懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
その光景を見た瞬間に、少年の意識は、自らの体と重なり合った。
自分の所有物であるはずの雌が自分以外の雄に汚される光景は、夢遊状態だった少年を現実に引き戻すのに十分だった。
見た瞬間に、怒っていた。
怒った瞬間に、走り出していた。
走り出した瞬間に、その喉から、怒りの雄叫びが迸っていた。
「てめぇぇ、俺の女に、何してやがんだぁ!」
少年──インユェは、一直線に、少女のもとへと駆けた。
不幸だったのは、少年の道を塞ぐかたちで立ち尽くしていた、式の参加者だ。
いったい何が起こったのか。
青年と少女のまぐわいを下賤な興奮とともに眺めていたら、後方でドアの開け放たれる音がした。何事かと振り返れば、銀髪の少年が鬼のような形相で立っていた。あれは誰だと思った拍子には、少年が叫び声を上げ、もの凄い勢いで突進してきた。
何が何やら分からない。しかし、何か危険なことが迫りつつあるらしい。
ぼんやりとした参加者にも、ようやくそのことが分かった。のろのろとした動きで、少年の行き先から離れようと動き始めた。
だが、時すでに遅しだ。
避ける暇などありはしない。少年が手にしたロッドが唸りを上げ、彼の前に立ちはだかった障害物の悉くを、右へ左へ、思い切り薙ぎ払っていた。
横面を殴られ、胴を打ち込まれ、観客は盛大に吹き飛んだ。老若男女関係無しだ。割れた眼鏡が、折れた歯が、豪華な料理と高価な酒のミックスされた反吐が、きらきらと宙を舞った。
しかしインユェには、そんなものは見えていなかった。
死屍累々の中を駆けた少年の視線は、ただ一人の少女しか捕らえていなかった。
鎖で吊られた少女が赤毛の青年の耳元で何かを囁き、青ざめた青年が少女の手錠を外した様子すらも見ていない。戒めを逃れた少女の体が、ようやく地に着いたのも見ていない。
脇目もふらずに走ったインユェは、そのまま舞台へと駆け上がり、命からがら少女の足による万力拷問から解放されたルパートの、端正な顔面に、渾身の力を込めたロッドの一撃を叩き込んだ。
「こぉんの、糞野郎ぉ!」
寒気のする音を立てながら空気を切り裂いたロッドの先端は、大きくしなったまま、ルパートの顔面に命中した。横一文字の一撃は高い鼻梁を容易くへし折り、驚くほどの量の鼻血を飛沫として舞い散らした。
「ぇげぺぇっ!」
一瞬遅れて、奇怪な声を上げたルパートの体が、後ろへと吹き飛んだ。
だが、その程度でインユェの怒りは収まらなかった。彼は、目の前で飯を横取りされた腹ぺこ狼よりも、なおいっそう怒っていたのだ。
インユェは、為す術もなく吹き飛んで俯せに倒れたルパートに駆け寄り、その股間を思い切り蹴り上げた。情け容赦ない一撃で、気の毒な青年の体は、再び宙に浮いた。
「うえげぇっ!」
顔面への一撃で既に意識を失っていたはずのルパートが、怪鳥のような叫び声を上げ、両手で股間の辺りを押さえて動かなくなった。
インユェは、それでも許さなかった。正座したまま前倒しになったような体勢のルパートの尻の割れ目の中央あたりに、ロッドの先を思い切り突き刺し、ぐりっと力一杯にねじ込んだ。薄いズボンの生地を破ったロッドの先は、その奥までを一直線に突き抜け、インユェが手を離しても斜めに立ったまま倒れることはなかった。
それだけのことをされても、もはや憐れなルパートの体は、うんともすんとも言わなかった。完全に失神していたのだ。
尻からロッドを生やした青年の、情けない様子を見たインユェは、ようやく鼻息を一つ吐き出して、熱せられた思考を冷やすことが出来た。
「そのまま床相手にマスでもかいてやがれ、このケツ穴野郎が!」
インユェは目の前で横たわる奇妙なオブジェに対して下品な罵声を浴びせ、とどめとばかりに唾を一つ吐きかけて、それから、自分の一番会いたかった少女に顔を向けた。
少女は、長時間の監禁が流石に堪えたのだろう、床に座り込んでしまっていた。だが、ようやく再会の叶った少年には、柔らかい、心からの笑顔を浮かべてくれていた。
