懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
日が沈む。
ビルが乱立するでこぼこの水平線に向かって、太陽が沈んでいく。
空が、嫌になるほどに、赤く染まっている。きっと反対側の空は青く、黒く染まっているのだろうが、振り向いて確認する気にはなれなかった。
星が一つ、輝いている。一番星だ。何という名前の星だったか。きっと、ヴェロニカの最後を救い共に天に昇っていった、守護聖獣の名前だった気がしたが、どうしても思い出すことが出来なかった。
ビアンキは、廃ビルの階段に座っていた。
そして、ぼうっと、天を見上げている。
天は、いつもと変わらなかった。
ビアンキが呆けていても、アイシャという少女が死んでも、今日という日でヴェロニカ教の歴史が閉じられても、何も変わらない。
ずっとそこにある。
きっと人類が死に絶えて、この星の上から生命の全てが姿を消しても、やはりそこにあるのだろう。
ビアンキはそれを、美しいとは思わなかった。人が消え失せた自然には、自然という価値は失われる。それは、美ではない。ただ、猛々しい世界だ。人がいるから、そこに、美などという余計な価値観を差し挟むことが出来るのだ。
要するに、自分は、人に対して絶望したのかも知れない。
ああ、もう、何もかもがどうでもいい。
総本山は、大騒ぎだろう。少年二人はおろか、それを監視していた導師までが姿を消して、一体どこに逃げおおせたか分からないのだから。そして、シェンブラックは、無慈悲な宣告を終えて、やはり威風堂々と総本山を後にした頃合いだろうか。
もう、どうでもいい。
たった一人の少女の死である。僧侶ならば、幾度だって見送らなければならない、人の死である。
それに、これほどの衝撃を受けている自分が、情けなくて、歯痒くて、それ以上にどうでもよかったのだ。
疲れた。
ビアンキが、重々しい溜息を溢した時、隣に誰かが腰掛けた気配があった。
「色々と、ありがとうございました。あなたのおかげで、娘も心安らかに神の御許へ旅立つことが出来たでしょう」
少女と同じ家にいた、眼鏡の男だった。
痩せて、風体のあがらない、ひょろりとした、男。
そうか、そういえば、あの少女は、この男の娘だったのだな。この男は、あの少女の父親だったのだな。
「本日は、本当にお世話様でした。これは、せめてもの気持ちです。どうかお受け取り下さい」
男は、小さな紙包みを差し出した。
薄汚れていて、所々が毛羽立っている、使い古しの封筒だ。厚さも大したものではない。
それでも、おそらくは、彼の少ない蓄えの中から、必死になって捻出したものだろう。
ビアンキは、黙ってそれを押し頂いた。受け取りを拒絶するのは礼に悖ると思ったからだ。
「本当に、導師様が来てくれてよかった。あの子達が、ヴェロニカ教のお坊様を連れてくると家を飛び出したときは半信半疑でしたが、本当に間に合うとは……。きっとあの子も、心安らかに天へと帰ることが出来たでしょう。これも、ヴェロニカの神の思し召しかも知れませんね」
「あなたは……」
数時間ぶりに声を出して、思ったよりも喉が渇いていたことに、ビアンキは慌てた。
二、三度咳を散らしてから、言い直した。
「あなたは、この星の、生まれの方ですか?」
眼鏡の男は、曖昧な笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「わたしは、惑星ペリティアの生まれです。この国には、もとは仕事の関係で訪れました」
ペリティアと言われても、ビアンキにはそれがどこの星で、どんな国なのか知らない。それどころか、この星以外のことは全く知らないのだし、ならばこの星のことは全てを知り尽くしているかといえば、全然そんなことはない。
ひょっとしてあの少年達ならば、知っているのだろうか。そう思って、少なからぬ敗北感が胸中に満ちたことに、ビアンキは驚いた。
「最初は、なんと風変わりな文化だと思いました。肉があるのに肉を食わず、栄養失調と背中合わせになりながらも、菜食主義を貫いているのですから。それも、人の手を加えた青果でないと口にしてはいけないという徹底ぶり。偏執的だな、とさえ思いましたよ」
