懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第六十四話:落日

「三十五人。これで終わりかい、ダイアナの姉御」

 

 メイフゥは、気を失った兵士の首から、太い腕を放した。力無い兵士の体は支えを失って、どさりと倒れた。

 

『ええ、これで城から出撃した兵隊さんは、全て片付けられたはずよ。よく頑張ったわね、メイフゥちゃん』

 

 メイフゥは、最後の仕事とばかりに気合いを入れて、憐れな兵士の手足を縛る作業に取りかかった。別に体力を使う仕事など一つとしてなかったのだが、それにしても疲れた。体を思い切り動かして大暴れするのとはまた違う、得体の知れない疲労感がある。

 兵士の手足を紐で縛り終えたメイフゥは、大きな溜息を吐き出した。

 

「これでお終いっと。んで姉御、城の方はどうなのさ。お姉様は、上手くやってるのかい?」

 

 メイフゥがお姉様と呼ぶのは、この世にジャスミン一人しかいない。

 そして、そのジャスミンは、自らの夫を救い出すためにあの城へと乗り込んだのだ。

 もう、インユェがウォルをあの城から連れ出して、かなりの時間が経っている。どれほど探索に時間がかかっているのだとしても、そろそろ何らかの結果が出ているはずだ。

 

『少し、状況は不味いわね。あの城には、とんでもない化け物がいたみたい』

「化け物だって?」

『そうよ。あのアーロン・レイノルズ大統領本人が、特異能力者だったみたいなの。これは、いくらあの二人でも手こずるわ』

「特異能力者か。……そいつは、中々楽しませてくれそうじゃねえか」

 

 メイフゥが、舌なめずりしそうな声で言った。彼女は、今まで数多くの敵を文字通りに叩きのめしてきたのだが、その中に、本物の特異能力者はいなかった。一度手合わせ願いたいと思っていたところである。

 今回の作戦でメイフゥに割り当てられた役は、十分にこなした。であればこれからは自由行動が許されるはず。それならば、とメイフゥは思ったのだ。

 だが、人間以上に感情表現豊かな感応頭脳は、ぴしゃりとした調子で言った。

 

『駄目よ、メイフゥちゃん。あなたには、弟くんとウォルを守るっていう、大事な役割があるんだから。お城の方はケリー達に任せて、あなたは二人のところに帰りなさい。もしもケリー達がこれ以上まごつくようなら、先にここから離れたほうがいいわ』

「ちぇっ。わかってるよう」

 

 メイフゥは、唇を尖らせるようにして、不承不承に頷いた。確かに、ジャスミンは自分を倒してのけた女傑であり、夫であるケリーもそれ相応の実力を有しているはずである。今更自分が加勢したところで、何かの役に立てるかというと、少し心許ないところがある。

 何より、ウォルのことがある。あの少女は、常ならばメイフゥが心配する必要などないほどに強いのだが、今は絶対に戦わせてはいけない。彼女のあの様子は、女性特有の体調不良にしては、あまりに症状が重たい。何か、別の病気を患っている可能性もある。

 インユェにしても最近は少しましになってきてはいるものの、全てを任せることが出来るほどに逞しいわけでもない。

 つまりは、引率が必要ということか。メイフゥは溜息を吐き出した。

 

「分かったよ。で、脱出用のヘリは、どこに止めているんだい?」

 

 昨日、ジャスミンが購入した三台のヘリは、城の近くの森の中にその姿を潜めて、今や遅しとその翼を存分に羽ばたかせる時を待っているはずだ。

 もしもジャスミンが、或いはメイフゥが不測の事態に陥り、脱出が不可能になった場合、お互いのことは関知せずに脱出するよう、意思統一は出来ている。中途半端な仲間意識のせいで全滅の憂き目を見ることがあってはならないからだ。

 メイフゥは、それを非情とは思わない。当然の処置だ。もしも自分が見捨てられる立場になったとしても、一切の不満を覚えないだろう。むしろ、自分を助けるために仲間が犠牲になったときこそ、彼女は怒りを覚えるに違いなかった。

 

『ええ、そうね、今のあなたからすれば、北西のほ……に500メ……ルほど歩いた……ころの、森の……に……』

「おい、姉御?姉御!?」

『……』

 

 突然、通信機から聞こえるダイアナの声に、ざらざらとした雑音が混じり、やがて声そのものが雑音に掻き消されてしまった。通信機のスイッチを入れ直しても、砂嵐の流れるような音しか聞こえない。

 どうしたことだろう。城に残った連中が、遅まきながらもダイアナによるハッキングに気が付き、妨害電波でも放ったのだろうか。

 メイフゥは舌打ちを一つ零したが、最後の交信で脱出用ヘリのだいたいの場所は分かった。場所さえ分かれば、あとはそこまでインユェを連れて行くだけである。機械関係の操縦についてインユェは一方ならぬ才能がある。初めて乗る戦闘ヘリであっても、問題無く乗りこなしてくれるだろう。

 メイフゥは、ウォル達の待つ洞穴に向けて走り始めた。

 森の中は、暮れゆく太陽に照らされて、僅かに赤く色づいている。もう少し時間が経てば、太陽は山の向こうに姿を消すだろう。メイフゥは夜目が利く。夜陰に紛れたほうが移動の危険は減るのだが、今はそれまで待っている時間が勿体ない。

 茂みを掻き分け、枝をへし折り、メイフゥは走った。足場は相変わらず悪いが、それくらい何ほどのこともない。息を乱すことすらなく、少女は一目散に隠れ家を目指す。

 そして、気が付いた。

 いつしか、自分を中心として、いくつかの気配が森の中に感じられることに。

 自分が進めば、その気配もほとんど同じ速度でついてくる。止まれば、気配も足を止める。

 しまった。どうやら、捕捉されたらしい。

 ヴェロニカ国の正規兵ではありえない。あの、ごてごてしい装備を身につけた、鈍重な亀どもが、自分の足についてくるなど不可能だ。例えダイアナの作った幻がジャミングによって無効化されたのだとしても、すぐに自分に対応できるとは思えないし、そもそも、城から放たれた人数の全てを既に無力化しているのだ。

 では、何者か。

 訝しんだメイフゥだが、確かめる術は彼女にない。そして、このまま隠れ家に帰るわけにはいかない。それは、餓狼を羊小屋に迎え入れるに等しい行為だ。

 メイフゥは、隠れ家とは微妙に外れた方向を目指して駆けた。山は彼女の生息地である。足は速く、身のこなしは軽い。街中を駆けるのとは比べものにならない速度だ。

 流石に、メイフゥを取り囲んだ気配も、その速度にはついてこれない。

 だが、その代わりとばかりに、メイフゥの目の前の大木に、ライフルの弾丸が突き刺さった。一瞬遅れて響く発砲音。

 

「そこか!」

 

 メイフゥが、音の源に向かって走り出そうとしたとき、違う方向から発砲音が響き、メイフゥの足下の岩が爆散した。

 

「ちぃっ!」

 

 メイフゥは岩陰に隠れたが、今度は正反対の方向から銃撃を受けた。完全に包囲されているのだ。足を止めていては、一気に押し崩される。

 とにかく、足を止めてはいけない。動いていれば、あちらの攻撃も的を絞れないはずだ。そう信じて、メイフゥは木々の間を飛び跳ねながら走った。

 だが、攻撃はどんどん激しさを増していく。銃撃音が森の中に絶え間なく響く。メイフゥも、少なくない手傷を負っていく。直撃こそないものの、細かなかすり傷が数え切れないほどに柔肌を蝕んでいく。

 この時点で、メイフゥは気が付いていた。相手は、本気で自分を殺すつもりはない。これは、猟なのだ。放たれたのは猟犬。猟犬の仕事は獲物を仕留めることではなく、飼い主の眼前まで獲物を引きずり出すことにある。そして、飼い主の前に引きずり出された獲物は、その手にした銃で撃ち殺され、血肉は晩餐となり、皮と骨はオブジェとして飾られる……。

