懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
斜めに傾いた体が、緩慢に重力に引かれ、前のめりに倒れていく。
ジャスミンなどには、その時間が、とてもゆっくりに感じられた。若獅子のように均整の取れた体から力が抜け、膝をがっくりとつき、糸が切れたように前に倒れていくケリーの姿が、たまらないほどスローモーションに見えた。
そして、ケリーの、豊かな黒髪に覆われた頭部が、ごつりと重たい音を立てて、床とぶつかった、瞬間。
「ケリー!」
彼の名を呼ぶ甲高い悲鳴が、妻以外の人間の口から、放たれた。
「ケリー!ケリー!ケリー!」
俯せに倒れたケリーの名を、狂ったように何度も呼ぶのは、今の今まで彼と敵していた、アーロン・レイノルズであった。
アーロンは、あまりの恐怖に青ざめ、絶望に両手で頭を抱え込み、発狂したような金切り声を上げながらケリーへと走り寄った。
「駄目だ!ケリー、死なないで!死なないで下さい!あなたに死なれたら、私はどうやって、これからの人生を歩いて行けばいいのですか!ケリー、ケリー、ケリーぃぃぃっ!」
ジャスミンは、呆然と銃を構えたまま、とても静かな気持ちで、アーロンという男の狂乱ぶりを眺めていた。あの男は、自分の目的のためにケリーの身柄を必要としているだけなのだが、これでは愛する恋人に先立たれた憐れな若者のようではないか。全く、こういう場合は、妻である自分の方が泣き叫ぶ資格があるはずなのに、完全に蚊帳の外に置かれてしまった。
アーロンはケリーの傍らにしゃがみ込み、その体を掻き抱いた。枯れた魚の瞳からは次々と涙がこぼれ落ち、痩せた体はあまりの精神的衝撃に戦慄いていた。
「ケリー、お願いだ、死なないで下さい!頼むから、生き返ってください、ケリーぃぃぃっ!」
ジャスミンは、薄ら笑いを浮かべて、再び銃を構えた。
怒りの形相でジャスミンを振り返ったアーロンは、自分に向けられた銃口を見て、唖然とした。
「ぎょっとしたな、大統領。ならば勝ちだ、わたし達のな」
◇
「ぎょっとさせればいいんだよ、要するにな」
「意味が分からないぞ海賊。もう少し、他人が理解しやすい言葉をしゃべる努力をしてみたらどうだ」
ジャスミンのにべもない言葉に、スクリーンの前に腰掛けたケリーは憮然とした。
「言葉の通りだぜ。結局、あれはどれだけ多才でも、どれだけ出力が化け物じみていていも、要はただの特異能力者なんだ。なら、対処方法は決まってるじゃねえか」
ジャスミンは、首を傾げた。普段は勇ましいジャスミンの、なんだかあどけない様子に、ケリーは苦笑した。
「女王。あんたは、特異能力者とどんぱちやらかしたことは、あるかい?」
ケリーの言葉に、ジャスミンは首を横に振った。
「わたしの主な戦闘経験は、ほとんどが軍に所属している間のことだ。あいにく、任務先であんな不愉快な生き物と戦ったことは、一度だって無い」
それが普通だ。特異能力者などが誰の目につくほどあちらこちらに転がっていたら、それは既に特異なことではなくなってしまう。
ケリーは頷いた。
「まぁ、そうだろうな。だが、俺は何回か、ある。もちろん、あんな化け物じゃなく、もっと可愛げのある連中だ。例えば、少し離れたところから人をぶん殴れたり、弾の方向を少しずらせたり。それでも十分脅威には違いなかったがな」
ジャスミンと出会うまでは、ケリーが生きてきたのは日の当たらない裏道街道ばかりだ。そういうところは、日の当たる場所で活躍することを許されない、特殊な才能をもった人間が、落ちて落ちて最後に行き着くところである。
多くの人間はただのごろつきだが、中には表の世界には到底出すことの出来ない、恐るべき才能を備えた人間もいた。軍用感応頭脳のアレンジを行ってしまうアレンジャーなどが、その代表例だろう。
そして、そういった人間の中に、特異能力者と呼ばれる人間もいたのだ。
