懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
インユェはテーブルに駆け上がった。
林立していた酒瓶やら、まだ湯気の立っている料理やらが蹴り飛ばされ、盛大な音を立てて中身をぶちまけた。いくつかの皿はそのまま地面へと落下し、乾いた音とともに割れ砕けた。
すわ何事か、また揉め事かと、いくつもの視線がそのテーブルに集中した。その視線の先で、銀髪の少年は、鬼のような形相のまま金髪の少年を睨め下ろしていた。
荒事には慣れたインユェである。睨むだけで済ませるはずがない。テーブルの上に立ったインユェは、黒髪の青年と壁の間に挟まれて満足に身動きできない金髪の少年の顎を目がけて、思い切りに右足を蹴り上げた。
その様子は、フットボールの試合で、ペナルティキックを蹴るエースストライカーにも似ていた。ただその目標がボールではなく形のいい顎先であり、蹴り飛ばすためではなく粉々に砕くためだっただけの違いである。
寒気のする音を立てて、つま先は宙を疾駆した。当たれば命に関わるような速度で、金髪の少年を狙っていた。だが、少年はインユェ以上に荒事には慣れていたのだし、謂われのない暴力を黙って甘受するような精神は、生まれたその日から今日に至るまでたったの一度も持ち合わせたことはなかった。
金髪の少年は首を横に捻り、インユェの蹴りを躱した。右足は空しく宙を蹴り、柔らかな金髪を数本引きちぎっただけで、そのまま高いところまで浮き上がった。
「ちぃっ!」
短い舌打ちが響き、インユェの体が大きく揺らいだ。当然だ。インユェは、確実に当たると思って、満身の力を込めて蹴ったのである。当たらなければバランスの一つも崩れるのだし、それが不安定なテーブルの上なら尚更である。
しかし、柔軟で、それでいて体幹の鍛え込まれたインユェの体は、強引にバランスを取り戻し、振り上げた右足をそのまま凶器に変えることを可能にした。足の裏が天井を向くくらいに高くなった足を、金髪の少年の頭頂部目掛けて、今度は思い切り振り下ろしたのだ。
インユェが今履いているのは、底の固い革靴である。その踵部分を鈍器として使用するということは、速度と硬度を考えれば、金属バットを思い切り振り下ろすのと変わらないだけの威力がある。
まともに当たれば、頭蓋骨が陥没してもおかしくはない。
やはり、相手を痛めつけるための技ではなく、命を奪うための一撃であった。
だが、必殺の一撃は容易く空を切った。
今度は、金髪の少年が躱したのではない。躱すまでもなく、インユェの踵は目標を見失っていた。
インユェは、自分の視界が大きく揺らぎ、天地が反転したのを認識した。では何故自分がそんな状態になっているのかというと、全く見当もつかない。殴られた衝撃も、銃撃された痛みもなく、体が宙を泳いでいる。
一瞬遅れて、インユェは自分の左足首を掴む強い力を認識した。そして、ぶらぶらと逆さまになった自分を眺める、人間離れした巨人の顔も。
「随分と元気がいい子供だなぁ」
インユェは、自分が片手で持ち上げられているのだと分かった。まるで猟で捕らえられた野兎のように。
冗談ではない。いくら小柄とは言え、自分の体重は50キロ近くあるのだ。それを片手で、こうも無造作に易々と持ち上げるなど、人間に許された膂力を越えている。
唖然と我を忘れかけたインユェだったが、先ほど胸中を焼いた怒りの熾り火が彼を現実に引き留めた。自由の利く右足を十分に引き絞り、男の顔を思い切り蹴り飛ばしたのだ。
これには流石の大男も怯んだのか、左足をあっさりと離した。
空中で自由になった体を翻し、軽業師さながらの様子で通路に着地したインユェだったが、得意になっている暇はなかった。低い体勢のまま見上げた大男は、まるで猫の尻尾が擽った程度の表情で、頬の辺りを撫で回していたのだから。
