懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第七十四話:昼

 男は、ふとコーヒーが飲みたくなって、思わず誰かを呼んだ。

 

「おい……」

 

 だがその声は、誰の耳に届くわけでもなく、埃臭い部屋の隅で反響して、やがて消え失せた。当然だ。その狭い部屋の中にいたのは、彼が一人だけだったのだから。

 彼は、忌々しげに舌打ちをした。その音すらも誰の耳に届かず、やはり薄暗い部屋の隅で反響し、やがて消え失せた。

 彼がこの部屋の主になってから、もうしばらく経つ。この陰気な部屋は、華々しいまでに壮麗な佇まいを誇る連邦本部ビルの地下にあり、誰の目に止められることもなくひっそりと存在しているのだ。

 まるで全てに忘れられ見捨てられた、絶息寸前の老人のように。

 部屋がそうなら、部屋の主がそうであるのもまた道理である。

 男は、連邦大学の政治学部を首席で卒業したキャリア連中ほどには輝かしい経歴を誇るわけではないが、他人の顔色を易々と変えられるだけの要職を務めてきた。内心では、自分の能力は学歴ばかりのお坊ちゃま連中となど比べるべくも無いものだと確信している。

 そんな自分が、何故陽の光も差さない地下室に、引退したアナグマのように息を潜めて、日々資料の整理で時間を潰さなければならないのか。しかもその資料というのも、既に十年も前に解決した案件の資料ばかりで、どれほど折り目正しく整理したところで誰の目にも触れないことが明らかなものばかりだというのに。

 そして今や、コーヒーを煎れてくれる部下もいない。

 ただ一人、誰に知られることもなくこの部屋に定時に出勤し、定時に仕事を切り上げて帰宅する。

 今まで自分が蹴落としてきた数多くの人間は、さぞ溜飲を下げていることだろう。天網恢々疎にして漏らさずとでも嘯いているのかも知れない。

 そう考えて、男は、自分の腹の底が赤々と煮えたぎるのを感じた。他人が己の悪口ばかりを言っているように妄想するのは精神疾患の一種であるのだが、追い詰められた男にそのような自己分析が出来ようはずもない。

 彼の中にあるのは、一種の不公平感と復讐心ばかりであった。有能で努力も惜しまず、他者に優れて出世の階段を駆け上がってきたはずの自分が、どうしてこのような辛酸を舐めねばならないのか。

 今に見ていろ。俺は諦めない。俺のことを後ろ指指して笑う奴らに目にものを見せてやる。

 その暗い情熱だけが、今の彼を支える原動力であった。

 禿げ上がった額を怒りで赤く染めて、それでもコーヒーを煎れるために立ち上がった彼は、正しくその瞬間に鳴った携帯電話を手に取り、その番号を見て滑稽なほどに慌てた。そして居住まいを正し、背筋を伸ばし、精一杯の誠意を込めて受信ボタンを押す。

 

「はい、もしもし……?」

『おや?こちらはウィリアム・シェイクスピアさんの携帯電話ではありませんでしたか?』

「……いえ、間違い電話でしょう」

『そうでしたか。それは失敬』

 

 そう言って電話は呆気なく切られた。だが、男はただならぬ表情ですぐにスーツの上を羽織り、形式上だけの出張届けを提出し、足取りも慌ただしくビルの最寄りから二駅も離れた場所にあるショッピングモールへと急いだのだ。

 平日の午後とはいえ、そこは買い物を楽しむ若い恋人や、ベビーカーを押す若い母親の姿でごった返していた。店には明るい顔で接客する店員、街路に植えられた木々の鮮烈な緑、抜けるような青空。そんな中、スーツ姿に大きなブリーフケースという男の出で立ちは少々異様であったのだが、人目を引くほどのものでもない。

 男は、店の並んだ通りの外れにある公衆電話のボックスに、その小さな体をねじ込んだ。そしてメモ帳のアドレス欄に並んだ電話番号のいくつかを組み合わせ、頭の中で組み立てた秘密のナンバーをプッシュする。

 何度か鳴る、呼び出し音。そして、あちらが受話器を取った音。

 

「もしもし……」

『ああ、お待ちしていましたよウィリアム・シェイクスピアさん。お久しぶりですねぇ』

「あれほど勤務時間中に連絡を寄越すなと言っておいただろうが!もしも君と私の関係が公になれば、お互いどういう目に遭うか、まさか知らないわけではあるまい!それに、今更どういうことだ!もう私の仕事は終わったのではなかったのか!?」

『まぁまぁ落ち着いてくださいな。そんなに息せき切られてもお答えすることができませんよ』

 

