懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第七十六話:薄暮

 鬱蒼とした森の中には、陽の高い時間でも薄暗がりの世界が広がっている。

 陽光は背の高い木々とその葉に遮られ、地面に届くまでに光量の過半を奪われる。その残りを名も知れぬ羊歯植物や下草が奪い合い、最後に苔類がおこぼれに与る。

 この森では、光は限られた資源なのだ。

 昼間でも夜のように暗い森の中に、甲高い鳥の鳴き声、獣の息遣い、虫の羽音、そして木々の擦れる音が絶え間なく響き続ける。

 生命の密度が、恐ろしい程に濃い。

 ヴェロニカ陸軍に所属するその兵士は、こめかみから頬へ、そして唇へと垂れ落ちる塩辛い汗を舐め、喉の渇きを潤した

 装備は、比較的軽装であった。少なくとも、行軍訓練や、熱帯ジャングルに潜んだテロリストのアジトへの潜入任務に比べれば、軽装であった。それでも、茨や虫の待ち受ける藪を、四方に注意を払いながらひたすら漕いでいく任務など心楽しい筈がない。

 

「くそ、ヘリの連中がさっぱり片付けていりゃ、俺にこんな任務が回されることもなかったろうに……」

 

 標的の乗ったエアカーが、ヴェロニカ陸軍の攻撃ヘリに追われてこの森に突っ込んだのが半時も前の話。乗員は、全部で七人。エアカーが大破した痕跡と思われる黒煙が、既に確認されている。

 果たして何人が生き残っていることやら。

 仮に生き残っていたとしても、到底無事では済むまい。

 万が一の幸運に恵まれ、全員が奇跡的に無事だったとしても、たった七人のテロリストが、唯一の移動手段を奪われて原生林に閉じ込められたのだ。一体、彼らにどのような破壊活動が出来るのか。

 それに、当然のことだが、エアカーに乗せられる程度の装備はたかが知れている。せいぜい、前時代的な機関銃やら手榴弾程度のものだろう。

 ならば、奴らをナハトガルに近づけないという目標はすでに達成されている。なのに、どうして自分達はこんなに苦しい思いをして、森の中を這い回らなければならないのか。それこそ、まるで地虫か何かのように。

 単一のリズムと呼吸で歩き続けていると、そんな妄念が頭の中をぐるぐると回り出す。職業病的に周囲に気を配りつつ、しかし頭のどこかでは、この任務が終わった後の特別休暇をどう消化するか、色街で馴染みとなった女の顔を思い浮かべていたりする。

 そうして、どれくらい歩いただろう。前方を行く隊員が、止まれのハンドシグナルを送った。

 流石に意識を入れ替え、姿勢を低くして注意深く前進すると、木々の切れ間から、既に原型を止めていないエアカーの残骸が覗いていた。

 隊員の一人が携帯用の携帯用生命探査装置を起動させ、エアカーの周囲の状況を確認するが、生命反応は無し。だが、乗員が既に死亡しているから反応が無いのか、それとも逃亡したから反応が無いのかは遠目には分からない。黒こげになった車体のガラスは煤で曇り、車中を視認することが難しいからだ。

 周囲に向けて生命探査装置を起動させたが、やはり人間大の動物の生命反応はない。あるのは小動物程度の二酸化炭素反応くらいのものだ。

 事前の打ち合わせ通り、隊の中でもベテランの兵士三名が、周囲に最大限の警戒を払いながら、ゆっくりと近づいていく。隊長と数名の隊員がそのサポートに、残りが周囲に銃口を向けあらゆる異変に対応しようと五感を研ぎ澄ませている。

 じりじりとした時間が過ぎ、やがて三名がエアカーへの接近に成功した。

 そして一気に立ち上がり、内部に銃口を差し向けた。もしも中に何者かがいて、少しでも妙な動きをしようものなら、彼らは一切の躊躇無く引き金を引いただろう。

 しかし、現実には一発の銃弾も放たれることはなかった。何故なら、エアカーの内部に人影はなく、また、死体の一つも存在しなかったからだ。

 つまり、テロリスト共は奇跡的に無傷のまま、この森のどこかに潜んでいる可能性が高いということだ。

 その旨をハンドシグナルで隊長に告げようと、後ろを振り向いた瞬間である。

 音ではなく、色ではなく、風の感触でも匂いでも味でもなく。言葉にはし難い違和感が、そして熟練の兵士のみに備わった直感が、何か、不測の事態が起きつつあることを持ち主に知らせた。

 反射的に振り返る。そこには黒こげのエアカーがあるだけだ。もう、どれほど腕利きの整備士に頼み込んでも、二度と元の姿と機能を取り戻すことはないだろう、ぼろぼろのエアカー。その底面から、何か、小さな物音が聞こえた、気がした。

 無論、気のせいである。微弱な電波により着火した信管は、秒速4㎞を越える爆発力を生み出し固形の可塑性爆薬を起爆させ、秒速10㎞の膨大な爆風を生み出し周囲を跡形もなく吹き飛ばす。

 小さな音など、気のせいだ。その音が届くよりも先に、爆風が全身を打つ筈だからだ。ただ、兵士はそのことに気が付くことも出来ず、爆風に巻き込まれて死んだ。

 離れた場所で警戒に当たっていた兵士の鼓膜すらを、爆風は強かに叩いた。爆発により四散した車体の破片が、大樹の木片が、仲間の肉片が、凶器と化して飛来する。熱風をそのまま吸い込めば、器官を焼かれて助からない。

 咄嗟に姿勢を低くし回避姿勢を取れたのは、日頃の訓練の賜だろう。

 

「ちくしょう、テロリストどもめ!」

 

 果たしてもとは何だったのかすら分からない物体が、ぼたぼたと落ちてくる中、誰かの口から悲鳴と悲嘆と非難の入り交じった叫びが放たれた。

 聴覚が奪われ、三半規管すらも正常に機能しない中、それで彼らは一縷の望みをかけ、仲間の安否を確認しようと爆心地へと急ぎ歩を進める。

 だが、頭上から襲いかかる鉛の飛礫と、剣を構えた少年が、それを許さなかった。たちまちのうちに兵士の全てを打ち倒し、意識を刈り取った。それでも、彼らはまだ生きる権利を許されたのだ。爆風の中で痛みを感じる間もなく死んだ仲間に比べれば、十分に幸運だと言えよう。

 

「さて、こいつらはどうするんだ?」

 

 燃え盛る炎を背後に、事も無げな様子でリィが言うと、

 

「縛ってどっかに転がしておいてくれ。後で、交渉材料に役立つかも知れん。殺すのはいつだって出来るからな」

 

 やはり事も無げな調子で、手にした無線スイッチを弄びつつ、完全武装のヴォルフが言った。

 全身を最新鋭の機械鎧で包んだ常識外れの大男は、まるで、財宝を守護するという古の青銅巨人のような風貌である。

 見た目も物騒なら、肩に担いだ武器も物騒極まりない。

 銃身だけで二メートル近い、巨大な機関砲であった。

 機械鎧に内蔵された人工筋肉によって、持ち前の怪力を更に倍加させたヴォルフは、普通ならば車両に設置し運用すべき超重量の機関砲を、あろうことか片手で持ち上げているのだ。いくら機械的な補助があっても、通常の兵士では到底不可能な膂力である。

