懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第六十三話:神々の黄昏

 インユェが一抱えの薪を持って洞穴に戻ったとき、そこにはいたのは一人の少女だけだった。

 

「あれ、ウォル、姉貴はどうした?」

 

 洞穴の壁に背を預けてしゃがみ込んだ少女が、青ざめた顔を持ち上げて、力無く微笑んだ。

 

「……ああ、インユェか。済まなかったな、俺がこんな調子でなければ、ゆっくりと休ませてやれたのに……」

「そんなことはどうでもいいけどよ……」

「メイフゥどのは、お前と入れ替わりで外に出て行かれた。まだ仕事が残っているとか何とか……」

「ふぅん、そっか……」

 

 痛ましい気持ちが顔に出ないよう、インユェは無表情を装った。それほどに、ウォルの様子は弱々しかった。

 いつもは溌剌として耳に心地よい声が、じっとりとした湿り気を含んでいる。太陽のように朗らかで烈しい視線にも、少しの力も込められていない。総身から力が抜け、まるで年相応の少女のような有様だ。

 どうやら、体調不良は相当深刻なようだ。

 然り、少女が目を見開き、口に手を当て小さく嘔吐いた。

 インユェは薪を放り投げて、ウォルに駆け寄った。

 

「大丈夫か、ウォル!」

 

 何とか吐き気を堪えたウォルが、荒々しく息を吐いていた。

 

「……大丈夫か大丈夫でないかを言うならば、大丈夫ではないのだろうな。だが、大騒ぎをするほどのことではない。何せ、これから一月に一度は付き合わなければならない苦しみだ。一々血相を変えていては、それこそ身が持たない」

「ひ、一月に一回って、そりゃあ……」

 

 インユェは思わず口ごもった。それが、男にとって易々と触れて良い話題ではないことを、年若くして宇宙に飛び出し、学校に通うこともなく、それ故同年代の異性との交流のほとんどなかった彼でも、弁えてはいた。

 だが、この場合、さばさばとしていたのは少女の方であった。

 

「これで、ようやくこの体も子を産めるようになったということだ」

 

 脂汗の滲んだ額に前髪を貼り付けながら、しかし母のように優しい顔で下腹を撫でさすっていた。

 インユェは、ごくりと唾を嚥下した。目の前の存在が、何か、もの凄く自分からは遠く離れた、尊く冒しがたい存在に見えて、気圧されてしまったのだ。

 それでも必死の少年は、ゆっくり、じりじりと少女に近づき、人一人分のスペースを空けて、その隣に腰掛けた。そこが、少年が決死の勇気を振り絞った限界点だった。

 

「ようやくって……初めてだったのかよ」

 

 隣で、こくりと頷いた気配がする。

 

「その……大丈夫なのか、本当に?」

 

 インユェは、先ほどから大丈夫かを繰り返していた。男にとっては理解出来ない苦しみである。具体的にどう対処すればいいのか、対処して欲しいと思っているのか、想像もつかない。

 それでもとにかく何か、この少女のために何か出来ることはないかと、インユェは必死だっただけである。

 

「何か……何か 俺に出来ることがあったら言ってくれよ。こんな状況だから何が出来るわけでもないけどさ……」

「ああ、済まんな、インユェ。その気持ちだけで十分だ」

 

 ウォルが、ふらりと立ち上がった。

 

「……どこへ、行くんだよ?」

「……気分が悪い……胸がむかむかする……少し吐いてくるから……ここにいてくれ」

 

 インユェは立ち上がりかけたが、これから吐きに行くと言っている少女に同行するのはあまりにデリカシーがないかと思い、浮かしかけた腰を落ち着けた。

 だがそれも、ふらふらと、生まれたての子鹿よりも頼りない少女の足取りを見るまでである。ウォルが、ふわりと体を漂わせて、洞穴の壁に寄りかかったところが、我慢の限界であった。

 

「ああ、もう!」

 

 インユェは勢いよく立ち上がり、壁にもたれたまま動けないウォルを、両手で抱え上げた。

 少女は、首と膝の裏を抱え上げられて、幼子のように運ばれて、しかし如何な抵抗をしなかった。身動ぎ一つ出来ず、抗議の声を上げることすら出来なかった。ただ、インユェの腕の中で、苦しげな呼吸を繰り返していた。

