懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第五十六話:決戦前夜、そして開戦(15禁)

「……そうか。恩に着る。こんな辺境でもこれだけのものを用意出来るとは、きみの仕事ぶりを高く評価せざるを得ないな。報酬は期待してもらっていい。今後も末永く良好な関係を築きたいものだ」

 

 そう言って、ジャスミンは携帯端末を切った。

 

「お姉様、ちょっといいかい」

 

 ノックも無しに扉を開けたメイフゥが、ジャスミンの背中に声をかけた。

 ジャスミンは、振り返った。手にしていた愛銃の分解パーツを床におくと、ごとりと、腹の底に直接響くような重量感の音が、部屋に響いた。

 肩で挟んでいた携帯端末を放し、

 

「こんな時間にどうした」

「うん、ま、ちょっとね。それより、さっきの電話、何さ?」

 

 メイフゥの言葉に、ジャスミンはくすりと笑った。

 

「まるで、旦那の浮気を疑う奥さんのような台詞だな」

 

 メイフゥの顔が、仄かに赤く色づく。

 

「い、いいじゃないか、そんなこと。別に深い意味はないよ。ただ、お姉様が、こんな時間にどこに電話してたのかが気になって……」

「明日の準備だ」

「明日の?」

「ああ。ダイアナに頼まれて、戦闘用のヘリコプターと、それに積み込む弾薬を山ほど、買った」

「買ったって……」

「なかなかいい買い物だった」

 

 ほくほくとしたジャスミンは、至って満足げである。

 メイフゥは絶句した。戦闘用ヘリを、買う?そんなもの、共和宇宙連邦に属していない辺境国家であっても、日の当たる場所では手に入らないのが普通である。どれほど金を積んでも、よほどのコネがないと手に入るものではない。

 まして、ジャスミンはこの星を初めて訪れたはずだ。どうして、そんなコネを持っているのか。

 ジャスミンの言葉でなければ、冗談だと思っただろう。だが、ジャスミンが真顔で言う以上、それは冗談ではないことを、メイフゥは短い時間で学んでいた。

 

「あの城に、戦闘ヘリで乗り込むのかい?」

「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら、城に備え付けられた対空砲火の格好の餌食だ。わたしは玉砕主義者ではないから、そんな死に様は御免被る」

「じゃ、何に使うのさ」

「小道具だよ」

「小道具?」

 

 メイフゥが、あどけない様子で小首を傾げた。

 その様を見たジャスミンが柔らかい笑みを浮かべた。

 

「まぁ、もう少し作戦を煮詰めてから説明する。今は気にしてもらう必要はない。きみはきみの準備をしておきなさい」

「……ま、いいよ。今回の喧嘩じゃ、あたしはコマだ。大将の指示には絶対服従させてもらうさ」

「助かる」

 

 メイフゥは、あらためてジャスミンをまじまじと眺めた。

 

「で、お姉様は何してんの?」

「準備だよ」

「準備?」

「明日には、ウォルを、ヤームル氏を、そして愚夫を助けに行く。であれば、相応の準備が必要になるということだ」

 

 見れば、ジャスミンの部屋のそこかしこに、通常の民家にはそぐわない、物騒な道具が散乱している。

 サブマシンガン。光線銃用のエネルギーパック。大型のサバイバルナイフ。ごつい軍用ブーツ。暗視用ゴーグル。携帯用のロケットランチャー。数え上げればきりがない。

 ジャスミンは、その一つ一つを念入りに整備しているらしい。

 

「大変だね」

「そうでもない。わたしは明日、この装備に命を預けることになるんだ。であれば、いくら慎重に整備しても、し過ぎるということはない」

 

 メイフゥは、部屋に散らばった雑多なパーツを踏まないよう注意しながら、ジャスミンの隣に腰を下ろした。

 だが、座っただけで、口を開かない。

 ジャスミンが、苦笑しながら、

 

「どうした。何か、言いたいことがあって、ここに来たんじゃないのか」

 

 水を向けられたメイフゥが、僅かに口を開き、

 

「あたし、許せないよ」

 

 歯の間から絞り出すようにして、言った。

 誰のことか、何のことか、明らかすぎるほどに明らかだったから、ジャスミンは何も言わなかった。

 メイフゥは、無言のジャスミンを無視して、続けた。

 

「この星に定住した人間のうちには、宇宙生活者だった人達だって山ほどいたはずだ。その中に、ヴェロニカ教に帰依した人間が、どれくらいいたんだろうね。そして、それ以外の人間が、どれくらいいたんだろうね」

「……膨大な数になるだろうな」

「その全てを、この星の連中は見殺しにしたんだ。ばたばたと死んでいく人間が、自分と同じ神様を信じていないってだけの理由で、無関心に殺し続けたんだ。そんなの、絶対に許せない」

「なら、どうする?」

 

 熱の込められた少女の言葉に、ジャスミンは冷静な言葉を返した。

 

「あの老人を殺すか?」

「それも、良いかもしれないね」

 

 メイフゥは、全てを語り、全ての荷物を肩から下ろしたミア・ビアンキという老人を、思い浮かべた。

 

『儂は、彼らに連れて行かれる資格すら、失ってしまったのですよ』

 

 結びの言葉を紡いだ老人は、うっすらと、力無く笑っていた。

 それは、既に只の老人だった。それまで彼の内に存在した威圧感とか、エネルギーのようなものが、軒並み消え失せていた。外見こそ何も変わらなかったとしても、中身は全くの別人だ。まるで空気の抜けた風船のような有様だった。

 今は、隣の部屋で眠っているはずだ。

 先ほどから、時折、声がしていた。悪夢に魘される、人間の、声だ。

 

「今更あの爺さんを殺しても、何も変わらないことくらい分かってる。でも、あの爺さんは、全てを背負いながら何一つ変えることが出来なかったんだ。なら、責任の一つも取るのが大人ってもんじゃないのかい」

 

 ジャスミンは苦笑した。メイフゥのまっすぐさは賞賛に値したが、それは太陽のようなものだと思った。明るく、暖かで、しかし自己と他人を焼き尽くしてあまりあるほどの熱と厳しさを持っている。

 誰しもがそれほどの熱を持って生きられないことを、ジャスミンは知っていた。

 

「お前は、これからどうするんだ?」

「どうするって?」

「先ほどの話を聞いて、お前は、この星に埋まっているトリジウムの存在を、詳らかにするのかと聞いているんだ」

 

 ジャスミンの真っ直ぐな視線を受けて、メイフゥは目を逸らした。

 じっと、床を睨み付けている。

 

「長年お前が求めていた、お宝がこの星には埋まっている。そして、その存在を公表すれば、お前は一部であっても分け前にあずかれるのだろうし、その一部の富は一生を遊びに費やしても到底使い切れいないほどに膨大なものになるだろう。付け加えれば、一度公表さえすれば、もう二度とこの星を訪れて、鉱毒症で死ぬ人間はいなくなるんだ。良いことずくめじゃないか」

「そうだね。お姉様の言うとおりだ」

「だが、この星を、どんな混乱が襲うか、知れたものではない。いや、この星だけじゃない。共和宇宙全体の経済が、根幹からの変容を余儀なくされるだろう」

「例えば?」

「まず、トリジウムの採掘で成り立っているいくつかの星系の経済が、致命的なダメージを受けるのは間違いない。わたしの知っているだけで、トリジウム採掘がGDPの9割を占める国は、両手の指ほども存在するんだ。その全てが破綻したとき、発生する経済難民の数が如何ほどになるか、考えたくもないな」

 

 メイフゥは、何も言わなかった。

 ジャスミンは、続ける。

 

「それに、あの地図のこともある」

「あの地図って、トリジウム鉱山の場所の記された、例の地図かい?」

 

 ジャスミンは頷いた。

 

「ダイアナに後から確認してもらったが、あれは、全てがヴェロニカ教総本山の所有する敷地だ。つまり、教団は、事が露見した場合のことを考えて、良質な鉱山の全てを事前に確保していたということになる。まぁそんなところだろうとは思っていたがな」

「……それで?」

「この国は、一見すれば、単一の宗教を国中の人間が信奉しているように見えるが、実はそうではない。外から見れば些細な違いでしかない教義の解釈や歴史的な経緯でもって、いくつもの宗派に分かれているのさ。一番権力を持っているのが教団であることは間違いないが、それを快く思っていない人間もたくさんいる。そして、全てが露見したときに、鉱山を独占した教団が一人肥え太っていくのを、面白く思うはずがない」

「……なるほど。それで、お姉様は言ったんだね。あの地図の本当の意味を知る人間が、この星に五人もいれば、間違いなく内戦が起きるって」

 

 ジャスミンは、もう一度頷いた。

 

「資源を巡る内戦は、本当に悲惨だぞ。血で血を洗うとは、正しくああいう戦いを言うのだと、わたしは思う。しかもその血は、昨日までの隣人や家族の流したものだ。一度浴びてしまえば、二度とは洗い落とせない」

 

 ジャスミンが、ぽつりと言った。

 声は、知識としての悲惨さではなく、実際にそれを目の当たりにした者の重みがある。

 メイフゥは、あらためて、この女性の正体が分からなくなってしまった。

 

「お姉様、あんた、一体何者なんだい?」

「わたしは、生まれてこの方、ジャスミン・クーア以外であったためしはない。幸いというべきかどうかは知らないが、結婚しても姓は変わらなかったしな」

 

 メイフゥはくすりと笑い、それから、力ない溜息を吐き出した。

 

「実はね、そんなことを言いに来たんじゃないんだよ」

 

 それは、ジャスミンも気が付いていた。

 戦いは、明日に差し迫っているのだ。この星の未来よりも優先されることが、自分達にはある。ならば、今はそちらに神経を集中するべきだ。

 ジャスミンの視線の先で、メイフゥは、携帯用の拳銃をいじっていた。

 あまり慣れた手つきではない、おっかなびっくりの様子だったので、安全装置がついているとはいえ、ジャスミンは少し不安になった。

 

「止めなさい。玩具じゃないぞ」

「うん、ごめん」

 

 メイフゥは、拳銃を床に置いた。

 

「銃って、色々とめんどくさいね。そういうふうに整備してやらないと、たまに暴発したりする」

 

 メイフゥの視線の先に、分解され、綺麗に掃除された拳銃のパーツが並んでいた。

 

「手のかかる子供みたいなものだな。確かに面倒だと思うこともあるが、手をかければかけるだけ、しっかりと答えてくれる。そういう意味では、愉しくもある」

「あたしは、ずっと、喧嘩っていったらこの腕一本で暴れ回ってきたんだ。こんな繊細なことには、めっきり縁がなかったよ」

「自慢か、それは?」

「ううん、多分、そうじゃない」

 