ビアンキは、何も言わなかった。彼自身、外の世界から自分達を見たことはなかったが、いわゆる共和宇宙的な価値観に照らして、自分達がどれほど異端なのかぐらいは十分に理解していたからだ。
「しかし、ペリティアも、この星ほどではないが、自然愛護思想の強い国です。だから、わたしも、この星に住む人達の考えには共感できました。仕事を抜きにして、何度も訪れました。そのうちに……」
男は、照れくさそうに頭を掻いた。
「ええ、何とも恥ずかしいことなのですが、聖女ヴェロニカの教えを信奉するようになりました。いや、これが恥ずかしいなどと言っては、無礼千万なのですが……」
「いえ、結構です。どうか、続けて下さい」
男は、小さく微笑みながら、沈みゆく太陽を眺めていた。
そこに、娘を失った父親の悲哀はない。
きっと、全てを覚悟していたのだろう。
いったい、彼女はいつから苦しんでいたのだろうか。
ビアンキに出来ることは、せめてその時間が短かったことを、神に祈ることだけだった。
「人間は、自然から多くのもの搾取し過ぎた。それは、我々の生まれ故郷である、原初の惑星の惨状を見ても明らかです」
それは、ヴェロニカ教の始祖が、聖女ヴェロニカが、最後まで住み続けた惑星。
人類が発生し、最後には、人類に見捨てられた、星。
今は、名前すら忘れられた、星。
「だから、もう一度同じ事を繰り返していいはずがない。人間は自然から搾取せず、自然の循環に関わらない。それは素晴らしい思想だ。わたしも、いつしかそう思うようになりました」
昨日までのビアンキであれば、それは素晴らしいことですと、これこそ神のお導きでしょうと、歯の浮くようなことをすらすらと言えただろう。たとえ、少女の死を前にした後だったとしても。
だが、全てを知った今となっては、何もかもが空々しかった。そして、ただただ空しかった。
少年二人から聞かされた、真実。
信じられなかった。だが、少女の症状は、考えてみれば、あの鉱物のもたらす鉱毒症以外に考えられなかったのだ。
トリジウム。
この星に、大量のトリジウムが埋蔵されている。この星は、大量のトリジウムで汚染されている。そして、少女はその鉱毒で死亡した。
そのことを聞かされたとき、ビアンキは、長年の疑問のほとんどが氷解していくのを感じた。
この星で肉食が忌避され、年端もいかない子供に断食の修行をさせてまで、野生の青果を口にすることが禁じられた理由。
自然を崇拝し、自然の循環に関わらず、大規模な開発を厳に規制する理由。
決して豊かとは言えないこの星に、遺伝子産業が根付いた理由。
そして、今日、自分達が歩いた、あの大洞窟の作られた理由。
全てに、筋道の行く説明が、たった一つの鉱物の存在だけで出来てしまうのだ。
つまり、この星に、神はいない。
神は、鉱物に、その座を追われたのだ。この星の僧侶の悉くが、冷たい鉱物のために祈りを捧げているのだ。
ビアンキは、例えようのない徒労感に襲われていた。
「わたしがこの星への移住を決めたとき、妻は猛反対しました。あれは、ペリティアの名家の生まれでしたから、故郷を離れるのが忍びなかったのでしょう。行くならこれに判をついてから行ってと、離婚届を突きつけられましたよ」
「……それで、あなたはどうなされたのですか」
男は、やはりあやふやな表情のまま、笑っていた。
「きっと、私は何かに取り憑かれていたんでしょう。それは、この星の神様だったのかも知れないし、何か、自分の知らないところにある、美しい考え方にだったのかも知れない」
「……奥方とは、別れられたのですね」
「別れてはいません。あれは、法律的には、わたしの妻のまま、他界しましたから」
ビアンキは、のろのろと、正面に向き直った。
さきほどよりも、太陽は、少しだけ姿を隠していた。
「そうでしたか」
「ええ。だから、もう、後には引けなかったのです。わたしは、娘とともに、この星に移住しました。幸い、それなりの蓄えもあった。ペリティアでは、小さいながらに会社を経営しておりましてね、この星でも上手くいく自信もあったんです」