つまり、あの男は自分の蹴りに怯んだのではなく、敢えて手を離しただけということだ。自分の満身の力を込めた一撃が、何の痛痒も与えていなかったということだ。
象のような大男は、戦慄を覚えたインユェを見下ろしながら、のんびりとした調子で口を開いた。
「おお、いてえな。命の恩人に向けて、ずいぶんなご挨拶だ」
ちっとも痛みを感じさせない声で、そう言った。
インユェは、戦慄に引き攣りそうになる頬を何とか宥め賺しながら、辛うじて不敵と呼べる表情で、
「……命の恩人?あんたが?それはあんたの隣にいる、お嬢様みたいなガキにとって、だろう?」
巨躯の男はくすりと笑った。象か大型の熊が笑ったような、太い笑みだった。
「いいや、違うね。紛れもなく、俺はお前のにとっての命の恩人だよ。気が付いていないのかい、今まさにお前さん、三途の川を渡るところだったんだぜ?」
何を馬鹿なことを、と鼻で笑おうとしたインユェだったが、それは見事に失敗した。
先ほどから感じる、はっきりとした殺意の籠もった視線が、インユェから言葉を奪ったのだ。
まるで自分と同じような銀色の髪に紫色の瞳をした、こちらもやはり少女が裸足で逃げ出すほどに整った容姿の少年が、席から立ち上がり、無表情を装った怖い視線で自分を見ている。口元には柔い微笑が浮かんでさえいるが、何かを握り込んだ手には、紛れもない死神の気配があった。
それに、金髪の少年の隣に座った黒髪の青年も、苦笑めいた笑みを浮かべてはいるがただ者ではない気配を放っている。それは、インユェにとっての殺意の対象であった金髪の少年自身も。
つまり、ここにいる四人が全員、相当の手練れだということだ。
インユェは、ごくりと唾を飲み下した。心地よく回っていた質の高い酒精の悉くが、少年の体内から姿を消したようだった。
「へぇ、そりゃどうも。助けて頂いてありがとうございますと地面に這いつくばればいいのかよ、おっさん」
掠れ、ひび割れたインユェの言葉に、
「おっさんとは酷いな。俺はこれでもまだ二十代だ」
大男が傷付いた口調で言った。
インユェは、表情にこそ出さなかったものの驚いた。大男をよくよく見れば、顔を作る一つ一つのパーツはそれなりに若々しく、物騒な光を帯びた小さな瞳は意外に透き通っているのに、しかしそれらを一体として見ると到底二十代の若者には見えない。厳めしい風貌と相まって、現場の経験を積み任務と訓練に熟達した三十代半ばの猛者といった風情だ。
その落差は、おそらく男の巨躯から滲み出る凄みが作り出しているのだと、インユェは思った。今まで彼が出会った人間の中にも、年不相応の気配を放つ者は、皆そうだったのだ。有り体に言えば、修羅場を潜っているということだ。
自分には荷が重いか。そう思うインユェがいる。そして、それはおそらく正しかった。
だが、だからどうしたと思うインユェがいる。ここで尻尾を巻いて逃げ出して、どうするのか。今日を生き延びてどうするのか。どうせ、自分は絶望的なまでに一人なのだ。明日を惜しむ命ではない。
インユェは、捨て鉢な笑みを浮かべた。こいつらが何者なのかは知らない。どうして今更、ウォルの婚約者がこの星に来たのか知らない。だが、ここまで生き恥を晒しておいて、あいつの婚約者連中に殺されるなら、それはそれで似合いの死に様かも知れないなと、破滅的な欲求に駆られた。
腰に隠しているナイフに手を伸ばす。すると、銀髪の少年の殺意が、飛躍的に跳ね上がった。おそらく自分は、刃物を手にして飛びかかる前に、あの手に握り込まれた何かに打ち落とされるのだろう。
それはむしろ、望むところであった。詰まるところ、インユェは死に場所を探していたのだ。