 メイフゥは、抱きかかえた膝の間に、顔を埋めた。

 

「怖いんだ」

「怖い?」

「死ぬのが」

 

 ぼそりと、呟いた。

 ジャスミンは、笑いを噛み殺すのに苦労しながら、

 

「当たり前だ。生物の定義は、ただ生を望むということさ。死を極力遠ざけるということだ。であれば、死を恐れない生き物は、既に生き物ではない。ただ動き、ただ喰らい、ただ楽しむだけの存在だ。わたしは、そんなものを生き物とは呼ばない」

「じゃあ、お姉様も、怖いの?」

「当たり前だ。戦いの前は、いつだって怖い。眠れなくなる。全てを放り出して、逃げてしまいたくなる」

「じゃあ、どうして戦うの?」

「死よりも恐ろしいことがあるからだろう」

 

 会話をしながらも、ジャスミンの手が止まることはない。流れるような滑らかさでいくつものパーツを組み合わせ、瞬く間に愛銃を完成させた。

 重量と携帯性の悪さから、生産中止になって久しい、往年の共和連邦軍正式兵装M72ヴィゴラス。無反動式であり、銃を水平に構え続ける腕力さえ備わっているならば、意外に取り扱いは容易である。

 威力は、ハンドキャノンの異名を取るほどに折り紙付き。大型のエネルギーパックにより、弾数にも信頼が置け、精密射撃にも掃射にも使用することが出来る。

 今まで、幾度もジャスミンの命を救ってきた、相棒である。

 照準のチェックは他の銃器とまとめてするつもりなので、ひとまずは完成である。

 

「お姉様が、死ぬよりも恐ろしいと思うことって、何?」

「さぁ?考えたこともない」

 

 ジャスミンは一度立ち上がり、ヴィゴラスを水平に構え、フィーリングを確かめた。

 長年腕に慣れ親しんだ感覚は、整備する前と寸分も変わらない。いや、整備を繰り返す度に、この黒光りした金属の塊が、自分の体の一部になっていくような気すらする。

 愛おしげに銃身を撫でると、僅かな違和感があった。よくよく見れば、小さなひっかき傷がある。三本の浅い溝が、銃身に対して垂直に、10センチほど刻まれているのだ。

 ジャスミンはしばらく無言で考え込み、ああそうだと思い出した。

 昨日、あの地下道で、今は自分の隣に座ったこの少女と戦ったときに、少女の攻撃を銃身で受け止めた。その際に、少女の爪が、鋼鉄の銃身を削り取ったのだ。

 あれは、間違いなく死闘だった。一歩間違えれば、自分かこの少女のいずれかが、死んでいた。そしてその可能性が高かったのは、どうやら自分なのだという自覚が、ジャスミンにはあった。

 

「これより先に進めば、死ぬかも知れないという一瞬がある。その時に、わたしは何も意識していないが、きっと脳みその中では打算と臆病と蛮勇が、大声で怒鳴り散らしながら取っ組み合いの大喧嘩をしているのさ。その結果、誰が勝つかで、一瞬後の行動が決まるんだ。そこに、正義とか信念とか約束とか、そういう不純物は立ち入れない。わたしはそう思う」

 

 再び腰掛ける。

 

「だから、何が恐ろしいとか、どうして死にたくないとかは、意識しないようにしている。死にたくないと思ったときは、何を理由にしたって死にたくないんだ。突っ込むときは、自分の臍のかたちが気に入らないことだって、突っ込む理由になる。そんなものじゃないか?」

「あたしはね、自分が死んで、この世界からいなくなった後、あいつがひとりぼっちになっちまうのが、一番怖い」

 

 ジャスミンは、隣に腰掛けた少女を見た。

 少女は、震えていた。まるで、年相応の女の子のように。

 

「今までさんざ暴れ回っておいて、何を今更って思うかい?」

「いや、そんなことはない」

「あたしが死んじまったら、あいつは、この宇宙でひとりぼっちになっちまうんだ。親父様は生きてるか死んでるか分からない。お袋は、もう何年も前に、冷たい土の下だ。氏族のみんなも、散り散りになっちまった。あたしとあいつは、この宇宙で、本当に、最後の二人なんだよ」

 

 メイフゥは、消え入りそうな声で言った。

 

「なら、君はここで待っているか?」

 

 ジャスミンの言葉が意外だったのか、メイフゥは弾かれたように顔を上げた。

 

「お姉様……ひょっとして、あたしは足手まといかい?」

 

 ジャスミンは、首を横に振った。

 

「足手まといなら、縛り付けてでもここに置いていく。決して、自分の死に責任を持てない子供を、戦場に連れて行こうなどとは思わない。それでもお前を連れて行くのは、お前がしっかりとした戦力だからだ。お前の力が必要だからだ」

 

 メイフゥは、呆気にとられた後に、笑った。

 鼻の頭に皺を寄せるような笑い方は、さながら猫科の獣が照れ笑いしたような様子だった。

 

「しかし、何度も言うが、お前はまだまだ子供だ。自分以外の死に責任を持つには、まだまだ若すぎる。それは、闘争に必要な能力などは度外視したところでな。だから、お前がここに残ると言っても、わたしはそれを非難しないし、非難する資格もないんだと思っている。だから、どうする?弟と一緒にここに残り、わたしの帰りを待つか?」

 

 メイフゥがいたずらに反発しなかったのは、ジャスミンの声のうちに、心底メイフゥを慮る心情がたっぷりと含まれていたからだ。

 メイフゥは力なく笑い、首を横に振った。

 

「あたしは、行くよ」

「無粋を承知で尋ねるが、どうして?」

「ウォルを助けるためさ」

 

 メイフゥは、膝を抱えた姿勢のまま、まっすぐを見た。

 

「絶対に、あいつは助ける。たとえそれが、どんな姿形であったとしても、どんなに汚されちまってたとしても、絶対に」

「どうしてだ。彼女とお前が顔を会わせたのは、せいぜい一月前程度のことだろう。どうしてそれが、命を賭ける理由になる」

「あたしが、インユェよりも先に死ぬからさ」

 

 ジャスミンは、思わず隣に座った少女の顔を見た。

 そこに、冗談を言っている気配はない。真剣そのものの顔で、目の前の壁を睨み付けていた。

 

「あたしは、あいつよりも先に生まれた。だから、姉なんて偉そぶっていられるんだ。その代わり、あたしはあいつより先に死ぬ。それが世の理ってもんだ。だから、あたしが死んだその後で、あいつが一人にならないよう、あたしが何とかしてやらなくちゃならないんだ。何せ、あたしはあいつの姉なんだからさ」

「それと、ウォルを助けることが、どうして繋がる?」

「決まってる。ウォルは、インユェの嫁さんになるんだ。そんで、インユェの子供を産むんだ。出来るだけたくさん、兄弟で大型船の操縦が出来るくらいに。そうすれば、インユェは独りぼっちじゃなくなる。たとえあたしがくたばってもね」

 

 大きく息を吐き出し、

 

「ウォルがどんな姿になっていたとしても、絶対にインユェはウォルを見捨てないだろう。一生を賭けて愛し、守り、慈しんでくれるはずさ」

「どうしてそう言い切れる?」

「あたしは、あいつの姉だからね。分かるんだよ、あいつが、本気でウォルに惚れてるってことが。一度本気で惚れちまったら、あとは外見とか性格なんて、二の次だぜ。死ぬまであいつは、ウォルを手放さない」

 

 だからウォルはあいつの奥さんになるべきなんだ……。

 そう言って、メイフゥは黙り込んでしまった。

 

「少し、腹が減ったな」

 

 ジャスミンは立ち上がった。

 

「何か作ろうか。メイフゥ、お前も食べるか?腹が減っては何とやらというが、我々はこれから、本当に戦をしに行くのだから、食べられる時には食べておくべきだと思うが」

 

 メイフゥは、少し疲れたような顔で頷いた。

 

 

 少年は、一人、固いベッドの上に座り、片膝を抱えて、窓の外を見上げていた。

 太陽が沈む。赤い光の玉が山の向こうに姿を消して、その最後の曙光も消え去ろうとしている。

 

「ウォル……」

 

 彼女が、自分を逃がすために捕まったのだということを、少年は知っていた。そして、その恩義は、命を賭けても返さなければならないことも。

 

「待ってろ。絶対に、絶対に、俺が、お前を、助けてやる……」

 

 くるくると良く動く、小さな体。

 くるくると良く変わる、愛らしい表情。

 なのに腕っ節は強くて、ロッドだって素手だって、一度だって敵わなかった。いつだって、こてんぱんに伸された。

 それでも、地面に倒れ伏して見上げる、少女の輝かしい笑顔が、どれほどに眩しかったことか。

 

「お前を、くだらない儀式の生け贄になんて、させてたまるかよ……」

 

 戦いは、間近に差し迫っている。

 少年の瞳に、昨日の甘さはない。

 烈気を孕んだ紫色の瞳で、窓の外を睨み付けていた。

 

 

 鉄拵えの扉を開けると、むんとした熱気と、独特の臭気が漂ってきた。

 果実の腐ったような甘ったるさの中に、動物的な、生々しい肉の匂いが混じっている。脂と、汗と、その他の体液が一緒くたになり、坩堝でぐつぐつと煮詰められたような、匂い。脳髄の一番奥底を痺れさせるような、匂い。

 鼻腔の奥にへばりつき、全身の血液を沸騰させる匂いだ。これから始まる宴の予兆を感じさせる、匂いだ。

 背を丸めながら部屋に立ち入った二人の男は、鏡合わせのように、下卑た笑みを浮かべていた。

 男達は、その匂いが──濃密な女の体臭が、大好物だった。

 血液が、どくどくと心臓から送り出され、その一部が局所へと集中していく。ズボンの前面が、みりみりと膨れあがっていき、ベルトのバックルをむくりと押し上げた。

 男達の一人が、紅褐色の舌で、唇をべろりと舐め回した。口の端に飾られた銀色のピアスが、ぬらりと光った。

 

「たまらねえな、おい。一人か二人、連れて行くか?」

 

 声と、動悸と、鼻息が、同時に放たれたような声だった。それは、男の興奮が臨界点を越えようとしている証拠だ。男の巨体の内側から、鎖を引きちぎる獣さながらの狂気が発散されている。

 見た目は、不健康そうな痩せぎすの男である。

 ひょろりと長細い体躯。肌はかさかさと不健康で、青白い。白目のあたりが不自然に赤らんでいるのは、薬物の影響で毛細血管が痛んでいるからか。その、赤らんだ白目の上に、小さな黒目がちょこんと浮いている。頬は、鉈で肉を削り落としたようにげっそりとしていた。

