懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
それにしても、痒い。
たまらなく痒い。
気が変になりそうなくらい、痒くて痒くてたまらない。
体中に凶悪な藪蚊が取り付いて、絶え間なく血を吸い続けているようだ。掻いても掻いても、痒さが紛れない。手が二本しかないのがもどかしい。ムカデくらいに手が生えていれば、体中を同時に掻き毟れるのに。
痒くて眠れない。眠る暇があれば、体を掻いていたい。体中を襲う掻痒感を、少しでも癒したい。
だから、ずっと掻き続けている。尻を掻いたら背中、背中を掻いたら首、首を掻いたら腹、腹を掻いたらまた尻……。
ずっとずっと、掻き続けている。
間の抜けた永久機関のようだ。
それにしても、俺の体はどうなってしまったんだろう。掻き傷から、得体の知れない汁が、じくじくと染み出してくる。
乳白色に黄緑色を少し混ぜ込んだようなその汁は、とても嫌な臭いがする。膿の生臭さを強烈にしたような、不快な臭いだ。何かが腐っている臭いだ。雑菌がこれでもかと繁殖している臭いだ。
その汁が、体の中からとろりとろりと垂れ落ちてくる。その汁が、体中の掻き傷から溢れてくる。その汁が痒みの原因のような気がして、さらに掻く。すると、汁に血が混じり、形容しがたい色になる。血と汁の混じった液体が固まり、瘡蓋のようになる。瘡蓋の下の肉が盛り上がり、瘡蓋が破れ、その裂け目から汁が溢れてくる。裂け目を指で掻くと、でっかい瘡蓋がべろりとはがれ、その下一面に濁った汁が溜まっているのだ。
巨大な面皰みたいな盛り上がりが、体中を覆い尽くしている。それは、マッコウクジラの頭に付いたフジツボに似ている。その面皰のお化けを潰すと、真っ白な塊がぴゅると飛び出して、その後から、たらたらと汁がこぼれ落ちてくる。
もうめちゃくちゃだ。俺の体は、汁に埋め尽くされている。
体が、ぼこぼこと盛り上がっている。へたくそな粘土細工のようだ。誰か、どうにかしてくれ。
もう、恐ろしくて、鏡を見ることが出来ない。何故なら、顔も、頭も、痒くて痒くて、一番掻き毟っているからだ。束状に抜けた髪の毛が、床に散乱している。それは、頭皮ごとごっそりと抜け落ちていて、ぷつぷつとした脂肪の層が見えている。頭に手をやると、掌一面に、ねちゃりと糸引く感触があった。
あんまり痒いから、耳も引きちぎってやった。掻き続けているうちに、鼻が少しずつ削れて、今はどこに鼻があったのか分からない。そこには、二つの塞がりかけた穴があって、悲しげにひゅうひゅうと隙間風を鳴らすだけだ。
顎先から、ぼたぼたと汁が滴り落ちる。汁が固まり肉の盛り上がった顔が引き攣って、もう思うように表情を作ることが出来なくなった。
恐ろしい。鏡を見ることが、恐ろしい。
俺は、きっと病気なんだ。何か、死に向かう病に冒されているのだ。
助けて欲しい。医者だ。医者を呼んでくれ。
でも、声が出ない。声の出し方を、忘れてしまったようだ。声を出そうと口を開けば、喉からはごぼごぼと得体の知れない音が鳴って、大量の汁が溢れ出た。口の中の汁が、ねばねばと糸を引き、唾液と混ざって泡立っていた。
でも、口の動かしかたは覚えているんだ。それを忘れてしまったら、ものが食べられなくなってしまう。
食欲は、ある。以前よりも、腹が減るくらいだ。腹が減って減って、堪らない。胃の底にでっかい穴が空いて、折角食べたものが体のどこかに落っこちてしまっているようだ。
でも、俺は健康志向だ。食べ過ぎれば、無駄な肉が付く。俺はそんな、惰弱な人間じゃない。
だから、きっちり一日三食。一食につき、一人分。それ以上は絶対に食べない。間食は健康の敵だ。
どうだ。まるきり健康的な生活だ。ただ、汁が溢れて、体中が痒いだけだ。なんだ、その程度のことだ。俺はまだまだ正常じゃないか。だって、こんなにも腹が減るんだ。
今日も、腹が減った。きっちり食べよう。食べれば、きっと病気も治る。だって、こんなにも腹が減るんだ。食欲が健康のパラメータなら、俺はすこぶる健康だってことだ。
飯だ。飯を寄越せ。
ドアを殴りつける。金属製のドアが、ぎしぎしと軋む。これが食事の合図だ。こうすれば、ドアの下の小さな窓から、食事が差し込まれる。何度か殴っているうちに、ドアと手の間に、ねばねばと糸引く、汁の橋がかかっていた。
今日のメニューは、何だろう。昨日は、白色だった。その前は黒色。今日は、肌色がいいかな。
どれでも、いい。どれでも、一人分だ。
がちゃりと、窓が開いた。どさりと、何かが放り込まれた。一人分の肉の塊は、何か訳の分からないことを喚いて、俺を見て、大きく目を見開きながら悲鳴を上げた。
駄目だ。俺を見ないでくれ。そんなにきらきらしい瞳で見られたら、俺の姿が映り込んでしまう。
嫌だ。俺は、俺を見たくない。俺が俺を見るまでは、俺は以前の俺でいられるんだ。
信じさせてくれ。俺は、全く以前のそのままだと。
だから、その瞳は、邪魔だ。
俺は、その瞳に指を突っ込み、くるりとえぐり出し、視神経がぷらりと伸びたそれを、口の中に放り込んだ。こりこりと固い眼球を噛みつぶすと、中に詰まったどろどろの液体が勢いよく飛び出した。
肉の塊が、血の吹き出す顔に手を当てて、床を転げ回っている。何かをしゃべっているらしいのだが、もう、何を言っているのかわからない。