 受話器の向こうの男は、いつものことではあるが、耳障りな声でくつくつと笑った。

 人を小馬鹿にしたような──いや、間違いなく小馬鹿にしているのだ──その声は腹立たしいことこの上ないのだが、しかしこの相手こそが男の救い主である以上、通話を切るわけにもいかない。

 

『しかし、ええそうですね、一応は謝罪しておきましょう。あなたが、閑職に追いやられたとはいえ曲がりなりにも勤務時間中だというのは承知していたのですが、こちらも緊急事態なのですよ』

「緊急事態だとっ!?それは……」

『まぁ、それほど大したことではありません。いつも通り、あなたはあなたの役割を演じて頂くだけで結構ですから。ねぇ、ウィリアム・シェイクスピアさん?』

 

 男は血が出るほど強く受話器を握りしめた。だが、今更この関係を打ち切る訳にはいかない。彼には彼の野望があり、今は遠く異星にいるはずのあの男は、間違いなく自分をもう一度表舞台へと押し上げるだけの力を持っているのだから。そして自分の破滅を決定的なものにするだけの力も。

 男はネクタイを緩め、深呼吸を一度。

 

「わかった、話を聞こう」

 

 もう、後戻りは出来ないのだ。

 

 

「くそっ、狭いんだよ、おっさん!もっとそっちに寄れねぇのか!」

「そっちと言われても、限界があるのは君も分かるだろう!君こそもっと場所を作れないのか!そんなに小さい体なんだから!」

「んだとぉ!?この生臭坊主!膾斬りにして窓から放り出すぞこの野郎!」

「いい度胸だ!手足を縛られた人間にしか強気になれない臆病者の分際で、ヴェロニカ僧兵流格闘術を修めた私によくぞそこまでほざいたものだ!」

「いや、ホント、何て言うか、すまねぇなぁ……」

 

 後部座席が何とも喧しい。

 ルウが購入した大型のエアカーは三列シートで定員8人、乗車スペースの後ろには荷物を載せるためのスペースがかなり広く設けられているという巨大な代物だったが、一番後ろの列だけに目をやると、明らかな定員オーバーであった。

 原因は、考えるまでもなく一人の男である。背中を丸め、出来るだけ小さくなろうと努力しているであろうその男は、それでも縦幅では天井に頭を擦りつけながら、横幅では余裕で二人分が座れるスペースを占拠しているのだから。

 

「おい、静かにしてくれないとルーファが運転に集中できないじゃないか」

 

 助手席に座ったリィが振り返り、注意をした。

 

「仕方ねぇだろうが!そもそも、どう考えても一番スペースを取るこのおっさんが、どうして一番人数の多い後部座席に座ってるんだよ!?」

 

 そう叫んだのは、押しつぶされんばかりの有様でテセルとヴォルフに挟まれているインユェである。

 その隣で、ドアに肩を押しつけながらこちらも不服顔のテセルが頷いた。ずっと以前はいざ知らず、導師の階位を得た頃からはこのように狭い車内にぎゅうぎゅうと押し込まれた覚えはない彼であるから、こういった扱いには大いに納得できないものがあるらしい。

 

「それこそ仕方ないだろう。だって一番前には二人しか座れない。二列目には女の子がいるんだ。だったら三列目に三人座らせるしかないじゃないか」

 

 さも当然といった調子のリィの言葉に、

 

「女だとか男だとか関係あるかよ!なら、このでかいおっさんを二列目にして、そこのお嬢ちゃんを三列目に座らせればいいじゃねぇか!」

 

 お嬢ちゃんと言われたシェラが、じろりと発言者を睨み付けた。

 発言者であるインユェは気圧されたように喉を動かしたが、しかしぷいと明後日の方を向き、何か悪いことを言ったのかという表情である。

 シェラは溜息を吐き、正面に向き直った。こんな子供を連れて行って本当に大丈夫かという有様である。

 一連のやりとりを見守っていたリィは、沸き上がる笑いを噛み殺しながら、

 

「ヴォルフの隣に座らせたら、マルゴが窮屈だろう。インユェ、お前男の子だろ、少しは我慢しろよ」

「だから、男だとか女だとか、関係ねぇっつってんだよ!」

 

 そう叫んだインユェに向かって、二列目から振り返ったマルゴが、

 

「怪我してる女の子に窮屈な思いしろっていうの、あんた。最低ね、そりゃああの子もあんたじゃなくてリィに靡くわけだわ」

「んだと、てめぇ……!」

 

