懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「駄目でしょ、子供にそんな危ないものを向けたりしたら」
ルウは怒った調子で言った。彼の視線の先で、未だ銃口より硝煙を吐き出し続ける拳銃が転がっていた。
先ほどまでその銃把を握りしめていたやくざ男は、手首から生えたナイフの柄を呆然と凝視しながら、床に蹲り、低い呻き声を上げ続けていた。
「お見事」
リィがにやりと笑った。
ルウは戦いにおいて剣を好むが、だからといって他の武器に慣れないわけでない。名人道具を選ばずを地でいく彼は、弓矢や槍や槌、果ては投げナイフだって使いこなす。
今も、そちらが本職のシェラでさえが感嘆の溜息しか出ないほどの技量でナイフを投じ、見事的へと命中させた。投じたのは、柄もとまでテーブルに突き刺さっていたあの少年のナイフであり、的は銃を構えたやくざ男の手首であった。
「ちくしょう、てめえら、あの糞餓鬼の仲間か……」
ナイフの突き立った手首を必死に押さえたやくざ男が、苦痛を噛み殺した声で言った。その顔の上半分は脂汗で蒼白に染まり、下半分は生乾きの鼻血で真っ赤に染まっていた。
綺麗にセットしていた前髪も、大量の汗でべったりと額に張り付いてしまっている。きちんとした身なりならばそれなりの伊達男ぶりなのかも知れないが、こうなっては病院に担ぎ込まれるどこぞの怪我人と何ら変わるところがない。
「許さねぇ……この俺を、いったい誰だと思ってやがんだ、このどぐされ共ぉ……」
「知らないよ、そんなこと。それに、言っておくけどぼく達とあの子は全く無関係だからね。少なくとも今のところは」
ルウは無造作な様子でやくざ男に立ち寄り、その手首に刺さったナイフを強引に引き抜いた。
男は苦痛の悲鳴を上げたが、血はそれほど溢れたりしなかった。それは偶然ではなく、ルウが主要な動脈を避けて投擲した結果であった。
「ごめんね。でもこれはあの子に返す約束をしちゃったから。それに、もともと悪いのは、あんな子供を銃で狙ったあなただ。いくらあなたがやくざな商売をしていても、最低限の仁義ってものがあるでしょう。しっかり反省するように」
男の手首を手ぬぐいで縛って止血処置を施したルウは、無慈悲な調子でそう言った。
「神経は傷つけてないから。きちんと手当をすれば、障害は残らないはずだよ。やせ我慢しないで、さっさと病院に行ってね」
やくざ男の呆然とした顔をのぞき込み、にっこりと笑いながら言った。
あまりに美しいその笑顔に一瞬心奪われてしまった男だが、直後、屈辱に顔を赤らめて、
「……覚えとけよ、兄ちゃん。てめぇも、てめぇの連れのあの嬢ちゃん達も、もちろんあの糞餓鬼も、歩いてこの街からは出られねえぜ。あの糞餓鬼は、生まれたことを後悔するくらいに痛めつけてから殺してやる。てめぇらは、その綺麗な顔が役立つ商売でこれから生きていく羽目になるんだ。もう二度と日の光を見ることは出来ねえぜ。せいぜい覚悟しておくこった」
「そう?それは困ったな。ぼくは今のところ、男娼をして生きていくつもりはないんだ。凄腕の男娼さんと呼ばれたことはあってもね」
ルウは、やはり優しげに笑っていた。
「だから、あなたがぼくをそういう商売で働かせようとするなら、すごく困る。うん、こういう時はどうしたらいいんだろうねぇ?」
にこやかに細められた目の奥の青い瞳が、例えようもない不吉に染まった。職業柄そういった雰囲気には敏感な男が、はっきりと気圧されて唾を飲み下した。
これは、何だ。
目の前にいる、なよついた青年はいったい何者なのか。青い瞳の奥にある不吉な何かは、いったい何なのか。男は本能的な恐怖に囚われた。
だが、男は愚かであった。彼が信じたのは自分の持つ生物的な直感ではなく、今まで培ってきた人生経験──このように腰抜けな風貌の一般人に、やくざな自分が負けるわけにはいかないという自尊心──であった。
