懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
彼らが惑星レダに到着したのは、会議が行われた日から数えて、三日後のことだった。
目的地であるアカシャ州はレダの中でも相当の僻地にあるため、宇宙船の発着のための施設がない。飛行機やエアカーを乗り継ぎ、彼らが現地に入ったのはその二日後の深夜のことだった。
満月の夜だ。煌々と夜空を照らし出す、毒々しいまでの満月の明かり、そしてそれを背景として堂々と姿を曝す廃病院の影。
戦闘経験が豊富な軍人である彼らですら息を飲むような、なんとも不気味な光景であった。
『さぁ、名残惜しいがここがピクニックの目的地だ。さっさと終わらせて帰ろうじゃないか。あまり長居すると、居残り組に絞め殺されるぞ』
努めて明るく言ったアレクセイだったが、彼の内心を表したのか、喉から出たのはどうにも陰鬱な声にしかならなかった。この、どんよりと重たい空気を吹き飛ばそうとしたのだが、これでは逆効果である。
そのとき、遠くの方から、何かが聞こえた。まるで、地の底から響くような声だ。
『…なんだ…?』
誰かが呟いた。それは、その場にいた全員の内心を表していた。
声もなく、全員が耳を澄ませていた。
そのうちに、誰とも無く、やはり全員が気がついた。
この声は、決して遠くの方から聞こえるのではない。
足下。いや、そのもっと下の方。
明らかに、地面の下から聞こえるのだ。
『…遠吠え…?』
その声は、報告書にあったとおり、狼か野犬の遠吠えにしか聞こえない、恐ろしげな響きを持っていた。
アレクセイの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。正直に言うならば、こんな不気味な場所からはさっさと逃げだしたかった。こんなところにのこのことついてきてしまった我が身の浅はかさを呪った。
しかし、この場における最高責任者は彼である。軍人は確かに有能で扱いやすいが、司令官の指示がなくては動くことが出来ない。それは判断能力が欠如しているのではなく、そう教え込まれているからだ。
彼は冷静なふりをして、部下に指示を出した。
『正面から入ろう。各自、暗視ゴーグルを』
言われた直後に、全員が物々しい暗視ゴーグルを装着した。
太陽の下にいるのとほとんど変わらないような視界の中で、アレクセイは続けた。
『では、事前の打ち合わせ通りに。私とクルツ君は一階に残って想定外の事態に備える。マクドネル君とラドクリフ君は地上階の探索、そしてグラント君とイェーガー君は地下階の探索だ。各自、電子ロックのキーと暗証番号は持っているな』
言われるまでもないことだったが、全員が頷いた。
一番若いグラントが正面玄関を開けると、中から埃と黴の、饐えた臭気が漏れ出した。
『うわ、ひどいなこりゃ』
『ああ、こんなところにいたら臭いが染み付いてミイラになっちまう』
『さっさと終わらそうぜ、糞犬を捕まえてさ』
一度開けた玄関を厳重に施錠した彼らは、軽口を叩きながら、今は誰もいない正面受付の横を通り、患者用の待合ホールに辿り着いた。この病院が正常に稼働していた頃は溢れんばかりの患者で埋め尽くされていたであろうその場所も、当然のことながら人っ子一人いない。隅の方で枯れた観葉植物が、悲しげに俯いている。
そこでしばらくの間待っていると、非常電源が作動したのか、ロビーに弱々しい明かりが灯った。それと同時に、先行していたグラントとイェーガーが戻ってきた。
『非常電源を作動させてきました。これで、システムが正常に作動している限り電子ロックは解除できるはずです』
アレクセイは緊張した面持ちで頷いた。
『では、私とクルツ君はここで待機する。各自、目標を捕捉するか、それとも何か異変を感じたら、すぐに連絡すること。特に、階下のチームは気を付けるように。先ほどの遠吠えは、どうも地下から聞こえたような気がするからな。では、任務開始だ』