 狂気じみた容貌の男だ。その男は、己が快感を得る過程で少女を痛めつけるのではなく、少女を痛めつけること自体を目的として少女を痛めつける、真性のサディストだったから、少女達には恐れられていた。彼は、わざと刃を潰したナイフをのこぎりのように使い、少女の柔肌を切り刻むのを非常に好んでいた。そして、切れ味の悪い刃物で肉を切り取られる少女の狂った叫び声を、他の少女達に聞かせて、その恐怖する様を見て再度笑みを浮かべるのだ。

 痩せぎすの男は、ポケットの中で件のナイフを弄びながら、欲望に黄ばんだ視線で部屋の片隅をぎょろりと睨め回した。

 ひぃ、と、息を飲む声が、暗闇のそこかしこで聞こえる。

 年若い少女の声だった。

 彼女達は、ひとたび男達の眼鏡に適ってしまえば自分がどのような目に遭わされるのかを、十分に理解し、恐怖している。神に祈りを捧げる声が、切羽詰まった短い悲鳴の中に混じる。

 まだ、神が自分を助けてくれると信じているのだ。まだ、縋り付ける何かを持っている。つまり、まだまだこの部屋の新入りであり、正気を保った人間であるということだ。

 では時間が経てばどうなるか。

 もう少しこの部屋に慣れ親しめば、男の存在に興味を失う。それとも、自分自身に対する興味すら失い、自暴自棄になる。もう、自分は助からないと悟る。助かったとしても、既に手の施しようがないことを理解する。度重なる陵辱に、身も心もずたずたにされ、その状態に慣れきってしまう。

 最後に、狂う。男に対して微笑みかけ、自然に股を開くようになれば、末期症状だ。そういう少女は、すぐに廃棄処分とされ、最も過酷な宴の贄とされた後に、どこかに売られていく。それとも、遊びが過ぎて責め殺されることもしばしばだ。

 痩せぎすの男は、そういう少女には興味はなかった。やはり、獲物は活きが良いに限る。まだまだ自分の運命を受け入れることが出来ず、精一杯の抵抗をする少女を力尽くでいたぶるのが、最高だ。処女であればなおさら良い。

 幸い、この部屋には、それらしき少女が数人いる。法と正義の絶対を信じ、男達を下賤な犯罪者として蔑んでいる視線だ。周りの先輩達の身に起きた悲劇が、自分達には決して及ばないと信じている視線だ。最後の最後には、ヒーローが自分達を助けに来てくれるのだと信じている視線だ。

 そういう少女は、最高のご馳走だった。その強気が、絶望の悲鳴とともに折れ砕ける瞬間を見るのが、男達の何よりの楽しみなのだから。

 だからといって自由に手出しが出来るわけではない。本来であれば、男達のリーダーである赤毛の青年が手を付けるのがルールだ。

 だが、当の青年の感心は、既に一人の少女に釘付けであり、他の獲物に対して一切の興味を示さない。ならば、ここにいる雑多な少女の一人や二人を味見するくらい、別に問題はないだろう。

 

「止めとけ止めとけ。そんなことは、いつだって出来るだろが。それよりも、さっさと要件を済ませちまうぞ」

 

 暴走しかけた痩せぎすの男を、ややうんざりとした調子の声が制した。

 これも、到底堅気には見えない風体の男である。そして、こちらは大きい。縦にも横にも、肉の威圧感がある。地に這いつくばった少女達からすれば、怪物さながらに巨大な男だ。

 巨躯の男は、痩せぎす男の恨めしい視線を完全に無視し、のっそりとした視線で、部屋の奥、暗闇の底を睨み付けた。

 

 暗闇の奥に、何かがいる。

 

 朧気な燭台の光に照らされて、汗にぬめった白い肌。少女らしく、丸みのある肉。黒く艶やかな髪の毛。

 ぴくりとも、動かない。果たして呼吸をしているのかすら怪しい。

 死体というよりも、等身大の人形のようだった。

 

「おお、いたいた、お姫様だ。さぁて、生きてんのかねぇ」

「トポレキシンのきっついだろ?俺、前にあれを打たれた女を見たけどよ、ひっでぇもんだったぜ?ありゃあ、とてもじゃねえが人間って呼べる生き物じゃねえよ。昨日までのお嬢様がよ、股ぐらどろどろにふやかして、俺の靴をべろべろ舐めながら、お情けを下さいご主人様ときたもんだ。雌豚のほうがまだ恥じらいって奴を知ってるに違いねえぜ」

「ふん、そんなもん、見りゃあ分かるのさ。だからこそ楽しみじゃねえかよ。あんだけ強気で、ルパートにぼこぼこにされても眉一つ動かさなかった雌ガキが、どんな様子になってるのかよ」

「そりゃあいいけど、くたばってやがったらどうするんだよ?」

「さぁ?剥製にして、ダッチワイフでも作るんじゃねえか?あの趣味だきゃあ、流石に理解できねえがなぁ」

 

 にやりと、冷血動物じみた笑みを浮かべた男二人が、ずかずかと部屋の中に立ち入った。

 弾かれたように、少女達が道を空ける。この二人の男は、赤毛の青年ほどではないが、少女達にはとって、最大限の恐怖と嫌悪の対象であった。つまり、この二人の男は、常日頃から少女達を人間以下の存在として取り扱い、嬲り、服従を強いてきたということだ。

 蜘蛛の子を散らしたように、逃げ散っていく少女達。だが、男達が歩く先に、逃げ遅れた少女がいた。

 決して二人を恐れていないのではない。むしろ、他の誰よりも、この二人に対して恐怖を抱いている少女だった。ただ、彼女は最後の最後まで男達に対して反抗的な態度を崩さなかったために、罰として手足の腱を切断されていた。だから、ナメクジのように這いずって移動することしか出来ないのだ。だから、逃げ遅れたのだ。

 少女は、俯せの姿勢のまま、肩と腰を視点にして体をくねらせ、文字通りミミズののたくるような速度で逃げた。体の前面とやすりのような石床が擦れ、柔い肌には無数の擦り傷が出来たが、気が付いている様子はない。背中にかかった栗色の髪の毛が、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。

 まだ幼さの残る相貌が、恐怖と焦慮に激しく歪んでいる。不自然に力の込められた肢体が、ぷるぷると、細かく痙攣する。力の込められない腕と足が、体の動きに合わせてぶらぶらと、珍妙にくねる。目は見開かれ、涙と鼻水と涎を零し、神の御名を口にしながら這いずっていく。

 少女は、覚えていたのだ。この二人の男が、鼻歌交じりに自分の純潔を奪い、ついでとばかりに手足の腱を断ち切った時の、目が眩むような激痛と屈辱を。

 憐れな少女の、必死な様子を見た男達は、火がついたように笑った。大口を開け、腹を抱えて笑った。

 

「なんだよ、そりゃ!新手の宴会芸か!?」

「ひゃはは、ねぇきみ、ウケ狙ってる!?狙ってるんでしょ!?」

 

 少女に答える余裕など無い。ひたすらに、この二人から離れたくて、手足を動かそうとする。だが、腱を断たれた手足は、持ち主の意思を裏切ってびくとも動かない。なめくじか蛇のように、体をくねらせて移動するのが精一杯だ。

 男達は、悠々とした足取りで少女に追いつき、追い越して振り返り、にやにやと、少女を見下ろした。

 恐慌寸前の少女が、もぞもぞと、方向転換を試みる。ひぃひぃと、細かな悲鳴がこだまする。がちがちと歯を鳴らして、それでも必死に歯を食いしばり、全身全霊の力を込めて蠕動する様は、人の形をした尺取り虫のようだった。

 だが、どうしたって逃げ切れないことを、少女は知っていた。

 絶望に赤く青く染まった顔が、自分を見下ろす二人の男と、その振り上げた靴の裏を仰ぎ見た。足は殊更ゆっくりと持ち上げられた。そして、高々とした場所で、見せつけるように静止した。

 たすけて、と、少女の口が細かく震えた。許しを乞い、へつらう笑みを浮かべた。

 

「聞こえねえよ、ばーか」

 

 巨躯の男は、満身の力を込めて、少女の背を、固いブーツの底で、思い切りに踏みつけた。

 部屋全体が小さく揺れ、土埃がぱらぱらと舞った。

 その音に掻き消されるように、靴の下で、ぐしゃりと、肉と骨の拉げる音がして、

 

「ぐえぇぇ……」

 

 少女のものとは思えない、濁った声が、部屋に響いた。肺腑を押しつぶされ、無理矢理に吐き出された空気と喉が奏でた音だ。

 一瞬遅れて、ごぼん、と音がした。少女の口から、信じられないような量の、反吐が溢れていた。

 その二つの声が、男達にとって、更なるユーモアの琴線に触れたらしい。

 男二人は、動物園の猿のような顔で、目と歯を剥き出しにしながら笑った。ぴくぴくと、陸に揚げられた魚のように痙攣を繰り返す少女を指さして、

 

「聞いたかおい!ぐえぇだってよ!女として出しちゃいけない声でしょ!」

「すげえ音がしたぞ!死んだんじゃねえか!?久しぶりにやっちまったか!?」

 

 痩せぎす男が、少女の顔を覗き込んだ。

 少女は、白目を剥き、血と涎と胃液の混じった泡を吹いていたが、まだ生きていた。ぴくぴくと全身を痙攣させてはいたが、とりあえず、今のところは死んでいない。あくまで、今のところは。

 男は、興を削がれたように鼻息を一つ吐き出した。なんだ、死んでいないのか。面白くない。

 いや、違うか。これから、もっと面白ことが出来るのだ。

 なにせ、死んでさえいないならば、組織再生療法で大抵の怪我は治る。何度半殺しの目に遭わせても、蘇生させることが出来る。

 良い時代だ。一昔前なら、こうはいかない。遊びすぎた玩具は、容易く壊れて直らないのが普通だったのだ。そんなの、ちっとも面白くない。良い玩具は、何度も壊して、何度も直して、骨の髄までしゃぶり尽くすべきだ。虫けらは踏みつぶしてしまえばそれまでだが、脚を一本一本毟り取るのは中々に愉しい。

 痩せぎすの男が、死にかけの少女の体を、思い切り蹴り飛ばした。少女の体はごろごろと石床を転がり、壁にぶつかって、動きを止めた。全身を反吐に塗れさせ、四肢をあべこべの方向に向けた様子は、生ゴミと一緒に廃棄されたマネキン人形のようだった。

 

「おいおい、本当に死んじまったらどうするんだよ。可哀相だろうが」

 