 ぼんやりと焦点の合わない瞳で少年を見上げ、可憐な唇を震わすように、

 

「……すまん……めいわくを……かける……」

 

 辛そうに眉を寄せて、蚊の鳴くような声でそう言った。

 インユェは、怒りにも似た表情で、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまった少女を見つめ、

 

「いいんだよ、お前は俺のドレイなんだからな!俺の所有物なんだからな!こんなところでくたばられたら、後で俺が迷惑するじゃねえか!」

 

 顔を真っ赤にしながら、照れ隠しの大声でそう言った。

 それに、少女を助けることは、少年にとって少しも迷惑ではなかった。今だって、両手で支える少女の体重が、今まで担ぎ上げたどんな荷物よりも軽く思えた。両手から伝わる少女の体温が、どこまでも愛おしく思えた。柔らかい少女の感触に、いつまでも触れていたいと思っていた。

 要するに、少年は大好きな少女とふれあえて、幸せだったということだ。

 軽快な足取りで洞穴から出て、近くの草むらに少女を下ろす。すると、今までさんざん我慢していたからだろうか、少女が四つん這いに蹲り、盛大に嘔吐き始めた。

 

「吐いちまえ、全部。吐けるだけ吐いたら、楽になるから……」

 

 少女は細い首をこくりとさせ、吐いた。

 少量の、胃液だけの反吐が地面に溢れる。それでも、少女の細い胴体は何度も痙攣し、胃の内容物の全てを吐き出そうともがいていた。

 インユェは、激しく蠕動する少女の背を、優しくさすってやった。今の彼に出来ることは、それくらいしかなかった。

 

「ごほ……ごほ……」

 

 ようやく吐く物が無くなったのか、ウォルは小さな咳を繰り返した。

 インユェは小走りで滝のほとりまで急ぎ、その滝壺から清浄な水を汲んできた。それを、なおも苦しげに息を継いでいたウォルに手渡してやる。

 

「絶対に飲むなよ。この星の水は、大量に飲めば毒になるんだ。だから、今は口をゆすぐだけで我慢してくれ」

 

 ウォルは頷き、コップに汲まれた水で口をゆすいだ。胃液の逆流した喉は焼けるように痛んだが、口の中を清めただけでもだいぶ気分は楽になった。

 

「ありがとう……少し、楽になった……」

 

 ウォルの苦しみの大半は、実のところは肉体的な異常よりもむしろ、女性として成熟していく身体と前世のままの形を残した魂との乖離にこそ原因があったのだが、今の彼女に知る由もない。

 一息ついた様子の少女を、インユェは再び抱え上げた。自分の吐瀉物が近くにあるこの場所では、いくら肝の大きいウォルであっても満足に休めないだろうと思ったのだ。

 それに、さっき水を汲みに行った時に、良い場所を見つけた。

 インユェは両手で少女を抱えたまま、緩やかな坂道を下りていった。山の斜面は、そろそろ赤く染まりつつある日の光に照らされて、ぽかぽかと暖かかった。草いきれの濃密な香りと、新鮮な空気。こんな状況でなければどれほど心が安らいだだろう。

 しばらく山道を下りると、突然に道が開けた。遠くから響く水音は、件の滝から聞こえてくるのだろう。存分に水分を蓄えた涼気が、風に乗って運ばれてきた。

 そこには、草原があった。

 山間である。当然、草が波打つような広さではない。猫の額ほどの広さの土地に、可愛らしい花をつけた背の低い草がたくさん生えている。白い花弁の中央に黄色い雌蘂を生やしたその花々が、風の吹く方角に向けて一斉にお辞儀をした。それは、なんとも心休まる光景だった。

 

「ああ、良い香りだな……」

 

 インユェの腕に抱かれたウォルが、夢見るように眼を細めた。心なしか、先ほどに比べれば顔色も良くなっている。やはり、一度胃の中を空にしてしまったのがよかったのかも知れない。

 インユェは、草の上にそっと少女を下ろした。そして、精一杯の勇気を振り絞って、少女の体温が感じられるほど近くの隣に、腰を下ろした。

 どきどきと、心臓が早鐘を打つ。その鼓動が少女に伝わり、自分の内心がばれてしまうのではないかと、少年は気が気ではなかった。

 そんな少年の内心には気が付かないふうで、少女は、体を仰向けに倒して草原に寝そべってしまった。手足をうんと伸ばし、体を大の字にして、さも気持ちよさそうに。

 