「お、覚えとけよ。俺はコンラート一家のマルデロだ。てめえの手首にも、俺と同じような大穴を空けてやる。いや、それだけじゃあ済まさねえ。絶対に自分のしたことを後悔させてやるからな」
「それは忠告をどうもありがとう。じゃあ、ぼくの方からも忠告しておくね。これ以上、ぼく達にも、さっきの子にも関わらないほうがいい。事は、あなたたちみたいな田舎やくざが関われる領域じゃないんだ。これ以上首を突っ込むと、あなたも組も、火傷じゃ済まないかも知れないよ」
ルウは、マルデロと名乗った男の頬を、繊細な掌ですっ、と撫でた。マルデロは、まるで焼けた鉄を押し当てられたような様子で大きく後ずさり、あたふたと、宙を泳ぐような足取りで酒場から飛び出していった。
くすりと笑みを漏らしたルウは、自分を見守る二対の瞳に、烟るような笑みで相対した。それは、顔の作りは先ほどまでマルデロに向けていたものと同じなのに、中に含まれた要素が正反対の、人懐こい笑みであった。
「ごめんね。ぼくのせいで、あの子、逃げ出しちゃったね」
「いいさ。あいつの血の匂いは覚えた。この街にいるなら、どこにいても探し出すことが出来る」
猟犬も裸足で逃げ出す嗅覚を誇るリィがこともなげに言った。
その程度のことは十分に弁えているルウが、にこりと笑って、直後に不審な表情を浮かべた。
「あれ、シェラは?」
「あの子供を追って行った。やくざ連中ならあいつでも何とかなるかも知れないけど、少し妙な気配もあったし」
リィは、扉の向こう側に広がる夜の闇を見つめていた。
その奥に、いくつかの気配があったのを、リィは知っていた。その気配が、走り去った少年とともに、闇の奥に姿を消したことも。
立ち尽くすリィの後ろで、巨躯の男が、先ほど少年に蹴り飛ばされた頬を撫でさすり、
「リィ、よく分からんが、俺たちはウォルを助けるためにここにいるんだろう?ルウの占いが百発百中なら、さっさとあいつの行方を占って助けに行くべきなんじゃないのか」
少しだって緊張感の無い、のんびりした調子で言った。
「ルーファ、ヴォルフはこう言ってるけど?」
リィの言葉に、既にやくざ男への興味を無くしたルウは立ち上がり、首を横に振った。
「無理だよ。この場、この時間軸において、ぼくの占いは何の効力も持たない」
「ふぅん、ずいぶんと殊勝なことだ。まぁ、そもそも占いなんてそんなもんじゃないのかね」
さも当然というふうに巨躯の男──ヴォルフは呟いた。彼は闇の奥に闇以外の気配を見出すことの出来る才を持っていたが、それ故に人の身でこの世の因果を知ることなど出来はしないことも心得ていた。
当たるも八卦、当たらぬも八卦というが、それこそが占いの本質であると。
ルウは、愛しいものを見るように魁偉な容貌の大男を見上げ、緩やかな微笑みを浮かべた。
「少し意味合いが違うかな。ぼくの占いは、常ならそれなりの信頼性があるし、ぼく自身、それなりの自負もある」
「じゃあ、どうしてそれが、あいつの行方を知ることについてだけ使えないんだい?」
もっともな意見に、ルウは軽く肩を竦めた。
「この場はね、いわば特異点なんだ。本来であれば世界に一人しか存在しないはずの太陽と月が、二人ずつもいる。二つの宇宙が重なりあっているような状態だ。占いを有効とするには、因果律の乱れが大きすぎるんだよ。たとえば、この場この時においては、川が下流から上流に向かって流れてもぼくはちっとも驚かない。これじゃあ、もしも占ってもその結果を信頼することなんて出来やしない。おそらく、王様の死を占ってしまったのも、それが原因の一つだ」
ヴォルフにはルウの言葉の意味が半分程度しか分からなかったが、そもそも占いは自分の領分でないのだ。そして、その道の専門家がそう断言するならば、その言葉を信じるほかない。
つまり、先ほどこの店から飛び出した少年を捜すのは、地道な捜索活動以外ないということになる。