 

 ──ついにあたしも、年貢の納め時か。

 

 メイフゥは、汗みずくの顔に皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 いつだって、死ぬのは覚悟していた。今まで、何度も人を殺したのだ。遊び程度で殺したことは一度だってないが、殺意を向けてくる敵は躊躇無く殺した。ならば、そのツケの精算をする機会が訪れただけのことである。

 ただ、どうして今なのだという気はした。死に神にしても、もう少し気を遣ってくれればいいのに。あの二人と一緒にこの戦場を脱出して、二人が仲むつまじくなった様子を見られたなら、いつだってお呼ばれしてやるんだ。こんなに早く呼び出さなくったっていいじゃないか。

 そして、ついに銃弾は、メイフゥから逃げ足を奪った。放たれた無数の銃弾の一つが、メイフゥの大腿部を貫いたのだ。

 

「あぐぅっ!」

 

 勢いよく走っていたメイフゥは、当然の如く転倒した。倒れたところには運悪く尖った岩があり、咄嗟に突きだした掌がその岩に刺さって、盛大に裂けた。皮膚の裂け目から、赤い肉と、黄色い脂肪の粒が見えた。

 血が、ぼたぼたと流れ出す。大穴の空いた太股からも、どくどくと血が溢れていく。

 普通の人間ならば、蹲って動けなくなる怪我だ。それでも、メイフゥは逃げた。走るのが駄目なら、歩いて逃げた。歩くのが無理なら、四つん這いに逃げた。それが不可能ならば、腕だけで這って逃げた。

 どれほどみっともなくとも、メイフゥは逃げた。とにかく、止まってしまえば殺されるのだ。少しでも動き続けることだ。生きている間は、絶対に諦めない。

 流れ落ちる血液と汗が、そのまま体力の結晶のように思えた。どんどんと、命そのものが削れていくのが分かった。

 全身が、血と泥で汚れている。これでは、追い詰められた獣そのものではないか。自分は、こんな惨めな格好で死ぬのか。野の獣のように。

 誇り高いメイフゥには、その一事が許せなかった。だが、今更言っても始まらない。

 

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」

 

 灼け付くような呼吸を繰り返す。喉が、痛むほどに乾いている。水が飲みたい。今なら、トリジウム混じりの毒水でも、むしゃぶりついて飲み下せるだろう。

 どうせ、長生きは出来ないのだから、少々の毒が何だというのか。

 目がちかちかする。視界の明度と彩度が、明らかに狂っている。赤い粒と青い粒が、無数の蠅のように視界をちらちらと飛んでいる。自分が、極彩色の迷宮に迷い込んだように錯覚してしまう。

 夢の中を走っているようだ。足は重たく、じんじんと熱い。じきに、この熱さが痛みに変わるのだと思うと、ほんの少しだけ怖い。ぱっくりと裂けた掌は、感触がない。果たして本当に怪我をしているのかと見てみれば、真っ赤に染まった肉の奥に、白い塊が見えた。折れた骨が、恥ずかしげに顔を見せていた。

 ああ、重傷だ。これは、病院に行かなければ駄目だ。いつもみたいに、唾を付けていれば治るような傷ではない。

 お父さん。お母さん。インユェ。ウォル。ヤームル。ジャスミン。

 人の名前が、次々と頭に浮かんで、消えていく。顔は、思い出せない。記号化された思い出が、ぐるぐると回る。言葉の洪水に溺れそうになる。

 なるほど、これが走馬燈という奴だろうか。何となく思い浮かべた文節が、一語一語に区切られて、妙にはっきりと頭の中で響いた。

 いつしか、メイフゥの足は止まっていた。

 疲れたわけではない。諦めたわけではない。ただ、それ以上前に進めない場所に、追い込まれただけのこと。

 目の前に、切り立った崖がある。遙か下に、緑の絨毯が広がっている。ここから落ちれば、あの絨毯が優しくこの体を受け止めてくれるだろうか。その柔らかい感触に辿り着くまで、あと何秒?

 

「──やれやれ、本当に人並み外れた体力ですね、あなたは。片足を半分千切れさせて、よくもまぁ逃げ回ったものです」

 

 どこかで聞いたような、声がした。

 記号の海の中から、その名前を釣り上げる。初めて聞いたのは、昨日の夜。耳に張り付くような、嫌らしい笑い方。自分を恐れて、涙を流して許しを乞うた、声の主。

 

「……な、んだ……お前、かよ……びっくり……させ、やがって……」

 

 思わず笑みを浮かべてしまう。立場は昨日と正反対だ。目の前の、奇妙ににやけた面が、そう言っている。千切れてそのままの片耳が、そう言っている。

 昨日は私が獲物でした。しかし今は、貴方が獲物なのですよ、と。

 見逃したのが仇になったか?きっとそうなのだろう。

 男は、満面の笑みで腰を折った。

 

「このアイザック・テルミンのことを覚えて頂いていたようで、光栄の限りですよ。ええっと……?」

 

 あたしの名前を知りたいのだろうか。さもありなん、あたしの死体をショーケースに入れて飾るなら、その名札がないと困るだろう。

 

「……めい……ふぅ、だ。美しい、虎って書いて……メイフゥ……」

「メイフゥ。なるほど、美しい虎ですか。あなたにぴったりの名前だ」

 

 メイフゥは、どろどろの顔に、力無い笑みを浮かべた。

 違う。その名前は、あたしに相応しくない。片方は正しいけど、もう片方は間違えているんだ。だから、いつだっていじめられた。いつだってあたしはひとりぼっちだった。

 それでもあたしが生きていられたのは、あたしを必要としてくれる弟がいたからだ。あいつがいなけりゃ、こんな命、とうの昔に放り捨てている。

 だが、みっともなくしがみついた生も、今日、ここまでらしい。それが残酷とは思わないが、少しだけ残念だ。出来れば、あいつとウォルの子供を、この手に抱いてみたかった。

 

「……さっさと……殺せ……それとも、嬲り殺す、つもりか……」

 

 昨日の晩のことを思えば、それも仕方ないのかも知れない。少なくとも、自分のしたことをされてから殺されるくらいは覚悟しておかなければ。

 因果応報だ。

 痛めつけるのは結構好きだが、痛いのはあまり好きではない。自分勝手なことだが、性分だからしょうがない。

 我慢しよう。どうせ、これから、痛みを気にする必要のない世界に旅立つのだ。これが最後だと思えば、痛みさえも愛おしいだろう。

 

「殺す?ワタクシが、あなたを?とんでもない、そんなことするはずがないじゃありませんか!」

 

 目の前の男は、さも心外そうに目を開き、大仰に言っていた。

 その言葉に一抹の希望を見いだしてしまった。それが、何よりも屈辱的だった。

 

「……じゃあ、……てめえは、いったい何……をするつもりだ……あたしに、何を求める……」

 

 テルミンは、嬉しそうに笑った。

 

「ワタクシの目的は、あなたのように野卑な女を殺すことではありません。ただ、儀式に捧げるべき、あの少女を再び入手することです。なので、あの少女の居場所をさっさと吐いてくださいな。そうすれば、あなたは生かしておいてあげてもいい」

 

 メイフゥは、小さく微笑んだ。

 なるほど、仲間を売れと、そういうことか。あの少女をくだらない儀式の生け贄に捧げる、その片棒を担げと。

 泥のような疲労がたまった体が、おかしさに震えた。いまだ荒々しい吐息が、痙攣するような笑い声に変わる。

 

「……何がおかしいのですか?」

「くくっ、いやぁ、おかしい、さ。この、あたしに、そんな、とち狂った、取引を、持ちかける、なんてねぇ……」

 