 そのことを熟知しているマルゴが、感嘆というよりは呆れかえった視線をヴォルフに向けていた。

 

「これから忙しくなるぞリィ、シェラ、ルウ。こいつらを指揮する連中がどれほど寝ぼけてても、この爆発は目に入るだろうし、こいつらと連絡が取れなくなったことには気が付くだろうぜ。どれだけの兵隊さんを相手取らなくちゃいけないか、想像もつかねぇ」

「そのわりには嬉しそうじゃないか、ヴォルフ」

 

 頭部装甲にすっぽりと覆われて大男の顔は見えないが、声の調子から、戦場には似つかわしくない人懐っこい笑みを浮かべているのが分かる。

 然り、少し恥ずかしそうに青銅巨人は俯き、

 

「我ながらネジが緩んでいるとは思うんだけどよ、こういうのが大好きなんだな。殺すのが好きなわけじゃないし、殺さずに済むならそうしたいとは思うんだが、そんなことお構いなしに大暴れするのが好きなんだよ。この体を、思う存分に使ってへとへとにしてみたいのさ」

「……ま、街中で暴れるよりは平和的だよね」

 

 若干呆れ気味にルウが呟く。その手には、長距離狙撃用のライフルが握られていた。

 リィも頷き、

 

「とにかく、おれ達の第一目標は敵の目をここに引きつけること。第二に、移動手段の確保だ。この森の中なら、敵がどんな装備を持ち込んでいるのか知らないけど、互角以上の戦いが出来ると思う。どんどん積極的に攻めていこう」

「ああ、それでいいと思う。……それにしてもリィ、シェラ、お前らはさっきはどうやって生命探査装置の目を誤魔化したんだ?あの距離なら、お前達の存在を見逃すはずがないんだが……」

 

 ヴォルフの疑問に、穏やかな表情のシェラは、

 

「単純な話ですよ。心拍数と呼吸を極度に抑え、体温と呼気に含まれる二酸化炭素を低下させました。そうすれば、リィやわたし程度の体なら、小動物か何かと勘違いしてくれるようです」

「……それは簡単な話なのか?」

「ええ、才能をもった人間が訓練を積めば、それほど難しいことではありません。……非常に気に食わないことではありますが、わたし以上の熟達者であれば、仮死状態に近しいレベルまで生体活動を抑え込むことが出来ます。無論、意図的に」

 

 その熟達者とは、今はシェラと同じ名字を持つ、死神の一族の精鋭のことである。

 

「リィ、あんたもかい?」

「おれは狩りの途中に気配を読まれるようなヘマはしない」

 

 さも当然のようにそう言った。

 果たして、如何なる手段をもって機械の目を誤魔化したのか興味は尽きないが、それを確認していては日が暮れてしまうだろう。

 とにかく、この森が彼らの猟場であることは分かった。ならばそれ以上の詮索など不要である。

 

「俺が精々大暴れするから、隙を見つけて仕留めてくれりゃいい。殺すか捕まえるかはあんたらに任せるよ」

「了解」

 

 ヴォルフは各人に骨伝導式の通信機を渡した。敵に妨害電波を使われてしまえばそれまでという代物だが、無いよりはましだろう。

 荒事に慣れていないテセルは、むしろ足手纏いであることを彼自身も知っていた。それに、怪我の癒えないマルゴも戦力として数えるのは酷である。彼らには、先ほど捕縛した捕虜の監視を割り振り、残りの人間──即ち、リィ、シェラ、ルウ、そしてヴォルフが実戦部隊ということになる。

 その時、藪の向こうに微かな気配がした。遙か向こう、しかし敵もこちらの存在には気が付いているだろう。

 

「さぁ、お出でなすったぜ」

 

 リィとシェラは音もなく森に溶け込み、ルウも狙撃ポイントを求めて姿を消した。

 ただ一人残され、重機関砲を構えたヴォルフが、重々しい足音共に歩を進めた。

 

 

 遠くに見える山脈の一番高い山巓が、ついに沈みゆく太陽の一番下に触れた。

 夜が来る。遠くの方から、ひたひたと、不気味な足音と共に近寄ってくる。

 西の空から差し込む強烈な斜光が、巨大な円形の祭壇と、その周りにぐるりと作られた観客席を照らしている。東の空は、既に寒々しいまでの群青に染まり、じきに暗闇へと顔色を変えていくはずである。

 じわじわと集まった観客達の顔が赤く照らし出される様子を、為す術無くケリーとジャスミンは見守っていた。

 

「儀式が始まるのはもう少し先のこと。どうかお二人とも、くつろいで下さい。そうだ、飲み物などは如何ですか?いくら涼しい山間とはいえ暑さも厳しくなってきました、脱水症状などを起こしては一大事」

 

 熱の無い平坦な声が、二人の座らされた席のちょうど中間からかけられた。

 その声の主を、二人は知っている。だから、あらためてその顔を確かめようとは思わなかった。

 

「身に余る光栄だが、結構だ。ヴェロニカ共和国の大統領御自ら、一介の虜兵如きに飲み物を勧めて頂く必要などない」

 

 ジャスミンが、折り目正しく拒絶の意思を口にした。

 

「ああ、俺も遠慮させてもらうぜアーロン・レイノルズ閣下どの。あんまり畏れ多くて折角のドリンクが喉を通らねぇとまずいんでね」

 

 ケリーが、皮肉げに頬を歪ませながらそう言った。

 二人が山城でアーロンと戦い、敗北してから既に二週間が経過している。その間、彼らは丁重な扱いではあったものの地下牢に閉じ込められていたから、これが二週間ぶりの外の空気ということになる。

 二人とも、大統領の腰掛けているのと変わらない豪奢な貴賓席に座らされていた。装束も華やかなものを用意され、もとの立派な風体も相まって、大統領に招待されたどこかの王族のようだったし、一般席から二人を見上げる観衆は、正しくそのように思った。

 当然のことであるが、二人は、例えば手錠や腰縄のような身体を拘束する器具の一切を外されている。しかし、総身を強い圧迫感が締め付けているようで、指一本自由に動かすことは出来ない。そして、その力がアーロンの特異能力であることを、二人は嫌と言うほどに理解している。

 

「しかし、そうは仰いますが、この宴が終われば我らは共に長い冷凍睡眠に入らなければなりません。現実世界ともしばしの別れ、もう少し享楽を味わっても罰は当たらないと思うのですが?」

 

 気遣わしげなアーロンの言葉に、二人は応える必要性を見いださなかった。

 

「なら、お願いがあるんだがね、アーロン・レイノルズ閣下どの」

「ええ、ケリー。何なりと、ただし私が叶えられるお願いであるならば」

 

 ケリーは首だけを動かし、アーロンの横顔を見た。

 天使に取り憑かれ、天使の手で破滅することを願った男は、相も変わらず魚じみた熱の無い瞳で、宵闇へと飲み込まれつつある祭壇と観客席を見下ろしていた。

 

「一つだけ聞かせて欲しい」

「何なりと」

「お前の望みは何だ」

 

 アーロンの視線は相も変わらず、足下の観客席と祭壇を等分に眺めている。一切の感動を伴わない、ひんやりとした視線で。

 人が蟻の群れを見るのと同じ、無感動の視線で。

 