おかあさん、いたい、みえない、たすけて。
それは、どういう意味だろう。
俺に分かるのは、痒い、腹が減った、鏡が怖い。
これくらいなのに。この肉の塊は、何とたくさんのことを知っているのか。俺も、少し前まで、たくさんのことを知っていた気がするのに。
どうしたら、思い出せるだろう。この肉の塊のように、賢くなれるだろう。
ああ、そうだ。
脳みそだ。確か、人間の頭の良さは、この頭の中に詰まった、頭の塊の中に入っているのだ。
頭の中を食べれば、頭の中に詰まった頭の良いものが俺の頭の中に詰まるから、俺の頭が少しはこの肉の塊の頭の中みたいになってくれるはずだ。
頭を食べよう。一人分の頭の中を食べれば、俺の頭の中は一人分の頭の良さを頭の中に詰め込むことが出来るのだ。
この、糸くずみたいなのは邪魔だな。全部毟り取ってしまおう。これは食べても美味しくないことは、随分前から知っているんだ。噛んでも上手にかみ切れず、口の中の肉と絡まり合ってちくちくする。
少しずつ引っ張ると、ぶちぶち抜ける。たくさん引っ張ると、頭の表面ごとばりばり剥がれ落ちる。たくさん引っ張った方が、楽みたいだ。髪の毛と一緒に千切れた頭の表面は、まるで俺の髪の毛みたいに、どろりとした血と肉と黄色い脂肪の粒がひっついていた。
目の前には、まるで赤いメロンみたいな頭の、肉の塊が、何事かを泣き叫びながら、血の涙を流していた。
あんまり煩いから、その口みたいな場所を、がぶりとやった。真っ赤な陥没が出来て、それは、口の中を剥き出しにして、声にならない声を上げながらごろごろと転げ回った。
俺は、口の中にある白い塊を、器用に舌で集めて、吐き出したんだ。それは、まるで歯のような気がしたけど、俺の歯はそんなに小さくないから、きっと別のものに違いなかったんだ。その白いものは固くて美味しくなさそうだったけど、口の中でぴちぴちと跳ね回る桃色の肉塊は、こりこりとした歯ごたえで美味しかったです。
ああ、そろそろこの一人分も、動きがゆっくりになってきた。ばたついていた手足がのろのろと、吐く息もぜぇぜぇと、喉に絡みつくようだ。
駄目だ。死んでしまったら、脳みそが腐る。腐った脳みそでは、俺の頭の中に入っても、きっと以前の俺に戻るほどに頭が良くはなってくれないだろう。
だから、一口で、頭を食べた。
卵の殻を囓ったような食感のあとに、濃厚な、とろりとした舌触りの柔らかいものが、溢れ出てきた。頭を失った小さな体が、びくんびくんと面白い痙攣を繰り返した。
これで、俺は人間に一歩、引き返せたんだろう。だって俺は、まだまだ人間なんだ。変な汁を体中から撒き散らしているだけで、妙に腹が減るだけで、それだけの人間なんだ。
それが嬉しくて、こりこりと食べた。首は細い。胸は、まだまだ育ちかけだ。心臓は、血をポンプみたいに吹き出し続けて、勿体ないから、肉の塊を逆さに向けて溢れる血をごくごくと飲み干した。内臓はほろ苦くて、上等の味がしました。
俺はお行儀が良いから、育ちもいいから、最後まで残さなかった。指先まで、ごきごきと食べた。そこらへんは肉がほとんどなくて美味しくないのだけれど、残さずに食べた。肉付きのいい太股はとっても美味しそうだったけど、それは以前に言っていたのとは違う意味がする気がする気がする。
ごちそうさまでした。これで、一人分。一人分しか食べていないのだから、つまりこれは普通の人間の食事量ということだ。つまり、俺は普通の人間だということだ。
それにしても、腹が減った。飯はまだだろうか。体がこんなにも痒くて、全身から得体の知れない汁が噴き出しているのだそれなのに、医者の一人も姿を現さなくて、俺はこんなにも腹が減っているのはどういうことだろうか飯を出せ飯を出せ俺は一日に三回しか食べないんだ一回はきっちりと一人分だがんがんと鉄拵えの扉を叩くと下の覗き窓から今度は黒色のお肉のお塊がごろりと転がってああ久しぶりの飯だ今日一度目の飯だそれにしても頭が悪い体が痒いこの肉塊の頭を食べれば俺は少しだけ人間に戻れるのだろうか戻れるのだろうか戻れるのだろうか戻れるのだろうか多分もう無理だ。
──え゛、え゛、え゛……。
どこかで、恐ろしい鳴き声が聞こえた。
この地下には、きっと醜い化け物が住んでいるのだ。
◇
「いったいどういうことだ。おれにも分かるように説明してくれ」
『すまない、エドワード。僕にも何が起きているか、まったく掴めていないんだ』
画面に映った。惑星ベルトランのコーデリア・プレイス州知事である、アーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインは、苦悩と困惑を隠しきれない表情で言った。
『僕のほうこそ聞きたいくらいだ。どうしてウォルが、ヴェロニカ共和国にいるんだ?そして、どうして彼女が得体の知れない宗教儀式の生け贄なんかにされなければならない?そもそも、ヴェロニカ教にそんな野蛮な儀式が伝わっていたなんて初耳だ。近頃のあの国は確かにお世辞にも評判のいい政情ではなかったが、それにしてもこんな無益な行いをするなんて……』
アーサーの狼狽も無理からぬことであった。
ヴェロニカ共和国が連邦からの脱退を表明したのが昨日のこと。それと同時に、過去より行われてきた宗教行事において、惑星ベルトランのコーデリア・プレイス州知事の娘を生け贄に捧げることを発表したのだ。親の罪を娘に償わせるという記事が続いていたが、あまりに馬鹿馬鹿しいのでそこは読み飛ばしている。
