懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
マルゴは、暗がりの中を息を切らして走っていた。
ジャスミンの光線銃に撃ち抜かれた脇腹が、ずきずきと痛む。生死の境を彷徨ったあの日から、まだ二週間と経っていない。
傷は完全に塞がってはいない。致命的ではないとはいえ、臓器にも損傷があったのだ。組織再生療法の加護が無ければ、まだベッドの上とリハビリルームを往復する生活をしていてもおかしくない。むしろそれが普通だ。
頑健であることが絶対条件ともいえる軍隊生活を耐えてきたマルゴであるが、それでも今の状況は心楽しいものではなかった。
「ちくしょう、どこに行きやがったあのアマ!」
「絶対に逃がすな!」
怒声が暗闇の向こうから響き渡る。もしかしたらこの騒ぎを聞きつけて警官が出動してくれるかも知れないが、それは希望的観測に過ぎないことをマルゴは心得ていた。
最初に声をかけたのはこちらからだった。道行く男たちに、この界隈に羽振りのいい飲み方をする、年端もいかない子供がいないか。そう尋ねたのだ。
明らかに行儀のよろしくない風体の男たちではあった。しかし、ここらにたむろしている男の八割が似たような格好である。その中からはずれを引いてしまったのは、今のマルゴに神の加護が宿っていなかったというだけの話だろう。
男たちは、目の前に突然現れた赤毛の少女をジロリと見定めた。それは女という性を持つ全ての人間に生理的嫌悪を覚えさせるほどに脂ぎった視線だったが、軍隊生活が長く異性の目を意識した経験の薄いマルゴはどうとも思わなかった。
むしろ、あちらから手を出してくれるなら好都合、叩きのめして情報を聞き出すだけのこと。
そう思った。
誤算だったのは、自身の体調が予想の最悪を極めるほどに回復していなかったこと。そして、叩き潰したネズミの一匹が、この街を統べる暴力組織の構成員だったことだ。
取り逃がしたネズミが仲間を呼び、それがさらに仲間を呼ぶ。芋づる式とは正しくこういうことをいうのだろう。最初の数人を叩きのめしたところで、マルゴは早々に逃げ出した。一人一人はただの雑魚だが、何せ数が尋常ではない。万全な調子であればいざ知らず、今の調子では遠からず限界が来る。その時に一体どういう目に遭わされるのか、火を見るよりも明らかだった。
思い出されたのは、地下室に多くの少女を監禁し、虐待を繰り返していた、唾棄すべき赤毛の青年だった。あの男には、確かに父の血が流れていた。血が水よりも濃いものならば、いずれ父はあの男を息子と呼ぶのだろうか。
ずきりと痛んだのは、脇腹だ。マルゴはそう自身に言い訳をし、折れそうになる膝を叱咤して走った。この身が大事な訳ではないが、野獣どもが一時の快楽を貪るための供物にするには些かなりとも愛着があった。
「いたぞ、こっちだ!」
声を背に走る。
突然、暗がりから男が覆いかぶさってきた。夜の中でもはっきりと分かるほど、目がぎらぎらと血走っている。女に飢えていますと、鼻の穴の膨らんだ間抜けな表情が叫んでいた。
「大人しくしやがれ、この売女が!」
背後から羽交い締めにされる。男はそのままマルゴを押し倒そうとしている。押し倒されてしまえば、この男が今夜の一番乗りということになるのだろうか。それとも、獲物に最初の噛み跡を残すのは、群れのリーダーの権利なのか。
どちらにせよ、マルゴにそのつもりはない。
足を振り上げ、踵で男の向こう脛を思い切り蹴ってやった。
「あぃっ!」
間抜けな悲鳴を聞き終える前に、マルゴは背筋を一気に縮めて背を反らせた。後頭部に僅かな痛みと、男の鼻骨の砕けた鈍い音が伝わった。
力が緩んだ腕を強引に振り払い、振り向きざま、蹲った男のこめかみに蹴りを叩き込む。男は悲鳴をあげることもなく、人形のように倒れた。
男が地に伏せる音と同時にマルゴは走った。一人を倒したところで、勝利の余韻に浸っている余裕は無い。今はとにかく逃げて、出来るだけ早く少年を見つけることだ。
見つけて……どうするのか。ヤームルと名乗った老人には、世話をしてくれと言われた。そして、少年が為すべきことを手伝ってやって欲しい、と。
インユェという少年が、一体何を為そうとしているのか。そもそも、この界隈にそんな人間がいるのか。
分からない。しかし、そもそも今の自分に何か目的があるわけではない。強いて言うなら、あの老人の鼻を明かしてみたい。それだけが、ある意味では生きる目的になっている。
だから、まずは生きて少年を見つける。それが何を為そうとしているのか。もしも何もなすことも出来ないただの甘ったれならば、その時はその時だ。あの老人を心の中で見下しながら、自決の引き金を絞ればいい。
