懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第五話:会議

 惑星レダは、連邦政府の統治権の及ぶ宙域の一番端の方にある。

 資源はそれほどに多い星ではなかったが、重力波エンジンが惑星間移動の主たる手段であった頃、多くのゲートがその周辺宙域に存在するという理由から、交通の要所として大変栄えた。ショウ駆動機関の登場によって《駅》の存在が忘れ去られようとしている現在においては、さすがに時代の中央からは外れた印象があるものの、それでも人口数億を抱える巨大な惑星である。

 レダの地方都市であるアカシャ州の外れの方に、一棟の病院がある。いや、今は人気の絶えて久しい廃病院だから、病院だった建物と呼ぶべきだろうか。

 

 元から、その病院の存在はどこかおかしかった。

 

 アカシャは、レダの中ではさして豊かな州ではない。むしろ貧しいと言ったほうが正確だろう。

 地形が山がちで宇宙船の離着陸に不便であり、その上緯度の高いところに位置しているから冬は長くそして厳しい。主たる産業は昔ながらの放牧と農業、あとは少ない鉱物資源の採掘くらいのものだ。そんな場所に好んで住み着こうという物好きは少なく、当然の結果として州の生命線たる税収は雀の涙ほどのものでしかないから、各種公共サービスにも支障をきたす。

 こうなると、人はどんどん街に流れ出す。特に若い人間はいなくなる。そうすれば、残されるのは老人たちだけだ。結果、絶対数として医師の数が足りなくなり、満足な治療を受けることが出来ずに死んでいく老人の数が多数にのぼった。だから、医師の数を増やして病院を誘致することは住人の切実な願いであり、また州政府の急務であったのだ。

 そんなある日、アカシャの中心部から少し外れたところに、大きな病院が建てられた。

 立派な病院だった。外見は清潔さと荘厳さをちょうどよくブレンドしたようで、周囲の牧歌的な建物と比べれば中世と現代が入り混じったような印象すらある。中に運び込まれた医療設備も最新鋭のものであった。その上、医師や看護師といった人的資源の質も申し分ない。

 アカシャの住人は、誰しもが喜んだ。特に、長年の医師不足に頭を抱えていた州知事などは、これぞ神の恵みと喝采を送ったものだ。

 しかし同時に、誰しもが奇異に思った。このように設備の揃った病院をこんなところに建てて、果たして採算が取れるのか、と。

 それは、至極尤も疑問であった。しかし、そのうち誰もが忘れた。別にこの病院がどこぞの金持ちの道楽で建てられたものであったとしても、痛むのは彼らの財布であって自分達の財布ではない。ならば、彼らの気の変わらないうちは精々その恩恵に与り、余計なことは口にしないのが正しい。

 そのようにして住民達の生活の中に溶け込んだその病院だったが、今から三年ほど前に何の前触れもなく突如として閉鎖した。入院患者は遠く離れた他州の病院に転院させられ、通院患者に至っては他院へのカルテの引継ぎもされぬままに、である。

 アカシャの住人達はさすがに憤り、州政府にこれは何事かと詰め寄った。何故なら、病院のように公益性の高い機関の許認可や設立・廃止等の諸権限は、悉くが州政府に属するものだからである。

 しかしこの事態は当の州政府にとっても寝耳に水だったのだ。対応に苦慮した州知事は、事の経緯を尋ねようと院長や事務長その他の責任者の所在を探したのだが、そのいずれもが完全に行方をくらましてしまっていた。

 それだけならばまだよかった。傾いた病院経営を放り投げての夜逃げなど、別に珍しいことではない。しかし、町に住居を有していた末端の医師や看護師、果ては売店の売り子や掃除夫に至るまでが同時に行方不明となっているのを知って、州知事は顔を青くした。これはさすがに尋常な事態ではないと悟ったらしい。

 しばらくの間この異常事態への対応に右往左往していた彼のもとに、連邦政府からの通達が届いたのは、突然の閉院から三日後のことである。

 その通達を携えたのは、どうにも人間味を欠いたように見える無機質な男であった。その男は、やはり無機質で感情のこもらない声で、その病院の完全閉鎖と立ち入り禁止の徹底を要求した。