インユェの菫色の瞳に、薄い涙が浮かんだ。
「すまん、インユェ。迷惑をかけるな」
インユェは顔をくしゃくしゃにして少女の元に駆け寄り、その細い体に精一杯抱きついた。
「ウォル!ウォル!ウォル!すまねぇ遅くなった!大丈夫だったか!?ひでぇことされなかったか!?」
涙声で繰り返すインユェに、ウォルは苦笑した。
「こらインユェ、少し痛いぞ。俺はこれでも怪我人だ。再会を喜ぶにしても、もう少し大人しく頼む」
「だってよう、だってよう、だってよう……」
インユェはウォルの胸に顔を埋め、しゃくり上げながら何度も繰り返した。胸の内で暴れ回る感情を、少しだって制御出来ていなかった。
ウォルは、自分達にスポットライトを当て続ける天井に顔を向け、諦めの息を一つ吐き出した。どう考えても、この少年を自分から引きはがすのは骨が折れる作業だ。
とりあえず、この小さな騎士は、どうやら自分を助けに来てくれたらしい。ならば囚われの姫は、頭の一つでも掻き抱いて労をねぎらってやるのが作法だろうか。
だが、ウォルには自分が姫であるなどと到底思えなかったので、それは遠慮しておいた。
その代わり、ぐずる幼子に効果的な方法で、インユェを宥めてやった。要するに、頭を撫でてやったのだ。
「まぁ、すんでのところだったが、とりあえずは大丈夫だ。酷い目には遭わされたが、その仕返しはお前がしてくれたようだからな」
ウォルは、先ほどまで自分をいたぶっていた、赤毛の青年に視線をやった。
ウォルも、かつては男だった身である。ルパートの惨状は、自業自得とはいえ、なんとも不憫な有様だった。今までこの男に嬲られてきた少女のことを思えばまだまだ生温いのだろうが、血の入り交じった小便を漏らし、尻の穴に深々と棒を突き立てられたその姿は、かつては同じ男だった者として一抹の同情を寄せざるを得ない悲惨さがあった。
舞台の下に目をやると、そこは無人の空間となっていた。インユェにはじき飛ばされた賓客の幾人かが、苦痛の呻き声を上げながら蹲ってはいたが、無事な人間は全て逃げ出したらしい。
要するに、今は二人きりだった。
未だ自分の胸の内に顔を埋めたインユェを、ウォルは強引に引きはがした。インユェの顔は涙と鼻水と涎でずるずるになっていたが、胸から引きはがされた瞬間は、少しだけ残念な顔色を浮かべていた。
「インユェ、お前……」
ウォルがじとりと睨み付ける。
「ち、違う!そうじゃない!お、俺は、純粋にお前との再会を喜んで……!」
真っ赤になったインユェが、力一杯に首を横に振った。
その様子を見たウォルは、呆れるというよりも寧ろ感心してしまった。彼女自身、男だったときはあまり女性に積極的な方ではなかったので、こういう場面を利用してまで女性に近づこうとする少年のしたたかさ、それとも姑息さ、もしくはたくましさが、少しだけ羨ましかったのだ。
「まぁ、別に減るわけでもなし、抱きつくくらいは構わんのだが……」
「本当か!?じゃあもう一回……」
「調子に乗るな、馬鹿者」
拳骨を一つ頭に落としてやったが、インユェは嬉しそうだった。背中の後ろに、ぱたぱたと振られる尻尾さえ見えそうな様子だ。
「冗談はここらへんにしておこう。ここはどこだ?そして、俺を助けに来たのは、インユェ、お前が一人か?」
表情を変えたウォルを見て、インユェも流石に真剣な顔になった。
「ここは、この国の大統領の根城だ。例の地下通路をずっと進んだ先にある。そんで、ここに来たのは俺一人じゃない。姉貴と、あのジャスミンっていうでか女も一緒だ」
「メイフゥどのと、ジャスミンどのか。……ケリーどのは、どうした?」
「でか女の旦那か?そいつなら、ウォル、お前と一緒に、あの妙なガキ共に攫われちまったんだ。だから、でか女の方が、そっちは助けに行ってるはずなんだけど……途中ではぐれちまったからよく分かんねぇ」
ふむ、とウォルは考え込んだ。
顎に手を当てて考え込むウォルを頭のてっぺんからつま先までを眺めてから、インユェはおずおずとした調子で、