マルゴは物陰に身を隠した。いくつかの気配が、息を荒だてながらすぐそばを駆けていった。
「ちくしょう、どこに行きやがった!」
「探せ!まだ遠くには行ってないはずだ!このまま取り逃がしてみろ、俺たちもただじゃあすまねぇぞ!」
殺気立った声が、コンクリートに四方を囲まれた路地裏に響いた。
マルゴは、跳ね回る心臓が少しずつ落ち着いていくのを、他人事のように認識していた。
「それにしても人手が足りねえぞ、くそっ!他の連中はどこで油を売ってやがる
んだ!」
「知らねえのか、お前」
「何をだ!」
「マルデロ兄貴がやられたらしい」
「兄貴が!?どこの誰だ、その自殺志願者は!?」
「俺が知るかよ、そんなこと……どうやら噂をすればなんとやららしいぜ。ちょっと待ってな……」
携帯通信端末の、電子音が響く。
数回、頷く声。簡単な打ち合わせもしているらしい。
「やっぱりだ。妙なガキのことは放っておいて、俺達も兄貴をやった馬鹿を捜せってよ」
「そうか、上の指示なら仕方ねぇな」
「あのガキ、今度会ったらただじゃあおかねえ。絶対に身の程ってやつを教えてやる」
毒づきながらも、声に安堵が含まれていた。無理もないだろう。メンツを汚されてそのまま逃げられたのでは、自分達の責任だ。しかし、命令されて強制的に追跡を終了したならば、責任はいくらでも転嫁できる。
弛緩した空気に、マルゴも静かな溜息を吐き出した。途端に脇腹の傷がじくじくと痛みだし、思わず声を上げそうになったのだが。
「ところで、兄貴をやったのはどいつだ?バヌッチ一家の鉄砲玉か?」
「違う。こっちもガキらしい。あとは、その保護者連中」
「ガキが?なら、兄貴もさぞ怒り狂ってるだろうなぁ」
声には、嘲笑と憐憫がほぼ等分に入り交じっていた。嘲笑は、子供にしてやられたという兄貴分に対して向けられたものだろう。それが本格的な侮蔑にならないのは、普段からその兄貴分を恐れ敬っているからに違いない。
そして、憐憫のほうは、虎の尾を踏んづけてしまった子供に対するものに違いなかった。メンツを潰されたやくざは、その傷を糊塗するために、さぞ残酷な手段をもって粛正の槌を振るうのだろう。そうでなければ、恐怖でもって街を支配するのは不可能だ。
捕まれば、ただ殺されるだけでは済まない。全身の皮を生きたまま剥ぐ方法は何通りも存在するのだし、四肢を切り落とした人間を恐怖を誇示するモニュメントとして見世物にするのは大昔からの伝統だ。
お気の毒なことだと、マルゴは思った。しかし、自業自得である。力の無い者が力のあるものに刃向かう以上、それなりの結果は覚悟しなければならない。その結果を受け入れられないならば、最初から妙な気概は抱かない方が利口だ。結果を予想できないような愚か者はどうせ長生きはできない。
「そのガキの名前は分かっているのか?」
「名前は分からねぇ。だが、相当目立つ風貌らしい。銀色の髪に紫色の目、年は中等部の中頃ってところだ。それなりに見られた顔らしい。できれば、生かして連れてこいってよ」
「男か、女か」
「男だ」
「保護者連中ってのは?」
「兄妹かも知れねえが同じ色の髪と目のメスガキが一人、金色の髪に碧色の目をしたメスガキがもう一人。あとは、黒の長髪をした、女みたいになよついた野郎が一人。人間離れした大男が一人。全部で四人だ」
「そりゃあずいぶんと見つけやすい組み合わせだな」
「俺達もそっちに加わるとしようぜ。見つけりゃ賞金がたんまりらしいからな」
「その上、役得も加わるかも知れねぇな。メスガキの方はそれなりに楽しめそうだ」
舌なめずりするような声が聞こえて、何人かが走り去る足音が遠ざかっていった。
マルゴは、舌打ちを隠しきれなかった。先ほどの連中が口にした人相には、心当たりがありすぎる。
銀色の髪。紫色の瞳。顔立ちは整っていて歳の頃は中等部程度……。そんな目立つ人間が、ごろごろいてたまるものか。
どこの馬鹿がやくざに手を出したのかと思えば、まさか自分が追いかけている少年だったとは。酒場で飲んだくれているという情報は手に入れていたけれども、まさかここまで無謀な真似をするとは思っていなかった。
街を裏から支配するやくざ者に手を出すということは、街そのものを敵に回すのとほぼ同義だ。特に、こんな地方の都市ではその傾向が強い。飲食店、ホテル、タクシー、街をたむろする不良少年や違法薬物の売人。そういった、夜の商売に繋がりの深い人間の悉くに、少年の手配がかけられていると考えて間違いないだろう。
このまま手がかりもなく街を走り続けて、連中よりも先に少年を捜し出せる可能性が如何ほどか。そして、身体はどんどんと限界に近づきつつあるというのに。