だが、インユェの望みは達せられなかった。インユェが飛びかかる寸前、そして銀髪の少年が何かを撃ち込む寸前に、金髪の少年が、心底不思議そうに言ったのだ。
「なぁ、お前、どうしてそんなに窮屈そうなんだ?」
つま先に力を込めていたインユェは、思わず前のめりに転びそうになった。
何とかしてそれを堪えた。そして、寸でのところで自分の望みを邪魔した少年を、殺意を込めた視線で睨み付けた。
「おい、そこのチビ。どういう意味だ、そりゃ。俺が窮屈そう?間の抜けたことを抜かしやがって。てめぇ、今の状況が分かってるのか?」
インユェは、既に抜いていたナイフの切っ先を、金髪の少年に向けた。無論、二人の距離は短い刃物の届くような間合いではない。それでも、刃先を向けたのだ。それは、世間の常識で考えれば警察沙汰になって当然の行いであるし、世間の常識が届かない世界の常識ならば、生き死にを賭けた戦いの合図である。
銀髪の少年は、いつでも握り込んだ鉛玉を弾く用意が出来ていた。自分の主である金髪の少年に対してこれほどの無礼を働いたインユェを見逃すつもりなど、毛頭なかった。
しかし、金髪の少年は、銀髪の少年の腕を、優しい調子で押さえた。
「やめとけ、シェラ」
銀髪の少年は、大いに心外そうな顔を浮かべた。
「しかしリィ」
「よく見ろよ。相手はただの子供だぞ」
インユェの頬が、ぴくりと痙攣した。
──ただの、こども。
その言葉は、どんな刃物よりも鋭く痛く、インユェの心を抉った。
そうだ、自分はただの子供だった。姉ほどの腕っ節があるわけではない。あの大柄な女ほど義侠心があるわけでもなく、あの機械女みたいに頭が切れるわけでもない。
ただの子供だ。無力で、弱っちくて、守られるしか出来ない、子供。
自分が子供だったから、あいつを守ることが出来なかった。自分がもっと強ければ、あいつがくだらない儀式の生け贄に捧げられることもなかった。
全て、自分が子供だったからだ。だから、あいつは死んだんだ。殺されたんだ。
赤い衝動が、インユェの視界を満たした。それはエンジンに注がれたニトログリセリンのように、彼の体を加速させ、焼き付かせた。
刃物を構えたインユェは、訳の分からない叫びを上げながら、金髪の少年に飛びかかった。その澄ました顔を、ずたずたにしてやろうと思った。
殺す。
殺してやる。
あの銀色が何を持っていて、どう自分を殺そうと構うものか。致命傷を喰らっても、その瞬間にくたばるわけじゃない。意識が途切れる前に、目の前のこいつだけは道連れにしてやる。
殺意が無限の奔流となって脳髄を駆け巡っている気がした。こいつを殺せるなら、悪魔に魂を売ってもいいと思った。
しかし。
「はい、そこまでね」
インユェの体が空中で捕らえられ、そのままテーブルに叩き付けられた。ナイフを突き出した腕は、到底荒事には向いているとは思えない細い腕に絡め取られ、肩関節を極められて、棒のように天井に向けて捻り上げられていた。
自分が溢した料理やら酒やらの上に押しつけられたインユェは、顔も髪の毛も服も、全てがどろどろに汚れていた。しかし、そんなことは彼の意識には遠すぎた。彼はまだ、金髪の少年への殺意で構成された生き物だったのだ。
インユェは必死に顔を上げ、自分を押さえ込んでいる人間の顔を見た。それは、まるであの少女のように美しい黒髪をした、青い瞳の青年だった。その青年が、悪戯好きの子供に手を焼くように、苦笑いを浮かべながら自分を見ていた。
その表情が、インユェには許し難かった。
怒っているなら許せたのだ。憎んでいるなら、疎んでいるなら、許せたのだ。しかし、その表情だけは許せない。
インユェの胸中に、新たな殺意が沸き起こった。どいつもこいつも、俺の邪魔ばかりしやがる!
