懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

76 / 156
第六十五話:とある酒場にて

 喧噪の上に喧噪が塗りたくられているような空間だった。

 薄暗い灯りが、誘蛾灯と同じ役割を演じている。集められるのは、日頃の鬱憤晴らしの場と、少しばかり心の箍を緩めてくれるアルコールを求めた、人間達だ。彼らを客として狙う、女郎蜘蛛の類も吸い寄せられる。

 そこは酒場だった。繁華街にある、小洒落たバーなどではない。もっと泥臭くて、人の体臭のする、酒場だ。商売女がたむろし、女に飢えた客がその一人を見繕い、二人で二階へと消えていく、そういう酒場だった。

 怒鳴り声と笑い声が、等分にひしめき合っている。ざわざわとしたその声が、幾重にも重なり、最後に意味合いを失う。意味を失った人の声が、嵐に逆巻く海のようで、煩いことこの上ないのに耳には何故か心地良い。それは、そのざわめきが、思い出したくない過去からの言葉を、見事に掻き消してくれるからに違いなかった。

 普段は閑古鳥の鳴いているその酒場は、正しく満員であった。どのテーブルに並んでいる酒も料理も、その酒場で用意出来る最高級のものだ。

 いったいどこのお大尽がお忍びで遊びに来たのかと客層を覗いてみれば、お世辞にもいい身なりの人間ではない。炭鉱で働く労働者や、家を持たない浮浪者ばかりである。

 そんな人間が、高級な酒を水のように鯨飲し、料理を片っ端から貪っている。財布の心配は、最初からしていない。何故なら、飲み代は見知らぬ少年が全て持ってくれるのだ。この店に入ることさえできれば、後は思うさまに只酒にありつける。そういう噂が町中に流れていて、どうやらそれは本当らしかった。

 ただで呑める酒ほどに旨いものはない。そして、酒が旨ければ口を縛る紐だって緩くなる。普段の鬱憤をぶちまけて、陽気な声は絶えることがなかった。

 

「飲め飲め、全部俺の奢りだ!この店の酒瓶を、全部空にしちまえ!」

 

 その声に、大きな歓声が重なった。

 

「さっすが、気前がいいねぇ旦那!」

「今日もあんたのおかげで旨い酒が飲めるよ!あんたは、俺たちの神様だぜ!」

「違ぇねえ!神様聖女様、旦那様だ!」

 

 笑い声が巻き起こる。

 その中心にいるのは、不敵な笑みを浮かべる少年だった。

 誰も、その少年の名前を知らない。生まれも育ちも、年齢も知らない。ただ、本当はこんな場所に立ち入られる年齢ではないことは、誰しもが知っていた。

 その少年が、店の一番奥に設えられた特大のソファのど真ん中にどかりと座っていた。

 両脇に、白粉の匂いのする女を侍らせている。どちらも、黒い髪に黒い瞳の、女だった。

 女が、まんざら商売向きでもないしなを作り、少年にもたれかかっている。彼女達は金を積まれればどんな男にでも股を開く商売をしていたが、だからといって男に好みがないわけではない。そして、彼女達の持つ美醜の基準からいえば、その少年の整った容姿は最上級のサービスに値した。商売を抜きにしても、ベッドを共にしたいと思うほどに。

 少年が、女の片方の胸に手を滑り込ませ、もぞもぞと動かした。女の、薄く扇情的な服に隠された柔らかな胸部が、少年の小さな手に揉みしだかれて、卑猥に形を変えた。女はびくりと体を震わし、少年を熱っぽい視線で見上げた。

 少年はそんな女を見下ろし、唇を奪った。舌と舌、鼻息と鼻息が交わるような、濃厚なキスだ。唾液が二人の口の中で掻き回され、淫靡な水音を立てた。少年は思うさまに女の口中を味わい尽くし、征服し尽くした。少年の口技に翻弄された商売女は、表情を弛緩させて、口の端から唾液を垂れ流していた。

 

「どうだよ、俺のキスは?気持ちよかったか?」

 

 少年が、呆けた女の耳に顔を寄せて囁いた。女が、呆けた顔のままに頷いた。少年は満足げに頷き、女の耳の穴に舌を差し込み、思う存分に嬲ってから、優しく囁いた。

 

「あとでもっと凄いことをしてやる。だから、大人しく二階で待ってな」

 

 少年は、女の胸の谷間に札束をねじ込んだ。胸ポケットに入れておけば銃弾を防いでくれるくらいに、分厚い札束だ。

 女は夢見心地で少年に抱きつき、頬にキスをした。何度もした。その度に少年の真っ白い肌に、鮮やかな紅の華が咲いた。

 少年がしっしと手を振ると、女は立ち上がり、乱れた格好を整えてから店の階段を昇った。途中、何度も熱っぽい視線を少年へと送り、少年は野性的な笑みでそれに応えた。

 

「さぁ、俺に抱かれたい女は他にいねぇのか!?ただし、黒髪で黒い瞳の女限定だ!もしもそれ以外の女がいたら、生まれの悪さを恨みな!いいか、黒髪で黒い瞳の女だけが、俺と一緒のベッドに入れるんだ!」

 

 少年が高らかに言った。店を、拍手と喝采が埋め尽くした。

 何人もの女が立ち上がった。我先に立ち上がった。その女達の全てが、黒髪で黒い瞳だ。だが、その半数以上が、髪を染めていた。カラーコンタクトを入れていた。少年が、そういう女にしか興味を示さないことを、噂に聞いていたからだ。

