みが消え去って、鬼の顔になるのが、あまりにも明らかなのだ。
その男が、今、ヴェロニカの総本山に捕らえられた、たった二人の少年を助けるために、やってきたのだ。
男は、一度でも息子と呼んだ存在を、決して見捨てない。
それは、宇宙を生きる男達にとって、もはや常識とされている事実であった。
噂は、間違えていなかったのだ。
共和宇宙軍と連邦警察がにらみをきかせる中央銀河で、その二大権力組織を押しのけて権勢を誇り、星の海を我が物顔でのし歩くならず者集団の、大頭。
直属の配下に収める海賊が、一千人。
戦闘用宇宙船が二百隻。
傘下の組織の末端構成員を含めれば、それがどれだけ膨れあがるか、知れたものではない。一説には、その数を算定した連邦警察幹部が、慌てて公表に待ったをかけたのだという。その数が、連邦警察の治安維持能力をあまりに大きく上回る数字であり、公共秩序に対して大きな不安を与えるからだ。
加えて言えば、極めて顔の広い男でもある。共和宇宙軍の上層部や、連邦警察の幹部にも、その男に大恩ある人間は少なくない。いざ有事が発生すれば、自分が属する組織とその男の、どちらの肩を持つか知れたものではないという。この宇宙で最大規模を誇る財閥の創始者とも、胸襟を開く仲であるという噂もある。
当然、横の繋がりも、どれほど広がるのか、想像もつかない。中央銀河の海賊の頭領は、軒並みその男に頭が上がらないのは周知の事実であったのだし、辺境宙域を荒らし回る海賊にも、その男の義兄弟やかつての舎弟が無数にいる。
およそ、この宇宙で荒くれ者と呼ばれる全ての男達が、その男の掛け声一つで集結するのだ。
一度に動員できる兵力は、もはや一犯罪組織に許された規模ではない。それは、暴動ではなく戦乱を巻き起こす、国家規模の軍事力に匹敵する。
男が率いる組織に、正式な名称はない。構成員は、その男のことを、尊敬と親愛と畏怖の念を綯い交ぜにして親父と呼び、仲間のことを兄弟と呼ぶ。そして、自分達の属する組織のことを、誇り高く家族と呼ぶ。
だが、その組織に属さない人々は、大いなる恐怖と憧憬を込めて、その組織のことを、こう呼ぶのだ。
シェンブラック海賊団と。
今、ヴェロニカ教総本山の議事堂にいるのは、その大海賊団を率いる、生きながらにして伝説になった男である。
シェンブラック。
本名は知れない。
生まれも知れない。
いずこで育ったのかも定かではない。
歴代連邦主席の一人の隠し子であるとか、街娼の産み落とした孤児であるとか、様々な巷説があるが、本人の口からは、一度たりともそういった話が零れ落ちたことは無い。
共和宇宙に公然と君臨する大悪党でありながら、そのほとんどが謎のヴェールに包まれている。
ビアンキは、そんな男がどうしてこのような辺境に足を伸ばしたのか訝しみながら、しかし片時も目を離すことができなかった。
「あとは、もう一つ。こっちも少々急いでたものでな、正式な入国手続きのほとんどをすっぽかしちまった。非は、全て俺たちにある。その点、入国審査官の連中を責めないでやってくれ」
シェンブラックは、堂々とした様子で、誰に勧められたでもない椅子に腰掛けた。
その時点で、ビアンキは、この男の体格が、上背においてはそれほど優れていないことに気が付いた。精々、共和宇宙の成人男性の平均身長をどれだけ超えているかという程度だ。
だが、どうしても、巨人めいた印象がぬぐえない。
それは、鍛え込まれてがっちりと分厚い胸板がそうさせるのかも知れないし、それとも男の背負った得体の知れないオーラのようなものが、そうさせているのかも知れない。
いずれにせよ、背丈の優れていないことのみをもってこの男を侮るなど、到底出来ることではなかった。
その思いは、シェンブラックの向かいに座っている二人の老人にしても同様だっただろう。
ペレストロス共和国大統領である、アドリア・トーン。ヴェロニカ教の最高指導者である老師の一人であり、非公式に長老という呼び名を授かっている、ニルス・ユーゲン。
いずれも一角の人物であるはずだが、今は、シェンブラックの醸し出す威圧感に飲まれて、萎縮してしまっているようだ。トーンは、額を伝い落ちる冷や汗をハンカチで拭い取るのに忙しく、ユーゲンは矮躯を法衣の中で縮めて、まるでヤドカリのような有様だ。
そのうちで、震える声で尋ねたのは、この国の大統領を務める男のほうだった。
「正式な手続きを踏まずにとは……いったい、どのようにしてこの国に入国したというのですか」
アドリア・トーンはこの年で68歳。敬虔なヴェロニカ教徒でありながら、諸外国との政治の駆け引きに優れ、連邦未加盟のペレストロス共和国が辺境宇宙で地盤を築くのに一役買った男である。
菜食主義者には到底思えない恰幅の良い体に、茶色の豊かな頭髪を湛えた頭をしている。顔つきは柔和で好々爺然としているが、それはあくまで擬態であり、中々油断のならない人物であるというのが彼を知る人間の総評だ。
そのトーンが、流石に顔を強張らせていた。
そもそも、普段ならば、世俗の最高権力者であるトーンが、教団総本山に居合わせることなどそうそうあることではない。
そして今、世俗の最高権力者である大統領と教団の最高権力者である長老が、この総本山にて同時に居合わせているのは偶然のことではない。
シェンブラックが、呼びつけたのだ。
普通の海賊風情の呼び出しならば一笑に付するはずの二人も、大海賊シェンブラック本人であるならば話は別である。もしも無視を決め込んだ場合、いったいどのような報復が用意されるか、知れたものではないからだ。
「わたしは、この国の治安維持責任を司る機関の長として、どのような事情があろうと、違法な手続きによる入国は許可できない。もしもあなたがそのような手段をもって入国したのなら、即刻の国外退去を命じます」
