懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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幕間:在りし日の老人その三

 ビアンキは、黙々と、二人の少年の後ろを歩いていた。

 辺りは真っ暗だ。太陽、月の光はもちろん、星明かりですら届かない、深い闇。風も、草花の香りも、人のぬくもりも届かない、地の底。

 彼らはそこを歩いているのだから。

 

「……ここは……」

 

 ビアンキの情けない呟きが、虚空に吸い込まれて、攪拌されて、消えた。

 先頭を歩くインシンが、弱々しい灯りの手燭を持っている。およそ明かりと呼べるものはそれだけで、ビアンキは自分の足下をはっきりと確かめることすら出来なかった。

 剥き出しになった、岩石質の洞穴。前後に伸びた闇の密度はあまりに濃厚で、出口はおろか、自分達がどこから歩いてきたかすら曖昧だ。

 置き去りにされれば、一歩も動くことが出来ずに朽ちていくだろう確信がある。

 ここは、この世ではない。もっと遠く、かつて居て、いつかは訪れる国の一部なのだと、ビアンキは錯覚した。

 

「おい、おっさん。あまり遅れると置いてくぞ」

「あ、ああ、すまない」

 

 ビアンキは歩調を早くした。それは、ヴェロニカ教やこの星に住む人々の明日を考えてのことではなく、もっと原始的で本能的なものからだ。

 少年二人と若き僧侶は、地中深くに穿たれた空洞を、ひたすらに歩いていた。

 城の管理をしていた草の者とかいう連中を適当に言いくるめ、城を出たところで身を潜めて、頃合いを見て、井戸の中に飛び込んだのだ。ヤームルは言った。こうすれば、例え追っ手がかかったとしても、自分達は外に逃げたと考えるだろう。そうすれば、時間が稼げる、と。

 それにしても、どうしてこんなところに身を隠すのか、訝しんでいるビアンキだったが、苦心して井戸の底まで降りて、直後に度肝を抜かれるはめになった。

 長く、どこまで続くか分からない階段。そしてそこを降り続けてみれば、余りに広く、余りに深い、横穴──。

 どうしてこんなものが、こんなところに存在しているのか。

 もう、何時間歩いているのか、分からない。この場所には、朝も昼も夜もなく、ただただ静寂だけが広がっている。足の疲れを考えると四半日ほど歩いていてもおかしくない気がするし、実は一昼夜歩いていたのだと言われても納得してしまうだろう。

 とにかく、何もかもがあやふやだった。

 ビアンキは、もう、昨日のこと──それとも、ついさっきのことを、努めて想起しなければ思い出すことが出来なくなっていた。

 自分は、どうしてこんな場所で、死者の葬列の一員みたいな様子で歩いているのか。

 そうだ。あの厳重な牢獄から、この二人の少年は破獄してみせたのだ。

 いまだにどうやってあの鉄格子を開けたのか、よく分からない。気が付いたときには手錠も足錠も外されていたのだから、おそるべき早業である。これで、もしも上部階への鍵を懐にいれていなければ、朝には牢屋はもぬけの殻だったという可能性も否定できない。

 果たしてそうなったとき、自分がどういう立場に置かされるのか。

 きっと、あらゆる人間が、自分を責め立てるのだろう。特に、普段から自分を良く思っていない連中は、ここぞとばかりに勢いづくに違いなかった。

 いや、それとも今の状況──監視対象である二人の少年とともに姿を消した自分──も、大して変わらないのだろうか。総本山は大騒ぎになっているに違いない。なにせ、このまま三日目を迎えれば、シェンブラックの振るう報復の刃がこの星を蹂躙するのだから。

 ビアンキは、自分の判断に自信が持てなくなっていた。あの時、二人を連れ立って城を脱出したのは、まさに緊急避難であって、間違えたことではなかったはずだ。そうしなければ、自分は死に、二人の行方は本当に分からなくなっていたに違いない。

 であれば、一応とはいえ二人の居場所を把握している現状のほうが、まだ救いが残っているはず。

 はずなのだが、では今の状況が最善かと言われれば、どう考えても否である。

 あの時、もう少しきちんと監視していれば。

 いや、監視していたから防げるというものなのでもないだろう。自分の手には拳銃が握られていたが、この自分にその引き金を引く勇気が備わっていたとも思えないのに。

 それではあの時、自分が、きちんと自室で眠っていれば、こんな事態にはならなかっただろうか。

 いや、自分がいなかったとしても二人は逃げおおせていたかも知れない。

 そもそも、こんな任務につかされなければ。い

 や、自分ではなくとも、他の誰かが引き受けざるを得なかったのだ。であれば、自分がするほうがまだましか。

 とにかく、ビアンキは懊悩し続けた。

 

「そろそろ一休みしようぜ。もう、ずいぶん歩いたしな」

 

 ビアンキの前を歩いていたヤームルが、おもむろに言った。

 それは、ビアンキも賛成だった。普段から足腰は鍛錬しているはずなのに、もう太股の裏に張りを感じている。まだまだ元気な様子の少年達を見ると情けない限りではあるのだが、体が休憩を欲しているのは明らかだった。

 ヤームルの前を歩いていたインシンが振り返り、全員が座れるような、具合のよろしい地面を探した。

 三人は、そこに、腰を下ろした。手燭を中央に置き、車座に座った。

 