 メイフゥは、たまらなくおかしかった。目の前の男は、どれだけ人を見る目がないのだろう。この自分が、我が身可愛さに仲間を売るような卑怯者に見えるのか。だとしたら、お笑いぐさだ。自分は化け物になったつもりはあっても、卑怯者にだけはなったためしがない。

 

「そうですか、それは残念だ」

 

 テルミンが、光線銃を構えた。

 これで終わりかと、メイフゥは目を閉じた。

 だが、テルミンに、終わらせるつもりはなかった。

 光条が空を切り裂く。だが、それはメイフゥを安楽の世界には連れて行かない。

 容易く人の命を奪う光線は、メイフゥの片耳を吹き飛ばしただけだった。メイフゥの片耳が、鼠に囓られたように欠けていた。

 

「ぐぁっ!」

「これでおあいこでしょうか。いや、ワタクシはあなたにされたのは、この程度ではありませんでしたねぇ」

 

 テルミンが、背後の少年達に合図を送った。

 少年達は、機械じみた無表情のまま、片耳を押さえて蹲るメイフゥに駆け寄り、その体を俯せに押さえつけた。

 そして、メイフゥの腕を強引に伸ばし、掌をこじ開け、開いたまま地面に貼り付けた。

 何をされるのか、メイフゥには分かっていた。自分で言ったことだ、拷問とは使い古された手法ほど効果があるのだと。

 

「さて、これも使い古された台詞で申し訳ないのですが……早く全てを話した方が、楽になりますよ?」

 

 

 そして、少女の絶叫が、悲鳴が、山間にこだました。

 少女の手足の指が原型を止めなくなるまで、それほどの時間は必要ではなかった。

 

 

「さて、そろそろいい頃合いでしょう。あなたも、十分に頑張りましたよ。もう、全てを話しても誰もあなたを非難しません。だから、いいでしょう?」

 

 メイフゥは、青ざめて表情を失った顔で、その言葉を聞いていた。

 すでに、手首から先の感覚が消失していた。足首から先も、そこに肉体が存在するとは思えない。

 痛みと熱と不快感が、少女の中で同じ感覚となっていた。そして、寒い。手足の先が燃えるように熱いのに、体の芯が凍えるほどに寒いのだ。

 もう、駄目かも知れない。メイフゥはそう思った。

 もう限界だ。もう、全てを投げ出してもいいんじゃないか。

 戦慄く口が、何かを話そうとしていた。

 テルミンは、メイフゥの口元に、耳を寄せた。何か、蚊の鳴くような声で、何かを言っている。

 

「ああ、もう少し大きな声で言ってもらえますか?大声を出し過ぎて喉が疲れているのは、重々承知の上ですので」

 

 テルミンが、面白そうに言った。

 そして、もう少し耳を近づけて、

 

「さぁ、全てを話なさい。そうすれば、楽になれますから……」

 

 幼児に対してそうするように、優しく語りかけてやる。

 少女は、縋るような、許しを乞うような表情で、テルミンを見上げていた。

 その少女の顔に触れるほど、耳を近づけた。

 

「……だ」

「今、なんと言いましたか?まだ聞こえないのですよ。もう少し大きい声で……」

「不味そうな耳だな、てめえのは!」

 

 がちん、と、固い物のぶつかる音が聞こえて、昨日味わったばかりの熱痛がテルミンの、残された片方の耳を襲った。

 

「くぁあっ!」

 

 思わず耳に手を当てると、どろりとした液体が溢れてくるのが分かった。

 少女は、くつくつと笑い、大きな空豆のような塊を、血の混じった唾液と一緒に吐き出した。

 テルミンの、残された耳の、耳たぶだった。

 テルミンは、苦痛と怒りに笑みをひくつかせて、少女を見下ろした。

 

「なるほど、それがあなたの答えですか。いや、苦痛に耐えて、ずいぶん立派なことだ。これが宇宙生活者の義侠心というやつですかな?ふん、何とも時代遅れでかび臭いことですねぇ!」

 

 テルミンは、いまだ地面に押さえつけられたままのメイフゥの顔を思い切り蹴り上げた。革靴のつま先が少女の頬にめり込み、折れた白い歯が宙を舞った。

 それでも、メイフゥは笑い続けた。それは、彼女を押さえつける少年達が、気味悪さを覚えるほどに。

 

「いいか、テルミンとやら。あたしを殺すなら、完膚無きまでに殺すんだな。じゃないと、あたしはお前の首を取りに行くぜ。この手足の全てをもがれても、絶対に喰い殺してやる。絶対だ!」

 

 メイフゥは、残された力の全てを込めて担架を切った。

 それで、全てだった。決定的な全てを使い切ってしまったのだと、彼女は知っていた。

 糸が切れたように静かになった少女に、顔の片側を赤く染めたテルミンは、優しげな笑みを浮かべた。

 少女の背中にのし掛かった少年達に、再び合図を送る。少年達は、暴れる気力すらを失ったメイフゥから離れた。

 

「ええ、分かりました。あなたはずいぶんと頑張った。もう、終わりにしましょう。あとは、ワタクシ達が、勝手に探しますよ。ただね……」

 

 テルミンが、懐から、小さな機械を取り出した。

 携帯用の通信端末だった。

 それを、耳の付いていない片方の耳道に当てる。

 

「……ええ、ワタクシです。……くだらない挨拶はいいんですよ。あなたは、聞かれたことにだけ答えていれば。……はい……なるほど、ここから南南西の方角に二キロほど離れたところ……小さな滝が目印、と。なるほど、よく分かりました。では」

 

 テルミンの言葉を聞いたメイフゥの、血の気が一気に引いた。

 それは、インユェとウォルが隠れている、洞穴の場所ではないのか。

 自分が死ぬのではない、大切な人間が危機に晒されることへの恐怖に硬直したメイフゥを、テルミンは楽しげに見下ろした。

 

「本当はね。あの少女の居場所なんて、簡単に分かったんですよ。あの少女は、体に発信機を取り付けられていた。この星に来る、ずっと前からね。一昨日、あなた方の潜伏場所が簡単にばれたとき、おかしいと思いませんでしたか?それから場所を移したあのあばら屋が、やはり簡単に捕捉されたのもおかしいとは思わなかったのですか?あなた方は、いや、あの少女はね、ずっと我々の掌の上だったのですよ。それを、こんなにぼろぼろになるまで必死で庇って、ずいぶんとご苦労なことでしたねぇ!」

 

 胸を反らしたテルミンは、唖然としたメイフゥを一瞥して、狂ったように笑った。

 

「心配はいりませんよ!彼らにはきっちり、あなたが拷問に屈して全てを洗いざらい吐露したのだと教えておいてあげますから!あなたは、彼らにさぞ恨まれることでしょうね!あの世で、彼らに対しての言い訳でも考えておくといい!」

 

 テルミンの言葉に、メイフゥは歯ぎしりをし、涙を流した。

 無力感が、悔しさが、屈辱が、少女の心をへし折った。

 手酷い拷問にも最後まで屈しなかった少女が、ぼろぼろと泣いていた。

 

「てめぇぇっ、殺す、絶対に、殺してやるぅぅ!」

 

 メイフゥは、赤黒くなって原型を止めない手を地面に付け、嗚咽が溢れそうになる口を喰い結び、がくがくと震える膝を叱咤して、立ち上がった。

 そして、常の彼女からは考えられないほどにゆっくりとした動きで、のろのろと、テルミンに飛びかかろうとした。

 到底あり得ることではなかった。度重なる拷問と大量の出血で、常人ならばとうに彼岸へと旅立っているはずなのだ。にもかかわらず少女の体が動いたのは、彼女の怒りが沸点を遙かに超えていたからだ。

