懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

83 / 156
第七十二話:未明

 遠くで鳥が鳴いた。漆黒の夜空が稜線から白みを帯び始め、星の輪郭が少しずつぼやけていく。

 朝が近いのだろう。

 頬をなぶる風のどこかに太陽の気配が混じりはじめたのを感じて、体格のいい僧は欠伸を噛み殺すのに一方ならぬ苦労を味わう羽目になった。

 慣れたこととはいえ、門番の任は中々楽なものではない。普段の修行を思えば寝ずの番などどうということはないが、そこは人間、布団の暖かさは美女の誘惑よりもしたたかに心根を揺さぶるらしい。

 首をぐるりとすると、二人いる門番の僧も、自分と同じような顔をしていた。

 

 ──伝統とはいえ、中々難儀なものよ。

 

 僧は心中で呟いた。

 ここはヴェロニカ教の総本山である。この星で最も神聖で、畏れ多い場所である。いったいどこの誰が、よこしまな思いを抱いてここを訪れるというのか。例え法の世界の外に身を置く無頼漢であっても、死後に己を焼く浄罪の炎の火力を自ら進んで強めようとは思わないはずだ。

 第一、門番というもの自体がそもそも時代後れなのだ。本山も古めかしい外観を脱ぎ捨てて、今はそれなりに近代的な容貌に衣替えして久しいのだし、内部にも外観に相応しくコンピュータ管理の厳重な警備が敷かれている。

 このように、まるで阿呆のような様子で自分が一人、外に突っ立っている理由はどこにもないはずだ。

 いや、あるとすれば。

 権威付け。機械をもって人力に変えるこの時代において、あえて人の手を使うことで権威とする。珍しいことではない。少しばかりの歴史と金銭を頼みとする富豪連中ならば、当たり前の様にしていることだ。馬鹿らしいと言ってしまえばそれまでだが、必要な事かも知れない。特に、宗教のように姿形なき本質を抱えるものには。

 であればこの億劫な任にも、一握りとはいえ意味はあるのか。

 そう、年若い僧は自分を納得させた。

 それに、そろそろ交代の時間である。

 今日も、変事は何一つ無かった。

 何事も起こらず、任は後の者に引き継がれた。

 日誌にはそう記されるだろう。そして自分は暖かい布団の中で、午後の修行までの時間、惰眠を貪るのだ。

 僅かに気の緩んだ僧が、噛み殺し損ねた欠伸で顔を歪めた、その時。

 

 ──おや。

 

 視界の端で、ゆらりと動くものがあった。

 僧は、目を凝らして、その動くものを見た。

 総本山は、小高い丘の上に建っている。道は一本道であり、遙か彼方まで見渡すことができる。見渡す限り、遮蔽物は見当たらない。

 その一本道を、人影が、ふらふらと頼りない足取りで門へと近づいてくる。白い布が風にはためくような、得体の知れない所作である。

 

 ──あれは、何だ。

 

 僧は、一度緩んだ緊張の糸を、再び引き締めた。

 あるいは、あれは変事の前触れか。

 何かが起きても不思議ではないことは門番の任に就く僧の全てに言い渡されている。

 少し前に行われた回帰祭で、一人の少女が生け贄に捧げられた。そして、これは秘されていることではあるが、今日の夜にもう一人の少女が生け贄に捧げられるのだという。

 誰か、ヴェロニカ教に不届きな邪念を抱いた誰がが、少女を攫いに来るかも知れぬ。各人、重々注意すること。

 そう、上役から言いつけられていた。それ故に、普段は一人の門番も、今夜は三人だ。三人いれば、大抵の変事には対応できる。出来なかったとしても、誰かにそれを伝えることはできるだろう。そういう意味に他ならない。

 先ほどまでぼんやりとしていた二人の顔にも、相応の緊張感が漲っている。

 回帰祭は、ヴェロニカ教の秘事である。そして、明日のヴェロニカ教のために尊い人身御供となる巫女達である。その御心を騒がせるようなことがあってはならない。例えその巫女が今日この場所にいないのだとしても。

 

「何者かっ!」

 