震える唇で、震える声を紡ぎ出したトーンを、しかしシェンブラックは嘲笑ったりしなかった。それは、彼の率いた十人の部下も同じだ。
その勇気を称えるように、真摯な視線でトーンを見返した。そして、懐から己の写真付き身分証明を取り出し、はっきりと見えるように提示して、言った。
「こいつを見せた。これは、当然、未加盟国も含めて、この共和宇宙のどこでも通用する正式なIDだ。共和連邦政府のお墨付きだぜ。入管ゲートやら手荷物検査やら、しち面倒くさい手続きのほとんどは素通りしちまったが、それは時間と手間を省いただけのこと。全体としたら入国手続きそのものを無効にする瑕疵とまではいえねえだろう。ま、大目にみてやってくんな」
「し、しかしあなたは……」
言いにくそうに口ごもった大統領に対して、大海賊は、助け船を出してやった。
「おうよ、海賊だ。しかし、これは間違いなく、共和連邦政府発行の、お天道様だってけちのつけようの無いIDカードだぜ。おたくらの部下にだって、きっちりと調べてもらった。その上で、問題はなかったんだ」
「で、ですが、どうして、失礼ですが海賊であるあなたに、そのようなものが発行されているのですか?」
「簡単な話さ。俺は、確かに海賊だよ。だが、海賊であることが罪だなんて、どこの国の法律にだって書かれちゃいないのさ。無論、海賊行為は違法だがね」
「……」
「こう言った方が分かりやすいかい?俺は、海賊を名乗ってはいるが、どんな違法行為に手を染めたこともないんだ。少なくとも、この共和宇宙に残された公的な記録上はね。いわば、善良な一般市民ってことだな。当然、こいつだって、近所の役場に足を運んで発行してもらったもんだ。五年に一回、うんざりするほど長い列に並んで、きちんと更新してる。こないだなんかは危うく有効期限が切れそうになってな、夕方五時ぎりぎりに役所に飛び込んで、拝み倒して更新してもらったもんさ」
シェンブラックの下手なジョークに、部下の幾人かが頬を綻ばした。
唖然としたのは、トーンである。
信じがたい、話だ。
目の前の、どの角度から眺めても『善良な一般人』という呼称の相応しくない、共和宇宙の裏世界の支配者とでも言うべき男が、一度だって犯罪行為に手を染めたことが、ない?
ありうべからざる話だ。しかし、どうにも冗談を言っている気配がない。
ならば、事実なのだろう。この男は、ただの一度だって牢屋に繋がれたこともなければ、犯罪者のレッテルを貼られたこともないのだ。
だがそれは、目の前の男が一般市民であることを約束する事実ではないことを、トーンは知っている。むしろ、公的な権力では目の前の男を縛り付けることが出来ないのだという、恐るべき事実を指し示しているのだということを。
トーンは、ごくりと唾を飲み下した。
「……わかりました。今ここで、あなた方と、入国手続きの何たるかを議論したところで始まりません。それに、あなたのような方を入国審査に付き合わせる責任を、末端の入国管理官一人に負わせるのは、あまりに酷というもの。係の者の責任は、問いますまい」
「助かる。あんたが話のわかる人間で、よかったよ」
シェンブラックが、再び頭を下げた。
トーンは、心持ち平静を取り戻した口調で、続けた。
「ですが、我々があなた方を歓待しているとは、決して思わないで頂きたい。事態がこのような運びになった以上、我々が望むのは、一刻も早いあなた方の出国です。それを、ご理解頂きたい」
「ああ、あんたの立場からしたら当然のことだ。俺だって、別に理由もなく、この国に長居をするつもりはない。用事が終われば、さっさと出て行く。その点は、約束させてもらう」
大統領の付き添いとしてこの場に立ち会っている、次官級の役人の幾人かが、安堵に満ちた溜息を吐き出した。どう考えても、ペレストロス共和国が保持する程度の警察力、あるいは軍事力をもって、目の前の男に国外退去を強制するのは、不可能事にしか思えなかったからだ。
「では、話を前に進めましょう。あなた方は、いったいどのような理由で、あなた方の縄張りである中央銀河から遠く離れた、このような辺境まで来られたのか。そして、我々に対して、どのような要求を持っているのか」
トーンの声が、一段と張りを持った。
彼は、辺境の一惑星として、決して立場が強いとは言えないペレストロス共和国の立場を守るため、日夜他国との折衝に明け暮れた過去を持っている。
当然、交渉事は得意分野だ。自分の天職だとも思っている。
目の前にいるのが如何に伝説の大海賊だとしても、言葉を吐き出す口は一つしか持っていないのであり、人の心を読むという第三の目を持っているわけでもない。
つまり、人間だ。
そして、暴力を天職とする人間だ。
であれば、交渉事を天職とする自分が、自分の舞台の上で、目の前の男に負けるわけがない。そして、負けるわけにはいかない。
ふつふつとした闘志が、トーンの柔和な視線の奥に、火を灯していた。
そんな視線をテーブルの向こう側に見つけて、シェンブラックは、むしろ楽しげに笑った。
「俺が要求するのは、ただ一つだ。お前達が捕らえた俺の息子の二人を、俺の前に連れてきて欲しい。そして、本人達の口から、自分達がどういう罪を犯して捕まったのかを説明させたい。それが叶えば、俺は今すぐにでもこの星から出て行く」
シェンブラックは、交渉にお決まりの駆け引きも用いず、淡泊な調子で、自分の主張を伝えた。
トーンは、些か面を喰らい、同時に肩すかしを喰らった。
伝説とまで言われた大海賊が、このような辺境宙域まで、直々に足を伸ばしたのだ。どのような無理難題を押しつけられるかと身構えていたところに、あまりに控えめ過ぎる注文である。