「お前は言ったな。俺の怒りが、絶望が、天使を呼び寄せるのだと。そのためにトリジウムを資金源にしてウィノア特殊軍のクローンで軍隊を編成し、内戦を起こすのだと」

「はい、言いました。私はあなたの友人を、想い人を、思い出そのものを台無しにするための舞台を、この星に作り上げるのです。そして天使にこの星を滅ぼしてもらい、私もこの星と運命を共にする。それが私の人生の締め括りです」

「なら、この茶番は何だ?」

「茶番とは?」

「惚けるな。この儀式のことだ」

 

 ケリーも、アーロンと同じように観客席に目を降ろした。

 観客席は人で溢れかえっている。

 そこにいるのは、どれもこれも身なりの良い人間ばかりである。頭に櫛はきっちり入り、服や装飾品は遠目に分かる程品質の良いものばかり。何より、その顔に充ち満ちた精気と自信から、ここに集められた人間の社会的地位の高さが伺える。

 おそらく、この星の政治経済の中核を為すような人間が一同に会しているのだろう。

 しかし、それならば、この場を支配する異常なまでの熱気は何だろう。

 

「よくもまぁ、これだけ根性のねじ曲がった連中ばかりを集めたもんだ」

 

 ケリーは、口中に溜まった酸っぱい唾液を吐き出した。

 確かにケリーの言うとおり、今宵ナハトガルの地に集まったのは聖女の教えに傾倒するヴェロニカ教信徒とは思えない、俗な人間ばかりである。

 隣席の顔見知りと挨拶を交わす彼らの、にこやかに笑ったその目の奥に、どろどろとした欲望の塊が浮かんでいる。中には儀式の結果を見届けるための神聖なる観客席に、酒や女を持ち込んでいるものもいるのだ。

 到底、厳かに行われるべき宗教儀式の空気に相応しくない、脂ぎった空気。それは、場末のストリップ小屋となんら変わるところがない。いや、まだあちらのほうが欲望に正直なだけ健全なくらいである。

 ここにいる連中の外面は、申し分のない紳士淑女ばかりである。しかし厚化粧の下に隠された素顔は、場末のストリップ小屋に集まったすけべ親父どもより遙かに好色で変態的であるに違いなかった。

 これから行われるのが宗教儀式などではないことなど、全ての人間が知っているのだ。その上で、年端もいかない少女が残酷に処刑されるショーを待ち侘びている。

 

「貴様の目的が天使を呼ぶことだけならば、こんな茶番を催す必要がどこにある。さっさと俺達を道連れにして冷凍睡眠に入ればいいだろうが」

「ええ、ええ、それはご尤もな疑問かと存じます。しかし、それに答えてしまっては、これから行われる儀式に興が失われてしまうのですよ」

「興だと?」

「この儀式を行う必要は、少なくとも私個人には存在します。ですからケリー、ミズ、どうぞお二人はこれから行われるバーレスクを、どうぞご堪能されたい」

 

 そして時は流れ、夜が訪れた。

 それまで、観客を退屈させないための、聖女ヴェロニカを題材にした歌劇や舞踏などがあったのだが、ケリーとジャスミンには何の興味もないところである。

 舞台となる闘場に灯りが点され、暗闇の中に祭壇の全貌が、ぼんやりと浮かび上がる。それは、例え今からこの場所で執り行われるのが茶番劇以外の何物でもないのだとしても、確かに荘厳な眺めではあった。

 観客席のあちこちと、祭壇の外周最上部に設置された松明にも、火が点される。松ヤニの塗られた薪は瞬時に激しく燃え上がり、大量の火の粉を天へと舞い上げた。

 そして天には、煌々と輝く満月が、夜空を我が物顔にして君臨していた。

 回帰祭が、始まろうとしていた。

 

「よくぞ神聖なるこの日この場所に集われた、聖女ヴェロニカの敬虔なる信徒達よ!」

 

 登場の中央に歩み出た、僧侶と思しき男が、朗々とした声で叫んだ。

 纏った法衣は、老師を示す紫紺のものではない。つまりこの男は、先日ヴェロニカ教の頂点に立ったテセル・マニクマール老師ではないということだ。ただ、事情をよく知る者が見れば、この僧侶がいわゆる大統領派の急先鋒として上手く取り入り、自分の立場を固めた人間であると分かっただろう。

 観客席が、少しざわめく。だが、その事態は十分に予想していたのだろう、その僧侶はテセル老師が急病で倒れ祭司を務めることが出来なくなった旨、僭越ながら自分が代役として儀式を司る旨を宣言し、会場の不審をぬぐい去った。

 

「これより執り行われるは、これまで行われてきた偽りの回帰祭ではない!真に我らが罪を、真に神に対して償い、真に我らを生かしてくれる大自然へと感謝するための祭典である!敬虔なる信徒達よ!今宵は、我らの罪を背負って自然へと還る巫女のため、心からの祈りを捧げ、ヴェロニカの神への帰依をよりいっそう深めてもらいたい!」

 

 他にも、直近のヴェロニカ共和国を取り巻く政治情勢などの話もあったようだが、会場にいるほとんどの人間が右から左へと聞き流す程度だった。彼らの興味は、もはや只一点、生け贄の少女がどんな人間で、そしてどれほど惨たらしく殺されるのかというところにしかなかったのだから。

 その空気を察したわけではないだろうが、僧侶は声高々に生け贄の少女の罪の程を説明した。

 曰く、父親はどこぞの星の州知事で、無計画な乱開発によって大自然に回復不能な損害を与えた。

 曰く、少女自身は悪辣なテロリストであり、多数の人間を殺害している。

 曰く、先頃大統領の自宅で開かれたパーティを襲撃し、多数の死傷者を出した。

 それらは、既にこの場に居合わせている全ての人間の知るところであったが、しかしパーティ襲撃のくだりで憎悪に顔を歪めた人間が特に多かったのは、まだ生々しく痛み続ける傷がそうさせたのかも知れない。

 

「彼女の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。彼女の罪は、今日この儀式によって贖われ、彼女の魂は父なる神と母なる聖女のお導きによって天へと召されるであろう!」

 

 そう宣言して、僧侶は舞台袖へと姿を消した。

 舞台を盛り上げる、楽器の音が闘技場に響く。管楽器、弦楽器、打楽器が共演し、儀式の雰囲気を盛り上げていく。

 その演奏が最高潮に達したとき、入場門の片方が、重々しい音を立てて開いた。

 会場の期待が、一気に高まる。

 生け贄の少女とは、どんな顔をしているのか。きっと、二目と見られないような醜女に違いない。何せ、顔とはその人間の品性を映し出す鏡のようなものなのだから。

 少女を見たことのない、この会場にいる大半の人間は、そんなことを思った。ルパートの結婚式で手痛い目に遭わされた少数の人間は、その少女の美しい顔が無惨に引き裂かれる有様を期待して、下卑た笑みを浮かべていた。

 無数の人間の好奇が、欲望が、目に見えるほどに濃密な、その空間に、少女が姿を見せた。

 

「ウォル……!」

 