 僧は大喝した。

 初夏の、しかし高地の早朝特有の痺れるような寒気を、僧の声が切り裂いた。

 だが、ゆらゆらとした何かは、おそらくその声が聞こえているだろうにも関わらず、少しも動じた様子もなくこちらへと近づいてくるのだ。

 僧達の緊張は嫌が応にも高まった。手にした樫製の角棒をぎゅっと握り直し、目をすっと細めた。

 その瞬間、最初の曙光が山巓を越え、丘一面を照らし出した。それでようやく、僧達はその白いものが何なのか、理解することが出来た。

 女だ。

 女が、少しずつ、酔っ払いのような千鳥足でこちらに向かってくるのだ。

 肩の辺りでばっさりとされた髪は白髪で、老女のように見える。しかし顔の造作は、年の頃こそはっきりしないものの、遠くから見る分にもはっとするほどに整っているようだ。身に纏っているのはぼろぼろの白装束で、どうやらその裾がはためいて、ゆらゆらとした何かに見えていたらしい。

 いずれにせよ、尋常な様子ではない。

 

 ──それとも。

 

 ──あるいは、あれは人ではないかも知れぬ。

 

 それでも僧はいっかな怯まなかった。星々を人が跨ぐこの時代とはいえ、夜の闇は未だ濃い。この世に存在するはずのないモノが、存在しないことが証明されるまで、その闇が晴れることはないのだろう。

 ならば、そういうものがいたとしても何の不思議もない。

 いわんや、ここは聖女の作りし尊き教えの総本山である。行くべき先へと辿り着くことも出来ず、迷いでた何かが寄る辺を求めたのだとしても、いっかな不思議はない。僧自身、理屈では説明できない現象を体験したことも、一度や二度ではないのだ。

 しかし僧には自負がある。

 自分は厳しい修行に毎日耐え、肉体と精神と魂を研磨し続けたのだ。その自分が、心弱くして儚くなり、この世を彷徨うような存在に成り果てたモノ如きに惑わされるはずがない。例えあれが悪しき存在だとして、ならば己の本分はその迷いを晴らしてやること。そして聖女の説法に耳を傾けることすらしない卑しいモノならば、力尽くで払ってくれようか。

 むしろ僧は頬を挑戦的に歪め、これは修行の賜を示す絶好の機会とばかりに闘志を漲らせた。邪怪の類であれば望むところとばかりに手にした角棒をびゅんと振った。

 ぴりぴりとした緊張感の満ちる空間を、だがそのゆらゆらした女は、少しずつだがしっかりと近づいてくる。足取りは踊るように頼りなく、上体はあっちへふらふらこっちへふらふら、髪は顔にばさりとかかり、どう見ても正気の様子に見えない。

 余人であればその恐ろしい雰囲気に飲まれていたに違いない。それでも僧の心胆は微塵も怯んでいなかったのだ。

 やがて正体不肖のそれは、僧達の目の前まで近寄ってきた。

 もう、曙光が翳ってもその姿を見間違えることはないだろう。

 

 少女だった。

 

 白髪だと思っていた髪は、驚くほど滑らかに輝く、銀色の髪だった。

 面立ちはやはり整っていて、あと十年もすれば道行く男全員の視線を一心に浴びる美女に成長するに違いない。

 しかし、というべきか。それともやはり、というべきか。

 その整った面の上に、狂気を帯びた表情が張り付いていた。

 視線は明後日の方向を見遣り、ぼんやりと定まらない。頬は不自然に緩み、口元からは粘ついた涎が、下に、下に、垂れ落ちている。糸引くその液体が所々玉状にまとまり、曙光を浴びてきらきらとしていた。

 放心顔の美少女は、整った顔立ち故に、形容しがたい不吉な気配を放っていたのだ。

 

「ふ、ふふ、ふふふ……」

 

 童のように口を半開きにした少女が、紙を振るわす様な声で微笑んでいる。

 その声が、まるで男を誘う娼婦のようで耳に粘りつき、どうにも艶めかしい。

 これはいよいよ彼岸の存在か。

 僧達が流石に緊張したとき。

 

「ツェリン……わたしはここよ、はやくむかえにきて……」

 

 少女が、僧達にようやく聞こえるようなか細い声で、嬉しげに呟いた。

 ふわふわとした、童女のような声。しかしそれ故に、聞く者全てに寒気を覚えさせる、声。

 誰何することを忘れた僧の間を、少女は歩き抜けようとする。だが、一足早く我を取り戻した僧の一人が、少女の肩を強く掴んだ。それは、しっかりとした肉の感触だった。

 

「こら、どこへ行く。ここは神聖なるヴェロニカ教総本山だ。このような時間に誰の許しもなく立ち入っていい場所ではないぞ」

 