「さ、飯にしよう……ていっても、こんなもんしかねえけどな」

 

 ヤームルは、懐から缶詰を取り出し、地面に並べた。プルトップを起こし、カリカリと音を立てて封を開けていく。

 

「……こんなもの、どこで手に入れたんだ?」

 

 ビアンキが少年達に制圧されてから城を脱出するまで、ほとんど時間はなかったはずである。当然のことであるが、二人が牢屋に入れられた時に、缶詰なんかを持ち込ませるはずがない。であれば、その僅かな時間に調達したとしか考えられないのだが、果たしてどのように手に入れたかを考えると、首を傾げざるを得ない。

 とにかく、恐るべき早業である。

 

「ま、細かいことは気にしなさんなって。腹の中がからっぽじゃ、足も動かないし良い考えも浮かばない。人間、まずは食わなきゃ始まらないぜ」

 

 ヤームルが、誰に断りを入れることもなく缶詰を手に取り、中の豆を指で摘んで口に放り込んだ。インシンも、無言でヤームルに続いた。

 あまり品の良い食べ方ではなかったが、食器もない洞窟の中で贅沢は言っていられない。ビアンキも、インシンとヤームルに倣い、適当な缶詰を手で直接食べた。

 この星で売られている缶詰は、基本的にはヴェロニカ教徒向けに作られている。保存料を使っていないぶん賞味期限は短いが、禁忌に触れる食材を使っていることはない。ビアンキも安心して食べた。

 味は上等なものではなかったが、空腹は何物にも勝る調味料である。ビアンキは、無言で、貪るように食べた。どうやら自身が思っていたよりも、空腹は深刻だったらしい。

 だが、そんな彼よりも、少年達はもりもりと食べた。成長期であるのだろうし、食に対する欲求は、既に成人して久しいビアンキよりも大きくて当然である。

 ビアンキは、一心に缶詰を征服していく少年達を、複雑な気持ちで眺めやった。こういう姿を見ていると、ヴェロニカ教徒の少年達と、何ら変わるところがないのだが……。

 頭を振ったビアンキが、次の缶詰に手を伸ばしたが、その匂いを嗅いで顔を顰めた。

 缶詰を元の場所に戻し、言った。

 

「おい、これはお前達で食べてくれ。わたしには食べられない」

「え?」

 

 口いっぱいに食べ物を詰め込んだヤームルが、くぐもった声で問い返した。

 

「なんで?」

「わたしはヴェロニカ教徒だ」

 

 ビアンキの返答は簡潔であった。

 ヤームルは、缶詰の表記をまじまじと覗き込んだ。

 

「ああ、コンビーフ。あの城に監禁されてる人用の食べ物だったのかな?ま、少なくとも、これはあんたは食べられないね」

「だから、お前達で食べると良い」

「ありがとう。でも、残念だけど、これはおれ達も食べられない」

 

 ヤームルはコンビーフの缶詰を掴んで、彼方の方向へと投げ捨てた。

 闇の中で、固いものがぶつかった音が数回響いて、やがて静かになった。

 

「どうしてだ。お前達は、肉も食べられるんだろう。それとも、まさかヴェロニカ教に改宗するつもりにでもなったのか?」

 

 ビアンキが、缶詰の放り投げられた方向を眺めながら問うた。

 

「冗談。おれ達はヴェロニカ教徒になるつもりはないし、改宗っていうけどさ、そもそもどんな神様だって信じちゃいない」

「そうなのか。宇宙生活者という人種は、以外と信心深いのだと聞いていたが」

「ああ。おれも、この宇宙には何か絶対的なものがいて、人類には到底考えも及ばない何かを司っているとか、そういうことなら信じているよ。でも、それが神様だとは思わないし、おれがどんな祈りを捧げたって振り返りもしてくれないんだって知ってる。だから、何かを信仰しようとは思わない」

 

 ヤームルは、気負うでもなく言い切った。

 ビアンキは、その意見に異を唱えようとは思わなかった。自分が聖女ヴェロニカを信奉しているのと同じように、この少年も何かを信じているのだろう。それだけの話だ。

 

「では、何故あの缶詰を食べなかった?ヴェロニカ教徒でないならば、肉を食べることに禁忌があるわけでもないだろうに」

「この星で食べる肉は、この星で作られているんだろう?」

「……確か、そうだったはずだ。この星にも、ヴェロニカ教徒でない人間が、僅かであるが存在する。観光客や、君たちのような宇宙生活者も時折滞在する。であれば、肉類の需要は確かに存在するわけだから、少量ではあるが、食用の家畜は生産されているはずだ」

「じゃあ、やっぱり無理だ。おれ達も、この星で肉を食べることはできない。多分大丈夫だとは思うけど、万が一ってこともあるから」

「なんだ、妙な言い方をするな。それではまるで、毒でも入っているみたいじゃないか」

 

 ビアンキは冗談めかして言ったが、ヤームルは何も答えなかった。

 しばらく、三人は黙々と食事を続けた。

 やがて腹が満ちた頃合い、ビアンキが口を開いた。

 