「表に出ちまった特異能力者は、そのまま政府に捕らえられて特殊アクリルで囲まれた部屋にぶち込まれ、一生実験動物扱いだ。黄金狼や天使の一件もあって今ではそういう風潮は弱いが、それでも一生監視付きの生活は余儀なくされる。だからといって、身につけちまった能力ってやつは度し難いもんで、一度使うと、今度は能力の方から、自分を使ってくれって強請り出すんだ。その誘惑に打ち勝てる人間は、そうそういるもんじゃねえ。結果、強い能力者ほど、裏の世界に生きる道を探すことになる」
「……不憫と言えば不憫か。普通の才能に恵まれたのであれば、日の当たる場所にも生きる道はある。だが、特異能力者には、最初からそういった場所は用意されていない……」
「そういうこった。だから、俺はそういう連中と、結構縁があったのさ。で、一つだけ分かったことがある」
「それは?」
ジャスミンが身を乗り出すようにして訊いた。
ケリーは、あっさりとした調子で口を開いた。
「あいつらも、所詮は俺たちと同じ、ただの人間だってことだ」
自らの夫の言葉に、やや肩すかしを喰らったジャスミンは、じとりと疑わしげな視線でケリーを睨んだ。
「……それだけか、海賊」
「そして、特異能力なんてたいそうな名前をもらっちゃいるが、あれも結局は人間の持ってる一つの才能に過ぎない。なら、いくらでもつけ込みようがある」
ケリーは椅子から立ち上がった。
「例えば女王。あんたと俺で昔、惑星ジゴバのリゾートで、何泊かの休暇を楽しんだ。覚えているか?」
「ああ、覚えている。あの赤い酒は、何度飲んでも堪えられないほどに美味いんだ。なのに、一生のうちで口に出来る機会は極々限られている。ならば、その貴重な一回を忘れてたまるものか」
夫婦で過ごした時間よりも酒の感想がまず先に口をついて出るあたりが、どうにもジャスミンに似合っていた。
ケリーは苦笑しかけたが、努力してそれを引っ込めた。
「その日の昼間だ。俺たちは、観光客用のお手軽キャンプ場に辟易として、自前で用意したクルーザーに物騒な武器を積み込んだまま、沖に出て遊んだな」
「そして、わたしは素潜りでお前に勝てなかったんだ。なんだ海賊、今更昔の自慢話か。あの時は、出産やら何やらで体が参っていたんだ。今やったら、絶対に負けない自信があるぞ」
どこまでも負けず嫌いな女である。だが、ジャスミンの反応をなかば予想していたケリーは呆れたり、惚れ直したりはしなかった。これが、自分が妻とした女性の通常運転なのだ。一々呆れていたら身が保たないし、惚れ直していたら心が保たない。
「女王よ、今、あんたは言ったな。あの時は体調が優れなかったから、俺に素潜りで負けたんだと。そして、万全の調子の今なら、絶対に負けないと」
「ああ、言ったとも」
「じゃあ、体調が万全だったとしてだ。もしも俺と同じだけの心肺能力を有する誰かさんとあんたが素潜り勝負をしたとして、その勝負がちびすけの誘拐された瞬間に行われた場合、勝つ自信はあるかい?」
「……おそらく勝負にならなかっただろう。そもそも、そんなことをしている場合ではない。不戦敗でわたしの負けだ」
そろそろ、ジャスミンにもケリーの言いたいことが飲み込めてきた。
「要するにこういうことか海賊。特異能力といっても、結局のところそれを使うのは人間だ。どれほど大きな力であっても、それを上手に発揮するためには身体的、精神的な充実が必要である……」
「ああ、そういうことだ。特に、特異能力ってやつは繊細でな。ただの風邪で体調を崩した、手首や足首を捻挫した、そもそもそういう形に出るような体調不良が無い、そんな場合でも突然に使えなくなったりする。それは身体的な問題の場合だけじゃない。精神的な問題のほうが、寧ろその特徴は顕著だ。ちょっとした悩み事があったり、心配事があったりすると、それだけで特異能力の出力ががたっと落ちるのはよくあることだぜ」
『それはケリーの言う通りね。政府の実験記録……っていっても、もちろん極秘扱いの文書だけど、その結果もケリーの言葉を裏付けてるわ。逆に、そういった肉体的、精神的不調がきっかけで特異能力に目覚めるケースも珍しくはないみたいだけど、とにかく、特異能力そのものが極めてデリケートなものであることについては間違いないみたい』
ダイアナがケリーの意見をフォローした。
ケリーは画面に映ったダイアナに向けて頷いた。