 肩を振るわしたインユェだが、実際マルゴの脇腹の傷はまだまだ完全に癒えていないので、それを武器にされると弱い。

 憮然と黙り込んだインユェ、それを見てから向き直ったマルゴの顔はさも愉快そうに微笑んでいた。まるで年相応の女の子のように。

 その顔をバックミラー越しに眺めたルウが、

 

「大丈夫だよインユェ、そんなに時間はかからない。ここからウォルのいる聖地ナハトガルまで、エアカーを飛ばせば四時間ってところだ。途中で休憩も挟むから、少しだけ我慢しててね」

 

 苦笑混じりにそう言った。

 インユェも、子供ではない。少なくとも自分ではそう思っている。だから、あまり聞き分けなく喚き散らすのがみっともないことであると理解はしているので、大いに不満そうに鼻息を一つ吐き出して、黙りこくってしまった。

 そうすると、車内は一気に静かになる。そもそも、これから囚われの身のウォルを救出に向かうのだ。その後、おそらくはまだこの国に囚われているであろうケリーとジャスミンも助け出さなければならない。三人を監禁している首謀者がこの国の大統領であることがはっきりしている以上、それはヴェロニカ共和国そのものを敵に回すことと同義なのだ。軽口を叩きあっている方がおかしいのである。

 しかし、車内に緊張が満ちているかといえばそんなことはない。ルウは鼻歌交じりにハンドルを握っているのだし、リィは静かに前を見つめているのだし、シェラは編み物などをしていたりする。マルゴはのんびりと外の風景を眺めていて、ヴォルフは小さく屈めた体を上下に揺らして、どうやら転た寝をしているらしい。

 インユェは同乗者の様子を見て、これは自分がしっかりするほかないと気を引き締めた。確かにここに集まった連中は、まぁそれなりの強者揃いではあるようだが──無論自分に及ぶべくもないとインユェは思っている──頼みになるのは自分だけと考えた方が良さそうだ。

 それに、と、隣に座った少壮の男をちらりと見る。

 テセルと名乗った、ヴェロニカ教の老師である。つるりとした禿頭。まだ少し腫れが残っているとはいえ端正に整った顔立ちは涼やかで、坊主というよりは役者に向いている気がする。

 その男が、何故この車に乗っているのか。この車に乗っているということは、即ちウォルを助けに行くということである。この男からすれば、ヴェロニカ共和国に対して、そしてヴェロニカ教に対して反旗を翻すに等しい行為なのではないか。

 この男を信じて良いものか。インユェは極めて懐疑的であった。今は味方のふりをしているが、いざという時に裏切るのではないか。そういう意図でもない限り、自分達に同行するメリットがないはずだ。

 じろりと睨め上げるようなインユェの視線を感じ取ったのだろう、テセルがインユェの方を見て、

 

「そんなに私が信じられないのか」

 

 真っ向からの問いかけであった。

 そして、インユェの答えなど決まり切っている。

 

「ああ、信じられないね。こないだの満月の晩、何の罪もない女の子を生け贄に捧げる、気違い沙汰の儀式の祭司を、あんたは平然と勤めたんだぜ。そんな外道のことなんざ、誰が信じられるもんか」

 

 車内に響き渡る大きな声であった。そも、ひそひそ声で話したところで狭い車内である、ここにいる連中が聞き逃すはずがない。それこそ寝入っていても運転に集中していても、である。

 当然のことながら、正面からの糾弾を受けた年若い僧侶も、一言一句たりとも聞き逃さなかった。

 そして大いに頷いたのだ。

 

「私もだ。私も、私を信じることが出来ない」

 

 インユェは、改めてテセルの顔を見上げた。

 そこにあった横顔は、不自然なほどに静かで、まるで良くできた彫像のようですらあった。

 車内での会話はそこまでだった。

 途中、エアカーは大きな川を横断した。その川原が中々広くて、居心地も良さそうだったので、そこで遅めの昼食ということになった。

 状況が状況である。まさかみんなで楽しくキャンプファイアーというわけにはいかない。山と積まれた荷物の中から携帯用の糧食を引っ張り出し、各自手早く腹に収めただけだ。

 インユェもそれに倣った。

 リィ達とは、お前達と馴れ合うつもりはないのだという意思表示も込めて、かなり離れた場所に腰を下ろし、味よりも効率に重きを置いた糧食を作業的に咀嚼し飲み下す。

 そして、僅かな休憩時間。これが終われば、あとは強行軍で聖地ナハトガルまで向かう。

 ナハトガルは険しい山々に囲まれた荒れ地であるらしい。近隣に目立った都市もない。連中が不意のアクシデントを危惧したなら、既にウォルはその近辺に監禁されているのだと考えるべきである。