「ここは、一体何なんだ?」

「ここって?」

「この、巨大な洞窟のことだ。わたしは生まれてこの方、この星にこのような洞窟があるなど、聞いたことがなかったが……」

 

 ビアンキは、あらためて周囲を見回した。

 壁面は、決して滑らかな状態ではないが、しかしほぼ円形を保ったまま、奥へ奥へと続いている。天井までの高さは、大人が二人分程度だろうか。奥行きや全長などは考えるのも馬鹿らしい。

 果たしてこの洞窟は、自然が作り出したものなのだろうか。

 鍾乳石はおろか、切り立った岩場の一つもない。高低差もほとんどなく、そもそも生物の気配が存在しない。

 普通、洞窟というものは、ある程度豊かな生態系を形成しているものだ。いずこかの入り口から蝙蝠が入り込み、そこに住み着く。そうすれば、彼らの糞を糧にして、小さな虫や植物が生え、その死体を苗床にしてカビやキノコが生える。

 だが、この場所に、そういった営みは存在しない。ただ、無機質な洞穴が、のっぺりとした様子で長く伸びているだけなのだ。

 

「あんたみたいな人間でも、ここが何なのか、知らないんだね」

 

 ヤームルが、冷え冷えとした表情で微笑んだ。

 

「……わたしが知らないと、何か不味いことでもあるのか?」

「ここはさ、あんたらのご先祖様が拵えたんだよ」

「先祖……というと、ヴェロニカ教徒の人間が?」

 

 ビアンキは、信じられないというふうに目を見開いた。

 ヴェロニカ教では、理由もなく自然を痛めつけるような行為を厳禁としている。いくら地下とはいえ、これほど大きな洞窟を掘ることを当時の指導陣が何故容認したのか。

 いや、そもそも、どうしてこんな穴を掘る必要があるのか。

 

「信じられないって顔だね。確か、ヴェロニカ教では、こういうのって禁じられてるんだっけ?」

「……」

「だから、おれ達が何を知ってるのかをあんたらに言っても、理解してもらえないのさ」

 

 ビアンキは、目の前の少年を睨み付けた。何か、自分の抱えている大切な何かを、土足で踏みにじられたような気がしたからだ。

 だが、少年は、悲しげに俯いた。今やビアンキを支配する立場の少年が、両親の折檻を恐れる子供みたいに、辛そうにしていた。

 

「……この星にはね、凄いお宝が埋まってるんだよ」

「……お宝、だと?そういえば、お前達は資源探索にこの星を訪れたとか……」

 

 ヤームルは頷いた。

 

「元々、そんなつもりじゃなかったんだけどね。この星は、外宇宙へ行くための足がかりのつもりだった。知ってるかい?惑星の外殻の全てが、トリジウムで出来てるっていう、夢みたいな惑星の話」

「……ああ、どこかで聞いたことがあったな。しかし、それはただの噂話だろう?」

「そうだね、ただの噂話だ。でも、夢がある。だからおれ達は、それを探しに来たんだ」

 

 手燭の灯りが、ふわりと揺れた。

 風が吹いているのだ。つまり、大気が動いている。出口が近いということか。

 三人分の影が、灯りにつられて、弱々しく踊った。

 

「この星で、友達が出来たんだ。凄く可愛い女の子。地面に足を付けた人間の中で、初めての友達だ。おれ達みたいに、薄汚れて得体の知れない宇宙生活者でも、優しくしてくれた。なぁ、おっさん。それがどれくらい嬉しいことだったか、分かるかい?」

 

 ビアンキは、答えなかった。

 

「今から、会いに行くんだ」

 

 ぼそり、と言った。

 ほんの少しの笑顔も、浮かべずに。

 

「すぐに会いに行くはずだったのに、もう、約束から一週間以上遅れちまった。許してくれるかなぁ」

「その子は……」

 

 ビアンキも、ぼそりと言った。

 

「その子は、この星の、生まれなのか?」

 

 ヤームルは、ビアンキの方をちらりと見てから、再び視線を落とした。

 じっと、揺らめく灯りを眺めている。

 

「いや、違う。移民だって言ってた。お父さんの仕事の関係で、前に住んでた星を離れたんだって」

「そうか。ならば、優しいだろうさ」

「……どういう意味だよ」

 

 ビアンキは自嘲の笑みを浮かべた。

 

「この星は、表立っては万人と信徒の平等を謳っているが、その実、しっかりとした階級社会が形作られている」

 

 今まで二人の会話に興味を示していなかったインシンが、ちらりとヤームルの方を見遣った。

 

「ピラミッドの頂点にいるのが、この星への移民を成功させた移民先遣隊の子孫。次が、彼らに続いて母なる惑星から移民してきた者の子孫。次が、母なる惑星以外の星から移住し、根付いた者の子孫。最後に、直接の父母や自分が移民である者」

 

 ビアンキは指折り数えた。

 

「単純に言えば、この星に早く移住した血筋ほど尊ばれるということだ。この原則は、この星のあらゆる場所で適用される」

「……貴族とか王様とか、そういうのと一緒ってこと?」

「ああ。それが一番近い理解だろうな」

 

 ヤームルは、如何にもくだらないといった様子で、溜息を一つ溢した。

 