 州知事はさすがに腹立たしく思った。この忙しいときに何の連絡もなくいきなり乗り込んできて、そして居丈高な調子で要求したのが問題となっている病院の閉鎖である。何故かと問うても、男はそれは答えることが出来ないとつっぱねっる。それは詰まるところ、これ以上この問題に首を突っ込まず、自分達の言うとおりに行動し、そして住人をなだめることだけはお前達がしっかりやっておけと、そういうことだった。

 当然、州政府側としては面白いはずがない。州の自治と連邦政府からの独立というお題目を盾にして通達への服従を渋る州知事だったが、しかし役人は無表情に、一枚の紙片をテーブルに置いた。

 州知事は、目を丸くした。

 それは、連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの、緊急事態通知書だった。

 共和宇宙を治める連邦政府は、あくまで各惑星の総意に基づいた連邦体制を維持している。それ故に各惑星に認められた自治権は幅広く、その範囲に属することである限り連邦政府といえど簡単に口出しはできない。

 だが、州政府が連邦政府を構成する一単位である以上、当然例外も認められる。連邦議会で上下両院の議員数の三分の二以上の賛成を得た決定や、有事の際にのみ認められる連邦主席の強制命令権等には、その自由意志を放棄した上での服従が求められるのだ。そして、今まさに州知事の前に広げられた書類は、その強制命令権の発動を知らせるものだった。

 

『まさか、こんなものが…』

 

 州知事は、額から流れる冷たい汗をそのままに、かすれた声で呟いた。今年で60歳を迎える彼は年齢の割に若々しいと言われることが多かったが、しかしいつの間にか年相応の容貌になってしまっていた。

 無理もない。何故なら、彼の記憶が正しければ、共和政府が正式に発足して以来、緊急事態通知は制度として存在しているものの使われたことは一度もない、正しく伝家の宝刀であったはずだ。それが、こんな辺境惑星の、しかも片田舎の州の病院一つのことで抜かれるなど、彼の想像の範疇ではなかった。

 一体、自分はどんな厄介事に関わっているのだろうか。そう考えて、州知事の顔は蒼白を通り越して土気色になった。

 そんな州知事の顔をつまらなそうに眺めていた役人は、やはりつまらなそうに言った。

 

『生憎ですがいずればれることなので、先に申し上げておきましょう。その通知書は偽物です』

『何だって!?』

 

 州知事の素っ頓狂な叫び声に、しかし役人は顔色を変えなかった。

 

『しかし、その署名と捺印は本物です。今すぐに政府の管理脳にアクセスして頂いても結構ですよ』

『…どういうことか、説明して頂けるのでしょうな』

『もちろんです。何せ、私はそのために遠路はるばるここまで来たのですから』

 

 役人は、小憎らしい程に落ち着いた声で答えた。

 いつの間にか彼の表情から無機質さが消え、燃えるような、それとも凍て付くような視線が自分に向けられていることを知って、州知事は乾いた唾を飲み込んだ。

 

『要するに、我々の覚悟の程だと思って頂きたい。これはあくまで偽物ですが、あなた方が我々の期待に応えてくれなければ我々にはいつでも伝家の宝刀を抜く用意がある、という覚悟のね』

『…国家主席ともあろう方が、軽率なことをなさるものですな』

『騒ぎにして頂いても結構ですよ。連邦国家主席が、これこれこのように違法な書類を提示して、卑劣にも我らの自由と権利を侵害しようとした、と』

 

 男の言葉は相変わらず無機質であったが、しかしその内容は明らかな脅迫であった。

 やれるものならやってみろ。このように辺境の、そして寂れた惑星のたかが一州政府の怒りなど自分達は歯牙にもかけていないのだと、強烈なまでのアピールだ。

 州知事の顔が、今度は屈辱に赤く染まった。自分への無礼であれば笑って見逃す度量をもっている人間でも、自分が誇りをもって奉公する組織を正面から侮られて愉快な気持でいられるはずがない。

 しかし、彼は内心の腹立ちを押し殺すように、言った。

 

『…あなた方の望みは何ですか』

 

 男は、心底しらけたように言った。

 

『最初から言っているでしょう。我々の要求は、件の病院の即時にして徹底的な、そして恒久的な閉鎖です』

『それは承知しています。しかし、何故そのような…』

『それを聞かれて、答えることが出来ると思いますか?』

 

 最早侮蔑の表情を隠さずに、寧ろ憐れむような調子で男は言った。

 