全員が再度気を引き締め、自らの任務の完遂のために散開した。
アレクセイとクルツはその場に残ったが、これは司令官の臆病によってだけではない。確かにその意味も色濃くあったのだが、この廃院は地上と地下を合わせて二十階にも及ぶ建物であるから、その一番上と一番下では無線の精度に今ひとつ信頼性が乏しいのだ。その点、中継地点となる地上一階に人がいれば、全員の連絡を密にするという意味でも、いざというときの予備兵力という意味でも心強い。それが分かっているから、残る二チームも何の不満も無く自分の持ち場へと散っていった。
ヴォルフガング・イェーガーを初めて見た人間は、まずその大きさに度肝を抜かれる。
221㎝のずば抜けた長身と、200㎏の体重は見た目そのまま熊のようであった。しかも体脂肪の一欠片も見当たらない、鍛え抜かれた大岩のような体躯だ。それを見て唖然としない人間の方がどうかしている。
そして、そのいかつい肩の上に乗っかっている小さな顔も、また尋常ではない。正方形のブロックのように頑丈な頭部と、それを飾る短く切り込まれた蜂蜜色の髪。小さく、刃物で切ったように細い目と、その奥にあるやはり小さな茶色い瞳。彼を仰ぎ見る人間は、きっと彼がなんの感情も持たずに生まれた、機械の申し子のような存在だと思うに違いない。
しかし、ヴォルフガングに親しい数少ない人間は、彼が非常に感情の起伏に富んだ人間だということを知っている。恋愛映画を見ては涙を流し、悪辣な犯罪事件があれば義憤に怒り、甘いものを食べれば相好を崩し、恥ずかしいことがあればこれほどかというくらいに真っ赤になる。
そんな彼が軍人という道を選んだのは、偏に、彼の立派すぎる肉体を養っていくためだ。幼い時分の彼の家はお世辞にも裕福とは呼べない、平均的な市民の生活水準よりも遙かに下の生活を送っていた。それは彼の父親の早世が原因だったのだが、彼の母親はヴォルフガングを立派な一人前の人間にするために、身を粉にして働いた。 それでも、彼の人三倍の食欲を完全に満たしてやることは叶わず、幼かったヴォルフガングは常に腹を空かせていたものだ。
彼は、空腹という感覚が、人として生きる限り不可分の感覚であると勘違いしていたから、別に不満はなかった。しかし彼の腹の虫がなる度に、疲れた顔をする母親が一層申し訳無さそうな顔で彼を見るから、それだけが嫌だった。
義務教育過程を終えた彼は、その足で共和宇宙軍の軍属学生試験に申し込み、苦学の末に合格した。そこを中の上に引っかかる程度の成績で卒業し正式に任官して以来、国家間の大きな戦争こそ経験したことはないものの、テロリストの鎮圧や海賊の摘発等の各種任務においてめざましい戦績を残し、若くして少尉の地位にある。これは、士官学校出身者を除けば異例の出世といっていい。
そんな自分がどういうわけか情報局の人間の下につき、そして今は野犬の駆除作業をしている。人生とは分からないものだと、ヴォルフガングは苦笑した。
『どうかいたしましたか、少尉殿』
『いや、なんでもない。それよりグラント曹長、何か見つけたか』
『はっ、今のところは何も。野犬がいたという痕跡も発見できません』
年若い同僚の言葉を聞き流しながら、彼は廃院の地下深くへ潜っていった。
既に、地下一階と二階の途中までの探索は完了している。今のところ、ここ最近に何らかの生き物が活動をしていた痕跡を見いだすことはできない。
注意深く探索を続ける彼らの前に、巨大な扉が立ちはだかった。それは、研究用のブロックと一般用のブロックを区切る、分厚くて頑丈な扉だった。
それが、無造作に開け放たれていた。あり得べきことではなかった。
『…開いている?なんで…』
グラントは茫然と呟いたが、ヴォルフガングは神経質そうに舌打ちをしただけだった。それも、別に目の前の怪異が恐ろしかったわけではない。