それほど大きな街ではないとはいえ、その中に紛れ込んだ一人の人間を捜すのは想像以上に骨の折れる仕事だ。それに、今は時間が何よりも惜しい。
「しかし、なんて言うか、あれだねぇ」
ヴォルフが大あくびをした。
その、カバのように大きく開いた口を、リィは呆気にとられながら見上げていた。
「あれって、どうしたんだよヴォルフ」
「うん、あの子供、本当に、ダイアナさんの言っていた、インユェってぇ子供なのかなって思ってさ」
「どういう意味だ?」
「写真は見せてもらったし、声も覚えてはいる。だが、どうにも同一人物とは思えないんだ。どう言い表せばいいか、俺もよく分からんのだが……」
奥歯にものが挟まった様子のヴォルフであった。だが、その感覚はリィ自身にもよく分かった。
リィはうっすらと微笑んだ。
「それはきっと、あんたが良くものが見える人だからだよ。普通の人間なら、間違いなく同一人物に見えるはずなんだ」
「褒められてるのかね、それは。だが、良く見えるから見間違えるってのは、どういうことだい?」
「あんたが見ているのは、きっとあいつの魂の色だ。記録映像で見たあいつの魂は、あれほど薄汚れていなかった。おれだって最初は気がつかなかったくらいだから仕方ないさ」
リィは笑いを納めて、出口を目指して一歩を進めた。
「だが、あいつは間違いなくウォルのことを知っている」
「ほう、そいつはどうしてだい?あいつは実はインユェなんて名前じゃなくて、顔が似ているだけのそっくりさんって可能性もあるぜ。それとも、あいつが銀盤の月ってやつだからかい?」
おどけたヴォルフの言葉に、リィは真剣な調子で首を横に振った。
「いいか、ヴォルフ。おれがウォルのことを知らないかって問いかけたとき、あいつはそんな女は知らないって答えたんだぞ」
「だからどうした」
「ウォルってのは男の名前だ、普通はな」
ヴォルフは納得したのかしていないのか、微妙な表情のままリィの後に続いた。
「ま、どうでもいいさ。それよりまずは一仕事だなぁ。めんどくさいったらねぇや」
大木の幹よりも太い首が、ごきりと鳴った。
◇
少女は走っていた。宵闇に染まった街の中を。
脇腹が、じくじくと痛む。まるで、そこを獣に食いつかれているかのよう。
息が荒い。心臓が喉から飛び出そうだ。垂れ落ちる汗が目に入って、何とも塩辛くて不快だ。
どうして、自分はこんなところで、こんなことをしているのだろうか。
「おい、そっちにいったぞ!絶対に捕まえろ!」
背後に、暴力と性衝動に酔った、男の声が聞こえる。
──まったく馬鹿げている。
ヴェロニカ特殊軍大尉の称号を持つ少女、マルゴ・レイノルズは、一人、本当にいるのかも分からないヴェロニカの神に向けて愚痴を呟いた。
◇
目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
はじめは明かりの無い場所にいるのだと思った。しかし、ぼやけた視界には、薄ぼんやりとした光が、井戸の底から空を見上げたように瞬いている。遙か遠くに見えたその光は、実は思ったよりも近くにあるらしい。
マルゴは自分が生きているのか死んでいるのか分からなかった。分からないならば、それは大して意味を持たない。まるで、自分自身のように。
人形。
心臓がどくりと跳ね上がった。あの、冷たい言葉。尊敬し敬愛する、父と呼んだ男の、娘と呼んでくれた口が吐き出した、あの言葉。
薄暗がりの中で身体を跳ね起きさせたマルゴは、あらん限りの力で胸を鷲掴んだ。ぜぇぜぇと荒くなる呼吸が精神を追い詰めていく。こめかみから垂れ落ちる汗が、パニックを加速させていく。
「はぁ、はぁ、はぁぁ……!」
吐息がほとんど音声と変わらないくらい様子で吐き出される。それでも酸素が足りない。体が過剰な酸素に悲鳴を上げ、頭の奥がきんと痛むのに、横隔膜だけが独りよがりに上下運動を繰り返している。