とにかく、ヴェロニカ共和国にウォルがいること。そして、その身がただならぬ危機に晒されていることだけは、間違いがないようだ。
リィは、平静を装った表情の奥に、灼け付くような感情を隠したまま、画面に映った遺伝上の父親と相対していた。
「あいつがあの星にいるのは、単なる家出だ。おれ達は、それを迎えに行く最中なんだ」
『家出……?まぁいいさ、お前が言うならそうなんだろう。だが、それにしても、僕が無計画に自然を開発し、何百という貴重な自然動物を絶滅に追いやったとか……。どう考えても当てこすりだ。いや、仮に僕がそうしたのだとしても、どうしてあの子がそのために殺されなければならないんだ?全くもって理解出来ない!』
若干ヒステリック気味な口調で、アーサーが言った。年若くとも、一つの行政区の長を務める彼だ。このように周章するなど、そうあることではない。その一事を見るだけで、この問題で彼がどれほど心を痛めているか、そしてどれほどの労苦を背負っているのかが窺い知れてしまう。
『……連邦は、当然のことだが、ヴェロニカ共和国に対する非難決議の準備に入った。それが可決されれば、有形無形の圧力があの国を雁字搦めにするはずだが……あまりに時間が無い。このままでは、あの子が、僕の新しい娘が、くだらない儀式の生け贄にされてしまう』
「させない」
リィが、短く言い切った。
碧色の瞳が、恐ろしい程の烈しさで輝いている。言葉の隅々にまで、燃えさかるような決意が漲っている。
たった四文字の言葉が、幾百幾千の美辞麗句などより遙かに、彼の心情を顕していた。
画面の先の、若々しい顔つきの男が、長々とした溜息を吐き出した。
『……わかった。僕は、情けない父親だ。ウォルの父を名乗りながら、しかしこういう状況では手も足も出ない。全てを放り出してあの子を救いに行くことすらできやしないんだ。だから、全てをお前に任せることしか出来ない。許して欲しい』
「アーサー、それは違う。もしもお前が全てを放り出して惑星ヴェロニカに行ったとして、何が出来るわけでもないだろう。逆に、おれは政治の舞台を利用して、あいつを助ける方法なんて知らない。だから、お前にはお前しか出来ない方法で、あいつを助けてやって欲しい。おれは、おれにしか出来ない方法で、あいつを助ける。それが一番効率的だ」
アーサーは、あめ玉を飲み込んだように目を丸くして、画面越しの我が子を見た。
そして、苦み走った笑みを浮かべた。
『そうだ。お前の言うとおりだよ、エドワード。僕も、きっとその程度のことは分かっている。しかし、お前のような子供にその台詞を言われてしまうと立つ瀬がないというか何というか……』
「いいんだよ。任せるべきところは任せるのも、大人の度量だぞ」
『我が子にいいところを見せたいのが、父親の救いがたい性というやつだ。察してくれ』
リィも苦笑した。
これからは定時に連絡を取り合うことを約して、恒星間通信を切った。
通信室を出たところで、常識外れの巨体と、ばったりと出くわした。
「おお、リィか。どうした、こんなところで」
小柄なリィは、首を急角度に上向けなければ、言葉の主と視線を合わせることが出来なかった。
「別に大したことはしていないよ。そういうお前こそ、通信室に何の用があるんだ、ヴォルフ」
巨人めいた男は、蜂蜜色の短髪に覆われた頭部を、太い指先で乱雑に掻いた。
「別に大したことじゃないさ。しかし、宮仕えの悲しさだな。上役は、いつだって飼い犬のリードが、自分の手に握られていることを確認しないと我慢できないらしい」
要するに、職場の上司に連絡を取るつもりなのだろう。手には、ウォルの生体情報をキャッチするための端末が握られている。
「それ、どうするんだ?」
リィが、ヴォルフの大きな手にすっぽりと収まってしまった携帯端末を指さして言った。
ヴォルフは、大きく肩を竦めた。その拍子に吐き出した大きな溜息が、予想外の風量をもってリィの前髪をなぶった。
「さぁ、俺はよく知らんよ。だが上の連中は、安心したいんじゃないか。ウォルが生きてくれてさえいれば、まだ失地回復の可能性はある。だが、もしも既にくたばっているなら、いよいよもって惑星セントラルからの脱出を考えなくちゃならん。そういうことじゃないのかね?」
「それは、あいつを失ったおれが怒りに狂って、この宇宙の端から端までをめちゃくちゃにすると、そういうことなのかな?」
「俺に聞かれても困る。それを心配しているのは俺じゃなくて上の上の上の……よく分からんが、とにかく上の人間なんだ。お偉方が何を心配していらっしゃるのかは、お偉方に聞いてくれ」
「お前は心配じゃないのか?」
「俺かい?俺は、そうだな、今日死んで困るほど人生で積み上げてきたものもなし、出来れば痛くしないで欲しいのと、死ぬ前に浴びるくらいに酒を飲ませて欲しいくらいかね。どうせ、どんな人間だって一度は死ぬんだし……」
大口を開けて欠伸をしながら、そんなことを言った。
「ま、あんたにとってウォルが大切なのはわかるけど、ほどほどにしとくんだな。あんたにとってはどうでもいい他人だって、誰かにとっては掛け替えのない人だってことは往々にしてあるわけだし……」
「そんなことは重々承知の上だ。それでも許しちゃいけないことはいくらだってあるんだ」