これで探索範囲が大幅に広がったと、そのことを忌々しく思っているのだ。彼は任務には忠実ではあったが、しかしワーカホリックを発症したことはなかったので、こんな面倒な任務を早々に切り上げたいというのは当然の心理だろうから無理もない。
だが、これでアレクセイの識見は正しかったことが、図らずも証明されたわけだ。もしも野犬の駆除業者に依頼でもしていたならば、厄介な事態になったかも知れなかった。
ヴォルフガングは、ハンズフリーの無線で、上司への回線を開いた。
『こちらイェーガー隊。ルドヴィック隊聞こえるか、オーバー』
『こちらルドヴィック隊。聞こえている、オーバー』
最新式の無線機は、分厚いコンクリートの床越しにでも正確な会話が可能なようだ。その点に浅からぬ心配をしていたヴォルフガングは少しだけ胸を撫で下ろした。
『今のところ目標の捕捉は出来ていない。しかし、地下二階の研究ブロックに続く扉が開かれている。事前の情報では地下ブロックは完全に封鎖されているとのことだったはずだが間違いはないか、オーバー』
無線機の向こうで、何やら騒がしい音声が聞こえた。何事か話し合いをしているらしかった。
しかし、これは全く想定していなかった事態かといえばそうでもない。事実、アレクセイはそこまで考えた上で彼自身を含むチームの派遣を決めていたのだから。
『…事前の情報では完全な封鎖がされているはずだった。しかし、これはあくまで想定された事態である。そのまま探索を続行せよ。また何か異変があれば知らせるように。オーバー』
『了解した。このまま探索を続行する。アウト』
ヴォルフガングが無線機を切ろうとした、その時だ。
その彼の足下で、グラントの呻き声が聞こえた。
『少尉、よろしいでしょうか』
『どうした、軍曹』
『これを見て下さい』
グラントの震える指先が指し示すところ。
そこだけ、積もった埃が僅かに乱れていた。
自分達は、まだそんなところを通った覚えはないし、この閉鎖された病院の中を風が吹き抜けることもあるまい。
間違いない。
誰か、もしくは何かが、つい最近にこの扉のある箇所を通ったのだ。
『ルドヴィック隊、聞こえるか、オーバー』
『どうした、まだ何かあるのかイェーガー隊、オーバー』
『侵入者の痕跡を、例の扉の傍で発見した。どうやらこっちが当たりらしい。これより探索を追跡に切り替え、奥へ向かう。上階へ向かった部隊に援護を頼むよう伝えて欲しい、オーバー』
『了解した。マクドネル隊に地下へ向かうよう伝える。イェーガー隊はそのまま追跡を続行するように』
『了解。アウト』
それだけ伝え終えて、ヴォルフガングは今度こそ無線を切った。
そして、何気なく開けっ放しになった扉の施錠部分を見た。
今度は、流石のヴォルフガングも唖然とした。
何故、この扉が開けっ放しになっているかを理解した。
扉は、解錠されたのではない。
もっと単純に、ぶち壊されていたのだ。
本来であれば分厚い鉄芯で繋がれているはずの施錠部分は、何か強い力で無造作に引き千切ったように、完全に破壊されていた。しかも、その破壊部位だけ、赤錆が浮いていない。
この扉は、つい最近に破壊されたものなのだ。それも、おそらく内側から。
どうやら、これは尋常な事態では無いらしい。そう思って、彼は盛大な溜息を吐き出した。
『どうしましたか、少尉殿』
『これを見ろ、軍曹』
『…、これは…!』
『軍曹、お前、こんな真似ができるか?』
『出来るわけないじゃあないですか!』
『なら、これから先、絶対に俺の傍から離れるな。俺は中型の熊くらいなら素手で相手できる。せめてあちらさんがそれくらいのサイズであってくれればいいんだがなぁ』
ヴォルフガングはぽりぽりと頭を掻きながらそんなことを言った。
グラントは、出発前の会議で、この男だけが重火器の携帯を提案していたことを思い出し、そのことが何やら不吉な未来を暗示していたような気がして身震いをした。
『おい、行くぞ軍曹。それともここで待っているか?』
『い、いえ、ご一緒させて頂きます!』