彼が想像していたのは、例えば自分の身内を拘束した報いとして国家予算級の慰謝料を寄越せとか、二人を捕らえた官憲を自分達に引き渡せとか、そういう、どう考えても自分達に飲めない要求を突きつけられることだったのだ。
それに比べれば、犯罪者の少年二人に事情説明をさせる程度、何ほどのことでもない。目の前の男達にお帰り願うことが出来るならば、こちらから礼を述べたいくらいだ。
だが、それは常ならばのこと。
今回だけは、そういうわけにはいかないのだ。
それに、交渉には作法というものがある。容易く認めてもよいことだからといって、すぐさま首を縦に振るには愚か者でも出来る芸当である。
要するに、すぐさま相手の出した条件を認めても、いいことなど一つもないということだ。
トーンは、安堵の様子など欠片も見せず、しかめ面しい表情のまま、唸るように言った。
「我が国では、犯罪者は、ただ公開の法廷にて裁判が行われる時にのみ、その弁明を許されております。あなたが彼らの身内であっても、その弁明を聞くのは、二人が裁判にかけられるまでお待ち頂くのがこの星の作法であります」
「なるほど、そいつは道理だ」
予想外に、無法者の頂点に立つ男は、鷹揚な表情で頷いた。
「あんたの言ってることは、十分に正しいぜ。あいつらがどんな罪を犯したにせよ、それは公開の裁判で裁かれるべきだ。俺たちが妙な横やりを入れて減刑させるのは以ての外だし、逆に私的な感情で重すぎる刑罰を受けるのも間違えてる」
これもまた、極めて常識的な意見である。
正論をぶつけられた相手が逆上するか、それとも暴力に威を着て脅迫するかを予想していたトーンは、またしても目を丸くするのを堪えるため、一方ならぬ努力を強いられた。
「だがな。俺が心配してるのは、そういうことじゃないのさ。俺は、あいつらが、万が一にでも、げすな婦女暴行やら弱者への暴力やら、軽蔑すべき理由の罪を犯したのなら、それを助ける気も、義理もねえよ。この国の法律に従って、償うべき罪を償えばいい。反対に、尊敬すべき理由によって罪を犯したなら、奴らは勇者だ。俺たちの定めた法に照らして、あいつらが獄に繋がれる理由はちっともねえ。その場合は、この国の法を曲げてもらう必要も出てくるだろうさ」
ほら来たと、トーンは身構えた。
結局は、どれほどの権勢を誇ろうとも、目の前の男は腕力に笠を着たならず者である。自分達の掟などという甚だあやふやで信頼の置けない基準に、他者を従わせようとする、唾棄すべき犯罪者の一員である。
トーンは、喜びをもって、目の前の男に、弁舌の一撃を叩き込もうとした。もしこの男を説き伏せて、たった一粒の麦も持たせずにこの国から追い出したならば、自分は、他国の軍勢を舌先三寸で追い返した古代の軍師よりも、なお輝かしい賞賛を得られるだろう。
だが、トーンの喉が言葉を生み出すには、シェンブラックの速攻はあまりに速かった。
「だけどよ、尊敬すべき理由で罪を犯したのだとしても、牢屋に入れられちまったなら、それは捕まったあいつらが間抜けってだけだ。まぁ、小銭をかすめただけで死刑とかなら話は別だが、そうでないならあいつらにも良い教訓になるだろう。親の俺が顔を出す筋合いじゃあねえ」
言葉を飲み込んだトーンに、シェンブラックは、凄みのある笑みをぶつけた。
「だからよう。あいつらの親である俺が出張らなけりゃならないのは、あいつらが、一切の罪を犯していないにも関わらず、この星の牢屋にぶち込まれた場合さ。そういう事情なら、あいつらには責められる理由は一つもない。そして、あいつらだけでこの星と喧嘩をしろっていうのは、あまりにも無体な注文だぜ。なら、その喧嘩を代わりに買ってやるのが、親ってもんだ。違うかい?」
トーンは、ごくりと唾を飲んだ。
「……要するに、あなたは、その二人の少年が、無実の罪で投獄されているのではないかと、それを疑っていると、そういうことですか」
「有り体に言やあ、そういうことだわな」
「それは、法治国家としてのペレストロス共和国への、侮辱とも受け取られかねないお言葉です。シェンブラック老、即座に訂正を願いたい」
作り物でない憤りを含んだペレストロス共和国大統領の言葉に、シェンブラックは、背を震わせながら笑った。
地の底から響くような、底冷えのする笑い声だった。
「いいって、そういうのは」
手を、顔の前でひらひらさせながら、シェンブラックは言った。
「いい……とは、どういう意味ですか」
「そういう、お為ごかしとか、見栄っ張りとか、そういうくだらないものはいいって、そう言ったのさ」
トーンは何かを言おうと口を開いたが、またしても言葉を飲み込むはめになった。
先ほどはシェンブラックの言葉でふさがれた口が、今度はその眼光だけでふさがれてしまったのだ。
「俺はな、こう見えて、あんたよりもずいぶんと長生きしてるのさ。当然、あんたよりも、この宇宙の綺麗な面も、汚い面も、知ってるぜ。その中でも一番どろどろに腐りきってやがるのが、権力をおもちゃにして泥遊びに興じる、大人の格好をした小便臭い餓鬼どもの、豚みてえに肥え太った自尊心と欲望だよ。やつらは、自分達のために民衆が奉仕するのを、当然だとふんぞり返ってやがる。自分の才覚でその立場を得たっていう自負心がある分、古代の貴族様よりもなお性質が悪い。それでも、内心で見下すだけならいい。税金から遊び金をちょろまかすくらいなら、立派に甲斐性ってもんだ。だがよ、自分達がしたきたねえ泥遊びのツケを、立場の弱い人間に押しつけるってのだけは、頂けねえ。しかもそれが、俺たちみたいな宇宙生活者なら、なおのことさ」
シェンブラックは、いつしか、先ほどまで柔和だった視線から、表情を消していた。