「な、なぁ、ウォル。お前、ほ、本当に、大丈夫だったのかよ。その、何て言うか……」
しどろもどろのインユェの、何とも気まずそうな様子に、ウォルは、少年が何を言いたいのかを察した。もしも自分が彼の立場であれば、やはり真っ先にその心配をしただろうからだ。
ウォルは柔らかく微笑んだまま、一度、しっかりと頷いてやった。
「大丈夫だ。別に、この身体は誰にも手出しをされていない。少々いたぶられはしたが、それ以上のことはされていないぞ。だからインユェ、自分を責めるようなことはするなよ」
今にも泣き出しそうな少年の頬に、そっと手を当ててやった。インユェの顔が一瞬明るくなり、直後に暗く沈んだ。この少女を守れなかったあの瞬間を思い出したのだ。
インユェは、ぎゅっと手を握り込んだ。唇を、血が出そうなほどに噛み締めた。
「……すまねぇ、ウォル。お前に助けられたのは、これで二度だ。絶対に、この恩は返す」
「なら、少し頼みたいことがあるのだが、いいだろうか?」
「何だ!?何でも言ってくれ!」
インユェは颯爽と立ち上がった。菫色の瞳に覇気が漲っている。今から万騎の軍勢に特攻してこいと言っても、喜び勇んで剣を掴まんばかりの有様だ。
そんな少年を見上げたウォルは、力無く手を差し出して、
「少々、体調が優れんのだ。迷惑をかけるが、出口まで担いで行ってもらえると有り難い」
◇
インユェは、ウォルを背負ったまま走っていた。
ウェディングドレスの、呆れるほどに長い裾部分は邪魔なので、既に切り取ってある。結果、ウォルはミニズカートほどの長さになったドレスを纏い、インユェの背中にしがみつくという体勢だった。
『よかった、無事だったのね、ウォル!』
インユェの右耳のピアスから、嬉しそうな女性の声が聞こえた。
「その声、船の女神どのか!?」
『ああ、よかった!酷いことされなかった?もしあなたがそんな目に遭わされてたら、わたし、あの子に何て言い訳したらいいか……』
ダイアナの言うあの子とは、もちろん、ウォルの婚約者であるあの少年のことだ。
「心配には及ばん。俺はこのとおり、元気そのものだ。多少殴られただけで、貞操を汚されたりはしていない」
『……安心した、とは言えないけど、でも無事なあなたの声が聞けて本当に嬉しいわ。だって、トポレキシン麻薬を打たれたって聞いてから、もう以前のあなたとは二度と話せないと覚悟していたのだから』
「それは、不幸中の幸いというやつだ。この少女に感謝せねばな」
ウォルは冗談めかして言った。だが、いくら冗談であっても、この少女に拷問じみた実験を繰り返した連中に感謝する、とは言わなかった。それは、冗談であっても寝言であっても、決して口に出来ない言葉だったからだ。
女達はそういうふうにして再開を喜び合ったが、インユェがその会話に割り込んだ。
「で、イレブンスさんよ。これから俺たちはどう逃げたらいい?ウォルは、どうやら相当にまいっちまってるらしい。こんな身体であの長い井戸を降りて、地下道を逃げるのは無理だ」
インユェは、ウォルとの短い期間の共同生活の中で、この少女が本当にタフな人間であることを何度も思い知らされている。巷にあふれかえる、少し熱を出しただけで悲鳴を上げたり、少し疲れただけで子供みたいに駄々を込める女の子連中とは訳が違うのだと気が付いている。
そのウォルが、歩けないと言ったのだ。それも、これだけ緊迫した状況で。
ならば、この少女には、本当に歩くだけの力が残されていないのだろう。それを自覚しているからこそ、自分に助けを求めたのだろう。
ならば、少女を背負ったままあの地下道まで辿り着くことが出来るだろうか。井戸から地下道までは、うんざりするほどに長い梯子を下らなければならないのに。
インユェ一人なら苦もないことだ。しかし、ウォルを背負ったままとなると話が違う。もしも手を滑らしでもしたら二人揃って真っ逆さまだし、ウォルが途中で力尽きてインユェの身体を離してしまえば、それも命取りになる。
あまりに危険であると、インユェは考えた。無論それが唯一の逃げ道ならば仕方ないが、危険な賭はなるべくしたくない。特に、この少女を連れているときは。