 無論、その程度のことは少年には分かっていた。

 少年は、偽物の女は歯牙にもかけなかった。ただ、本当に黒い髪で、黒い瞳の女だけを見繕って、己の脇に侍らせた。隣に座らせるのは、出来るだけ髪の長い女だった。

 新たに少年の隣を勝ち得た女が、少年のグラスに酒を注いだ。十分に値の張る、年代物の酒だ。少年はそのグラスを引ったくるように掴み、一息で空にした。また、周囲から歓声が起きた。気の良くなった少年は、それに応えてグラスを高く掲げた。

 

「羽振りのいいことだなぁ、あんちゃん。あやかりたいもんだ」

 

 粘っこい声が、少年の前から吐き出された。

 億劫な様子で、少年は顔を上げた。そこには、見るからに堅気とは思えない風体の男が、三人ほど立っていた。顔にはいくつもの傷が刻まれ、奇妙に表情が引き攣っていた。懐のあたりが少しだけ盛り上がっているのは、そこに物騒な品物を隠し持っているからだろう。

 周囲が、水をかけたように静まる。少年の周囲に侍った女達も、緊張に体を強張らせていた。

 男達は、そんな空気を愉しむように、にたにたと笑っていた。

 

「おめえみたいな小便臭いがきが、店を貸し切ってどんちゃん騒ぎ。そんで金をばらまいて裸の王様気分かい。ずいぶんと景気のいいことだな、おい」

「ああ、そうだよ。景気がいいんだ。だから、こうやって金をばらまいて、気分良く使ってやってるのさ。あんたらも飲むかい?いいぜ、ゆっくりしていけよ。俺の奢りだ、俺に感謝しながら一杯やっていくがいいさ」

 

 少年が、不気味に笑いながら言った。

 男の一人が、少年の前に置かれたテーブルを思い切り蹴りつけた。テーブルに置かれたグラスやらアイスペールやらが盛大なダンスを踊り、いくつかが倒れて、濃密な酒の香りを放った。

 店は一瞬息を飲む気配に包まれ、それからしんと静まりかえった。BGMのジャズだけが、間の抜けた調子で鳴り響いていた。

 

「いいか、洟垂れ小僧。金だけで人が思い通りになると勘違いしてるんだったら、それは間違いだぜ。そんな簡単なことを、今まで誰にも教えてもらわなかったのかよ。だとしたら、憐れなことだな」

 

 三人の真ん中に立った男が、体を屈め、息が直接かかるほど少年に顔を近づけて、言った。喉を絞り、地の底から響くような、どすの利かせた声で言った。

 サングラスの奥から覗く視線が、尋常ではないほどに鋭かった。人の視線に物理的な圧力があるなら、間違いなく皮膚を食い破るような視線だった。

 もしかしたら、人の一人や二人は殺していてもおかしくはない、そういう視線だった。

 そういう視線を向けられて、少年は笑った。不敵に笑ったのではない。可笑しくて笑ったのだ。

 

「……どしたい、あんちゃん。俺の言ってることが、そんなに可笑しいか」

 

 感情を感じさせない声が、怒り狂った声よりも恐ろしい。少年の周囲に侍った女達は、妙なとばっちりが自分達に及ばないことを、神に祈った。

 

「ああ、可笑しいね。あんたみたいなやくざものが、俺みたいながきに、そんな正論で怒鳴りつけるなんて、考えもしなかった」

「ほう、俺の言ってることが正論だと理解出来る程度の脳みそは持ち合わせているわけか。なら、さっさとこのどんちゃん騒ぎを収めて、この店から出て行きな。もちろん、こんな面倒事を起こした迷惑料を、たんまりと払ってな」

 

 少年は、鼻で笑った。尊大な様子で足を組み直し、リラックスした様子でソファに両腕をもたれさせた。

 

「妙な話だぜ。俺がこうやって馬鹿騒ぎしてりゃ、その儲けのいくらかは、あんたらみたいな人間の懐に滑り込むんだろう?なら、調子づかせてその気にさせて、気前よく財布を空っぽにしてもらおうとするのが筋なんじゃないのか?」

 

 男は、片頬をだけを引き攣らせるように、笑った。だが、目は少しも笑っていない。その表情のままテーブルの酒瓶を手に取り、少年の頭の上で天地をひっくり返した。

 どぼどぼと音を立て、酒が少年の頭を濡らした。少年の銀髪が、琥珀に色づいて照明を照らし返していた。

 

「俺たちにも、最低限の仁義ってやつがあるのさ。いいか、お前みたいなガキがばらまく金で、俺たちの懐が潤ってみろ。俺たちが、他のシマの人間から何て指を差されるか、分かるか?この世界は舐められたら終わりなんだよ。てめえみてえな、母親のおっぱいが恋しいガキが、酒の味を覚えるために酒場に出入りするのは構わねえさ。童貞を捨てるために、店の女に手取り足取りしてもらうのもいいだろう。だが、ここまで派手に遊ばれちまったら、俺たちとしても捨て置けねえのよ。どうだ、ここまで俺が丁寧に説明してやるなんて、宝くじに大当たりしたよりもラッキーなことなんだぜ?分かるだろう?」

 

 男はスーツの内ポケットに手を差し込み、黒光りのする金属をちらりと見せた。女が、ひっと息を飲んだ。拳銃だった。

 それでも、少年は笑っていた。笑って、懐に手を差し込んだ。

 男達に、ざわめくような緊張が走った。その様子がおかしくて、少年は声を出して笑った。

 

「おいおい、俺みたいなガキに、びびってんじゃねえよ。別に、おっさん達みたいに、おっかない代物は持ち合わせちゃいないさ」

 