この男が、一つの会社の社長をしていたのか。
それとも、昔は、この男ではなかったのか。
ビアンキは、精気に溢れ、先頭に立って社員を叱咤するこの男のことを思い浮かべようとして、すぐに諦めた。
「で、成功されたのですか」
男の顔が奇妙に歪み、泣き笑いの表情になった。
「成功した人間が、こんなところに住むと思いますか?」
男は、くすくすと笑いながら言った。
人が、これほど力なく笑えるのかとビアンキに思わせるほど、力のない、笑顔だった。
「成功した人間の娘が、医者にも見捨てられ、あんな不憫な格好のまま、死んでいくと思いますか?」
「……失言でした。お許し下さい」
ビアンキは頭を下げた。
男は、さして気にしたふうではなく、続けた。
「仕事は、上手く行かなかった。どうしたって上手く行かなかった。どの星にでも通用する不文律というものが、この星には通用しなかったんです。つまり、わたしが無能だったということです。僅かにあった蓄えをすぐに底をつき、追い立てられるようにして居をここに移しました」
ビアンキは、ぼんやりと考えていた。
この星の、表面上は分からないが、その実、地中深くまで根付いている血統主義。この星に俄に根付いた移民が、そのことを理解せずに商売をして、成功するはずがない。
移民でなく観光客であれば、金を落としてくれる。移民であっても資産家であれば、金を搾り取れる。だが、金を失った移民に、利用価値はない。
おそらく、ハゲタカが死体に群がるよりも早く、この男の財産は毟り取られ、骨だけにされたのだろう。そして骨だけになった死体は、もはや誰にも見向きもされない。
そして、こんな場所に流れ着いた。
この星に住む移民は、こんな場所がスタートラインなのだ。
「きっと、食べ物が悪かったのかも知れません。あの子は、ヴェロニカ教の食べ物を、最後まで嫌がったんですよ。草ばっかり食べてたら青虫になっちゃうって言って。それでも、あの子は、確かに聖女ヴェロニカが好きだった。肉食をするヴェロニカ教徒など、あなたのようなお立場の方からすれば到底容認できるものではないのでしょうが、それでも、私は、あの子はヴェロニカに帰依していたのだと、そう思っています」
ああ、それはそうなのだろう。
だから、最後、あれほど穏やかに笑ってくれたのだろう。
きっとあの子は、ビアンキに感謝しながら、死んでいったのだ。
彼女を殺したのは、ヴェロニカ教の、欺瞞であったというのに。
もしも。
もしも、ヴェロニカ教団が、この星に大量のトリジウムが埋蔵されていることを公表していれば。
この星が、高濃度のトリジウムで汚染されていることを、公表していれば。
この星で肉を食べ続ければ、野生の青果を食べ続ければ、どういうことになるのかを、きちんと公表していれば。
あの少女は、今も、笑っていたのだろうか。
ビアンキは、分からなくなってしまった。
ぼんやりとしたビアンキの隣で、男は立ち上がった。
「……どこへ」
我ながら力ない声だと、ビアンキは思った。
「家に帰ります。あまり、あの子を一人にしたくないもので」
「……どうか、気を強く持たれて下さい。あなたに何かあれば……あの子は、きっと悲しむでしょう」
男は、頷いた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「ヴェロニカ教では、自ら命を絶った人間の魂は、やはり他の宗教と同じく、地獄に落とされるのでしょうか」
ビアンキは、しばらく考えた。
何と答えれば、この男を満足させられるのだろうか。
別に、今日、初めて出会った男が、娘の死を儚んで自らの命を捨てたとしても、自分に関係はないというのに。
この男を死なせることよりも、この男をがっかりさせる方が、ビアンキは嫌だった。
だから、正直に答えた。
「ヴェロニカの教義においては、自死は悪徳とはされておりません。善人も悪人も、全ての魂は天より来て、天に還る。肉体は地により形作られ、いずれは地に帰る。そのサイクルは、死に方一つで変えられるほどに脆弱なものではないのです。人は、その運命から逃れることは出来ない」
「ああ、それはよかった」
男は、笑った。