「俺たち宇宙生活者には、何も無いのさ。帰るべき故郷も、頼るべき国も、地に足を付けるための地面すらも。だから、いつだって一番最初に疑われて、一番最初に切り捨てられて、一番最初に埋められちまう。臭いものには蓋ってな。そして、いっぺん蓋をされちまったら、俺たちなんてのは二度と浮かばれねえのさ」
トーンは、目の前の座った男の背後から、寒気のする妖気が立ち昇るのを、見た気がした。
その白めいたものは、過去に無念の涙を飲んで死んでいった、宇宙生活者の怨念ではなかったか。
トーンは、理解した。
目の前の男は、決して宇宙海賊の元締めに収まる男などではないのだ。この男は、この宇宙に散らばった、名も知れぬ宇宙生活者の全てを率い、その生活に対して責任を背負っている。
だからこそ驚くほどに広いコネクションを持ち、共和連邦と正面から渡り合うことができる。そして、その自負心があるからこそ、これほど巨人めいた印象を他者に植え付けるのだ。
「俺は、あいつらが資源探索者として、この星を目指したって聞いてるぜ。なら、海賊にお決まりの、略奪やら人攫いやらに手を染めているはずがねえ。もしも違うなら、あいつらがそんなけちな真似して捕まったってんなら、どうぞ煮るなり焼くなり好きにしてくれ。もしも女を嬲った、年寄りを殺したってんなら、あんたらの手を煩わせるまでもねえ。俺の手で引導をくれてやる。だがな。もしも、あいつらが無実の罪で牢屋に繋がれてるなら、話は別だ。それなら、俺は、例え共和政府を敵に回してでも、あいつらを救い出す。絶対に、あいつらを臭いものになんかさせねえ。なぁ、俺の言っていることが分かるか?」
トーンは、ごくりと唾を飲んだ。
目の前の男には、鉄の意志がある。それは、男の背後にずらりと立ち並んだ、全ての男達にも同じことが言えるのだろう。
彼らは、自分達全員の命を賭して、血のつながりもない二人の少年を、助けることが出来るだろう。いや、彼らだけではない。おそらくは、シェンブラック海賊団に属する、全ての構成員が、その覚悟を持ち合わせている。
自分達は、決して見捨てられない。だから、絶対に見捨てない。
その覚悟と信頼の、絶対性。
だからこそ、家族。そして、息子であり、兄弟であり、親父なのだ。
言葉にするのは容易く、実行するのはまず不可能の、絆。その頑強さは、トーンの弁舌如きでは、到底切り離せるものではなかった。
トーンは、早々に敗北を認めた。これ以上の舌戦は、時間の無駄というものだ。
そも、交渉とは、テーブルに載せた交渉材料の配分を争うゲームだと言っていい。それは金銭の場合もあれば、安全の場合もあるだろうし、権益の場合もあるだろう。
しかし、今、この場においては、テーブルに乗っているのは、二人の少年の身柄だけである。それ以外に、如何なる材料もテーブルには乗っていないのだし、乗せることもできない。
武力に訴えようにも、彼我の戦力差は笑えるほどだ。今、目の前にいる男を捕らえたり殺したりするのは容易いだろうが、その後で、絶望的な報復の刃がこの星に振るわれるのは目に見えている。
では、利をもって懐柔するか?いや、この国程度が用意できる如何なる利益も、この男の眉一つ動かすことは叶わないだろう。
それに、目の前の男は、決して愚かではない。どれほどの財宝を堆く積み上げようとも、目を眩ませることはないに違いない。たった一度作った例外が、どれほど容易く組織を、ひいては信頼を破壊するか、それを理解していない男ではないはずだ。
ならば、結論は単純だ。
あくまであの二人の少年を渡さないか。それとも、彼らを引き渡すか。
そして、話を穏便に進めたいなら、結論は後者以外にあり得ない。
しかし、詳しい事情は分からないが、それだけは出来ないことを、隣に座った老人に言い含められている。
トーンは、絶望的な気持ちで、隣に座ったヴェロニカ教最高指導者を見た。
視線を寄越されたユーゲンは、法衣の被りを脱ぎ、閉じていた瞼を持ち上げた。
「……お若いの。あんたの言っていることは、立派だ。本当に立派だ。立派すぎて、儂らには到底理解出来ない。だが、あんたの言っていることが素晴らしいのは、十分に理解出来る」
「そうかい。ありがとよ、爺さん」
確かに、 ユーゲンはシェンブラックをして爺さんと呼ばせるに十分なほどに、老いていた。
頭は禿げ上がり、しかしつるりとした印象はない。汚らしく染みが浮き、細かな皺が無数に刻まれ、真っ新な皮膚を探すのが難しい有様だ。
しかし、視線はしっかりと、強かった。濁った白目の上に茶色い瞳を浮かべて、じっとシェンブラックを見つめている。
「もしも、あの少年二人が、二人とも急な病でぽっくり逝ったって言ったら、どうするね?」
ユーゲンの、気の籠もらない質問に、シェンブラックの背後に控えた男の幾人かが、険しい視線を送った。自分達に対する侮辱であると思ったのだ。
だが、シェンブラック当人は、いたって楽しげに答えた。
「ま、宇宙は広いさ。そういう偶然も無いわけじゃないだろう。それなら、あいつらの死体だけ頂いて、さっさと帰らせてもらうだけだ」
二人が病死したというならば、証拠を見せてみろという。
老人は、やはり熱意の籠もらない、眠たそうな顔で続ける。
「それなら、もうあの二人の死体は荼毘に付したと答えたら?」
シェンブラック、寸毫も気配も変えぬまま、
「なら、この星に住む全ての人間を、爺さんの言うところの荼毘に付してやるだけだな」
ぞっとする言葉を、こともなげに吐き出した。
この場にいた全ての人間が、その言葉をただの脅しと考えなかった。
シェンブラックの背後に並んだ男達は、不敵な笑みを浮かべた。ペレストロス共和国の人間は、一様に顔を青ざめさせた。
そんな中で、ユーゲンは、はっきりと頷いた。