「なら、話は簡単だ。俺たちが勝つためには、あの男の身体的、もしくは精神的な均衡を力尽くで崩してやればいいのさ」
「……それで、ぎょっとさせるか」
「ああ。今からあの男に風邪を引いてもらうのも、身内に誘拐されてもらうのも、これは中々難しい相談だぜ。だが、一瞬、あの男が我を忘れるくらいにびっくりして、ぎょっとしてくれればいい。そしてその瞬間に銃弾を放つことが出来れば、おそらくあの男はそれを止めることが出来ない」
「……どうしてそんなことが言える?何か、根拠あってのことか?」
ジャスミンの言葉に、ケリーは、気まずそうに頭を掻いた。
「んー、ま、根拠があるかって言われると弱いんだがなぁ」
本当に弱った様子のケリーを見て、ジャスミンはとてもいい笑顔を浮かべた。
「試みに尋ねるがな、海賊よ。今まで、さも偉そうに語ってくれたご高説の全てが、まさか根拠薄弱な第六感とかいうガラクタによるものではないだろうな。もしもそうなら、その緩んだ脳みそのネジを、わたしの鉄拳で締め直してくれるぞ」
手の関節をばきばき鳴らしながら言うので、これが非常に怖い。何せ、今のジャスミンと来たら、アーロンから散々虚仮にされて、破裂寸前のポップコーンのような精神状態なのだ。どういう切っ掛けで大爆発を起こしても不思議ではないのである。
ケリーは、慌てて距離を取った。
「待て待て女王。確かにあんたの大嫌いな第六感の要素も多少はあるがよ、全部が全部当てずっぽうってわけでもないんだ。弁明くらいはさせてくれよ」
「……いいだろう。聞くだけ聞いてやるとしよう」
先ほどまでケリーの腰掛けていた椅子に、威風堂々、足を組みながらどっかりと座ったジャスミンである。
そのジャスミンの前に立ち背中に冷や汗を浮かべたケリーは、さながらくだらない失敗を起こして女上官にいびられる新米兵士といった有様である。
ケリーは、かつてジャスミンの下についた部下達の中に無能者がいなかったことを神に願った。もしもいたならば、精神を病む前に除隊ないし配置転換が行われたことを祈った。
「さっきの映像で、俺は、一つだけ不思議に思ったところがあるんだ」
「さっきの映像だと?」
「大統領が、自分の国の兵隊を生ゴミに変えちまった、あの映像だ」
ジャスミンは思わず顔を顰めた。
彼女も、昔は軍属だった身である。ならば、立場が違うとは言え国に忠誠を誓う軍人が、その忠誠の対象である大統領にああも無惨に殺される映像を、心楽しんで見たはずがない。
「どこが不思議だった?」
「あの男が一通りの虐殺を終えて、最後に残った大佐を追い詰めたとき。大佐は、まず銃を撃ちまくった。当然、一つだって当たらない。全部の銃弾が、あの男の特異能力によって体まで届かなかった」
「わたし達の時と同じだな」
「次に大佐は、空になった銃本体をあの男に投げつけた。銃本体だって、立派な凶器だ。それで殴ることも出来るし、投げつけたって、重量1キロの鉄の塊だからな、十分な殺傷力がある」
「そして、大統領に命中することはなかった」
ケリーは頷いた。
「だが、妙だったのは次だ。大佐は、懐から煙草の箱を取り出して、投げつけただろう。これを、あんたはこの行動をどう思う?」
ジャスミンは少し考え込んで、
「……別に、取り立てておかしいことではないと思う。追い詰められた人間が、自分の周りにある雑多な物を手当たり次第投げつけるのは、それほど奇異な行動ではない。わたし自身、夜の街できつめの灸をすえてやった不良少年に、石ころやら空き缶やらを投げつけられたことは一度や二度ではない。石ならばともかく、空き缶などでは人を傷つけることは不可能なのにな」
「旦那の浮気にヒステリーを起こした奥さんが、テーブルの上の料理やら調味料やらを投げつけるのに似ているのかも知れねえな。ま、そこんところは詳しくはわからねえが……」
ケリーは、ジャスミンに灸を据えられた少年に対して、心の中で短い黙祷を捧げた。
「とにかく、大佐は煙草を投げつけた。当然、それであの男が殺せるなんて、いくら血迷ったって信じたりはしないだろう。なら、あれは本人だって意図してなかった突発的な行動だったんだ」
「それがどうかしたのか、海賊」