「あなたは、いい人だ」
「……知っておいでだったのですね」
「はい。でも、死のうとは思いません。自分で死を選んでもいつかあの娘と顔を合わせなければならないなら、父親が自分の後を追ったことを知れば、きっと悲しむでしょう。いつかあの娘と出会うときのためにも、わたしは生きなければ」
「……あなたは、強い人だ。心より敬服します」
それは、ビアンキの本心だった。
男は力なく首を横に振り、尻についた土埃を叩いて、ゆっくりと階段を下っていった。
「そうだ、もしよろしければ、導師様、私の料理を食べていってくれませんか?わたしが作った料理だけは、あの子にも好評だったんです。ヤームル君も、インシン君も、喜んで食べてくれました。きっとお口に合うと思うのですが」
「……折角ですが、遠慮させて下さい。今は、何かを食べる気になれないのです」
「そうですか。では」
男は、静かに立ち去っていった。
ビアンキはそのまま、じっと座っていた。
太陽が、のろのろと沈んでいくのを、じっと眺めていた。
やがて、夜が来た。
街の至る所で、赤々とした炎が灯された。その周りで、人々は笑い、歌い、粗悪な酒を美味そうに飲み、そして生きている。
ビアンキだけが一人だった。
もう、刻限がどうとか、ヴェロニカ教の明日がどうとか、どうでも良かった。
滅びろ。
滅びてしまえ。
何もかもが、灰燼になってしまえ。
ビアンキは、呪いと共に、何度も何度も呟いた。
そして、誰かが、先ほどの男と同じ場所に、腰掛けた。
「それが、お主の望みか、ビアンキ」
聞き覚えのある、声であった。
普段のビアンキならば、その声を聞いただけで、その場に平服していただろう。
だが、今のビアンキには、心底どうでもよかった。
自分の隣にいるのは、ただの老人なのだから。
「儂は、全てを主が決断せよと申し渡した。であれば、それがお主の決断か、ミア・ビアンキ導師」
「わかりません。長老、わたしには、何も、わからないのです」
ビアンキは、正直に、首を横に振った。
「もしも、全てを公表したら、どうなりますか」
ビアンキの問いに、紫紺の法衣を纏った老人は、無機質な口調で答えた。
「おそらく、この星を訪れた移民と、同じような目に遭うのじゃろうよ」
「同じ目、とは」
「全てを奪われ、全てを毟り取られ、住む場所を失い、放浪の旅へと還される。そして、辿り着くのは、ビアンキよ、今、お主が見下ろしているような場所以外にはあるまい」
あの、赤々とした炎の周りで、楽しげに語らう人の群れ。
それは、とても、とてもとても、羨ましいことなのではないだろうか。
「因果応報と、そういうことになるのかも知れんなぁ」
「……なぜ、この星では、ヴェロニカ教徒以外に対して肉食を認めているのですか。この星に住む全ての人々に、食事制限の徹底をはかれば、それだけで、どれほどの命が救われたか……!」
悲劇が、あの少女の頭上にだけ舞い降りたのではないと、ビアンキは知っていた。
あの少女の姿は、幾千幾万の、この星を訪れた移民の姿なのだ。ヴェロニカへの帰依を拒んだ人間の、末路なのだ。
そして、ヴェロニカ教の指導陣は、それを知りながら、ずっと放置していた。立ちのぼる異教徒たちの荼毘を、無関心に見送り続けたのだ。
いや、放置するだけではない。それを隠蔽し続けたはずだ。でなければ、いくらなんでも他国に知れないはずがない。
つまり、殺し続けたということだ。
ビアンキは、耐え難い吐き気を覚えた。それは、少女の肉体の腐り落ちる臭いよりも、幾万倍も、幾億倍も、遙かに遙かに耐え難いものだった。
「そのほうが、都合が良いからよ」
老人は、こともなげに言った。
ビアンキは、耳を疑った。
「……都合が……いい……とは……?」
「どうした、明敏なお主らしくもない。どうしてこの星にこれほどの人間が住んでおるのに、この星に根付いた宗教がヴェロニカ教ただ一つなのか、気が付かぬのか?」
ビアンキは、唖然とした。
唖然として、耳を塞ごうとした。
今からこの老人が何を言おうとしているか、ビアンキは知っていた。
だから、嘘だ。それは、全て嘘だ。
だが、ビアンキの腕は、それ自体が鉛に変じたかのように、ぴくりとも動かない。
