懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第七十七話:夜

「おっと、これは不味い。腕の骨は尺骨が二本ですから……一本多すぎましたな。公平を期すためにも、次のペナルティは、無しということにしましょうか」

 

 アーロンは、背を痙攣させながら笑っていた。彼の見下ろす先で、少女はまだ全てを諦めず、右手だけで剣を振るい続けている。しかしその左腕はあり得ない箇所でへし折れ、更に大きく腫れ上がり、見るも無惨な様相を呈していた。

 返り血に塗れた少女の顔は、真っ青であった。苦痛と失血により血圧が低下し、意識が遠のきかけているに違いない。

 それでも少女は戦っていた。まだその瞳には不屈の闘志が宿り、前のみを見据えて剣を振るっていたのだ。

 

「アーロン。取引だ」

 

 ケリーが、肺から空気をじわじわ絞り出すような声で、言った。

 

「取引?」

「このいかれた儀式を、即刻終わらせろ」

 

 ケリーの口の端から、一筋の血が流れ落ちた。

 あまりの怒りに噛み締めた歯が砕け、口中に血が溢れた結果だった。

 

「あなたは今、取引と仰った。では、その対価として、私は何を頂けるのですかな?」

 

 ケリーは静かに瞳を閉じた。

 

 ──すまねぇ、天使。

 

「お前に、天使に直通の携帯電話の番号を教えてやる」

 

 アーロンが、驚きに目を見開きながらケリーへと向き直った。

 

「天使の……携帯電話の番号ですと?」

「ああ、そうだ。殺されてもお前には教えてやるつもりはなかったが、気が変わった。だから、お前にとって、この儀式の意味は無くなるはずだ。これ以上ウォルを戦わせる必要もなければ生け贄に捧げる必要もない」

「本当に……本当にあなたは、天使の連絡先を、知っていると?」

 

 アーロンが立ち上がり、ケリーの両肩を揺さぶるように問い質した。

 ケリーは、はっきりと頷いた。

 

「ああ、知ってる。お前が死ぬほど会いたがっていた、天使様だ。生憎、お前と会ってくれるかどうか、そこまでは俺の知ったこっちゃねぇがな」

「おお、なんと有り難い……!これぞ天の采配、ケリー、あなたは本当に私の大恩人です……」

 

 そして、にたりと微笑み。

 

「でも、まぁ、今回は結構ですよ」

 

 微妙に焦点のずれた視線が、ケリーの眼前で、愉悦に歪んだ。

 

「あなたが天使の連絡先を知っているというなら、それは後ほどゆっくりと聞きましょう。ですが、今この儀式を終わらせるわけにはいきません」

「……どうしてだ。貴様は言っていただろう。自分の生の目的は、天使と会うことだけだと。ならば、どうしてこの儀式を必要とするんだ」

 

 アーロンは、恥ずかしげに頭を掻いた。

 

「ケリー、あなたの仰るとおりです。ですがこの儀式はね、まぁ何といいますか、親心のようなものなのですよ。私は自他共に認める駄目な父親です。我が子の心根がねじくれ、少女をいたぶって楽しむ異常者になったことを知りながら、忙しさにかまけて何もしてこなかった。だから、せめて最後に親孝行ならぬ子孝行をしてやりたいと思いまして」

「なんだと……?」

「まぁ、見ていてくださいな。おっと、知らぬ間に三匹も倒している。三引く一は二ですから……」

 

 アーロンが、少女に向けて手のひらを伸ばした。

 

「やめろ、この糞野郎!」

 

 ケリーの雄叫びを心地よく聞き流したアーロンが、その力を解放した。

 

 

 今度は左足の大腿骨と、右側の肋骨の幾本かが、一気に折れ砕けたようだ。

 もう、ウォルは苦痛を感じなかった。ただ、異様な熱が体の奥から沸き上がり、同じだけの寒気を同時に感じるという、あり得ない感覚を味わっていた。

 息が、自分でも情けないくらいに乱れている。体は重く、今にも倒れてしまいそう。

 それではウォルは前のみを見据えていた。噎せ返るほど濃密な血臭に包まれ、血と反吐とはらわたを撒き散らした狼の死骸に囲まれながら、それでもぼやける視界に映り込む敵の数を冷静に数えていた。

 当初は十を超えていた狼も、もう片手で余るほどに数を減らしている。そして残った狼も、そのほとんどが無傷ではない。足や顔を切られ、すでに戦闘意欲を削がれているのが過半だ。

 まだ戦う意思を残しているのは……。

 ウォルが、群れの中でもひときわ大きな体躯を有した狼に、視線をやった。

 狼は、少しも怯える様子はなく、低く唸り声をあげて牙を剥き出した。

 

「なるほど、お前が長か……」

 