少し先を歩いていたヴォルフガングのところまで、グラントは駆けた。こんなところに一人残されるなんて、情け無い以上にただ恐ろしくて、冗談ではなかったのだ。
地下二階の探索を終えた彼らは、そのまま階段を下り、地下三階へと辿り着いた。
その階に立ち入った瞬間、ヴォルフガングの鼻を嗅ぎ慣れた臭いがくすぐった。
『臭いな…』
『はっ?』
『お前は感じないのか?』
グラントは首を傾げた。
『あの、埃と黴以外の臭いは何も…』
『そうか、なら俺の鼻がいかれたのか』
ヴォルフガングは相変わらず、頭のあたりをぽりぽりと掻いている。
グラントは、恐る恐るといった調子で尋ねた。
『あの、少尉殿は一体どんな臭いを…?』
『血だ』
『血…ですか』
『ああ、それも相当に古く、そして吐き気を催すくらいに生臭い。どうやら、ここが曰く付きの研究所だったというもの本当らしい。無論、俺の鼻がいかれていなければの話だが』
そう言ってヴォルフガングは無造作に歩き始め、グラントは慌ててその後を追った。
彼らは決して離れたりせず、チームとなって一つ一つの部屋を探索していった。
その幾つかで、最近そこに何かがいた痕跡が発見された。例えば埃の乱れ、動かされた椅子、排泄の跡などである。
その生き物の糞は、人かそれよりもやや大きな生き物くらいのサイズで、その乾燥具合からここ最近のものであると思われた。専門的な設備に持ち込めばこれがどんな生き物の排泄物か分かるはずだが、こんな場所ではそれ以上のことはわからない。
『こんなところで、一体何を喰ってやがるんだ…?いくら俺だって、コンクリートを食って生きてはいけないがなぁ』
ヴォルフガングは暢気にそんなことを言っていたが、グラントは最早蒼白な顔色である。彼の家は元々信心深い家系であり、人の目には見えない、恐ろしい生き物の存在を真剣に信じていた節がある。
あの扉の破壊具合から、この場所に隠れているのが尋常の生き物ではないことは明らかだ。それに、地下二階よりも下の階から地上にまで届くような遠吠えとは、一体どのような生き物が発することが出来るのか。冷静に考えれば、あり得ることではない。
そこまで考えて、グラントの脳裏には、ねじ曲がった角が生えて耳の端まで口の裂けた生き物が舌舐めずりをしながら自分を待ち構えているのではないかと、そういう妄想が生まれてしまったのだ。
そんな彼を見ながら、これはあの切れ者の上司も人選を誤ったと言うべきだろうかと、ヴォルフガングは思った。
『軍曹。気分が悪いなら地上に戻れ。俺は一人で構わん』
『い、いえ、少尉殿。大丈夫です』
『そうは見えないから言っている。素直に従え』
『いえ、こんな程度で逃げ帰ったのでは、情報局の人間に軍属が軽んじらます。少尉殿になんと言われようと、私はここに残らせて頂きます』
グラントは、その顔色こそ隠すこと出来ないほどに悪かったが、しかし意外に口調はしっかりしていた。ヴォルフガングもそれ以上は何も言わず、次の部屋の探索へと取りかかった。
そこは、他の部屋と違って、厳重に施錠されていた。それも電子ロックではなく、原始的なキーロック形式らしい。そしてヴォルフガング達の手には、合い鍵やキーピックの類は存在しない。
『どうしましょうか、少尉殿』
『下がっていろ』
ヴォルフガングはそう言って迷彩服を腕まくりし、丸太のように逞しい前腕を露わにした。
まさか、とグラントが思う前に、ヴォルフガングは腕を大きく振りかぶった。
『むぅん!』
気合一閃、ヴォルフガングの巨体が信じがたい程の速度で動き、200㎏の体重が存分に乗った拳の一撃が、重々しい鉄の扉に叩き込まれた。
鳴り響いた音は、ぐしゃりという、鉄の扉の断末魔だった。そして、憐れな被害者が盛大に倒れる、大きな音が階中に響き渡った。
あり得べき話では無かった。
ヴォルフガングは、ただ己の拳のみで、厳重な鉄の門扉を破壊してのけたのだ。
グラントは、唖然として、自らの上官たる男を眺めていた。