 少年が、酒で水浸しになったテーブルを腕で拭い、その上に紙の束を置いた。

 札束ではない。この宇宙で最も信頼の置ける銀行──クーアカンパニー・バンクの、小切手帳だった。

 

「いくらだ?」

 

 少年は、片頬を歪めながら笑った。片手にはペンが握られており、小切手の左端の方に、数字の一を書き込んだ。

 

「……おい、そろそろ冗談じゃ済まなくなってきたぞ。それくらいのことが、その腐った脳みそにだって分からないのか?」

「ご託はいいんだよ。お前らの、裏の渡世で培ってきた誇りやら覚悟やらが、いくらで買えるのか、俺は知りたいんだよ」

 

 数字のゼロを、次々と書き込んでいく。

 数字は、あっという間に平均的な労働者の一生涯分の賃金を超えていた。

 

「あといくつゼロが欲しい?言えよ。いくらだって支払ってやる。何せこの小切手は、あのクーア財閥の二代目、ジャスミン・クーアの支払い口座なんだ。てめえらみたいな三下の想像が及ばない、凄まじい金が入ってるんだぜ」

 

 少年は、陽気な調子で言った。

 その言葉は、ちっとも嘘ではなかった。彼がその手に握っているのは、この宇宙で最も多額の預金が預け入れられた個人口座の、キャッシュカードだったのだ。

 

 

 全てが終わり、彼の手から大切なものの全てがこぼれ落ちた後で、少年は隠れ家へと舞い戻った。それは全く、敗残兵の有様だった。顔にも足にも心にも、覇気の一切が無かった。生ける屍と同義だった。

 家には、誰もいなかった。当たり前だ。それでも、誰かがいないかと期待した少年を、何人も責めることは出来ないだろう。

 少年は、家捜しをした。当面の生活資金が必要だったからだ。もうこの家に誰も帰ってこないと理解している分、タンスの引き出しを開ける様子に遠慮は無かったが、その点を除けばけちな空き巣とやっていることは変わらなかった。

 目当てのものはすぐに見つかった。別に、隠されているものではなかったからだ。何度も自分を叩きのめした、赤毛に青灰色──本当に怒ると金色に変わる──の瞳をした巨体の女、その荷物の中に、分厚い財布が入っていた。

 指を唾で湿らせて、その数を勘定した。当面の生活に困ることはないだけの資金が、そこにはあった。

 

『どうするの、これから』

 

 テレビの画面に、美しい女性が映し出された。その女性は、沈鬱な表情で、札束をポケットに突っ込む少年を見ていた。

 

『わたしたちは、確かに負けたわ。でも、最後の瞬間に勝っていればいいの。だから、勝負はまだ終わっていない。わたしたちが諦めない限りは』

「へぇえ、感応頭脳のあんたでも、そんな熱いことを言うんだな。でも、俺はもう御免だぜ」

 

 少年は、財布の中を探った。

 そこから、キャッシュカードを抜き取った。暗証番号は、適当な連中に金を掴ませれば、すぐに解読してくれるはずだ。

 財布の脇に、まだまだ分厚い小切手帳があった。それも、ポケットにねじ込んだ。

 他にも金目のものがないか、色々と探したが、収穫はこれくらいのものだった。あとは、女が持つには大きすぎる拳銃が数丁。それを、大ぶりのバックパックに突っ込んだ。

 

『わたしは、絶対にケリーを助ける。ジャスミンを助ける。最後まで諦めないわ。だから、あなたも協力して頂戴。彼らを助けるには、肉の体を備えた誰かの助けが必要なの!』

「なら、俺以外の誰かに頼みなよ。あんたが、少しばかり胸のあたりをはだけさせてやれば、鼻の下を伸ばして協力する野郎なんて、星の数ほどもいるさ」

 

 少年は、素っ気なく言った。

 バックパックを担ぐと、がちゃりと重々しい音が鳴った。

 

『メイフゥちゃんは……残念だったけど……でも、ウォルはまだ間に合うわ。ケリーとジャスミンも、まだ助けることが出来る。それは、あなたにしか出来ないことなの。だからお願い、わたしと一緒に戦って!』

「やなこった。折角助かった命だ。俺は俺の好きにさせてもらうぜ」

 

 少年は、平然とテレビ画面に背を向けて、歩き始めた。

 軽やかな鼻歌が、室内に響いた。それは、意気揚々たる有様であるはずだった。

 なのに、通信カメラ越しに見えたその背中が、感応頭脳である彼女にとっても、どれほど頼りなく、寂しげに見えたことだろう。

 

『……回帰祭、ウォルが生け贄に捧げられる祭りは、満月の夜に行われるわ。そして、その満月の夜は明日。もしもあなたが彼女を助けるつもりなら、チャンスは今しかない。そうしないと、あの子が、くだらない儀式のために、野獣の餌にされてしまう。それでもいいの?』

 

 感応頭脳の作り出した合成音声が、痛々しいほど豊かな感情を伴って、少年の耳に届いた。

 その声は、初めて少年の背中を引き留めた。少年の足が、ぴたりと、縫い付けられたように止まった。

 

『ねぇ、インユェくん。あなたはまだ諦められないんでしょう?本当は、ウォルのことを助けに行きたいんでしょう?だったら──』

「やかましい!人間未満の感応頭脳ごときが、さかしげに囀んな!」

 