 ぐいと肩を引かれ、僧の正面を半ば強制的に向かされた少女は、しかし意外とはっきりとした瞳を僧に向けた。

 

「何を……するのですか。わたしは……ツェリンのために、わたしの……恋人のために、これ、このとおり……お弁当を……用意してきたのです」

 

 少女は、のったりとした緩慢な動作で、抱えた小荷物を僧の鼻先に突きつけた。

 清潔な布でくるまれたその小荷物からは、なるほど腹の虫を刺激する暖かな匂いが漂っている。

 総本山に属する修行僧は、独り身が原則である。しかし全員が出家しているわけではない以上、俗世に恋人を残してきている者も、数は少ないがいないわけではない。そしてその恋人が差し入れを持ってくることも珍しい話ではない。

 しかし、それがこの時間、この風体であると話は違ってくる。

 少女は見るからに美しい風貌だが、表情は言わずもがな、身に纏った白装束も異様そのものである。所々解れ破かれ、染みが浮き垢じみて黄ばんだ服は、どう考えても可憐な少女に相応しいものではない。

 それに、ツェリンという名前。

 総本山で修行している僧ならば、一応名前くらいは覚えている。その中に、果たしてそのような名前の者がいただろうか。しかもこの少女の恋人というならば、おそらくは少年僧であろうが、そもそも少年僧自体それほど数が多いわけではない。

 視線で、周囲の僧に尋ねる。だが、予想に違わずその首は横に振られた。

 

「これ。この場所に、そのような名前のものはおらぬ。何かの間違いであろう。そうそうにここを立ち去りなさい」

 

 少女はあやふやな笑みをうかべたまま、首を横に振った。少女の口元に溜まった唾液が、その拍子に宙を舞った。

 

「そんなことは……ありません。ここに……ツェリンは……います。わたしの……恋人が……ここにいるのです。どうして……そのような意地悪をして、わたしと……あの方との仲……を裂くのですか?あなた方は、そんなにも……わたしのことが憎いのですか?」

 

 少女の菫色をした瞳に、うっすらとした涙が溜まっていく。依然としてそのかたちの良い唇は、三日月状に歪んでいたというのに。

 これには僧も参ってしまった。目の前にいるのが同じ歳の頃の少年であれば訳の分からぬ事をぬかすなと一喝して追い返すところだが、男は総じて女の涙に弱い。それも、このように可憐な涙であれば尚更である。

 話をすると意外に物わかりは良い。ただのもの狂いかとも思っていた僧であったから、その点は救われる気がした。

 ただ、彼女の言う恋人の件だけがどうにも話が噛み合わない。気になった僧の一人が念のためと照会してみたが、やはりそのような少年僧はいないという。

 

「君の求める恋人とやらはここにはおらぬ。ここで無為に時間を使うより、その少年の家と連絡を取るなどしたほうがよいのではないか」

「……嘘です。ここに……ツェリンはいます。わたしには……分かります。彼と会えるなら……何でも……します。ですから、どうか……彼と会わせて下さい」

「会わせたくてもそのような少年などおらぬのだ。何度言えば分かってくれる」

 

 僧達は三人がかりで少女の説得を試みたが、理を述べようとも宥め賺そうとも叱りつけようともいよいよ埒が明かない。

 さてこれでは力尽くでつまみ出すか、しかし相手はか弱い少女、そのように乱暴な真似はしたくないが……。三人がそう思い、渋面を付き合わせた時だ。

 

 ふ、と、何かの気配がした。

 

 音ではない。姿ではない。無論、誰かの声がしたわけでもない。

 ただ、言い表しようのない違和感が、三人の五感のいずれかを刺激した。

 ほとんど同時に三人の顔が跳ね上がる。何だ。今の気配は何だ。

 今し方、我らの背を、何者かが駆け抜けたような……。

 そう思った三人が視線を交差させた、まさしくその時である。

 

「おーい、ねえちゃーん」

 

 遠くから声がした。

 周囲を警戒しようとした僧達の視線は、自然そちらに吸い寄せられた。

 先ほどよりも随分明らかになった視界に、やはりこちらに向かってくる人影がある。その歩調はしっかりとしていて、亡霊のようだった少女の足取りとは比べるべくもない。

 次第にはっきりとしてくる人影の頭部は、やはり真っ白の見える髪の毛に覆われているのだが、この少女を姉と呼んだことを考えるならば銀髪であると考えるべきか。

 然り、顔立ちをはっきりと確認出来るまでに近寄ってきた人影の頭部は、少女と同じ、きらきらした銀糸で覆われていた。瞳の淡い紫も同じ。顔立ちそのものにはだいぶん違いがあるのだが、あまりに鮮烈な二つの特徴が一致しているだけで、この二人が姉弟なのだと僧達は認めた。