 巨躯の男が、にたにたと笑いながら言った。

 

「死んだら、次のを攫ってくるだけじゃねえか」

 

 痩せぎすの男が、ぴくりとも動かない少女に向かって、

 

「だから、簡単に死んじゃあ駄目だぞぉ。お前が死んだら、どっかの誰かさんが辛い目に遭うんだからなぁ。君たち、お父さんとお母さん、学校の先生に教わったでしょう?他人に迷惑をかける人間は最低ですよぉ」

 

 二人は、再度げらげらと笑った。

 闇の奥から、少女の啜り泣く声が聞こえた。それは、恐怖のためであり、悲しみのためでもあり、何よりも悔しさのためであった。

 どうして自分達が、こんな目に遭わなければいけないのか。自分達は、ただ、この星を観光するために訪れただけなのに。あの時、別の観光地を選んでいれば。あの時、お父さんと一緒にホテルを出ていれば。あの時、優しげな青年の甘い誘いに応じていなければ……。

 いくつもの失われた選択肢が、自分達を地獄から救い出すための蜘蛛の糸だったのだ。そして最後まで気がつけなかったから、今、ここにいる。紛れもない地の獄に。

 少女達の無念が、固形化して漂っているような空間であった。

 それが、男達にはたまらない。

 自分達に向けられた怯えと絶望の視線にねじ曲がった支配欲を満足させ、二人は部屋の奥へと進んでいった。

 そこには、少女がいた。

 二人、いた。

 一人は呆然とした様子でへたり込み、ぴくりとも動かない、少女。げっそりとやつれ、窪んだ眼下に虚ろな瞳を浮かべている。明後日の方向をぼんやりと眺めたまま、瞬き一つしない。先ほどの騒ぎにも、気が付いているかどうか怪しいものだ。ショーケースに収められた人形のように、ただ一点をじっと眺めている。

 一人は俯せに寝転がったまま、ぴくりとも動かない、少女。見事な黒髪が放射状に広がり、処女雪のように滑らかな背中を飾り付けている。その少女の二の腕には、青紫色の小さな痣がいくつも出来ている。注射の痕だ。その証拠に、青痣の中央には、赤黒く固まった小さな瘡蓋が浮かんでいた。

 その少女は、奴隷のように、手足を、太い鎖で繋がれた鉄製の錠によって拘束されていた。手錠は後ろ手に嵌められているため、かたちの整った少女の尻が、重たい鎖によって歪に変形されられていた。

 二人の少女は、当然のように全裸だ。この部屋で着衣を許されているのは、支配者たる男達だけであり、奴隷であり愛玩動物でもある少女達には人間並みの尊厳など用意されていない。

 痩せぎすの男が蹲り、俯せに倒れた少女の腕を、ぐいと持ち上げた。黒髪の少女の小さな体はだらんと持ち上がり、首の据わっていない頭部が、ぐらぐらと揺れ、髪の毛がざわめいた。

 

「ひぃーふぅーみー……お、きっちり二十四回、お注射してあげたんだな。偉いぞー、えっと、名前は何てったっけ……まぁいいか、犬は犬なんだし」

 

 痩せぎすの男が、あっさり手を離した。

 二の腕をまだら模様にした少女の体は、石床に落下した。頭部と固い地面がぶつかり、寒気のするような音が響いたが、男達はおろか、当の少女ですら何の反応も示さなかった。男達はそもそも興味を持っていないだけであり、少女は反応を示すことすら出来なかったのだ。

 

「……助けて……」

「あん?なんだと?」

「……お願い、します……その子を、助けてあげて……。さっきから、全然動かなくなっちゃったの……このままじゃ、死んじゃう……」

 

 呆然と座り込んだ少女が、掠れた声で懇願した。

 本来であれば可憐な花のように可愛らしいはずの容貌が、無惨に失われている。それは、外面的に言えば極度の疲労と羸痩によるものであり、内面的には少女を蝕む罪悪感によるものだ。

 なぜなら、意識のない少女の腕に注射針を突き立て、その体に淫毒を注入し続けたのは、彼女なのだ。それが例え強制された行為であったとして、罪科の無い他者を苦しめる行いは、無惨なまでに神経を削り取る。

 少女は、まるで老婆のような表情で、巨躯の男の足に縋り付いた。

 

「お願いします……助けて……この子を、助けて下さい……」

 

 痩せぎすの男は、愉しくてたまらないという笑みを浮かべた。

 

「おいおい、助けてくれって、こいつをこんな様にしたのは、お前だろう?どの口でそんなことを言えるんだ?厚顔無恥ってのは、お前のようなやつのことを言うんだろうな」

 

 少女の顔が、絶望に染まった。

 

「ち、違うわ!わた、わたしは、こんなこと、したくはなかった!したくはなかったのに、あの男が……!」

「いーや、違わないね。自分が身代わりになるくらいの気持ちがあれば、断ることは出来たはずだぜ?」

「そ、それは……そんなこと、出来るわけがないじゃない!」

「そうさ、お前には出来なかった。要するに、お前は我が身可愛さに友達を売ったのさ。しかも、誤魔化すこともなく、きっちり一時間ごと、まる一日分も。もしもお前が友達想いなら、本数を誤魔化すとか、水で薬を薄めてやるとかさぁ、もう少し頭を使おうぜ、犬は犬なりに。それとも、この子が苦しんでいる間は自分は無事だとでも思ったの?いやぁ、それなら大したもんだ!犬に相応しい浅ましさだねぇ!」

 

 少女は、真っ青な顔のまま言葉を失ってしまった。口元は戦慄き、その横を、後から後から涙が伝い落ちていく。

 巨躯の男が、後ろから、少女の肩の上に顎を載せ、猫なで声で話しかけた。

 

「しかも、お前がお友達のその子に打ったのは、一本で大の大人が狂い死ぬっていう、拷問用の毒薬だ。ええ、おい。お前分かってんのか?お前が、この子をこんな様にしちまったんだぜぇ?」

「ち、ちが……わた、わたしは、悪くない……」

「違わねえよ。おい、しっかりと見てみろよ、この惨めな様子をよ」

 

 男が、倒れた少女の髪を鷲づかみにし、強引に引きずり起こした。

 そして、少女は、見た。あの、太陽のように朗らかだった少女の、今の有様を。

 部屋に、甲高い悲鳴が響き渡った。

 

「おいおい、ひでえな!友達の顔を見て、泣き喚いてんじゃねえよ!可哀相じゃねえか、この子がよ!」

 

 げらげらした笑い声は、どちらの男のものだったか。

 少女は、がたがたと震える体を掻き抱くようにして、崩れ落ちた。

 

「ごめんなさい、ゆるして、フィナ、ごめんさない……」

 

 少女の見た、フィナという少女の顔。

 腫れ上がった瞼が薄ぼんやりと開かれ、瞳は焦点を失っていた。

 がさがさになり、所々裂けた唇の端から、粘ついて糸引く涎が、垂れ落ちていた。

 だというのに、唇の端は少し持ち上がり、愉しげに微笑んでいた。夢の中で、愛しい人と再会したかのように。

 要するに、フィナと呼ばれた少女は、徹底的に壊れてしまっていたのだ。誰が見ても、既に手の施しようがないと分かるほどに。

 男達は、壊れた少女の顔を覗き込んで、堪えようのない笑みを浮かべた。気の強い女の、心の芯が折れた様というものは、何度見ても見飽きるということがない。自分達が所詮は男の慰み物に過ぎないのだということを理解していない女共に、この少女の顔を見せてやりたいものだ。

 

「ま、今日のところは俺たちも忙しいからよ、お前は一人で反省してろよ。また明日にでも、たぁっぷりと懺悔に付き合ってやるさ」

「汝の罪は、苦痛によって雪がれんってな!」

「おお、期待してろ!俺たちが、聖女ヴェロニカの愛の何たるかって奴を、骨の髄まで分からせてやるからよ!」

 

 男達は、満足げに立ち上がった。

 巨躯の男が、意識の無い少女の黒髪を、鷲づかみにしたまま歩き出した。少女は、散歩を拒む子犬が飼い主にそうされるように、ずるずると石床の上を引きずられていった。手足に嵌められた金属製の錠が、固い地面と擦れて、じゃらじゃらと神経の触る音を立てた。

 その様子をつまらなそうに見た痩せぎすの男が、

 

「おいおいハンクよ、その雌ガキ、仮にもルパートのお気に入りなんだからさ、もう少し丁寧に運んで差し上げたらどうだ?」

 

 熱の無い声で言った。

 

「ふん。こいつには、少し因縁があってな。本当なら、今にでもぶっ殺してやりたいところなのを、ぎりぎりで我慢してるんだ。これでもまだ紳士的ってもんさ。なぁ!?」

 

 ハンクと呼ばれた巨躯の男が、少女の髪を掴んだ右腕を、高々と掲げた。

 少女の体は容易く持ち上がり、足先はぶらぶらと宙を泳いだ。それでも目は虚ろで、何を映しているか分からない。自分の目の前にある男の顔を、ほんの少しだって認識していなかった。

 巨躯の男は、少女の顔に唾を吐きかけた。黄色く濁った粘つく液体は、少女の滑らかな額に命中し、そのまま白い肌の上をずるずると伝い落ちていった。

 

「因縁って、何だよ?」

「騎士団の支部の一つが、得体の知れない連中に襲撃されて、全員が半殺しにされたっていう話、聞いたことがあるだろう?」

「ああ、確か、二週間も前の話だろう?よくは知らねえが、反体制のテロリストの仕業っていう話に落ち着いたんじゃなかったか?」

「一応はな。だが、本当の犯人は、こいつと、もう一人の女だ」

「こいつが!?」

 

 痩せぎすの男が、驚きに目を大きくして、ずたぼろのウォルの顔を覗き込んだ。

 

「知らなかったのか」

「なるほどねぇ。そんじゃあ、因縁ってのは……」

「ああ。あの支部には、俺の弟がいたんだ」

 

 巨体の気配が、吹き出す怒気で更に膨れあがった。

 己の手で吊り下げになった少女を見る視線に、吹き出すような殺気が籠もっている。

 

「ひでえもんだったぜ。膝蹴り一発で、顔面がど派手に陥没。手術したって完全には元に戻らないだろうな。その上、ご丁寧なことに、きんたまを二つとも潰してくれやがった。もう、あいつは男として一生みじめに生きていくしかないのさ」

 

 男のまなじりに、うっすらと涙が溜まっていた。

 

「ルパートのお気に入りじゃなけりゃ、このガキも、弟と同じ目に遭わせてやるはずだったんだ。何の罪もないあいつを、酷ぇ目に遭わせた報いだ。親だって二度と見られない化け物みたいな顔に整形して、一生ガキの孕めねえ体にしてやるつもりだった。自分のしたことを、一生後悔させてやるつもりだったんだ。ああ、ちくしょう、くそったれめ!」