ウォルもその点を理解しているから、黙っておぶられていた。
『……今、あなたたちがいる場所から一番近い出口は、正面玄関ね。そこを通って逃げるのが、一番手っ取り早いわ』
「正面玄関?それは流石に監視の兵隊がいるだろう?」
『それはわたしが何とかするわ。インユェくんは、何も考えずに走ってちょうだい。もしもウォルを落っことしたりしたら、後で酷いわよ』
「言われなくたって、誰が離すかよ!」
インユェは力強く言い切った。
ダイアナは淡く微笑んで、通信を切った。
静寂が訪れた。
静寂の中を、インユェは、必死に走った。普段から鍛錬は怠っていないし、走り込みも欠かしたことはないのだが、それはあくまで自分一人分の体重の時の話である。
ウォルは小柄な少女だったので、体重はそれほどではない。むしろ、軽い。それでも、二人分の重量が、少年の未成熟の筋力にとってどれほど負担になるか。
ウォルは、少年の耳元に顔を近づけ、心配そうに言った。
「俺のほうから頼んでおいてこういうことを言うのもなんだが、あまり無理はしてくれなくていいぞ。いざとなったら、置いていっても構わんからな」
インユェは、無言で首を横に振った。その調子に、少年の銀髪が跳ねて、ウォルの鼻をくすぐって、ウォルは少しこそばゆかった。
「だが、重いだろう?」
「重くねぇ!」
インユェは、しゃちほこばった様子で言い切った。
無理もない。何しろ、彼が今背負っているのは、自分にとっての想い人なのだ。しかも、ことの成り行きは別にして、ウェディングドレスまで身に纏っている。そんな少女を背負って敵のアジトから逃げ出すなど、正しく少年の夢を具現化したようなシチュエーションである。
これで重たいなどと不平を吐ける少年が、この世にいるだろうか。インユェは、その腕が千切れても、疲労でぶっ倒れても、ウォルを二度と手放すつもりなどなかった。
そうこうしていると、辺りがほの明るくなってきた。地下階の出口が近づいているのだ。
その時インユェは、背中越しに伝わるウォルの気配が変化したのに気が付いた。
足を止め、首だけで振り返ると、ウォルも同じように後ろを振り返っているのが見えた。
「……どうしたんだよ」
跳ね上がる吐息を押さえながら、インユェが問うた。
「……ここには、俺と同じように、攫われてきた少女がたくさん監禁されている。俺の身を案じ、友達になってくれた少女もいる」
「……」
「俺は、彼女達を助けると約束した。約束しておいて、この様だ。それが、情けない……!」
背後に広がる忌まわしい闇を見つめながら、少女は呟いた。少年の首に回された細腕に、僅かな力が込められて、細かく震えていた。
インユェは、細かく震えるその腕を、自分の頬でそっと撫でてやった。
「今は、どうしようもないじゃないか」
「分かっている」
「今は、逃げるぞ。もしもお前がその女の子たちを助けるって暴れても、俺が引っ張って連れて行く。ぶん殴ってでも、聞き分けさせる」
「ああ、分かっている」
「じゃあ、逃げよう」
背後で、首を縦に振る気配があった。
インユェは、再び駆けた。長い階段を駆け上がった。
普段に倍する体重を抱えて、普段に倍する速度で駆け上がった。
息が切れる。汗が滝のように流れる。心臓が、そこに暴れ馬が居着いたみたいな様子で跳ね回る。
それでも少年は立ち止まらなかった。必死の様子で走った。
複雑に枝分かれを繰り返す廊下を、ダイアナの指示に従って走る。一度通ったことがあるような、初めて通るような、不思議な感覚がインユェを包んでいた。
そうだ、あの時、自分はどうしていたのだろう。何か、この身体から離れて、空中から自分を眺めていたような、そんな気がする。
まるで幽体離脱をしていたような、そんな感覚だった。
では、魂の離れたこの身体を、誰が操っていたのだろう。あの時、恋人の名前を呼びながら走っていたのは、一体誰なのか。
次々と疑問がわき上がり、しかし酸素の薄い脳髄は、それらの疑問に対して答えを用意出来なかった。