 

「駄目じゃないか、姉ちゃん。こんなところまできて、お坊さん達に迷惑かけたら」

 

 息を切らした弟が姉の肩を揺さぶりながら言う。しかし姉はやはり曖昧な笑みを浮かべたまま、幸せそうに、

 

「……聞いてよ……インユェ。この人達ったら……酷いのよ。ツェリンが……ここにいるのに、わたしは……ここまで彼に会うために……来たのに、どうしても……会わせてくれない……のだから」

「ちっとも酷くなんかないよ。だって義兄さんはこんなところにはもういないんだから」

「……あら、インユェも……わたしの……邪魔をするの?たった一人の……弟なのに、そんな……悲しい……ことをするの?」

 

 言葉とは裏腹に、姉の緩んだ表情は少しだって厳しくならない。玩具と戯れる幼子のように、絶えず緩んだままだ。その乖離が、事情を知らぬ僧などにはどうしても禍々しく映る。

 僧達の視線に気づいているのかいないのか、弟は深い疲労に満ちた溜息を吐き出した。

 

「義兄さんなら一足先に家に帰ってるよ。姉ちゃんとは入れ違いになってしまったんだ。だからほら、このお坊さん達もこんなに困っているじゃないか」

「……えっ、ほんとう……に?」

「そうだよ。義兄さんと約束したんだろう?可哀相に、おなかぺこぺこだって泣いてたよ」

 

 弟がそう言うやいなや、姉は先ほどまでの緩めた表情を嘘のように引き締めて、

 

「こうしちゃいられないわ!さぁ家に帰りましょうインユェ!急いであの方の好物のほうれん草シチューをこしらえてあげなくちゃ!」

 

 嬉々とした声でそう言うと、来たときの頼りない足取りが嘘のようにしっかりとした調子で道を帰りはじめた。

 呆気にとられた僧達の前で、ある意味彼らの救い主ともいえる弟は、深々と頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした、姉が色々とご迷惑をおかけして……」

 

 顔を見合わせた僧達の一人が、仲間を代表して尋ねた。

 

「いや、それは構わぬのだが……」

 

 言外に少女の様子について訊く。

 弟は、沈痛な面持ちを隠そうともせず、

 

「こないだ、婚約者だった恋人を事故で亡くしたんです。それ以来、突然おかしくなることがあって、その度に色んなところにでかけてはそこに義兄がいるんだって言い張って……。一度家に帰ればしばらく落ち着くんですが……」

 

 なるほど、愛する人を失って、精神の平衡を失ってしまったのか。僧達は一様に納得した。

 そう考えてみると、丘を下って少しずつ小さくなっていく少女の背中が、なんとも憐れでか細いものに見えて仕方がない。まして、あのように年若く美しい少女がどうしてと思うと、やるせなさが胸を締め付けるようだ。

 僧達は、鉛のような溜息を吐き出した。

 

「そうか……あの少女も勿論だが、君たちご家族もさぞつらかろう。あまり無理をして抱え込まないことだ。ここはいつだって迷える信徒に対して門戸は開かれている。救いを求める手を見捨てることはない。それはゆめ忘れないようにするのだよ」

「はい、ありがとうございます……」

 

 少年は肉付きの薄い肩を振るわし、目をごしごしと拭った。

 

「こら。泣くんじゃない。君は男の子だろう。君がお姉さんを支えていかないといけないのに、この程度で泣いてどうする」

 

 そう叱りつけながら、しかし僧の声色は慈愛に満ちている。

 少年もそのことは十分理解しているのだろう、目を赤くしたまま口元をきつく結び、深々と僧達に頭を下げてから踵を返し、姉の後を追った。

 

「何とも痛ましいことだなぁ……」

 

 僧達の一人が何とはなしに呟いた。

 それにしても、と思う。

 最近、この星は、どうにもおかしい。

 大統領候補の食肉疑惑に端を発し、世論を扇動しての政権交代。その後は、突然に憂国ヴェロニカ聖騎士団を名乗る無頼漢が街を闊歩しはじめ、異教徒である外国人を排斥する。いつしか国民もその様子に疑問を抱かなくなったのは、各マスコミがこぞってヴェロニカ教原理主義思想に傾倒したニュースを流したからか。