 振り返った少年の顔は、凄絶なまでに歪んでいた。柳眉が逆立ち、鬼のような形相で画面越しの女を睨み付けている。

 いったいどんな感情が、端正なその顔を、そこまで歪ませているのか、感応頭脳である彼女には分からなかった。怒り、哀しみ、やるせなさ。その感情も、果たして誰に向けられたものか。自分、今は亡き姉、愛しき人──。

 おそらく、少年自身、理解出来ないのだろう。それが辛くて辛くて堪らないのだろう。

 彼女に計算できたのは、そこまでだ。それ以上のことは、電子の海で生きる彼女にとって、理解の及ばない領域であった。

 

「あいつは、俺だけでも生きろと言ったんだよ!死ぬなって言ったんだよ!それが、あいつの最後の言葉だったんだ!なら、どうして俺が、死ぬってわかりきってる相手に特攻出来るかよ!俺に、あいつを裏切れって言うのか!」

 

 岩でさえ溶かせそうな、灼熱の言葉であった。古代の竜が吐き出す火炎よりも、なお煮えたぎるような言葉であった。

 

「それとも、お偉い感応頭脳のあんたには、あいつを助け出せる明確な手段があるのかよ!?百パーセントあいつを助けられるのかよ!?だったら、俺だって乗ってやるさ!さぁ、言ってみろよ!」

 

 画面の女性は、答えなかった。

 彼女には、今三人がどこに監禁されているのかも分からないのだ。敵は彼女の存在を警戒してか、コンピュータ上から三人の痕跡を完全に消し去っている。こうなると、情報戦上の彼女のアドバンテージは全くといっていいほどに失われる。そうなると、肉の体を持たない分、彼女は無力な存在となってしまう。

 三人が確実に姿を現すとすれば、それは生け贄の儀式が行われるとき。回帰祭の祭壇となった、ヴェロニカシティスタジアムにおいてしかない。だが、そこは当然の如く、厳重な警備が敷かれているだろう。彼女のハッキングも、前回ほどの効果を持つとは考えにくい。

 協力者が必要だった。どうしても、肉の体を持つ協力者が。

 

『……正直に言うわね。今のわたしに、彼らを絶対に助ける手段がある、なんて言えないわ。でも、あなたの協力が無ければ、絶対に助けることが出来ない。だから、わたしはあなたにお願いするしかできないの』

 

 画面の向こうの女性が、深々と頭を下げた。

 

『お願い、インユェくん。わたしの相棒を、その奥さんを、そしてきみの愛するあの子を、助けて。わたしに、助けさせて。お願いします』

 

 少年は、応えなかった。一度も振り返らず、その家を飛び出し、二度と戻ることはなかった。

 

 

 少年の言葉に嘘は無かった。だから、悪いのは少年ではない。ただ、事実があまりに突拍子も無かっただけのこと。

 少年自身も、最初は嘘だと思った。この世に、これほどの桁数を誇る預金残高があるなど、考えてもみなかった。それも、これは個人名義の口座だ。こんなこと、常識で考えればあり得べき話ではない。

 あり得べき話ではないが、たった一つだけ、可能性がある。あの、女のくせに腕っ節が強くて、彼の姉以上に女には見えないあの女が、本物のクーア財閥二代目の、ジャスミン・クーアであるという信じがたい可能性だ。

 かのジャスミン・クーアは、既に故人である。もう半世紀も前に盛大な葬儀が執り行われ、その様子は全宇宙に中継された。伝わる情報では、体の弱い、儚い容姿の佳人だったらしい。その情報は、ちっともあの女とは一致しなかった。

 だが、図書館で引っ張り出した記録映像は、記憶にある女と記録にある女が同一人物であることを声高に叫んでいた。

 つまり、この残高記録に刻まれた数字の羅列は、本物だということだ。少年の、大金持ちになりたいという願いは、叶ったということだ。

 少年は、腹を抱えて笑った。面白くて可笑しくて、あまりに滑稽だった。

 食うや食わずやの放浪生活。のたれ死にが当然の宇宙生活者。その果てに求めたのは、王侯貴族のような生活を約束してくれる、巨万の富である。

 そしてそれが、今、少年の手の中にある。

 決して安楽な生活をしてきたわけではない。何度も死線をくぐり抜け、ようやく掴んだ大金だ。それが、コソ泥よりも汚い真似で手に入れたとして、金は金である。金に綺麗も汚いもない。少年の姉が、繰り返し口にした言葉である。

 そうだ。これで、少年の本懐は達せられたのだ。そもそも、あの少女は売り払うつもりだったのだ。姉も、一緒に売り払おうと言った。ならば、その結果通りになって、手元に大金が残っただけのこと。何から何まで、少年の思うさまではないか。

 手元に、何の暖かみもない、数字が残っただけのこと。ただの、使いようのない価値観の塊だけが残された、それだけのこと。

 ああ、そうだ。

 それなのに、それだから──。

 

「ふざけんじゃねぇ、糞餓鬼が!」

 

 少年の前髪が思い切り掴まれ、そのままテーブルへと叩き付けられた。少年の顔は盛大に大理石のテーブルへと口づける羽目になり、骨の削れる鈍い音をたてた。

 少年の言葉を、自分達への侮辱と受け取った男が、その怒りを爆発させた結果だった。

 

「人が大人しくしてりゃあどこまでもつけ上がりやがって!ええ、おい!その様で、さっきと同じ台詞を吐いてみやがれ!出来るもんならな!」

 