「こうしていると、故郷の森を思い出す……」

「故郷って?」

「スーシャという。深い深い森だった。人の住む場所のほとんどない、森に囲まれた土地だった……」

 

 ウォルの声は、夢を見るようだった。細められた瞼の奥の視線は、もう二度と戻らない遠い過去を眺めている。それは、年若い少女に許された表情ではなかった。

 

「そこは、こんなに綺麗な場所なのか?」

 

 インユェが訊いた。

 ウォルは、寝そべったままに頷いた。

 

「この森も美しいが、スーシャの森の鮮烈な空気は格別だった。どこまでも深い碧が重なり、漆黒にも見える森の奥から、精霊の息吹のような風がそよいでくる。冬は深い雪に閉ざされるが、その分雪解けの春の美しさ、新しく芽吹いた命の凄烈さ、何度思い出しても飽きることがない……」

 

 うっとりとした声だ。きっと、宙を眺めたその視線の先には、少女の思い出の中で最も美しい情景が映し出されているのだろう。

 インユェは、少し寂しくなってしまった。少女の、一番尊い情景の中に、自分の姿がないことに嫉妬したのだ。

 

「ウォル。もしも、もしもそこが、お前にとって大切な場所なら……」

 

 ウォルが、ぼんやりとした視線で少年を眺めた。柔らかく凪いだ瞳が、慈愛の笑みを浮かべていた。風になぶられる烏黒の髪が、柔らかく波打った。

 その、あまりに完成された少女の美しさを見て、少年の喉は、用意したはずの言葉を、ごくりと飲み下してしまった。銀髪の少年は、もう、一言だってしゃべれなくなってしまっていた。

 ウォルはくすりと笑い、口ごもってしまった少年を優しく促してやった。

 

「どうした。スーシャが俺にとって大切な場所なら、なんだ?」

「……俺も、一度、そこに行ってみたいと思うんだけど、連れて行ってくれるかな?」

「……別に、行って面白い場所ではない。格別目を楽しませられるものがあるわけでもない。そんな場所に行って、どうする?」

 

 少年は、ぷいと目を逸らした。色の白い肌が、ほのかに赤く色づいていた。

 

「別に、何がしたいわけでもねえよ」

「では、どうして行きたいと思うのだ?」

「俺は、ただ、その場所に行って……その……お前と一緒に、こういうふうにしたいと思っただけなんだよ」

 

 最後の方は、ぼそぼそと、籠もるような調子であった。少年は、耳まで真っ赤になっていた。

 ウォルは、微笑んでいた。インユェの、年若いゆえの臆病さと、汚れを知らないゆえの純情さが、あまりに微笑ましかった。

 

「そうだな、スーシャの森で、こうしてお前といられたら、それはとても楽しいことなのだろうな……」

 

 インユェは、弾かれたようにウォルの方に向き直った。

 それは、自分を、隣に置くに相応しい男として認めてくれたということだろうか。

 少年の熱せられた想いは、今にも少女に覆い被さらんばかりだった。

 

「だが、残念ながら、お前をスーシャに連れて行くことは出来ないのだ。許してくれ……」

「そ、それは、何でだよ?」

 

 絶望の滲む声で、インユェが訊いた。

 ウォルは、苦笑を浮かべながら、

 

「これは、意地悪で言っているのではないのだ。ただ、もう、俺を含めて誰も、その場所には行けないというだけのこと……」

「誰も行けないって……そんなに遠い場所なのかよ。だったら大丈夫だぜ!これでも、俺は自前の宇宙船を持ってるんだ!どんなに遠い場所だって、お前を連れて行ってやるさ!」

 

 その時の少女の微笑みを、何と名付けることが出来るだろう。

 単純な微笑みと呼ぶにはほろ苦く、寂しげで、あまりに淡い。突けば、その表情が砂細工のように脆く崩れて、その下から泣き顔が姿を現してしまうような、切羽詰まった笑みだった。

 インユェは、少女が泣いているのだと思った。だが、薄く滲んだ少女の瞳から、雫がこぼれ落ちることはなかった。

 そして、ウォルは目を閉じた。目を閉じることで、首を横に振る代わりとした。

 