 ナハトガルには、巡礼に訪れた信徒のために、いくつかの宿泊施設が用意されているし、ヴェロニカ教の教会も当然のことながら存在する。その中のどこかにウォルはいるのだろう。

 

 ──待ってろよ、ウォル。俺が絶対に助けてやるからな。今度こそ、助けてやるからな。

 

 たった一人の姉を失った。

 もう、自分には何も残っていない。死んで惜しむものなど何一つないのだ。

 ぎゅうと手を握りしめる。

 一度は離してしまったのだ、彼女の小さな手を。

 もう二度と離さない。

 離してしまえば、その時に、俺は……。

 

「随分と悲壮な顔をしている」

 

 弾かれたように顔を上げたインユェは、

 

「……なんだ、あんたかよ」

 

 そこにいたのは、顔を腫らした僧侶であった。痛々しく腫れ上がった顔は、自分がそうしたのだ。

 無論、一抹の後悔も抱いていない。あれは、当然の報いであったと思っている。

 無言のインユェを無視して、テセルはその隣に腰掛けた。

 

「さっきの質問に、まだきちんと答えていなかったと思った」

「質問だと?」

「お前は信用して良いのかと、そう聞いただろう?」

「そんな質問、した覚えはないぜ」

「だが視線でそう言った。内心ではそう思っていた。違うか?」

 

 インユェは何も言わなかった。

 何も言わず、目の前のきらきらとした大河を眺めていた。

 その横で、テセルは、河原の小石を拾い、河に投げた。石は何度か水面を飛び跳ね、やがて姿を消した。

 

「へたくそになったものだ。小さな頃は、もっと上手だったのだがね」

 

 石が投げ込まれても、水面には少しの波紋のあとも残っていない。流れの中に完全に飲み込まれてしまったのだ。

 

「さてと、どこまで話したのだったか」

「……若ぼけかよ。あんたも、あんた自身を信じられないって、そう言ったんだよ」

「ああ、そうだった、思い出したよ」

 

 テセルは苦笑した。その後で少し顔を顰めたのは、折られた鼻の骨が、笑った調子に痛んだからだ。

 

「私は、私自信を信じられない。それは、私が、既にヴェロニカ教に対する絶対的な信仰を失ったからだ。そして、私のうちにあるのはヴェロニカ教だけ。つまり、私は既に、私自身への信頼を失ったということなのだよ」

「……つまり、あんたの中にあったのは、黴臭い神様を拝む気持ちだけってことか。けっ、ずいぶんしょっぱい人生だな」

「そう言われてしまうと立つ瀬がないのだが、まぁおおむね君の言っていることは正しい。私は、生まれてから今まで、ヴェロニカの神とだけ対話を繰り返してきた。そして、それは全てまやかしだったと知らされたんだ」

 

 インユェは頬を歪めて笑った。

 

「そいつはご愁傷様だ。だけどよ、俺達みたいな資源探索者に言わせりゃ、信じていたものに裏切られるなんて珍しいことでもなんでもねぇんだぜ?絶対にここにお宝の詰まった小惑星があるに違いない。そう信じて小惑星が見つかるのが十に一つ。そして見つけた小惑星に稀少な資源が詰まっているのが百に一つ。ほとんどはゴミみたいな鉱物で出来た小惑星ばかりなんだからな。そうして、ほとんどの賢い奴らは、こんな商売は割に合わないって気が付いて辞めていく。残るのは、信じることなんてとうの昔に諦めちまった楽天家ばかりだ」

「そうか、ならばその楽天家の資源探索者は、きっと誰よりも自分を信じている人達なのだろうな」

「……どうしてそうなるんだよ?」

「いつか自分は貴重な資源を見つけることができる。そう確信しているからこそ、目の前の小さな失敗を笑い飛ばすことが出来るのだろう?そうでなければ、人は徒労を繰り返すことが出来るほど、強い生き物ではないはずだ……」

 

 そう言ったテセルは、消え入るように呟いた。

 

「なんと羨ましい……」

 

 しばらく、二人とも、何を言わなかった。

 ただ、目の前の大河が水を流し、時計の針が進むだけの時間があった。

 

「ぼちぼち、時間だぜ」

「ああ……」

 

 テセルが先に立ち上がり、尻を何度か叩いて砂埃を落とした。

 

「どれほど他人を羨もうと、私は私でしかない。そして私は、私に対する信頼を失った」

「……」

「自分への信頼をなくして、人は人として生きていくことは出来ないのだと、私は思う。だから私は、私への信頼を取り戻さなければならない。それはきっと、どれほど偏屈な老人の信頼を得るよりも、遙かに難しいことなのだろう」