「邪魔すんじゃねえ!すっこんでやがれ、この女男が!」
「うん、邪魔はしないよ。でも、これは、子供のケンカには少し危ないから、取り上げておくね。返して欲しかったら、少し頭を冷やしてからぼくのところに来るように」
そう言って、インユェの手からナイフをもぎ取り、テーブルに向けて振り下ろした。
どん、と音が鳴った。そして、振り下ろされたナイフは今や、柄の部分しか見えなくなってしまっていた。
いくらも力の入れていない様子だったのに、刃の根本付近までナイフがテーブルに埋もれてしまっている。インユェはその様子を唖然と見た。
あり得ない。
いったいどれほどの力を込めれば、頑丈なテーブルに、一撃で、こうも深々と刃を埋め込むことが出来るのか。
外見からは到底想像の及ばない、常識外れの腕力だった。
「さぁ、後はただのケンカだよ。きみの気の済むまですればいい。ただ、一言だけ忠告しておくと、エディは素手でも強いよ。やるなら手加減無しで、全力でいきなさい」
にこにこと笑いながら言って、肩関節を極めていた手を離した。
あっさりと介抱されたインユェは、ナイフを奪われても、その怒りを収めることはなかった。先ほどの勢いそのままに、立ち上がり、金髪の少年に殴りかかった。
それでも先ほどと違うことがあるとすれば、既に金髪の少年も立ち上がっていたことだ。インユェと同じくテーブルの上に立ち、その拳を迎え撃った。
「しぃぃっ!」
気合い一閃、様子見とか手加減とかの不純物の籠もらない、一直線の拳が金髪の少年を襲った。
真ん中、真っ直ぐ、真正面の一撃である。そして、とても速い。到底子供の繰り出した突きとは思えない一撃だ。
インユェの全体重の込められたその拳を、金髪の少年は、躱そうとはしなかった。腕でガードしようともしなかった。しかし巧みにその拳を受け止め、捻り、勢いそのままに、インユェを投げ飛ばした。
インユェの体は容易く宙を泳ぎ、席の後ろの置かれた観葉植物に激突した。植物のへし折れる音がしたのと、インユェが通路に叩き付けられたのが全くの同時だった。
辛うじて受け身に成功したインユェは、憎悪を込めた視線で、テーブルから通路に着地した金髪の少年を射貫いた。
それは、狂犬病に冒された野犬の目つきだった。
その視線を正面から受けて、しかし少年の碧色の瞳にはさざ波程度の動揺もなかった。
「来いよ、これはただのケンカだ。命のやり取りでもなければ、誇りを賭けた戦いでもない。ただの殴り合いだ。おれを殴りたいんだろう?お前の好きなようすればいい」
金髪の少年は、あくまで涼やかに言った。箸より重たいものを持ったことがないように繊細な指先をくいとしゃくり、インユェに立ち上がるよう要求した。
インユェは、ゆっくりと体を起こした。整った顔に、べったりとした嫌らしい笑みを貼り付けていた。
「ひ、ひひ、いいじゃねえか、お嬢ちゃんよ。お前はそう思ってろよ。これがただの喧嘩だってよ。ガキ同士のじゃれ合いだってよ。それでも、俺は、お前を殺すぜ。お前が俺を殺すつもりが無くても、俺はお前を殺す。ぶっ殺してやる」
金髪の少年は、手を腰に当てながら、うんざりしたような溜息を吐き出した。
「あのなぁ、お前。さっきからガキだのお嬢ちゃんだの言ってくれるけど、自覚はあるか?おれに言わせれば、お前だって似たようなもんだぞ。だから、他の人間から見れば、これは子供同士の可愛らしいケンカにしか見えないんだ」
巨躯の大男と黒髪の青年が同時に頷いた。
「それと、あまり殺す殺す大声で言わない方が良いんじゃないかな。別に、今のお前がおれを殺すつもりがないとは言わないけどさ、そういう脅し文句は自分の価値を下げるぞ。やるべき時は、無言で、あっさりとやった方が良い。その方が凄みがあるってもんだ」
今度は銀色の髪の少年が深々と頷いた。何か、実体験としてありそうな顔つきだった。
「まぁ、そこらへんを理解した上で、殺すつもりがあるならかかってこい。お前の気が済むまで相手してやる」
冷ややかな碧色の視線を受けて、インユェの思考は極限まで熱せられた。
──虚仮にしやがって!
殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
今更この星に来て、何様のつもりだ。もう、ウォルはいないんだ。死んだんだ。犬の餌になっちまったんだ。今頃は犬の糞になって、土の中で微生物に分解されているだろう。あと何ヶ月かしたら、その土から美しい花でも咲くのだろうか。
婚約者のお前が、あいつをしっかりと守ってやらなかったから。あんな冬山に置き去りにしたから。
そうだ。こいつは、あいつを置き去りにした卑劣漢だ。それなのに、のこのこと、恥ずかしげもなくこの星に来やがった。
そんなやつに、殺されてたまるか。そんなやつを、生かしておいてたまるか。
インユェは、掌に握り込んだものを、目の前の少年に向かって投げつけた。それは、ひっくり返った植木鉢から溢れた土だった。
土は空中で細かい粒になり、少年の顔を襲った。少年は、手で顔を庇った。
──もらった!