 そしてヴェロニカ教内部においても、旧指導陣であった老師連中のほとんどが怪死を遂げ、唯一生き残ったビアンキ老師も行方知れず。今はその弟子であったテセル導師が老師の階位に昇り暫定的な指導者となっているが……。

 加えて先日の回帰祭における、時代錯誤ともいえる生け贄。生きたまま狼の贄にされた少女の恐ろしいまでの絶叫が、今も耳に張り付いているかのようだ。

 そして、今日も一人の少女が生け贄に供されるのだという。いくら信徒の信仰心を確固たるものにするためとはいえ、これではまるで中世の時代にあったという魔女狩りのようではないか。

 いったいこの星で何が起きているのか。

 戦慄を覚えた僧だったが、頭を一振りしてそれを邪念と追い払った。

 不信や不満を抱いてはならない。自分はヴェロニカ教に生涯を捧げると誓った身である。ならば、全ては聖女ヴェロニカの、そして神の御心のままに。

 再び訪れた静寂の中、太陽はゆっくりと中天を目指して昇っていく。辺りは一団と明るくなり、木々の緑がより一層鮮やかになってくる。

 ヴェロニカの、朝だ。

 いつからか、背後からざわざわとした人の気配が伝わってきた。朝の修行が終わり、老師の説法も一段落したのだろう。

 そろそろか、と、僧が太陽を見上げたその拍子に、次の門番の任を帯びた僧の姿が見えた。

 

「お疲れさん、交代の時間だ」

 

 長い任務の終わりに、厳めしかった僧達の顔が少しだけ緩む。

 

「何か変事はなかったか?」

「いや、世は並べて事も為し、だ」

「それは何よりだ」

 

 そう、後任の僧は笑った。合わせて笑おうとして、僧は笑みを止めた。

 そういえば、一つ、取るに足らない変事はあったのだ。しかしそれを報告したものかどうか。

 

 ──いや、よしておこうか。

 

 憐れな少女の身の上話である。世間話のように軽々しく口に乗せるべきではないことのような気がしたし、報告書にしたためて上に報告するようなことでもないだろう。

 結局、その件に関する報告は行われなかった。

 

「ちょっと、どいてどいて!」

 

 簡単な引き継ぎをしていた僧達の背後から、元気のいい声がした。

 一斉に振り返ると、総本山の建物の向こうから、背の低い人影が、大きな荷物を抱きかかえて走ってくる。

 荷物は、どうやら麻製のずだ袋らしい。その袋がぱんぱんに膨らんでいるから、まるで袋から足が生えてこちらに走ってきているような、何とも珍妙な有様だ。

 

「おい、小僧。その荷物は何だ?」

 

 僧達の一人が、笑いを噛み殺したような声で尋ねた。

 小僧はすぐには答えず、僧達の傍に来てから急ぎ足を止め、さも億劫そうな声で、

 

「ただのゴミだよ」

「ゴミ?ならば、後でまとめて車で運ぶのではないのか?」

「おいら、寝坊で朝の説法を聞き逃しちまったんだよ。そしたら師匠が罰だって、このゴミを下の集積所まで捨ててこいって言うんだぜ。酷いと思わないかい?」

 

 布で頭をぐるりと巻いた少年僧は、澄んだ緑色の瞳を顰めながらそう言った。

 門番の僧達は呵々と笑った。

 

「そりゃあお前が悪い」

「その程度の罰で済んだならお前の師匠の慈悲に感謝することだな。俺の時など、あの広い本堂をたった一人で雑巾がけさせられたものだぞ」

「俺は麓の湖を端から端まで泳がされた。しかも真冬の身も凍るような水の中だ。あの時は、師匠は人の皮を被った鬼だと思ったわいな」

 

 果たしてそれがどこまで本当の話か。ともかく、少年僧は軽く身震いして、我が身の幸福を神に感謝する言葉を呟いた。

 

「でもさぁ、こんな荷物、台車の一つでも使えばもっと楽に運べるのにさぁ、何でわざわざしんどい思いしなけりゃならないんだろう?」

「阿呆め。これは罰であり、そして修行の一環だ。楽をしてどうする、楽をして」

「ちぇっ。分かったよ。それじゃあ、手伝ってくれってお願いしても無駄なんだろうなぁ」

「当たり前だ。若い頃の苦労は買ってでもしろというだろう。働け働け」

 