喉を引き絞りながら呻き声が漏れ出す。
マルゴは首を巡らした。涙ににじむ視界を凝らして、自分の頼るべき何者か、あるいは何物かを探す。悪夢の中ならば、それは見つかったのかも知れない。しかし悪夢より過酷な現実の中では、全てに裏切られた少女の掴むべき藁はどこにも存在しなかった。
自分は、人形だった。自分は、人間ではなかった。自分が父と呼ぶべき存在は、この世のどこにもいない──。
自身の存在の全てを否定されたような屈辱、寂寥、無力感。そして名付けようのない、どろどろとした負の感情の大渦。
喉の奥から悲鳴が沸き上がってくる。そして今のマルゴに、それを押しとどめる術は無かった。
「あ、ああぁぁぁ!あああああぁぁぁ……!」
幼子が泣きわめく声よりなおみっともない大声で、マルゴは泣き叫んだ。誰に助けを求める声でもない。今更泣きわめいても、誰も助けてくれないことを聡い彼女は理解している。
それでも、最後の望みがそこに無かったと、誰が断言できるだろう。全ては夢の神が為したたちの悪い悪戯であり、自分が眠っている寝心地の悪い寝台はきっとあの城の自室のベッドで、今にもドアを開いて敬愛する父が飛んできてくれる。
そうすれば、どれほど幸福だろう。お父様、わたしは怖い夢を見ました。お父様がわたしのことを人形と呼び、何度でも作り出すことができる、いくらでも換えの効く存在だと仰るのです。それでも、わたしはお父様を助けることができました。それだけはとても素晴らしい夢だった──。
それこそ、夢の中の出来事だ。
慟哭を続けるマルゴは、脇腹を焼く鋭い痛みにも気がつかない。何重にも巻かれた包帯が、じわりと赤く色づいていく。それは、少女の体ではなく、精神が流した血液に違いなかった。
「おい、大丈夫か」
いつしか開け放たれた扉から、老齢の男がマルゴに駆け寄り、その細い肩を揺さぶった。しかしマルゴは激しく身を捩りながら、男の手を振り払った。
男は、マルゴの頬を強く張った。マルゴの小さな体はベッドに横倒しになった。男は、マルゴの寝間着の首をぐぃと掴み、強引に引きずり起こした。
唖然と表情を失った、しかし混乱の極みからは少しだけ立ち直った様子のマルゴは、信じられないものを見るような視線で、目の前の老人を見つめていた。
「俺の言っていることが分かるか?なら、まずはゆっくりと呼吸をしろ。焦ることは無い。ゆっくりと息を吸って、細く長く吐き出す……そうだ、それでいい」
マルゴが老人の言うことに素直に従ったのは、ことさら彼女が従順な精神を持ち合わせていたからでも、老人の声に神通力が籠もっていたからでもない。生まれたての雛が親鳥の後ろ姿を無我夢中で追いかけるように、今の彼女には他の選択肢を選び取るだけの余裕が存在しなかっただけのことだ。
しかし、老人の指示は的確であった。完全にパニックを起こしていたマルゴは、ぼんやりとした暗闇の中で自分と相対している老人が何者なのか、その程度のことを理解できる程度には精神的均衡を取り戻していた。
「あなたは……」
少女は、老人のようにしゃがれた声で呟く。
先ほど自分の頬を張り、今は心配そうに自分をのぞき込んでいるこの老人は、初めて見る人間ではない。
あの城で、父親を庇って食らった銃弾により死にかけていた自分を、介抱してくれた老人。そして、自分の指揮する部隊の任務対象であった少女を守り、奮戦し、捕獲された老人。
名前は知らない。
その老人が、顔を皺でくしゃくしゃにしながら笑っていた。
「そういえば、俺はお前の名前を知らない。お前も、俺の名前を知らないだろう。俺はあんたに殺されかけて、お前は死にかけのところを俺に拾われた身分だが、それでもお互いを知るためには自己紹介が必要だ。そうは思わないか?」
年に似合わない悪戯っぽい笑みを、老人は浮かべた。
「俺の名前はヤームルだ。まったくもって因果な縁だとは思うが、袖振り合うも何とやらというからな。お互い、業の深い前世を生きてしまったらしい」