どうやら、この男も間違いなく、一匹の化け物らしい。
『ふむ。しかし施錠をされているということは、この中に目標がいるはずもないか。早まったな』
濛々と舞い上がった埃の中で、ヴォルフガングはやはり頭をぽりぽりと掻いていた。
『まぁ、折角開けてしまったのだ。中を覗いてから先に進むとしよう』
グラントの言うところの化け物は、全く警戒心の無い足取りで部屋の中に入った。
グラント自身も、それに続いて部屋に入ろうとした、その時。
『…おい、軍曹』
中から、声がした。
『はい、何でしょうか少尉殿』
『悪いことは言わん。お前はこの部屋には入るな』
普段のヴォルフガングの声からは想像できない、震えた声だった。
そこまで言われると入りたくなるのが人情というものだ。グラントはほとんど無意識に、その部屋の中に入った。
グラントは、そこで見た光景を、一生忘れることが出来ないだろう。
そこは、人体を外側に開いた、一種の展示場だった。
『入るなと言っただろうが、全く』
『こ、これは…!』
『ああ、例の、特異能力者に対する人体実験、そのサンプルだろうさ』
グラントは強い目眩を覚え、その場に突っ伏して盛大に嘔吐した。出発前の景気づけに食べた、軽いアルコールとステーキが、胃液と混じって食道を逆流し、彼の目の前のコンクリートの床を派手に汚した。
『ああ、もう、いわんこっちゃない。こりゃあ掃除が大変だぞ…って、その心配はいらんのか』
ヴォルフガングは、普段の暢気な調子に戻っていった。
一方のグラントは、自分が何故これほどに動揺しているか分からなかった。自分は軍属であり、実戦経験もある。軍隊における実戦経験とは、即ち人が容易く死ぬ場所で戦ったことがあるということである。事実、彼はテロリスト制圧の際に、最後まで抵抗した主犯格の男を射殺したことがあるし、その任務において友人の一人を失っている。
それでも、ここまでの動揺はしなかった。いくらこの部屋に手足の一部や内臓が標本として所狭しと並べられているとしても、それは常識の範囲内のことだ。少し医術に携わったことのある人間であれば、嫌悪感さえ抱くことはあるまい。
なのに、どうして自分はここまで…。
『己を恥じるなよ、グラント軍曹。お前のが、普通の人間の反応だ』
『…いえ、しかし自分は軍人です。それが、この程度で…』
『その認識は間違いだ。いわゆる普通の軍人だから、その程度の反応で済んでいる。本当の一般人であれば、この部屋に入った瞬間に卒倒している。それくらいに、この部屋の濃度は濃い』
『濃度、ですか…?』
弱々しい声で、グラントは尋ねた。
ヴォルフガングは、大きく頷いた。
『俺も正確に言葉には出来ないがな、何というか、そう、人の悪意というか無念というか、その手の感情が渦巻いていやがる。ここは、そういう場なんだ』
『あの、少尉、何を…?』
『信じる信じないはお前の自由だし、信じてもらわなくても一向に構わん。だが、俺は幼い頃からそういう類のものに意外と敏感でな。そのおかげで何度か命も救われた。だからこそ今回の任務はどうにも気乗りがしなかったんだが…。やはり、機関銃の一つでもかっぱらってきたほうがよかったかも知れんな』
ヴォルフガングはそう言いながら、棚に陳列されたサンプルの一つを手に取った。自分で悪意がどうのこうの言っておきながら平然とこんなことが出来る当たり、この大男の肝は超硬度の宇宙戦艦の装甲よりも頑丈に出来ているらしい。
『この指の採取日は10月27日。その隣が28日、そして29日か。なるほど、生きたままばらしたか。それも、麻酔無しだなこれは。苦痛が特異能力に与える影響を調べると言えばたいそうなご託だが、これはほとんど研究者の加虐趣味だ。なるほど、そりゃあ無念も積もるってもんだ』
グラントは、聞いているだけで気分が悪くなった。