「なぁ、女王。どうして銃弾や銃本体は特異能力に阻まれてあの男に命中しなかったのに、煙草の箱だけは当たったんだろうな?」
あ、とジャスミンは思った。
なるほど、確かに妙と言えば妙な話だ。いくら煙草の箱とはいえ、自分に向かって飛んでくる物体である。特異能力が数限られたものであるならば話は別だが、そうでないならば、他の二つと同じく空中で止めるのが普通である。そして、自分達の戦いを思い浮かべるに、あの男の特異能力が、煙草を一つ受け止めただけでガス欠を起こすほど、燃料に限りがあるものとは思えない。
「……確かに妙と言えば妙な話ではあるが……こういうのはどうだろう。大統領には、透視能力、クレヤボヤンスが備わっている。ならば、あの男は大佐の懐に入っていたのがただの煙草の箱に過ぎないことを知っていた。飛んでくるのがただの煙草の箱だと分かっていれば、わざわざ受け止める必要もないだろう。だから、あえて受け止めなかった」
「確かに、大佐の懐にあるのが煙草の箱だということには気が付いていたんだろう。俺だって、いつもは透視能力の親戚みたいな機能のついた義眼を使っている。もしも俺があの男の立場だったら、一応は相手がどんな危険物を身につけてるかくらいは確認しておく」
ケリーはしかし首を傾げ、
「だが女王。煙草の箱をぶつけられたあの男の反応を覚えているだろう?あの男は、呆気に取られて、終いには笑い始めたんだ。あれは明らかに、目の前で予想外の事態が起きた反応としての、発作的な笑いだぜ。事前に煙草の箱が飛んでくるのを知っててわざと特異能力を使わなかったなら、どうしてあのタイミングで笑いが起きる?」
そう言われると、ジャスミンとしても反論が浮かばなかった。ケリーの意見の筋道は、それなりに通っている気がした。
だが、ジャスミンは敢えて反駁を試みた。こういう場合は、片方がそういう役を引き受けなくてはならないことを、彼女は知っていた。
「では、例えばあの男の防御性能が、完全なオート制御である可能性は?自分に向かって飛んでくる物体の質量や速度、形状を予測し、それから導き出される危険性を考慮して、防御の必要性の有無を自動的に判断してくれる。だからこそ、危険のないものには反応しなかった」
「なんだか、宇宙空間を飛んでいるときの感応頭脳みたいだな、その便利さは。だが、その可能性も薄いんじゃないかと思う」
「どうして?」
「黄金狼だ」
ここで予想外の名前が出たので、ジャスミンは思わずケリーの顔を見直した。
「黄金狼が、例の研究所をめちゃめちゃにしたときの話を覚えているか」
「……ああ、一応はな。あまり思い出して気分のいい話ではないが……」
二人にとって、リィは大切な友人である。
そのリィが辛酸を味あわされたあの事件、そしてその後、惑星セントラルを含む一つの星系が木っ端微塵になる寸前まで追い込まれた、あの事件。共に、二人にとって苦い思い出がたっぷりと詰まっている。
「あの事件の時、天使が言うには、黄金狼は200もの手と目を同時に使い、一人の死者を出すこともなく、研究所を跡形もなくぶっ壊した。そうだったよな」
「彼らの言う言葉をそのまま信じるなら、そういうことになるな」
ジャスミンらしい言い回しに、ケリーは頷いた。
「つまり、あの黄金狼でも、例えば特異能力そのものに『建物を跡形もなく壊せ。ただし人は殺すな』みたいな条件付けをすることは出来なかった。そういうことじゃないのか?」
「……確かに、もしもそういう便利な条件付けが出来るなら、200もの手と目を用意して細々建物を壊すよりも、遙かに作業は楽だな……」
「正真正銘のラー一族である黄金狼だってそうなんだ。なら、そんな便利な条件付けを、一応は人間のカテゴリに収まっているあの男が使いこなせるもんかね?俺は、その可能性は著しく低いと思う。あの男の防御方法は、とりあえず自分に向かって飛んでくるあらゆる物体の運動エネルギーの全てを受け止めるというだけの単純な仕組みで、それ以上のものは付加されていないんだ」