 テルミンは、気圧されて数歩後ずさった。

 だが、それだけだ。恐れる必要はない。落ち着いてみれば、これは死に損ないの、ただの少女なのだから。

 テルミンは、メイフゥに見せつけるようにして、ゆっくりと銃を構えた。その銃口は、正確に少女の左胸を狙っていた。

 

「あなたには苦渋も舐めさせられましたが、それ以上に愉しませていただきました。これはそのお礼です。ではおやすみなさい、美しい虎さん」

 

 引き金は、無慈悲に引き絞られた。銃口から放たれた光条は、不可思議な力でねじ曲げられることなく、無造作に少女の左胸を貫通した。

 

「いん……ゆぇ……」

 

 前のめりに倒れる少女に瞳から、涙が、細かな飛沫になって飛び散った。

 少女の口から、どろりとした血が溢れた。

 どさりと、軽い音がして、少女は俯せに倒れた。そして、数度痙攣を繰り返し、その生命活動は完全に停止した。

 

「……ふん、生き汚い」

 

 テルミンは少女の頭部を踏みにじり、その体を蹴り転がした。仰向けにされた少女は、ぼんやりと濁った視線で、虚空を睨み付けていた。灰褐色の瞳の瞳孔は、少女の死を証明するように、完全に開いていた。

 テルミンは、再び物言わぬ少女を蹴り転がした。メイフゥの長く逞しい手足が、力無く投げ出されていた。

 その先には、崖がある。地面が、現実感を伴わないほど遙か眼下に見える、崖が。

 あと一度蹴り転がせば、メイフゥの体は崖から落ちる。その位置で、テルミンは、血にまみれた少女の頭部に手を伸ばし、その髪を一房切り取った。

 

「これで死体の代わりにしましょう。首を持っていくのは面倒ですしねぇ」

 

 テルミン本人も分からなかったのだが、それは彼の抱えていた恐怖心のさせた行動だった。首を切り取って持っていけば、その首に魔力が宿り、いつか自分に食いつくのではないかと、前時代的な恐怖に囚われたのだ。誰にも聞こえない程度の呟き声は、ただ自分の弱気を誤魔化すための詭弁であった。

 メイフゥの髪の一房を懐にしまい、テルミンは最後の一蹴りを加えた。

 魂を失った少女の体は、何とも呆気ない様子で崖を滑り落ちた。何度か、肉と岩が衝突する低い音が響いて、その体は見えなくなった。

 何百メートルという高さから落下した少女の体は、適度に柔らかく飛び散り、森の小動物の食料となるだろう。それは、如何にもヴェロニカ教に相応しい埋葬方法であった。

 

 

 ジャスミンの放った光線は、呆気に取られた大統領の眉間には命中しなかった。

 その代わりに、大統領に飛びついた、少女の脇腹を貫通していた。

 赤毛の、勝ち気な瞳をした少女は、嬉しそうな顔色で、ゆっくりと崩れ落ちた。自分の身に起きた凶事よりも、ただ大事な人を守れたのが嬉しいのだと、その瞳が言っていた。

 

「おとうさま……よかった……」

 

 赤毛の少女──マルゴ・レイノルズの、多幸感に溢れた呟きが、呆然と硬直したジャスミンを現実へと引き戻した。

 予想外だ。まさか、第三者が邪魔に入るとは思わなかった。だが、そんなことに気を取られている場合ではない。今があの化け物を仕留める、唯一無二のチャンスなのだ!

 ジャスミンは、もう一度引き金を絞ろうとした。それは、一撃目の失敗を認識してから、僅か数瞬後のこと。

 だが、その数瞬が、勝負を分けた。

 

「あ……ぐぅ……っ!」

 

 ジャスミンの、息を詰まらせた苦悶の呻き声が、壁が崩れて風通しの良くなった大広間に響いた。

 ジャスミンの大柄な体が、宙に浮いている。彼女の逞しい首筋に、掌のような痣が刻まれ、その痣が、ジャスミンの巨体を持ち上げ、喉をきりきりと締め付けているのだ。

 手足をばたつかせ、両手で喉から何かを引きはがそうとするが、今彼女の首を締め付けているものは肉の体で触れ得るような存在ではない。わなわなと痙攣するような指先は宙を掻きむしり、何も掴む事ができなかった。

 顔が、赤く充血していく。口の端から、泡を吹いた涎が垂れ落ちていく。己の指で引っ掻いた首筋から、細い血の滝がつぅと流れ落ちた。

 息が出来ない。いや、それ以上に、脳への血流が阻害されている。目が霞み、もう少しで意識を失うのが、今までの経験上、ジャスミンには分かった。

 だから、最後の一撃だ。それがどれほど小さな可能性であっても、諦めるわけにはいかない。

 ジャスミンは、苦痛と息苦しさで霞む視界の中、震える腕を伸ばして、引き金を引いた。

 光線は、驚くべき正確さで、アーロンの眉間に殺到した。

 だが、そこまでだった。既に自我を取り戻していたアーロンにとって、たかだか拳銃程度から放たれた光線をねじ曲げるくらい、赤子の手を捻るよりも造作のないことだった。

 

「いやはや、あなた方夫婦には本当に驚かされます。まさか人の身で、この私を打倒しかけるとは。正しく心底の賞賛に値する……」

 

 アーロンの呟きと、ジャスミンの取り落とした愛銃が地面に落ちる音は、ほとんど同時だった。

 宙に浮いたジャスミンの両手両足は、もう、ぴくりとも動いていなかった。一切の力みを奪われた手足は重力に如何なる抵抗も示さず、だらりと垂れ下がっていた。

 ジャスミンは、完全に気絶していた。長い睫に飾られた金色の瞳が、無念の様相で宙を睨み付けていた。

 そしてアーロンは、意識を失ったジャスミンの体を、丁重な様子で床に横たえた。何せ彼女は敵ではなく、アーロンにとっての賓客なのだ。その応対はどれほど丁寧であっても過分ということはない。

 

「些か当初の予定とは異なりますが、まぁ、これであなた方にも私の力は十分に承知頂けたと思います。これ以上の無駄な足掻きは止めて頂き、どうか私の願いを叶えて下さいますよう、お願い申し上げます」

 

 アーロンは、ようやく体の自由を取り戻しつつあるケリーに向けて頭を下げた。ケリーの体はまだほとんど死体と変わらない様子だが、アーロンは彼が無事なことを知っていた。

 ジャスミンの無慈悲で徹底的な一撃が、全てを彼に悟らせたのだ。これは、自分の能力をそぎ落とすための、壮大なお芝居なのだと。そして、危うく自分はその手管に引っかかるところだったのだと。

 だとすれば、ケリーが無事でない筈がない。あの聡明な夫人が、自分如きを排除するために、夫の命を危険に晒すはずがない。

 見事にだまされ、もう少しで命を危うくさせられるところだったアーロンの心に、しかし怒りは寸分足りとて存在しなかった。むしろ、二人を湛える清々しい気持ちで一杯だった。

 そして、その心のどこにも、自分の身代わりとなって被弾した少女のことはなかった。

 

「さぁさお二人とも、さぞお疲れのことでしょう。流石に、今までのように自由にしていただくわけにはいきませんが、晩餐の用意も整っております。汗に塗れたお体を、清めて頂く必要もございましょう。今までの蟠りは水に流して、楽しいひとときを過ごして頂きますよう。今の時代を見るのは、あと数日のこと。どうかそれまで、心残りのないよう楽しんで頂きたい」

 

 歌い上げるような調子で言った。死んだ魚の瞳が、痩せて頬骨の浮いた容貌が、満面の笑みに崩れていた。

 死体が、笑ったような様子だった。

 アーロンは、正しく有頂天だったのだ。これで、彼の長年の望みは果たされる。

 最も難しいと考えていた条件が、これで成就した。50年後、この星では憐れな人形同士の戦いが繰り広げられる。意味のない、見世物の戦いに。

 そして、彼らは呆気なく廃棄される。毒ガスで塗炭の苦しみを味わい、喉を掻きむしって死ぬ。自分が、自分の一番信頼していたものに裏切られたのだと、筆舌に尽くしがたい無念を味わいながら死んでいく。