『しかし、この州を預かる責任者としてあなたが不安を抱かれるのも当然です。なので、これだけは申し上げておきましょう。例えば、あの病院でバイオハザードがあったとか、そういう事情は一切ありません。住民の方々に何らかの被害が及ぶことだけは、絶対にない。間違いなくない。あれは、そういうことを研究する施設ではなかった』

 

 その言葉に、知事は少なからず安心した。

 単なる噂話の域を出るものではなかったが、確かにそういう話もあったのだ。

 あの病院は、実は政府の息のかかった研究機関で、決して人の目に触れることの出来ないような研究をしている。だから、このように辺鄙な場所に立派な病院を建てることが出来たのだ、と。

 そんな噂のある病院が何の前触れもなく閉鎖されたものだから、不安と疑心に尾びれと背びれと牙と角が付いたような噂話が流れたのも当然だった。曰く、密かに軍事目的で開発していた殺人ウィルスが漏れ出し、最早手の施しようがない状態になってしまい早晩この星は人の住めない死の星になるのが目に見えていたので、研究員は家族を連れてこの星から逃げだした、というものだ。

 馬鹿馬鹿しいと思う。しかし、それを一笑に付すだけの胆力は州知事には備わっていなかった。事実、相変わらず院長をはじめとした病院関係者の行方はさっぱりであったし、この三日に体調の不良を訴える者の数は平時の倍以上に上り、数少ないアカシャの医師達はほとんど不眠不休で診察に当たっていたのだから。

 

『…そのお話が事実であると、証明はできますか?』

『バイオハザードなど無かったと?無茶を言う、悪魔の証明の困難さはあなたも御存じでしょう?』

『それが、この事態を引き起こした張本人のお言葉か!?』

 

 州知事はさすがに語勢を荒くした。事ここに至れば、あの不可解な病院の出資者が中央政府の息がかかった者だったのは疑いようがない。そして、その意図するところがアカシャの住民への社会的福祉ではなかったことも明らかだ。

 男は、無言で肩を竦めた。俺にそんなことを言われても困る、といった様子だったが、しかしこの場合は州知事の方が正しい。組織への糾弾は、その組織に属する人間の全員が責任を負うべきなのだ。責任を取らされるのが誰かは別にして、である。

 しかし、男は口に出してはこう言った。

 

『我々は、今回アカシャの方々に多大なる迷惑をかけたことに対して慚愧の念を抱いております。しかし同時に、今回の一件は、この共和宇宙の平和と安全のために必要不可欠な処置だったと、我々は信じています。ですから、この処置が間違いだったかと問われれば、一切の誤りはなかったと、そう答えさせて頂きましょう』

『では、この事態をどう収拾するというのだ!?』

 

 突然病院に切り捨てられたかたちの患者とその家族の不満と怒り、そして流言飛語によって昂ぶった住民の不安は、最早限界水域にある。

 そろそろ何らかの手立てを考えて実行に移さないと、下手をすれば暴動が発生しかねないような、事態はそういう切迫した状況にまで進展していた。

 

『そこはそれ、州知事たるあなたの腕の見せ所でしょうが』

『そんな、無責任な…!』

『例えば、こういうのはどうでしょう。あの病院は、いくらなんでもこの片田舎…いや失礼、このように閑静な場所には不必要に大きすぎた。採算性を確保するため、いくつかの小さな施設に分けて、このアカシャ全体をカバーするようなかたちで再配置する予定だ、と。患者の引継ぎに不手際があったのは単なる手違い、その補償はきちんとする、とね』

 

 男は得意げな調子で言った。

 州知事は一瞬言葉を飲み込み、それから地の底から響くような声で唸った。

 

『そのように稚拙な言い訳で、住民の不安が解消されるとでも?』

『意外と何とかなるものですよ。怒りや不満には、こちらの誠意を見せてやるのが一番。正当な補償を約束してあげれば、とんでもないへそ曲がり以外はあらかた納得するものです。そして、この州の最高責任者であるあなたがこの場所に未だ留まっていることを明らかにすれば、病原菌が漏れ出したなどという根も葉もない噂は即座に消え去るでしょう』

『…しかし、今日のところがどうにかなったとして、その補償や、新たな病院を建築するための資金はどこから捻出するのですか。あなたも、この州の財政事情がどの程度のものか、御存じなはずだ』