ヤームルと名乗った男は、マルゴの正面に椅子を引き、そこに腰掛けた。いつの間にか灯されていた部屋の明かりの下で、ヤームルの体躯はなお引き締まり、老いを感じさせないものだった。マルゴの率いた部隊が苦戦させられたのも頷けるだけの、精兵の気配がそこにはあった。
「……わたしの名前は、マルゴ。マルゴ……」
レイノルズと名乗ろうとした。その姓は、どんな宝物よりも誇らしくマルゴの胸を満たしてくれた。
昨日までは。
それなのに今は、舌に乗せただけでぴりぴりとする香辛料の効きすぎた料理のように、少女の心を嘖んだ。
黙り込んだマルゴを見て、ヤームルは、やはり柔らかく笑っていた。
「マルゴ。マルゴだな。いい名前じゃないか。ならば、それで十分だ。俺はただのヤームル。お前はただのマルゴ。そうだな?」
マルゴは頷かなかった。その代わり、首を横に振ることもなかった。
「……どうしてわたしを助けたの」
マルゴが、悔しげにシーツの端を握りしめ、食いしばった歯の隙間から声を押し出した。
その声に含まれていたのは疑念ではない。自分を助けて何に利用するのかという敵意ですらない。ただ、自分をこの世に押しとどめたことに対する粘っこい恨みだけだった。
ヤームルは、ばつが悪そうに首を掻いた。
「助けてほしくなかったのか」
マルゴは答えなかった。しかしこの場合の無言が何を意味するのか、どれほどの愚か者であっても取り違えることはなかっただろう。
マルゴは、ヤームルを見ない。そこに最も憎い敵がいて、視線でそれを殺そうとしているかのように、じっと自分の手元を見つめている。そして、その手はあまりに強くシーツを握りしめるので、白く鬱血していた。
「わたしはあの方を絶対に裏切らないわ。あなたがどういうつもりでわたしを助けたのか知らないけど、残念だったわね。わたしに利用価値なんてありはしないの。そして、わたしの身柄に何の価値も無くなったことは、あなただって知っているでしょう。それが分かったなら、さっさとわたしを殺すがいいわ」
掠れた声。途切れがちな調子。寒さを堪えるように、細かく震える体。
それでもその声が涙に滲んでいなかったことに、ヤームルは内心で舌を巻いていた。
「俺がお前を助けたことに、深い意味は無い。ただの気まぐれだ。別に、お前を利用してこの国に反撃を企んでいるわけでも、お前の知る情報を聞き出すためでもない」
ヤームルは、落ち着いた声で言った。そして、両頬を深く釣り上げて、満面の笑みを浮かべた。
「どうだ、がっかりしたか?」
マルゴは、弾かれたように顔を上げた。
「うぬぼれるなよ、ケツの青いガキが。お前にそんな価値があるわけがないだろうが。お前は大統領のお気に入りだったのかも知れないが、所詮は一介の軍人だろうが。軍人なんてものは、そもそも使い捨てが大原則なのさ。お前はそんな身分でありながら、上の人間に特別な感情を期待していたのか?」
「でも、わたしは……!」
「あの男の娘だった。家族だった。そう言いたいのか?」
マルゴは声を詰まらせた。
言いたい。そうだ、言いたい。自分は、マルゴ・レイノルズだと。ただのマルゴなどではないのだと。
しかし、もしも自分があの人の家族ならば、どうしてあれほど冷たい言葉で自分を人形と呼ぶことが出来るのか。マルゴは、人形という言葉の意味ではなく、そこに込められた永久凍土のごとき冷たく乾燥した意志にこそ、真っ黒い絶望を感じていたというのに。
自分はクローンとして生まれた存在だ。そして、オリジナルは信じていた国家に裏切られて、呆気なく処分されたのだという。
その終末に、マルゴは羨望を感じていた。自分の守るべき、信じるべき存在を守るために死ぬことが出来るならば、例えそれが裏切りであっても構わないと。使い捨てにされるのが本望であると。
だが、全ての理屈を踏みにじって、父の言葉はマルゴの全てを台無しにした。