「もしも、もしもお前の船が、この宇宙の隅々までを飛び回れるのだとしても、スーシャの森には、どうしたって辿り着けない」

「……どういう意味だよ、そりゃ」

「スーシャは、この宇宙のどこにもない。今は、ただ、俺の瞼の内側にしか存在しないからだ」

 

 インユェは、息を飲んだ。

 

「それは……もう、ずっと昔に消えて無くなっちまったってことか?」

 

 ままあることだ、故郷が無くなることなど。

 ダムの底に沈む。戦乱で焼かれる。超新星爆発に巻き込まれて吹き飛んでしまった星もあると聞く。

 気遣わしげなインユェの声に、ウォルは目を閉じたままだった。

 

「違う。この世界には、一度も存在しなかった場所だからだ」

「この世界に、一度も存在しなかったって……」

「前も少し話しただろう。俺が、この世界の住人ではないということを」

 

 インユェは、一昨日の晩、崩れかけた廃屋で、この少女と二人きりだったことを思い出した。そして、その時にどんな会話を交わしたのかを。

 この、見目麗しい少女が、実は異世界の出身であり、そしてその世界で一番大きな国──確か、デルフィニアといっただろうか──の王であったこと。そして、彼女ではなく、彼だったこと。

 あの時は、銃創の痛みと恐怖に混乱した少女の、現実逃避に作り出した物語かと思っていた。だが、今目の前のいる少女が、そんな物語に縋り付かなければならないほどに錯乱しているとは思えない。

 では、自分の誘いを躱すために、口から出任せを言っているのだろうか。違う。この少女が、そんな不誠実な方法で、自分を裏切るはずがない。それだけは絶対にないと言い切れる。

 ならば、可能性は一つだけだ。

 この少女は、本当に、この世界の住人ではないのだ。少なくとも、彼女自身はそう信じている。心の底から、確信している。

 つまり、今目の前で、幸せそうに寝転んでいるの少女に宿っているのは、自分よりも遙かに長い時間を生きた老人だということだ。そして、自分と同じ性別で、一度の生を全うしたということだ。

 インユェは言葉を失った。何と言えばいいのか。何を言うべきなのか。彼の中に、相応しい言葉は、一つだって残っていなかった。

 ただ一つ、今の彼に縋り付けるものがあるとすれば。

 

「インユェ……?」

 

 目を閉じたウォル、その瞼の上を、黒々しい影が覆っていた。

 ウォルは、突然に遮られた太陽を訝しんで、薄く瞼を開けた。

 そこには、力一杯に真剣な表情を浮かべた、幼い少年の顔があった。銀色の、少年にしては少し長めの髪の毛が重力に従ってウォルの頬に触れ、さらさらと風にそよいでいた。

 その、林檎よりも赤く色づいた少年の頬が、少しずつ近づいてくるのを、少女は黙って見守っていた。

 

「……目、閉じてくれよ」

 

 インユェが、気色ばんだような顔で、言った。

 ウォルは、唇を緩く曲げて微笑んだ。そういえば最近、似たようなことを言われた気がする。それも、目の前の少年と同じ頃の、金色の髪の少年に。

 

「いいのか?何度も言うが、俺は女ではない。この体が少女のそれであっても、俺は自分を少女だと思ったことは一度もないのだぞ?」

「お前の前世が男だったから、何だって言うんだよ。だったら、俺の前世は女だったんだ。そうに決まってる。ほら、これで何の問題もねぇじゃねえか」

 

 ウォルは目を丸くしてしまった。なるほど、詭弁には違いないのだろうが、妙な説得力がある。それに、もしも前世というものが本当に存在するのならば、インユェの言い分もあながち的外れではない。二分の一の確率で本当のことなのだ。

 では、何の問題もないのだろうか。いやいや、それは違うだろう。少なくとも、自分の意識の中では大問題だ。

 だが、今のウォルにはどうでもよかった。相変わらず、下腹から広がるずっしりとした怠さが体の芯を痺れさせているのだし、森の奥から拭いてくる風の馥郁たる香りはどこまでも蠱惑的で、頭の奥を痺れさせる。降り注ぐ太陽は暖かで、瞼を引きずり下ろそうとしてくる。

 だから、ウォルは目を閉じた。少年を受け入れようとしたわけではない。ただ、全てがどうでもいいと思えるほどに、この空間が懐かしく、心地よかっただけのこと。

 