『ええ、その点ついてはご心配なく。我々中央政府が、責任をもって面倒を見させて頂きます』

 

 州知事は、目を丸くした。

 彼は、男の言う解決策と似たようなことを考えたこともあったのだ。しかし一番のネックになるのが、その実効性である。病院経営には存外に多額の費用がかかるものだし、しかもあれだけの規模の病院をこのように辺鄙な場所に誘致しようと思えば、多額の補助金を捻出しなければならない。そのための資金が、徹底的に不足しているのだ。

 不渡りを出すことが分かっていて、無茶な手形を切ることはできない。もしそれが出来るとするならば、倒産が決まって尻に火が付いている多重債務者が夜逃げの資金を稼ぐために己の信頼を切り売りする場合だけである。

 だから、州知事は、自分に任せられた権限と、それ以上に限られた資金をもとに、果たしてこの事態をどうやって解決したものかと頭を悩ませていたのだ。そんな彼にとって、男の言葉は正に福音といってよいものだった。

 

『…その言葉、間違いないでしょうな』

『ええ。こちらをご覧ください』

 

 男がそう言ってカバンから取り出したのは、やはり連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの誓約書であった。今後、今回の事態によって引き起こされたアカシャ州の騒動を治めるため、政府はその資金援助を惜しまないことがその書面にて確約されていた。

 

『当然、これは超法規的な処理ですので、この書類の実効性を確保するためには、この宣誓書にサインをして頂かねばならない』

『宣誓書?』

『ええ。今回の事態に中央政府が関わっている点について、一切口外しない旨の宣誓書です。そして、この件について無用な詮索を一切行わない、その宣誓も同時にしていただきましょう』

 

 男はてきぱきとした様子で、カバンの中から無垢の宣誓書を取りだして、三度テーブルの上に置いた。顔中に汗を垂らした州知事は、辛うじてその文面を目で追ったが、特に不審な点は見当たらない。一応裏をひっくり返して妙な記載がないかどうかを疑ったものだが、結果としては目の前に座った男の失笑を買っただけだった。

 そんな男の様子に気がつくことすら出来ない州知事は、先ほどの誓約書も同じように、穴が空くほどに読み返した。しかし、やはりというべきか不審な点は見つからない。これはどうやら、男の言うことは真実らしいという結論に至り、彼は長々とした溜息を吐き出した。

 

『如何ですか?何か、不都合な点でも?』

『…いえ、結構です。これだけの援助が頂けるのであれば、この事態を収め、そして今後の中央政府との間に良好な関係を築いていくことが出来るでしょう』

『では、我々の要求も呑んで頂けると、そういうことですね』

『…仕方ありませんな。住民の生活の安定のために』

 

 けっして脅しに屈するのではないぞと、微妙なところで虚勢を張っておきながら、州知事は誓約書を決して手放そうとしなかった。これは、間近に差し迫った次の選挙を勝ち抜くための、いわば通行許可証といってよかったからだ。

 男は、州知事に宣誓書を書かせて、名残を惜しむこともなく州知事のオフィスから立ち去ろうとした。

 

『一つだけ、よろしいでしょうか』

『…はい、何でしょうか、知事』

 

 男は、来たときと同じように、人間味を欠いたように無機質な顔で振り返った。

 やや人心地を取り戻したふうな州知事は、曲がりなりにも自分にとっての福音天使となったその男に、疲れたような愛想笑いを浮かべながら言った。

 

『無期限にして徹底的な閉鎖とあなた方は仰る。しかし、あれだけ大きな建物を恒久的に閉鎖するには相当の費用がかかります。無論、その費用はあなた方持ちなのだからその点について不満は無いのですが、しかし不思議には思います。何故取り壊さないのですか?』

『ええ、出来る限り早く撤去したいとは思っています。しかし、今はその時期ではないと、そういうことです』

『どういうことですか?』

 

 男は、州知事が初めて見るようなにこやかな笑顔を浮かべて、言った。

 

『あなたの知ったことではありませんな、州知事』

 