マルゴは、先ほど伸した男を振り返った。男は、小さな呻き声を漏らしながら、ようやく覚醒しつつあった。
「起きなさい」
無慈悲な口調で言った。殊更声色を作らなくても、不吉な声が自然と出てくれた。
「て、てめえ、この俺にこんな真似して、只で済むと……」
「その前口上は聞き飽きたわ。あまり何度も聞かされると、流石に胃にもたれるの。今度同じようなことを言ったら、その口を、鼻の穴と耳の穴まで繋げてあげるわ」
「な、なんだと」
「わたしに出来ないと思うの?」
マルゴは、見るからに切れ味の良さそうなナイフを男の首筋に突きつけた。豊かな月光に照らされたその顔にはおよそ人間味と呼べる要素が悉く欠落していて、男は目の前の少女の言うことが脅しでないと理解した。
「……俺に何の用だってんだよ」
男は、拗ねたような調子で言った。まるで、悪戯を母親に見つけられた子供のような口調だった。どうやら。図体だけは過度に成長しているものの、精神的な年齢は相当に低いらしい。
躾は自分の役割ではない。マルゴは、最低限の目的だけを果たすことにした。
「通信端末を用意しなさい」
もしも素直に従わなければ、とりあえず左右の鼻の穴を一つに繋げてやろうと思っていたが、男は従順だった。それとも、反抗するだけの気概がもとから備わっていないだけかも知れないが。
男が尻のポケットから取り出した端末を確認して、マルゴは頷いた。
「あなたの仲間、兄貴分、誰でもいいわ。すぐに連絡して。そして言うの。例のガキを見つけた。場所は……街の北外れの廃工場だとでも伝えなさい」
マルゴは街の見取り図を頭に浮かべながら言った。その場所に例の少年が逃げ込んでいる可能性はゼロではないが、著しく低いのは事実だろう。もしも逃げ込んでいれば、それは知ったことではない。運が悪かっただけのことだ。
マルゴは、大きく息を吐き出した。脇腹の痛みが、どんどん激しくなっていく。今は、浅く息をするだけで引き攣るほどに強烈な痛みが走る。
この時、男にしっかりとした観察眼があるならば、マルゴの異常な様子に気が付き、反撃を試みることも出来ただろう。しかし、マルゴの殺気に当てられた男に、それほどの余裕は存在しなかった。
「ふん、そんなことをしても無駄だぜ。お前はこの街からは絶対に逃げられねぇよ」
「……そうね、逃げられないかも知れないわ。それでも、捕まる前にあなたを殺すくらいならわけはないのよ?」
マルゴは努めてにこやかに笑った。目の前の男が、マルゴ自身が逃げるためにこのような小細工をしているのだと勘違いしてくれるのなら、それはそれで結構なことだ。
首筋に強く押しつけられたナイフがスイッチのように、男は再び従順になった。
「ああ、俺だ。……どうってことねぇよ、これくらい。ところで、例のガキを見つけたぜ。アーク工業の廃工場に入っていった……ああ、多分そういうことだと思う。俺は今から中に入るからよ、そっちでも人数を集めておいてくれ、頼んだぜ」
男が通信端末を切った瞬間に、マルゴは懐から取り出したスタンガンを男の首筋に当てた。
短い悲鳴とともに、男の身体から力が抜ける。その、無駄に大きな手足を紐で縛り、猿ぐつわを噛ませ、ゴミ集積所の一番奥の方に男を押し込んだ。日頃の行いが悪くなければ、窒息することもなく明日の朝には見つかるだろう。それまで、この世のものとも思えない悪臭に苦しめられるはめにはなるのだろうが。
そこまでの作業が、今のマルゴにとっての限界だった。壁に背を預け、そのままずるずるとへたり込む。脇腹から全身へと広がる不吉な痛みが、立ち上がるための力を膝から奪い取っていく。
このまま死ぬのだろうか。考えても仕方のない不安が、むくむくと沸き上がる。
もう、惜しむべき命ではないことなど、はっきり分かっている。守るべき者、守られるべき者、家族、存在意義、全てを失った。
それにしても、あまりに中途半端な気がする。成り行きとはいえ、任務の対象である少年と接触することもなく、父親と呼んだあの方と再びまみえることもなく、こんな場所でドブネズミのように死ぬのか。
まぁ、それが相応しいのかも知れない。
自嘲の笑みを浮かべたマルゴは、うとうとと瞼を落とした。膝を抱えせめて体温が少しでも逃げないようにしたのは、最後まで生きようと足掻く生き物としての本能に近い。
現実と夢が交互に映し出される狭間の世界で、マルゴは色んな人間と出会った。
父と呼んだ老人の、皺の浮いた笑顔。特殊軍として辛い訓練に耐えた兄弟達。その他、名前も知らない、既にどこで出会ったのかも忘れてしまった人間の顔。
そして、城の地下で会話を交わした、不思議な男。