 僧達はもう一度笑った。

 それに、なんだかんだ言いながらも少年僧はあの大荷物を軽々と持ち上げているし、それほど力を入れている様子もない。中に入っているのは、紙くずのように、体積は大きくともそれほど重量のないゴミなのだろう。

 少年僧は、唇を尖らせて不平をたらたらしながら、丘の道を一人、楽々とした足取りで駆け下りていった。

 僧達はその様子をしばらく眺めてから、各々の任に戻っていった。

 そして騒ぎが起こったのは昼前のことである。

 今やヴェロニカ教の唯一の老師となったテセル老が、失踪したのだ。

 

 

 鏡の奥にいるのは、この世の全てに絶望した人間の顔だ。

 どんよりと落ち窪んだ眼窩。罅が浮き、かさついた唇。痩け落ちた頬肉により、顎の細さが強調されて、骸骨の上に薄っぺらな皮膚を貼り付けただけの顔。

 その皮膚には潤いが無く、何より視線に生気が無い。

 これは何だろうと考えて、すぐに思い当たった。

 老人だ。自分の身近にいて、自分にとっての最大級の侮蔑に値した、あの老人達。己の地位にのみ執着し、狭い世界の中での権勢にのみ食指を動かし、聖女と神を蔑ろにした破戒僧ども。

 何度も殺してやろうと思った。そして、今はこの世のどこにもいない。彼らの死体を目にしたときに抱いたのは、罪悪感や後悔ではなく、胸の透くような爽快感だった。

 だが、今にして思う。彼らが矮小な権力の座にしがみついていたのは、もはやそこにしてか縋り付く場所が存在しなかったが故ではないかと。何故なら、真に許しを乞い安らぎを与えてくれるであろう神の御座は、最初から最後まで空席であることが、これほどまでに明らかなのだから。

 ヴェロニカ教の最高指導者たる老師となったテセルは、じっと鏡を見つめていた。

 他者の羨む、順風満帆たる人生のはずであった。

 年若くしてヴェロニカ教の導師の地位を得て、ついに最高位たる老師に上り詰めた。長年渇望を続けていたヴェロニカ教の真理もこの手にした。先んずる者はおらず、振り返っても自分の影を踏む者すらいない。名実ともに、彼はヴェロニカ教の最高指導者になり得た。

 しかし、心が軽い。軽やかなのではなく、軽薄なのだ。

 外縁を辛うじて残した心のかたち、その中心がすっぽりと抜け落ちている。師を裏切り、全てを擲って作られた空虚の代わりに、そこに居座る物がない。

 

 ──いや、あるか。

 

 それは、冷たい金属だ。

 トリジウム。

 死んだ魚の目をした老人が、薄ら笑いを浮かべながら語ってくれた。この星に埋蔵された、巨億の富を生み出す魔法の金属の名前を。

 

『この国の大統領は私だ。そして、思想的なシンボルとなるのが君だ。我々が固く協力すれば、この共和宇宙の政治的、経済的な中心をこの星にするのも夢ではない。そうなったとき、今は辺境宙域の土着宗教でしかないヴェロニカ教が不当に貶められた地位を回復し、聖女ヴェロニカの尊い教えを全宇宙へと啓蒙することが叶うだろう。そうすれば、君の名前は歴史上のありとあらゆる宗教家の上に位置する聖人として、不滅の代名詞になるに違いないのだ』

 

 熱のない言葉は人のかたちをした機械がしゃべっているようだった。

 そして自分はどうやら、その機械に顎で使われる道化となってしまったらしい。

 この国において、ヴェロニカ教の指導陣が政治的な発言力を持ち合わせた時代は、すでに過去のものになってしまったのだろう。現在のヴェロニカ教最高指導者である自分がその地位を得るに、現在のヴェロニカ共和国大統領であるアーロン・レイノルズに対して大きな借りを作ってしまった以上、それは避け得ぬ事態である。

 要するに、自分は全てのヴェロニカ教徒を裏切ったのである。これからは、国が進める政策に対して精神的なお墨付きを与えるだけが、埃臭い坊主どもの仕事になるのだろう。

 そして、ヴェロニカ教の老師達が悠久の年月を守り続けてきたトリジウムは、政治家達のパワーゲームのカードに成り下がった。

 

 ──それも、いいのかも知れない。

 