 程なくして州知事自らの緊急会見が開かれ、この事態を引き起こしたことに対する陳謝と、ことの真相が明らかにされた。

 明らかにされた真実は、呆れるほどに味気ないものだった。

 今回の閉鎖騒動は、あくまで病院の経営者側の手続ミスであり、患者への対応の不徹底はその煽りを受けただけのものであってそれ以上ではない。また、当該病院の代替施設は可及的速やかに建築中のため、住民の社会福祉政策に与える影響は極めて軽微であり、今回の騒動で被害をこうむった方々には政府の方から十分な謝罪と補償を行う。

 また、巷を騒がす不届きな噂については全くのでたらめであり、アカシャ州の住民は何ら不安を覚える必要は無い。その証拠に、この州の行政最高責任者たる自分が未だここに残っているではないか…。

 

 彼の言葉通りに代替施設の建築は急ピッチで進められ、三ヶ月後には州の主たる集落の全てに小さいながらもしっかりとした設備を整えた診療所が設置された。その頃には、怪しげな病原菌の噂など、この州に覚えているものはいなくなっていた。

 ただ、噂の大本になった廃病院は取り壊されることなく厳重に封鎖され、周囲の住民を不気味がらせたものであったが。

 

 

 自分専用に設けられたオフィスで、朝一番のコーヒーの香りを楽しみながら報告書に目を通していたアレクセイ・ルドヴィックは、これまでの部分について何の感慨も持たなかった。

 考えたことがあるとするならば、この程度の案件に偽造した緊急事態通知書を提示する辺り、当時の連邦政府は相当に追い詰められていたのだなと、その程度のものである。もし自分が州知事であったならばきちんと共和政府の出方を確かめ、遙かに大きな譲歩を引き出した自信があるが、それは今回の彼の仕事とは全く関係がない。

 また、閉鎖に至った経緯そのものも、これまで彼が目を通した別案件の報告書とそれほど変わるところが無い。要するに、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後に頻発した、特異能力者研究所―――それも違法な人体実験に手を染めていた研究所に対する一斉閉鎖の、ありふれた一幕とでも言うべきものだった。

 彼は余計な感想を頭から閉め出して、報告書の次のページをめくった。

 そこで初めて、彼の顔が微妙に歪んだ。

 

 閉鎖された病棟は、ここ三年間全く何の異常もなかった。表向き地上十階地下二階、その実は地下十階に及ぶ建物は、およそ人の立ち入ることの出来る高さの部分は窓から通風口に至るまでコンクリートで厳重に封印が施され、それ以外の部分についても鉄板を貼り付けて外部からの侵入を不可能にするなど、その封鎖方法は確かに徹底したものである。

 にもかかわらず、ごく最近、近隣住民の間で妙な噂が流れているという。

 

 曰く、夜中になると、病棟の地下深くから、狼の遠吠えのような不気味な声が聞こえるというのだ。

 

 当然、それを聞いたのは一人や二人ではない。近隣に住んでいた住民のほとんどが、その声を耳にしているという。彼らとてその病棟が完全に封鎖されたことは知っているから、例え野犬や狼の類、いや、野鼠の一匹であってもその中に入ることが出来ないことは承知している。ならば何故そのような鳴き声が建物の中から響くのか。

 ネオンの光に慣れ親しんだ者であれば、そんな話は一笑に付したであろう。しかし、牧歌的な生活を続けるアカシャの住民にとって、夜の世界に君臨する魔物は、意外なほどに近くに棲んでいるものなのだ。

 当然の成り行きとして、州政府に対して、事態の真相究明の嘆願が出された。一通や二通であれば一顧だにされない嘆願書も、廃病院付近の住民一同の連名というかたちでなされると政府としても無視はできない。そして、半信半疑の様子で政府の役人が調査をしたところ、確かに建物の中から妙な声が聞こえるのである。それこそ、狼の遠吠えとしか思えない、低く低く、どこまでも響くような声が。

 彼らは顔を青くして、上司のところに汗掻き走った。その様子を遠く見守っていた住人は、やはりここには何か忌まわしい者が棲み着いているに違いないと確信した。彼らの中には、この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ、と言う者もあった。

 人の口に戸は立てられない。近いうちに、この噂は狭いアカシャ州を覆い尽くすのは目に見えている。そうなれば、三年前の再来だ。しかも今回は根も葉もない噂ではない、少なくともその葉の先っぽくらいはある噂だからどうにも質が悪い。