「あの男の持っているであろう能力と、一連の反応。それらを考え合わせると、こういうことか。あの男は、飛んでくるのが何の危険もない煙草の箱だということは認識していた。だが、まさかそれを投げつけられるなど予想はしていなかった。だから、咄嗟に特異能力を発動させそこねてしまった。そして、予想していない行動に出た大佐に対して呆気に取られ、その後笑い始めた……」
ケリーがにやりと笑った。
「もの凄く簡単にまとめるとな、あの男はびっくりしたんだよ。あの土壇場で、毒にも薬にもならない煙草の箱を、実戦経験豊富な大佐が自分に向けて投げつけたことに」
「だから、特異能力を使うことが出来なかった」
「もしもあの瞬間に投げつけたのが、例えば軍用ナイフだったら、絶対に特異能力を発動させていたはずだ」
それはそうだろう。ジャスミンも、その点には異論を持たなかった。
「もちろん、他にも可能性はあるぜ。だが、これは全く根拠の無い推論じゃあない。そして、そういう状況を作り出すことが出来れば、あの男を仕留めることは不可能じゃない。そうは思わないか」
「……試してみる価値はあるな。だが、相当危険な賭けだぞ、こいつは」
そんなことは、ケリーとて言われるまでもなく承知している。
だが。
「いいか、女王。あの男は、俺たちを馬鹿にしやがったんだ。その上、俺の義眼まで奪いやがった。怒っているのがあんただけだと思うか?」
ひんやりとした笑みを、ケリーは浮かべていた。
それは、例えば彼の過去を探ろうとする無謀者を見つけたときに浮かべる笑みであり、彼の過去を蹂躙した愚か者を消したときに浮かべる笑みでもあった。
要するに、この男の一番危険な笑みだ。
ジャスミンは戦慄を覚えた。そうだ。アーロン・レイノルズという男は、この上なく物騒な方法で、この男の逆鱗にやすりをかけたのだ。頬を、泥まみれの手で逆撫でしたのだ。
この男が、怒っていないはずがないのである。そしてその怒りは、たかだか誇りを汚された程度の自分の怒りとは天と地ほども開きがある、灼熱を通り越した怒りに違いないのだ。
「もしもあの男を倒せる可能性がゼロなら、俺は躊躇いなく逃げるぜ。だが、可能性が少しでもあるのに逃げたら、俺は俺である価値を失う。だから、俺はやる。あんたが例え逃げ出してもな」
ケリーの突き放したような言い方に、ジャスミンは怒ったりしなかった。
深く椅子に腰掛けたまま、挑発的な視線で夫を見上げ、それから優しく微笑んだ。
「それでこそわたしの夫だ……と言いたいところだが、海賊、先ほどのお前の台詞を、そっくりそのまま返そうか」
ケリーが、きょとんとした。
ジャスミンは、艶やかな唇を蠱惑的に歪めながら、
「ちょっとは落ち着けよ、海賊。落ち着いているときのお前は、決して、わたしを置いて自分一人で事を為すなどとは言わないはずだぞ」
ジャスミンは、人を食ったように、にやりと笑った。
ケリーは、ますます目を丸くして、それから大いに破顔した。
「そうだな、女王。俺はどうやら落ち着いていなかったらしい。じゃあ、言い直させてもらうぜ。俺はとても怒っている。だから、あの男には、是非この世からご退場願いたい。あんたにもその手伝いをして欲しいんだが、お願いできるかい?」
そう言って、ケリーはジャスミンに、礼儀正しく手を差し伸べた。まるで、王子様が異国の姫に、ダンスのパートナーを申し込む時のように。
ただし、これから行われるのは、ダンスのようにお行儀のいいものではないことを、当然のことながら二人は知っている。だからこそ、お互いが掛け替えのない最高の相棒となることも、長い経験から熟知していた。
ジャスミンは、全てを承知の上で、淡く微笑みながらその手を取り、ケリーの手の甲にキスを落とした。流れるように優雅なその動作が、あまりにも様になっていたため、ケリーは感嘆の吐息を吐き出してしまった。
「さぁ、何にせよ、まずは武器だ。この部屋の近くに、武器庫があるはずだぜ。どうせ、この城の兵隊さん達はほとんどいなくなっちまったんだから、そこからいいだけ頂戴させてもらうとしよう。それから、他にも用意出来るもんがあるなら、先に用意しておこうぜ」
「それはいいんだが、海賊よ。お前、あの男をどうやってぎょっとさせるつもりだ?そこが一番肝要なんじゃないのか。当然、その具体的な方策は練ってあるんだろうな?」