片方だけ残された琥珀色の瞳で、自分を懐かしそうに見上げる。その男が、どうしてか、子供のような姿で自分を見上げていた。その子供の瞳は、確かに両方ともが琥珀色に色づき、その頬は時折薔薇のように淡く色づいた──。
この少年は、誰かに、恋をしているのだと思った。
ああ、それは、きっと遠い世界の出来事だ。
『止めろよ、お前ら!』
風呂に入っている自分を誰か、複数の人間が覗いている。別に隠すほどのものでもなかったから放って置いたが、やがて争うような声が聞こえてきた
風呂から上がってみれば、体中を擦り傷だらけにした少年がいた。無愛想な琥珀色の瞳で自分を見上げている。
ああ、そうか。きっとこの子は自分を守ろうとしてくれたのだ。
──ふふ、あなたはいつもそうね、ケリー……
「……い……」
ぬるま湯にたゆたう氷のように、マルゴの意識は混濁し、薄れかけていた。その意識を、強引に浮上させる無粋な声。
マルゴは、重たい瞼を持ち上げて、油の切れた発条仕掛けの首を何とか持ち上げた。
そこは夢の世界ではない。無慈悲な現実の世界だ。
星のない夜空、ネオンとガスに曇った背景に薄ぼんやりと浮かんだのは、銀色の髪、そして竜胆のように淡い紫の瞳。
「起きろ、糞ガキ」
先ほどまでの男達とほとんど変わらない、汚い言葉遣いで自分を呼んだ。
マルゴは苦笑した。
「……わたしは、そんな名前じゃ無いわ。わたしには、マルゴって名前があるのよ」「へぇ、マルゴ、ねぇ。突然俺たちを襲って、ウォルを奪っていったお前らみたいなクソどもにも、立派な名前があるもんだ」
少年──インユェという名前だったか──は、せせら笑うような表情で言った。
その視線には、隠しようのない憎しみが込められている。闇夜の中でも熾火のように赤々とした、それは殺意だった。
「てめえ、今更こんなところで何をしていやがる。一体何のつもりだ。俺に殺されたいのか」
マルゴは苦笑した。殺されたいか。そう問われれば、殺されてもいい気がする。
これで、この少年と会うという目的は達せられた。最後の未練と言えばもう一度父と会いたいという想いだったが、今更父親にあって、なんと言うつもりか。
わたしはあなたの娘ですよねと問うか。きっとあの方は頷いてくれるだろう。あの時はよく自分を庇ってくれたと褒めてくれるだろう。
それでも、あの言葉は消えてくれない。あの言葉の冷たさは永遠にこの胸に突き刺さったままだ。
もう、どうでもいいと思った。このどぶ臭い路地裏が人生の終着点ならば、それを受け入れようと思った。
だからマルゴは、ありのままを話すことにした。
「……わたしは、あなたを助けに来たのよ、インユェ君」
きっと鼻で笑われるのだと思った。何せ、わたしは、わたし達は、彼を一度殺そうとしている。そして、もう一歩も歩けない手負いの身だ。これで誰かを守るなんて片腹痛いにもほどがある。
しかし、インユェは笑わなかった。
「……さっき、ここらにうじゃうじゃいたウジ虫どもが、一斉にいなくなった。あれは、お前の仕業か」
マルゴは頷いた。頷いて、俯いた首を元に戻すのに、ひとかたならぬ努力を必要とした。
「はっ、それはそれは。それで、次は何をしてくれるんだよ。俺を連れて、この糞ったれな街から逃げ出してくれるのかい?それとも、映画のヒーローみたいに、あの連中を片っ端からやっつけるのか?」
おどけた調子でインユェは言った。
マルゴは首を横に振った。どう考えても、今の自分にはそんなにドラマチックなことをするだけの体力は残されていない。
「……あいつらがいなくなったのは一時的よ。すぐに戻ってくるわ。だから、さっさと逃げなさい」
漏れたのは、苦い自嘲の笑みだった。
いったい自分はこんなところで何をしているのだろう。何度となく自問したが、これではいよいよ意味が分からない。
「ああ、わかってるよ。逃げるさ。さっさと逃げるに決まってるだろう。礼は言わねえぜ。俺はお前らに、助けてくれなんて一度だって頼んじゃいないんだからな」
そう言って、インユェは走り去った。闇夜の向こうに、足音が消えて行った。
マルゴは深いため息を吐き出した。これでいいのだろう。うまく行けば、あの少年は無事にこの街から逃げられる。そうすれば、一応は契約を果たしたことになるはずだ。胸を張って、あの老人に殺されに行こうじゃないか。
まぁ、それもこれも、全ては一休みしてからだ。泥のように眠りたい。そのまま目覚めることがなければ言うことはない。
平穏を願って目を閉じたマルゴだったが、しかしその願いはどこまでも叶えられなかった。
「こっちだ!ジェイルの携帯が転がってる!」
「ジェイルの野郎はどこにいる!?」