 少年の顔は、何度も何度もテーブルへと叩き付けられた。最初の一回で少年の顔は鼻血塗れになり、叩き付けられる毎に、にちゃにちゃという音が大きくなっていった。

 少年の隣に座っていた女達は、ソファの端の方で、身を寄せ合わせて震えていた。この嵐が、自分達に牙を向けることなく過ぎ去ってくれることを、心から願っていた。誰一人、少年を庇おうとはしなかった。

 そんなこと、分かっていたことだ。少年は、痛みと衝撃にされされながら、皮肉げに頬を歪ませた。

 男は、最後に満身の力を込めて、思い切り少年の顔をテーブルへと叩き付けた。それは、少年の頭蓋骨か、それとも大理石のテーブルが砕けるのではないかというほど、大きく鈍い音を立てた。

 

「いいか、糞ガキ。俺は気が短いんだ。一度しか言わねえから、その腐った脳みそにしっかり刻み込んどけ。もしもこれから、この界隈で、一度だって俺たちと顔を合わせたら、こんなもんじゃねえ、死にたくなるくらいの目に遭うと思え。それが嫌なら、今晩中に荷物をまとめてこの町から出て行くんだな」

 

 立ち上がった男は、未だテーブルから起き上がらない少年の頭部を踏みにじった。やや息を上がらせたその男の後ろで、二人の男がにやにやと笑っていた。

 

「相変わらず手加減がねぇなぁ、兄貴はよう」

「何言ってんだ。こんなの、兄貴にしたら優しい方さ。俺は見たことがあるぜ、本気で切れた兄貴はこんなもんじゃねぇよ。相手の息の根を止めるまで、絶対に止めようとしないからな。あの時だって、親分が必死になって止めて、それでも兄貴は最後まで殴ろうとしてたんだ。両手両足を押さえられて、最後は目で殴ってたぜ。そしたら、相手さんは小便を漏らしちまってよ。気の毒なことだったなぁ」

 

 そんなことを、笑いながら言った。

 

「余計なことを言ってんじゃねえ。ほれ、行くぞ」

 

 男は、部下らしき二人の男を従えて、踵を返した。どっと人混みが割れる。一言の脅し文句も、一睨みの視線もなく、誰しもが男達から逃げようとしていた。

 だが。

 

「けひ。けひひ」

 

 テーブルと一体化してしまったような少年の、細い背中が、揺れていた。

 男達が、静かに振り返った。その顔には、見事なほどに感情が抜け落ちていた。

 空白の視線で、先ほど自分達の痛めつけた少年を見下ろす。その、三対の視線の先で、細い背中が、痙攣するように笑っていた。

 

「……なにが、おかしいんだ、おい、こら」

「駄目だなぁ、あんたたちは」

「なんだと?」

「気づいてるかい?そんなだから、どこまで行っても駄目なんだよ。落ちるところまで落ちてさ、こんな片田舎のごろつきに収まっていい気になってりゃ、どうしたってこんなに駄目になるよなあぁ」

 

 少年が、ゆっくりと顔を上げた。

 端正な顔は、台無しであった。鼻を中心にどろりと血塗れになり、形の良い鼻も折れ曲がっていた。鼻の骨が折れているのだ。すぐにでも病院へと駆け込まなければならない、重傷であった。

 なのに、その顔は、笑っていた。血の絡みついた白い歯を、にぃと剥き、薄い紫色の瞳をかっと開いて、笑っていた。

 

「姉ちゃんは、もっと凄かったぜ。一発殴られれば、気持ちよくて天国に行っちまうんだ。それに、あのでか女も凄かった。ロッドを何発も叩き込まれてよ、血反吐を吐いてるのにちっとも手加減してくれねえでやんの。ウォルも、こういうことには容赦がなかった。こっちがどうしても殴って欲しい時に、どうしたって殴ってくれないんだ。あれが一番、堪えたなぁ」

 

 ふらりと立ち上がった。

 背の低い、少年である。男達にすれば、息子と同年代程度の少年である。どうしたって、恐れようのない少年である。

 しかし、その不気味な立ち姿が、どこか恐ろしかった。身長や体重、年齢などの些末事とは遠いところで、何故かその少年が、人以外の存在に見えた。背後に、妖気が漂っているような気すらした。

 男達が僅かに気圧されながら睨み付ける視線の先で、少年は、折れた鼻に手をやり、力任せに元の形に直した。思い切り鼻から息を吐き出し、ヨーグルトみたいに粘ついた鼻血をテーブルにぶちまけた。

 

「こんなので満足なのかよ、おっさんども。俺は、ほら、まだまだぴんぴんしてるんだ。それに、時間だって宵の口だ。宴は、これからが酣なんだぜ。それに、今度はこっちの番だろう?殴るって事は、殴られるって事だ。なのに帰るなんて、そんなつれないことを言うもんじゃねえよ」

 

 少年は、笑いながら、言った。

 そして、言うが早いか、テーブルを一息で乗り越えて、男達に飛びかかった。血塗れの顔に似合わない、驚くほどの瞬発力だった。

 だが、男達も、その道で禄を食んだ人間である。十分に場慣れはしている。少年の刃向かいに、驚きこそすれ狼狽はしなかった。それなりに格闘技の素養のある構えで、少年を迎え撃とうとした。

 流石に武器を手に取ることはなかった。こんな少年にナイフや銃を使ったのでは、それこそ名折れである。素手であしらい、それからきついお灸を据えてやればいい。三人が三人とも、そう思った。

 そして、それが致命的な誤りであった。

 少年は自分を捕まえようとする二本の手をかいくぐり、テーブルの上に転がっていた空の酒瓶を拾い、一番前に立っていた兄貴格の男の向こう臑を、思い切り殴りつけた。骨が砕ける鈍い音がして、男は情けない声を上げながら蹲った。後は簡単だ。手頃な場所にある顔をしっかりと掴み、思い切り膝を叩き込む。