「ウォル……」

 

 自分の下に組み敷かれ、静かに目を閉じた少女に向けて、少年は呟いた。

 額にかかった前髪を、震える指先で掻き分けてやる。艶やかな髪は、指先に何とも言えない心地よさを残して、額の脇をさらりと滑り落ちた。

 鼻がぶつからないよう、少し顔をずらす。角度は慎重に決めなければならない。何故なら、インユェにとって、肉親以外の異性と唇を交わすのは、生まれて初めてのことだったのだ。

 心臓が、口から飛び出そうになる。視界が、鼓動のたびにぐらぐらと揺れている気がする。なのに、少女の真っ赤に色づいた唇だけが、どうしても視界の中心に収まってほんの少しも動いてくれない。

 油断をすると、呼吸が乱れそうになる。心臓の拍動に合わせて、はぁはぁと情けなく喘ぎそうな気がする。そうなっては、まるで女に襲いかかる卑劣漢だ。それに、第一格好悪すぎる。

 インユェは、正しく必死だった。おそらく、意中の女性を前にした少年の多くがそうであるように。

 時間にして、おそらく数秒の逡巡の末に、インユェは腹をくくった。その勇気の総量は、鬨の声を上げる敵兵に立ち向かう、初陣の若武者と何ら変わるところがなかった。

 意を決した少年が、その唇を少女のそれの上に落とそうとした、その時。

 少女が、うっすらと瞼を上げた。

 

「……どうしたの、そんなに私が怖い?それとも、土壇場になって怖じ気づいちゃったのかしら?」

 

 くすくすと笑いながら、少女がからかうように言った。

 インユェの顔が、真っ赤に染まった。馬鹿にするなと思った。

 その声に背中を押されるようにして、少年は深く体を沈めた。

 唇の先に、暖かい何かが触れた。それが果たして何なのか、目を固く閉じた少年には分からなかった。だが、唇の先でしか触れていないその何かは、砂糖菓子よりもずっと甘かった。

 ゆっくりと体を持ち上げる。そして、おそるおそると目を開けた。

 少女は、微笑んでいた。妖艶に、まるでその行為に慣れ親しんでいるように。

 

「ふふ、いつまで経っても、あなたのキスは上手くないわ。まるで、女性を知らない男の子みたい……」

 

 その少女は、少年の知る少女では、なかった。

 同じ顔、同じ声、同じ体なのに、何一つ同じではない。

 何か、目には見えない何かが、決定的に違ってしまっている。

 

「う、ウォル……?」

「ウォル?それって誰のこと?女の子の名前なら許せないし、男の子のことだったとして、恋人との最中に他人の名前を口にするのは、失礼だと思わない?」

 

 少女の手が伸ばされて、自分の頬にそっと触れる。その、しっとりと心地よい感触が、何故だか酷く懐かしい。

 そうだ。これは、初めてではない。この少女の上に自分がのしかかるのは、初めてのことではない。

 だが、この少女は誰だ。今、蕩けそうなほど甘やかな視線で自分を見上げる、この少女は、いったい誰だ。自分は今、いったい誰と唇を交わしたのだ。

 インユェの背を、冷たいものが走り抜けた。触れただけで生命を抜き取る魔女の手が、背筋を下から上までなぞったような気がした。

 なのに、胸の中が、暖かいもので満たされてもいた。今まで必死になって探していた、この世界で一番大切なものが、自分の掌の中に戻ったのだ。もう二度と、君の手を放さない。例え、あの、見るもおぞましい生き物が相手であっても、絶対に。

 ああ、そうだ。今、自分の下にいるのは、この世界で、一番、愛しい人だった。

 名前も、その肌の柔らかさも、知っている。どこに触れればどんな声で啼いてくれるかも知っている。その体の内と外に、自分の指と舌の触れていない場所は存在しない。

 それは、彼女にとっての自分もそう。彼女の指と舌は、この体の全てを知り尽くしている。

 知っているのだ。この体が、この少女の全てを。

 だから、呼ぼう。その名前を、出来る限りの優しい気持ちを込めて。

 

「──カマル。愛しているよ。僕は、君のことを、心の底から愛している……」

 

 少女が、微笑んだ。花の蕾が綻ぶように、淡く微笑んだ。

 