 

 インユェは、酒に、そして女に逃避していた自分を思い出した。

 一番大事な人を目の前で奪われた自分。もう二度と立ち上がれないと思った自分。

 その自分の上に、今の自分がいる。

 今の自分は、自分を信頼しているのだろうか。絶対に逃げ出さないと、そう言い切れるのだろうか。

 もしも言い切れないのだとしたら、それは自分への信頼がまだ足りないのだ。自分は、自分への禊ぎを終えていないということだ。

 

「それでも、生きていかなければならないのだものなぁ。なら、自分を信じてやらないといけないんだものなぁ」

「……ああ、そうだな。あんたの言うとおりだよ」

「あの少年、リィといったか、彼は、きっと自分を信頼していたよ。だからこそ、他人をああまで信頼出来るのだし、その他人を助けるために命を賭けることが出来るんだ。なんとも羨ましい。そうは思わないか?」

「……けっ」

 

 忌々しげに呟いたインユェを見て、テセルは笑った。

 

「私が、此度の同行をあの少年に懇願したのは、きっとあの少年ならば、私が抱えている私への不信を断ち切るための何かを見せてくれるのではないかと、そう思ったからだ。だから、私を信じてもらう必要などは全くないが、とりあえず隣にいることを認めて欲しい。危ない目に遭うのは承知の上だ。無論、命の保証など必要ではない。どうせ、今の私は半分死んでいるようなものなのだから死んで元々さ」

「……神頼みを止めたと思ったら、今度は初めて会った子供を頼るのかよ。どんだけ節操無しで人任せなんだ、あんたは」

「そう言われると耳が痛いが、まぁ仕方ない。今の今まで人生の全てを神に頼ってきた恥知らずだ。ここはもう少しだけ何かに縋らせてもらうとするさ」

 

 そう言い放ったテセルは、のんびりとした足取りでエアカーの方へと歩いて行った。

 インユェは、もうしばらくの間、流れる河の水面を、じっと眺めていた。

 そして一行は出発した。

 車内の配席は先ほどと変わらなかったが、もうインユェは一言の文句も無い。ただじっと、少し緊張した様子で前を見つめるだけだった。

 一行を乗せたエアカーは、その最高巡航速度でもって荒野を疾走していた。先ほどまでは完全な荒れ地ばかりだったのが、少しずつ緑が増えてきている。背の高い木々が小さな森を作り、平地も荒野というよりはステップと称した方が適当な按配である。植物の数が増えればその分動物も増えるのは当然のことで、暢気に草を食む草食獣が、すわ何事かと一行の駆るエアカーを見上げたりもする。

 陽は徐々に傾いてくる。儀式の行われる時間が満月の中天に差し掛かる夜半だとすれば、すでにあと半日の猶予もない。

 そんなとき、一台のエアカーが後方から近づいてきて、一行の乗ったエアカーを追い越していった。

 人気のない大自然の中である。他のエアカーとニアミスするだけでも十分に異常なことなのだが、そのエアカーはしばらく行った先で止まり、運転手らしき人間他数人が、車外におりてこちらに手を振っているのだ。

 何かあったのだろうか。もしもエンジントラブルか何かで、しかも通信手段も持っていないのだとしたら、即、命に関わる。こちらも悠長なことをしている時間はないのだが、このまま見過ごすのも夢見が悪いとばかりに、ルウはエアカーを止めた。

 

「どうかしたのですか?」

 

 少し離れた場所から、大きな声で問いかける。これだけの距離があれば、向こうによこしまな意図があっても十分対処出来るだろう。

 ルウの問いかけに応えることもなく、停止したエアカーに乗っていた人間がこちらに走り寄ってきた。遠くからでもはっきり分かる程に全員の身なりはよろしく、また、折り目正しく運転席の外に待っている人間はどうやら執事のようで、これは相当に裕福な人間の一行であることが予想できた。

 走り寄ってきた連中は、しかしルウの問いかけは無視するようにエアカーの後部座席側のドアへと近づき、息せき切らしたまま、姿勢正しくお辞儀をしたのだ。

 これは何事かとインユェが窓を開けると、

 

「失礼ですが、もしやテセル老師では?」

 

 一番立派な身なりをした風体の良い男が、控えめな調子で尋ねた。

 テセルにしてみれば全くもって初見の男だったのだが、この国における僧の社会的地位は相当に高く、街を歩けばこういったかたちで声をかけられるのも初めてではない。

 ドアとインユェに押しつぶされんばかりのなんとも窮屈な姿勢のまま、丁寧にお辞儀を返した。老師になって日の浅いテセルは、まだこういうときにどんな応答をするのが正しいのか、今ひとつ習得出来ていないのだ。