 ケリーとジャスミンの口から、同時に呟きが漏れる。

 入場門の巨大さと比べれば、あまりに小さく、頼りなく見えるその少女は、紛れもなく自分達と酒を酌み交わした、あの少女だった。

 すっきりと整った顔立ちは、緊張のかけらも感じさせないほどに凪いでいる。すんなりとした身体にはお伽噺の妖精が好むような薄絹の衣を纏い、腰を帯で縛っている。

 長い黒髪は後ろで一括りにするだけで、自然に流しているようだ。

 そして、腰に履いた一振りの長剣。少女にはちっとも似合わないはずなのに、どうしてかしっくりくる。様になっている。

 つまり、あの少女は、戦士なのだ。

 自分がかつては男だったと言い、異世界の王だったと言い、そして何より、誇り高き黄金狼の配偶者であり婚約者であり同盟者だと言った、あの少女。

 それが、こんな馬鹿げた舞台の見世物として引きずり出され、これから野獣と闘うのだ。古代の剣奴がそうさせられたように。

 そんな馬鹿な話があっていいはずがない。

 

「ちくしょう、これで俺達は、黄金狼に会わす顔がなくなっちまった……!」

 

 ケリーが血を吐くように呟いた。

 

「今、わたし達があの子を助けられれば、今までたまった借りの少しでも返すことができるだろうに……!」

 

 ジャスミンも歯噛みして悔しがった。

 そんな二人の無念を感じて、アーロンは一人微笑んでいた。

 

 

 ウォルが引き出されたその場所は、祭壇と呼ぶよりは、古の剣闘士が猛獣と死闘を演じたという、古代の円形闘技場に近い造りであった。

 アイクライン校の陸上グラウンドほどの広さの闘場は、砂埃も上がらないほどに押し固められた土で覆われている。その外周に沿って大きな篝火が置かれ、松ヤニを塗られた木材がパチパチと音を立てて燃えさかっていた。

 闇に包まれ深くまでは見渡せないものの、傾斜がある階段状の観客席が中央の闘場をぐるりと取り囲んでいるのがわかる。さらに、おそらくは生け贄が逃げ出さないための措置であろう、闘場と観客席は4メートルほどの高低差が設けられているようだ。その壁面もとっかかりのないつるりとした壁材で、庇のように前に突き出た構造となっているため、駆け昇って逃亡するのは不可能に近い。

 そこまでのことを、片手に剣を携えたウォルは一目で見て取った。

 そして、自分に向けられる、何千という好奇の視線。

 明度に差があるため、こちらから観客席に座る一人一人の顔を確認することは出来ないが、その視線に込められた期待の色は嫌というほどにはっきりと分かる。自分が泣き叫び、憐れを乞い、その果てに野獣の贄となることを心底期待しているのだ。

 確かに、普通の女の子であれば、何の故もなくこんな場所に引きずり出され、これだけの視線に晒されたという一事をもって大いに狼狽するものだろう。加えて、これから猛獣と戦えと言われているのだ。涙の一つも見せない方が不自然である。

 しかし、と、寧ろウォルは溜息を一つ吐き出した。

 大の大人が何千人も集まって何をするかと思えば、一人の少女が獣に喰い殺される有様を見物に来ただけか。いつの時代も残酷趣味の人間というのはいるものであり、ウォルの治世にも多数の罪なき子女を残虐に殺したとして処刑された貴族がいないではなかったが、どうしても理解に苦しむ。ウォルからしてみれば、嫌悪感や義憤の前に、なぜそのようなことをするのかという疑問が浮かんでしまうのだ。

 とにかく、この場に集まったのは、その手の連中らしい。

 どう考えても、わざわざ自分がそんな媚態を作らなければならない理由は無い。まして、本当に有り難いことに、わざわざ剣まで用意してもらっているのだ。

 案内役の僧が、本当の意味で人と自然が対等となるためには武器が必要とか何とか言っていたが、どう考えても年端もいかない少女が剣を一本持ったところで、野獣と戦えるとは思えない。

 つまり主催者としては、見せかけの平等を演出したいのだろう。剣を振るって少女が野獣を駆逐する場面を期待しているわけではないはずだ。

 だが、それはそちらの事情であって、こちらにはこちらの事情がある。雄々しく戦うことをこと期待されているのならば、その期待を裏切るのは失礼というもの。

 ウォルは少しも臆することなく、堂々とした足取りで闘技場の中央に足を進めた。その様子を見た観衆から、感情の坩堝のようなどよめきが起こる。

 

 ──どうしてあの小娘は怯えないのだ。その憐れな様子をこそ楽しみにしていたのに。つまらん。

 

 ──なに、今は虚勢を張っているだけだ。猛獣を目の前にすればそんなもの砂糖菓子よりも脆く崩れ去るに決まっている。むしろ楽しみが増えたではないか。

 

 ──見目麗しい少女ではないか。あのような少女がわざわざ神への供物になるわけか。勿体ない。しかし、このようなショーは中々見られるものではないし、これはこれで面白いか。

 

 ──精々今は強がっていろ。すぐに神の審判がお前の上に振り下ろされるのだ。この背教徒めが。

 

 ウォルの鋭敏な聴覚は、轟く叫声の中のいくつかを拾い取っていた

 その声に込められた感情の共通項はただ一つ。細部こそ違えど、この場にいる全ての人間がウォルに対して抱いているのが、悪意だということだ。可能な限り惨たらしい死に様をこそ望んでいる。

 しかし、その程度の悪意に屈するウォルではない。彼女は、かつて一つの国を治め導いてきたのだ。国を導くということは、時に少数の意見や利益を圧殺するということである。その時は、今とは比べるべくも無いほどの恨み辛みを一身に受けてきたのだから。

 むしろウォルが反応したのは、悪意の渦の中に、ただ一つ、自分に向けられた厚意を感じ取ったからである。

 それは、観客席の上層、僅かな灯りに照らし出された貴賓席のような場所だった。

 目を凝らしてみると、そこに設えられた豪奢な席に、三人分の人影がある。中央に、痩せ衰えた老人。そしてその両脇には……。

 

「ケリーどの。ジャスミンどの」

 

 一目見れば決して忘れ得ないほどの魅力に充ち満ちた、赤毛の女丈夫と義眼の美丈夫。

 しばらく前に、ウォルがバニーガールとして働く羽目になった酒場で知り合った、変わり者の夫婦であった。そして、ウォルが配偶者と定めた少年の友人でもあるという。

 その二人が、ウォルに対して気遣わしげな視線を送っている。その視線には、自分達が助けに行けない無念と謝意が多分に含まれていた。見たところ拘束されていたり暴行を受けたりした形跡があるわけではないが、ウォルは何か事情があることを十分に察した。

 そういえば、今の自分は年端もいかない少女の姿なのだ。あちらの世界での全盛時、他者を威圧する戦士の風貌ではない。ならば、さぞ心許なく映るのだろう。

 ウォルは、二人に対して笑みを送った。心配ない、安心して欲しいと、そういう笑みだった。

 その時、闘技場そのものを振るわすほどに大きな歓声が沸き起こった。

 ウォルは、正面に視線を向けた。

 自分が入ってきた門と正反対の位置に設けられた巨大な門が、重々しい音を立てて開いていった。

 

 