「どこにもいません!携帯だけ転がってる!」
「変な情にほだされて裏切ったか、それともガセネタを掴まされやがったか……。裏切り者は死刑だ。役立たずは死刑だ。どっちにせよ生かしちゃおかねぇ。探せ!」
意外と早かったな、と夢現のマルゴは思った。
先ほど、あの男の携帯から流した情報が偽物だとばれたのだろう。そして、嘘情報を流した男の携帯の発信源を追ってここまでたどり着いた……。
隠れなければ。マルゴはのそりと体を動かしたが、やはりと言うべきか、体力のほとんどを使い果たしていた身体は鈍重にしか動かない。
亀のようにゆっくりと物陰に移動しようとしたマルゴを、男達の一人が見付けた。
「おい、そこにいるのは誰だ!?」
路地裏に溜まったゴミを踏み潰しながら、いくつもの足音が近づいてくる。その様子を、マルゴは人ごとのように遠く感じていた。
「おい、こいつ、ジェイル達が追いかけていたガキじゃねえのか!?」
「ああ、そうだ、赤毛に脇腹の傷、間違いねぇ」
「なら、ジェイルの流したガセネタにも、こいつが一枚噛んでやがるのかも知れねェな」
「へへっ、どっちにせよ、このまま放っておくわけにもいかねぇな」
男の一人が、マルゴの髪を掴み、強引に引きずり起こした。
情け容赦ないその強引さは脇腹の傷を開かせ、マルゴは呻き声を噛み殺すために歯を食いしばった。
「おい、糞がき。お前を追いかけていた男はどこに行った?」
気持ちの悪い猫撫で声だった。
「変な意地は貼るなよ。素直に答えるなら、俺たちだって鬼じゃあねえんだ。悪いようにはしねえよ」
その言葉に一片でも信頼性があると思っているのだろうか、この男は。マルゴは何だか楽しくなってしまった。
疲労と諦念の浮いた顔に、年に似合わない微笑を浮かべる。
「……知らないわ、わたしは何も。あなた達から逃げて、もう一歩も動けなくなって、こんなところに隠れていただけだから」
「……本当かい?嘘をついたら、生きたまま豚の餌にしてやるぞ?」
「本当よ。わたしは何も知らない……」
そう、マルゴが呟いた時だった。
うう、と、くぐもるような声が、背後にうず高く積まれた生ゴミの奥から聞こえたのだ。
マルゴは神に向けて呪詛の言葉を唱えてやった。
男達の幾人かが、ゴミを掻き分け、中から紐で四肢を縛られた男を引きずり出した。
「おい、ジェイルの野郎だ!」
「しっかりしろ!誰にやられた!?」
猿轡を外され、後ろ手に縛られた腕を解放された男は、指でマルゴを指し示し、あらん限りの声で叫んだ。
「その糞がきだ!そのがきが、俺をこんな糞ったれな目に遭わせやがった!ちくしょう、臭えったらねえや!肺が腐るかと思ったぜ!」
全員の視線がマルゴに集中する。
「おい、お嬢ちゃん。さっきの説明とはずいぶん違うみたいだが、これはどういうことだい?」
「俺に妙な電話をかけさせたのもこいつだ!汚ねぇ真似をしやがって、さっき、同じくらいの年の頃のガキと仲良く話してたのを、俺はちゃんと聞いてたぜ!」
「ふぅん、どちらにせよ、お嬢ちゃん、もうお前は二度とおうちには帰れないよ。詳しいことは、もっと落ち着いて話せる場所で聞こうか」
男はマルゴの頬を強くはたいた。マルゴの小さな身体はその勢いでコンクリートの壁に叩きつけられた。
「おい、お前ら、そのお嬢ちゃんを事務所に運べ!くれぐれも丁重に、絶対に殺すなよ!」
にやにや笑いを浮かべた男達がマルゴにのしかかった。
「へへっ、よく見りゃ中々綺麗な顔立ちじゃねえか。豚の餌は勿体無いな。これなら結構稼げるぜ、お前」
「なに、怖がることはねぇさ。俺たちがサービスの仕方を一からきっちり教えてやるからよ。店に出る頃にはベテラン顔負けだ」
「運がいいぜ、お前。これで客もとれねぇ不細工だったら、本当に豚の餌だったんだからな。可愛い顔に産んでくれた両親に感謝しな」
口々に好き勝手なことをいい、鼻息荒くマルゴの衣服をはぎ取ろうとする。
まさかこの場所で行為に及ぼうというつもりもないだろう。武器を隠し持っていないかの確認と、逃亡を防ぐ意味で、裸にしてしまおうというのだ。
「いや、やめて、離して!」
マルゴは、生まれて初めて女としての恐怖を感じた。考えるではなく、身体は必死に暴れ、情けない悲鳴が口から漏れ出した。
その抵抗を楽しむように、男達は下卑た笑みを浮かべた。
「あまり暴れると、痛い思いをするだけだぜ、こんなふうにな」
男の一人が、赤く血の浮いたマルゴの脇腹を、軽い力で殴った。
「か、はあぁっ…」
マルゴは、意識が明滅するような激痛を味わった。軽い力であったはずのその一撃は、マルゴから抵抗するための気力を根こそぎ奪い取っていた。