 その無念を晴らすために、再びウィノアの亡霊がこの宇宙に現れるだろう。亡霊の望みを叶えるために、天使がこの地に降臨するのだ。

 その時、煮えたぎる復讐の刃は、真っ先に自分へと振り下ろされるのだろう。だが、最後まで生き延びて見せる。そして、天使の前に跪いて、自分は天使に殺されるのだ。それが、この不毛な人生の締めくくりだ。

 老人の、死んだ魚のような瞳が、恍惚とした様子で遙か彼方を見つめていた。その先には、あの日に出会った天使の、悲しげな横顔が映し出されていた。

 

 「……アーロン……おい……アーロン……!」

 

 しばし現実を忘れていた老人の足下で、歯を軋らせるような声がした。

 アーロンが、鷹揚な様子で見下した。その瞳には、万物を己の意のままに動かせる、創造主の優越が存在していた。

 足下には、彼の望みをかなえるための最後の道具が、沖に揚げられた瀕死の鯨のように、無力な様子で横たわっていた。

 

「はい。どうしましたか、ケリー・エヴァンス」

「……ああ、分かったぜ。今日のところは、俺たちの負けだ。それはそれで構わない」

「ようやくご理解賜れましたか。それは重畳」

「だから、さっさとその子を手当てしてやれ。そのままじゃあ、死んじまうぞ」

 

 ケリーの、未だ闘志の冷めやらない視線の先には、青ざめた顔色で苦悶の表情を浮かべる、少女がいた。息が荒く、不規則である。時折苦痛に息を詰まらせ、体の各所をびくびくと痙攣させていた。

 胎児のように身を丸め、銃創を手で押さえている。その小さな手の指と指の間から、真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。

 重傷だ。だが、手の施しようがないわけではない。

 彼女を貫いたのは、大口径の銃弾ではなく光線である。どちらも急所に当たれば死を免れないが、光線であれば、急所以外を被弾したときの致死率は格段に低い。破壊面積が小さいため、出血量が極めて限られるからだ。

 見たところ、マルゴの傷は急所を逸れている。だが、脇腹を貫通したのだ。当然、いくらかの臓器が損傷を受けているはずであり、医師による可及的速やかな治療が必要なのは明らかだ。

 

「ああ、本当だ。これは一大事」

 

 アーロンは、初めて少女に気が付いたように、慌てて見せた。

 慌てて、当たりを見回して、そして一息ついて、首を横に振った。

 

「でも……この人形はもう駄目ですね。諦めましょう」

 

 ケリーは、耳を疑った。この男は、何を言っているのだ。彼の足下にいるのは、命をかけて任務に忠実たらんとした少女である。それ以上に、自分の愛する人間のために死すら厭わなかった少女である。

 その少女に対して、今、この男は、何と言ったのだ?

 

「てめぇ……今……何て言いやがった」

 

 ケリーの本性を知るごく少数の人間であれば、鋭い針先を眼球に突きつけられたように感じる、言葉であった。超低温の物質を触った時に感じる、熱さと冷たさの入り交じった感触がある、言葉だ。

 例えケリーの本性を知らない人間であっても、その耳にたまらない不吉を届ける、言葉であった。

 だが、天使に狂った老人は、さも不思議そうな表情を浮かべただけであった。

 

「何……とは、ケリー、私は何か、それほど奇妙なことを言いましたかな?」

「この子は、てめぇを助けたんだぞ。てめぇみたいな人でなしを、父親と呼んだんだ。その子に向けて、てめぇ、今、なんて言いやがった」

「人形でしょう?それも、もう壊れてしまった人形です。だからどうかしたのですか?」

 

 アーロンは小首を傾げ、横たわったまま苦しげに息を吐くマルゴを指さし、

 

「だって、見て下さい。もう、体にこんな大きな穴が空いてしまった。これを塞ぐのは、とても大変だ。これを、メディカルタンクのある医務室まで運ばなければならない。でも、私には、これからあなた方をもてなすという大切な仕事がある。だから、そんなことにかまけている暇がないのです」

 

 そんなこと。

 そんなことと言ったか、貴様。

 ケリーは、己の思考が、妙に冷え冷えとしているのに気が付いた。

 

「周りに誰かいれば、それに頼もうと思ったのですが……。残念ですが、仕方ないでしょう。この人形は、後で廃棄処分にするとします」

「てめぇは、この子を、人形だというのか」

「ええ、人形ですよ。だって、私は何度だって、全く同じものを作ることが出来るのです。そして、どのような記憶を植え付けるのも自由自在だ。幾らでも替えが利く、そんな都合の良い存在を、あなたは人間と呼びますか?」

 

 アーロンは、したりと手を打った。

 

「そう言えばケリー、あなたとこの人形のオリジナルは、同じ隊で、同じ年頃なのでしたね。ならば、特別な感情を抱くこともあるでしょう。なるほど、そういうことでしたか」

 

 したり顔で、うんうんと頷いた。

 ケリーは、ぎしりと歯を噛んだ。

 

「では、あなたにプレゼントしましょう。この人形の一体を。どんな性格がよろしいですか?躾けに困るようなじゃじゃ馬?あなたに忠実な下女?それとも、私と同じように、この人形の絶対的な創造主になってみますか?それはそれで、ええ、中々楽しいものですよ。時折、纏わり付いてくる様子が頭の悪いひよこのようで、煩わしくもなりますがね」

「分かった。分かったぜ、てめぇが心底の糞野郎だってことはな。だから、いい加減、その歯糞臭い口を閉じやがれ……!」

 

 アーロンはにこやかに笑い、一度腰を折った。

 そして、その異能でケリーとジャスミンを宙に持ち上げ、法衣の裾を翻し、悠然とした足取りで城の中に姿を消した。

 外の世界は、次第に太陽が傾きつつある。斜陽が、温かみのある淡い光で大広間を照らしている。どこからか聞こえる小鳥のさえずりが、軽やかな調子でこだまする。

 その空間に、一人、少女だけが残された。

 大広間には、誰もいない。マルゴ一人だけだ。苦痛でのたうち回っても、悲しくて泣き叫んでも、誰も気が付いてくれない。アーロンと、ケリー達の死闘で、壁には大きな穴が空き、暮れなずむ山間の寒気が容赦なく部屋に忍び入って来る。

 マルゴは、がたがたと震えていた。彼女自身、どうして自分が震えているのか、分からなかった。

 寒さ。怪我。失血。理由は色々と見つけられる。

 そうだ。だから、震えているのだ。それとも、歓喜。自分の一番愛する人を、この命をもって助けることの出来た、喜び。

 そうだ。それ以外に、何がある。自分の体が震える理由など、何があるというのか。

 

 ──人形。

 

 違う。それは、間違いだ。幻聴だ。この心を地獄の底へと引きずり落とそうとしている悪魔が、毒の吐息とともに囁いたのだ。そんな言葉に耳を貸す必要は、どこにもない。

 あの方は、そんなことは言わない。そんな悲しいことを言うのは、あの唾棄に値する赤毛の青年だけで十分だ。

 

 ──ならば、どうしてお父様は、わたしを抱き締めてくださらないのだろう。

 

 知らない。あの方の深慮遠謀を、私如きが理解出来るはずもない。あの方が私を、娘を見捨てるならば、相応の理由があるのだ。あの方は、心の中で血涙を飲みながら、私を切り捨てたに違いないのだ。