それでも、インユェは、足を必死に動かした。何度か前につんのめりそうになったが、何とか我慢した。なにしろ、背中にいるのは、一番格好良いところを見せ続けなければならない少女なのだから。この少女と一緒になって転ぶのは、故郷の草の海を駆け遊ぶ時のために置いておこう。
いったいどれだけの時間走ったのか、既にインユェにはよく分からなくなっていたが、どうやら出口が近いらしい。通信機のダイアナが、嬉しそうな口調で、
『そのまま真っ直ぐよ!そして、目の前の扉を開ければ、外だわ!』
インユェに、その声に応える気力は残されていなかった。限界を超えそうになる身体を必死に動かし、玄関ホールらしい空間を走り抜ける。
そして、扉に手をかけた。
一番緊張する一瞬だった。もしもその先に銃で武装した兵士がいれば、良くて逆戻り、悪くすればその瞬間に蜂の巣だ。
ゴクリと、唾を飲み下す。後ろの少女も緊張しているのか、柔らかい身体が少しだけ強張った。
ぎしりと、重たい音を立てて、樫材の扉が観音開きに開いた。
強い陽光が、目を突き刺し、痛いほどだ。思わず手で庇った。
真っ白に漂白された視界が、徐々に色を取り戻していく。木々の緑が緑色に、空の青が青色に、滲みながら戻っていく。
そして、そこには誰もいなかった。城門へと至る石畳は、無人の野と同義であった。
「さすがだぜ、イレブンスさん!」
返答は無かったが、そんなことはどうでもいいことだった。今までの疲れも忘れた様子で、インユェは走った。
石畳はよく整備されていて、走りやすかった。それに、気持ちのいい風も吹いているから、陰気な城内を走っているより余程気持ちが良い。今は逃げる身であることを忘れて、走った。
城門まではかなりの距離があったが、インユェは一気に駆け抜けた。
そして、城門に辿り着いた。
普段なら閉じられているはずの城門は、開け放たれていた。というより、城門そのものが既に存在していなかった。
ダイアナが自動操縦するヘリコプター(これはもちろん実物だ)の攻撃によって、見事に吹き飛ばされてしまっていたのだ。
固く閉じられた城門を開けるのは中々面倒な作業だし、ウォルを背負った状態で城壁をよじ登るのは流石に不可能なので、これは有り難かった。
ただ、ついでとばかりに跳ね橋も壊されていたのだが、これは後になって追跡部隊を防ぐための処置である。徒歩であれば、跳ね橋の残骸を伝ってあちら側に渡ることは出来たので、不平を言うほどではなかったが、最後に向こう岸を這い上がるときだけは厄介だった。
ウォルに少しの間だけ背中から降りてもらって、インユェは一人で堀を這い上がり、ロープを設置してから再度降りてウォルを背負い直し、ロープを伝って二人で昇った。
背後を振り返る。そこには、誰もいなかった。自分達を追いかけてくる何者かがいる気配もない。
脱出は成功した。
「よし、行くぞウォル。森の中には、姉貴がいるんだ。姉貴は鼻が利くからな、すぐに合流出来るぜ」
「ああ、分かった」
ウォルの声が、ずいぶんと力無かった。体調を崩しているというのは、どうやら深刻らしい。
インユェは、疲れた身体に鞭打って、走り出した。これが踏ん張りどころだとわかっていた。
城のすぐ向こう側が、もう森になっていた。普通の城であれば、奇襲を避ける意味でも周辺の木々くらいは切り倒しておくものなのかも知れないが、これは敬虔なヴェロニカ教徒の城である。森に手を付けるわけにはいかなかったのだろう。
森に入ると、襲撃を恐れる必要が減った分精神的には楽になったが、当然のことながら足場は悪い。まして、ここは山地なのだ。勾配もある。体力はどんどん無くなる。
流石のインユェもへたり込みそうになったその時、救いの神が現れた。
「ウォル!アホちび!無事か!?」
森中に轟くような大声で、聞き慣れた声が、自分達を呼んだ。
インユェは、あまりに聞き慣れたその声に安心して、本当にへたり込んでしまった。すでに身体は限界を超えていたのだ。座り込むのも無理はない。
がさがさと目の前の茂みが動いたかと思うと、そこから、金色の頭髪をした、褐色の肌の少女が顔を出した。