マルゴは、何もかもを、自分ですらを、既に信じることが出来なくなっていた。最後まで国家のために生きて死んだオリジナルは、本当に幸福だったのか。
「……分からないわ。わたしがあの方の家族だったのか、娘だったのか。もう、わたしは何を信じて良いのか分からない……!」
ヤームルは天井を仰ぎ、大きく溜息を吐き出した。
「お偉い坊主連中は、信じる者は救われると言う。ご高説ごもっともだ。救われないのは信じることさえ出来なくなった者ばかりで、そういう連中を神様は一度だって救ってくれはしない」
だから、と老人は続ける。
「信じることの出来なくなった自分を救えるのは、いつだって自分だけだってことだな」
どこから取り出したのか、ウィスキーの瓶を傾け、一口二口、琥珀色の液体を飲み下した。
「やるかい?」
ヤームルは、呆然とした様子のマルゴに、でっぷりとしたウィスキーの瓶を手渡した。
「俺がお前を助けたのは、ただ、俺がお前に死んでほしくなかっただけの話だ。俺は、お前さんくらいの年の、友達の女の子がいてなぁ。病気で死んじまったんだ。アイシャっていう。俺みたいに薄汚い人間にでも優しくしてくれる、とても良い子だった」
マルゴは腕の中にウィスキーの瓶を抱きしめたまま、何も言わなかった。昔を語る老人の言葉を、誰が一体遮ることが出来るだろう。
「この星には大量のトリジウムが埋まっている。誰が欲したわけでもない、疫病神の化身だ。アイシャは、その疫病神に取り殺された。そして、この星をこのままにしておけば、もっと多くの人間が、疫病神のせいで犬死にをするはめになる」
「トリジウム?犬死に?一体それは、どういう……?」
ヤームルは語った。アーロン・レイノルズという狂人が、この星で何をしようとしているかを。この星に文明が根付いた由来。ヴェロニカ教の教義の理由。そして、それを利用して内戦を起こそうと画策している、天使に取り憑かれた狂人……。
マルゴに驚きはなかった。あの人の内側に、普通の人間では図り難い何かがあることは薄々と気が付いていたのだ。それが宗教的な情熱であろうと個人的な凶熱であろうと、大した違いではない。
では、心の底を冷やすこの寒風は何だろう。自分は何に怯えているのか。マルゴは思わず肩を掻き抱いた。
見捨てられることが本望だと思っていた。使い捨てられるのが当然だと思っていた。道具でいいと、人形でいいと、そうして死ぬのが最も望ましい死に様であると確信していた。
今までの有り様に嘘はないし、後悔もない。
しかし、ケリー・クーア、自身のこめかみに銃口を突きつけながらなお笑っていたあの男が、自分を何と呼んだか。
人形。
そうだ、あの男も、自分を人形と呼んだ。背後に、手足を繰る糸が見えると。
正しかった。自分は人形だった。手足どころか、感情も、愛情も、全てを操られた人形だ。普通の操り人形よりも操るパーツが多い分、その様はよりいっそう滑稽だったに違いない。
だからどうした。だから何だというのか。
それを望んでいたのだ。そう有りたいと願ったのだ。それが植え付けられた感情だったとしても、自分にとっての真実であった。
ならば、この虚無感は何だ。どうしてこんなに心細く、不安定で、何より寒いのだろうか。
死にたい。強烈に思った。死神の冷たい手に触れられるならば、この寒さを忘れることも叶うだろう。
「死にたくて死にたくて仕方ないと、そういう顔だな」
ヤームルは笑った。マルゴは何も言わなかった。何故なら、ヤームルの言葉はどこまでも正しかったからだ。うつむき調子で彼を睨め上げたのも、自身の願望を叶えてくれないかと、真剣に思ったからだ。
だが、ヤームルは首を横に振った。
「俺は、元は海賊だ。海賊は、ただ働きはしないものさ。海賊に働いてもらいたければ、お宝の匂いをちらつかせて誘惑するしかないんだ」
「……何を用意すれば、わたしを殺してくれるの?」