 鋼鉄の柵にも見える巨大な門が持ち上がると、そこから幾つもの黒い影が、今まさに放たれた矢のような勢いで飛び出した。

 篝火の、揺らめく灯りに照らし出されたその影は、巨大な狼であった。遠目にも分かる程に多量の涎を垂らし、飢えを満たす喜びに満ちた視線を少女に向けて、猛烈な勢いで殺到する。

 狼たちは、大いに腹を空かせていたのだ。もう一週間も血の滴る肉を味わっていない。

 そうだ。この前口にしたのも、今、目の前にいる獲物と同じ、姿と形をしていた。その柔い肉と滴る生き血の甘いことを、狼たちは如実に覚えている。

 あの時、獲物は泣き叫ぶだけで、何一つ抵抗らしき抵抗は出来なかった。まるで、生まれたての子鹿のように無力で弱い存在だった。

 ならば、今回も狩りは成功するだろう。いや、成功させなければならないのだ。

 このままでは死ぬ。その危機感と、獲物の柔い肌の下にある甘い肉の予感が、狼たちの足を逸らせた。

 数は、十を超えている。たった一匹でも少女の頭蓋を一息で噛み砕くであろう狼が、徒党を組んで少女に襲いかかる。

 会場に居合わせた誰しもが、少女の命運がここに尽きたことを悟った。むしろ、一息で少女が死ぬことを残念に思った者すらいたくらいだ。彼らは、生け贄の少女が、じわじわと生きたまま貪り喰われる様子を望んでいた。

 そして、ほとんど唯一、この会場で少女の死を望まない人間──ケリーとジャスミンは、酒場で戯れたときのウォルのあどけない様子を思い浮かべ、焦慮と絶望にかられ、歯を食いしばった。何とか逃げてくれ。そう願った。

 しかし剣を携えた少女は、目前に迫った狼を前に、微動だにしなかった。それはどう足掻いても逃れようのない死に恐れをなし、憐れ、逃げる気力さえも奪われてしまったように見えた。

 そんな少女の様子では、飢えに狂った狼たちの食欲を抑えることが出来るはずもない。

 一番乗りを果たした幸運な狼が、少女の目前で大きく跳ね、その首元に噛みつき、押し倒した……ように見えた。

 盛大な血しぶきが、闘技場の土を叩いた。

 観客の声援が最高潮を極める。

 ところが次の瞬間、会場の熱狂が凍り付いた。

 少女は、立っている。倒れたのは、狼だ。

 しぶいたのは少女の血ではない。狼の血だった。

 一閃であった。

 だらりと脱力した両手、それに合わせてぶら下げられた剣が、ケリーとジャスミン、二人の目でも追い切れない程の豪速で振り上げられ、不幸な狼の頭部を斜め下から上方に向けて斬り飛ばしていた。

 左目を含む顔面の半分を失った狼は、慣性に従って少女に飛びかかりこそしたものの、それは既に意思を失った肉の塊である。少女が半身の体勢で容易く躱してみせると、目標と魂の両方を失った狼の躯は、少量の砂埃を巻き起こしながら地を滑り、そのまま静止した。

 少女はその様子を確かめることすらせず、剣をひと振り、血糊を飛ばし、残りの群れに相対した。その表情は先ほどまでと寸分変わることなく、獲物を狙う鷹のように鋭い。疲労はおろか、慢心や油断の一欠片も存在しない顔立ち。

 これではっきりした。あの少女は、恐るべき技倆の戦士である。

 ケリーとジャスミンは、あの晩、酒場の狭い舞台で剣舞を舞っていた少女の姿を思い出した。見事なまでの身のこなしと、寒気のする剣速。あれはやはり舞踊として培ったものなどではなく、自分達の銃の腕や操船技術と同じで、潜り抜けた修羅場の数が体に刷り込んだものだったのだろう。

 なるほど、これが黄金狼の同盟者か。

 二人は、背を這い上がる戦慄と興奮を噛み殺しながら、小さく震えていた。

 

 

 ウォルは、血しぶきの一滴も浴びない綺麗な顔で、狼の群れを睥睨した。

 

「森を駆け森を統べるお前達がこのような茶番の出汁にされたのは切に憐れと思うが、しかし俺も黙って餌になってやるわけにはいかん。このまま尻尾を巻いて逃げ出すならば良し、そうでないなら躊躇無く剣の錆にしてくれる」

 

 ウォルの声を理解しているかのように、狼の群れは進軍を止めた。狼たちの顔からは目に見えて狂気が消え失せ、狼狽と怯懦が現れている。

 先頭に立った数匹が、恨みがましい目つきでウォルを睨み付け、低い唸り声を発している。群れの幾匹かが散開し、うろうろとウォルを中心に歩き回る。

 狼たちも理解したのだ。目の前にいるのが、小さな姿に相応しくない難敵であるのだと。

 緊張感に満ちた時間が流れる。先ほどまで嘲り笑っていた観衆も、場を支配する空気に飲まれ、呼吸をすることすら恐れているかのように静まりかえった。

 そのうち、ウォルの背後にいた二匹が、申し合わせたようなタイミングで同時にウォルに飛びかかった。眼球が前面についている以上、背後はどのような生き物にとっても致命的な死角であるはずだ。

 先天的なハンターとして、狼の判断は正しい。

 しかし歴戦の勇士であるウォルにとって、森の中ならいざ知らず、慣れぬ猟場に引きずり出された狼の殺気を感じ取るくらい造作もないことである。さっと振り向き、二匹のうちの一匹に目標を絞り、狼が飛びかかってくる以上の速度で迎え撃つ。

 目標にされた不幸な狼は足を止め、逃げようと試みたが、その速度よりもさらにウォルの方が早い。一気に踏み込み、方向転換を試みる狼の横っ腹を、鬼のような一撃、唐竹割に断ち切った。

 

「ギャウンッ!」

 

 悲痛な鳴き声が響く。

 胴体を半ばまで切断され、大量の血とはらわたを溢しながら、狼はなおも逃げようとした。前足だけを動かし、必死の様子で這いずるが、数メートルほど進んだところで停止し、間もなく死んだ。

 もう一匹の狼は弾かれたように飛び退き、何とか難を逃れた。もしももう一歩でも前に進んでいたら、少女の構えた剣の間合いに入っていたのだ。その狼は間違いなく幸運であった。

 これで二匹、群れの仲間が殺された。しかし標的は一筋の傷も負わず、息を乱してすらいない。

 未だ十を超える狼の群れは、少女一人の醸し出す威圧感に飲まれかけていた。

 

 

「まだ続けさせる気か?あの様子では狩りどころか、勝負にすらなっていないぞ。生け贄を自然の循環に戻すのがこの乱痴気騒ぎの主旨らしいが、このままでは自然の循環の方が憐れだ。動物愛護精神の豊富なヴェロニカ教徒なら、そろそろ止めさせる頃合いではないのか?」

 

 笑いを噛み殺しながらジャスミンが言った。

 

「呆れた強さだ。あれなら黄金狼と背中合わせでも戦えるわけだぜ」

 

 ケリーも楽しげに言った。

 最初、闘技場に現れた少女を見たとき、そのあまりのか細さに、少女の死は逃れられないものなのだと思った。

 しかし、それはやはり勘違いであった。何せ、あの少女はリィが同盟者と呼んだ戦士なのだ。その戦士が自在に剣を振るう以上、狼如きが何匹集まったところで物の数ではないのだろう。