 

「おお、やはりそうだ!このようなところでテセル老師のご尊顔を拝することが叶うとは、これぞ天の采配に他なりませんな!わたくし、タザ州の上院議員を祖父の代から三世代務めております、ビカール・モハンと申します。これは私の家内と娘です。どうか、以後お見知りおきの程を……」

 

 柔和な笑みを浮かべる婦人と二十歳そこそこの美しい淑女を両脇に控えさせて、揉み手をせんばかりの笑顔であった。

 テセルにとって、こんなことは別段珍しいことではない。ヴェロニカ共和国における宗教指導者の社会的な地位は非常に高いのだ。老師といわず、導師の階位にあった時分においてすら、ことある毎にテセルにおべっかを使い取り入ろうという者は後を絶たなかった。

 だから、テセルにしてみれば、これはいつものことなのだ。

 しかし、いつものことのはずの目の前のへりくだった笑みが、どうしてだろう、今日は耐え難いほどに醜いものに感じるのは。

 テセルは、喉の奥から込み上げてくる吐き気を堪えるのに、一方ならぬ苦労を覚えるはめになった。

 

「どうしましたか、老師、少しお顔の色が優れないようですが……?」

「……いえ、少し車酔いをしてしまったようで……ご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんが、大したことはありませんので……」

「そうですか……どうかご自愛ください、何せ今日は待ちに待った回帰祭なのですから。こないだの前夜祭も、それはそれは素晴らしいものでしたな!何より、テセル老師の、お若いのに堂に入った祭司ぶり!特に、巫女を祭壇へ引きずり出したときの祝詞の見事なこと、一言一句を生涯忘れることはないでしょうな!」

 

 男は誰に聞かれたわけでもないのに、その時のテセルの姿が素晴らしかったことをぺらぺらと話す。身につけていた法衣の煌びやかなこと、錫杖の美しさ、何よりテセルの姿が神々しかったと。

 そして男の長口上はそれだけにとどまらなかった。

 

「それにしても、あの生け贄の小娘……失敬、神の巫女の滑稽なこと!最後の最後まで見苦しく足掻き喚き泣き叫び、見苦しいことこの上なかった!いや、肉食いどもの小娘に生け贄の任がどれほど崇高なものなのかを語り聞かせたところで無駄なのは分かりきっていましたが、まさかあそこまで醜悪な様を見せるとは……。あの盛大な前夜祭で、ただそこだけが残念でならなかった。そもそも肉食いの分際で回帰祭の贄に選ばれるという名誉、そして罪深き身の上でヴェロニカの自然の循環に立ち戻ることを許された幸運、果たしてあの浅薄な小娘がそれを理解出来ていたのか否か……。我々の、そしてテセル老の慈愛をなんと心得ているのやら……」

 

 そう言って男は痛ましそうに首を振った。

 その顔には、嘲笑と憐憫と侮蔑、そしてそれらよりも遙かに大きな愉悦が入り交じっていた。

 そうだ。この男は、楽しんでいたのだ。年端もいかない少女が生け贄に捧げられ、狼の群れによって嬲られ、喰い殺される有様を。父と母の名を泣き叫び、無数の群衆の眼前で名も無き肉塊になっていった少女の最後を。

 この下品に歪んだ顔が、寛容の宗教として宇宙に広く知られたヴェロニカ教徒の、厚化粧の下にある素顔なのだろうか。

 テセルは、訳もなく泣きたくなった。このような人間は、ヴェロニカ教徒のごく一部に違いないと思った。他の宗教にだって、嗜虐趣味の人間はいるはずだ。人間の歴史を紐解けば、魔女狩りなどという忌まわしい時代も存在した。だから、これはヴェロニカ教に限った話ではない。

 ない、はずだ。

 それなのに、どうして、これほどの無念が心を劈くのか。

 

「そして、今日が、本来の日取りからは少しばかりずれましたが、真の回帰祭。こないだのように一般の信徒に知らせず、我々のような、真にヴェロニカを愛する者だけを集めて執り行い儀式の格を高めるというのは誠に有意義なこと。そしてそのような儀式にお呼び頂き光栄の極み、このビカール・モハン、感謝の言葉もございません」

「いえ、そのような……」

「今宵の儀式にも素晴らしい生け贄……もとい、巫女が用意されていると聞いておりますぞ。しかもその巫女の親は悪鬼羅刹が如き所業を恥とも思わぬ輩で、巫女自身も悪心に囚われた毒婦であるとか。いやはや、そのような下賤の者を哀れみ巫女の大役を与えるとは、我がヴェロニカの神のご慈悲は偉大と言わざるを得ませんな!」