 

 男の怒号が地下階全体を震わした。

 彼らの背後で、罪なき少女達が気絶しかねないほどの恐怖に耐えていたのだが、巨躯の男は気が付きもしない。

 ふぅふぅと、荒く息をついている。

 それでも、怒りを声で発散出来たのか、息を乱しながらも平静を取り戻した様子の男が、にやりと笑った。

 

「だがまぁ、考えようによっちゃあ、その程度で済んでたほうが、この雌ガキにとっちゃあ幸せだったろうよ」

「そりゃあ、俺たちなんて、まだまだ優しいもんだぜ、あいつに比べりゃな」

 

 痩せぎすの男が、にたにたと笑いながら言った。

 巨躯の男は頷いた。

 

「なにせ、こいつはこれから、あのルパートの飼い犬になるんだ。しかも未来のご主人様は、こいつに相当ご執心ときてやがる。どう考えたって、楽に死なせてもらえるとは思えねえよ」

「死んだ方がましってか。ま、そうだろうな。あいつは、そういうことに関しちゃ、本当に天才だよ。好きこそものの上手なれってやつだな」

 

 今まで、ルパートの所業を誰よりも近くで見てきた二人が、同時に、同質の笑みを浮かべた。

 この少女がこれからルパートによって、どんな目に遭わされ、どんなふうに変えられてしまうのか。その様子を想像することは、生半可に少女を痛めつけるよりも、男の復讐心を満足させるのに効果的だった。

 

「ところで、これからこいつ、どこに連れて行くんだ?ルパートのベッドルームにでも縛りつけとくのか?」

「いんや、医務室だ。メディカルタンクに放り込むらしい」

「組織再生療法か?どうしてまた」

 

 痩せぎす男が、低く笑った。

 

「式を挙げるんだとさ」

「式?」

「結婚式だとよ」

「結婚式ぃ?」

 

 巨躯の男が、素っ頓狂な声を上げた。

 痩せぎす男は、仲間の驚いた様子に気を良くしながら、

 

「ま、結婚式の名を借りた、お披露目だろうな。ようやく手に入れた最高の奴隷を、いち早く自慢したくて仕方ないのさ」

「なるほど。要するに、またパーティを開くってことだな」

 

 この場所──城の地下室でパーティが開かれるのは、別に珍しいことではない。

 この城は大統領の居宅であり、当然の如く、そこには身分の高い人間が集まる。そういった際に酒と料理が振る舞われ、歓談と余興が場を盛り上げるのは、古今東西どの国でもお決まりの成り行きである。普通のパーティなら、日夜を問わずに行われている。

 だが、男達が言っているのは、そのように日の目の触れる宴のことではない。

 ルパートが、その同好の士を集め、自分達の成果──どれほど可憐な少年少女を、どれほど淫らに貶めたか──を競うための、宴のことだ。

 ルパートの父親は、もともとヴェロニカ共和国の政財界の大物であり、現在は大統領の椅子に座る大人物だ。その息子は、ほとんど義務として、社交界とそれなりの付き合いを持つ必要がある。

 そして、最も煌びやかな華舞台にこそ、最も深い闇は差し込むものだ。

 ルパートは、名流の士ばかりが集まるそこで、己の趣味と享楽を分かち合える朋輩を幾人も見つけた。そのいずれもが、表では高潔な人格者として知られ、公人としても私人としても、ヴェロニカ共和国の発展に貢献した人物ばかりである。

 中には、この国における孤児援助募金に名を冠された、高名な政治家もいた。その男は、国中から集められた善意の募金を私物のように使い、彼の資金援助に頼らざるを得ない貧しい孤児院を支配し、その中で見繕った美しい少女を慰み者としていた。

 人という生き物は、自身と同じ趣味嗜好を持つ仲間を、本能的に求める。その習性は、ルパートのような人格破綻者にとっても同じであった。いや、己が踏み外している人間だと自覚しているぶん、その傾向はむしろ顕著だったのかも知れない。

 ルパートを中心として、唾棄すべき小児性愛者たちのネットワークが出来上がるまでに、それほどの時間は必要でなかった。そして、コレクターにはままあることだが、彼らは常に自分の作品を他者に見せびらかしたがっている。そのための場所だって、常に必要としているのだ。

 当然のことではあるが、その趣味は、ひとたび明るみになればあらゆる意味で身の破滅を引き起こす、許されざる行いであることを、全員が承知している。成果の発表の場の選定は、細心の注意を払わねばならない。

 その点、この城ほど、その目的に適う場所は存在しない。何しろ、現ヴェロニカ共和国大統領の邸宅なのだ。もしも彼らの犯罪を嗅ぎつけた人間がいたとしても、恐れる必要はない。熱意に燃える現場の警察官では手の出しようがないのだし、もっと上層部であればいくらでも鼻薬を嗅がせることが出来る。

 この城の地下室が彼らの研究発表の場になったのは、むしろ必然であった。

 それらの事情を、ルパートの側近である二人の男も承知している。

 

「しかし、結婚式とは中々気合いが入ってやがるな」

「まぁ、神の前で永遠の愛を誓って指輪の交換をするような式にはならないだろうよ。むしろ、そういう式になったら俺は卒倒する自信があるね」

 

 巨躯の男は、右腕を激しく揺さぶった。

 少女の体が、中の詰まった買い物袋のように、ぶらぶらと揺れた。

 

「聞いたか、おい。良かったな、今からてめえの結婚式だとよ。お前の旦那さんは筋金入りの変態で、俺たちもひくくらいのサディストだ。夜の夫婦生活が淡泊になることだけはないって、保証してやるよ」

 

 その言葉を聞いても、髪の毛を鷲掴みにされて宙づりの少女は、ちっとも顔色を変えなかった。

 全身を弛緩させたまま、ぼうと、呆けた表情で微笑んでいた。体を揺さぶられた拍子に溢れた涎が、口の端をつうと伝い落ちた。

 二人は声をあげて笑った。

 

「なるほど、花嫁がこれじゃあちいと不味いわな!誓いの言葉が言えないのは仕方ないにしても、せめてこの馬鹿面を何とかしないことには、結婚式どころじゃねえぜ!立つどころか、犬みたいに四つん這いで歩くのも無理じゃねえか!」

「タンクに半日も放り込めば、ちっとは毒気も抜けるだろう。ま、今更毒気が少々抜けたところで、もとの人間に戻るとは思えないがね」

「そんなこたぁ、この顔見れば誰だって分かるだろうが。ぶっ飛んだヤク中のほうがまだ人間らしい表情をしてるぜ、こいつよりはな」

 

 二人は、あらためて少女の顔を覗き込んだ。 

 ルパートの激しい暴力に晒され、顔の所々が腫れ上がっている、無惨な顔だ。瞼はほとんどふさがっているし、綺麗なかたちの鼻の下には、ぱりぱりの鼻血がこびりついている。

 それでも、なお美しい、少女であった。

 顔の造作だけでなく、その奥から輝く気品のようなものと、その更に奥にある名状し難い何かが、少女を煌びやかに飾り付けている。

 組織再生療法の加護を受ければ、この程度の傷は、一時間と待たずに完治するだろう。その時、この少女は、一体どれほど美しく光り輝くのか。

 痩せぎす男の、骨の浮いた喉が、ぐびりと動いた。この瞬間、彼が何を考えていたのか、もう一人の男には、明らかすぎるほどに明らかであった。

 筋張った手が、わなわなと震えながら少女の肢体に伸びるのを、すんでのところで、巨躯の男が払い落とした。

 

「ミューレン、妙なことを考えるんじゃねえぞ。本気で殺されるぜ、お前」

「わ、分かってんだよ、そんなことは!誰が、ルパートのお気に入りに手を出すもんか!俺だって、まだまだ死にたくねえんだ!」

 

 ミューレンと呼ばれた痩せぎす男が、甲高い声で言った。

 どうやら彼らにとっても、ルパートの怒りは恐怖に値するらしい。おそらく、それを思い知らされるだけの事件が、過去にあったに違いなかった。

 痩せぎす男は、名残惜しそうに舌打ちし、しかしもう一度嫌らしく笑って、ウォルに顔を近づけた。

 

「おい、人の話を聞いてなかったのか!」

「い、いいじゃねえか、ちっと味見するくらいならよ」

 

 男の、切羽詰まった息がウォルの顔にかかり、前髪を揺らした。生臭く、酒臭く、何よりも薬臭い息だ。到底、快い気持ちになれる臭いではない。むしろ、ほとんどの人間は、我知らずに眉を顰めるだろう。

 それでも少女の、呆けた表情に色が差すことは、少しもなかった。

 痩せぎすの男は笑み崩れた口を開き、べろりと、驚くほどに長い舌を出して、少女の顔を、おとがいからこめかみまで、ゆっくりと舐め上げた。尖らせた舌先が柔い肌に埋まる感触を、男は心の底から堪能した。

 最後に、こめかみから耳へと舌を滑らせ、耳たぶを口に含んでたっぷりとねぶり上げてから、男はようやく口を離した。ちゅぽん、と、間の抜けた音が部屋に響いた。

 男は、己の唾液と少女の汗の混じった液体を、至福と共に嚥下した。

 

「いやぁ、い、いい味だ、この女は。思わずいっちまいそうになった」

 

 その言葉の証左として、痩せぎすの男の体がぶるりと震えた。瞳孔は拡大し、あまりの興奮に、満面に玉のような汗を浮かべている。

 

「ああ、いいなぁ。この柔らかい肌を、ナイフでずたずたにしてやりたいなぁ。このふっくらしたほっぺたに、ざっくりと穴を開けて、そこに俺のを突っ込んで、反対側に擦りつけてみたいなぁ」

 

 ぶつぶつと、尋常ではない様子で呟いている。

 巨躯の男は、呆れた様子で口を開いた。

 

「そこまでにしとけよ。ルパートは、異常に勘が鋭いんだ。これ以上手を出したら、絶対にばれる。俺は、巻き添えは御免だぜ」

「うん、分かってる。分かってるよ。分かってるに決まってる。でも、もう少しくらい、味見しても、いいんじゃないかな。うん、いいんじゃないかな。いいに決まってるよね、うん」

 

 人差し指の先をくわえ、獲物を見定めた蛇の視線で、じっとウォルを眺めている。

 巨躯の男は、うんざりとした。まったく、どうしてこの自分が、この男と一緒にいる間だけは、安全弁の役割を演じなければいけないのか。もしもこの場を訪れたのがこの男一人であれば、自分が吊り下げている少女の命運は、正しく今の瞬間にでも終わっていたはずである。その時はこの部屋全体を、噎せ返る淫臭すら掻き消すほどの、濃密な血臭と臓物臭が覆っていたであろう。