「くだらないね、そういうのって」

「同感だ。だから、こう言っては気に障るかも知れんが、お前達のような宇宙生活者は、この星では最も忌避される人種だ。そんな人間に分け隔てなく接することの出来る者がいるとするならば、この星の空気に毒されていない人なのだろう」

「……ちなみにあんたは、さっきの区分でいうと、どこの階級になるのさ?」

 

 階級という呼び方に、ビアンキは片頬を曲げた。

 

「わたしは、下から数えて二つめといったところだな」

「ふぅん」

「ちなみに、わたしと同期の医学生の悉くが、一番上の人間ばかりだった」

「あんたが一番、身分が低かったってわけか」

 

 ビアンキは、頷いた。

 

「潮時だと思ったよ。何かの間違いで医学部への合格は果たせたものの、さらに狭き門である医師免許試験が、わたしのために席を設けてくれているとは、どうしても思えなかった。万が一試験に合格したとしても、プライドの塊みたいな連中の中で、針のむしろのような生活が待っているに違いない。このまま肩肘を張って生きていても、しんどいだけだ、と。であれば、全てを捨てて信仰の道に生きるほうが楽だと思えた」

「で、楽になれたのかい、あんた」

 

 ヤームルは、辛辣な質問をした。

 ビアンキは苦笑した。

 

「さぁ、どうだろうな。ただ、この年で導師の階位を得たのは、分不相応なことだと思っている。それもこれも、自暴自棄になっていたわたしを救ってくれた、師匠のおかげだ」

「あんたみたいな人間でも、やけっぱちになることがあるんだね」

「ひどいもんだったよ。飲めない酒を飲んで、毎日酒場で喧嘩沙汰を起こして。もう、どうにでもなれって思った。周囲は、そんなわたしを『やっぱり下賤な生まれの人間は』と、指を指して笑う人間でいっぱいだ。精神的にも肉体的にもぼろぼろになって、二進も三進もいかなくなった、そんなときに、手を差し伸べてくれたのが、ヴェロニカ教の導師だった。だから、わたしもヴェロニカ教について本格的に学ぼうと決意したんだ」

 

 ビアンキは、ちらりとヤームルを見た。

 

「どうだ。何とも安っぽい動機付けだろう?わたしは神に帰依したんじゃない。多分、人に帰依していたんだ」

「いや、そんなもんだと思うよ。人間が生きるなんて、多分そんなもんだ」

「知った口を叩くじゃないか。まだ成人もしてないガキのくせに」

「ふん、そんな年になるまで宇宙の一つも旅したことのない人間に、何が分かるってんだよ」

 

 ヤームルは、半分笑いながらそう言った。

 なるほど違いないと、ビアンキは頷いた。

 三人は、固く冷たい岩石質の地面で、寄り添うようにして眠った。

 ビアンキは、夢を見なかった。

 そして彼が目覚めたとき、既に少年二人は、出発の準備を済ませていた。準備と言っても、もとも大荷物があるわけではないから、リュックサックを背負って立ち上がっただけであるが。

 

「さ、行こうぜ、おっさん」

 

 ビアンキは、軋む体に鞭打つようにして、立ち上がった。

 そして、昨日と同じように、黙々と歩いた。

 辺りの風景は、変わらない。変わりようがない。ひたすらに闇と、ほの明かりに照らされた岩壁だけだ。

 どうしても陰鬱になる気分を誤魔化すように、時折、どうでもいい会話を交わす。

 

「この洞窟は、どうやって見つけたんだ?」

「おれが見つけた。おれ、鼻が凄く利くんだよ。だから、いきなり、街中で森の匂いがしてさ。おかしいと思って下水に忍び込んで、そこに隠し扉があるのを見つけたんだ」

「……お前の鼻は何で出来ているんだ?犬か?」

「ま、そんなもんさ。とにかく、これを見つけたのは完全に偶然だ。それがたまたま、あの城まで伸びてたってことだね」

「たまたま、ねぇ」

 

 疲れたら休憩して、食事をした。頃合いを見て横になり、仮眠を取った。

 そして、歩き続けた。

 時間は、やはり分からない。もしかしたら、三日目を迎えてしまったのではないか。であれば、既に事態は取り返しのつかないことになっているのではないか……。

 ビアンキが焦慮を覚え始めた、その頃。

 

「ついたぞ」

 

 先頭を歩いていたインシンが、呟いた。

 見れば、天井から金属製の梯子がぶら下がっている。

 しかも、相当に古い。薄明かりではっきりとは分からないが、赤さびまで浮いている始末だ。

 ビアンキが不安げに見上げていると、

 

「こないだ、おれ達が降りるときに使ったんだ。三人でも、多分大丈夫だろう。さ、もたもたしてないで行くぜ」

 

 そう言って、ヤームルはするすると昇っていく。

 インシンもそれに続く。

 ビアンキは、慣れない手つきで、それでも二人に遅れないよう、必死に昇った。

 梯子は、うんざりするほどに長かった。もしも足を踏み外して一気に滑り落ちれば、決して無事には済むまい。

 息を切らし、無心で手足を動かし続ける。ぎしぎしと軋む梯子が、不吉な想像を呼び起こすが、それを振り払うように一心に昇る。

 手燭は、下に捨ててきた。眼下を覗けば灯りが見えるのかも知れないが、それが近ければ徒労感を、遠ければ恐怖を呼び起こす気がして、下は決して見ることができない。

 憑かれたように昇り続ける。

 それでも、少年二人のほうが、ビアンキよりも早い。

 身軽で体力もあると言ってしまえばそれまでだが、ビアンキとて自己に弛まぬ鍛錬を課している修行僧だ。既に肉体的なピークを過ぎた年齢ではあるが、余分な肉がつくような無様なことはない。