 

「なるほど、まだ目覚めていないとはいえ仮にも太陽なだけはある。野獣如きの贄とするには一筋縄にはいかないものですな」

 

 二人に挟まれた老人は、くつくつと、痙攣するように笑った。

 

「お二方の仰るとおり、このままでは儀式がうまく進行してくれないし、あまりに手合い違い。これは、少しハンデを付けてやるとしましょうか」

 

 

 ばきり、と、奇妙な音を聞いた。

 ウォルは、その音が、自分の体内から響いたのだと理解した。

 途端に襲ってくる、凄まじい激痛。ウォルは、音の源と感じた、己の足下に目を遣った。

 右足の親指が、明後日の方向に捻れていた。

 

「ぐぅっ!」

 

 突然の痛みに耐えきれず、思わず片膝を地面に着く。先ほどまで涼やかだった少女の顔に、吹き出すように汗が浮いた。

 いったい何があったのか、理解が出来ない。ただ、いきなり強い力が親指にかかり、強引に捻り折られたのだということだけは分かった。

 

 ──これはラヴィー殿やリィの使った、あの不思議な力か!

 

 誰があの能力を使ったのか。反射的にウォルは観客席を見回した。そして見つけた。ケリーとジャスミンに挟まれて座る老人の、自分を見下ろす冷たい笑みを。

 あれは、ウォルの死を待ち望むだけの視線ではない。もっともっと多くの死と破滅を望む、深淵よりもなお暗い視線……。

 あの男だ。何の理屈もなくウォルは理解した。あの男が、今自分に痛撃を加えた犯人であり、そして今、この場所を支配している首魁であるのだと。

 逆に言えば、あの男さえ仕留めることが出来れば、この茶番も幕を下ろすのだ。

 しかし、あの男と今自分がいる場所は、あまりに遠すぎる。弓矢でもあれば話は別だが、今ウォルの手にあるのは長剣が一振りだけである。

 そして、ケリーもジャスミンも、おそらくは今し方自分に向けられたのと同じ力に縛り付けられ、あの椅子から動くことが出来ないに違いない。

 つまり、今はどうしようもないということだ。

 そこまでを一瞬で思考したウォルだったが、一瞬とはいえ戦いと無関係の思考はそのまま隙に繋がる。そして捕食者として森の頂点に立つ狼たちが、獲物の隙を見逃すはずはない。

 先ほどまで遠巻きに指を銜えていただけの狼が、これ幸いと、膝を突いたウォルに突進してきた。

 

「くぅっ!」

 

 ウォルは咄嗟に剣を振り、向かってきた狼の鼻先を切り裂いた。

 ぎゃっと短い悲鳴が響き、その狼は踏鞴を踏んで後退したが、他の狼を防ぐことまでは出来ない。振るわれる剣をかいくぐって、一匹がウォルに飛びついた。

 

「ちぃっ!」

 

 牙を剥き出しにした狼が膝をついた右足に食いつく直前、ウォルは空いた左手で狼の頭部を掴み、地面に押し潰した。狼は唸り声を発しながら首を振りその手を払いのけようとしたが、ウォルの細腕は猛烈に暴れる狼を地に縫い付けてぴくりとも動かない。

 しかし、三匹目の狼を捌く術はウォルには無かった。その狼の牙が、さらけ出されたウォルの首に迫る。

 狼の顎の力であれば、獲物を窒息させるなどという迂遠な方法を取らずとも、一息で少女の細い首を噛み砕くだろう。

 ウォルは咄嗟に左手の狼をむんずと持ち上げ、体を横倒しにしながら、首元に飛びついてくる狼にぶつけた。だが、一瞬遅かった。狼の牙はウォルの首に僅かに食い込み、その肉を削り取っていった。

 頭上で二匹の狼がぶつかり、ぐしゃりと奇妙な音が聞こえる。

 ウォルはごろごろと地面を転がり飛び起きた。その拍子に折れた右足親指が異様な角度で捻れ、脳髄を貫くような痛みがウォルを襲った。

 

「が、はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 手を首の辺りにやる。

 ぬるりとした感触。見れば、手のひらが真っ赤に染まっている。出血量からして頸動脈が破られたというわけではないようだが、それでも夥しい血だ。どうやら相当量の肉を削り取られたらしい。放っておけばどんどん体力が奪われてしまう。

 一気に形勢が悪化した。

 何とか立ち上がったウォルは厳しい視線に殺気を込めて狼を睨み付けたが、そこにあるのは先ほどの怯え竦んだ視線ではなく、注意深くこちらの傷を値踏みする狩人の視線である。

 ウォルは乱れた息を整えようと喘いだが、そうはさせじと狼が包囲を狭めてプレッシャーをかけてくる。

 ウォルがたまらず背中を見せて逃げ出す。片足を引きずる、弱々しい様子で。

 これは好機と見て取った狼が、二匹、不用意に飛び出しウォルの背中に襲いかかった。

 しかしこれはウォルの誘いであった。狼の足音を感じ取るや否や、振り向きざまの一撃で狼の胴体を真っ二つにし、返す刀でもう一匹の顎を断ち割った。

 断ち切られた狼の体から、盛大に血飛沫が上がる。ウォルは、首から流れる血と返り血とで総身を朱に染め、それでも確と敵を睨み付けていた。

 

 

 突然少女の動作が不自然になったのを、歴戦の戦士であるケリーとジャスミンは瞬時に悟った。

 必死の形相の少女が、何の傷も受けていないはずの右足を引きずりながら戦っている。

 何が起きたのかと目を遣れば、その右足の親指が異様な角度で折れ曲がり、赤黒く腫れ上がっているのだ。

 この戦いで、あのような傷を負うはずがない。もちろん、最初にこの闘技場に立った時、少女は万全の様子であったのだ。

 ならば、導き出される結論は一つしかない。

 

「てめぇ、やりやがったな」

 

 ケリーが、落ち着いた声でそう言った。落ち着いてはいるがしかし、その奥にマグマのような憎悪の籠もった声であった。

 

「心底見下げ果てた男だな、貴様は。このような場にあんなに可愛らしい女の子を引きずり出し、衆人の前で見世物にしておいて、それでも飽き足りないか。そうまでして、あの子を野獣の贄にしたいのか」

 

 ジャスミンも、ウォルとは得意とする武器こそ違うが、自らを戦士と定義する女性である。ならば、今は同性であるウォルの戦いに対して無粋な横やりをいれたアーロンを許すはずがない。

 だが当のアーロンは、灼け付くような二人の憎悪を一身に受けて、それでもひんやりと笑っていた。

 

「お二人とも何かを勘違いしておられるようだ。そも、これは儀式であって勝負ではありません。あの少女に振られた役割は、野獣を打ち倒して賞賛を受ける剣闘士ではない。あくまで、獣に喰い殺されてその血肉を大地に捧げる、生け贄なのですから。そして一度始められた儀式は、きちんと終わらせなければならないのですよ」

 

 アーロンはテーブルに置かれた杯を取り、豊潤なブドウ酒で喉を潤した。

 

「それにご覧なさい。観客の皆さんもたいそう喜んでおられるようだ。私はこの儀式を司る者たちの長である以上、彼らに満足して頂き、その信仰を深めて頂かなくてはならない。私としてあのように必死に頑張る女の子を痛めつけるのはつらい役割なのですが、誰かが引き受けなければならない」