「わたしもよ。わたしも、心からあなたを愛しているわ、シャムス……」

 

 少女の、銀色の髪に触れる。紫色の瞳を隠した瞼に、優しい口づけを落とす。

 少女の髪が、僕の金色の髪に触れた。薄く開いた彼女の瞳に、僕の緑色の瞳が映っていた。

 それは、なんと完成された情景だったのだろう。ここには、何も要らない。もう、全てが煩わしく、全てが余分だった。自分と、この少女以外は。

 この世界は、こんなにも美しく、全てを兼ね備えている──。

 

「──インユェ、おい、インユェ!」

 

 はっと、少年は目を開けた。

 すると、自分を心配そうに見つめる、黒髪の少女がいた。いつの間にか自分の正面に体を起こして、自分の顔を覗き込んでいる。

 インユェは、しばらくの間、その名前を思い出すことが出来なかった。確か、この少女の名前は……何と言ったのだろうか。

 そもそも、自分が組み敷いていたのは、黒髪の少女では、なかったのではないか。太陽を銀色に跳ね返す、艶やかな髪──。

 銀色の髪。そうだ、まるで今の自分のような、銀色の髪と、紫色の瞳。

 あれは、いったい誰だったんだ。あんな女は、見たことがない。初めて見る──。

 

 違う。

 

 そうだ。思い出した。今まで、何度も何度も、顔を合わせたことがある。それも、全て夢の中だ。夢の中で、自分はあの女と、何度も交わった。夢の中の自分にとって、あの女は、世界で一番大切な、想い人だった。

 ちょうど、目の前にいる少女が、そうであるように。

 なら、自分にとって、この少女が一番大切ではないのだろうか。もっと大切な女性が、他にいるということか。

 違う。俺は、この少女を、一番愛している。俺が、この少女のことを一番好きなんだ。あんな女のことなんて、知ったこっちゃない。

 だから、誰にも渡さない。そして、この少女が自分のものであることを、今、証明してやる。

 だから──。

 少年の野生に、情欲の火が灯りかけた、その時。

 ぱしん、と。頬が、高い音を立てて、鳴った。

 軽い衝撃と、目の覚めるような痛み。あれ、俺はいったい、何をしていたのか。何を、しようとしていたのか。

 

「目が、覚めたか」

 

 ウォルが、いた。青ざめて血の気の薄い顔で、それでも真剣な顔で、こちらを見ている。

 そのウォルに、俺は今、いったい何をしようとしたのか。生まれて初めての苦しみで歩くことも出来ない少女に対して、俺は、何をしようとしたのか。

 インユェは、先ほどまで胸中を燃やしていた欲望の火を、恐れた。そのような火を燃やしてしまった自分に、嫌悪を抱いた。

 許しを乞う視線で、少女を見た。

 そして、少女は、笑ってくれた。全てを理解しているように、優しく頷いて、微笑んでくれた。

 インユェは、もう少しで泣き出しそうになった。

 

「す、すまねぇ、ウォル、俺、もう少しで、あの糞野郎と同じ最低な人間になっちまうところだった……」

「わかっている。男とは、そういう部分のある生き物だということを、俺は知っている。なにせ、俺だって70年間は男という生き物だったのだから」

 

 ウォルの細い指が、涙の浮いた少年のまなじりを拭った。

 

「まぁ、目を開けてみれば、明後日の方向をぼんやりと見つめながら、ぶつぶつと訳の分からないことを言っているのには少し驚かされたが……」

「はぁ?なんだよ、そりゃあ?」

 

 インユェが、素っ頓狂な声を上げた。

 

「覚えていないのか?」

「覚えていないのかって……お前こそ、意味不明なことを言ってたじゃねえか。俺がキスしてやったら、自分の名前を忘れたようなことを……」

 

 自分で口にして、インユェは、あらためて目の前の少女と口づけを交わしたことを思い出した。その柔らかで、豊潤な唇の感触も。

 少年の胸の内に、たまらない恥ずかしさと、叫び出したくなるような喜びが溢れた。誰もいないなら、歓喜の雄叫びをあげたいくらいだった。

 だが、

 

「キスをした?誰と、誰が?」

 

 目の前の少女は、眉を寄せながら、不審を体現した顔で訊いてくるのだ。

 インユェは、思わず呆気に取られてしまった。

 