 反して、少年二人は、それほど長くはないとはいえ監禁生活にあった身である。手足に錠が嵌められ、満足のいく食事も摂らせてもらえなかったに違いない。それに、おぞましいことではあるが、虐待の形跡もあった。

 なのに、どうして二人が、これほど先行出来るのか。

 急がなければならない事情が、あるのか。

 ビアンキは、思わず開きそうになった口に待ったをかけて、ひたすらに昇った。

 やがて、梯子は終わり、広い空間に出た。

 

「遅せえよ、おっさん。頼むから、急いでくれ」

「ちょっと待て、どうしてお前ら、そんなに……」

 

 いまだ乱れた呼吸が収まらず、喘ぐように言ったビアンキであったが、その意見は完全に無視された。

 少年二人は、ビアンキを置いて駆けだしたのだ。

 このままここにへたり込んでしまっては、彼らを見失ってしまう。だいたい、こんな場所で一人にされたら、間違いなく遭難してしまうだろう。

 ビアンキは、二人が手にした懐中電灯の灯りを頼りに、よろよろと駆けだした。

 しばらく走ると、扉があった。

 ヤームルが、もどかしそうな様子でビアンキを待っていた。

 ビアンキが無言で休憩を懇願したが、それに応じるつもりは全くないらしい。

 扉を無情に開く。

 すると、耐え難い悪臭がビアンキの鼻をついた。

 

「……これは」

 

 思わず嘔吐きかけたビアンキであったが、すぐに理解した。

 あの地下道は、おそらく、下水道と繋がっていたのだろう。

 少年は、ビアンキに構わずに走り出した。ビアンキも、手で口元を覆いながら、必死に追いすがる。

 鼠やゴキブリの群れを追い散らし、駆ける。

 地上への出入り口は、すぐに見つかった。壁にしっかりとした梯子が取り付けられており、その先がマンホールとなっていた。

 先ほどの、呆れるほどに長大な梯子に比べれば、如何ほどのこともない。

 早くこの悪臭から逃れたいこともあり、ビアンキは勢いよく梯子を登った。

 先を行っていたインシンが、マンホールの蓋を持ち上げ、ずらすと、目に痛いほどの光が差し込んでくる。

 ビアンキは、外の世界がまだ昼の時間であったことを悟った。

 食事の回数、仮眠した回数を考えると、おそらく今日が刻限の三日目だ。今日中に二人を総本山まで連れて行き、シェンブラックに引き渡さなければ、ヴェロニカの歴史は今日で幕を下ろすことになる。

 しかし、二人を引き渡すことが、そもそも全ての解決になるのか。長老は、どうしても二人を渡すわけにはいかないと言っていたのに。

 今更に浮かび上がってきた懊悩を、ビアンキは頭を振ることで、思考の台座から追い散らした。今は、そんなことを考えるよりも、この少年達の用件を終わらせるべきだろう。

 そして、総本山に連絡を入れ、迎えを寄越させる。その後のことは……知ったことか。

 ビアンキは、文字通り這うようにして、マンホールから体を出した。

 陽光に視界が白く灼け付いたが、涙の浮かんだ瞳をしばたかせて、先を行く二人の姿を探す。

 もしもこれが車道のど真ん中だったらと思い、一瞬背筋を冷たくしたビアンキだったが、どうやら杞憂に終わったらしい。

 久しぶりの地上の空気を満喫しながら、首を巡らせてみると、朽ちかけたビルの隙間に、背の低いバラックのような建物が無秩序に散在している。

 所々で白い煙が立ちのぼり、その下では、粗末な服を着た人間が肩を寄せ合い、食事をしている。

 紛れもないスラムの風景であった。

 ビアンキがマンホールから這いだし、呆然とした様子でその光景を眺めていると、服の袖をくいと引っ張られた。

 子供だ。ビアンキの腰程度の背の丈しかない子供が、鳥の巣のようになった髪の毛の奥から、無垢な瞳でこちらを見上げている。

 

「な、なんだね。何か用か」

 

 どもりながらビアンキが言うと、性別すら知れないような格好をした子供が、不思議そうに言った。

 

「おにいちゃん、お坊さんなの?」

 

 ビアンキは言葉に詰まった。

 禿頭であり、導師の位階を示す濃緑の法衣を纏っている。いくら埃で薄汚れているとはいえ、自分を僧であると見分けることの出来ない人間など、たとえ幼児であっても想像が出来なかったのだ。

 街中を歩けば、尊敬の眼差しを向けられることはあっても、このような視線を向けられたことはない。

 ふと気が付けば、辺りからは、やはり同じような視線が向けられていた。老若男女を問わず、得体の知れない異分子を見る視線で、こちらを眺めている。

 ビアンキは、居たたまれなくなって、同時に心細くもなり、先を行く少年二人に急ぎ足で追いついた。

 