 

 アーロンの言うとおり、先ほどまでの緊張した空気が嘘のように、会場は大いに盛り上がっていた。

 やれ、殺せ、犯せ、噛みつけ、と、聞くに堪えないほど物騒な声援が入り交じり、怒号となって会場を圧している。猿のように真っ赤な顔で叫び声を上げる観客の目はどれも血走り、ウォルを襲う狼たちの目つきと変わるところがない。中には、法衣を纏った禿頭の僧が、地団駄を踏みながら少女に対して罵り声をあげていたりする。

 声を上げる全ての人間が、少女の無惨な死を待ち望んでいた。

 つまり、今この会場にいる人間の大半が、僧侶連中も含めて、獣同然の品性しか備えていないということだ。

 アーロンは、体を二つに折り、腹を抱えて笑った。

 

「全くもって喜劇以外の何物でもありはしない!滑稽に思えませんか、お二方!ここにいるのは十分な家格と教養を備え、そして何より敬虔なヴェロニカ教徒であるというのに、誰一人としてあの憐れな少女を助けようとしない!彼らのうちの一人としてこの儀式を神に捧げるものだなどと思っていないにも関わらず、です!つまり、ここにいる全ての人間は人殺しなのですよ!そのことを、彼らは熱狂が冷めた後で理解するでしょう!そして、一度箍が外れた人間の理性は脆く、他者の命を弄ぶことを覚えた人間は欲望に正直だ!かつて惑星ウィノアで行われた気違い沙汰の戦争ごっこを再現するのに、これほど相応しい国があるでしょうか!きっと誰しもが私の思惑通りの配役を、自ら望んで演じることでしょう!」

 

 一頻り笑ったアーロンは、数度咳き込み、喉を冷やすために再びブドウ酒を口にした。

 その時にはもう、いつもの冷ややかな笑みを浮かべるだけだった。

 

「それに、そもそも、狼如きにあの少女が仕留められるなど、私は思っておりません」

「何だと?」

「狼はただの前菜です。もう少し消耗させてくれるかと思えば、存外だらしがない。なので手伝ってやることにしたのですが……どうやらまだ足りないらしいですね」

 

 アーロンの見る先で、少女がたった今、迫り来る狼の一匹を斬り捨てた。

 アーロンは、頬を奇妙に歪ませて笑った。

 

「ではこうしましょうか。これからあの少女が狼を一匹倒すごとに、その骨を一本ずつへし折る……。そうすれば、もう少しハンデになるでしょう」

 

 

 再び、自分の体の中から響く異様な音を、ウォルは聞いた。

 今度は胸の辺り、肋骨が折れ砕けた音だ。

 

「がぁあっ!」

 

 火を吐くような苦痛の叫びが、ウォルの口から漏れだした。

 思わず膝を突きそうになるが、血に狂った狼の群れの前でそのようなことをすれば、そのまま死に直結する。

 ウォルは唇を噛んで、苦痛に耐えた。

 それでもなお、狼は襲い来る。

 首からの失血と骨折の痛みで、ウォルの意識は朦朧とし始めていた。

 もう終わっても良いのではないか。もう十分に頑張ったのではないか。

 悪魔の囁きが、優しく、ウォルの脳裏にこだまする。

 

 ──馬鹿を言う。

 

 ウォルは、血塗れの笑みを浮かべた。

 まだだ。まだこの体は諦めてなどいない。まだまだ戦えるのだと、猛り狂っている。ならばどうして俺だけが諦められるだろう。こんなに小さな少女が、まだ生を諦めていないというのに。

 そんなことを考えながら、剣を振るう。

 剣が、狼の体を断ち割る。

 そして、ウォルの体から異音が響く。

 今度は、腕だった。左腕の前腕部が直角に折れ曲がり、手首と肘の間に新たな関節が設けられたようだった。

 少女の悲鳴が、闘技場にこだました。

 

 

 森の暗さがよりいっそう濃くなっている。

 既に道なき道を走っていた。

 木々の隙間を、避けながら、這いながら、飛び越えながら駆けていく。

 蜘蛛の巣が顔に張り付く。細かな枝が頬を裂く。

 息が荒い。走り始めて二、三時間も経ったのか。それともまだ三十分も経っていないのか。もう目的地が目の前にある気もするし、後ろを振り返ればリィ達がまだそこにいる気もしている。

 風景はちっとも変わらない。ずっと山の中だ。山の中を、泳ぐようにして走っている。

 汗が、絶え間なく垂れ落ちてくる。その汗の水分が蒸発して塩気だけが残り、そこに新たな汗が流れることで、どんどん塩分が濃縮されて、どろりとした汗になってくる。

 その濃い汗が、時折目に入り、塩辛さで涙を流させる。あるいは唇に滑り込み、塩辛さが疲れを癒す。

 とにかく、俺は走り続けている。

 走り続けている。

 何で、走っているんだったか。

 少し曖昧なんだが、ええっと、そうだ、あいつを助けるんだ。

 あいつって誰だ。

 ウォルだ。ウォルを助けるんだ。

 だって俺はあいつのご主人様だ。ご主人様なんだから、あいつが困ってるなら俺が助けてあげなくちゃいけない。あいつはきっと今、不安に打ち拉がれて泣いているかも知れないのに。

 だから走らないといけない。

 どこまで走らないといけない?目的地はどこだったっけ?

 うーん、と、何ていう名前だったかな。

 どうしてこんなに簡単なことを思い出せないんだろう。

 知っている。酸素だ。酸素が、今は頭に上手に回らなくて、体中、とりわけ足に回されているからだ。だから思考がうまいこと纏まらないのだし、馬鹿みたいな思考になっているのだ。

 でも、それなら考えることを止めて足にだけ酸素を回せばいいのかっていうと、何も考えずに走ればいいのかっていうと、そうすると苦しくなったときに足が止まってしまうんだ。だから、考えながら走らなければならない。どうしてこんなに苦しい思いをしてまで走らなければいけないのか、それを忘れてはいけない。

 駄目だ駄目だ。余計なことを考えてしまった。

 何を考えていたのか。

 まず、どうして走らなければならないのかを考えていたんだ。それは思い出した。

 次に、ああそうだ、どこに向けて走っているかだ。

 それは、あいつの囚われている場所だ。確か……ナハトガルっていった。聖女が天に召された場所だと言っていた。

 誰が言っていた?ああ、思い出した、あのテセルとかいう生意気な坊主だ。でも生意気っていうなら、多分世間一般では俺の方が生意気になるはずだ。だって俺はまだ子供なのに、俺の倍以上の人生を生きている先輩にむかって生意気な口を叩いているんだから。でも生意気な口の一つも叩かないと、押し潰されそうになるんだよ、よく分からない何かに。みっともないことは自分でも分かってるんだけど、こればかりはどうしようもないんだ。ごめんなさい。許して下さい。

 ああ、もう、またか。俺はまた余計なことを考えているか。思考が脇道に逸れていくんだ。まるで眠りの落ちる直前に、泡沫みたいな思考が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返しているみたいだ。

 何を考えていたんだ。この繰り返しだ。誰を助ける。違う、それははっきりしている。だから、どこに行くのかだ。

 ナハトガル。

 確か、エアカーであと三時間くらいの場所までは来ていたんだ。そのまま何事もなく進めば、日暮れ前には到着していたはずなんだ。

 あのエアカーの最高時速は何キロだっただろう。普通のエアカーは、たしかだいたい時速500キロくらいは出るのか。だとしたら、あれは大型で、馬力の強いエンジンを積んでいて、でも搭載人員が七人も乗っていたし、トランクの中には鉄の塊をたくさん載っけていたから、どれくらいのスピードが出るんだろう。

 それでも、うん、時速500キロだ、そう決めた。

 だとしたら、俺が走るのが、時速20キロとして、あっちは500キロで……うんと……20倍……違う、25倍の差があるんだ。

 だとしたら、俺がナハトガルに着くのは、何時間後になるんだ?