 大男は右腕を一番高く掲げ、少女をいっそう高く吊した。左手は反対に、宙に揺れる少女のつま先に伸ばした。

 

「よいしょっと」

 

 男の呟きと、べりっと、テープを剥がすような音がしたのが、ほとんど同じタイミングだった。

 

「あぐぅっ!」

 

 短い悲鳴が、だらしなく開きっぱなしの口から放たれた。

 吊り下げられた少女が、一瞬、激しい苦痛に大きく目を見開き、体を硬直させた。

 しかしそれは、本当に一瞬だったので、男達は二人とも気がつかなかった。

 

「おらよ、こいつでもしゃぶってろ」

「うん、ありがとう、うん、やっぱり持つべきものは友達だよな」

 

 巨躯の男が放り投げた、指先ほどの赤黒い塊を、痩せぎすの男は口でキャッチした。

 もぐもぐと顎を動かし、至福の表情を浮かべている。

 巨躯の男は、肩を竦めて、右腕を下ろした。どさりと音がして、何分かぶりに少女の体が地面を取り戻した。

 

「さ、行こうぜ。どうせルパートのこった、こいつにだってさっさと飽きるさ。保って一ヶ月ってところだろう。その後で、俺たちがたっぷりと可愛がってやろうぜ」

 

 痩せぎすの男は、口中に広がる濃密な血の味を楽しみながら、満面の笑みで頷いた。

 男達は歓談しながら、部屋の出口を目指した。ずるずると引きずられていく少女の、生肉の露出した右足の親指から細い血が流れ出し、石床の上に、ナメクジが這ったような跡を残した。

 

「さて、俺たちにお鉢が回ってくるまでに、こいつの体にいくつのピアスが付けられてるか、賭けようか。それとも、どんな柄の彫り物を入れられてるかのほうがいいか?それとも……」

 

 巨躯の男の笑い声が、闇の先へと消えていった。

 鋼鉄製の扉が、重たく軋み、再び閉ざされて、部屋には静寂が戻った。

 多くの少女達は、安堵した。ああ、これで、今日も生きることが出来る。

 くすくすと、笑い声が聞こえた。黒髪の少女と友達になった、あの少女の笑い声だった。

 少女は、調子の外れた声で、狂ったように笑っていた。

 

 

 ──……つん。

 

 

 境目を、たゆたっている。

 ゆらゆらと、遠くから、潮騒のざわめきが聞こえるような。

 

 ──……かつん。

 

 意識が、水面を、浮上し沈下する。

 水面に揺れる、気泡のように。

 

 ──……かつん、かつん。

 

 ああ、ここはどこだろうか。

 水辺。海岸線。船。

 宇宙。それとも、胎内。

 

 ──かつん。

 

 母の、羊水にぶかぶかと。

 いや、違う。

 俺は、そんな上等なものに、浸かったことはなかったはずだ。

 

 ──かつん、かつん。

 

 はじめて、俺という細胞が、この世に生まれたとき。

 試験管の中。

 培養液を母親に、電気刺激を父親に、俺は、生まれた。

 

 ──かつん、かつん、かつん。

 

 あいつも、そうだ。

 あいつも、そうだった。

 あいつも、あいつも、あいつも、あいつも。

 みぃーんな。

 

 ──かつん、かつん、かつん、かつん。

 

 父親はなく、母親もなく、兄弟もなく、姉妹もなく。

 家族もなく。

 だから、俺たちは、全員が、家族だった。

 

 ──かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。

 

 家族、だった。

 全てだった。

 

 かつ。

 

「起きなさい、ケリー・クーア」

 

 感情の窺い知れない声が、ケリーを覚醒させた。

 甘い痺れの残る瞼を持ち上げれば、淡く揺らめく炎の灯りと。

 

「こんな状況で、よくそれだけぐっすり眠れるものね。感心するわ」

 

 初恋の少女が、いた。

 マルゴ。

 マルゴ・エヴァンスではなく、マルゴ・レイノルズ。

 それでも、同じ顔だ。茶色の、勝ち気な瞳も。少しきつめな目つきも。長く豊かな赤毛も。つんと上を向いた形のいい鼻も、艶やかで肉付きの良い唇も。

 何から何まで、ケリーの記憶の琴線と、同じ音を奏でている。

 そして、迷彩色で染め上げられた、その無骨な服装も。

 ただ違うのは、少女の胸元に、鎖を通された銀色の指輪が無いことだけ。なぜなら、それは、ケリー自身がマルゴ・エヴァンスに送ったものだからだ。

 上半身を壁に貼り付けられたケリーは、顎を持ち上げて、初恋の少女を見上げていた。

 

「……なんだ、あんたかよ」

「あら。ずいぶんと素っ気ないのね。初めて会った時は、あれだけ取り乱してくれたのに」

「初めて?俺たちが初めて会った時のことを、お前は、覚えているのか?」

 

 それは、いつだ?お前は、いつのことを言っている?

 まだ、言葉も、銃の意味も、知らない自分。

 目に映る全ての事象と、未知という単語が、同じ意味を持っていた時分。

 ケリーは、あどけない瞳で、自分の手を引いてくれる少女を、見上げていた。

 その、太陽によく映える、赤毛。

 勝ち気で、美しい微笑み。

 ケリーの、原初の記憶であった。

 

「覚えている?不思議なことを言うのね。わたし達が顔を合わせたのは、昨日が初めてで、それより前は一度だってありはしない。そうでしょう?」

「……ああ、そうだな、マルゴ・レイノルズ大尉。あんたの言うとおりさ。あんたの言葉は、嫌ってくらいに正しい」

 

 ケリーは、両手が拘束されているのが、どうにも残念だった。

 今は、照れ隠しに頭を掻く場面だ。そうでないと、何か、流す必要のない何かが溢れそうになる。

 それは、男の沽券に関わることだ。

 だから、ケリーは、あくびを一つ、溢した。それは、何とも言い訳にちょうどいい、行為であったのだ。

 

「で、あんたと顔を合わせるのは、これで三回目になるわけだが、何の用だい?」

 

 ケリーが、眠たげな、それともそう装った声で、問うた。

 

「あなたに、尋ねたいことがあった。それだけよ」

 

 マルゴは、ケリーの前に椅子を運び、腰掛けた。

 そして、手にしたカンテラを、ケリーと自分のちょうど真ん中に置いた。

 漆黒の皮膜を落とされた牢獄が、俄にその全容を明らかにした。

 ごつごつとした、岩壁。圧迫感のある、低い天井。人型に浮き上がった、黒々しい染み。上下左右のどこを見ても、およそ典雅や風流という言葉とは正反対の光景しか見当たらない。少女の背後にも、拘束する人間のいない鎖が、天井からだらりと垂れ落ちていた。

 ごそごそと、黒い影が列をなして、光の奥へと走り抜けていった。先ほどまで我が世の春を謳歌していたごきぶりが、突然の光に驚いて彼方へと逃げていったのだ。

 そんなものは、どうでもいい。

 ケリーは、目の前の少女だけを、見ていた。

 マルゴ。

 あの時と、自分が看取った時と、寸分も変わらない有様。

 その暖かな眼差しが、自分を、敵意と好奇心の綯い交ぜになった視線で射貫いている。

 牢屋には、二人だけだ。

 二人の視線だけ、無味乾燥な有様で、交錯していた。

 

「尋ねたいことがあるなら、聞けばいい」

 

 しばらくしてから、ケリーが言った。

 ぼつり、と言った。

 

「そうね」

 

 やはり、しばらくしてから、少女が言った。

 ぼそり、と言った。

 

「わたしは──」

 

 喉が詰まったみたいに、咳払いを一つ溢した。

 

「わたし達は、何者なの?」

 

 感情の籠もらない、少女の瞳。

 それが、赤々しい炎に照らされていた。

 ケリーは、冷笑を浮かべようとして、失敗した。

 真剣な表情と、怖い声で、答えた。

 

「えらく哲学的な問いだな」

「そうね。じゃあ質問を変えるわ。あなたは、わたし達のことを、何か知っているの?」

 

 腕を組み、足を組み、高圧的な姿勢なのに、その声色はどこまでも弱々しい。

 年相応の、少女の声だった。

 ケリーの知っている誰かに、よく似た、声だった。

 

「……知らないさ。あんたのことは、何一つ。なにしろ、あんたと俺とは、昨日が初対面なんだからな」

「じゃあ、わたしによく似た誰かのことでもいいわ」

「あんたによく似た、誰か?」

「そう。わたしによく似た、でもわたしではない、あなたの知っている、誰かさん」

 

 少女の、真剣な瞳。

 何かに縋り付きたい、縋り付くための何かを探している、瞳だ。

 ケリーは、内心で神を罵った。盛大に罵った。

 ちくしょう。いったい、どこのどいつだ。

 誰が、俺を、こんな目に遭わせやがる。

 俺が、何をしたっていうんだ。

 

 ──あんた自身が望んだとしても、他の何かがそれを許しちゃくれない。

 

 老人の声が、ケリーの耳道にこだました。

 

 ──あんたはどうしたって、一生、平穏な生活を送ることは出来ないだろう。

 

 呪いと、怨嗟に満ちた、声。

 

 ──ざまぁみやがれ。

 

 ああ、そうだ。

 あんたの言うとおりだ。たいそう満足だろう?