ヴォルフは肩を竦めて、その大柄な体を通信室の扉の中にねじ込んだ。
しかし、ヴォルフの言はおおむね正しかった。今、共和宇宙連邦の本部の置かれた惑星セントラルは、数週間前に演じた狂騒劇──ウォルという少女が研究所で捕獲された時だ──を拡大再生産したような、とんでもない恐慌に襲われていたのだから。
連邦の主席であるマヌエル・シルベスタン三世などは、時計の針が進むのと同じくらいの頻度で、天に坐す運命の神への恨み言を心中に吐き捨てていた。どうして自分ばかりこんな目にとは、およそこの世で不幸に見舞われた人間の過半が呟く台詞であるが、彼の台詞には一層の真情が込められていた。
『申し訳ありません……。本当に、我々も、いったい何が起こっているか、全く把握出来ていないのです……』
つい先ほど、惑星セントラルの連邦最高議会に直接繋がった恒星間通信の画面で、マヌエル・シルベスタン三世は、顔面を蒼白にして、細かに震えながらそう言った。
目の下には黒々と不吉な隈が出来ており、頬がげっそりと痩けている。ウォルが虜囚となっていることが明らかになってから一日と経っていないことを考えれば、事件が彼にとってどれほど衝撃的で、どれほど多大なストレスをかけているかが伺い知れようというものだ。ひょっとしたら、既に胃に潰瘍の一つも拵えているかも知れない。
額にぽつぽつと浮いた脂汗を絹のハンカチで拭きつつ、震える唇を開いた。
『このような言葉があなた方にとってどれほどの意味も持たないことは承知しておりますが、断言させて頂きます。今回の事件に、共和連邦政府は一切関与しておりません。我々は、蒙昧な宗教儀式に人身御供を捧げるが如き、前時代的で野蛮なことは、この宇宙の隅々においてまで排除する所存でおりました』
怯え竦みながら辛うじてそう言った連邦主席の前には、少しだって感情を読み取ることの出来ない、凪いだ表情の少年がいた。
柔らかそうな金色の巻き毛。長い睫に縁取られた鮮碧色の瞳。そのまま最高級のビスクドールとして美術館に飾れそうな少年は、連邦主席にとって恐怖の代名詞であった。その少年が、怒るでもなく非難するでもなく、当然慌てふためくでもなく、静かな瞳でじっと自分を眺めているのだ。これは悪夢か、これが悪夢ならば一刻も早く覚めてくれと、マヌエル・シルベスタン三世は意地の悪い神に祈った。
それでも、彼はまだ幸福であったのだ。これでもしも、少年の隣に、少年の相棒を名乗る黒髪の青年などがいれば、襲い来る恐怖はこの程度ではなかった。テレビ画面越しに、一切の特異能力を用いるでもなく、二人の視線は連邦主席の心臓を止めていたかも知れない。
「言葉は立派だが、行動がそれに追いついていないらしいな、主席。あんたの決意が本物なら、どうして連邦加盟国であるヴェロニカ共和国政府が、おれの伴侶を、前時代的で野蛮で無知蒙昧な宗教儀式の生け贄に捧げるなんて話になっているんだ?」
それは、リィなどからすればまったくもって当然の疑問であった。怒りとか困惑とかの以前に、この近代的な共和宇宙の片隅で、歴史の影に埋もれてしまったような前近代性が顔を出すのか、彼には不思議で仕方なかったのだ。
だが、その程度の簡単な疑問に、連邦主席は回答を持たなかった。黙り込み、既に給水能力の限界を越えているハンカチで、額と首筋を何度も拭うのみであった。
「結局、全ては調査中ということか?」
溜息混じりに吐き出された言葉に隠す意思のない嘲弄を感じた主席であったが、彼に出来ることといえばその身を縮めて嵐が通り過ぎるのをひたすら待ち望むだけであった。
少年は、この時点で会談の無意味さを悟った。このまま目の前のスクリーンに映り込んだ男をやり込めるのは簡単だが、ウォルを助け出す上でそれは全く意味を持たないことを、少年は知っていた。時間は有限の資源で、今や黄金よりも高い価値を持つ。溜置きの出来ない資源であるならば、最も有効なことにこそ利用するべきだ。
「あんた達が、今更おれ達にちょっかいかけるほど頭の悪くないことは、おれも分かっているつもりだ。だが、あんたの部下や、そのまた部下がどう考えるかは、おれは知らない。そして、あんたの友人も」
言葉に、恐ろしいものが込められた。それは主席にとって、猛獣の牙を首筋に突きつけられたのと同じ意味を持っていた。
『可能な限り早急に、調査を致します。そして、我らの力の全てをもって、あの少女を救うことを約束します』
「ああ、期待してるよ」
少年自身、あまり心の籠もらない口調だったなと思った。そんな声だったから、画面越しの疲れた男の表情も、少しだって和らぐことはなかった。
『微力を尽くします。しかし、しかしもしも最悪の事態になった場合……これは連邦主席ではなく、共和宇宙に暮らす一人の人間として、あなた方にお願いしたい。この事件を引き起こした卑劣な人間は、この共和宇宙に暮らす、極々一握りの人間でしかないことを理解して欲しいのです。そして、どうか短慮を起こし、避けうる悲劇を招くことのないよう、心の底よりお願いしたい』
必死の懇願に、少年は冷笑を浮かべた。
「お前達はいつもそうだな。自分達の仲間の引き起こした事件について、それはあずかり知らないことだとしらを切る。いや、知らないのは本当だろう。だが、おれの大切なものを奪うのは、いつだってお前達なんだ。父親の時もそうだった。お前達がおれにとって有害であるとするならば、それを駆除したいと願うのはそれほど突飛な発想かな?」