「おい、ここはどこだ。この人達は、一体何者だ!?」

 

 ビアンキが息を乱しながら問うた。

 

「変なことを言うな。ここはあんたらの国だろう?」

「それはそうだが、あの子供や他の連中は、ヴェロニカ教の僧侶を見たことすらない様子だったぞ。この星の上にそんな場所があるなんて、信じられない!」

「この星の上にって言うけどさ、ここ、あんたらの国で一番の都の、少し外れだぜ?」

「一番の都というと……まさか、ヴェロニカ・シティなのか!?」

 

 辺りを見回してみる。

 すると、遠くに見える高層ビルは、確かにどこかで見覚えがあるような形である。

 だが、ヴェロニカ・シティの近辺に、このようなスラムが広がっているなど、今まで聞いたこともなかった。

 ヤームルは呆れたように溜息を吐き出し、インシンは侮蔑の視線でビアンキの横面を射貫いた。

 

「あんた、仮にも坊さんだろう?坊さんは、困った人を助けるのが仕事なんじゃないのかよ?」

「……」

「ここに、こんなふうに、こんな人達が住んでることすら、知らなかったってのか」

 

 ビアンキは沈黙せざるを得なかった。

 本来、ヴェロニカ教の僧侶の役割は、衆生を導いたりその安寧を願ったりするものではない。神に帰依し、その真理を見極めるのがあるべき姿だ。

 しかし、ヴェロニカ教とこの星に住む全ての人達が一体となっている以上、そこには相応の繋がりが生まれる。当然、弱者への施しや救済も、坊主の仕事になってくる。

 だが、それは在家の導師連中の仕事ではないか。どうして出家した自分が、このように非難の視線を浴びなければならないのか。

 ビアンキは承伏しがたいものを感じながら、二人の後に続いた。

 

「ところで、いい加減に本当のことを教えてくれないか」

 

 ビアンキが、先を行く二人の背中に、いらだち混じりの声をかけた。

 

「どうしてあの時わたしを殺さずに、こんなところまで連れてきたんだ。利用出来ると言っていたが、まさか逃走の役に立つと思っていたわけではないんだろう?実際、わたしがいなければ、君たちはもっと早くここに辿り着けていたわけなのだから」

 

 ビアンキは、何とも悔しいことではあるが、身体的な性能において、自分がこの二人の少年に遠く及ばないことを自覚していた。先ほどまでも、一番休憩を必要としていたのは自分だったし、その自分を慮って、この二人が何度も立ち止まってくれたことにも気が付いている。

 ならば、どうして自分を、わざわざこんなところまで連れてきたのか。利用するとは、何のことなのか。

 

「もうすぐ、分かるよ」

 

 ヤームルは、振り返らずに言った。

 そう言われては、ビアンキも、聞き分けのない子供のように駄々をこねるわけにはいかない。もうすぐ分かるというなら、ついていくだけだ。

 ビアンキは、腹をくくった。

 こんなところまでわざわざ連れてきたのだから、まさかいきなり殺されるわけもないだろう。二人の行く先に彼らの仲間がいて、ビアンキに対して報復の刃が振り下ろされるのだとしても、その時はその時である。

 とにかく、今はあの二人の用件を済ませてしまうことだ。その後のことは、その後に考えればいい。

 ビアンキがそう割り切っている間にも、少年達はずんずんと、スラムの奥へ奥へと進んでいく。

 角を二つほど曲がり、スラムの中でも特に裏びれた、日の光すらほとんど届かないような路地に入る。

 その時点でビアンキは、周囲に、何か、奇妙な臭いが立ちこめているのに気が付いた。

 なまものが腐っているような、血生臭いような、臭い。

 眉を顰めたビアンキだったが、少年達はお構いなしに進んでいく。

 先に進めば、臭いはどんどん濃密になる。

 そして、二人は立ち止まった。

 

「ここだ」

 

 朽ちかけた扉には、そもそも錠前というものが存在していないらしい。

 少年達は、無造作にそれを押し開けた。

 ぎしりと、扉の軋む音が聞こえた。

 そして、さらに強烈に漂う、悪臭。

 間違いない。臭いのもとは、この奥にある。

 

「ヤームル君!インシン君!」

 

 雑然とした廊下のあちら側から、弾かれたような声が聞こえた。

 どたどたと、木の床を踏み抜くような勢いで、誰かが近づいてくる。

 ビアンキは本能的に身構えたが、よく考えれば彼は三人の中で一番扉側にいる。危険に晒されるのは先を行く二人の少年ということになるのだが、当の少年達は全く警戒していない。

 ビアンキが肩の力を抜いたのと、痩せた男が姿を見せたのが、ほとんど同時だった。

 

「ああ、やっぱり!よかった、あれからちっとも姿を見せないから、心配したんだ!」

 

 縁の欠けた丸眼鏡をつけた、どうにも風采の上がらない男であった。

 ひょろりと背は高いが、肩幅が極端に狭いから、大柄という印象には程遠い。ある意味では、シェンブラックと正反対の出で立ちだ。

 面相は、こんな場所に居を構えるのが相応しくないくらい、柔和そのものである。ただ、疲労が溜まっているのか、目の下に濃い隈が浮いてしまっている。

 

「もう一度、君たちに会えるとは、正直考えてもみなかった。きっとこれが、ヴェロニカの神の思し召しってやつかな」

「おじさん、そんなことはどうでもいいよ!」

 

 聞いたことがないくらい、真剣な声でヤームルは言った。

 

「アイシャは、アイシャはどうなった!?」

 

 眼鏡の男性は、力なく首を横に振った。

 

「もう、医者に匙を投げられたよ。今は、麻酔が良く効いている。会ってくれるかい?」

 

 医者に、匙を投げられた?