「よいか。人類の歴史が始まって以来、星の数ほどの国が生まれ、ほとんど同じ数だけの国が滅びた。その全てとは言わぬが、ほとんどが思想的な対立に端を発して滅亡しておる。それが、内側から爆発したのか、外側から切り崩されたのかは別にして、な」
老師は、如何にも楽しげに言うのだ。
「ヴェロニカの教えは長く保たれねばならぬ。故に、この星に不純物は必要ではない。この星が、ヴェロニカ教徒達の唯一の安息の地であり遙か昔に始祖達が塗炭の苦しみを乗り越えて建国したこの国が、くだらぬ思想の衝突を原因として滅びるなどあってはならぬ。この星に他の宗教が根付くなど、あってはならぬことなのじゃ」
だから──。
だから、あの少女は──。
「この星は、聖女ヴェロニカに祝福されておるのよ。この星に住むことを許されたのは、ヴェロニカ教徒のみ。異教徒共が蔓延る隙間など、ごきぶりの住処ほどにもありはせぬ。そして、害虫は、神の息吹によって駆除される。それだけのことではないか」
死んだのか。
いや、殺されたのか。
ヴェロニカ教に、殺されたのか。
「もう一度言うぞ、ミア・ビアンキ導師。いや、お主は今より老師となる。惜しむらくは、お主が原始移民の家系でないことじゃな。どれほど幸運があろうと、お主は長老には成れぬじゃろう。それでも、お主が明日のヴェロニカ教を背負って立つことに変わりはない。そのお主が、このような些末事に心動かされてどうする。情けないとは思わぬのか」
情けない。
ああ、情けないか、情けなくないかで言えば、この上なく情けないとも。
自分が、情けない。
今の今までヴェロニカの教えに頭を垂れ、それを鵜呑みにし続けてきた自分が、情けない。
死にたいくらいに、情けなかった。
「ヴェロニカ教は、神に祝福されておる。故に、これほど豊潤な自然を形作り、そしてトリジウムという糧を与えてくださった。それは、我らが選ばれた民ということよ。そして、かの少女は選ばれておらなんだ。その死は、むしろ当然。このヴェロニカの大地の一部となれたことを、喜びこそすれ、恨み言を吐くなどというお門違いな真似は決してすまい。それこそ、鬼畜にも劣る所業じゃ」
恨むな、というのか。
あの少女は、我らを恨むことすら許されないというのか。
「まぁ、所詮は移民の子が一人死んだだけ。取り立てて騒ぎ立てることもあるまいよ」
その言葉を聞いたビアンキは。
拳が、何か、熱く、痛く、むず痒くなるのを感じて。
その熱さを、痛さを、むず痒さを、癒すために、何かを殴って。
自分の足下にいる老人の、痩せた背中を、何度も何度も踏みつけて。
殺してしまおう。
害虫は、駆除しよう。
そうだ、この老人も、さっき、そう言っていたではないか──。
「そこらへんにしときな、若いの」
そう、重々しい声が、後ろから聞こえて、肩に手を置かれた。
その手を振り払い、さらに、老人の背に足を振り下ろし──。
「だから、止めとけって言ってるんだ。そのままじゃ、爺さん、死んじまうぜ」
死んでもいいんだ。
こいつは、殺されるだけのことをしたんだ。
だから、だから、だから。
ばしん、と、頬を張られた。
それは、大して強くもなくて、痛くもなかったが、その手のひらの大きさだけが、どうしても印象的だった。
唖然としたビアンキの眼前に、恐るべき質量を備えた巨体が、立ちはだかっていた。
「いいか、若いの。老人は、尊敬しなけりゃいけねえんだ。これは、俺が老いぼれだから言ってるんじゃねえ。この爺さんは、お前よりも、何倍も生きてる。この小さな背中は、お前の何倍もの荷物を背負ってきたんだ。老いるってのは、朽ちるってこととは全く別なんだ。分かるか?」
ビアンキは、半ば夢心地だった。
どうして、ここに、大海賊シェンブラックがいるのか。今頃、ヴェロニカ教の総本山で、青ざめた僧侶達を前に、この星に対して死刑執行の宣言を下しているのではないか。
そうなら、とってもいい気味なのに。
なのに、それなのに、どうして自分は、大海賊シェンブラックに、諭されているのだろうか。