 ウォルが酷い目に遭わされるのが、たしか今日の夜だったから、今日中には会いに行かないといけないんだけど、着くのは何時になるんだろう。

 出来るだけ早く着いた方がいい気がするんだけど、日暮れ前には着けるんだろうか。

 駄目だ。それでは計算が合わないんだ。三時間の25倍も時間をかけていたら、着いた頃には日が暮れてしまっている。

 単純計算だ。ならば足を25倍速く動かせばいいんだ。そうすれば日暮れ前には目的地に到着するんだ。なんだ、簡単な話じゃないか。たったの25倍速く走るだけで、何もかも計算通り、予定通り、元通りになるなんて。

 よし、走ろう。

 早く、速く走ろう。そうすれば、きっと上手くいく。何もかもが元通りになる。

 姉ちゃんと、ヤームルと、ウォルと、俺と、四人で、また、宇宙を旅するんだ。姉ちゃんが口より手が先に出るのは少し嫌だけど、ヤームルが少し小言が多いのが嫌だけど、ウォルがいつまでたっても俺の気持ちに気が付いてくれないのが嫌だけど。

 また、みんなで旅をするんだ。

 あの頃は、凄く楽しかったなぁ。

 だから、走ろう。あの頃に戻るために。また、みんなで旅をするために。

 走ろう。走ろう。

 

 

 腹ばいの姿勢で長距離狙撃銃を構えた兵士が、テレスコピックサイトに映り込んだ少年を見て、苦虫を噛みつぶしたように呟いた。

 

「まったく、因果な商売だ……」

 

 レンズ越しにも、その少年が疲弊しきっているのが分かる。走る姿はあまりにもたどたどしく、小石に躓きでもすれば盛大に転倒することは間違いなく、そして二度と立ち上がれないだろう。チアノーゼで真っ青に染まった顔は疲労と苦痛に歪み、哀れみさえ覚えるほどで、さらに少年の頬や額には小さな傷が無数に刻まれており、そこから流れた血が汗と混じり合い少年の襟元を真っ赤に染めている。

 ぼろぼろで、死に損ないの少年だ。そんな少年が、森の切れ目から、よろよろと走り出てきたのだ。そして兵士の任務は、あの森から出てきた人間の抹殺である。

 どうして自分の受け持つエリアに、あの少年が現れたのか。あの様子では今更何を出来るはずもない。既に無力化は終わっているも同然だ。しかもあの少年は、自分の子供と同じくらいの年の頃だというのに。

 神よ。あなたはどれほど過酷な試練を俺に課するのか。

 敬虔なヴェロニカ教徒であった兵士は、大いに嘆いた。いくら標的がヴェロニカ教徒ではない、憎むべき肉喰い連中であり、しかもヴェロニカ政府とヴェロニカ国民に牙を剥く凶悪なテロリストの一員なのだとしても、これはあまりにも過酷な任務だ。

 銃把を握る指に、汗が滲む。

 今まで彼は、一度だって任務を失敗したことがなかった。照準器に捉えた獲物は、悉く葬ってきた。彼が実戦において引き絞った引き金の回数は、そのまま銃弾が標的を貫いた回数と同じであった。

 つまり、今、自分が引き金を引けば、あの少年は死ぬのだ。銃弾が頭を吹き飛ばし、頭部を失った身体が前のめりに倒れ、数度の痙攣を経て、生命反応は完全に停止する。その情景が、おそらくは実際に起こったものと寸分変わらぬ有様で男の脳裏に再生された。

 しかし、あれは子供だ。無論、兵士は理解している。子供だからといって甘く見れば手痛いしっぺ返しを喰らうということを。笑顔の子供が放った銃弾で殉職した同僚は片手では数え切れないのだから。それでも、まだ人生の盛りすら知らない命を刈り取る権利が、自分にあるのか。

 あるはずはない。それは、誰にあってもならないものだ。

 だが、自分は国家への忠誠を誓い、上官への服従を近い、任務への誠実を誓ったのだ。だから、あの少年を見逃すという選択肢はありえない。

 そうだ。せめて、余分な苦しみを与えることだけはすまい。自分に出来る精一杯の慈悲は、一撃で、痛みを感じる暇もなく、あの少年を神の御許に送り届けることだけ。

 

「天に坐すヴェロニカの神よ、聖女ヴェロニカよ、かの少年の魂に御慈悲をお恵み下さい、どうか死して後にあの少年の魂が迷わぬよう、天の国へと導いて下さいますよう……」

 

 短い祈りを呟いた兵士は、少年の遅々とした走りによって僅かにずれていた照準を修正し、クロスヘアの中心に少年の頭部を合わせた。

 そしてトリガーにかかった指に、一気に力を込めて……。

 

『ああ、もう、だめだなぁ』

 

 兵士の視界が突然に翳った。そして、ばさりと、空を叩く翼の音。

 それより何より、ふと耳に聞こえた名状し難い声色の、誰かの声。それは人の言語なのに、到底人の声帯から発されたのではありえない、気色の悪い響きであった。

 反射的に照準機から目を離した兵士が、嘔吐を催す思いで首を持ち上げ、空を見上げたとき、そこには、巨大な翼、黄と黒の縞模様で彩られた巨躯と、今まさに己を捉えようとする大きな爪が。

 

 ──ぶぢん。

 

 寒気のする音が、首の辺りから鳴ったけども、いったいどうしたことか。

 痛くも何とも無いのに、ほんの少しだけ、寒い気がする。そして、宙を漂うような奇妙な浮遊感。ああ、俺はいったいどうしてしまったのか。

 兵士は、脳裏に、今までの人生を走馬燈のように思い浮かべながら、しかし今、自分がどういう状況にあるのかを理解出来ていない。

 そして、聞いた。それはやはり、人以外の発した、人の言葉で、

 

『わるかったなぁ。けどさ、たったひとりのおとうとにてをだすやつをさ、あたしはぜったいにみのがしたりしないんだよ』

 

 兵士が聞いた、それが最後の音だった。

 巨大な爪に頭を掴まれ、梟に襲われた野鼠のように首を一息でもがれた兵士は、どうして自分の首がこうも軽々と空を飛んでいるのか、それすら分からずに、そのまま死んだ。

 首を失った兵士の体は、最後の未練として数回痙攣したが、トリガーにかかった指は引き金を引くことはなかった。

 それを確認した何かは、爪に付着した血をぺろりと舐め、次の獲物を求めてそのまま宙を飛び去った。

 

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