ヤームルが口を開きかけた時、耳に障る電子音が鳴った。
ヤームルの皺の浮いた指が、懐から携帯端末を取り出した。
「失礼」
律儀な断りを入れてから、端末の受信ボタンを押した。
「もしもし……ええ、大変心待ちにしておりましたよ。お元気そうで何よりです……はい、なるほど。まぁ、そのようなところでしょう。本当の意味で独り立ちしていただくには、あと一押しといったところですか。……ええ、それで結構です。私は私で動かせていただきますので……なに、些か気になるところもありますのでな。はい、ではまた……」
ヤームルは通信端末のスイッチを切り、再び懐にしまった。
「すまなかった。ええと、何の話をしていたか……そうだ、お前を殺すための報酬の話だ。いい具合に、お前に頼みたい事が出来た。どうだろう、請け負ってみるつもりはないかな?」
「請け負う……?」
困惑するマルゴに、ヤームルは嬉しげに頷いた。
「そう、仕事だ。どうせお前は死にたがっているのだろう。ならば、今死んでも明日死んでも変わるところは無いはずだ。そして、この仕事が終われば、必ず俺がお前を殺してやろう。いや、そもそもこの仕事の最中に命を落とす可能性のほうが高いだろうか……」
マルゴはカチンとした。彼女自身、意外な反応であった。
話ぶりからして、相当危険な仕事なのだろう。しかし、自分はヴェロニカ特殊軍として修羅場を潜ってきた軍人である。その自分が、引退した海賊風情の持ち出した任務如きで死ぬものか。
もしかすると、精神的な防衛作用だったのだろうか。自身の最も巨大な存在意義を失った少女にとって、縋りつくことが許されたのは、今までの培ってきた軍人としての経歴だけだったと、そういうことなのかもしれない。
確かに、死ぬだけならばいつでも出来るのだ。生きていくのは難しくても、それを断ち切るのは容易い。自分の命であっても、他者の命であっても。
それなら、目の前の老人の鼻を明かしてから死にたいと思った。自分が望んだことではないにせよ、命を助けられたまま無様に死んでいくのは、少しだけ気分がよろしくなかった。
「一つだけ聞かせて」
「なんだい?」
「あなたは、どうしてこの星で戦っているの?」
ヤームルは、困惑したように眉根を寄せて、それから恥ずかしげに頬を掻いた。
「一つは、昔なじみの仇討ちだな」
「なら、他の理由は?」
「……さっきも言ったが、俺は、この星に友達がいたんだよ。そしてその子は、初恋の相手だった。とても笑顔の可愛い子でなぁ。なのに、まるで化け物みたいな姿になって、血を吐き散らして死んでいった。もうぼちぼち、この星で、ああいう死に方をする女の子は一人もいなくなっても良い時期じゃないかと、そう思っただけさ」
マルゴは、少しだけ笑った。
別に、馬鹿にしたわけではない。ただ、そっぽを向きながら頬を染めた老人の恥ずかしげな様子が、どうにも可愛らしかったからだ。
少しだけ笑うことが出来た。
「じゃあ、もう一つ。その任務が大切なものだとしても、どうしてあなた自身がそれをしないの?」
「中々辛辣な質問だな、そいつは」
ヤームルは、苦笑いを浮かべた。
「一つは、俺がその任務をこなしたんでは、あらゆる意味で全ての計画がおじゃんになってしまうからさ。丁寧に組み上げた積み木を、根刮ぎ倒すようなものだ」
「また、別の理由もあるのね」
「少し調べたいことがある。今、この星で起きていることが、どうにもきな臭い。これは本当に、たった一人の気が狂った男が推し進めただけの計画なのかね?そう盲信していると、どこかで足を掬われる気がする」
ヤームルは、誰に言うでもなく呟いた。マルゴは、何も言うことは出来なかった。
「ま、それはそれとして、だ。どうするね、俺の依頼の件は?」
返答の内容は、既に心に決めていた。
どこまでも歪で、消極的に残された選択肢である。しかしそれは少女にとって、生まれて初めて己の意思で掴み取った蜘蛛の糸であったのだ。