 ウォルは、今度は左足を引きずりながら前に一歩、進んだ。

 手傷を負った狼が、弾かれたように道を空ける。対照的に、無傷のリーダー狼が、ずいと前に出た。

 ここまで群れが壊滅的な打撃を受けたのだ。せめて群れを率いる長として、一矢報いねば面目が立たないといったところだろうか。

 

「お前も俺も、なかなかつらい立場だな。しかし、手心を加えてやるわけにもいかん……」

 

 ウォルの呟きを理解したのだろうか、狼の鋭い殺気が、少しだけ和らいだ気がした。

 そうか、お前もか、と、狼が言った気がした。

 ウォルは、静かに剣を持ち上げた。

 狼が、姿勢を低くし、いつでも飛びかかれるように構えた。

 飛び交う怒号と歓声の中、一人と一匹は静かにその時を待っていた。

 ぴくりとも動かない緊張した空気にじれた観客が、隠し持っていた酒瓶を闘技場に投げ込んだ。

 ぱりん、とガラスの割れる音が響く。

 その刹那、狼は溜めに溜めた全身の力を解放し、一気にウォルへと肉薄した。

 だがそれはウォルも十分に予想していた。ウォルも上段に構えた剣を、全力で振り下ろす。

 剣は、見事に狼の頭蓋を両断したかに見えた。

 しかし、切っ先は空しく宙を裂いたのみであった。狼は剣の間合いの直前で、強靭な四肢をもってブレーキをかけていたのだ。

 目標を失った切っ先は、そのまま地面を断ち割った。

 狼が、再び全力をもって跳ね上がる。狙いは、露わになった少女の喉笛だ。

 迫り来る致死の牙、しかしウォルの剣は地に突き立ったままである。両手が柄を握りしめていたならば即座に切り上げることも出来ただろうが、右手一本のウォルに、そこまで俊敏な剣遣いは不可能である。

 それは、おそらく狼も見抜いていた。だからこそ飛びかかったのだ。

 そして、ウォル自身も分かっていた。

 

「せめてもの餞別だ。存分に喰らうがいい」

 

 そう呟くやいなや、折れた左腕を狼の牙の前に晒した。

 狼は、本能的にウォルの左腕に噛みついた。鋭い牙が、一気に肉の内側に食い込み、盛大に血が噴き出す。ばきばきと、折れた骨が更に粉々に砕け散る音が、体の内側からウォルの耳に響いた。

 そして狼はウォルを一気に押し倒した。次は喉笛を噛み切ってやるとばかりに。

 しかし、背を地につけたウォルは、どこまでも穏やかな顔で、

 

「悪いが、俺の勝ちだな」

 

 ウォルの右腕が持ち上がり、何とか地面から引き抜いた剣が、天を向いて突き上がる。柄は固い地面にぶつかり、それより下に行くことはない。剣は、地面に固定された。

 その上に、狼は覆い被さってしまった。そうなるように、ウォルが狼を誘ったのだ。

 ずぶりと、分厚い毛皮と筋肉が切り裂かれていく感触。

 狼の腹を突き抜けた切っ先が、血に塗れて背から顔を出す。

 ウォルの左腕から口を放した狼が、喉笛に向けて首を伸ばすが、一寸ばかり遠い。無念に何度も歯噛みし、大量の血を吐き出し、ウォルの顔を濡らした。

 短い唸り声の後で、狼の体から全ての力みが消えたのを、ウォルは感じた。

 ウォルは静かに目を閉じた。刹那の黙祷は、命を賭して戦った相手への、せめてもの礼儀である。そして狼の死骸を払いのけ、震える膝を叱咤して立ち上がった。

 血塗れの立ち姿である。全身が傷だらけで、纏った絹衣は返り血と自らの流した血で真っ赤に染まり、べったりと身体に張り付いている。特に傷が酷い左腕は、狼の大きな牙でずたずたに切り裂かれ、まるで絞ったボロ雑巾のような有様である。

 それでもウォルは立っていた。

 そして生き残った狼の群れに対して大音声で叫ぶ。

 

「貴様らの長は死んだぞ!それでもまだ不毛の戦いを続ける気か!」

 

 覇気に満ちたウォルの叫びに、傷付いた狼たちは為す術もない。

 尾はまるで怯えた飼い犬のように垂れ下がり、卑屈な視線には戦う意思の欠片もないのだ。

 まるで人間がそうするように顔を見合わせた後、一斉にウォルに背を向けて逃げ出した。自分達がもと来た、門の方に向かって。

 これで戦いは終わったのだ。

 ウォルは、そう思った。

 

 