インユェの頬に切れるような笑みが浮かんだ。少年の腹ががら空きだ。そこに、革靴のつま先で前蹴りをぶち込んでやる。鳩尾に上手く刺されば、悶絶程度では済まない。反吐を吐き散らしながら、壊れたブリキ人形みたいにぎくしゃくとした動きで床を転げ回るのだ。もしかしたら、内蔵が破裂してくれるかも知れない。苦悶に目を見開き、涙を流しながら断末魔の嗚咽を溢すのだ。
それは、とっても愉快だ。目の前の整った顔が、そんな惨めなことになれば、どれほどスカっとするか。
死ね。
死んじまえ。
必殺の意思をもって放たれた蹴りは、しかし、先ほどの拳と同じく金髪の少年に触れることはなかった。
金髪の少年は、あらかじめインユェの攻撃を予測していたかのように一歩下がり、限界まで伸びきった蹴り足をひょいと掴んだ。そして体を躱しながら一歩前に出て、残った軸足をいとも容易く蹴り払った。
インユェの小さな体は為す術もなく宙に浮き、後頭部から、タイル張りの通路に激突した。
インユェは、目の前に白い星が明滅するのを見た。
一瞬、意識を失った。そして、自分がどれほど無様な格好を晒しているのか気が付いて、かぁと頭に血を上らせた。
駄目だ。立ち上がらなければならないと思う。立ち上がって戦わなければならないと思う。
しかし、体と思考を繋ぐ線が、どこかでぶつりと断線している。意識が体を支配することが出来ない。体が意識に対してちっとも反応してくれない。
まるで木偶だ。
ちくしょう。
必死に足掻くインユェの顔に、凄まじい勢いで金髪の少年の足が振り下ろされた。倒れている相手に一番効果的な攻撃、顔面への踏みつけである。
インユェは、為す術もなく、少年の足の裏を見上げていた。
そして、轟音。爆発音にも似た音が、広い店内に響き渡った。
インユェの顔の横のタイルが、少年の足のかたちに陥没していた。
インユェは、震えながら目を剥いていた。今、振り下ろされた足が、もしも自分の顔を直撃していたら、自分は生きていなかっただろう確信があった。
「はい、これで一回死んだな、お前」
金髪の少年は、脇に抱えていたインユェの足を、無造作に放した。
「まだやるか?」
少年は気安く言った。恐怖にがちがちと歯を鳴らすインユェを見下ろしながら、優しささえ感じさせる調子で言った。
その声が、萎えかけたインユェの怒りに風を送った。
馬鹿にするなと思った。今に見ていろ、その余裕綽々の顔を、血と涙と涎でぐしゃぐしゃに変えてやると思った。
ようやく自由を取り戻した体を、インユェはいきなり酷使した。倒れたままの体を腕力だけでぐいと前に押しだし、自分を見下ろす金髪の少年の両足を、横から蹴りにいった。
果たして蹴りは当たった。しかし、少年の体は、大地に根を張った巨木のように小揺るぎもしなかった。むしろ、蹴りを当てにいったインユェの足がびりびりと痺れるほどだった。
「くぁっ!」
苦痛の呻きを上げながら、後方に飛び上がるような体勢で、インユェは立ち上がった。
ぜぇぜぇと息が荒い。額から、大きな汗の粒が垂れ落ちている。
少年のほうといえば、こちらはあくまで涼やかな顔つきだ。
その余裕が、インユェにはどうしても気に入らなかった。今度はしっかりとファイティングポーズを構えた。
「ちぃっ!」
気合いと共に息を吐き出し、リズムを付けてから一歩踏み出す。
牽制のジャブを放ち、それを目くらましにして太股に蹴りを当てる。だが、細身の少年はやはり小揺るぎもしない。見た目は少女のように華奢な体つきなのに、中に詰まった肉の固さが尋常ではない。
まるで強化ゴムにくるまれた大岩を蹴りつけているような感触だ。
「っくそがぁ!」
何度蹴っても駄目だ。自分の蹴りでダメージを与えられる脚ではない。インユェは理解した。
ならば、他の方法を選ぶだけだ。どんな頑丈な人間でも、急所を痛めつければ必ず倒せる。
蹴り足をそのまま下ろし、一気に間合いを詰めた。蹴りや突きの間合いではない。肘や膝、頭突きの間合いだ。
瞬間、インユェは肘を選択した。それは、目の前の整った顔のど真ん中に、思い切り肘を叩き込んでやりたいという欲望からだ。
腕を折りたたんで尖らせた肘を、真横から振り打つ。頬骨に当たれば、そこをへし折る一撃だ。
金髪の少年は、上体を沈めてその一撃を躱した。空ぶった肘の起こした風が、浮き上がった少年の柔い金髪の幾本かを引きちぎった。
──分かってるんだよ、その程度のことは!