「あなた、少し言い過ぎよ。彼女達は我々の罪を背負って自然の循環に還ることを定めづけられた神聖な巫女ですもの。今までの生がどれほど罪深くて薄汚れていても、それとこれとは話が違うわ。きちんと敬意をもって最期を見届けてあげるのが、わたくしたちヴェロニカ教徒の義務ではなくて?」

「そうよ、パパ。ああ、全てのヴェロニカ教徒の罪を背負って自然の循環の中に還ることを義務づけられた巫女、なんてロマンチックなのかしら!わたしもいつか、そのお役目を授かりたいわ!」

「これこれ、ジェシカ、お前のように品行方正なヴェロニカ教徒にそのようなお役目は回ってこないよ。あれは、自分から許されざる罪を犯して地獄へ堕ちるほかない憐れな魂を救うための儀式だそうだ。だから、お前とは最も縁遠いお役目なんだ」

「なぁんだ、じゃあこないだ生け贄になってたあの娘も悪い子だったんだ。その程度の人間を、わざわざあんなに盛大な儀式で生け贄に捧げてあげる必要なんてないんじゃない?聖女ヴェロニカの教えを理解しない愚か者は、もっと人知れず、惨めに死ぬべきなのよ。ふん、憧れちゃって損したわ」

「こらジェシカ、テセル老師の御前だぞ。口を慎みなさい。失礼しました老師、まったく口の減らない娘でして……」

 

 なんとも嬉しそうに、小鼻を膨らませながら言う。

 

「それにしても、件の生け贄ですが、此度の儀式ではせめて晩節くらいは汚さぬ程度の振る舞いを見せてもらいたいものです。いや、それは不可能事なのか。何せ、神の声を聞くことなく、肉を食い、自然を省みず、悪行の限りを尽くした人間如きに此度の神聖なる儀式の真価など分かろう筈もない。そもそも、神もそのような下衆が生け贄と捧げられる以上、求めておられるのは精々無様に最後まで足掻き続ける惨めな有様なのかも知れません。それならば、出来るだけ醜く足掻いてもらうが重畳ですなぁ」

 

 もう限界だ。テセルはそう思った。もう、こいつらの汚い言葉を耳に入れるのは、我慢出来ない。

 自分は、このように品性下劣な人間達を満足させるためにあの儀式を執り行ったわけでなければ、今までの人生をヴェロニカの神に捧げたわけでもない。もっと崇高な……違う。もっと素晴らしい……違う。そうだ、あやふやで、名前のない、何か心地良いもののために、人生を賭けたのだ。

 しかし……。

 あの少女からすれば、自分とこの連中と、どれほどの差があるというのか。

 自分は、少なくとも内心は、あの儀式の祭司たる任を、一度だって望まなかった。儀式の最中だって逃げ出したかったのだ。

 この男は、敬虔な信徒の厚化粧を塗りたくりながら、あの儀式を見世物として楽しんでいて、それを隠そうともしていない。

 どちらに罪があるのか。いや、どちらにも罪があるのは明らかだとして、どちらが罪深いのか。

 そんなことは……分かるはずがない。何故なら、罪の軽重を告発すべき少女は、既にこの世にいないのだ。もしも彼女が鬼となり復讐するならば、自分のこの男もその牙に引き裂かれるのだろう。

 それでも、とにかく限界だった。もう、目の前の男にしゃべらせておくのが苦痛で苦痛で仕方なかった。

 だからテセルは、窓から手を伸ばして、目の前の男の襟首を掴もうとした。

 そして、自分の肩を押さえる、小さな手の存在に気が付いたのだ。

 振り返る。そこにいたのは、自分とは二回りほども世代の離れた、少年だ。

 インユェが、静かな瞳で自分を見上げ、首を振っていた。

 そうだった。

 自分達は、あの少女をこれから助けに行くのだ。ならば、こんなところで面倒事を起こしている余裕などあるはずがない。

 目の前の男はいよいよ調子づいて聞くに堪えない言葉を吐き出し続けているが、もうテセルの耳には入らなかった。

 

「……さて、申し訳ありませんがモハンさん、そろそろ我々も出発しないと……」

 

 男は、まだまだ語りたかったのだろうか、些か不服な表情をちらりと見せたものの、すぐに大げさな程に申し訳なさそうな顔を作り、

 

「おお、そうでしたそうでした。偉大なる老師猊下をこのようなところに引き留めて、万が一にでも儀式に遅れさせてしまってはモハン家の輝かしい歴史に拭えざる汚点を残すことになりましょう。では後ほど、祭壇で老師のお姿を拝見するのを楽しみにしております」