 テセルは思う。

 どうせ、中には何も詰まっていないのだ。自分も、教えにも、この星にも。まるで、老師のみに許されたこの部屋の虚飾のように。

 からっぽだ。

 ならば腹に操者の腕を突っ込まれて、腹話術の人形に成り仰せるのが相応しい末路かも知れぬ。

 そんなことを考えながら豪奢な造りの鏡を見ていると、いよいよ自分の顔があの老人達の皺だらけのそれと同じに見えてくる。

 

 嗚呼、嫌だ。嫌で嫌で仕方がない──

 

 テセルは発作的に腕を振りかぶり、鏡を破壊しようとした。

 

「やめときなよ」

 

 拳は、己の虚像と衝突する寸前のところで静止した。

 はっとした様子でテセルが振り返る。

 

「そんなことしたって怪我するだけだよ、あんた」

 

 そこには少年がいた。一目では少女と見紛うほどに美しい、しかしテセルにははっきりと少年だと分かる、少年。

 その少年が、だだっ広い部屋の中央に立ち、感情を映さない静かな瞳で自分を見つめていた。そしてどこにも力みのない立ち姿。

 誰だろう。この少年は、いったい誰だ。どこから入ってきた。

 この部屋には、自分しかいなかったはずだ。それなのにどうして。

 

「お前は──」

 

 誰だ。

 そう言いかけて、テセルは口ごもった。

 違う。その言葉はしっくりこない。そう、思ったのだ。

 思った。それも違うのだろうか。思ったのではなく──それは脳髄の思考ではなく、もっと根源的な、魂のようなものの思考だった。

 目の前にいる少年に対して、お前は誰だという質問は、どうしても相応しくない。決定的な齟齬がある。

 どうしてここに入ることが出来た。いったい何が目的だ。他にも問うべきことは無限とあるが、それらの質問も的外れだ。

 こめかみから顎先へと、粘い汗が伝う。自身の存在を大きな顎に咥えられたような、恐るべき緊張感。

 一瞬の、しかしテセルの主観からすれば那由他にも思える逡巡の後、震える喉は、本能に従った答えを絞り出した。

 

「──お前は何だ」

 

 そうだ。これは、根本的に違うのだ。

 誰だ、とは、人間に対してのみ使うことを許された問いである。人間以外にその問いを使うことは許されない。

 だから、目の前の少年、いや、少年の姿をした何かに対して、その問いを使うことは出来ない。

 無論、それ以外の質問も用を為さないだろう。何せ、これは人間ではないのだから。

 唯一、唯一許される質問があるなら。

 

 何だ。

 

 何者だ、ではない。生まれを訊くのでも、育ちを訊くのでも、所属を訊くのでも、目的を訊くのでもなく。

 何だ。どういう生き物だ。どういう物体だ。どういう存在だ。

 何もかもが分からない目の前の少年に、唯一許された質問が、それだった。

 そして少年は微笑んだ。背後から差し込む朝ぼらけの陽光に照らされて影になったその表情ははっきりと見えないが、それでも微笑んでいた。

 まるで肉食獣が、憐れな獲物の延髄に牙を立てる寸前のように、無垢な笑顔で。

 

「なんだ、あんた、思ったよりものが見える人なんだな」

 

 少年は、面白そうに呟いた。

 

「だが、あんたの質問に答えるのは中々難しいな。それでも敢えて答えるなら、そうだな、おれはルーファセルミィ・ラーデンの相棒であり、黒狼アマロックの息子であり──」

 

 少年が、一歩、テセルに歩み寄った。

 テセルは、少年が近寄ったのと同じ距離を、後ずさった。

 

「獅子王ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの同盟者だ」

 

 翡翠色の視線に、殺気寸前の危険な色合いが籠もる。

 戦慄くテセルの喉が、ぐびりと動いた。口の中は乾いて一滴の唾液だって存在しないのに、喉だけが勝手に蠢いたのだ。

 テセルは咄嗟に理解した。

 目の前の存在は人間ではない。悪魔でもない。これは、そんな生やさしいものではない。

 闘争はおろか、交渉も籠絡も譲歩すらも許されない存在だ。魂を捧げたところで、そんなものには目もくれないだろう。

 喰うか、喰われるか。

 これは、最初からその二つの選択肢しかそもそも用意していない生き物だ。

 

「おれの名はグリンディエタ・ラーデン。おれはおれの同盟者を奪い返しに来た。つまらないお為ごかしはいらない。妙なことを考えるなよ。それはそのままあんたの寿命を縮めると思え」

 