少年は、首を可愛らしく曲げながら言った。だが、その口元に刻まれた笑みの鋭さは、少年の無垢性を黒く塗りつぶして余りあるほどに不吉そのものであった。
連邦主席は、口からいくつもの言葉が飛び出そうになるのを、必死の想いで我慢した。
あなただって、あなたの嫌う人間の一人ではないか。だいたい、あなたの大切なものだって、その中にはいるはずだ。
それは真実に違いないのだろうが、しかし今の自分がそれを言えば、怒りに火を注ぐだけになるだろう。それに、もしも『ならば大切な存在以外を消し去ってやる』と言われたとき、自分が少年にとっての大切な存在に該当するとはとても思えない彼にとって、それは死刑執行宣言にも等しい意味を持つ。
結局、主席に出来ることは、既に拭くものの無くなった脂汗を、たらたらと流し続けることだけだったのだ。
「あんたらが頑張ってくれるのは正直にありがたいよ。でも、だからといって、あいつが何の罪もなく殺されたなら、おれは平静でいる自信はない。それだけは覚えておいてくれ」
『はい……』
「それと、情報が欲しい。今、あんたらが掴んでいる情報の全てを、こっちに送ってくれ。惑星セントラル方面からの通信は、今の宙域なら問題ないみたいだからな」
今、リィの乗る《ピグマリオンⅡ》は、やはり宇宙嵐の中を飛んでいる。惑星ヴェロニカからの情報は、全く入ってこない。嵐の影響で、通信に使われる中継機が深刻な不具合を起こしているからかも知れない。ならば、まずは正確な情報を欲するのは当然といえた。
主席は、些か躊躇した様子だったが、しかし頷く以外の選択肢を彼は持ち合わせていなかった。下手に出し渋りをして、その結果事態が悪い方向に傾いたならば、それは紛れもなく彼自身の責任になるからだ。
『……分かりました。ただ、先に申し上げておきますが、あの少女の伴侶であるあなたには、些か残酷な映像もございます。あのように下劣な行いをしたのは、ヴェロニカ国民でも極々一握りの卑劣漢であり、その者以外に罪のないことをご留意頂きたい』
通信を切ってしばらくしてから、いくつかの文章ファイルと映像ファイルが送られてきた。
ヴォルフが退室した後の通信室で、リィはそれを、部屋から呼んできたルウと共に見た。《ピグマリオンⅡ》の乗務員はもちろんのこと、シェラやヴォルフにも同席を許さなかった。
主席があれほどの断りを入れるだけの何かが、この中に入っているのだ。同盟者の名誉のためにも、目にするのは最小限の人間であるべきだ。出来れば、自分一人がいい。
しかし、もしもの場合に、自分を止めてくれる誰かが必要だ。それが可能なのが、この広い宇宙にたった一人しかいないことを、リィは弁えていた。
「いくよ、エディ」
緊張した面持ちのルウが、コンソールを操作した。
そしてスクリーンに、監視カメラで撮られたと思しき映像が流された。薄暗い、どこかの部屋だ。石造りで、どうにも寒々しい様子である。
そこに、少女が映っていた。黒髪、黒い瞳、整った容姿。リィにとって見知った少女であり、魂の一番深いところで結びついた同盟者の少女だった。
その少女が、裸に剥かれ、手錠と足錠で自由を奪われていた。まるで飼い犬のように首輪を巻かれ、囚人よりも惨めな様子で地面に転がされていた。
ルウは、怒りと共に、言いようのない恐怖が沸き上がるのを感じた。それは、リィの父親である黒い狼が人間に殺されたことを聞かされた、あの時の衝撃に近かった。ルウは、自分の相棒である少年の魂が、醜い怒りに汚されるのを、何よりも恐れたのだ。
「エディ……」
気遣わしげに隣を見遣る。
リィの表情は、寸分も違わなかった。じっと、画面を見つめている。碧色の瞳は平静で、鏡面のように澄んでいる。
だが、ルウは全身に鋭い切っ先を突きつけられたように感じた。その冷たい気配が皮膚の中に潜り込み、痛覚を冒していく感覚すら覚えた。
これは駄目だ。
ルウは、映像を止めた。静止した画面には、きちんとした仕立てのスーツを纏った赤毛の青年と、それを見上げる少女が映し出されていた。青年の表情には、発情した雄特有の、脂っこい笑みが浮いていた。
「エディ、駄目だ。これ以上は、きみは見るべきじゃない。僕だけで見る。王様の身に起きたことは、きみにだけ話す。そして、他の誰にも話さない。剣に賭けて誓うよ。口を切り裂かれても、舌を抜かれても、絶対に話さない」
リィは、落ち着いた様子で、首を横に振った。
「ありがとう、ルーファ。でも駄目だ。おれは、絶対にこの映像を見なくちゃいけないんだと思う。たとえあいつがどんな目に遭わされるんだとしても、それを見届ける義務がある。だっておれはあいつの伴侶で、同盟者で、そして婚約者なんだから」
「でも、王様は、エディにだけは見られたくないと思うかも知れない」
ルウの意見はもっともであった。愛する者だからこそ、絶対に見られたくない姿というものは確かに存在する。
その程度のことは、リィも承知している。それでも、リィは再び首を横に振った。無言で振った。
ルウは、リィの柔らかな微笑みを見て、何も言えなくなってしまった。諦めた様子で、映像の再生ボタンを押した。
そして、画面に流れたのは、おぞましい陵辱の場面であった。青年は、手足を縛られて抵抗はおろか身を守ることすら出来ない少女に、ありとあらゆる暴力を振るった。