インユェの姉の、メイフゥであった。
「ウォル!」
メイフゥは目を輝かせて、インユェの背からウォルを奪い取った。そして両手で軽々とウォルの身体を持ち上げ、くるくると回って再会の喜びを表現した。
「よかった!ウォル、本当によかった!」
「俺も、メイフゥどのともう一度会えて、本当に嬉しい」
人形のように抱え上げられたウォルは、輝くような笑みを浮かべた。
メイフゥは、あまりの衝撃に目を見開き、震える唇を開いた。
「う、ウォル、お前、あたしのことが分かるのか……?」
「ああ。あの男に打たれた破廉恥な薬は、生憎この身体には効きが悪かったらしい。ついでに言っておくと、誰にもこの身体に手出しはさせていない。安心してくれ」
「ほ、本当に……!」
メイフゥは、その整った顔をくしゃりとさせて。ウォルを思い切り抱き締めた。ウォルも、これは十分に予想していたので、好きにさせることにした。
「よかった……本当に、本当によかった……神様、ありがとう……!」
インユェは、気丈なメイフゥが啜り泣く姿など初めて見たから、しばし呆気にとられていたが、何となく気まずくなって目を逸らしてしまった。
「め、メイフゥどの、そろそろ離してもらってもいいだろうか。流石に、少し苦しいのだが……」
ウォルは、その顔をメイフゥの豊満な胸の谷間に思い切り押しつけられた格好のまま、苦しげに言った。それは、少し前に、酒場でジャスミンにされたのとほとんど同じような体勢だった。男だった時だって、これほど美しい女性達にこんなことをされたことはないのに、どうして女の子の身体になってからこんなことばかり続くのか、ウォルは少し不思議だった。
「あ、悪い悪い。あんまり嬉しくて、つい……」
メイフゥはウォルを自らの胸から解放し、その肩を両手で掴んで自分の目の高さまで持ち上げた。
メイフゥの身長は180センチを優に超えるが、現在のウォルの体は150センチに満たない小柄な少女のものだ。当然、ウォルの足が地に着くはずがない。ぶらぶらと宙づりのままだった。
メイフゥは、少女の眼を覗き込みながら、盛大に鼻水を啜った。
「あたし、もう駄目だと思ってたんだ。もう二度とお前とは会えないと、そう思ってた。それで、お前をこの揉め事に引きずり込んだのはあたしだから、全部あたしの責任だと思って、それで、それで……」
その後は言葉にならず、無言のまま、再びその大きな瞳に涙を浮かべ始めたメイフゥだった。
ウォルは、優しく微笑み、今にも泣き崩れそうな少女の頭に手を置いてやった。
「もしもだ。もしも仮に、俺が奴らに手籠めにされ、心身を陵辱され、その結果無惨に殺されたのだとしても、俺はメイフゥどのを恨むことは絶対にない。何故なら、この星に残ると決めたのも、あなた方を助太刀すると決めたのも、俺自身だからだ。俺は、俺の決めたことに責任を持ちたい。それは俺の義務であり、何より権利なのだと思う。メイフゥどの、あなたは俺から、そんな人として最低限の権利を奪うおつもりか?」
メイフゥは、首を横に振った。飛び散った透明な涙が、ウォルの顔に数滴、降りかかった。
「わかってる、わかってるんだよ。でも、どうしようもないじゃないか。こういうことは、理屈じゃない、そうだろう?」
「ああ、その通りだな」
ウォルは、自分よりも遙かに大柄で、でも今にも崩れ落ちそうな少女の頭を、何度も撫でてやった。その度に、少女のしゃくり上げる声は、少しずつ収まっていった。
「ちくしょう、ウォル。そんなにちみっこいなりのくせにあたしを慰めるなんて、生意気だぜ」
ぐすりと鼻を一つ鳴らして、メイフゥは挑みかかるような笑みを浮かべた。この好戦的な少女の、常日頃の笑みであった。
これで大丈夫だろうと、ウォルは内心で胸を撫で下ろした。彼女が彼であった頃から、女性に泣かれるのはどうにも苦手だったのだ。
その手のやり取りについて熟練者であった少女の従弟などは『美しい女性の涙を如何に上手に止めてやれるか。そこにこそ本当の男の価値というものがございましょう』と言って豪快に笑っていたが、その言葉が真実だとすれば、どうやら自分に存在する男の価値も捨てたものではないらしい。