「もしもお前さんが、この爺さんを、どうしても殺さなけりゃならないんだとしたら、それは怒りとともに殺しちゃならねえ。尊敬を込めて殺すべきだ。そうでなけりゃ、この爺さんが背負ってきた荷物の重さが、お前を取り殺すぞ」
「……意味が、わからない。何を言ってるんだ、あんた」
宇宙を統べる大海賊に、いっぱしの口を利いているじゃないか、俺は。
ビアンキは、そんなことを考えている自分が、どうにも愉快だった。
愉快で、愉快すぎて、絞め殺したくなった。
「いいんだよ、意味なんて。そんなものは、薪にくべて燃やしても、熾りの一つも起こせやしねえ。若い内からそんなことを気にしてたら、禿げっちまうぜ、お若いの」
「……心配頂かなくとも、ヴェロニカ教の出家坊主は、みな禿頭ですので」
ビアンキの言葉を聞いて、シェンブラックは吹き出した。
「はは、違いないな!」
その時点で、ビアンキの頭からはだいぶ血が抜けていた。
静かに、足下に蹲った老人を見下ろす。
老人は、泣いていた。
声を上げて、おいおいと泣いていた。
許してくれと、許してくれと、泣いていた。
そうか。
この人も、辛かったんだな。
それが、唯一、ビアンキにとって嬉しかった。
「で、どうするね。この老人を、尊敬しながら殺すことが出来るかい?」
今、ビアンキがこの老人を殺そうとしても、シェンブラックは止めたりはしないだろう。
だから、ビアンキは首を横に振った。
この場にいない誰かに詫び続ける老人が、ひたすらに悲しかった。
「もう、どうでもよくなりました」
「そうか。なら、先に礼を言わせてくれ。俺のところの悪ガキどもが、たいそう世話になったそうだな」
見れば、シェンブラックの影に隠れて、二人の少年がビアンキを見上げていた。
ああ、そうか。
お前達は、まだ、こんなにも子供だったんだな。
ビアンキは、初めて、二人の頭に手を置いて、わしわしと撫でてやった。
「こいつらには、もう、言葉には言い表せないくらいの迷惑をかけられました。後で、でっかくてきっついお仕置きをしてやってください」
「ああ、心得たぜ」
シェンブラックが、にやりとして、その後でぎろりと二人を睨んだ。
「ええ、そりゃないぜ、おっさん!おれ達、あんたに何一つ迷惑なんて……」
言葉は、養い親のどでかい拳骨に遮られて、最後まで紡がれることはなかった。
ビアンキは、頭を押さえて蹲る少年を見て、ふと笑ってしまった。
なるほど。自分は、まだ笑えるらしい。
笑えるなら、とりあえずは大丈夫だ。また、明日も生きることが出来る。
「もし、トリジウムの存在を明かせば、この星はどうなるでしょうか」
ビアンキは、ぼつりと言った。それが、この星に住む全ての人々の命と天秤にかけられた、ヴェロニカ教における最も重大な秘密だったのに、もう、そんなことはどうでもよかったのだ。
シェンブラックは、大して驚いたふうではなかった。もしかしたら、既に、長老から全てを聞かされていたのかも知れない。
「さぁ。生憎、俺は特異能力者じゃねえからよ。予知とか先読みとかは、からっきしなんだ。だから、ギャンブルの類は勝ったことがねぇ」
それはきっと、ギャンブルなどというくだらないものに、運を使う必要がないからだろう。
この男は、もっと大きな何かに、その運の全てを費やしているはずなのだ。
「この爺さんは、何て言っていたんだい?」
矮躯の老人は、ヴェロニカ教の長老たる老人は、まだ泣いていた。
絞るように声を出し、赤子がぐずるように、幼児が駄々をこねるように泣いていた。
それを、ビアンキは憐れだとは思わない。不憫だとも思わない。だが、当然の報いだとも思えない。
ただ、悲しかった。
その背中から、何か、黒々としたものが昇華されていくように、ビアンキには見えた。その黒いものが、老人の背負ってきた何かで、これから自分が背負っていく何かなのだと考えると、どうにも憂鬱であった。
「トリジウムの存在が審らかになれば、我々はこの星を追われ、辺境に追いやられるのだと」
シェンブラックは腕を組んで、考え込んだ。
「なるほど、まぁ、そういう可能性もあるか」
「というと、あなたには、別の未来が見えていると?」
冗談めかした言い方に、シェンブラックは苦笑した。
「多分、内戦が起きる。いや、頭の回る誰かが、内戦を起こさせる」