 狼が、這々の体で逃げ帰っていく。

 もう、群れとは言えない有様だ。しかも生き残った狼も、全てが大なり小なりの手傷を負っている。

 勝負は決した。少女の勝ちだ。

 観客は呪いの言葉を天に向かって叫び、ケリーとジャスミンは一抹の安堵を味わった。

 しかし。

 

「まぁ、前座はこのくらいが良いでしょう」

 

 アーロンは、異様な角度に頬を釣り上げ、笑っていた。

 

 

 門の付近の観客は、逃げ帰ってくる狼に向けてあらん限りの罵声を浴びせていた。

 

「あのような小娘に追い散らされるとは何事だ、この犬っころどもめ!」

「聖女ヴェロニカの恩寵を忘れて儀式を放り出すとは、地獄に堕ちて詫びるが良い!」

「戦え!小娘はもうぼろぼろではないか!情けない畜生ども、なんなら俺が代わってやろうか!」

 

 自然への愛護と尊敬を旨とするヴェロニカ教徒とは思えない、聞くに堪えない罵声が飛び交っている。

 今、彼らにとって最も重要なのは小憎たらしい生け贄の小娘を血祭りに上げることであり、そのために狼が何匹死のうが知ったことではないのだ。

 だがそんな事情は、狼の方こそ知ったことではない。群れの仲間の大半が斬り殺され、リーダーも失い、自分達も少なからず手傷を負っている。今にも背中とくっつきそうなくらいに腹は減っているが、命を失っては元も子もない。彼らの生存本能は、一刻も早くあの危険な敵から離れることを優先した。

 ひょこひょこと情けない様子で駆け戻ってくる狼に、会場から様々な物が投げつけられる。中には興奮して、紙幣のたっぷりつまった財布を投げる観客すらいた。

 それでも、観客全員が手のつけようもないほど興奮していたかというと、そうではない。ごく少数ではあるが、この事態を客観的に見ることが出来る者もいた。

 さて、どうするのか。教団としてもこのような事態は想定外のはずだ。だいたい、あんなか細い女の子が剣を一本持ったところで、狼の群れを撃退するなど誰だって思いもよらないはずである。しかし、それがなってしまった以上、このままでは儀式が立ちゆかない。

 人間の罪を背負った巫女の血肉を捧げて大自然への御礼とするのがこの儀式の主旨であるとするならば、罪の具現である巫女が大自然の具現である狼を退けてしまったとき、儀式はどのような意味を持つのか。人間の力は偉大であり、大自然など恐るるに足らないという結論か?いや、そのような結論を出してしまったのでは、ヴェロニカ教の存在意義が問われかねない。

 それとも、銃殺するなり何なりして、あの少女を殺してしまうのか。だがそれでは、人形に肉を詰めて生け贄の代わりとしていた旧来の回帰祭と何ら変わるところがない。人形の代わりに死体を捧げるだけではないか。

 この事態をどう収めるのか、むしろ楽しげに闘技場を見下ろしていた男の一人が、僅かに顔を顰めた。

 

 ──なんだ、この臭いは。

 

 闘技場から漂ってくる、血生臭さとは違う不快な臭気。

 いったいどこから臭っているのか、何の臭いなのか、それすら分からない。敢えて言うならば肉の腐った臭いに近いのだが、もっと鼻の奥を痛烈に刺激し、吐き気を催す臭いだ。

 男はとっさにハンカチで鼻を覆った。男に少し遅れて、喚き騒いでいた観客のほとんどが臭いに気が付き、ざわめきながらも男と同じようにハンカチを取り出した。

 しかし、ハンカチで鼻を覆っても、いっこうに臭いを遮ることが出来ない。むしろ臭気はどんどん濃密になり、目を開けているのもつらいほどになっている。

 数人、特に女性が多かったが、臭気に耐えきれずに嘔吐した。びちゃびちゃと吐瀉物が撒き散らされ、それを見た他の観客も耐えきれずに嘔吐する。

 反吐の臭いが正体不明の臭気に混じり、悪臭は耐え難いまでになっている。蹲り咳き込む男、煌びやかなドレスを吐瀉物塗れにする淑女、辺りはさながら阿鼻叫喚の地獄絵図だ。さきほどまで自分達が、命を賭して戦っていた狼相手に気の大きな罵声を浴びせかけていたことなど忘れて、混迷はどんどん拡大するばかりであった。

 そんな中、最初にハンカチで鼻を押さえた男は、涙で滲む視界の中に、はっきりと見た。

 逃げ帰ってきた狼たちを捉えようと、門の奥の闇から伸びる、何本もの腕の群れを。

 

 

 臭気は、主賓席に座るケリーとジャスミンのところまで届いてきた。

 流石に吐き気を催すほどの悪臭というわけではないが、それでも心地良い香りというわけでもない。二人とも、臭気に耐える訓練は十分に積んでいるので、眉一つ動かすことはなかったが、この臭いの源がどこで何が原因なのかを確認するべく首を巡らせた。