立ち上がったジャスミンの声に、ケリーは明後日の方向を向いた。
要するに、一番大事なところは何も考えていなかったらしい。
ジャスミンは、突然襲ってきた偏頭痛に、こめかみのあたりを揉みほぐすはめになった。
「海賊、お前というやつは……」
「ま、どうにかなるさ。あの男と実際に戦ってみないと分からないこともあるじゃねえか。どんぱちやってる間に、何か思いつくって、きっと」
「……今まで敵した特異能力者達も、そうやって退けてきたのか、お前は」
ケリーは嬉しそうに頷いた。
ジャスミンの偏頭痛が、更に痛みを増した。
「おいおい、女王よ。そうは言うがよ、アイデアを出したのは俺だぜ。なら、具体的な実効策を練るのを他の人間に任せたって、罰は当たらねえと思うんだが、どうだよ?」
要するに、ジャスミンに考えろと言うのである。
普段なら、口より先に拳で抗議したくなる状況だったが、ジャスミンはそうしなかった。殴りかかる気力をごっそり奪われてしまったというのもあるが、ジャスミン自身、ケリーの話を聞いたときから、一つのアイデアが浮かんでいたのである。
彼女自身、出来るならそのアイデアは採用したくない。しかし、それがあの男を『ぎょっとさせる』のにこの上なく有効であることを、ジャスミンの一番計算高い部分が認めていた。
そして、その配役を交換することは、どうしたって出来ないのである。それは、あの男の執着の大部分がケリーに向かっているからであり、もしも全てをケリーに打ち明けても配役の変更をケリー自身が強く拒絶することが目に見えていたからでもある。
第一、この作戦は、ケリーが何も知らないことが前提条件だ。そうでないと、お芝居が嘘くさくなり、あの男に通用しない可能性が出てきてしまう。
そういった、煩わしいような全ての思考をぎゅっと凝縮して、ジャスミンは結局、気乗りのしない様子で口を開いた。
「あまり期待はしないで欲しい。それと、先に謝っておく」
心の籠もらない調子でそう言った。
その言葉に対してケリーは、
「ま、ああは言ったが別にあんたが全ての責任を負う場面じゃねえさ。俺も必死に考えておくからよ、あんたも出来れば頭の片隅で考えておいて欲しい、その程度だぜ」
ああ、やっぱり分かっていないな、とジャスミンは思った。
ジャスミンが先ほど言いたかったのは、『穏便な方法は』あまり期待しないで欲しい。それと、『何か不測の事態があったときのために』先に謝っておく、という意味だったのに。
まぁ、自分は嘘は吐いていない。ただ、言葉が少し足りなかっただけなのだ。
これは悪いことではないな、と自分を誤魔化したジャスミンは、先を行くケリーの影で人の悪い含み笑いを漏らしていた。
◇
──あの時の言葉はそういう意味か!
一応は麻痺レベルに落とした、しかし普通の人間であれば神経に障害が残るほどに高出力の光線をまともに受けて、ケリーは指先すら動かすことが出来ずに崩れ落ちた。
そして、崩れ落ちながら全てを悟った。あの時のジャスミンの言葉の、隠された本当の意味を。
やりやがったのだ。いくら麻痺レベルに落としているとはいえ、あの女、自分の夫をついに撃ちやがった。これは、DVで連邦裁判所に訴えれば、100パーセント間違いなく勝てるだろう虐待だ。殺人未遂といっても過言ではない。
ああ、自分は結婚相手を間違えたのだろうかと、ケリーは真剣に悩んでしまった。
体から力が抜け、前倒しに倒れていく。意識は残っているし、外界の情報を知覚することも出来るのだが、見事なほどに体が動かない。脳とそれ以外のパーツを繋ぐ線が、カミソリで断ち切られたような印象だ。
どんどん地面が迫ってくる。思わず目を閉じかけたが、そんな反射運動ですらが起こらないほどに、体の麻痺は激しかった。これでは、文字通り死体と変わるところがない。
そして、地面と額が、派手な音を立てて衝突した。これは、明日の朝になれば間違いなくたんこぶになっている。その様子を思い浮かべて、ケリーは少し憂鬱になった。
──ちくしょう、覚えてやがれ女王!後できっちり、この落とし前はつけてもらうからな!