「誰と誰がって……この場にいるのは、俺とお前だけじゃねえか。それ以外の誰と、俺がキスするっていうんだよ?」

「だが、俺は誰とも口づけを交わしていないぞ。では、お前は誰と口づけしたのだ?」

「何言ってんだよ、ウォル!俺はさっき、お前と……!」

「いや、だからだな。順を追って説明するぞ?まず、別に口づけくらいなら構わんかと思い、俺は目を閉じた。そしたら突然、お前が夢に取り憑かれたような様子になってしまった。これはいかんと思い、強く肩を揺さぶっても一向に戻ってくる気配がない。しばらくしてようやく正気になったかと思えば、いきなり、女に飢えた男のような視線で俺を見る。仕方なく、平手打ちを喰らわせた次第だ」

 

 ウォルの説明は事務的で、非常に分かりやすかった。そして、少年にとってはあまりに非情な事実でもあった。

 要するに、あの甘やかな感触は、焚き火よりも暖かな体温は、夢の世界の産物だったということか。未だ、自分は肉親以外の異性と、唇を交わしたことはないということか。

 がくんと顎を外したように口を開けて、インユェは、ウォルを見た。ウォルは、さもお気の毒様といった調子で、インユェの細い肩に手を乗せた。

 

「残念だったな、インユェ。まぁ、人生は長い。これからもチャンスが無いわけではないから、頑張ると良いぞ」

 

 まるで当事者ではないように言った。

 

「ちょ、ちょっと待て、ウォル!もう一回だ!もう一回、チャンスをくれ!」

 

 ウォルは、気の毒そうな、それとも悪戯げな表情で、首を横に振った。

 

「こういうものの賞味期限は短いぞ。残念ながら、俺もしらふで易々と男に唇を許す趣味は、今のところはない。諦めてくれ」

「そ、そんな……」

 

 インユェは、がっくりと項垂れて、地面に手をついてしまった。きっと、その胸の内には無限の後悔が渦巻いているに違いない。

 そんな少年に、柔らかい微笑みを一つ向けてやってから、ウォルは立ち上がった。

 

「それに、どうやらそんな甘い会話をしている暇はなさそうだ」

「え……?」

「こそこそと人の情事を覗き見るのが貴様らの作法か!見るならば、堂々と正面から見ていったらどうだ!」

 

 体調不良を露程も感じさせない、朗々たる声でウォルは言った。

 声の先は、森の奥、昼間でさえ太陽の届かないような、暗い茂みの中。

 そこから、ごそりと、何者かが立ち上がった。一人ではない。複数の気配だ。

 その中の一人が、ゆっくりと前に出た。草むらを踏み分ける音が、奇妙なほどにはっきりと、インユェの聴覚に届いた。

 

「いやいや、覗き見るなど、そんなつもりはありませんでしたよ。ただ、あまりにも良いムードだったので、この邪魔をしては一生物の恨みを買うは必定と、怯え居竦んでいただけでして……」

「よく動く舌だな。貴様も、母親からは口から先に生まれた類の人間か」

「ワタクシも、とは?」

 

 姿を現したのは、陽光に映えるブラウンの髪を綺麗に撫でつけた、少壮の男だった。

 体躯は立派で、顔立ちも整っている。風体の良い、まるきり仕事の出来るビジネスマンというふうだったが、そのスーツ姿が、大自然にはどうしても相応しくない。

 そして、にやにやと粘ついた、気持ちの悪い笑み。その男を好人物だと見るには、どうしてもその笑みが邪魔をする。

 ウォルは、刃物のような視線で男を一撫でして、

 

「この世界の、政治という職業に絡んだほとんどの人間がそうだな。驚くほどに弁舌は立つが、中身がそれに追いついていない。突けば割れる風船人形と同じだ」

「これは耳に痛いお言葉。しかし、どうしてワタクシが、そのような職業で糊口をしのぐ人間だとお分かりに?」

「戦場に、そのようにたわけた格好で立ち入り、そして兵士を従える類の人間の職業など、言わずもがなだろうが」

 

 男は、嬉しげに頷いた。

 

「全くもって仰るとおり。ワタクシ、名前をアイザック・テルミンと申しまして、偉大なるアーロン・レイノルズの主席秘書官を務めております。どうぞ、以後お見知りおきのほどを……」

 