 鼻の骨が砕ける、良い感触が少年に伝わった。

 少年が手を放すと、男は呆気なく倒れた。白目を剥いて悶絶していた。

 

「けっ、殴るのは得意でも殴られるのは慣れてねぇってか。お話にならねぇな、こりゃ」

「てめぇ、よくも兄貴を!」

 

 今は物言わぬ男、その後ろに控えていた二人の子分が、素っ頓狂な叫びを上げて飛びかかってきた。

 しかし、時すでに遅しであった。少年は、意識を失った男の懐の中から、先ほど自慢げに見せびらかしてくれた凶器を奪い取っていたのだ。

 そして、何の感慨もなく、その引き金を絞った。

 店内に、銃声と、硝煙の臭いが充満した。そして、息を飲むような、短い悲鳴。

 

「ぎゃぁっ!」

「がぁぁっ!」

 

 二人は同時に崩れ落ちた。一人は肩を押さえ、もう一人は太股を押さえていた。急所は外れている。否、外したのだ。見ようによっては、虫を殺したこともないように幼い表情の少年が、あまりに平然とした様子で、本物の拳銃を構えていた。

 

「おいおい、あんたら任侠だろうが。体にちっこい穴がいっこ空いた位で、そんなに情けない声で泣き喚くなよ。がっかりするじゃねえかよ」

 

 少年は銃を投げ捨て、ごろごろと転げ回る二人を蹴りつけ、顔に唾を吐きかけた。それでも、二人の男はひぃひぃと悲鳴を漏らすだけで、もはや少年に刃向かおうという気力は残っていないらしかった。

 少年は、つまらなそうに鼻息を一つ吐き出した。そして、呆気にとられた様子で自分を眺める酔客達に向けて、肩を一つ竦めて見せたのだ。

 

「すまねえな、みんな。白けさせちまった。今からこいつらを外に放り出してくるからさ、また飲み直しといこうや」

 

 陽気に言った。どうせ自分の金ではないのである。それに、こんな酒場の酒蔵を何度空にしたところで、底をつくほどに可愛げのある金額でもない。金は使われるのが使命ならば、精々使い尽くしてやるだけのことだ。少年は、そう思っていた。

 だが、その場にいた誰しもが、少年と目を合わせようとしなかった。気まずそうに視線を反らし、一人また一人と、店の出口を目指して歩いて行った。

 

「ま、不味いよ旦那。いくらあんたでも、これは不味いって」

 

 店のマスターが、おっかなびっくりといった様子で、少年に近寄った。

 

「あんたは上客だからさ、俺も出来るだけあんたを庇ってやりたいけど、これは駄目だよ。こいつらは、この辺りの顔だよ。後ろには、ここらで一番大きな、コンラート一家が控えてる。あんたは、その組の看板に泥を塗ったんだ。もう、ここらで出歩くことは出来ないよ。それに、誰もあんたの相手をしない。とばっちりが怖いからね」

「ふぅん、こいつらが、そんなにねぇ」

 

 少年は納得いかないふうに、鼻を綺麗に折り曲げて気絶した男の頭を踏みつけた。

 マスターが、短く悲鳴を上げた。

 

「もう駄目だよ。俺はきちんと忠告したからね。もしもあんたがこいつらに捕まってどんな目に遭わされても、それはあんたの責任だ。ただ、これは俺の独り言だがね、命が惜しけりゃさっさとこの町を出た方がいい。いや、この国を出て行ったほうがいいだろう。そうすれば、いくらこいつらでも追いかけようがないはずだ。それでも、あんたの死亡記事が新聞に載ったら、俺は、ああやっぱりかと納得しちまうだろうけど」

「なるほど、そんなもんかね」

「とりあえず、この店からは出て行ってくれよ。これ以上あんたに居着かれたら、この店もどんな目に遭わされるか分かったもんじゃないんだ。今まで散々稼がせてもらったから、今日の会計はまけとくよ。だから、さっさと出て行ってくれ。頼むから」

 

 マスターは必死に言った。半世紀ほども年の離れた少年に、頭を下げさえした。

 少年は、テーブルの端に置かれたおしぼりで血塗れの顔を拭い、栓の開けられたウイスキーのボトルに直接口をつけ、大きく煽った。

 少年の吐き出した吐息は、濃密なアルコールで濡れていた。

 

「おい、お前らの中に、これから俺についてくる女はいるか?」

 

 隅っこの方で小さくなった女達に向けて、少年は言った。

 女達は、小さく震えていた。そして誰一人、少年と目を合わそうとはしなかった。つまりそれだけ、この男達が属している組織を恐れているということだろう。

 少年は自虐的に顔を歪めた。

 これで、また一人だ。

 薄情なことではない。金で拵えた縁など、所詮はその程度のもの。最初から分かっていたので、少年は気落ちしたりはしていなかった。

 姉は死に、後見人の行方は知れず、あの少女は、五日も前の儀式で野獣の贄に成り果てた。野犬に全身をかみ砕かれ、骨も残らなかったのだと聞いている。

 もう、少年は一人だった。

 ああ、俺は一人だ。気楽なもんさと、胸中で呟く。

 ゆっくりと、外へと歩いた。まだ店内に残っていた奇特な客の幾人かが、少年に対して気の毒そうな視線を寄越していた。きっと、若い身空で命をドブに投げ捨てた少年を、哀れんでいるのか、それとも蔑んでいるのか。