 痛覚が、じわじわと体の中心に広がっていく。息がいよいよ切羽詰まり、だくだくと流れ落ちる脂汗と一緒に、生命のエネルギーが抜け落ちていくのを実感する。

 緩やかな、死だ。

 意識は消え失せる様子がない。おそらく、この緩慢な状態が何十分も続いたあげく、自分は呆気ない死を迎えるのだろう。一晩もこの場所にいれば、死臭を嗅ぎ分けた森の虫が、この身に卵を産み付けるかも知れない。私の肉を苗床にしたウジ虫が、じくじくと、腐りかけた肉をはみ続けるのか。

 死のイメージが、次々とマルゴの脳髄を冒していった。

 馬鹿な。

 何を恐れるというのか。これが、私の一番望んでいた死に様ではないか。この世で一番大切なあの方のために、この命は投げ捨てるのだ。私の死体が如き醜いものに、目を向けてくれなくていい。使い捨てられるのが本望。

 だから、これが完成だ。

 そう、マルゴは思い込もうとした。だが、体を蝕む震えは、一向に収まる様子がない。がたがたと、少女の小さな体は震えた。望まざる死に抗うように、震えた。涙を流しながら、震えていた。

 いつしか、意識が朦朧とし始めた。瞼が重い。痛覚に、二重三重の靄がかけられたような気がする。

 眠たい。そうだ、眠ってしまおう。もう二度と起きることは出来ないのだけれども、このまま起きているよりはずっといい気がする。夢の中でならば、お父様にも出会えるだろう。夢の中のお父様は、よくやったと頭を撫でて下さるだろうか。

 マルゴのふっくらとした唇が、ようやく笑みを浮かべた。彼女は、本能的に理解していたのかも知れない。もう、彼女の思い描く父親は、夢の世界の中にしか存在しないことに。

 

「やれやれ、ずいぶんと派手に暴れまわったものだな」

 

 夢うつつの少女は、自分のすぐ近くで、そんな声を聞いた気がした。

 人気の耐えた城内である。自分以外の人間が、こんな場所にいるとは思えなかった。だから、これは空耳なのだろうと思った。自分以外の死ならば、何度も見たことのある少女だ。死の間際の人間が、目に見えない何かを見て、耳に聞こえない何かを聞く様子など、さして珍しくないことを知っている。

 つまり、自分は死ぬということだ。もう、こんな悲しい想いを味あわなくていいということだ。それは、きっと素晴らしいことだ。

 マルゴにとって、死はそれほど厭わしいものではなくなっていた。それよりも、このまま生き続けて、息苦しい想いをするほうが遙かに……そう、しんどい気がしたのだ。

 

「それとも、あれだけの化け物どもが暴れ回ったのならば、これだけの被害で済んだのはむしろ僥倖といったところか」

 

 何を言っているのだろう。

 これで、見るのも聞くのも最後ならば、もう少し気の利いた幻影が現れればいいのに。私の頭を撫でてくれたお父様。私の成績を褒めて下さったお父様。私の料理を美味しいと言って下さったお父様。

 お父様、お父様、お父様。

 ああ、そうだ。私の中には、それしかないのだ。

 それが、全て。そんなものは、どこにも。

 違う。私は、違う。人形なんかじゃあ、ない。

 

「お前も、災難だったなぁ。満足な医療設備がある場所まで、かなりある。助かるかどうかは五分五分といったところだが、死んだとしても私を恨んでくれるなよ」

 

 頬を、乾いた掌が撫でていった。

 優しい、大きい、老人の掌だった。まるで、お父様のような。

 そして、無意識に傷口を押さえていた掌がどかされて、そこに何かを貼り付けられた。緊急救護用の止血シートだと分かった。

 つまり、この誰かさんは、奇特なことに、自分を助けようとしているのか。

 いらない。もう、こんなにも死にたいのに。

 

「……やめ……て……」

「驚いた。まだ、意識があるのか」

「……死なせて……お願い……だから……」

「……」

「……生きて……いたく……ないの……」

 

 この、弱々しい声は、誰の声か。

 この、噎び泣く声は、誰の声か。

 馬鹿なことを、我ながら考えているなと、マルゴは思った。

 

「……そんなに死にたいのか」

 

 マルゴは首を縦に振った。ぼろぼろと涙を零しながら、血と埃に汚れた顔で、頷いた。

 

「どうして、そんなに死にたいのだ」

 

 マルゴは首を横に振った。教えたくない。理解したくない。考えることすら、したくない。ならば、一番簡単な受け答えが、全てを拒絶することだった。

 

「そうか、分かった」

 

 誰かは、すっくと立ち上がった。マルゴの視界は既に満足なものではなくなっていたが、その気配だけで理解出来た。自分で死にたがっている人間を、わざわざ助ける馬鹿者もいないだろう。それが当然のことだ。

 よかった。これで、このまま死ぬことが出来る。お父様の娘のまま死ぬことが、出来る。もしもこのまま生き延びれば、自分が自分以外のものになってしまうかも知れない。マルゴには、そのことが一番恐怖だった。

 ようやく死を受け入れようとした体と心は、しかし、死神の御手以外の何かに抱きかかえられた。

 体から、冷たい石床の感触が失われた。体が、軽々しい手つきで持ち上げられた。

 マルゴは、霞む視界に、自分を見下ろす老人の顔を見た。それは、初めて彼女が見る顔では、なかった。だが、いったいどこで見たのかを思い出すには、今の彼女の思考能力はあまりに頼りないものでしかなかった。

 

「甘ったれたことを言うもんじゃない。お前のように、ケツの青いガキが、死にたい、死なせてくれ、生きたくないだと。そんなご大層なことは、恋人の一人でも出来てから吐くものだ。それとも、子供の一人でも産んでから吐くものだ。お前のような子供に、死ななければ取り返しの付かない何かなど、決してあるものか」

 

 マルゴは、アーロン以外の人間に、生まれて初めて抱きかかえられた。その感触は、思ったよりも筋肉質で、おおらかで、少しだけ懐かしい匂いがした。

 

「死ぬのが悪いとは言わん。命が勿体ないとも言わん。だが、一端に死にたいと言うならば、風呂に入って垢を落とし、腹一杯に旨い飯を食い、満天の星空の下に寝転がりながら同じ台詞を吐いてみるがいい。そうすれば、私も止めはしない」

 

 それが、意識を失う前に聞いた、最後の台詞だった。

 マルゴと、マルゴを抱きかかえた老人は、静かに大広間を後にした。そしてそこには、誰もいなくなった。

 

 

 風が吹いた。山間を吹き抜ける、気持ちの良い風だ。

 テルミンは、一房の髪の毛を握る手の力を緩めた。

 斜陽を淡くはね返す、烟った金色の髪が、一本一本、風に乗り、ふわりと飛ばされていった。その様子は、髪の毛の持ち主だった少女の魂が、風に乗って天へと送られていく様子を想起させた。

 インユェの喉が、持ち主の意思すら凌駕して、吠え声を放っていた。

 

「う、うわぁぁぁぁっ!」

 

 突きつけられた銃口も、圧倒的な戦力差も、背後に庇った少女のことすらも、その時のインユェにとっては、意識の埒外であった。

 何がしたかったわけではない。復讐?それも違うだろう。ただ、許せなかった。認めることが出来なかった。

 あの髪の毛の色を、見紛うはずがない。その持ち主は、母から受け継いだその髪を、心底誇りに思っていた。ならば、目の前のげす野郎ごときに、易々と髪を切らせるわけがない。

 では、どうしてその髪の毛が、今、あのように儚い有様で、宙を舞っているのか。

 テルミンの手から最後の一本の金糸が旅立ったとき、インユェは駆けだした。

 テルミンを殴ろうと思ったのではない。無論、逃げようとしたわけでもない。

 集めなければいけないと思った。ばらばらになってしまった髪の毛を、一箇所にまとめておかないと、もう二度とメイフゥに会えないような、そんな気がした。

 だが、少年の痩せた体は、背後に庇った少女によって抱き留められた。

 