これが当たるぐらいなら、さっきまでの攻撃が悉く通用しないはずがないのだ。躱されることは十分に想定していた。
インユェはほくそ笑んだ。その端正な口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
空ぶった肘を伸ばした。その腕で、しゃがんだ少年の頭部を絡め取り、脇の下に抱えてやった。そのまま、腕を持ち上げるように、思い切り締め上げた。
決まったと思った。腕は少年の細首にしっかりと食いついている。このまま締め上げてやれば、すぐに意識を失う。締め続ければ、脳みそは酸素を食い尽くして、悲鳴を上げ、そのままお陀仏だ。
俺の、勝ちだ!
インユェの体を歓喜が貫いた。
だが。
「よっこいしょ」
金髪の少年は、首を絞められているとは思えないほどにのんびりとした声を出し、インユェの腰を両手で抱え上げて、そのまま後方に投げた。
後頭部から落とされそうになったインユェは、慌てて少年の首を絞めていた手を解き、受け身を取った。
そして、そのまま地面に衝突した。
「つあぁ!」
思わず苦痛の叫ぶ声が口から漏れる。頭を庇って地面と直接ぶつかった腕の肉が、ぐしゃりと潰れたようだった。この分では、骨に異常があってもおかしくない。
蹲ったままのインユェを、平然とした様子で立ち上がった少年は、無感動に見下ろしていた。
「見よう見まねだけど、上手くいったな。前にテレビで、こういう試合を見たんだ」
「……」
「一応言っとくけど、お前を頭のてっぺんから落とすのも簡単だったんだぞ。要するに、これで二回目だ」
不機嫌そうに言った。
その程度のこと、インユェにもよく分かっている。そして、二回目という言葉の意味も。
苦痛を噛み殺しながら、インユェは立ち上がった。
彼の、灼け付くような憎悪の視線に晒された金色の少年は、ぶっきらぼうに口を開き、
「よく考えれば面白いな、この世界は。銃やロッドを使った戦いよりも、むしろ素手での戦いの技術のほうがよく発達している。あっちの世界にはそういうのはあまりなかったし、一度本格的に勉強してみるのも良いかも知れない」
「いいぜ、リィ。こういうのに興味があるなら、俺が教えてやるよ」
「本当か、ヴォルフ。いいな、すごく助かるよ」
「止めて下さい、あなたと陛下が本気で素手の戦いを勉強したら、止める方が今度こそ命がけになります」
銀色の少年が、ぴしゃりと言った。
金色の少年は不服そうに唇を尖らせながら、
「なんだ、結構根に持つな、シェラは」
「あれで根に持たない人の方がおかしいのです。ヴォルフ、あなたもです。この人に危険な玩具を与えないように」
「ちぇっ。ちょうどいいスパーリングパートナーが出来たと思ったのになぁ」
まるで、インユェのことなど忘れてしまったように、三人で話した。闘争の最中だとは思えない、暢気な調子で。
なるほど、なるほど。
こいつらにとって、俺はその程度の価値しかないってことかよ。
無駄口を叩きながらでも十分に相手が出来るってことかよ。
──馬鹿にするな!
「うおぉぉっ!」
もう、小細工は無しだった。
インユェは、雄叫びを上げながら突っ込んだ。全身を砲弾に変えて、頭から金髪の少年の体にぶつかっていった。そのまま店の壁に叩き付けるつもりでぶつかった。
だが、金色の少年は、さすがに少し後ずさりはしたもの、真正面からインユェの体を受け止めた。受け止め、上から体重をかけて、そのまま床に押しつぶした。
インユェはたまらず四つん這いの姿勢になった。金色の少年はそれに覆い被さっているような体勢だ。
そして金色の少年は、膝でこつんとインユェの頭を叩いた。思い切りではない。こつんと、優しい父親が子供の頭にげんこつを落とすくらいの力で。
「これで三度目だな。いい加減にしろよ、もう分かってるだろう、お前だって」
インユェは、呻き声を漏らすことすら出来なかった。
インユェを解放した金色の少年は、ズボンの埃を払いながら立ち上がった。
インユェは、立ち上がらなかった。立ち上がる気力を持っていなかった。へたりこんだまま、虚ろな視線で目の前の床を見つめて途切れ途切れに息を継いでいた。
──強い。
この、少女よりも華奢に見える小さな体が、まるであの無敵の姉のように、強靱で、柔軟で、巧緻で、何より強い。
到底、自分に太刀打ちできる相手ではない。美しい見た目は擬態だ。これは、姉と同じ、人の領域をはみ出した存在だ。
どうしたって、勝てないんだ。
勝てない。勝てるはずがない。
そうだ。そんなことは、最初から分かっていた。
──だからどうした!