 ご苦労なことだと、少年は苦笑した。そして、店の外を目指した。

 店の中には、まだ、間の抜けた調子のジャズが流れていた。女のシンガーが、切ない曲調で、別れた男への未練とその幸福を祈る心情を歌い上げていた。

 少年にとって初めて聞く曲だ。今まで人並みの趣味を持たなかった少年にとって、その曲が有名どころなのかどうかすら分からない。この星だけで流れている曲なのか、それとも全共和宇宙で親しまれている曲なのか、それすらも分からなかった。

 少年は、ゆっくりと歩いた。入り口までの短くない距離は、他人の、自分を眺める視線で一杯だった。さっきまで、まるで年来の仲間のように親しい視線を寄越していたのが嘘のようだ。

 まったく、この一週間、お前らに只酒を振る舞ってやっていたのは誰だと思っているのか。それは気の強い赤毛の女の財布だ。決して俺じゃない。だから、その視線は恩知らずではないな。

 

「何だ、みんな、わかってんじゃねえかよ」

 

 独りごちて、少年は苦笑した。

 そして、歩いた。その道中で、声を聞いた。

 

「……まだ、よく分からないのです。どうして……」

 

 意外に年若い声だった。まだ変声期も満足に終えていない、子供の声だった。

 あれだけの騒ぎが起きた店内である。いや、そもそも、こんな場末の酒場にどうして子供の声がするのか。我が身のことは棚に上げて、少年は不思議だった。

 

「……には少し前に言ったんだけどね、……が外れるのは、いくつかの限られた理由しか考えられない。そのうちで一番可能性が高いのは……の中の、太陽が死んだことだ」

 

 これは、もう少し年かさのある、男性の声だった。それにしたって、ずいぶんと高い音域の声だ。酔っ払いの耳になら、女の声のように聞こえたかも知れない。

 

「俺にはよく分からん。手札がどうこう、王様がどうこう、太陽がどうこう。まったくもってちんぷんかんぷんだ。もう少し、俺にも分かる言語で話してくれんかね」

 

 次に聞こえたのは、先ほどの二人分とは違い、随分と低い声だった。声の主の体の大きさ、精神の落ち着きを感じさせる、野太い声だ。

 少年は、声のする方向に、視線を遣った。そこは入り口にごく近い向かい合わせのテーブル席で、全員の顔ははっきり見えなかったが、仕切り代わりの観葉植物を大きく越える巨体が、一人腰掛けているのは分かった。岩のような筋肉に覆われた大きな背中、その上に乗っかった意外に小さな頭部は、蜂蜜色の短髪で飾られていた。

 

「要するに、こういうことだよ。あいつは、太陽の属性を持っている。おれと同じだ。そして、その太陽が死ぬことがある……」

「俺の意見は無視かい」

「悪いな。でも、あんたにとって、……の手札が外れた事なんて、別に大した意味はないだろう。だけど、……にはすごく大事なんだ。だからこうして説明してる。最初から気にならないなら、最後まで気にしてもらわない方がいいと思うよ」

 

 最後に聞こえたのは、やはり年若い子供の声だった。ただ、妙に張りがあり、強い声だった。

 少年は、興味を抱いた。この、荒んだ店内で、いったいどんな顔で、どんな内容の会話をしているのか。太陽だとか手札だとか、まるで年頃の少女が占いに興じるような内容だ。おそらくはそれほど楽しめないだろうが、馬鹿な会話はそれなりに面白い。

 気配を殺して近づいたつもりだったが、容易く気取られてしまった。蜂蜜色の大男がぐるりと振り返り、寒気のする視線で少年を睨み付けた。それは、先ほどのちんぴらなどとは比べようもない、凄みの籠もった視線だ。いったい幾人を殺しているか分からない、それを数えるのを止めてしまった人間の視線だ。

 少年は、総身が固くなるのを感じた。

 

「どうしたんだ、ヴォルフ」

「いや、何でもない。ただの子供だった」

 

 視線を外された少年は、全身から冷たい汗が沸き上がるのを感じた。

 そして、力無く、近くにあった席に腰を下ろした。これ以上近づくのは無理だ。こと、彼らの会話に耳を傾けるのが目的ならば、この席が限界だった。

 

「あの、リィ。陛下があなたと同じく、太陽の如きお人だとはわたしも理解しているつもりです。しかし、その太陽が死ぬとは、いったいどういう意味でしょうか。わたしには理解出来ないのですが……」

 

 おずおずとした声だ。

 そして、内容が全く意味不明であった。これは、宗教関係に脳髄を冒されてしまった、可哀相な人間の集まりなのかも知れないなと、少年は思った。

 それでも、なんとなく愉快なので、そのまま聞き耳を立てた。

 

「なぁ、シェラ。おれ達はこの世界に戻ってきて、色々な知識を身につけただろう。その中に、太陽の死を意味する自然現象があったはずだ」

「太陽の死……。超新星爆発のことですか?それならば天文学の授業で学びましたが……」

「ああ、そうだな。物理的にいうなら、そのとおりだ。でも、おれ達のもっと身近に、太陽の死を暗示する天体現象があるはずだ。それはあちらの世界でもそうだったし、この世界の多くの文明でも同じ意味を孕んでいる……」

「……日食、ですか」

「そういうことだよ、シェラ。あの日、僕の手札は王様のことを占い、悉く死のイメージを顕した。それは、王様自身の死じゃなくて、王様の象徴である太陽が食に陰ること、他の天体に覆い隠されたことを意味していたんだ」

「他の……天体……」

 