『手段が目的になるとはよく言う言葉だが、ここの連中は正しくそうらしい。研究のためにサンプルを切り刻んでいるうちに、切り刻む行為そのものが目的になっちまったんだろう。これなら、いっそ医学の進歩のために犠牲になったほうが、まだ浮かばれるってもんだ。おっと、こっちの神経節も生体から強引に引き抜いたものか。これで生きてたんなら、いっそ見事というべきだろうな』
『も、もうやめてください!』
グラントの悲鳴に、ヴォルフガングははっとした表情を浮かべた。
そして、静かに己が手にしたサンプルケースを棚に戻した。その中には、誰かの眼球だったものが、悲しげに浮かんでいた。
『…すまん。俺としたことが、少し呑まれかけた』
頭を下げたヴォルフガングは、グラントの体をひょいと担ぎ上げ、その部屋を後にした。
最後に一度だけ振り返り、静かに頭を下げた。この部屋に残っていた誰かに、謝罪したのかもしれなかった。
『お前はここで待っていろ。どうせしばらくは動けん』
『…申し訳ありません』
『そんな顔をするな。だが、銃は抜いておけ。どうやらこの中に居るのは、ただの野犬などという可愛気のあるものではないらしいからな』
『ええ、それはもう…』
グラントは力の無い笑みで笑い、ホルスターから光線銃を取り出した。
その手は未だ細かく震えていたが、まさか大の大人を背負って探索活動をするわけにもいかないし、それはこの男が拒絶するだろう。これ以上、まだ年若い軍人の誇りを傷つけるのは不味いと考えたヴォルフガングは、上階へと続く階段まで一度戻り、その脇にグラントを座らせた。
『しばらくすればマクドネル隊が到着する。お前は彼らに事の経緯を正確に報告し、その時点でいくらかでも回復していれば合流しろ。分かったな』
グラントは力無く頷いた。その表情には、色濃く自己嫌悪の苦さが漂っていたが、ヴォルフガングはそれ以上何も言わなかった。何を言っても慰めにしかならないし、下手な慰めはこの若者をより深く傷つけるだけだ。
果たして何としたものか考えたヴォルフガングだったが、結局は何も口にせず、頭を一掻きしてから再び探索に戻った。
それから単独での捜索を再開した彼だったが、しばらくはめぼしいものも発見できなかった。どこにも、生き物の気配そのものが無い。
しかし、そのフロアの最後の部屋に近づく彼の鼻に、何かが腐ったような、酸っぱい臭いが漂ってきた。
ヴォルフガングは、懐に入れていた携帯用生命探査装置バイオセンサーを起動させた。これは周囲十数メートル内に生命体がいないかを、二酸化炭素濃度や体温反応などによって探査するものだが、その精度に比例するように消費電力が大きく、常時使用できないのが大きな欠点であった。
しばらくの間画面を見つめたが、目立った反応はない。少なくとも、補角対象はこの部屋の中にいない。
それでも光線銃を引き抜き、その出力を制圧レベルから殺傷目的レベルに引き上げ、いつでも撃てる準備をしてから注意深く室内に入った。
『これは…』
ヴォルフガングは思わず呻いた。
さして広くない室内には、そのいたる所に非常用食料や飲料水が山と積まれ、その中央には何かの繊維をずたずたにした、寝床が設えられている。
どうやらこれは『巣』のようだと、彼は思った。
近寄ってみると、酸っぱいような臭いが強くなった。食べさしの非常用食料であるコンビーフが、腐りかけているらしい。
ヴォルフガングはそれを手に取り、歯形を調べようとしたが、コンビーフは無造作に囓られ歯形は確認のしようもない。しかし、その缶は綺麗に開けられていることから、どうやらここに住んでいるのは人に近い生き物らしいと彼は思った。
それはそれで尋常ではない事態なのだが、更に彼を困惑させたのが、当たりに散乱している食い残しの山である。
『これはどういうことだ…?』
先ほどのコンビーフ缶のように金属で包装されている食品は、人の手で開けたように器用に開けられている。にもかかわらず、ビニル素材で包装された食品は明らかに包装ごと食い破り、そのあとで食べられない部分だけを綺麗に吐き出しているのだ。事実、何度か咀嚼されたと思われるビニル片があちこちに飛び散っている。