知っていたさ。こいつに敵わないことなんて、見た瞬間に分かっていた。自分が逆立ちしたって勝てない相手だって、とうの昔に気が付いていた。
だからといって、負けられるか!
こいつは、あいつを見捨てたんだ。まるで、俺がそうしたみたいに。
一番大事な時に、あいつの傍にいなかったんだ。こいつのせいで、あいつは死んだんだ。こいつは、俺よりも、もっともっと、強いのに。
もしかしたら、あいつを助けられたかも知れないくらい、強いのに。
なら、どうして助けてくれなかった。どうしてあいつを見捨てた。
許せるのか。それを、許して良いのか。
駄目だ、そんなの、許せるか!
「どうして……!」
顔を起こしたインユェが、凄い視線で金色の少年を睨め上げながら、呟いた。歯を噛みながら呟いた。灼熱の砂を噛むように、呟いた。
金色の少年が、怪訝な顔をした。
「なんだって?」
「どうして、どうして俺じゃなくて!」
──てめぇなんだ!
あいつの、婚約者が!
「どうしててめぇじゃなくて!」
──俺だったんだ!
あの時、あいつと一緒にいたのが!
どちらでもいい。どちらかがずれていれば、諦められたのに。忘れることが出来たのに。これからも、面白おかしく生きていくことが出来たのに。
インユェは、床を殴りつけながら叫んでいた。癇癪を起こした幼子のように。
それは、彼自身の心の傷を掻き毟る、悲痛な声だった。
「お前……」
金色の少年が、何事かを言おうとした、その瞬間。
乾いた音が店内に響いた。その、爆竹の破裂したような音は、その場にいた全ての人間にとって、あまりに聞き慣れたものであった。
「つぅっ!」
インユェが呻き声を上げた。服の肩の辺りが破け、血が滲んでいた。
体を起こしたインユェは、音の源、店の奥の方を睨み付けた。そこには、鼻の骨を陥没させた、四十絡みの男が、拳銃を構えながら立っていた。
先ほど、インユェに手酷く痛めつけられた、男だった。
目つきが、尋常ではなかった。かっと見開かれた目は大きく、その中心に小さな黒目が浮いている。四白眼の凶相だった。完全に理性を飛ばした顔つきだった。
その男が、顔の下半分を血塗れにして、ヤニで黄ばんだ前歯に血の橋を架けながら笑っていた。
「この……糞餓鬼が……ぶっ殺してやる……!」
鼻の穴を大量の血液に塞がれて、はぁはぁと荒い息を口で継ぎながら、言った。声も、どこか間の抜けた様子で籠もる声だった。
インユェは、弾かれたように体を起こした。このまま蹲っていては、ただの的だ。
殺されるのは構わないが、あんなチンピラ風情に殺されてやるほど安い命ではない。この命は、あの少女にもらったものなのだ。
一刻も早く命を捨て去りたい気持ちと、少しでも長く生きなければならないという覚悟が、等分にインユェの内に存在していた。そして、その二つは何ら矛盾を生じるものではなかった。
インユェは店の外に向かって一目散に駆けた。
「待て!お前、ウォルのことを知っているんだろう!」
金色の少年の声を背後に聞きながら、インユェは振り返った。
「誰が知るか、そんな女のこと!」
「逃がすか、糞餓鬼が!」
発砲音が数度、響いた。
インユェは体を貫く苦痛を覚悟したが、痛みはやってこなかった。代わりに店の置物や窓ガラスの割れる硬質な音と、
「ぎゃっ!」
背後から、やくざ男の苦悶の声が聞こえた。
インユェは、もう振り返らなかった。全速力で走った。店を飛び出て、自分の体を夜風に変え、喧噪と猥雑に塗れた夜の街へと姿を消した。
◇
果たして、自分は何者だったのか。
腐汁に塗れ、どろどろの肉塊になったそれは、考えた。一日のうちに僅かに訪れる、人としての思考の許された時間を使って考えた。
暗く日の光も差さない牢獄に蹲り、体中に蛆と黒蠅を集らせて、それでも考えていた。常に胃を締め付ける腹の虫に苛まれ、今日の出来事も忘れていく脳髄に絶望し、それでもそれは必死に考えた。