「内戦?」
「いくら厚顔無恥な共和連邦のお偉方でも、まさか一億からの人間を惑星から追い出して、資源にありつこうなんちゃ考えてはいないだろう。俺みたいな海賊だって、そこまで阿漕な真似を、そこまで露骨には出来ねえよ」
果たしてそうだろうかと、ビアンキは考えたが、口にはしなかった。
「だから、俺なら、この星に住む人間の適当な奴を頭に仕立ててさ、争わせるんだよ。当然、裏から両方を支援して、争いを出来るだけ長引かせて、泥沼の中に引きずり込んで、身動きを出来なくさせる。そうなりゃ、自分達が俺の掌の上で踊らされてたんだって気が付いても、正しく後の祭りだ。俺の援助を断れば、間違いなく身の破滅。もう、人形の身分を自覚して踊り続けるしかなくなる」
先ほどの言葉はどうしたと、ビアンキは考えたが、やはり口にはしなかった。
「そして、どうしようもなくなったときに、支援の打ち切りを持ちかける。同時に、優しく声をかけるんだな。お前らの足下に埋まってる金属を高く買い上げてやるぜって。そうすりゃ、一も二もなく飛びついてくるだろう。当然、高くなんて買ってやらねえ。二束三文だ。それでも、当面の軍資金にはなるんだから、そいつらも頷くしかねえ。そして、星はトリジウム鉱毒に汚染され、人の住める環境じゃなくなる。だが、恨みを引き受けるのは俺以外の人間だ。何とも気楽な仕事になると思うぜ?」
「ああ、それは何とも──」
気が楽な話だろう。
そして、ことは、いとも容易く進むに違いない。
言葉尻を捕まえたような差異を理由に、いがみ合い続けるいくつもの宗派。
階級社会の中に根付いた、煮えたぎるような憎悪と不満。
トリジウムという鉱物がもたらす、計り知れない利益。
それらを巧みに操れば、この星を一つにしてきた団結は、呆気なく瓦解するだろう。もう、この星に聖女ヴェロニカはいないのだ。彼女以外に、この星の民を率いることは出来ないというのに。
ビアンキは、沈みゆく太陽の、最後の残滓を眺めていた。
空が赤紫色に染まり、最後には、呆気なく漆黒に染まる。その瞬間を眺めていたいと思った。
「あなたは、これからどうなさるのですか」
「んん?俺かい?」
シェンブラックは、少しの間考え込むと、
「正直なところを言えば、手を引こうかと思っていたところだ。この星に埋蔵されているトリジウムの量は、それこそ共和宇宙経済を根底から覆しかねない、恐るべき爆弾だ。それを、たかだか田舎海賊の首魁如きが使いこなせると勘違いするほど、俺は思い上がっちゃいないよ」
「そうですか」
落胆しなかったと言えば嘘になるだろう。
この男ならば、たった一人で共和連邦と向こうを張るこの男ならば、何とかしてくれるのではないか。この星の人間からたった一人の犠牲者も出さず、それ以外の人間からもたった一人の犠牲者も出さず、全てを丸く収めてくれるのではないか。
そう、甘い幻想を抱いていたのだ。
「だがな、お若いの。これは最初に言ったことだが、俺はビジネスの話なら、きっちりと応じさせてもらう。この星がきちんとした対価を支払うなら、それに応じた働きはさせてもらうぜ」
「……例えば、それは?」
「色々だよ」
「色々、ですか」
シェンブラックは、大口を開けてあくびをした。
「この星は、一刻も早く、共和連邦に加盟するべきだと、俺は思う。連中だって、馬鹿じゃねえ。いつまでもこの星に埋まってるお宝のこと、隠しておくには無理があるぜ。必ず、いつかはばれる」
ビアンキは、頷いた。
この二人の少年は、気が付いたのだ。であれば、この先、誰も気が付かないという保証はない。
いや、そんなもの、そもそも存在しなかったのだ。
秘密という言葉には、いつか必ず白日の下に晒されるという意味が含蓄されている。
「その時に、後ろ盾も無し、軍事力も無しじゃあ、共和連邦の連中か、それともそれ以外の連中に、食い物にされるだけだ。だが、連邦加盟国で後ろ盾もしっかりしてる国から資源をぶんどるのは、中々に骨が折れる仕事だぜ」
「では、あなたが、その仲立ちをしてくれると?」
シェンブラックは、面倒くさそうに頭を掻いた。