 対応に苦慮した州政府は、連邦政府に泣きついた。今後当該病院施設に何らかの異常があったときは、連邦政府が責任をもった処置を施すというのが、例の誓約書にうたわれていたからだ。

 そして、現在の連邦政府における、違法研究所に対する実務的な処理権限を有するのはアレクセイ・ルドヴィックその人だったので、彼の元に報告が上がってくるのは至極当然の結果と言えた。

 

 報告書を読み終えた彼は、心底呆れたような鼻息を吐き出して、重たい紙の束を机に放り投げた。

 

 まったくもって、馬鹿馬鹿しい。

 

 それがこの件に関する彼の感想である。

 いくら厳重に封鎖した建物とはいえ、それはあくまで人の侵入を防ぐための処置である以上、どこかに解れた網の目があったとしても何の不思議もない。アカシャ州には野生の狼はいないはずだから、きっと野犬の類がそこから入り、病院の中で遠吠えをしているのだろう。おそらく、それ以上の何物でもないはずだ。

 しかしそれにしても、どうして閉鎖処置などをしたのだろうか。もし彼がその時点において現在の地位と権限を有していたのならば、そのように物騒な建物は即座に爆破解体をしてしまうところだ。ただ、この場合は周囲の住民の間に殺人ウイルスなどという突拍子もない噂が流れていたこともあって、その程度の処置が妥当かと思わなくもないが。

 アレクセイは知らなかったが、実のところその建物はある種のモニュメントとして残されたのだ。つまり、『我々の意向に従わない者はこのような目に合うのだ』という、古代の反逆者に残酷な刑罰が与えられ、その死体が長期間に渡って街中に晒されたのと同様の理屈である。無論それ以外にも様々な要因があったのだが、主な理由は非合法な研究機関に対する見せしめ以外の何物もなかった。その建物で今回のような騒動が起こったのは、全く皮肉という他ないが。

 とにかく、事態は彼の手の中にあり、彼が解決してくれるのを待ち侘びている。少なくとも、彼以外の人間に新たな処理権限が与えられたわけではないし、彼が腰を上げなければ永遠に解決しない問題でもあるのだろう。彼の首が、誰かのそれにすげ替えられるまでは。

 アレクセイは、デスクの受話器を手に取り、部下達に会議室へ集まるよう指示を下した。

 

 

『…以上が、今回の案件の概要だ。何か質問は?』

 

 アレクセイの言葉に、一瞬誰も反応しなかった。いや、反応できなかったといった方が正しい。

 その場にいたほとんど全員が、呆気にとられていた。それどころか、自分達の新しい上司はついに頭がいかれたのかと思った者もいたし、そんなくだらないことで自分達がわざわざ辺境の惑星まで赴かなければいけないのかという言外の不満もあった。それらが喉の奥で飽和して、言葉にならなかったのだ。

 しかし、こういう場合は誰かが皆の意見を代表しなければならない。テーブルの最前列に座っていた、アレクセイの部下の中では最年長の男が、ゆっくりと手をあげた。

 

『失礼、主任。質問をよろしいでしょうか』

『なんだね、クルツ君』

 

 クルツと呼ばれた壮年の男は椅子から立ち上がった。

 

『今回の我々の任務なのですが…その、先ほどの主任の説明を伺うと、要するに野犬の駆除が我らの仕事と、そういうことになるかと思うのですが、その理解でよろしいのですか?』

『端的に言い表せば、そういうことになるな』

 

 アレクセイは重々しく頷いた。その拍子に彼のはげ上がった額が朝日を跳ね返し、数人の部下が目をしばたかせたが、口には何も出さなかった。

 一方クルツは、僅かに顔を引き攣らせた。そして、重ねて質問した。

 

『では、我々は野犬一匹捕まえるために、遠路はるばる惑星レダまで向かわなくてはならないと?』

『そういうことになる』

『失礼と承知で伺いますが、主任。あなたは正気ですか?そんな仕事、別に我々が赴かなくとも―――』

『では、誰が片付けるのか、君の意見を聞こうか』

 

 少し険の篭もった上司の声に少しだけ怯んだクルツだったが、自分の背中にはここにいる全員の賛同が乗っかっているのだと勇気を鼓舞して、言った。

 

『レダがいくら辺境の土地とはいえ、野犬の駆除会社の一つや二つはあるでしょう。そこに任せればよろしいのでは?』

『クルツ君。私は君を相当以上に有能な人材と思っている。あまり失望させないでくれたまえ』

 