美しい顔を殴った。柔らかそうなお腹を蹴り上げた。頭を踏みつけ、傷口を深々と抉り、少女の絶叫を愉しんだ。
それは、身の毛も弥立つ、邪悪の光景だった。
「……酷い」
ルウが呻いた。それは、自分の見知らぬ他人に行われているのだとしても、はっきりとした怒りを覚えるに十分な映像なのだ。なのに、そこに襤褸雑巾のような有様で、半死半生の様子で蹴り転がされたのは、自分の大切な人なのだ。
精神の奥底から、何かが沸き上がってくる。卵の殻と中身が裏返ってしまうような、嫌な予感。べりべりと、皮膚の全部を力任せに剥ぎ取られるような悪寒。
何者かが、自分と入れ替わろうとしている。それはきっと、笑いながら誰かを殺せる自分だ。あの時、魂の相棒である少年に再びの侮辱を与えた人間達に鉄槌を振り下ろそうとした自分だ。自分の一番嫌いな、自分だ。
涙が出そうになる。嗚咽と一緒に反吐が漏れそうになり、強引に歯を食いしばった。その細い肩が小さく震えていた。
もう駄目かも知れない。そう思った青年の肩を掻き抱いたのは、隣に腰掛けた少年だった。
「大丈夫か、ルーファ」
涙の溜まった青い瞳が、縋るように少年を見上げた。
「ごめんね、エディ。一番辛いのは僕じゃないのに……」
「分かってる。おれの代わりに、お前が怒ってくれたんだ。そして、おれはお前の代わりに慰めてやる。それでいいじゃないか」
二人は、再び画面に視線を戻した。
少女に対する暴力は一段落していた。その代わり、少女の腕には深々と注射針が突き立てられ、その中にたっぷりと詰められた薬液が、一滴残さず少女の体に注入された。
「あの薬はなんだろう。わかるか?」
リィの言葉に、ルウは首を横に振った。
「でも、碌な薬じゃないのは確かだ。多分、自白剤とか、拷問用の麻薬とか、そういうものだと思う」
言葉にして、そのおぞましさに青年は身震いした。あの赤毛の男は、王様に何をするつもりだ。王様を、どうしたいのだ。
最悪なのは、致死性の毒薬だということだ。だが、無抵抗の少女を殺すのに、わざわざ毒薬を使う必要はない。
ならば、自我と精神を破壊し、人形のような奴隷とするための薬。例えば、あの忌まわしきトポレキシン麻薬のような……。
薬を打たれた少女は、苦しみに身もだえし、地面をのたうち回った。その様子を愉しげに見遣る青年を映して、映像は途切れた。
しばらく、ルウは、言葉もなかった。あの誇り高い国王が、こんな目に遭わされているなんて、夢にも思わなかった。これも全て、自分の占いの精度が悪かったからだと、自責の念に囚われていた。
自分でも、これだけの悪寒に囚われているのだ。ならば、少女と、魂の奥底で結びついたリィの怒りはどれほどのものだろう。おそるおそる、ルウは隣に目を遣った。
「よくもまぁ、おれの同盟者にここまで好き放題をしてくれたものだな」
ルウはその呟きに、赤毛の青年の絶対的な死を予感した。痛覚をもって生まれてきたことを後悔させるような、そんな迂遠なことはしない。そんなことをする必要すら見いだせないほどにあの男は腐っているのだし、少年は怒っている。きっと、この世からの退場をあっさりと強制されるだろう。自分が死んだことすら気が付かない、稲妻のような一撃で。
「だけど、これではっきりした。あいつはまだ生きている」
リィは立ち上がった。
「あいつが、自分で言ったんだ。最悪なのは、大切な人が死ぬことだと。もう二度と会えなくなるから、と。ならば、事態は最悪じゃない。今のところは」
そう言い残して、部屋を立ち去った。
ルウは、安堵とも諦めとも取れない、曖昧な溜息を吐き出した。その行為にどういった心情が含まれているのかは、彼自身にもよく分からなかった。
ただ、為すべきことは為さなければならない。
ルウは、主席官邸への直通通信の回線を開いた。この下劣な映像を目にした人間がどれだけいるのか。そして、映像の複製はどれだけ作られているのか。それらを把握し、全てに口止めをしておかなければならない。少女の名誉を守るためにも、少女の夢を守るためにも。
◇
三日が経過した。
宇宙船《ピグマリオンⅡ》は、荒れ狂う大規模かつ深刻な宇宙嵐の中を、這々の体で飛んでいた。巨大な船体が、まるで濁流にもまれる木の葉のような有様で、右へ左へと弄ばれる。
船体は大小の傷が付き、半死半生の有様だ。それでも船が船の形を保っていられるのは、そして嵐の中を一直線に飛んでいられるのは、この船が全宇宙の商業船のなかで最速を誇るマクスウェル運送の旗艦だからである。
「なんだ、こりゃぁ!こんな嵐は、お目にかかったことがねえや!」
「他の船員なら、ストライキを起こしてでもこんな宙域は避けるんだろうぜ!五割増しの危険手当をもらわなけりゃあ、やってられねえな、こりゃ!」
古株の船員であるトランクとタキが、船長であるダン・マクスウェルに聞こえるよう、これ見よがしに言った。言葉だけを捕らえれば不満たらたらのものであるが、浮かれはしゃいだ調子なので説得力は寸分もない。
そして、部下たる二人の言葉を聞いた船長は、苦笑を噛み殺すのに苦労した。酒の席であれば大笑いで応じたのかも知れないが、今は職務中であり、一国一城の主とはいえそれなりの節度が必要だからだ。
「わかったわかった、この強突張りどもめ。私のポケットマネーになるが、これが終われば七割増しの危険手当を支払ってやる。それと、二週間の長期休暇もだ。それで満足か?」