 そう言って、テルミンは深く腰を折った。

 その彼の背後に、幾人もの兵士がいた。油断無く銃を構え、迷彩服に身を包んだ、兵士達。

 だが、その悉くが、まだあどけない少年少女だった。歳の頃は、インユェと同じか、少し幼いくらいの子供がほとんどである。

 インユェがウォルの手をぐいと引き、自分の体の影に隠した。

 

「ああ、彼らの紹介がまだでしたね。ここにいるのは、我がヴェロニカ共和国の誇る特殊軍の精鋭達。まだまだ年若いですが、こと戦闘においては、共和宇宙軍の猛者たちを相手にして一歩もひけを取らないと自負している次第です」

 

 ウォルとインユェは、奇異の視線を寄越さなかった。

 ウォルにとっては、この世界ではまだまだ子供と称される年の少年少女が戦場に立っても、それが珍しいこととは思えない。彼女がもといた世界では、15歳で騎士として叙勲を受けた少年が、戦場で殺し合いをすることなど何の変哲もないことだったのだから。

 そもそも、ウォルもインユェも、この子供達を見るのは初めてではない。一昨日の晩、二人の籠もっていた隠れ家を襲撃し、ウォルを攫っていったのは、この子供達なのだ。

 

「で、その特殊軍の兵士さんを連れた秘書官様が、俺たちに何の要件だよ。俺たちは、これでも忙しいんだぜ。なにせ、今からくんずほぐれずの、恋人同士の営みをするつもりだったんだからな」

 

 インユェがウォルを庇いながら、辛うじて不敵と呼べる表情で言った。

 今、自分達がどう頑張っても、目の前で銃を突きつけた少年達には勝てないだろう。少しでも不穏な動きを見せれば、その瞬間に蜂の巣だ。

 だが、インユェには希望があった。この森には、自分の姉がいる。地上最強の生き物とインユェが確信する、少女だ。メイフゥならば、この程度の数の兵士など、鼻歌交じりに片付けてくれるはずである。

 ならば、自分の為すべき事は、彼女が駆けつけるまでの時間稼ぎ。出来るだけ軽口を叩き、出来るだけ相手にしゃべらせて、時間を使わなければ。

 

「なるほど、それは悪いことをしました。折角意中の女性と一つになれる場面だったというのに、このように無粋な真似をしてしまって申し訳ありません」

「おう、よっく分かってるじゃねえか。だったら、さっさと尻尾を巻いて逃げて行けよ。俺は心が広いからさ、追わないでいてやるよ」

「そうですねぇ。あなたが、あなたのお姉さんと同じくらいにお強いんだとしたら、ワタクシ達も尻尾を巻いて逃げた方が賢明なのかも知れませんねぇ」

 

 テルミンは、やはりくつくつと、嫌らしい表情のまま笑った。

 

「確かに、彼女は強い。いえ、強かった。そして美しかった。もう、殺してしまうのが残念なくらいに」

「殺した、だと?」

「ええ。もう、あなたのお姉さん、あの、金色の髪の少女は、この世の住人ではありません」

 

 その言葉を聞いて、インユェは怒ったりしなかった。

 鼻で一つ笑い、馬鹿にしたような表情で、目の前のテルミンを睨み付けた。

 

「冗談も休み休み言え、このもやし野郎。誰が誰を殺しただと?てめえらみたいな三下が何百人束になろうが、俺の姉貴に勝てるわけがねえんだよ!」

 

 凄みを込めたインユェの言葉に、テルミンはにやにや笑いを浮かべ続けた。

 

「ええ、ええ、信じたくないのは分かりますが……あなたのお姉さんは、ワタクシ達が先ほど、確かに殺しました。そして、城に乗り込んだジャスミン・クーア女史は、夫であるケリー・クーア氏とともに捕縛され、我らの手の内です。つまり、この戦いは、君たちの敗北で既に終わっているのです。この上は、無駄な抵抗など止めて、我らに恭順するのが賢い選択だと思いますよ。いくらお姉さんが愛しいとはいえ、こんなにも早く後を追う必要はないでしょう?」

 

 そう言ったテルミンは、懐から一房の髪の毛を取り出した。

 陽光に烟るような、金色の長い髪の毛。インユェは、その髪の毛の持ち主が誰かを、悲しいほどに知っていた。

 

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