 アレクセイは無慈悲な口調で言った。

 

『いいか?例えば君の意見に従って野犬駆除業者をあの病院の中に入れるとする。野犬が運良く地上階にいてくれるなら別段、もしも何かの拍子で地下階にいればどうする?それも、表向きは存在しない、地下二階よりも下のフロアにいた場合に、だ。そしてそれを追った駆除業者が、地下で何が行われていたのかを知ってしまった場合は?』

 

 クルツは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

『ま、まさかそんな…。あれでも歴とした研究施設なのですから、地下階への扉はきちんと施錠されているはずでは…』

『君はそれを確かめたのか?それとも、この場にいる誰かが、あの病院に直接赴いて地下研究施設の状況を確かめたのかね?』

 

 アレクセイは、自分が上座に座る会議用長机を、ぐるりと見回した。その場にいた全員が、一様に俯いて一言も発しなかった。

 その様子に満足したのか、アレクセイは更に続けた。

 

『同じ理由で、アカシャ州の職員を派遣するのも不可能だ。そもそも例の誓約書には、忌々しいことながらこういった事態には連邦政府がその責任をもって対処することが誓われてしまっている。それを盾にされたらどうにもならん』

『では、現地の連邦政府職員に委託しては如何でしょうか?そうすれば、万が一の事態が起きたときも、箝口令を敷くのは容易いのでは?』

『何故情報局出身である私が、私のプロジェクトチームに軍属出身である君たちを招いたのか、分からんとは言わせんぞリヒター君。機密情報の漏洩の危険性は、それを知る人間の数に従って乗数倍に増えていく、軍事上の常識ではなかったのか?それにいくら連邦政府職員とはいえ、君たち軍属の人間と比べて口の軽さは比べようもない。そのような人間に、この手の仕事を任すほど私も危険愛好家ではない』

 

 アレクセイがその長舌を収めたとき、最早彼の意見に異議を唱える人間はいなかった。

 クルツは、素直に謝罪した。

 

『申し訳ありませんでした、主任。私が浅はかだったようです』

『いや、クルツ君。当然の意見だったと思う。これからも、どんどん忌憚のない意見を述べてくれたまえ』

 

 アレクセイは鷹揚に頷き、如何にも人好きのする笑みを浮かべた。

 彼は、有事には一切の躊躇なく部下を切り捨てる人間であったが、しかし平時においても部下に対して不必要に非情であるというわけではない。何故なら、いざというときに部下を動かすのは上司に対する忠誠心である以上、一々部下の反感を買っていたのではいつ何時寝首を掻かれるか知れたものではないからだ。

 あくまで上辺だけの寛容な笑顔であったが、その場にいた誰もがアレクセイを素晴らしい人格者であると思った。

 

『では、野犬捕獲用の道具を揃えておきましょうか』

『ああ、そうしてくれると有難いねグラント君。ついでに暗視用赤外線ゴーグルと、生命探査装置もあると万全かな』

『分かりました、すぐに手配します』

 

 末席に座っていた、いまだ少年のような顔立ちの部下が駆けるように部屋を飛び出していこうとするのを、アレクセイは呼び止めた。

 

『おい、グラント君』

『はい、主任。なんでしょうか』

 

 緊張した面持ちで答える若者に、赤ら顔の主任は笑顔で言った。

 

『そんなに急ぐ必要はないぞ、グラント君。今回の仕事は、君たちが当初考えたようになんともくだらない仕事だが、見方を変えればちょっとしたピクニックのようなものだ。殺伐とした毎日を送らざるを得ない憐れな子羊に、神が与えたもうた有給休暇だと思って、精々羽を伸ばそうじゃないか。そう思って、のんびりと支度をしてくれればいい』

『…はい、わかりました、主任殿』

 

 グラントと呼ばれた若者は、先ほどよりもいくらか和らいだ表情と足取りで、部屋を出て行った。居残った面々も、主任の下手なジョークに対して愛想笑いを浮かべている。

 

『では諸君、そういうことだ。準備はグラント君に任せるとして、出発は明朝ということになる。人員は、私とクルツ君、マクドネル君にラドクリフ君、そしてグラント君とイェーガー君の六名でいいだろう。残りは、事務所にて平時の事務をこなすこと。そのつもりでスケジュールの調整の方を頼む』