 俺は、今だってこんな泥濘の中で、必死に這いずり回ってるのさ。

 どこまで行っても、過去ってやつに、追いかけ回されているのさ。

 

「知らないの?それとも、わたしには話したくないの?」

「だとしたら、どうする?拷問でもして聞き出すかい?」

 

 マルゴは、首を横に振った。

 僅かに癖のある見事な赤毛が、静かに波を打った。

 

「あなたは、お父様の大切なお客様だもの。そんなこと、出来ない。ううん、出来たとしても、しない。そんなことをして聞き出しても、意味なんてないから」

 

 膝を抱えて、顔を埋めた少女。声は小さく震え、今にも消え入りそう。

 ああ、くそったれ、神は本当に不公平だ。それとも、真性のサディストだ。

 あんたが男と女を作った本当の理由は、こういう状況の男の苦悩を見て、楽しむために違いない。

 ケリーは、こみ上げてくる酸っぱい唾を、無限の罵詈雑言と共に飲み下した。

 

「……知って、どうする。別に、楽しい話じゃない。あんたは、どこの国のお姫様でもない。今更、誰かが助けに来てくれるわけでもない。俺の話を聞いたって、何一つ報われない。現実は、変わらない。それだけは保証してやる」

 

 マルゴは、相変わらず空虚な笑みを浮かべたまま、ケリーの瞳を覗き込んだ。

 

「……ええ、それでも構わないわ。どうせ、わたしに似た、どこかの誰かさんのお話だもの」

「……ああ、そうだな。俺の知る、どこかの誰かさんは、あんたじゃないんだものな」

 

 ケリーは、舌で乾いた唇を舐めた。土臭い地下牢に似合いで、ざらりとして、埃の味がする。

 どこか、あの戦場を思い起こさせる、懐かしい味だった。

 

「役者だったのさ。あんたに似た誰かさんも、そして俺も」

「役者?」

「もちろん、ただの俳優や女優じゃない。だが、一番近いのは、それだ。違うのは、俺たちは、自分達が舞台の上で踊っているのを知らなかったこと。そして、本当に、掛け値無しの意味で、命を賭けて劇を演じ、観客を楽しませていたこと。この二点だけだ」

 

 ケリーは語った。

 おそらく、今までの人生で初めて、自分の口で、自分の出自を、語った。

 自分がどのようにして生まれ、どのようにして育ち、どのようにして生きてきたか。

 戦場の記憶。休日に繰り出した、町の喧噪。初めて飲んだ酒の味。

 仲間。エヴァンスの姓で括られた小隊は、家族と同義だった。

 そして、初恋の少女。

 言葉となり、記号化された青春は、意外なほどに豊潤な味だった。それは、ケリー自身が目眩を覚えるほどに。

 空気に混じった血生臭さが、すっぽりと抜け落ちてしまっている。塹壕の頭上を、凄い音を立てて飛び交う銃弾の、死の気配がどこにもない。

 死体の臭いも、湯気の立つ腸の臓物臭も、焼けたエンジンのガソリン臭さも。

 全てが、どこにも感じられない。

 なるほど。思い出という言葉に、否定的な感情が付きまとわない訳だ。それとも、懺悔を繰り返す信心者が、救われた気持ちになるはずだ。言葉は、いつだってこんなにも甘ったるい。

 だが、それらが全て、まやかしだと悟る。

 永遠に失われた右側の視界と、永遠に失われた帰るべき家。家族。愛しい人。

 今や言葉は、そのまま灼熱と同義であった。まやかしの美しさは、砂漠に舞った新雪よりも呆気なく、姿を消した。

 東西ウィノア政府の裏切り。文字通り廃棄処分にされた敵、そして味方。ごみを埋めるための大穴、埋まっていくごみ達。

 自分達の生を娯楽にしておきながら、一切の責任を放棄した上層部。自分達をなかったことにしようとした、お偉方。

 羅列された事実が、喉を焼いた。喉の熱が全身へと広がった。

 地獄の熱さだ。ケリーは、その熱が、手首に嵌められた手錠を溶かすのではないかと、真剣に思った。

 復讐については、語らなかった。語る必要のないことだったからだ。何せ、それは彼女を忘れた世界の出来事で、彼女達には少しだって関わりがない。

 ただ、全てが吹き飛んだ惑星ウィノアの、日の出。赤い大地を黄金色に染めるあの瞬間だけは、どうしても伝えたかったが、どうせ言語化出来ないことを知っていたから、諦めた。

 ケリーは、語り終えた。時間にして、半時も経っていないだろう。人一人の人生なんて、その程度のものだ。ましてや、少年時代なんて、履歴書ならば三行で終わってしまう。半時も保たせられただけで、御の字だ。

 

「どうだ。何一つ、楽しい話じゃなかったろう」

 

 ケリーは、ひどい疲労を感じていた。吊り下げられた両腕が、じんじんと痺れて、感覚がない。先ほど感じた熱が、そのまま鉛に変わったように錯覚してしまう。

 少女は、一言も無かった。ただ、少し青ざめた顔で、ケリーの顔を見つめていた。

 

「……そう。じゃあ、わたしは、わたし達は、ウィノアの大虐殺によって廃棄処分にされた兵士の、クローンなのね」

 

 ケリーが、弾かれたように顔を上げた。

 そして、口を開き、戦慄かせ、しかし一言も口にせず、すぐに顔を下げた。

 今、自分は何を言おうとしたのか。

 下手なごまかしをしようとしたなら最低だ。慰めの言葉は、どれほど残酷だろう。

 だから、沈黙を選んだ。古来より、多くの先達が選んできたのと、同じ方法である。

 

「その子は、忠実で、有能な軍人だったの?」

「……俺の、先輩で、師匠で、上官だった。年齢を割り引けば、あれくらい有能な軍人を、俺は見たことがない」

「そして、国家に忠実だった」

「今考えれば、滑稽な話だがな」

「そして、国家に裏切られた」

 

 ケリーの顔が、凄烈に歪んだ。

 だが、マルゴは。

 微笑んでいた。

 

「──そう。よかったわ」

 

 笑っていた。

 少女は、嬉しそうに、笑ったのだ。

 椅子の上で体を折り曲げ、両手でお腹を抱えて、盛大に笑った。

 少女の、暖かみを感じさせる笑い声が、地下牢の隅々までに響き渡った。

 

「ありがとう、ケリー・クーア!あなたのおかげよ!あなたのおかげで、わたしは安心できた!これで、わたしは何の迷いもなく、お父様にお仕えすることが出来る!」

 

 まなじりに浮いた涙を人差し指で拭いながら、少女は心底幸福そうだった。

 それは、ケリーに恐れを抱かせるほどに。

 

「……安心した、だと?それは、どういう意味だ」

 

 背筋に薄ら寒いものを纏わり付かせたケリーが、掠れた声で問うた。

 彼の視線の先で、マルゴは、微笑んでいた。天使が浮かべるように、翳りのない微笑みで。

 

「言葉通りよ。わたしがそういう存在だと理解出来て、安心したわ。これで、安心して、お父様にお仕えすることが出来る……」

 

 少女は立ち上がり、両の手を胸に当てた。

 静かに目を閉じ、口元は淡く微笑んでいる。

 それは、祈りの姿に似ていた。

 

「わたしが心底恐れていたのはね、ケリー。わたしのオリジナルが、ウィノア政府に反逆して殺されたことなの。もしもわたしがそんな不良品のコピーなら、お父様にお仕えするなんて、恐ろしくて出来やしないわ」

「……マルゴ。お前は、何を言っている?一体、何を……?」」

 

 ケリーの頬が、戦慄いている。

 笑みを作りながら、しかし笑みにならない表情。

 

「わたしのオリジナルは、自分が信じるもののために死んだ。己の信念に殉じた。なら、そのコピーであるわたしも、そうやって死ねるに違いない。きっと、お父様を守って、お父様のためだけに死ぬことができる……」

「マルゴが……信じるもののために死んだだと?己の信念に殉じただと?お前は俺の話を聞いていたのか?何をどう聞き間違えれば、どうしてそんな結論になる?」

 

 マルゴは、うっすらと笑いながら、

 

「わたしのオリジナルは、国を守るために命を賭けて戦ったんだわ。違うのかしら?」

 

 違わない。

 俺たちは、無理矢理に戦わされていたんじゃない。それは、きっと彼女も。

 朝焼けに照らされた、燃えるような大地。

 その美しい光景を、眩しく眺めながら、マルゴは言った。

 この美しい光景を、守りたいのだ、と。自分達が、守るのだと。自分達は、この国を、邪悪な侵略者の手から守り抜くのだと。

 そうだ。それは、美しい信念だ。命を賭けるに足りる、重要事項だ。

 そうだったとしても。

 百歩譲って、そうだったとしても。

 

「信じているものが、国家が、死んでくれと言ったんだわ。そうしないと、国家が立ちゆかない、と。ならば、わたしなら、喜んで死ぬ。自分が死ぬことで、自分が信じたものが救われるなら。それが、信念っていうものなんじゃないの?」

 

 ケリーは、唖然としていた。

 この女は、何を言っている?

 理解が出来ない。

 この女は、何者だ?

 理解が出来ない。

 一体、誰だ?一体、何だ?

 

 恐ろしい。

 

「わたしには、オリジナルの気持ちがよく理解出来る。きっと、悔しかったのよ」

「……悔しかった」

 

 そうだ。

 悔しかったに違いない。

 全てを賭けて信じていた存在に裏切られ、見捨てられ、廃棄された。

 自分達の、命を賭けた死闘が、意味のない見世物に過ぎなかった。

 自分達の、人生そのものに、何の意味もなかった。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、幸福も、不幸も、生も、死も、全て、全て。

 全てを、否定されたのだ。

 それが悔しくなくて、何が悔しい。

 悔しかった、に、違いない。

 

「……当たり前だ。悔しいさ。悔しいに決まってる」

「そうね。国家が、自分達に死を強制したことが、きっと悔しかったに違いないわ。だって、そんなものは必要なかったんだもの。一発の銃弾があれば、彼女達は、誇り高く死ぬことが出来た。お前達が邪魔になったから死んでくれと一言言ってくれれば、何の躊躇いもなく死んだはずよ。わざわざ無粋な毒ガスなんて用意しなくても、ね」

 

 マルゴは、くすくすと笑った。

 

「わたしなら、迷わずそうするわ」

 

 うっとりとした笑み。

 

「お父様に死んでくれと頼まれたなら、何の迷いもなく死ぬことが出来る。だってそれは、間違いなくわたしだけにしか出来ないことで、そしてお父様は喜んで下さるんだもの」

 

 心の底から、嬉しそうに。

 

「だから、オリジナルが悔しがっているなら、きっとそれだけ。もしも自決を選ばせてくれたならば、オリジナルは完成することが出来たのよ。この世で最も忠実な兵士としての生を、完成することが出来た」

 

 そして、冷ややかな視線で、ケリーを睨み付けた。

 

「邪魔をしたのは、あなたよ、ケリー・クーア。いえ、ウィノアの亡霊」

「邪魔を……した……?」

「わたしは、あなたを軽蔑するわ」

 

 ケリーの、眼球の失われた右目が、ぽっかりと開いていた。

 まるで、そこに義眼が収められているかのように。

 義眼があれば、少女の心の中が、見通せると信じているかのように。

 

「あなたは、オリジナルの最後に、泥を塗った」

 

 呆然としたケリーを、マルゴは言葉の刃で切り刻んだ。

 

「オリジナルは、命を賭けて国家を守ったんだわ。最後には、それが自分の意思ではなかったとしても、正しく己の死をもって国家に忠実であろうとした。なのに、あなたは、彼女達が守ろうとした国家そのものを破壊した」

 