くたりと力の抜けた少女を、男達は下卑た笑みとともに見下ろした。無抵抗で美しい少女を嬲る快感に、男達の股間は大きく膨らんでいた。
「ほらな、無駄なことをするから痛い目に遭うのさ。今のうちに覚えておきな。おとなしくしてりゃ、どんな男だって優しくしてくれるもんだ」
軽口を叩きながら、慣れた手つきでマルゴの手足を拘束した。そして、鼻歌を歌いながらズボンのポケットに手を突っ込み、鈍い光を放つナイフを取り出した。
「暴れるなよ。下手な傷がつけば、商品価値が下がる。そうすりゃお前は本当に豚の餌だぜ」
男は鼻を穴を膨らませたままマルゴの襟の中に刃先を突っ込み、一気に引きおろす。
甲高い音を立ててシャツは布切れへと変貌した。その裂け目から、滑らかで染み一つ無い少女の柔肌が覗いている。
マルゴは反射的に裂けた服を合わせようとしたが、両手は万力のように固定されている。それでも強引に動かそうとすればもう一度傷口を殴られるのだろう。
ここまでか。
マルゴは抵抗らしい抵抗を諦めた。なんていうことはない。野良犬に噛まれるのと大差ない出来事だ。身体を汚されても、心まで汚されるわけではない。
自分にそう言い聞かせてみたが、小刻みに震える身体はどうしたって止められなかった。
「へへっ、そうそう、女は従順で大人しいのが一番だ……」
男はベロリと舌なめずりした。役得と思っているのだろうか、裂けたシャツの隙間に手を這わせようとする。
傷物にしなければいいだけなのだ。処女を頂いてしまえば言い訳のしようはないが、なぁに女の身体にはそれ以外にも穴はある。そもそも処女でないなら一度も二度も同じ事。ここで男のかたちに馴染ませておくのが悪いはずもない。
醜く歪んだその顔は、男という生き物の最も恥ずべき表情に違いなかった。
そして男は、その表情のままぐらりと体を傾け、横倒しに倒れた。
倒れた男のこめかみから、細く黒々とした液体が垂れ落ちている。マルゴは、いったい何が起きたのか分からなかった。ただ、視界の端に、光線銃の閃光が走ったような、そんな気がした。
「ちくしょう、ガスがやられた!」
「狙撃だ!」
「どこから狙ってやがる!」
怒号が飛び交う。
マルゴを取り囲んだ男達の狼狽ぶりは滑稽なほどだった。無理もない。今まで、怪我で弱り抵抗することもできない少女をいたぶって捕食者気取りだったのが、いきなり獲物の立場に貶められたのだ。
「ぐぁっ!」
「ダフがやられたぞ!」
「くそ、卑怯者、どこから狙ってやがるんだ!姿を現しやがれ!」
目標を定めることもできず、散発的な反撃を繰り返す。しかし、そんなものが有効たりうるはずがない。いたずらに騒ぐ草食動物は、ハンターを招き寄せるだけだ。
男達は、最初の犠牲者が出た時点で速やかに撤退するべきだった。遅まきながらその事に気がついたのは、男達の最後の一人が、辺りに散らばった仲間の死体の中心で、自分が最後の獲物であることを自覚したときだった。
「ひ、ひぃぃっ!」
最後の男は、初めて戦場に出た新兵がそうするように、辺り構わず銃を乱射し逃げ出した。しかし無慈悲な光線は男の後頭部を一撃で撃ち抜き、辺りを静寂に戻した。
マルゴはしばらく何が起こったのか分からなかった。分かったのは、自分がどうやら助けられたのだということと、静かに近づいてくる足音だけである。
マルゴは、地に伏せたまま、足音の持ち主を見上げた。持ち主の顔は、半ば予想していた。
「あなた、どうして……」
無表情のままのインユェはしゃがみこみ、マルゴの手足を縛っていた紐をナイフで断ち切った。
「……もう、うんざりだ」
四肢を解放されたマルゴは、咄嗟に、ナイフで切り裂かれた服の前を合わせた。
「うんざりって……?」
マルゴは尋ねた。
「お前みたいに生意気な女に守られて自分だけ生きているのが嫌になったって、そう言ってるんだよ!」
インユェが誰のことを言っているのか、マルゴには理解出来る気がした。それは、マルゴ達が拉致し、既に生贄の儀式に捧げられたという、あの少女のことだろう。
「人の都合は無視して、勝手に助けておいて、勝手にくたばるなよ!そんなの、俺にどうしろっていうんだよ!そんなことをされて、俺はどうやって生きていけばいいんだよ!くそったれめ!」
インユェは、コンクリートの壁を思い切り殴りつけた。辺りには、いち早く死臭を嗅ぎつけたドブネズミの群れが、こそこそと様子を伺っている。
その中で、インユェは、泣いていた。涙こそ流さなかったが、歯をきしらせて、静かに泣いていたのだ。
「俺は、もう絶対に見捨てねぇぞ。ちくしょう、もうこんな情けねえのはうんざりなんだよ」
誰に言うでもなくそう呟いて、マルゴの眼前でしゃがみ込んだ。背中を差し出して、そこに掴まれと要求していた。