 テセルは、心臓が早鐘を打っていることに気が付かなかった。横隔膜が、全力疾走をするスポーツカーのピストンみたいに激しく上下している。過呼吸の一歩手前だ。顔色は蒼白になり、滝のような汗が痩けた頬を伝い落ちていく。

 瞳孔は大きく開き、眉が八の字に、許しを乞うように歪められる。それは、獅子の牙を喉元に突きつけられた、憐れな子鹿の表情であった。

 

「……俺を、どうするつもりだ」

 

 それでも喉を振るわせて、辛うじて声と呼べる声を絞り出した。

 その一言で、テセルの気力はごっそりと奪われてしまった。視界が滲み、意識が遠ざかりそうになる。膝が頼りなく震え、自分の足下だけが大地震に見舞われたのではないかと疑いたくなる。

 そんなテセルの憐れな姿に興味の一つを抱くでもなく、グリンディエタ・ラーデンと名乗った少年は、またしても一歩を踏み出し、

 

「話を聞いていなかったのか。おれはあんたに一握りの興味なんてありはしない。勝手に生きて勝手に死ね。おれがこの星に来た理由はただ一つ、おれの同盟者を取り戻すことだけだ」

 

 淡々とした口調は、それ故に一切の小細工を許さない苛烈さがあった。

 

「ど、同盟者……」

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。今の名前を、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。おれの同盟者であり、義理の妹であり、夫としての配偶者であり、妻としての婚約者だ。このうちのたった一つの持ち主を拐かしただけだって十分に復讐の対象だってのに、それを四つも、よくもやってくれたもんだな」

 

 少年は溜息を一つ吐き出してから、絶対零度の視線でテセルを睨み付け、

 

「お前ら、覚悟は出来ているんだろうな」

 

 ぼそりと、小さな声で呟いた。

 ひぃっ、と、情けない声がテセルの口から漏れだした。

 駄目だ。このままここにいたら、喰われる。喰い殺される。

 逃げなければ。ここから逃げて、誰か、人のいるところへ。

 テセルは、相手が少年の姿だからと侮ることはなかった。相手を自分の手で制圧しようなど夢にも思わなかった。その点、テセルの判断は極めて正しいものだった。

 だが、次がよくなかった。

 テセルは少年に背を向け、肺腑に大きく酸素を取りこみ、一気に吐き出そうとしたのだ。

 

 ──誰か、助けてくれ!

 

 勝ち目のない敵が目の前にいるのだ。誰かに助けを求めるのは決して恥ではない。その点も、テセルの判断は間違えていない。

 間違えていたのは、それでもやはり、目の前にいた少年の身体能力を、人間の範囲内のものだと錯覚してしまったこと。

 テセルは、首筋に強い衝撃を覚えた。急激に視界が明るくなり、そして黒と赤の二色に染まる。総身から力が抜け、景色が横倒しになっていく。

 馬鹿な、と思う。

 彼我の距離は、到底一足飛びで詰められるようなものではなかった。だからこそ、せめて助けの声を上げるくらいの猶予はあるだろうと、追い詰められた思考の中で計算したというのに。

 ならば、少年以外の誰かが、この部屋にいたというのか。

 いや違う、と、薄れゆく意識の中でテセルは否定した。

 この少年だ。この少年が、おそらくはいとも容易い動作でこの間合いを一気に詰め、自分の首筋に手刀を落としたのだ。普通の人間には無論不可能ごとだろうが、この少年ならば可能だ。

 そうだった。これはそも、人間でないのだ。人間以外の存在ならば、人の身に許されざる技が出来たとしても何ら不思議ではない。

 全ての理屈を抜きにして、床に倒れ伏したテセルはそう納得した。叫び声を上げるつもりで吸った空気は、蝋燭の火も消せないような弱々しい吐息となって喉から漏れ出ただけだった。

 

「まったく、どいつもこいつも人の言うことなんか聞きやしない。結局こいつを頼ることになるのか。いつものことながら面倒くさい……」

 

 少年のうんざり声が、途切れ途切れに聞こえる。

 体がぴくりとも動かない。延髄への衝撃で脳が揺れ、体幹が痺れ、神経の伝達が遮断されているのだ。体が動くはずがない。

 ぱさり、と、柔らかい布が床を叩いた音が聞こえる。

 最後の気力を振り絞ったテセルが、狭まりゆく視界の中に認めたのは、麻製の巨大な袋が床に落とされる瞬間の映像であった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。