そう叫びたかったが、当然の如く舌も口も動かない。阿呆のように、開きっぱなしだ。
それだけではない。酸素を取りこむための、呼吸器の機能ですら失われている。心臓の音も、普段より大人しい気がする。
もしも撃たれたのが自分でなければ、本当に死んでいたかも知れないな、とケリーは冷静に思考した。そして、おそらく呼吸器の機能が戻るまで、1分弱だろうと当たりをつけた。その程度の無呼吸であれば、素潜りで10分近くは耐えられるケリーの心肺機能である。酸欠で気絶するということもないだろう。
そこまでの思考を一瞬で終えたケリーの耳に、素っ頓狂な声が飛び込んできた。
「ケリー!」
それが妻の声でないことを、ケリーは神に罵りたくなった。
自分で撃っておいて自分で泣き叫んでくれれば、まだあの女にも可愛げがあるというものだが。
「ケリー!ケリー!ケリー!」
それにしたって、自分の死を一番嘆き悲しんでくれるのが、自分が一番殺したい人間だというのも、何か間違えているとしか思えない。
──ひでえ冗談だ。
ケリーは、いつもの決まり文句を口にしようとしたが、やはり口は痺れていて、少しだって動かなかった。
やがて、ケリーの体は誰かに抱きかかえられた。ケリー自身は触覚がまだまだ回復していないので、どうやらそうらしいという程度でしか分からなかったが。
俯せの体が仰向けにひっくり返されたと思ったら、突然、血塗れの頭巾を被った、異様な風体の老人が視界いっぱいに映り込んで、今度はケリーの方がぎょっとしてしまった。この時だけは、体全体が痺れて動かないことを、ケリーは感謝した。もしも少しだって体が動いていたなら、この男を全力で突き飛ばすだろう自覚がケリーにはあったからだ。そんなことになったら、ここまで酷い目にあった意味が無くなってしまう。
「駄目だ!ケリー、死なないで!死なないで下さい!あなたに死なれたら、私はどうやって、これからの人生を歩いて行けばいいのですか!ケリー、ケリー、ケリーぃぃぃっ!」
男の、死んだ魚のような瞳から溢れだした涙が、ぽたぽたと降りかかってくる。
ケリーは内心で悲鳴を上げた。その涙が、今は全く分からないが、ひょっとしたら開きっぱなしの口の中に垂れ落ちている可能性だってあるのだ。
ケリーは、本当に泣き叫びたかった。
──さっきの言葉は取り消す!全部許す!だから頼む、助けてくれ、女王!
だが、ジャスミンは無情だった。わたしの夫に汚い手で触るなとか、そういうことは絶対に言わない。
このチャンスを見逃さず、慎重な手つきで照準を合わせていることだろう。そして、照準が合った一発は、今度こそ殺害レベルの光線を、この男の眉間に叩き込むのだ。
「ケリー、お願いだ、死なないで下さい!頼むから、生き返ってください、ケリーぃぃぃっ!」
顔を、ぐいと起こされた。
視界が水平になる。
そして、その視界の中央には、まるで本物の女王のような威厳と迫力を備えたジャスミンが、氷の表情と意思でもって、銃を構えていた。
「ぎょっとしたな、大統領。ならば勝ちだ、わたし達のな」
ジャスミンの言葉に、しかし自分を抱える男の腕には一切の力が込められていないのを、ケリーは感じ取った。
この男は、どれほど桁外れの力を持っていたとしても、所詮は一般人である。例えば厳しい訓練を積んだ軍人などとは、非常時における咄嗟の反応速度に雲泥の差がある。それが、この男の命運を分けた。
まだ、自分の置かれた危機的状況に思考が追いついていないのだ。それほどまでに、自分の死は、この男に衝撃を与えたのだ。
これで勝負は決まった。ケリーはそう思った。
その視界の端っこ映り込んだ少女が、必死の形相でこちらへと走り寄ってくることに気が付くまでは。