自分は、何だったのか。どうしてこんなところにいるのか。
今日の食事の残りが、床に転がっている。それは、細長く、先端が五つに枝分かれして、細かく折れ曲がっていた。切断面は真っ赤に染まり、その中心に白くて固い何かがあった。
それを拾い上げ、がじがじと囓る。最初はその部分ももっと大きかった気がするのに、最近はどんどん小さくなってくる。それに、この部屋もどんどん狭くなっている気がする。このままでは、俺の体を押しつぶすようではないか。俺の体がこの部屋にみっしりと詰まり、真四角に整形されてしまうではないか。
ああ、それはなんと絶望的な未来予想図だろう。四角になり、体中からたらたらと腐った膿を垂れ流す肉の塊は、果たして人間と呼べるのだろうか。
人間だ。俺は、人間だ。
少なくとも、人間だった。
しかし、それ以上のことが分からなくなりつつある。
人間の、何だったのだろう。人間。ああ、人間!
そうだ、俺は、人間だった。人間で、そして、至高の存在だったのではないか。
他者を傅かせ、支配し、導く存在。
王。
そうだ、俺は王だった。
この世界で、最も輝かしく、祝福された存在だった。
誰しもが俺の眼前に跪いた。俺に逆らえる存在なんて、一人だっていなかった。俺は全てを支配し、全てを靴底で踏みにじってやった。
では、何故俺はここにいるのか。こんな暗くて臭くておどろおどろしい場所で、真四角に整形されるのを今や遅しと待ち侘びているのか。
何かを、手に入れようとしたのだ。
それは、何だったのか。
イメージは、太陽だった。赤く、猛々しく輝く、巨大な熱の塊。太陽を体現する、何か。
一度はこの手に入れたのに。それがするりと抜け落ちた。
駄目だ。あれは、俺のものだ。だから、何としてももう一度、この手に。
そう、願った。誰かに懇願した。
『いいだろう、──。お前の望みを叶えてやろう』
誰かに、乾いた声でそう言われた。
その顔を思い出せない。その声を思い出せない。俺を何と呼んだのか、思い出すことが出来ない。そもそも俺に、名前などという上等なものがあったのか。
だが、その台詞に、無限の後悔を感じる。
あれが、分岐点だったのに。俺が俺でいられる、俺が人間でいられる、最後の分岐点だった。
そして、俺は、ここにいる。
ずっとずっと、身体を掻きむしり、腹を減らし、肉の塊を喰らい、大きくなり続けている。人間から外れ続けている。
こんな思考が許されるのも、いつまでだろう。いずれ全ての人間性を失った俺は、ただ喰らい、ただ糞を垂れるだけの、肉の塊になるのだろう。
そうすれば、どれほど楽だろう。腐り落ちていく自分を忘れることが出来れば、世界は未だ輝いているかも知れないのだから。
ならば、早く消え去りたい。早くこの世から消えて無くなりたい。残された肉の塊は、俺ではない何かだ。それは、俺とは無関係のものだ。
勝手に腕が動き、部屋の片隅で小さく震えていた小動物を掴み、口に放り込んだ。甲高い悲鳴が聞こえた気がしたが、それは性欲を刺激するものではなく、ただただ食欲を沸き立たせるだけのスパイスに過ぎなかった。
──俺はいつからこうなったのだろう。
奥歯で悲鳴の源をすり潰しながら、まだ人間の思考を許されたそれの一部が考えた。
しかし、口の中を満たす濃厚な肉の味と、下半身だけになってしまった小動物の切断面から見える湯気立つ内臓の旨そうな有様に、それの人間としての一部分はごっそりと削られてしまっていた。
今のそれにとって重要なのは、ぴくぴくと痙攣する小動物の下半身を、一刻も早く味わいたいという原始的な欲求のみであったのだ。
──お゛、お゛、お゛……
化け物が、腐りかけた喉を震わせながら噎び泣いていた。