彼が助けようとしているのが自分以外の誰かであることを、マルゴは理解した。
「早くしろよ。どうせ動けないんだろう」
「……わたしはいいから、あなただけで逃げなさい。わたしは、あなたを助けにきたのよ」
「男にのし掛かられて情けない悲鳴をあげてたくせに、笑わせんなよ。あまりワガママを言うと、お姫様みたいに抱えあげて逃げるぜ。そんなのお前には似合ってねえし、第一俺がしんどいんだ。だから、さっさと背負われてくれよ」
そこまで言われては、今のマルゴに断る術はなかった。第一、こんな場所で無駄なやりとりに費やす時間が一番惜しい。
マルゴは黙ってインユェの背中にしがみついた。
「思い切り走るぜ。振り落とされるなよ」
言葉のとおり、インユェは走った。
その瞬間を見計らったように、背後から鋭い声がした。
「いたぞ!こっちだ!」
「絶対に逃がすな!生かしたまま捕まえろ!」
マルゴは、背中越しにインユェが笑ったのを感じた。
「生かしたまま捕まえろ、か。ずいぶんと舐められたもんだ、俺もお前もな」
「ええ、そうね、全くだわ」
少年の細い首に回していた腕に、こつりと押し付けられるものがあった。マルゴにとって馴染みの深いその感触は、拳銃のそれである。
「片手でしかみつけ。片手で狙い撃て。それくらいは出来るんだろう?」
「当たり前よ。馬鹿にしないでよね」
マルゴは言われた通りのことをした。背負われ、自分の意思ではなく揺れる視界の中、狙いを定め、引き金を引いた。
背後から短い悲鳴が轟いた。狙いは急所を外したのだろう。満点ではないが、及第点といったところか。
「その調子だ、マルゴさんよ。このまま逃げ切るぜ!」
マルゴを背負ったインユェは、勢いよく駆けた。
狭い路地を走り抜け、ドブ川を飛び越え、フェンスの隙間をくぐり抜けて走った。
いくら月の明るい夜とはいえ、宵闇の時間である。足を取られて転べば大怪我をしかねない。それなのに、インユェの走る速度ときたら、闇の奥の隅々まで見通せているようだった。夜行性の猛獣が夜の森を駆け抜けるような速度だった。
しかし、所詮は人を一人背負ってのものである。道も不案内だ。
追いつかれる度に、マルゴの握った銃から火線が閃き、背後で人の崩れる音がしたが、すぐに銃弾は底をついた。
二人とも、限界が訪れるのは理解していた。その前に敵が諦めてくれればという希望的観測がないわけではなかったが、ここまでの損害を与えておいてそれは虫の良すぎる話であることも理解していた。
運の悪い事に、道はどんどん細く狭くなる。背後からは怒号と荒々しい足音が近づいてくる。
まるで、迷宮を人喰い化け物に追い立てられる、身の程知らずの冒険者のようだ。
「ねぇ、不味いわよ」
マルゴが言った。このまま進んでも、道は袋小路になっているとしか思えない。
「分かってるんだよ、そんなことは!」
息を乱したまま、苛立たしげにインユェが叫んだ。今更引き返せば男達の一団をそのまま相手にしなければならないのだ。既に退路は断たれている。
武器は無い。ナイフ程度ならあるが、それのみで自分達を追いたてる無法者の全てを仕留められると勘違いするほど、インユェは身の程知らずではなかった。
なら、走るだけだ。例えこの先が行き止まりで、あと数秒命を長らえられるだけだとしても、最後まで足掻くこと。それが、自分の命に対する礼儀であり、自分の命を差し出してまで自分を助けてくれたあの少女の対する礼儀であると、インユェは思った。
だが。
「ずいぶん遠くまで逃げてきたもんだなぁ、おい」
予想は的中した。インユェとマルゴの前に現れたのは、無機質なコンクリートの壁だった。三方を、掴まる突起さえない、ざらざらとした壁が聳え立っている。それは絶望を具現化したような情景だった。
そして、来た方向には、道を埋め尽くすほどのやくざ者の群。その一番正面に、インユェには見覚えのある顔があった。
鼻をひしゃげさせ、前歯の幾本かを失った間抜けな顔が、獲物をついに捕まえた嗜虐に歪んでいた。
たった数時間前に、酒場で叩きのめした、あのやくざだった。
「さっきも言ったよなぁ。この街でもう一度俺に顔を見せたら、ただじゃあおかねぇってよ。運が悪いなぁ、お前さんはよう」
くつくつと、含むように笑った。蛇が、生まれたてのひよこを、ジワジワと飲み込んでいくような笑いかただった。
「それにしても、酒場であれだけやりたい放題しておいて、実はそんなに可愛い女を拵えていたのかい。こりゃあ、酒場の女共が泣くぜ、なぁ色男」
商品を値踏みするような、嫌らしい視線でマルゴを見遣りながら、男は言った。
インユェは、反射的にマルゴを背中に隠した。