いかにも気前のいいこの言葉に、操縦室を歓声が満たした。
「さっすが社長!俺達のやる気を出させる魔法の言葉を弁えていらっしゃる!」
「いいねぇ、この隣の宙域のオアシスに、一度お相手願いたいウサギちゃんがいるんだよ!親が入院したって、俺は二週間、そこから動かねえからな!」
緩みかけた雰囲気を、ダンは咳払い一つで収めた。
「いいか、お前達。それもこれも、この仕事が無事に完了してからだ。この船が嵐にやられて木っ端微塵になってしまえば、お前達に支払われるのはしみったれた死亡保険金と弔慰金だ。愛しい奥方に一財産残してやりたいなら、これほどお手軽な方法も他にはないがな」
「そいつは不味いぜ、ダン!古女房連中は涙を流して喜ぶかも知れんが、わざわざあいつらに次の男を探すための遊び金をくれてやることはねえぜ!」
「そうさ!この上はきっちり生きて帰って、女どもの悔しがる顔をたっぷり拝んでやるとしようぜ!」
どうにも緊張感のない有様だ。ダンは苦笑した。しかし、変に悲壮感を漂わせた《ピグマリオンⅡ》の船内というのも想像が出来なかったし、それよりは今のほうが万全の体制での航海が望めたので、ダンは諦めることにした。
だいたい、タキやトランクも、たまに商売女を抱いたことがばれて家を閉め出されたりしているが、なんだかんだ言って細君との仲は良好なのだ。
実に分かりやすい方法で目の前ににんじんをぶら下げられ、大いに士気を上げた《ピグマリオンⅡ》は、死と隣り合わせながらも一応は安定した様子で宇宙嵐の中を飛んでいた。
だが、その旅程は変更を余儀なくされた。
トラブルがあったわけではない。ただ、それ以上飛ぶ必要が無くなってしまっただけである。
「船長!前方から何かが近づいてくる!」
「小惑星か!?」
航海士を務めるジャンクが、レーダーを見て首を横に振った。
「違う!船だ!それも五万トン級!たって一隻でこの嵐の中を真っ直ぐに突っ切って、こっちへ向かってくる!」
「どこのどいつだ、その命知らずの大馬鹿野郎は!」
自分達のことを棚の上に放り投げた言葉が、操縦室を満たした。
「まさか海賊連中か!?」
「間の抜けたことを言うんじゃねえや!このいかれた嵐の中、どこの田舎海賊が錨を上げられるもんかよ!そんな連中がごろごろしてたら、俺達はおまんま食い上げだぜ!」
もっともである。獰猛で獲物と見れば噛みつかずにはいられない宇宙海賊たちは、命知らずではあっても決して無謀ではない。リスクとリターンを天秤にかけ、それでも襲う価値があると判断した獲物のみ襲うのだ。
であれば、この嵐の中、たかが貨物船一つを狙って宇宙に漕ぎ出すなど、余程頭のネジの外れた食い詰め海賊くらいのものだ。そして今《ピグマリオンⅡ》が飛んでいるのは、そんな阿呆な連中が易々と飛べるほど生やさしい嵐ではない。そんな腕前を持つ連中が海賊風情にごろごろいるならば、《ピグマリオンⅡ》は辺境最速の看板を今日にも下ろさなければならなくなるだろう。
小惑星や隕石の類ではない。海賊船でもない。では、果たして何が近づいてくるのか。船内に緊張が走った。
だが、ダンには予感があった。この嵐の中を平然と飛ぶ船が、《ピグマリオンⅡ》以外にあるとするならば。そしてこの嵐の中を掻き分けてまで自分達に用事のある船があるとするならば。
それはきっと、あの船しかないのだと。
「通信回線を開け」
落ち着いた声でダンが指示したのと、あちら側から通信要請の信号が入ったのが、全くの同時であった。
ジャンクは、通信回線を開いた。そして大型スクリーンには、妙齢の女性が映し出された。
それは、何から何まで、ダンの予想した姿だった。
「お久しぶりです、ダイアナ」
ダンの声に、女性は表情を綻ばした。
『ええ、本当にお久しぶり。でも、再会を祝するには、少し色気のない宙域ね』
「我々のような運び屋が飛ぶのは、いつだって色気のない宙域ばかりですよ。今回はその中でもとびっきりなのは事実ですがね」
ダンは大人の男性に相応しい深みのある笑みを浮かべてスクリーンに相対した。無論、目の前の女性が、人間以外の存在であることは百も承知の上である。
そこに映し出されていたのは、宇宙船《パラス・アテナ》に搭載された感応頭脳、ダイアナ・イレブンスその人だったのだ。
だが、いつもとは様子が違う。普段はあくまで悠然とした様子のダイアナの瞳が、言いようのない焦りに支配されているのを、ダンは読み取った。それに、よく考えてみればこういう時は、ダイアナではなく自分の父母のいずれかが通信に出るのが常である。
では、何故今日に限って、ダイアナが通信を担当しているのか。ダンの太い心臓が、どくりと一度不吉に鳴った。
「……あの人達に、何か、あったのですか」
ダイアンは質問には答えず、
『ダン、あなたには悪いけど、わたしは今、とっても急いでいるの。あなたが届けようとしている荷物を、わたしに任せてくれないかしら。こんなことを頼むのは、マクスウェル運送の社長であるあなたにとって侮辱と受け取られても仕方ないのだけれど……』
ダンはしばし黙考し、微笑みと共に首を横に振った。
「わかりました。全てはあなたにお任せしましょう」
『ごめんなさい、ダン』
悲しげにダイアナは言った。
ダンは、全てを許すように微笑んだ。