 カンテラの火がゆらゆらと揺れた。

 立ち上がった少女の影が、魔物めいた不気味さで、ゆらゆらと揺れた。

 蹲ったケリーの影は、まるで、魔物に捕食される、憐れな生け贄のようであった。

 

「あなたが、彼女の生を、台無しにした」

 

 ケリーは、その言葉の意味を、全く理解出来なかった。

 

「彼女達の忠誠を、台無しにした」

 

 台無しにする。

 台無しにするというならば、全てを台無しにしたのは、東西ウィノア政府のくそったれどもだ。特殊軍の生死を、テレビ番組の娯楽映像としか認識していなかったくそ蠅どもだ。

 だから、自分は。

 

「彼女は、きっと、ウィノアを愛していた。なら、ウィノアが消えて無くなるなんて、望んでいたはずがない」

 

 そうかも知れない。

 俺たちは、命を賭けるべき何かのために、命を賭けて戦っていたんだ。

 だから、自分は。

 

「あなたの復讐劇は、誰も望んでいなかった。ウィノアに住む無辜の民も、ウィノアで眠る勇敢な戦士たちも」

 

 知っている。

 そうだ。

 誰も、復讐なんて、望まない。

 

「あなたの行為は、誰も幸福にしなかった」

 

 当たり前だ。

 死者は、何も望まない。何かを望むのは、いつだって生きている人間だ。

 だから、何億人分ものウィノア人の生き血を欲した悪魔に、人間の名前を付けるならば、それはたった一人分の名前でしかない。

 そのことを、ケリーは知っていた。

 憐れな生け贄の影が、もぞりと動いた。自分の存在意義を思い出した生け贄は、既に生け贄ではなかった。

 影絵は、今や、二匹の化け物を表していた。

 天空より襲いかかる大鷲と、それを迎え撃つ大蛇。

 大蛇は、くすくすと、笑っていた。

 

「ああ、そうだな。そのとおりだ。俺は、俺自身で判断して、俺だけのために、俺のしたいことをしたのさ。別に、誰に気をつかったわけでもない。別に、誰に褒めてもらいたかったわけでもない」

 

 誰に、報いるためでもない。

 ただ、落とし前をつけさせただけだ。そうすることでしか、全てに裏切られた少年は、生きる手段を見いだせなかった。明日を見つけることが叶わなかった。

 例えそれが自己満足以外の何物でもなかったのだとしても。たった一度の自己満足のために、数億人の生け贄を必要としたのだとしても。

 彼には、もしも過去に戻ることが叶ったならば同じことを繰り返して恥じることは無いだろう、確信があった。

 

「俺は、俺が当然と思う報いを、俺が当然と思う人間に受けさせたのさ。ああ、それだけのことだ。例えそれが誰を不幸にしたところで、別に知ったことじゃあない」

「そのためだけに、あなたは、どれだけの人間を殺したの?」

 

 ケリーの眼は、露程も動かなかった。

 

「さぁ?考えたこともないね」

 

 マルゴは、嫌悪を露わにして、ケリーを睨み付けた。

 

「……あなたは、唾棄すべき人間ね」

「そうだな。全くもって、そのとおりだ」

 

 ケリーの、片側だけの瞳が、爛々と輝いていた。

 

「俺は、自分が上等な人間だって考えたことなんて、一度だってないぜ。いつだって他人を食い物にしてきたし、お天道様に顔向けの出来ない生き方ばかりしてきた。だが、俺は、いつだって俺の主人だった。誰に従属したことも、誰の操り人形になった例しもない」

 

 ケリーの視線は、もはや初恋の少女に向けるものではない。

 冷笑を浮かべたその瞳は、普段のケリーのそれだった。

 

「それは、俺の知っている、ウィノア特殊軍の人間だってそうだった。あいつらは、いつだって自分を自分で支配していた。だから、マルゴ・レイノルズ。言うまでもないことだが、あんたは、俺の知っているあいつらとは、全く別ものってことになるな。あんたの後ろに、糸が見えるぜ」

「糸?」

「ああ。あんたの動く様子に合わせて、誰かがあんたを操る、糸だ」

「……わたしは、わたしを支配しているわ。わたしは、人形なんかじゃ、ない」

 

 マルゴの脳裏に、あの、この世で一番の嫌悪に値する、軽薄な笑みが浮かび上がった。

 敬愛するべき父親の実の息子でありながら、何一つを受け継がなかった、最低な男。

 その薄っぺらな唇が、自分達を人形と呼んだ時の、あの、形容しがたいおぞましさ。

 違う。

 わたしは、人形なんかじゃない。

 自分は、娘だ。あの方を愛し、あの方に愛され、そして、いつかはあの方の胸の中で死んでいく。

 人形では、ない。わたしは、あの方の娘なのだ。わたし達は、あの方の子供なのだ。

 

「人形じゃないなら、ひよこだ」

「ひよこ?」

 

 マルゴが、予想外の言葉に目を丸くした。

 

「ひよこって、どういう意味よ」

「言葉通りさ。あんたは、ただのひよこだ」

「それは、未熟者っていう意味?」

「違う。いや、ある意味ではそうなのかな?」

 

 ケリーは、楽しげに首を傾げた。

 

「ひよこってやつは、殻から出て最初に見た物を親と思い込んで、何の疑いもなくひっついていく。刷り込みってやつさ。その必死な姿は何とも愛らしいがよ、見方を変えればひたすらに滑稽だ。玩具のラジコンカーだって、あいつらは親鳥だと勘違いをする。もちろん、ひよこはそのことに気が付きもしない」

「……あなたの言い方を借りるならば、わたしは、わたし自身で判断して、わたしだけのために、わたしのしたいことをしているのよ。そのことについて、あなたにとやかく言われる筋合いは、ないわ」

「ふん、恋愛の一つもしたことのない小娘が、一端の口を叩くんじゃねえよ。俺が男親だったら、びんたの一撃も食らわしてやるところだぜ」

 

 マルゴは、ケリーを睨み付けた。

 だが、開きかけたその口は、一言も発せず、溜息を一つ漏らしただけだった。

 

「何を言っても、無駄なんでしょうね」

 

 それに答える、ケリーの楽しげな口調。

 

「おや、それくらいは理解出来るんだな」

 

 馬鹿にしたような口調であったが、マルゴは、不思議と不快に感じなかった。

 

「価値観の相違ね」

 

 ケリーは、満面の笑みを浮かべながら頷いた。

 

「俺は、俺の価値観のためだけに、どれだけの人間を地獄に蹴り落としても罪悪感の一つも覚えない人間。あんたは、あんたの価値観のためだけに、あんた自身の命を投げ出してもいいと思っている人間。お互い、どこかおかしい」

 

 マルゴは、笑みを一つ溢した。

 

「あなたとは、もう少し違うかたちで出会えたら、どんなによかったでしょうね」

 

 ケリーは、口を開いて、何事かを言おうとした。

 その瞬間、二人の頭上で、何かが爆発する音が響いた。

 ずしん、と、腹に響く音だ。

 地下牢全体が重々しく揺れ、土埃が舞い、石壁の破片がぱらぱらと落ちてくる。

 

「一体、何が……?」

 

 マルゴが、天井を見上げながら、ぼそりと呟いた。

 くつくつと、男の低い笑い声が、マルゴの耳に届いた。

 視線を戻すと、ケリーが、俯き加減のまま笑っていた。

 

「何が、だと?わかりきったことを聞くなよ、ヴェロニカ特殊軍大尉どの。決まってるじゃねえか、戦闘だよ」

「戦闘?」

「ああ、ついに来やがったのさ。超弩級の危険物が、全てを台無しにするために、こんなところまで来やがったんだ」

「超弩級の危険物?」

「愛すべき、俺の女房だよ!ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーアってえ名前の、人のかたちをした活火山だ!気をつけろよ、大尉どの!あいつは絶対怒ってるぜ、間違いなく怒っている!怒ったあいつは、ここら一帯を更地に変えるまで止まらない!この城も、この森も、この山も、全てが真っ平らになっちまう!下手すりゃこの星全体が焼け野原だ!」

 

 マルゴは、咄嗟に何と切り返すべきかを見失ってしまった。

 呆然と立ち尽くす、初恋の人間と同じ外見をした少女を、ケリーは精一杯の喜びをもって見上げながら、

 

「ほらほら、急げよ大尉どの!急がないと、あんたの戦場が、このでっかい城ごと無くなっちまうぜ!」

 

 言われるまでもない。マルゴは踵を返し、しかし落ち着いた様子で牢の外へと歩いた。

 その途中で、一度振り返り、ケリーを見て、

 

「自分の奥さんを、特大の危険物呼ばわりする旦那さんって、この広い宇宙でもあなたぐらいなんでしょうね」

「ああ、きっとそうだな。羨ましいだろう?」

「ええ、心から」

 

 そして少女は立ち去った。

 ケリーは、再び、瞼を閉じたような暗闇に、ぽつんと一人、取り残された。

 だが、確信がある。次にこの場所を訪れる人間は、きっと、そんじょそこらの男連中よりも、立派な体格をした女丈夫に違いない。その瞳は金色で、その髪は真っ赤で、その口は、きっと一番最初に、自分を手酷く詰るに違いないのだ。

 

「はてさて、いったいどんな言い訳をしたら許してもらえるかね」

 

 ケリーは、ぽつりと呟いた。

 何せ、ここは人目に触れにくい。怒り狂ったジャスミンがケリーに何をしたとしても、制止してくれる人間はおろか目撃者すらいないのだ。これほど恐ろしい状況が、他にあるだろうか。

 そして、ふと気が付いた。

 どうして、ここに、自分しかいないのだろうか。

 あの時、眠りに落ちる前、自分以外の人間が、誰か、いなかったか。

 老人の声。奈落の底から聞こえる、亡者のごとき声。

 それは、自分の真正面から放たれたはずなのに。

 さっき、少女の持ち込んだカンテラに照らし出されたのは、天井から垂れ落ちた空の鎖だけで、誰もいなかったはずだ。

 今も、誰の気配も感じない。この地下牢にいるのは、自分一人だ。

 では、自分に呪いの言葉を吐きかけていた人間は?

 どれだけ目を凝らしても、闇の向こうには闇しか見えない。

 しかし、誰かがいたのだ。それとも、人ではない、何かが。

 

 ──考えたって仕方がない。どうせ今の自分は、手も足も出ないのだ。怨霊ならば、黙って取り殺されてやるさ。

 

 ケリーは、呆れたような笑みを一つ溢して、それから黙って目を閉じた。今は眠っておくべきだ。どうせすぐに起きることになる。そして、嫌と言うほどに働くはめになるのだから。

 

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