「乗りかかった船だ。今のエストリアの大統領には、ちっとばかし貸しがある。悪いことにはならないだろうよ」
「あなたは先ほど、ビジネスの話と仰った。では、我々からは、どのような対価を支払えばよろしいか?」
ビアンキは、平然と言った。
厳密に言えば、彼はまだ、一介の導師に過ぎない。よしんば明日に老師の階位を得ても、ヴェロニカ教の総意を纏める存在ではないのだ。
しかし、ビアンキは決意していた。
なんとしても、自分がヴェロニカを導く。自分が、この矮躯の老人が背負ってきたものを、背負っていくのだと。
そのためには、ありとあらゆる手段を辞さない。
そして、いつの日か。この星の真実を共和宇宙に知らしめ、ヴェロニカ教の暗部を知らしめ、全ての移民に償いをするのだ。
ただ、その時期を見誤ってはならない。
何事にも、時宜というものがある。それを見誤れば、この星を如何なる災厄が襲うか、誰にも想像が出来ないのだ。
「そうだな。この地面に埋まってる厄介者を、あんたはどうするつもりだい?」
「出来れば、可及的速やかに、全てのトリジウムを我らの目に届かないところに捨て去ってしまいたいと思います」
「なるほど。であれば、汚れ仕事は海賊の領分さ。この、汚れた土を捨てるついでに、欲しがる誰かのところに届けたって別に悪くはあるまい?」
ビアンキは、頷いた。
今まで、細々としたトリジウム密輸だけでも、莫大な富を生み出すことが出来たのだ。そこにシェンブラック海賊団が一枚噛んでくれるなら、もはやどれだけの規模の密輸になるか、知れたものではない。おそらく、それは公然たる取引とほとんど変わらない規模になるだろう。
「俺の知り合いに、最近羽振りのいい零細企業の田舎社長がいてよ。そいつが、生意気なことに、この星の近くに星を持ってやがるのさ」
「……個人で、星を持っている?」
ビアンキは耳を疑った。
世俗のことに疎い彼ではあるが、惑星を個人が所有するなど、到底あり得る話ではないこと程度は知っている。
よしんば可能だったとしても、それは、既に個人という言葉では言い表せない権力を手中にした人間にのみ、可能なのだろう。
例えば、目の前の男のように。
それとも、共和連邦の主席……程度では不可能か。共和連邦主席は、所詮は法の許す範囲内の権力しか有しないのだから。
「そいつの星を、ちっとばかし貸してもらうとしよう。いい中継基地になるし、この星の存在を隠すにもうってつけだ。なに、ちょうど資源の確保が大変だってぼやいてやがったからよ、この星からトリジウムを優先的に回してやれば、文句は言わねえだろう。なんとかシステムってやつは、どうやら相当にトリジウムを食うらしいからな」
「そんなものですか」
もしかしたら、かのクーア財閥の創設者ならば、それも可能かも知れないとビアンキは思い、苦笑いを浮かべた。我ながら、想像の羽を広げすぎたことに呆れたのだ。
そして、目の前の光景に視線を移した。
貧しい、スラムが広がっている。子供達はボロ布を纏い、つま先の破れた靴ではしゃぎ回っている。
トリジウムの密貿易が軌道に乗れば、きっとこの星はもっと豊かになるだろう。そうすれば、眼下に広がる貧しい景色を、鮮やかな色彩で飾ることができるだろうか。
窮すれば濫すという。であれば、富めば、乱れた人の心が平らぐこともあるのではないか。そうすれば、誰も傷付かずに、この星の真実を知らしめることが出来るのではないか。
しかし、その間に、どれだけに異教徒が、死んでいくのか。
いいだろう、と、ビアンキは、正面を睨み付けた。
全ては、わたしの責任だ。
わたしを、恨め。わたしに食いつけ。いつかわたしを連れて行け。
だが、全てを成し遂げた後だ。
遙か遠く、太陽の沈んだ地平線には、荒涼たるヴェロニカの大地が広がっている。月明かりにも赤いその色合いが、まるで誰かの血のように思えた。
そうだ、この星は、異教徒の血で濡れている。
そして、自分達は、その大地を踏みにじって生きている。
明日も踏みにじるのだろう。明後日も踏みにじるのだろう。
だが、その次は。その次こそは。
この日、この瞬間に、ヴェロニカ教の新たな老師が生まれた。そして、ミア・ビアンキという個人が、この宇宙から姿を消した。