「あなたがあの二人を連れずにこんな宙域を飛んでいるという一事をもって、既に私に立ち入ることを許されない段階まで事態が悪化しているのは明白です。私では、彼らを惑星ヴェロニカまで連れて行くことは出来ても、その後の面倒は見きれないでしょう。悪くすれば足手まといにもなりかねない。ここらが潮時と心得ていますよ」
『そんなことはないわ。あなたは立派で勇敢な男性よ。わたしだって魅力的だと思えるほどに、腕の良い船乗りでもあるわ』
伝説の海賊王の愛船に、たとえお世辞であったとしてもそう言われて気分を良くしない船乗りがこの共和宇宙に存在するだろうか。
ダンも内心で悪い気はしなかったが、大人らしくそれを面に出すことはなかった。
「私は、自分がそれなりに腕の立つ人間だと知っていますし、腕の良い船乗りであるとも知っていますよ。そして、それがあの人達には逆立ちしたって及ばないことも。だから、自分の役割というものも弁えているつもりです。それが悔しくないと言えば嘘になりますが……」
『大丈夫よ、だってあなたはあの二人の血を受け継いでいるんだもの。大器晩成っていう言葉、聞いたことはない?』
ダンは正しく苦笑した。これでも自分は不惑を迎えた大人なのだし、自分の腕一つでそれなりに名の知られた会社を興したのだ。それでも目の前の淑女には、まだまだ小粒に見えるのだろうか。
見えるのだろう。何せ比較対象が、あの規格外の怪獣夫婦である。あれと比肩するためには、マクスウェル運送をクーアカンパニーの運送部門よりも大きくしてようやく一歩目といったところか。
先の長い話だと、ダンは溜息を吐き出した。
「それではそちらに連絡橋を出します。ドッキングのタイミングはあなたに任せますので」
『ええ。そういえば、そっちには腕のいい操縦士さんがいたのよね』
ダンは大いに頷いた。自分の器があの二人に敵わないのは仕方ないが、しかしこの船を動かすスタッフの素晴らしさは、この共和宇宙の全ての船に勝ると確信している彼であった。
◇
果たして荷物の移し替えは滞りなく終了した。
両船の相対速度を合わせて繋がれた連絡橋を、四人の荷物は歩いて通った。
全ての作業が完了したことを確認した《ピグマリオンⅡ》は、航海の幸運を祈る旨のメッセージを残し、来た道を引き返していった。ダンの言葉が正しいならば、今から付近のオアシスで短い休暇を楽しむのだろう。彼らには明日の仕事が待っているのであり、自分達の手を離れた厄介ごとに思考を裂き続けるなどという贅沢が出来る身分ではない。
そして、彼らからの全てを預かったダイアナは、自分の体内に招き入れた客人達に、丁寧な挨拶をした。
『ようこそ、宇宙船《パラス・アテナ》へ。歓迎するわ、皆さん』
操縦室の大型スクリーンの前に並んだ四人に、そう言って笑いかけた。
うちの三人は、ダイアナにとっても馴染みの顔である。だが、一つは今が初めて見る顔だった。
『ええっと、とっても失礼な話なのだけれども、一つだけいいかしら』
自分に視線を寄越されているのを感じて、初めて見る顔の持ち主である巨躯の男が頷いた。
「どうぞ、俺に答えられるものならなんだって。だが、本当に人間かっていう質問はなしだ。これでも、一応は男なんだ。あんたみたいな美人にそんなことを言われたら、その、なんだ、ちょっと傷付く」
大男が、小さい目を悲しそうにして言った。
ダイアナは一瞬目を丸くして、それからくすくすと笑い始めた。
『いつもいつも、どうにも人間離れした人達ばかり見ているから、そういう人並みの反応が新鮮でたまらなく可愛らしいわ。安心して、大きな人。あなたは、あなた以外の三人に比べれば、十分に人間をしているみたいだから』
「比較の対象が悪いな。それじゃあちっとも安心できん。それで、あんたの聞きたいことは?」
『どうすればそんなに大きな体になれるのかしら?わたしの知り合いに、自分の体が両親に比べて小さいことを悩んでいる、可哀相な子供がいるのだけれども、是非教えてあげたいわ』
その子供が今のダイアナの言葉を聞けば、果たしてどんな顔をしただろう。だが、ダイアナは嫌みや皮肉でこんなことを言っているのではない。完全な親切心だったのが分かるから、きっと何とも複雑な顔をしたに違いなかった。
そして、ダイアナの質問に、身長二メートル三十センチ超体重二百キロ以上の巨漢は、手を顎に当てて考え込んだ。
「……それもよく言われるんだが、俺にもよくわからんのだ。親父もお袋も、人並みか少し小さくくらいだったのにな。栄養状態が特別良かったわけでもなし。特殊な重力環境に生まれ育ったわけでもなし。俺が誰かに教えてもらいたいくらいだ」
『そう、残念だわ。あなたの人生を詳しく紐解けば、人類という種の平均サイズを五割増しに出来るのかも知れないけれど、それはまたの機会においておきましょうか。とても興味深い命題ではあるのだけれどもね』
「ああ、そいつはとても素敵だな。そうすれば、俺一人が化け物みたいに見られなくてすむわけだから」
まんざら冗談でもなく、巨漢の男は頷いた。
それを不思議そうに眺めてから、ダイアナは他の三人を等分に眺め、
『ごめんなさいね、天使さん達。また、あなた達の力を借りなくてはならなくなったの。いつか、この恩は必ずお返しさせてもらうわ。だから、この船の乗組員さん達を、どうか助けて頂戴』
三人の天使のうち、金色の髪を持つ少年が、はっきりと頷いた。