「はい、では後ほど……」

 

 テセルは、男と視線を合わせることなく頭を下げた。

 男も同様の所作をしたが、その時点で初めてテセルの乗るエアカーの車内の異様な様子に気が付いたのだろう、少し怪訝な顔をしたが、しかし何事を口にするでもなく、執事の待つ自分のエアカーのところに、家族全員小走りで戻っていった。

 やがて男の乗ったエアカーは、男と男の家族を乗せ、ナハトガルへ向けて走り出した。

 その姿を見遣ってから、テセルは重たい溜息を吐き出した。

 

「……すまなかった。こんなところで、君たちの足を引っ張るところだった」

「いいさ、実際には起こらなかったことなんだから」

 

 そう気安く言ったのリィだった。

 

「それより、おれはインユェが真っ先に暴発すると思ったんだけど意外だった。どうして飛びかからなかったんだ?」

 

 インユェがムスッとした声色で、

 

「どうして俺が飛びかからなきゃいけねぇんだよ」

「だってあいつら、ウォルのことをさんざ貶していたじゃないか。下賤だの毒婦だの憐れだの、人を見下す言葉のパレードみたいだったな」

 

 くすくすと、リィは笑った。

 

「そして何より、あいつらはウォルの処刑を心待ちにしていた。それでもお前は怒らなかった。どうしてだ?」

「それは……」

 

 言われて見れば不思議だ。今までだって、ああいう場面ではいの一番に激発して大暴れ、そして後からメイフゥには小突かれてヤームルにはお説教を頂くというのがお決まりのパターンだったというのに。

 インユェは少し考えて、

 

「……あいつらの話しているのが、多分、人間の言葉に聞こえなかったからだと思う。アホだのバカだの、そういう言葉には素直に怒ることが出来ても、ああいうふうに、まるで宇宙人みたいな言葉で馬鹿にされても、俺、頭悪いからさ、よくわからねぇんだよ」

 

 少し恥ずかしげにそう言った。

 その言葉を聞いて、リィは一瞬目を丸くした後で腹を抱えて笑った。

 

「そうだな、インユェ、お前の言うとおりだ。あいつらは頭が良いのかも知れないけど、どう考えてもアホだ。物事の本質を見ようともしないで、聞きかじっただけの、もしくは与えられただけの情報を鵜呑みにし続ければああいうアホが出来上がるのさ。そして、そんな連中の言葉は宇宙人の言葉と思って聞き流せばいい。自分に火の粉が降りかかりそうな時以外はな」

 

 褒められているのか貶されているのか分からず、インユェは押し黙るしかなかった。

 その顔を見たリィが、先ほどまでとはうってかわって、真剣な顔と声色で、

 

「なぁ、インユェ、今からおれ達は、ウォルを助けに敵地に乗り込むわけだ」

「……なんだよ、今更そんなこと、分かりきってるじゃねえかよ」

「その前に一つだけはっきりさせておきたい。インユェ、お前にとってウォルは何なんだ」 

 

 インユェはいったん口を開き、そして閉じた。

 助手席から振り返って自分を見る、リィの視線が、あまりにも一直線だったからだ。

 

「どうなんだ、インユェ。お前にとって、ウォルは、どういう存在なんだ?」

「……決まってる。俺がご主人様で、あいつは俺のドレイだ」

 

 この言葉にヒヤリとしたのがシェラであった。

 リィは、自分が同盟者と呼んだ男──今は何の因果か少女になっているが──を奴隷と呼ぶ存在を、許しておかないだろうと思ったのだ。

 だがリィは、未だ真剣な表情でインユェを見遣り、

 

「あいつを奴隷と呼ぶならそれもいいだろう。だが、もしもお前があいつの主人だって胸を張るなら、お前は最後まであいつの面倒を見ることが出来るのか?お前はあいつのために命を賭けることが出来るのか?それともそんなものじゃなくて、あいつは使い捨てに無聊を慰めるだけの奴隷だとでも言うつもりなのか?」

「……賭けるさ。賭けるに決まってるだろう。だからここまで来たんだよ。眠たいこと聞いてるんじゃねぇよ」

「そうか、ならいいんだ」

 

 あっさりとリィは前に向き直った。

 

「さぁ、行こうかルーファ。あまりぐずぐずしている時間もないしな」

「……うん、そうだね、急ごう」

 

 そう言ったルウが、エンジンキーを回そうとした、その時である。

 遠くから、ずぅん、と、腹の底に響くような重たい音が聞こえてきたのだ。

 

「なんだ……?」

 

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