「わかった。ならば、お若いの、あんたらがこの星にいる間、あの二人の身の安全は約束しよう。決して、不自由はさせない。無論、何の危害も加えない。だが、我々に、少し時間をくれんかね」
「どうしてだい?」
シェンブラックは、さも愉快そうに笑った。
獲物をいたぶるような、嗜虐的な笑みではない。むしろ、チェスゲームに興じる名人が、相手の出方を楽しげに待っている、そんなふうである。
何とも無邪気で、太い笑みだ。
「もしもあの二人が、ただの犯罪者ならば、今にだってあんたらに引き渡しているさ。それが、女を嬲った罪であろうが、老人を殺した罪であろうがね」
「なるほど」
「だけどね、あの二人が犯した罪は、この星に住む、全ての人間の身の安全に関わる話なのさ。だから、いくらあんたが脅しつけたって、そうそう容易く引き渡すわけにはいかないんだ」
「ほう」
シェンブラックの、稚気に溢れた瞳の奥に、色の異なる輝きが宿る。
この男は、ただ暴力に身を任せる蛮人ではないが、同時に、義に生きるだけの侠客でもない。
利を見るに聡く、益を見つければ獰猛だ。
そして、一度手に入れれば離さない。
そうでなくては、食わせもの揃いの中央銀河の裏社会で、生き残れるはずがない。
「だがな、爺さん。もう既に、あんた達の選択肢は一つしかないんだぜ。あいつらが、この星で捕まっていること。そして、やっぱり無実の罪で捕まっていること。それが分かった以上、こっちに遠慮する義理はねえ。なら、さっさとあいつらを解放するのが、利口者のすることだ」
「ああ、わかっとる。だが、我らには、しっかりと選択肢は二つ、残っておるのよ」
「興味深いね。言ってみてくれよ」
シェンブラックは、挑みかかるように笑った。
そして、ユーゲンも、初めて笑った。
「決まっているだろう。あの二人を黙ってお前さんに引き渡すか、それともその口を封じるか。その、二つに一つだ」
「爺さん。これは忠告だが、長生きをしたければ後ろの選択肢は選ばないほうがいい。そうでないと、あんたも、あんたの知る誰かも、きっと長生きできない」
「知っとるよ、そんなこと。今更、この朽ちかけた命が惜しいものかよ。この痩せ首で満足してお前さんが退いてくれるなら、いつだってくれてやるさ」
「ああ、爺さん、あんたは利口者だ。そう、こちとら、あんたの老いさらばえた命と、あの二人のこれからの人生を、天秤にかけるつもりなんざ最初からない。あいつらが殺されたら、あとは戦争だ」
それも、一方的な殺戮になる。
彼らの矜持を守るためにも、二人の無念を晴らすためにも、そして一家の威を宇宙に知らしめるためにも。
ペレストロス共和国という国は、この広大な宇宙から、姿を消すことになるだろう。
トーンは、あまりに薄ら寒い未来図を想像して、危うく気を失いかけた。
だが、ユーゲンは、あまりに平然とした様子で、
「それも、知っとる。儂らがあんたらに蟷螂の鎌を振りかざしても、無駄だということも。あんたらが儂らを、容赦なく殺すだろうということも。だから、そこから先は我慢比べだな」
「我慢比べ?」
「あんたらが儂らを文字通りに根絶やしにして、ヴェロニカ教をこの宇宙から消し去ることが出来るのか。それとも、儂らのうちの最後の一人が生き残って、子孫にヴェロニカ教を伝えることが出来るのか。そう、これは我慢比べだ。何とも気の長い話だな」
ひっひ、と、背を痙攣させるようにして、ユーゲンは笑った。
今度は、シェンブラックの後方に控えた男達が、薄ら寒い気分を味あわされるはめになった。
彼らはいずれも年若く、いまだ幹部と呼ばれる立場にはないが、しかしシェンブラック本人に見込まれて彼の護衛をしているのだ。将来は自分こそが一家を守るのだという覚悟と気概がある。
当然のように、修羅場の一つや二つはくぐり抜けているのだし、自分の命を交渉事のテーブルに載せたこともある。
その彼らをして、テーブルを挟んで座る老人の、歯の抜けた笑顔は、あまりに異常であった。
黄ばんだ歯の奥に見える暗がりが、そのまま地獄に繋がっているような気がした。老人の形をした闇が、笑っているような気がした。
ごくりと、何人かが唾を飲み下した。ちょうど、先ほどのトーンのしたように。
「なるほど。俺たちには、あんたらを最後まで殺し尽くす怒りと覚悟があり、あんたらには最後の一人になっても守るべき何かがある。そういうことだな」
「そういうことさ。確かに、我らは弱いよ。あんたに本気で挑みかかられたら、雄獅子と子鹿よりもあっけなく、我らは殺されるだろう。しかし、この小さな星でも、一億を越える人間が住んでいるんだ。一億のゴキブリじゃない。一億の、血肉を備えた、顔のある、人間だ。女もいれば、子供もいる。あんたの肉親に似た顔の人間もいる。これを、一人一人殺して回るのは、あんた、中々に堪えるぞ」
にやぁと、嫌らしい笑みを、老人は浮かべた。
その場に居合わせた人間の全て──テーブルの向こう側に座っている人間も、こちら側に座っている人間も──に吐き気を催させるほどに、それは醜い笑顔であった。
ただ一人、平然とした様子でユーゲンと相対しているシェンブラックが、嬉しそうに手を一つ叩いた。
乾いた音が、高らかに、まるで試合開始の号砲のように打ち鳴らされた。
「大したもんだ、爺さん。俺を脅しつける人間なんて、ここ十年は顔を拝めなかった。久しぶりだぜ、こういう気分が踊るのは。だがな、爺さん。一億を殺すのに、わざわざ鉛の玉を使う必要なないんだぜ?そんな効率の悪い真似をしなくったって、人は簡単に死ぬんだ。飢えて死なせてやるのもありだ。乾いて死なせるのもありだ。毒を撒いてもいい。なんなら、星ごと吹き飛ばしてみるかい?」
とんでもないことを、こともなげに言う。