「落ち着け、インユェ!」

「放せ、放してくれよウォル!姉ちゃんが、姉ちゃんがぁ!」

「狼狽するなと言っているのだ!万が一あれがメイフゥどのの髪の毛だったとして、やつらに殺されたと決まったわけでもない!」

 

 その言葉に、インユェの総身から、少しだけ力が抜けた。

 そして、目の前の、ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた男は、くつりと含むように笑った。

 

「そう、その通り。ですが、あの少女は紛れもなく死にましたよ。ワタクシが、初めて人をこの手にかけました。ああ、これからワタクシは罪の意識に苛まれ、夜ごと彼女の夢を見るのでしょうか。何と恐ろしい!」

 

 大仰な調子でそう言った。顔は悲壮な表情であったが、目だけが堪えきれない愉悦に笑っていた。

 

「まず最初にね、あなた方の居場所を聞いたのですよ。でも、中々気持ちよく答えてくれなかったので……ええ、少しだけ、拷問をしてしまいました。手の指の関節をね、一つずつ、逆に折り曲げてあげたんですよ。自分の手が少しずつ歪なオブジェに変えられていく時の、あの少女の顔は見物でしたし、指が乾いた音を立てるその度に、可愛らしい声で鳴いてくれました。その後が、足の指。全部、丹念に、一つ一つ折り曲げてあげました。最後の方は、ほとんど声も出ない有様で、少しだけ退屈でしたが……」

 

 ぺろりと、下唇を舐めた。口が寂しくなったのだろうか、懐から煙草を取り出し、銜え、火を付けた。

 紫煙が、風に乗ってゆらゆらと散っていった。

 

「それでも、強情な娘でねぇ。どうしても話してくれないから、指と爪の間に、針を刺してね。それを、ライターで炙ってあげたんですよ。いやぁ、あの悲鳴はすごかったですねぇ。体も、壊れた玩具みたいに跳ね回って……」

「もういい。黙れ」

 

 ウォルの、感情を押し殺した短い声に、テルミンは肩を竦めた。

 

「残念ですねぇ。これからがいいところなのに」

「くだらぬ前口上は聞きたくない。用件だけを、手短に話すが良い」

「まぁまそう仰らずに。で、気絶したらスタンガンで叩き起こして、何度も何度も。そして、もう一度聞いたのですよ。あなた方の居場所をね。そしたら、快く答えてくれましたよ?もっと早く答えてくれれば、無駄に痛い思いをしなくて済んだのに、馬鹿な娘ですよねぇ」

「てめぇ、今なんて言いやがった!」

 

 インユェの小さな体が、まるで火の玉のようだった。ウォルは、その体を押さえるのに必死だった。手を放せば、縄を切られた闘犬よりも一目散に、インユェは突っ込むだろう。そして、ほとんど間違いなく、無数の銃弾の餌食にされる。

 

「何度でも言いましょう。あの娘は、心底愚かでした。身の程というものを弁えていなかった。軽薄で頭の悪そうな顔立ちでしたからねぇ。きっと、どこかで銜え込んだ男から梅毒でももらっていたのではないですか?頭を菌に冒されて、物の通りも分からなくなっていたのですよ。憐れなことです」

 

 溜息を吐き出し、さも残念そうに首を振った。

 インユェは、歯が折れ砕けんばかりに歯ぎしりをした。その形容しがたい音が、体を伝わってウォルの耳に届いた。

 その音が、悔しいと言っていた。全身全霊に、少年の怒りを伝えていた。

 

「そして、ワタクシが優しく介抱してあげようとしたら、恩知らずなことに飛びかかってきました。驚いたワタクシは、仕方なく懐から銃を抜き、彼女の左胸を撃ち抜いた次第です。死体は、残念ながら崖の下に落ちてしまいました。場所は覚えていますから、是非確かめに行って下さいな。きっと、見事に散らばった肉片の花が咲き誇っていることでしょう」

「死体が偶然崖の下に落ちたなら、どうして貴様がその髪を握っているのだ?」

 

 ウォルが訊くと、テルミンは、にやぁと笑った。

 

「ああ、これは失礼。実は、死体から遺髪を切り取った後で、ワタクシが蹴り落としたのでした。無駄に大柄な女でしたからねぇ、思い切り蹴りつけてやらないと動いてくれなくて、何度も何度も蹴りつけるはめになりましたよ。死体とはいえ、女性を蹴るのは趣味ではないのですが、仕方ありませんよねぇ」

 

 腕から伝わるインユェの呼吸が、おかしかった。喉の辺りが、細かく痙攣を繰り返していた。あまりの悔しさに涙を流しているのだと、ウォルは悟った。正面に回れば、さぞ凄絶な表情で目の前の男を睨み付けているのだろう。だが、その顔は自分が見ていいものではないことを、ウォルは弁えていた。

 

「それで、貴様は何をしに、ここまで来た。貴様があの少女を嬲った様子を、我々に伝えるために来たのか。ならば、さっさと立ち去れ。俺は、今からあの少女を助けにいかなければならない」

 

 慟哭する少年を押さえつけながら、ウォルは言い切った。

 

「助ける?失礼、あなたはワタクシの話を聞いてくれていましたか?ワタクシは、彼女の左胸を打ち抜き、その死体を崖の遙か下に蹴り落とした。それでも、あの娘が生きていると?」

「俺はまだ、死体を見ていない。それが答えだ」

「頑迷ですねぇ。これならば、やはり首を切り取って持ってくるんでした。その方が、さぞ面白いものが見られたでしょうに」

 

 テルミンが、さも残念そうに首を振った。

 

「馬鹿を言うな!てめぇは怖かっただけじゃねえか!」

 

 インユェが、涙混じりに叫んだ。

 テルミンが、小首を傾げ、にこやかに微笑んだまま訊いた。

 

「怖かった?それは、何が?」

「てめぇは怖かったんだ!姉ちゃんの首が、いつかてめぇの首筋に食らいつくのが!だから、少しでも早く目の前から消したくて、崖の下なんかに蹴り落としたんだ!切り落とすことさえ出来なかったんだ!臆病者!卑怯者!悔しかったら、死体相手でも、たった一人で姉ちゃんと戦ってみろよ!出来ねえだろうが!」

 

 声を詰まらせ詰まらせ、唾を飛ばしながら、大声で罵った。

 テルミンは、笑った。腹を抱え、腰を折り、堪えきれない様子で笑った。

 

「命を失った肉の塊が恐ろしい?いやはや、何とも前時代的で、お伽噺のようなことを言うものだ!ならば、今日から君は夜毎に祈るのでしょうねぇ!愛しい姉の魂が、夢の世界の自分に語りかけてくれることを!なんとセンチメンタルなことでしょう!信じる者は救われるというが、何とも救われない話だ!」

 

 インユェは、歯噛みした。ばりばりと、歯の擦れる音が響いた。

 

「まぁ、冗談はこの辺にしておきましょうか。ワタクシも、これで中々忙しい身の上でして。さっさと仕事を終わらせて、家に帰ってのんびりしたいのですよ」

 

 短くなった煙草を放り投げ、足で躙った。

 

「先ほども申し上げました通り、あなた方の敗北は決定的です。こうなった以上、見苦しい悪あがきは止めて、我々に恭順して頂きたい。精神主義の玉砕も結構ですが、先に黄泉路へと旅立った方々は、それを望んでいないと思いますよ」

「具体的に言え。貴様らは何を求めている」

 

 ウォルの事務的な声に、テルミンは嬉しそうに頷いた。

 

「我らの望みはただ一つ。フィナ嬢、あなたが大人しく我らに付き従い、明後日の満月に開催される回帰祭の生け贄として、その身を供して頂くこと。それだけですよ」

 

 ウォルは、口元だけを歪めて笑った。

 