人のようであり、そして獣のようである。
そのどちらもがこの場にいたとすれば納得が出来るのだが、そんなことはあり得ることではないだろう。
彼はそのまま、部屋の中央の『巣』の中を調べた。
特にめぼしいものは見つからなかったが、しかし黒く長い、人間の女のように艶やかな毛が数本、見つかった。にもかかわらず、獣の体毛に近いものは一切見つからない。
彼の脳裏に、報告書に書かれていた、他愛もないはずの噂話が過ぎった。
曰く、『この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ』…。
馬鹿馬鹿しいと思う。
しかし、全く考慮することのない話だろうか。
連邦憲章には、人体実験を禁じるのと同じ章において、過度の遺伝子操作を用いた生命研究を禁じている。特に、人と他の生命体との遺伝的交配は最も厳罰に処される類の研究である。
頭のまともな研究者であれば、そのような研究に手を染めようとは思うまい。上手く行けば別段、ばれれば己の研究者としての一生は暗い闇の中に閉ざされてしまうことが明白だからだ。そして、その類の研究がばれずに完遂したなど、船乗りの間でまことしやかに囁かれる幽霊星が存在することくらいに、眉唾な話でしかない。
しかし、この異常な空間に限って言えば、その類の研究が行われなかったという保証がどこにある?いや、ここ以外の研究所で、違法な遺伝子操作実験が実際に行われていたのではなかったか?
しかも、今日はそんな生物にうってつけの、目眩のするような満月ではないか。
ならばここにいるのは―――
そこまで考えたヴォルフガングの耳に、とんでもない絶叫が聞こえた。
『ぐ、ぎやあぁぁぁ!』
ヴォルフガングは短い舌打ちをすると、その巨軀からは信じられないような速度で元来た道をとって返した。
彼が階段につくまで、おそらく20秒とかからなかったはずだ。
しかし、息一つ乱さずその場に駆けつけた彼が見たのは、己の流した血の中で蹲る、年若い同僚の姿だけだった。
『おい、グラント、生きているか』
『しょ、しょうい…。やられました…』
『どこをやられた』
そう問うてから、ヴォルフガングは再び短く舌打ちをした。
問うまでもないことだった。
グラントの右腕、その肘の少し先の部分から下が、無い。
それも、刃物ですっぱりいったような傷口ではなかった。
ぎざぎざと波打った、ちょうど人がその前歯でチーズを囓ったときにできるような傷口であった。
明らかに、何かに食い千切られていた。
『腕以外に、どこかやられたか?』
『いえ、ここだけです…』
『応急処置を施す。少し痛むぞ』
携帯用の緊急治療キットをポーチから取り出し、その中の止血用チューブで二の腕をきつく縛り付ける。それだけで劇的に出血量は減った。それを確認してから、傷口を清潔なガーゼで拭い、その上から止血剤を厚く塗り込む。更に止血用シートを幾重にも巻き、それでやっと出血は収まった。
その作業の途中で、傷口に刻まれた歯形を確かめるのも忘れない。ヴォルフガングの確認したところでは、グラントの腕を食い千切った生き物の口は、小さく見積もっても大形の狼、もしかしたらライオンや虎と同サイズ程度の大きさであるはずだった。
一息ついたヴォルフガングは、ただでさえ青かった顔を蒼白に染め吐く息も荒々しいグラントに尋ねた。
『しゃべれるか?』
『…ええ、なんとか…』
脂汗を流しながら、グラントは言った。
『無理をしてでも話せ。その後で、ゆっくり休んでもらえばいい。いいか、グラント。お前を襲ったのは何物だ』
『わかり…ません。ろうかのむこうでなにかがひかったとおもったら、いきなり…。銃をかまえるひまも…』
『やられた瞬間はどうだった。振り回されたか。それとも、一息で食い千切られたか』
『ひといきです…。きがついたら、ひじからさきがなくなって…ちくしょう、あのやろう、ぜったいにゆるさねえ…!』