ウォルのおかげか、それとも自分の力によるものか、何とか泣き止んだメイフゥは、まじまじとウォルの格好──ミニスカートのウェディングドレス姿である──を見て、感嘆の溜息を吐き出した。
そして、きらきらと目を輝かせながら、
「それにしても、何だよウォル、その可愛らしい格好は!ついにインユェの嫁になる覚悟が出来たのか!?」
明後日の方向を向いていたインユェが、盛大に噎せ返った。
乱れに乱れていた呼吸をようやく整えつつあった時の、あまりに強烈な不意打ちである。誰も少年を責められまい。
「いや、そういう訳ではなくだな……」
ウォルは手短に事情を語って聞かせた。
話の途中からメイフゥの顔色に危険信号が灯り始め、あやうく観衆の面前で犯されそうになったのだと語るに至り、ものの見事に大爆発した。
「何だその破廉恥最低下種野郎は!ダニだ!ウジ虫だ!いや、そんな言い方をしたらダニやウジ虫に失礼ってもんだ!この全共和宇宙に住む、全ての女の敵だ!あたしが今からぶっ殺してくる!楽には殺さねえ!ひゃっぺんは地獄に叩き落としてやる!」
肩を怒らせたメイフゥが本当に城に乗り込みかねない有様だったので、慌ててウォルが止めた。
「まぁ待てメイフゥどの。今は俺も女の身、あなたの気持ちは重々承知だが、それどころではないだろう。ジャスミンどのらと合流し、体勢を立て直した上で、徹底的な殲滅戦を行うべきだ。違うか?」
けっこう情け容赦ないウォルの意見に、メイフゥはしゅんとなってしまった。
「それはそうだけどよ……」
「まずはここから離れるべきだ。それについて、メイフゥどのの力をお借りしたいのだが、よろしいか?」
「力って、ウォル、お前、どうしたんだ?」
ウォルは力無く笑った。
「いや、どうにも体調不良でな」
ウォルの言葉にメイフゥは首を傾げたが、しかし何かに思い当たった顔をして、すっくと立ち上がった。
「じゃあ、いい隠れ場所を見つけたんだ。そこまで案内するぜ」
メイフゥは、ウォルの体をひょいと担ぎ上げ、その逞しい肩に乗せて歩き始めた。
その様子を見たインユェは、内心で安堵した。今からウォルを担げと言われれば、それは本当に嬉しいことなのだが、体が既に限界を超えてしまっていたため、本心を言うならば何とか遠慮したかったのである。
そんなことは流石に口には出せないので、インユェはこっそりと立ち上がった。
「ところでインユェ、てめぇ、その人でなし野郎を、そのまんまにしてきたんじゃねえだろうなぁ?」
先を行くメイフゥが、ウォルを肩に座らせたまま振り返った。
その灰褐色の眼光が、剣呑な光を放っている。こういう時のメイフゥは、本当に危険なのだ。
インユェは、生唾を飲み下しながら、震える声で言った。
「が、顔面を思い切りぶん殴って、金玉蹴り潰して、ケツの穴にロッドをねじ込んでやったよ」
メイフゥは一瞬目を丸くして、それから腹を抱えて笑った。
「な、なるほど、人でなし野郎を玉無し野郎に変えてやったわけか!よしよし、よくやったインユェ!あたしが褒めてやる!」
てっきり、『そんな生温い真似で許しやがったのかこのぼけなすが!』とでも罵られると思っていたインユェは、一瞬唖然としてしまった。
「い、いいのかよ、姉貴、そんなもんで勘弁してやってよ」
「いいんだよ、今はな」
メイフゥが、にたりと笑った。
インユェが思わず後ずさってしまうほどに不吉な、彼の最も恐れる姉の顔であった。
「ウォルを手籠めにしようとしやがった糞野郎だ。お前が最後まで面倒を見たんじゃあ、あたしの怒りが収まらねえ。最後はきっちり、このあたしが直々に、死んだ方がましって目に遭わせてやる」
メイフゥが手の関節をばきばき鳴らしながら言った。
インユェは、あの、軽蔑の対象でしかない青年に、心の中でお悔やみの言葉を捧げた。
しばらく、三人は森の中を歩いた。