およそ、木っ端海賊が口にしたならば、脅し文句にもならないような絵空事ばかりである。
だが、ここにいるのは、大通りを肩で風切って歩く程度の、木っ端海賊ではない。
本物の大海賊、シェンブラックである。
彼は、不可能は口にしない。
一度口にした言葉は、当然、それを実行できるからこそ口にしているのだ。
慌ててトーンが取りなそうとしたが、シェンブラックはそれを手で制した。
「三日だ。その間、俺はこの星を適当にぶらついている。三日後に、結論を出せ。あんたらがどんな秘密を抱えていて、それがどれだけ大切なのかは知らねえ。あんたらがどんな神様を信じていて、それがどれだけ偉いのかも知らねえ。だがな。俺にとって、あいつらは、家族は、それ以上に大事なんだ。宝物なんだよ。だから、それを台無しにした奴らを、俺はただじゃおかねえ。今までだってそうだったし、これからだってそうだ。これを、けちな脅し文句だと思うかい?」
「いんや、儂も、それほど耄碌してはおらんよ。あんたは獅子だ、お若いの。そして、獅子と同じ世界に住む生き物は、獅子の怒りを買えば、その世界で生きることは出来ないのさ」
シェンブラックは鷹揚に頷いた。
「もう一つ。三日後に、俺の前にあいつらが姿を現さなければ、俺はあいつらは既に殺されたものと判断する。記録映像を見せられても、同じことだ。もちろん、脅しや取引の類も受け付けるつもりはねえ。けちな引き延ばしは通じないと思ってくれ」
「わかったよ」
「ただし、だ」
シェンブラックは、立ち上がった。
スーツの襟を整え、サングラスをくいと上げる。
「あいつらの引き渡しとは関係ないところで、おたくらからビジネスの話があるなら、それには応じさせてもらう。うちの馬鹿息子が迷惑をかけたお詫びだ。精一杯、勉強させてもらうぜ」
「なるほど、覚えておくよ」
ユーゲンの言葉を聞いているのかいないのか、シェンブラックは部下を引き連れて、扉の奥に消えていった。
◇
とんでもないことになった。
ビアンキは、何が何やら分からなかったが、ただ一つ、それだけは理解出来た。
あれは、紛れもない、大海賊シェンブラックだ。そして、どうやらその男に、自分達は楯突いているのだ。共和宇宙政府と正面から渡り合う、伝説の巨人と!
どうする。どうすればいい。
ビアンキは思った。
それは、ビアンキだけではない。
総本山に居合わせた僧のほとんどが、悲鳴に近い大声で、喧々諤々たる議論を繰り広げている。
物陰で、廊下の片隅で、果ては聖女ヴェロニカのご神体の眼前で。
彼らは、口々に言う。その少年が、いったいどのような罪を犯したかは知らないが、さっさと引き渡してしまえばいいのだ。そうすれば、少なくともこの星が宇宙から消えて無くなることはない。自分達も死なずに済む。
どうして老師連中は、ああも頑健に、少年達の引き渡しを拒むのか。
もしかしたら、理由などないのではないか。頭の固い老人達は、ただ自分達の体面を守るためだけに、この星を未曾有の危機に晒しているのではないのか。
どれも、推論の上に推論を重ねただけの議論であった。
当然だ。老師よりも下の階位の僧には、真実の一切は伝えられていない。二人の少年がいかなる罪を犯して投獄されているのか。国全体を危険に晒してまで守られるべき秘密とは何なのか。
それすら分からずに議論を深めたところで、何の意味もない。
ビアンキはそれを知っていたから、僧達の議論には参加しなかった。
ただ、のんびりと、窓の外を眺めていた。
死ぬのが怖くないわけではない。しかし、この先、どのような運命が待ち受けていようとも、それは神の用意した試練に違いない。であれば、自分は、ただ自分に与えられた役割を淡々とこなし、神のご意志に沿えるよう、努力をするだけである。
周りの僧のように、右往左往しながら死を迎えるのは、嫌だ。
そう、一人考えていたビアンキに、予想外の人物から声がかけられた。
「ビアンキ導師」
振り返ったビアンキの前にいたのは、つい先ほどまで、大海賊シェンブラックと正面からやり合っていた、ユーゲン長老その人であった。
「長老。このミア・ビアンキに、如何用でございましょうか」
ビアンキは、その場に跪いた。
老師を飛び越えて、長老たる方から声をかけられたのだ。それが当然の礼儀である。
それでも、背後から、決して好意的とはいえない視線が突き刺さるのを、若き導師は感じていた。
妬み、嫉み、恨みに辛み。自分のいる場所を一足飛びで飛び越えていった若者に対する嫉妬の視線は、日に日に鋭さを増していく。
ビアンキは、身の危険を感じたこともしばしばであった。
だが、それを上に訴えようとは思わなかった。そんな些末事に貴重な時間を費やすのであれば、他に為すべき事が山とあるからだ。貴重なヴェロニカ教の古文書を解読する高揚感に比べれば、夜道に背後から突き刺さる殺気の鋭さなど、春のそよ風の如きものだとビアンキは思っている。
「うむ。少し、お主に労をかけることになった。修行に差し支えることにもなろう。それでも構わぬか?」
長老の言葉である。否やのあろうはずがない。
ビアンキは、無言で恭しく頭を垂れ、承諾の意を表した。
「では、こちらへついて参れ」
ビアンキは、すたすたと先を行くユーゲンの後を追った。
容貌とは裏腹に、足腰の至って頑健なユーゲンは、立ち歩くのに他人の助けを必要としない。今もビアンキは、ともすれば遅れがちになる自分の足を早めるのに必死だ。
そして、二人はヴェロニカ教総本山の裏口の、駐車場に辿り着いた。
そこに待たせてあった車に、ユーゲンは乗り込んだ。ビアンキは一瞬躊躇したが、その後に続いた。
車は、静かに発進した。
外は、既に日が落ちかけている。正面から強烈な西日が差し込み、助手席に座ったビアンキは目を細めた。