 少年二人に、緊張が走ったのを、ビアンキは感じ取った。

 二人は目を交わし、頷き合った。

 

「行こう」

「おっさん。頼むぜ」

 

 二人に袖を引っ張られ、ビアンキは奥へと誘われた。

 途中、すれ違った眼鏡の男性に、

 

「どうか、導師様、娘をお願いいたします」

 

 と、涙声で拝まれたが、ビアンキには何が何だか分からない。

 とにかく、促されるままに、奥の部屋に入った。

 そこには。

 

「うっ……」

 

 ビアンキは思わずうなり声を上げ、鼻を手で覆った。

 息をするのも難しいほどの、悪臭。

 その部屋に立ちこめていたのは、濃密な死の臭気だった。

 白い──もとは白かっただろうベッドは、赤黒く染まっている。そして、ベッド脇に置かれた洗面器は黒く変色した血で満たされ、数匹のハエが集っていた。

 ベッドの上には、人間が居た。いや、人のかたちをした何かがいた。

 棒のように突っ張った手足の先が、青黒く変色しており、末端部分に白く細いものが蠢いている。

 蛆だった。

 腐った手足に蠅の卵を産み付けられて、それが孵化してしまったのだろう。指の幾本かは枯れ木のように朽ち落ちているが、その断面からは血の一滴も溢れていなかった。

 胸の辺りは憐れなほどにやせ細り、薄い皮膚を通して肋骨がはっきりと見える。しかし腹は大きく膨らみ、その何かが呼吸をする度に細かく痙攣している。剥き出しになった腹部には毛細血管がはっきりと浮き出ており、無数の蜘蛛が巣を張ったようにも見えた。

 異様な、怪物のような風体の何か。しかし何よりも異様なのが、首から上である。

 そこには、少女の顔があった。痩せてはいるが、紛れもなく、血色も良い、少女の顔。

 だから、異様なのだ。まるで、化け物の体に少女人形の首を据え付けたように、あってはならない冒涜感がある。

 その少女が、首を動かさず、視線だけをビアンキの方に寄越した。

 ビアンキは、まるで金縛りにあったように動けなくなってしまった。今、あの少女の首がにゅうと伸び、自分の首筋に噛みつくのではないかと思ったのだ。

 

「アイシャ!よかった、元気そうだな!前来たときよりも顔色もいいじゃないか!安心したぜ!」

 

 ヤームルが少女の枕元に駆け寄り、少女を覗き込んだ。

 それでも、少女は、表情一つ変えない。口を開こうともしない。ただ、瞳を、ヤームルの視線に合わせただけだった。

 インシンも、ヤームルの反対側の枕元に駆け寄り、少女に何事かを話しかけた。ぼそぼそとした調子だったのでビアンキには聞き取れなかったが、ヤームルが、馬鹿なことを言うなとばかりにインシンの頭を叩いていたから、何か冗談を言っていたのかも知れない。

 ビアンキは、阿呆のように立ち尽くした。目の前にいるのが何なのか、何が起こっているのか、何一つ理解出来なかった。

 どうして、自分がここにいるのか。

 そもそも、あの少女は誰で、どうしてこんな場所にいるのか。あれは、誰がどう見ても、一秒でも早く医術を必要としているのに。

 完全に呆けていたビアンキを、ヤームルの声が叱咤した。

 

「おい、おっさん!早くこっちに来いよ!あんた、そのためにここまで来たんだろうが!」

 

 突然の怒声を向けられても、何が何だか分からない。

 ただ、少年の声に逆らう気力すらなかったビアンキは、ふらふらと、ベッドに近寄る。

 ベッドの上の少女は、相変わらず無表情で、ただ視線だけをビアンキに寄越していた。ビアンキは、その時点で、少女が話さないのではなく、話せないのだということに気が付いた。

 ビアンキも、学生とはいえ医の道を囓った人間である。少女の体を見て、大筋の症状は把握できる。

 四肢から始まった壊死。極端に膨らんだ腹部には、おそらく大量の水が溜まっているのだろう。首から上の表情がほとんど変わらないのは、表情筋に麻痺が起こっているからかも知れない。

 ビアンキは、ウイルス性の感染症のいくつかを思い出していた。悪性の出血熱などで類似する症状がいくつか見られたはずだが、ここまで特徴的な症状は、そのどれにも当てはまらないはずである。

 ビアンキが唖然としながら少女を見下ろしていると、何の前触れもなく、少女の口から赤黒い塊が沸き上がった。

 

「アイシャ!」

 