これだけ流暢に話せるのであれば、しばらくは大丈夫だろう。
しかし、任務は失敗だ。これだけ獰猛な猛獣を相手取るには、装備が些か心許ない。このまま闇雲に後を追ったのでは、グラントの二の舞となることは明らかだった。
『おい、グラント。このまま引き上げるぞ』
『だめだ、あいつはぜったいに、おれが…!』
『…おいおい、グラントよう。お前も子供じゃあねえんだ。無茶をいっちゃあいけねえやなぁ』
いつの間にか、ヴォルフガングの口調が変わっていた。
グラントは、仰ぐように、巨体の上官を見た。
『腕一本食い千切られてそれだけ言えれば上等だがなぁ、残念ながら装備が弱すぎるんだよう。ここはいったん引き上げてもう一度派手にカチコミといこうじゃあねえか』
グラントは、信じられないものを見るように、目を見張った。
ヴォルフガングは、笑っていた。もう、心底嬉しそうに笑っていたのだ。
そして、その笑みは、どこにも一切の暗さのない、純粋な笑みだった。決して負傷した同僚を慰めるための笑顔などではない、何もかもが楽しくて仕方ないといったふうの、底抜けの笑みだった。
グラントは、目の前で微笑む男を、心底恐ろしいと思った。
この男は、同僚の腕を食い千切った獣が徘徊するこの廃病院の中で、間違いなく欲情していたのだから。
『しょ、少尉殿…』
『ちなみに、お前さんの憎い憎い仇のヤロウはどこに逃げていったんだい?』
『え、と…、その、階段を駆け上がって…』
ヴォルフガングの顔色が変わった。
『バカヤロウ!何故それを先に言わねえ!』
一喝したヴォルフガングは無線機で上階の部隊を呼び出した。
しかし、何度呼び出しても繋がらない。電波が届かないのではない。いくら呼び出しても、返答が無いのだ。
『グラント、もう少しの辛抱だ、そこで寝っ転がってな』
『そ、そんな…!こんなところで!?』
『知ってるかい?軍人ってえ奴は、死ぬことも任務のうちらしい。幸い、標的は上階だ。これ以上この階に他の化け物がいないことを祈るんだな』
ヴォルフガングはグラントの返答を待たず、一気に上階に駆けていった。
アレクセイの慎重さからいって、彼らは一度上階に向かった部隊との合流を果たしてから階下へと向かうだろう。だとすれば、化け物の餌のうち、一番近くにいるのは一階の彼らだ。
疾風のような勢いで階段を昇るヴォルフガングの目が、途中に投げ捨てられたゴミ屑で止まった。それは、彼とグラントが階段を下ったときには、存在してないものだった。
ヴォルフガングは、その巨軀に比して小さな顔に、満面の笑みを浮かべて呟いた。
『おやまぁ。どうやら人間様は口に合わねえらしいや』
それは、食い千切られたグラントの右腕だった。
◇
さっきのは、不味かった。
きっと、次のも不味いだろう。
その次も、その次の次も、次の次の次も。
不味くて臭くて筋張っていて。
どうに食えたものではないのだ。
なのに、何故襲うのだろうか。
『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』
さっきから同じことを言っている、この人は誰だろう。
私を悲しげに見つめるこの人は誰だろう。
とても綺麗な、綺麗な、綺麗な女の人だ。
どこかで、見た気がする。
誰かに似ている。
私の、一度も見たことのない、でも、ずっと知っている、人に似ていた。
誰ですか、貴女は誰ですか。
何故、答えてくれないのですか。
分かりました。それでは私のほうから貴女の元に伺いましょう。
もう、私の脚も、爪も、牙も、こんなに自由なのですから、どうして貴女に会えないことがあるでしょう。
それに、お土産も。
美味しくないですけど、喜んでください。
さっきのお土産は、もう動けないから、あとでゆっくり仕留めましょう。
そして、残りも綺麗に平らげてから、貴女の元に向かいます。
それまで待っていて下さいね。
私の愛しい人。