車は、ヴェロニカの赤い大地を駆けていく。
夕日に染まった赤い大地は、驚くほどに鮮明な朱を浮かべる。遙か地平線の境では、夕日と大地の境界が不鮮明になるほどだ。
その大地の所々に、力強く風に揺れる、カラの穂。
この星の、初夏の光景である。
「美しいな」
後部座席から、ぼそりと声がした。
「はい」
ビアンキは、前を向いたまま、短く答えた。
「ビアンキよ。これが、我らの守らねばならぬものだ」
「はい」
「例え我らの最後の一人が死に絶えても、この大地は残る」
「はい」
「であれば、我らの命とこの大地、どちらを守るべきか、考えるまでもない」
ビアンキは、答えなかった。
果たして、そうなのだろうか。
美しいものは、守るべきである。それはそうかも知れない。
しかし、美しいものを美しいと認識するのは、人間の為せる業だ。人間がいなくなれば、美は、即ち意味を失うのではないだろうか。
この星に住む人間の、最後の一人が死に絶えたとき、この星が美しいことは、何かの価値を持つのだろうか。
それとも、長老が言っているのは、そういう意味の言葉ではないのか。
ビアンキは、量りかねていた。
その後、ユーゲンは、一言も話さなかった。当然、ビアンキも、運転手を務める僧も、口を開かなかった。
車は山道に入った。砂利を轢いているのか、車が細かく跳ね上がる。
道は狭くなり、片側が崖になった。山肌を、ぐるぐると昇っているのだ。
そして、車は、目的地に到着した。
「ここは……?」
車が、驚くほどに巨大な門を潜り、中世のような石造りの跳ね橋を通過したとき、ビアンキは思わず声を出した。
彼はこの星に生まれ育ち、ヴェロニカの僧として教えに帰依し、この星の歴史と地理を学んできたが、このような山間に城があるなど、聞いたこともない。
車は、ビアンキの疑問を無視するかのように、城門の前で停止した。
ユーゲンは、やはり無言で車を降りた。ビアンキも、一息遅れて、車を降りた。運転手は、車を降りなかった。このまま、ここで待っているつもりなのだろう。
二人が扉の前に立つと、重厚な樫材の扉が、軋み音をたてて開いた。まさか自動ドアということもないだろうから、どこかから、自分達を見ている人間がいるのだろう。
得体の知れない不安を感じたビアンキだったが、ユーゲンは、あくまで我が物顔のまま城の中へと立ち入っていく。
玄関ホールを抜け、大広間に入ると、ちらほらと人影を見るようになった。
よく見れば、かなりの人数がこの城の中にいる。しかし、いずれもビアンキの見知らぬ顔であった。
もしも彼らがヴェロニカ教の関係者であれば、これだけの人数の中にビアンキの見知った顔が一つもないというのはおかしい。
つまり、この連中は、教団とは関係ない人間だ、ということになるのだが、では、教団と無関係の人間がこれだけ集まった施設に、長老はいったいどんな用事があって足を向けたのか。
ビアンキは考えながら歩いていたが、先を行く長老が足を止めたことに気が付いて、慌てて足を止めた。
「お主も、そういう表情をするのじゃな、ビアンキよ」
「そういう顔、ですか」
ユーゲンは、にこりと笑った。
「怪訝な顔をしておる。それほどに、この場所が不思議か」
ビアンキは、素直に答えた。
「はい。これは、いったいどういう施設なのですか」
ユーゲンは、深く頷き、
「ヴェロニカ教にも、色々とある」
「色々とは、どういう意味ですか」
「色々とは、色々よ」
面白おかしそうに、言う。
「例えば、ビアンキよ。お前は、先ほどからこの城ですれ違う人間に、見覚えはあるか?」
皆一様に、虚ろな目をした、人間の群れ。
薄汚れているわけでも、知性に乏しい有様というわけでもないのに、どこか非人間的な、人間達。
彼らが、ちらりと自分を見る視線には、飼い犬が怒った飼い主に向けるような、卑屈と怯懦が込められていた。
「いえ、初めて見ました。彼らは、いったいどういう人間なのですか」
「我ら老師は、あれらのことを、草と呼んでおる」
「草、ですか」
「便利な人間よ。如何なる仕事にも不平をとなえず、淡々とこなす。犯罪まがいのことも、土掘りも、なんでもな」
ビアンキは、愕然とした。今まで、一度だって聞いたことのない、事実だ。
言葉を失った若き導師に、ユーゲンは、淡々とした調子で語りかけた。
「ビアンキよ。お主は、明日のヴェロニカ教を背負って立つ身。そろそろ、この教団の裏側も知っておくべきじゃろう」
「しかし……」
「お主の師には、後で儂が伝えておく。何、今の今までお主が切望しても得られなかった、問いの解がここにはあるやも知れぬのだ。もっと嬉しそうにせよ」
そう言われても、ビアンキには言葉が思い浮かばなかった。
確かに、師と問答を繰り返しても、一番欲しい最後の問いに繋がる質問だけは、煙に巻かれたように避けられてしまう。詰め寄っても、はぐらかされる。どうしたって、本当のことを教えてくれる雰囲気ではない。
ただ、言うのだ。老師になれば、全てがわかると。その時を少しでも早めるために、修行に励むのだ、と。
それ自体は、望むところである。もとより、ヴェロニカ教の真理を見極めるために、この命を捧げて構わないと覚悟は決めている。
しかし、解を求めて得られないのが、心地よいはずはなかった。ビアンキは、悶々とした日々を送らざるを得なかったのだ。
だから、その答えがここにあるというならば、是非もない。
ビアンキは、先ほど見た、虚ろな目をした人間のことなど、ほとんど忘れていた。
そして、二人は歩いた。ユーゲンは淡々とした足取りで、ビアンキは爛々と目を輝かせながら。
廊下を歩き、石造りの階段を下り、地下へと至った。