「……こいつは、そんなじゃねえよ」
吐き捨てるようなインユェの言葉に、やくざ男は笑った。
「こんな状況で男が庇うのに、そんなじゃねえ女がこの世にいるかよ。下手に足掻くと男を下げるぜぇ、なぁ坊や?」
「……ご忠告ありがとうよ」
「ここまで追い詰められといてそれだけ意地が張れるなら、その年の割には立派だよ、あんちゃん。だが、もうお前は終わりだよ。あとは、どれだけ楽に死ねるかだ。同じ死ぬだって、心臓を一突きで死ねるのと、爪先から寸刻みでジワジワ死ぬのじゃあ、訳が違うぜ。これは、知ったかぶりで言ってるんじゃあねぇ。俺は、今までそういう殺し方をして、早く殺してくださいって懇願されたことが、何度もあるんだ」
男が煙草を咥えた。咄嗟に、脇に控えた子分がライターを差し出した。
男は、さも美味そうに煙を吐き出した。
「これだけのことをしてくれたんだ。楽に殺すことは出来ねぇが、それでも最後の慈悲をくれてやらねぇこともねぇ。だから、正直に答えるんだな。酒場でてめぇと一緒にいた四人組、あいつらは今、どこにいる」
一瞬、男が誰の事を言っているのか、インユェには分からなかった。
しかし、すぐに思い当たった。酒場にいた四人組で、このやくざに楯突くくらいに度胸の座った連中といえば、あの四人くらいだろう。経緯は知らないが、どうやら目の前の男も、あいつらに相当痛い目に遭わされたと見える。
インユェは再び笑った。鳥肌が立つくらいに気の食わない奴らだったが、このやくざほどにくだらない奴らでもなかった。少なくとも、数を頼りに自分の力を誇示するような無様な真似だけはしなかっただろう。
そのあいつらが、目の前のやくざ男の面目を潰したのだとしたら、それはとても愉快なことだ。
「知らねえよ。例え知ってたとしても、お前に教える義理はないね」
「余裕こいてんじゃねぇぞ、クソガキが。これは最後の慈悲だぜ。全身の皮を剥かれてビーフジャーキーみたいになった人間が塩水に漬けられた時、どんな声で泣き喚くか、自分の体で経験してみてぇのか」
「なら、そうしてみろよ。お前がたった一人で、俺をそんな目に遭わせてみろってんだ。俺みたいなガキ一人を捕まえるためにこれだけの犬を使ってる時点で、お前の面目なんてやつは地の底まで落っこちてるんだぜ。なら、汚名返上のチャンスってやつじゃねえか。一人でかかってこいよ兄貴分。それとも俺が、てめぇの子供くらいの年しかない俺が、そんなに怖いのかい?」
男のこめかみが、ひくりと動いた。目が血走り、危険なものが視線に込められた。
「いいじゃねえか、挑発にのってやるよ。身の程ってやつを弁えてから地獄に行くんだな、クソガキが」
インユェは、したりと笑った。
「いいか、俺が連中の注意を引く。お前は何とか逃げろ」
自分の背に負ったままの、マルゴにそっと耳打ちをした。そして、残された最後の武器であるナイフを、少女の手に握らせた。もう一振りあったはずのナイフは、件の酒場で、へらへらと笑う青年に取り上げられたままである。
代わりに、自分は銃弾の尽きた銃を手にした。こんなものでも、一応は脅しに使える。最後は鈍器の代わりくらいにはなるだろう。
「恋人に最後のお別れかい、色男。心配するな、てめぇはまだ死なねェよ。死んだ方がましって目に、これから遭わせてやるんだからな」
男はこれ見よがしに銃を構えていた。彼我の距離は、どう足掻いても一足飛びに飛びかかれるようなものではない。素手では、どれほどの達人であっても結果は明らかだ。
あの男の口ぶりからすれば、手足の何本かを撃ち抜かれて、そのままどこかに連れて行かれて、拷問の末に呆気なく殺されるのだろう。
それでも、何故だか死ぬ気がしなかった。インユェは、あの少女と別れて以来、初めて楽しかった。それに、もしも死ぬのならば、もう一度あの少女に会えるのだから悪い話ではない。
──今からそっちに行くよ、ウォル。
──もう、きっとお前は俺に愛想を尽かしてるんだろうけど。
──出来ればもう一度、もう一度だけ、いつもみたいに笑いかけて欲しい。
心の中でそう呟いたインユェは、足取りも軽く死出の一歩を踏み出した。
そして。
「気持ちは分からないでもないけど、急ぎすぎだよ、お前は」
インユェの耳に、どこかで聞いたような声が響いた。
その場にいた全ての人間の視線が、ただ一点に集中した。
やくざの群れの後ろに広がる、濃い夜の闇。
そこには、闇の中でなお輝く、黄金の髪があった。緑色の炎を孕んだ野生の瞳があった。
それは、インユェには、あまりに眩しい色合いであった。
金色の獣が、そこにいた。
「てめぇ……」
「おれの名前はリィだ。お前の名前はインユェ。それで間違いないな?」