 少年は、苦笑を噛み殺すのに苦労した。まったく、場末の居酒屋に押しかけて、この連中は何と間の抜けた会話をしていることか。頭の中にお花畑が咲いているとしか思えない。

 先ほどの大男に気圧された自分が、なんだか情けなくなってしまった。あそこにいる連中は、きっと魔法や異世界のことを真剣に信じ込んでいる馬鹿者なのだ。今思えば、あの少女も同じ種類の人間だったのだろう。異世界の王様だと?その言い分を信じそうになった自分が、なんとも馬鹿らしかった。第三者の目で見れば、あの少女の言っていることも、今自分が聞いていることと五十歩百歩に違いないのだ。

 少年は意気揚々と立ち上がった。この阿呆な会話をしている連中の顔を、その目に焼き付けるつもりで近づいていった。

 その間も、奇妙な会話は続けられていた。

 

「しかしそれが、いったいどういう意味を持つのですか?」

「太陽を覆い隠す天体は数多い。でもそれが、太陽を完全に覆い隠すことの出来る天体ってなると、これは限られてくる。もちろん、星系ごとに事情は違うんだろうけど……」

「でもそれが、こと占いの世界の話になると、太陽を覆い隠すことの出来る天体は、たった一つだ。それ以外に、太陽を覆い隠すことは出来ないし、出来ちゃあいけない。それが決まりなんだよ」

「では、その天体とは?」

「月だ」

 

 少年は、ゆっくりと、その席に近づいた。

 まず、黒髪の青年が見えた。歳の頃は二十くらい。まるで女のようになよついた体つきだが、意外に線がしっかりとしている。いざという時に役に立つ、鋭いばねが仕込まれていそうな体だった。

 その青年が、ちらりと自分を見て、一度視線を外し、今度は大きく口を開けた間の抜けた顔でもう一度自分を見た。何か、とんでもないものを見つけた顔だった。

 

「月、ですか」

「あの時、あいつは手酷い怪我を負っていたはずだ。あいつの中の太陽も、相当に弱っていた。でも、それだけならルーファの手札は死に神のヴィジョンを出したりはしない。だから、あの時、あいつの近くには月がいた、それは間違いない」

「なんだか分からんが……その、太陽とか月とかが、そんなに重要なのかい?」

「おれ達にとったら重要なんてもんじゃないんだ。いいか、あいつの宿ったウォルフィーナの体は、もともとは碧の瞳に金色の髪、即ち神話の中の太陽と同じ外見だった。彼女に宿ったあいつの魂は、魔法街のおばばをして、おれと同じ太陽だと言わしめた属性。これなら、形式の後に実質が追いついてもおかしくない」

「え、エディ……」

 

 青年が、隣に座った少年の肩を叩いていた。その少年の顔は観葉植物に遮られてまだ見えないが、肩にかかった見事な金の髪だけが目についた。

 

「そして、神話の中の太陽であるあいつを覆い隠せるほどの月といったら、これはもう、銀盤の月以外にありえない」

「しかし、銀盤の月は、その、わたしのことだったのではありませんか?そして、あなたとルウが血眼になってこの世界を探しても見つからず、結局、あちらの世界でわたしはあなたと出会うことが出来た……」

「その通りだ、シェラ。だから、これは本当に後付なんだよ。あいつの魂とウォルフィーナの体が一緒になってもう一つの太陽になってしまったように、もう一つの太陽が生まれたことで、もう一つの銀盤の月がこの世界に生まれてしまった。全て、後付の理屈なんだ」

「エディ、エディってば!ちょっとちょっと!」

 

 テーブルの上には、酒瓶が林立していた。それも、酒に弱い人間ならば、一舐めで顔を赤らめるような、火酒ばかりだ。

 全て、あの巌のような大男が飲んだのだろうか。それとも、女のような顔をしたあの青年と、少年のような声の持ち主の二人が、やはり火酒を好んだのか。

 まあ、どうでもいいと少年は思った。そして、相も変わらず面白い表情で自分を見る青年に、物騒な笑みを浮かべてやった。今は自分の顔は、手拭いで清めたとはいえ、まだまだ血塗れのはずである。ならば、さぞ幸運を感じさせる顔つきだったに違いない。

 それでも、青年は、少しも表情を変えることなく、やはり阿呆のように、隣に座った小さな肩を叩き続けていた。

 

「なんだよ、ルーファ。痛いぞ」

「いいからエディ!あれを見て、あれ!」

 

 ルーファと呼ばれた青年が、思い切り少年を指さした。綺麗なブルーの瞳を、満開にしながら。

 そして、観葉植物の影から、一人の少年が、ひょいと顔を覗かせた。

 それは、柔らかそうな金色の髪をした、碧色の瞳の少年だった。

 まるで少女のように美しい、いや、少女よりも遙かに美しく、しかしその中に猛々しい何かを飼った、碧色の瞳と整った容貌。まるで、そう、野生の獣のような……。

 

 ──碧色の瞳をした、黄金色の狼だ。

 

 少年の中に、一番思い出したくない言葉が、実感と共に思い出された。

 

 ──お前ならば、一目で分かるだろう。

 

 少年は、理解してしまった。全ての理屈をすっ飛ばして、理解した。今、自分の目の前にいるのが、自分が今、世界で一番会いたくない人間なのだと。

 その人間が、少年──インユェの銀色の髪と、紫色の瞳を見て、驚いたように口を開き、

 

「あっ。銀盤の月、見つけた」

 

 銀の月の名を持つ少年を指さし、呆然とした口調でそう言った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。