カビと糞尿の入り交じった、饐えた空気が広がっている。その空気は、この地下が、どういった目的のために使われてきたかを教えていた。
そして、今、どういった目的に使われているのかも。
どこかから、呻き声が聞こえてきた。それを合図にしたかのように、調子の狂った笑い声、啜り泣く女の声、癇癪を起こした幼児のような叫び声。
ビアンキは、背を仰け反らせまいと、腹に力を込めた。
これがヴェロニカ教の暗部だとすれば、それは構わない。自分は、それを受け入れてみせるのだ、と。
そんなビアンキの様子をちらりと見たユーゲンは、すたすたと歩き始めた。虜囚の言葉は、どれほど凄惨なものであっても、この老人の鼓膜には届かないらしい。
薄暗い地下牢を、手燭の灯りを頼りに歩く。
鉄格子の隣を歩くときに、何度か、声をかけられた。ここから出せとか、呪ってやるとか、家に帰してとか、そういう言葉だったかも知れないが、今のビアンキには届かなかった。
そして、二人は目的の場所に、辿り着いた。
「ここだ」
ユーゲンは、鉄格子の中を照らし出すように、手燭を前に掲げた。
牢屋の中は、思ったよりも広い。土床に毛布が置かれ、そこだけがこんもりと盛り上がっている。誰かが、毛布にくるまっているのだろう。
それが、二つ。
あとは、食事を済ませた後の、空の食器が二組。奥に、便器の代わりの桶。
それだけだった。
「おい、起きろ」
ユーゲンが言うと、毛布がもぞりと動いた。
そして、中から、年若い少年が、いかにも眠たそうな顔を出したのだ。
「……なんだよ、ようやくおれたちの処分が決まったのか」
大あくびをする。
自分達がどういう未来を辿るのか、まったく興味がないような有様に、ビアンキは驚きを隠せなかった。
この年代の子供が、このような場所に閉じ込められて、恐怖を感じないはずがないのだ。
普通の少年ならば。
「ビアンキよ。これが、件の少年二人だ」
予想はしていた。
今、騒動の渦中に置かれたユーゲンが、直々に足を運んで、このような場所までビアンキを連れてきたのだ。当然のことながら、普通の用事のはずがない。
「今より三日間、お主がこれらの世話をせよ」
「はい」
そして、用件を申し渡されれば、あとは何も思い悩む必要はない。淡々と、自分に課せられた仕事をこなすだけである。
先ほどユーゲンは、この二人には何一つ不自由はさせないと言った。そして、絶対に危害は加えないとも。
であれば、このような、どう考えても快適の二文字とは程遠い地の底から二人を連れ出し、もっとましな場所で、あとの三日間を送らせるのだろう。その間、自分が二人を監視し、そして世話をすればいい。
それだけのことだ。
「これより三日間、我らは、この二人の扱いについて検討する。そして、お主はその間、この二人の面倒を見て欲しい」
「はい」
「そして、我らが最終的な結論を出すのが、三日後のことだ。当然、真っ先に、お主にその結果を伝える」
「はい」
その結果によって、この二人の少年の命と、この惑星の命運が、決まる。
ビアンキの腹に、我知らず力が籠もった。
だからこそ、ユーゲンの言葉は、ビアンキには予想外のものであった。
「だが、お主は、その結果について、一切耳を貸す必要はない」
「……はっ?」
ヴェロニカ教始まって以来の麒麟児を噂されるビアンキが、まるで阿呆のように、大きく口を開けたまま固まってしまった。
その顔を、ユーゲンは楽しげに見遣る。
「なんという顔をしておるのだ、お主は」
言われてビアンキは、僅かに居住まいを正したが、だが内心の動揺が収まるはずもない。
うわずった声で、尋ねた。
「あの、長老。それはいったい、どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。ミア・ビアンキよ。我らがどのような結論を用意したとしても、それはお主の行動を露程も拘束するものではない。この二人の少年の処遇は、ただお主の独断で決めよ。それが期限の三日よりも早まっても、一向に構わぬ」
「しかし、それは……」
ビアンキの決断が、この星の運命を左右するという意味では、ないのか。
言葉を失ったビアンキに、ユーゲンは、小さな鉄の塊を渡した。
それは、ビアンキが、生まれて初めて手にする、人の命を奪うための道具──銃であった。
「全てはお主が決断せよ。全てを、じゃ」
「老師、そのような大役、わたしには……!」
「しかと申し渡した。もしもこの役を降りるというならば、その時は、お主の名がヴェロニカ教の信徒台帳から姿を消すことになると覚悟せよ」
ビアンキは、完全に言葉を失った。
ヴェロニカ教には、破門という概念は存在しない。肉を食い、カラ以外の自生青果を口にしたとしても、そのことをもってヴェロニカ教から強制的に去らなければならないわけでは、ないのだ。
しかし、今、ユーゲンが口にした言葉には、脅し以上の強い響きがあった。
まさかとは思う。しかし、ビアンキは、長老の言葉を、冗談の一つと受け取ることなど出来はしなかったのだ。
ビアンキは、息も絶え絶えの様子で、何とか銃だけでも返そうとした。
しかしユーゲンは、ビアンキ一人を残して、さっさと踵を返してしまった。
闇に残されたのは、鉄格子の外に立つビアンキと、中で寝転がる少年が二人だけである。
そして、そのうちの、殊勝にも目を覚ました方の少年が、如何にも気の毒そうな声で、ビアンキに声をかけたのだ。
「いやぁ、あんた、なんだかとんでもない貧乏くじを引かされちゃったみたいだね。ま、長けりゃ三日間、短ければどれくらいになるかわかんないけど、しばらくは仲良くしなけりゃいけないみたいだからさ、気楽に行こうよ。おれの名前は、ヤームル。よろしくな!」
闇の中から、溌剌とした声が、ビアンキに向かって発せられた。