『主任も同行されるのですか?』

『君たちばかり肉体労働をさせるわけにもいくまい。それに、ピクニックには引率がつきものだろう?』

 

 悪戯っぽくいわれると、部下達も苦笑するしかない。

 

『では、会議はこれで終わりたいと思う。他に何か意見のあるものは?』

 

 アレクセイはぐるりと会議室を見回した。そこには、彼に忠誠を誓う、部下達の生気に満ちた顔があった。

 彼は満足げに頷き、散会を告げようとした。

 正にその時である。

 

『一つ、よろしいでしょうか主任』

 

 低い、地響きのような声が会議室に響き渡った。

 全員の視線が、発言者の並外れた巨体に集中する。

 アレクセイは内心に眉を顰めながら、しかし外面は愛想のよい笑顔を浮かべながら言った。

 

『…何かね、イェーガー君』

『はっ。今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうか?』

『…すまん、もう一度言ってもらえるかね、イェーガー君』

『今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうかと申し上げました』

 

 軍人らしい、如何にもしゃちほこばった声であったが、聞く者の顔を唖然とさせたのはその声質のせいではない。

 アレクセイは、さすがに侮蔑の表情を隠すこともなく、発言者に対して言った。

 

『イェーガー君、今回の任務について聞いていなかったのかね?』

『いえ、きちんと把握しております』

『では、今回の我々の任務はなんだ?端的に述べてみたまえ』

『野犬とおぼしき生物の捕獲、もしくは駆除。そのように理解しております』

 

 椅子に深く腰掛けながら、それでも立ち上がったアレクセイとほとんど同じ視線の男は、やはり重たく響く声で応じた。

 アレクセイは、ゆっくりと首を振った。

 

『そこまで理解していて、何故重火器の所持を求めるのか、理解に苦しむのだが』

『万が一に備えてです。できれば、中型の機関銃もしくはロケットランチャーの所持許可が頂ければ幸いなのですが』

『っ、きみは戦争にでも行くつもりか!?そんなものは不要だ!第一、許可が降りるものか!』

 

 アレクセイは声を荒げてそう言った。

 現在のアレクセイの部下はその全てが軍属の人間で固められている。それは彼に与えられた任務が時には非合法の手段を選んででも解決が急がれる特別任務である以上、荒事に慣れた人間のほうが都合がいいからであり、そして情報部出身の人間には彼が心底嫌われているからでもある。

 情報畑の人間と軍人畑の人間は、他の省庁に比べて人的交流が多い。しかしその事実は二つの機関の蜜月を示すものではなく、それどころか、野生の蛇の主食が蛙ではなく同種の蛇であるように、二つの機関の仲は決してよろしくない。寧ろ、険悪だと言ってもいい。

 それゆえに、アレクセイがこれだけ部下の人心を把握するにはそれなりの苦労があったわけなのだが、この場合はその苦労が無かったとしても、その場にいる全員がアレクセイの意見を支持しただろう。

 同僚や後輩から非難と嘲弄の視線を浴びながら、その大男は肩を竦めて黙り込んだ。もうこれ以上の意見はないようだった。

 アレクセイはそれを確認して、些かしらけた雰囲気になった会議を散会させた。彼はその時、この任務が終わった暁には、いつも目障りなあの大男はどこか辺境の戦地にでも更迭してやろうと心に決めたのだった。

 

 

 音がする。

 遠く近く、音がする。

 私を誘う声だ。遠くの狩り場へ、近くの狩り場へ。

 おお、懐かしき我が故郷。深い森よ、開けた野原よ。

 私は帰ってきたぞ。

 仲間よ、兄弟よ!

 今こそ、私の血肉を君達に捧げよう。

 私の牙で噛み砕こう。

 私の爪で引き裂こう。

 彼らの喉を、汚らわしいその瞳を。

 君たちへのお土産だ。

 きっと、気に入ってくれるだろう。

 彼らの苦痛を、慟哭を、断末魔を。

 私は丸ごと飲み干して、その血でもって恥を雪ごう。

 遠吠えよ、万里に響き渡れ、私の孤独を連れて行け!

 遠吠えよ、親愛なる兄のもとへ!

 届け!

 

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