 ヤームルが、少女を抱え、体を横に向けてやった。

 すると、少女の口から、信じられない量の血と、肉のような塊が、ぼたぼたと吐き出された。

 見れば、少女の腹部が小さく痙攣している。どうやら、必死に喉に詰まった肉塊を必死に吐き出そうとしているらしいが、既にその力も残っていないのかも知れない。

 一杯になった洗面器を、インシンが無言で掴み、部屋の外へと出て行った。

 

「これは……何だ。一体、この少女は……」

「見れば分かるだろう。病気なんだよ、この子は」

 

 ヤームルが苛立たしげに言った。

 

「病気……」

 

 であれば、まずは感染症を疑わなければならないな、と、ビアンキはぼんやりしていた。

 空気感染、飛沫感染、血液感染……。

 なら、一番危険なのは、患者の血液だ。一ミリリットルの血液には、億単位のウイルスのカプセルが含まれており、それが健常な体に入った場合、どれほど爆発的な勢いで繁殖するかをビアンキは知っていた。

 だが。

 

「いらない心配をしてんじゃねえよ。この病気は、誰にも感染しねぇよ」

「感染……しない……?」

「当たり前だろうが。どうして鉱毒症が、空気や血液を媒介にして感染するんだよ」

「鉱毒……症……だと?」

 

 ビアンキは、あらためて病魔に取り憑かれた少女を見下ろした。

 この、あまりに惨たらしい症状の原因が、鉱毒?

 そんな鉱毒が、この宇宙に存在するのか?

 そもそも、この少女は、これほど重篤な症状を引き起こす鉱毒を、どこで摂取したというのだ?

 この星で?いや、違う。この星で、このように奇妙な病気で死ぬ人間がいるなんて、聞いたこともない。

 ぐるぐるとした疑問がビアンキの頭に沸き上がり、そして消えていく。

 とにかく、ビアンキは立ち尽くしていた。

 そして、ビアンキの横面を、ヤームルは思い切り叩きのめした。

 ビアンキはよろりとバランスを崩し、それから、縋り付くような表情でヤームルを見た。

 

「どうでもいいから早くしろよ!分かってんだろう、この子には時間がないんだよ!」

 

 ヤームルの双眸には、はっきりとした涙が溜まっていた。声も、常の気丈なこの少年からは想像もつかないくらい、震えて、弱々しかった。

 ビアンキは、ちらりと少女を見下ろす。

 アイシャと呼ばれた少女は、こんこんと弱々しい咳をしている。その度に、考えられないような量の血液と肉塊が、口からどろりと流れ出ていく。ただでさえ赤かったベッドが、より濃密に赤黒く色づいていく。

 もう、少女の命が燃え尽きようとしているのは、明らかだった。

 

「しろと言われても……わたしに、なにが、できるんだ?」

 

 張られた左頬に手を当てながら、ぼんやりとした調子でビアンキが言った。

 ヤームルは、法衣の胸ぐらを思い切りねじ上げ、涙声で言った。

 

「お前は坊主だろうが!坊主に出来るのは、祈ることくらいじゃねえのかよ!だから、祈れよ!この子のために、祈ってやってくれよ!」

 

 頼むよ、と、最後に、途切れそうな声で言って、少年は崩れ落ちた。

 床に蹲り、頼むから、頼むから、と、何度も噎び泣いていた。

 ああ、そうか、そうだったな、と、ビアンキは理解した。

 何も、特別なことではない。いつも、いつも、毎朝毎昼毎晩、やっていることだ。

 この少年の言うとおり、坊主に出来るのは、祈りを捧げることくらいなのだ。

 それは、うん、得意中の得意だ。

 

「……天に坐すヴェロニカの神よ、大地に眠る聖女ヴェロニカよ、我らのありのままを知り給え、この少女のありのままを知り給え、どれほどひたすらにあなたへ祈りを捧げ、どれほど敬虔な信徒で在り続けたかを知り給え……」

 

 ビアンキは、ほとんど無意識に、祈りの言葉を捧げた。それは、死者の魂が天へと返され、死者の肉体が大地へと還される時に捧げられるべき祈りであったが、決して時期尚早とは思えなかった。

 ビアンキが祈りを捧げる間にも、少女の体は崩壊し続けていた。身動ぎする度にごっそりと髪の毛が抜け落ち、ぱらぱらと宙を舞った。咳き込んだ衝撃で手首から先がぽきりと折れて、しかし一滴の血も溢れなかった。口からは、生々しい鮮紅色の塊を吐き出した。

 だが、その顔は、少しの苦痛にも歪んでいなかった。それが、常人であれば致死量にも相当する麻酔のためなのか、それとも、耐え難い苦痛を表情に浮かべることさえ出来ないからかは、誰にも分からなかった。

 ただ、祈りを捧げるビアンキを、じっと見つめていた。

 祈りの言葉は、それほど長くなかった。

 ビアンキは、特別ではない、ありふれた祈りを終えると、少女の額に手のひらをかざし、神を称える詔を口にした。

 これで、少女は祝福された。ヴェロニカ教徒として、祝福され、その魂は天に近い場所に属したのだ。

 ビアンキが、冷や汗を浮かべながら、少女にかざした手のひらを、横にどけた、その時。

 

「 あ り が と う 」

 

 淡く微笑んだ少女が、奇妙に高い声で、そう呟いた。

 もう、咳き込むことも、血を吐き出すこともなかった。

 少女は死んでいた。

 

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