「儀式の生け贄ごときに、ここまでご大層な真似をして追いすがるか。ずいぶんと気に入られたものだな」

「ワタクシとしてはどうでもいいのですよ、そんなことは。しかし、どうしてもあなたでなければならないと、そう言う者がおりましてね。太陽がどうとか、訳の分からないことを言っていましたが、まぁ、宗教とはその程度のものなのかも知れませんな」

「分かった。俺が、その生け贄になればいいのだな」

 

 ウォルは頷いた。

 インユェが、弾かれたように振り返った。涙でぐしゃぐしゃの横顔が、唖然と表情を失い、自分を羽交い締めにする少女を見ていた。

 

「ウォル!」

「その代わりだ。貴様らは、決してこの少年に手を出すな。その条件を破れば、俺はどのような手段をもってしても、貴様らの思い通りにはならない。例え自死を選んでもな」

「ええ、大変結構なことです。ワタクシどもとしましても、そのように小汚いガキに興味はありません。あなたが、大人しく我らの籠の中に戻って頂ければ、これ以上の殺生は望むところではありませんからな」

「何言ってるんだ、ウォル!そんなの、駄目だ!」

 

 インユェの、悲鳴のような叫び声が、森の中をこだました。

 

「姉ちゃんは、あんな奴らにやられてなんかいない!すぐに、助けに来てくれる!それに、あのでか女だって、姉ちゃんに勝った奴なんだ!そう簡単にやられるもんか!」

「ああ、俺もそう思う。メイフゥどのやジャスミンどの、それにケリーどのが、易々と敵に後れを取るとは思えん。だがな、このまま奴らの要求を拒めば、次に殺されるのは、インユェ、お前だ」

「それでもいい!」

 

 それも、ただ殺されるだけでは済まない。ウォルの決断を迫るに十分なほど、残酷に、そしてじわじわと殺されるのだろう。

 まるで、自分の姉のように。

 インユェは、その程度のことは十分に承知していた。もとより、宇宙を流離う一生を選んで以来、死んだものと考えていた命だ。親類縁者は、旅立ちの前より死に絶えている。それほど惜しい命ではない。

 それより何より、この少女が死ぬのだけは許せなかった。この少女が死ぬのならば、それは自分が死んだ後でなければならないと思った。

 だから、肺の空気を一度に吐き出すようにして、精一杯に咆えた。

 

「俺が死んでもいい!でも、お前は死んじゃ駄目だ!俺が少しでも時間を稼ぐよ!だから、お前だけは、逃げてくれよ!」

 

 ウォルは、無情な様子で、首を横に振った。静かに閉じられた瞳が、絶対の拒絶を伝えていた。

 インユェは、初めて絶望して、その少女の顔を見ていた。

 

「我が儘を言わないでくれ。お前に死なれたら、俺は、メイフゥどのに何と言い訳をすればいいのだ。あの御仁は、お前の幸せだけを考えていたというのに」

「嫌だ!俺、我が儘でいい!だから、ウォルに死んで欲しくない!」

「インユェ!」

 

 ウォルが、初めてインユェを怒鳴りつけた。奴隷と呼んでも、妾にしてやると言っても、挙げ句の果てに手を上げたときも、一度だって怒らなかった少女が、初めて怒鳴ったのだ。

 インユェは唖然とした。その瞬間に、彼の体は拘束を解かれ、くるりと少女に相対させられていた。

 ウォルは、怒って、インユェを睨み付けていた。だが、その怒りが、憎しみ故のものでないことを、まだ少年期のインユェも、理解していた。

 インユェが、母親に叱られた幼児のように、言葉を飲んだ。

 そして、次の言葉を用意しないまま、口を開こうとした、その時。

 インユェの視界いっぱいに、少女の顔が映り込んだ。視界いっぱいに映り込んだ少女が、微笑んで、目を閉じた。

 あでやかな黒髪が、少年の頬をくすぐる。鼻腔を、今まで嗅いだことのない、美しい香りが満たした。

 唇に、何か、柔らかいものが触れる。柔らかくて、砂糖菓子よりも甘い感触。

 それは、夢の中で触れた少女の唇と、同じ甘さだった。

 少年は、呼吸を忘れていた。瞬きを忘れていた。自分が生きていることさえ忘れていた。

 その数秒は、少年にとって、永遠と同じ意味だった。

 少女の、寂しげに微笑んだ顔が、少しずつ離れていく。少年は、唇に感じる暖かさが、いったい何なのか、必死に考えていた。

 

「餞別だ。こんなものくらいでしか、俺はお前に報いることはできない。許して欲しい」

「ウォル……」

「すまんな、インユェ。恨むなら、恨んでくれて構わん。お前ならば、俺よりもずっと素晴らしい女性に巡り会えるだろう。そうしたら、俺のことはすっぱり忘れてくれ」

「ウォル……!」

「それと、もしもしばらくこの星に残るならば、そして機会があったならば、おそらく血眼になっているだろう俺の婚約者に伝えてくれ。碧色の瞳をした、黄金色の狼だ。お前ならば、一目で分かるだろう。彼に、将来を誓い合っておいて無責任極まりないことだが、約束は反故にさせてもらう、と。すまない、と。そう、伝えて欲しい」

「ウォル!」

「お前には残酷な伝言だと承知しているが、頼めるのはお前だけなのだ。だから、頼む。本当に申し訳ない」

「駄目だ!行っちゃ、駄目だ!」

 

 インユェは、大きく両腕を広げた。とおせんぼのポーズだった。

 

「もう、俺にはお前しかいないんだよ!なのに、お前まで俺を見捨てるのかよ!俺が、絶対にお前を守るからよ!だから、お願いだから、俺を一人ぼっちにしないでくれよ!」

 

 インユェが必死に叫んだ。涙に声を詰まらせながら、叫んだ。

 ウォルは、やはり寂しげに微笑んだまま、あっさりとインユェの脇を通り過ぎ、前へと歩いた。

 インユェが振り返る。彼が見たのは、か細く、どこまでも弱々しい、少女の背中だった。その少女が、自分を守るために、敵へとその身を差し出す、光景だった。

 少年は、無意識に手を伸ばした。それは、少女を助けようとするものではなく、少女に縋り付こうとする掌だった。

 

「約束だ。この少年には、手を出すな」

「はいはい。その代わり、約束ですよ。あなたは大人しく、儀式の生け贄になってくださいね」

「ああ、分かっている。今更、見苦しく暴れたりはせん。縄や錠など不要だ」

「ええ、ワタクシも、この期に及んであなたが無様に足掻くとは思っていませんが……まぁ、一応の保険ということで」

 

 テルミンは、背後に控えた少年たちに、合図を送った。

 少年の一人が、ウォルの背後に回り、後ろ手に手錠を嵌めた。そして首に縄を巻き付け、その端をテルミンへと渡した。

 インユェは、言葉もなく、為す術もなく、その光景を眺めていた。

 

「ごめんね……」

 

 悲しげな声で謝る少年兵。ウォルは、ほんの少しだけの苦笑いで、名も知らぬ少年の謝罪に応えてやった。

 

「さぁ、行きましょうか」

 

 テルミンが、手に握った縄をぐいと引いた。

 ウォルが飼い犬のように首を強く絞められながら、最後に一度、インユェを見た。

 インユェは、振り返った少女の顔を見た。果たして彼女が自分に何を伝えようとしているのか、彼には最後まで分からなかった。

 そして、何かを言おうとして、言えなかった。最後に口にするべき言葉を探したまま、少女の後ろ姿を見続けた。少女の姿が、森の奥に消えてしまうまで、ずっと、見続けた。

 最後まで何も言えなかった少年は、ずっと、ずっと、立ち尽くしていた。

 

 

 そして、一週間が経過した。

 少女を生け贄に捧げる儀式は、滞りなく終了した。少女の肉は野獣の贄となり、その魂は自然の循環に還された。

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