メイフゥは、肩にウォルを座らせていても、一向に疲れた様子は見せなかった。体格的にも体力的にも、インユェとは桁違いのポテンシャルを有しているメイフゥである。40キロそこそこの体重のウォルが肩に乗ったくらい、子犬を抱きかかえて歩いているのとほとんど変わるところがないのだ。
インユェも、ずんずんと先を行くメイフゥに遅れず、何とかその後を追いかけることが出来た。身体的な限界はとっくの昔に越えていたので、それは精神力の為せる技であった。
三人が小一時間ほども歩いたとき、森が僅かに開け、遠くから水の流れ落ちる音が聞こえてきた。
「滝だ」
インユェが呟いた。
あまり水量は豊かではないし高低差もそれほどではない滝だが、滝壺には大きな池がある。十分な水があった。この星特有の事情から、そのまま飲み水に使うことは出来ないが、確かに少しの間身を隠すにはもってこいな場所だろう。
「こっちだ」
メイフゥが先を行くと、滝の外れの藪の奥に、人の身長ほどの高さの洞穴が口を開けていた。
「へぇ、こんな場所、良く見つけたな、姉貴」
インユェが、感心しきりな様子で、先に洞穴に入ったメイフゥ達に続こうとする。これでようやく一息付けるのだと思うと、自然と足は早まった。
だがそれを、メイフゥは無慈悲な調子で通せんぼした。
「……何の真似だよ、姉貴」
「そいつはあたしの台詞だ、あほちび。お前がこの洞穴の中に収まっちまったら、火を起こすための薪は、一体誰が集めるんだ?」
確かに、ずいぶんと長い時間を歩いたから、日は既に傾きつつある。もう少し時間が経てば、火の必要が出てくるかも知れない。
それはそうなのだが、今、自分は本当に疲れているのだ。もう、指の一本でさえ動かしたくないくらいに。
そんな内心が顔に出ていたのだろう、不服そうなインユェを見ながら、メイフゥはにんまりと笑い、
「そうかそうか、お前、確かに色々と頑張ったもんな。疲れていて、少しでも早く休みたいんだよな。分かる分かる」
メイフゥは、インユェの肩をぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、薪集めは、他の奴に行ってもらうとしようか」
そう言って、意地悪そうに洞穴の中を振り返り、
「おーい、ウォル!インユェが、薪を集めに行ってこいって言ってるけど、どうするよ!」
既に洞窟の奥に座り込んでいたウォルが、その声を聞いて腰を浮かせた。
「わかった、では俺が行こう。インユェ、お前はよく休んでいてくれ」
ウォルは、感謝の色さえ浮かべながらそう言った。インユェは、あの城の暗い地下からずっと自分を背負って走ってくれていたのだ。当然、くたくたになっているだろうことはウォルも承知していた。その苦労に比べれば、薪拾いを代わるくらい何ほどだというのか。
だが、そんなことを、インユェが頼めるはずがない。何せ、彼は少年で、ウォルは少女で、そしてこれが一番大事なのだが、インユェはウォルに格好良いところを見せたいのだ。
「な、何言ってんだよ、姉貴。薪の一つや二つ、俺があっさりと拾ってきてやるさ!だからウォル、お前はゆっくり休んでやがれ。これはご主人様の命令だからな!」
力無い声で笑いながら、乳酸塗れの体を油の切れた発条仕掛けみたいにぎくしゃくと動かして、インユェは外に出て行った。
その、あまりに憐れな様子に、ウォルは苦笑を溢した。
「メイフゥどのも、中々に手厳しいな」
「ま、いい修行さ、こんなこともね。あいつは、女にケツを叩かれないといい男になれないタイプだからさ。ところで──」
メイフゥが真剣な表情で、ウォルの方に向き直った。
「……大丈夫なのか?」
ウォルは、弱々しい笑みを浮かべながら頷いた。
「なにぶん初めてのことだ。これが大丈夫なのかどうかよく分からないが、とりあえず気絶したり一歩も動けなくなるようなことは無いと思う」
「……見せてみろ」
ウォルは、恥ずかしげもなく、スカートの裾を持ち上げた。
ウェディングドレスの下に隠された純白の下着が、鮮やかなほど真っ赤に染まっていた。
薄い布地では受け止めきれなかった経血が、血の気の失せた太股をつぅと伝い落ちた。