 一番騒ぎが大きいのは、ウォルが入場した門とは反対側、狼たちが飛び出てきた方の門の付近にいる観客連中だ。ということは、あの付近に臭気の元凶があるということか。

 それとも、もしかすると。

 

「おい、女王。何かおかしいぞ」

 

 ケリーに言われるまでもない。ジャスミンは、確とその異変に気が付いていた。

 ウォルに敗れ、門へと逃げ帰ってきた狼たちの足が、ぴたりと止まったのだ。そして、門の奥の濃い闇に向けて牙を剥きだし、唸り声を上げている。

 その様子を見て、二人は理解した。おそらく、あの奥に何かがあるのだ。このように不快な臭気を撒き散らし、狼たちを怯えさせる、何かが。

 そう思った瞬間である。

 門の奥の闇から、冗談のように長い緑色の腕が何十本も突然に伸びてきて、生き残った狼たちの全てを一息で捕らえたのだ。

 そのあり得ない光景に、観客達は騒ぐのを忘れて見入っていた。

 百戦錬磨のケリーやジャスミンですら、目の前の光景がいったい何なのか、理解出来なかった。

 

 ──え゛、え゛、え゛……

 

 地の底から響くような奇怪な声が、闇の奥から近づいてきた。

 

 

 その光景を、ウォルも勿論見ていた。

 先ほど、自分をあれだけ苦しめた狼たちが、緑色の腕に捕らえられ、悲しげな鳴き声をあげながら宙づりにされている。

 そして、腕の付け根は、いまだ暗い闇に閉ざされて何も見えないのだが、そこにいる何かがゆっくりこちらに近づいてくるのを、ウォルは感じ取っていた。

 然り、不気味な鳴き声のようなものが、闇の奥から響いてくる。まるで、地獄の亡者が、怨嗟と後悔に噎び泣いているような、禍々しい声。

 同時に、ずん、ずん、と、闘技場そのものを揺るがすような振動が、徐々に、徐々に大きくなってくる。

 

 ──来る。

 

 そう思ったとき、一際濃密な臭気が、ウォルの鼻を叩いた。

 

「ぐっ……!」

 

 ウォルですらが思わず鼻を覆ったその悪臭は、間違いない、人の屍肉の腐り落ちていく臭いであった。

 

 

 それは、緑色の粘液に覆われた、巨大な赤子であった。

 少なくとも、その物体を見た者が最初に抱いた印象は、そうであった。

 体格に比して大きくぱんぱんに膨れあがった頭部。四つん這いになった短い手足。丸みを帯びた体つき。

 しかしそれは、どこからどう見ても赤子などではない。

 あまりに巨大な体は、四つん這いになった姿勢でも観客席に届かんばかりである。観客席が闘技場から4メートルほども高い場所に作られていることを考えれば、ほぼそれに近いだけの巨体を有していることになるだろう。

 そして全身を覆う、岩礁に付着したフジツボのような、面皰状の吹き出物。その先端から、摺り下ろした山芋のような緑色の粘液が垂れ落ち続けている。ウォルはそれが、病的なまでに変色し腐敗した膿であると見て取った。つまりあの赤子のような生き物は、全身の体組織を腐らせ、膿として滴らせながら、それでもまだ生きているのだ。

 さらに一目で異常だと分かるのが、全身から生え出た、赤子自身の体の大きさからすればまるで体毛のように見える、無数の腕である。ゆらゆらと、まるで海中に揺らめく藻屑のように宙空を漂っている。

 耳まで裂けた大きな口。目は極端に小さく、普通の人間サイズの目玉が二つ、顔のほぼ中央に付いている。耳や鼻と思われる器官は頭部のどこにも見当たらない。

 一見すれば巨大な赤子のようにしか見えないその生き物であるが、その子細を観察した後に名を与えるならば、相応しい呼称はたった一つだけであった。

 怪物、と。

 

 

 怪物は、大きく口を開けた。

 そこに、例えば肉食獣のように鋭い牙があるわけではなかった。しかしその代わりに、まるで石臼のように巨大な乳歯が口中にびっしりと生え揃っていた。

 その口の中に、怪物は、先ほど捉えた狼の一匹を放り込んだ。狼は、まるで飼い犬のような甲高い声で心細げに鳴き叫んだが、怪物が口を閉じると何も聞こえなくなった。

 そして怪物は、口に入れた狼を咀嚼し始めた。人で言うところの顎が大きく動き、口の端からぶじゅぶじゅと泡立った血を噴き出す。憐れな狼は石臼に挽かれた麦粒のように、骨を押し潰され、肉をすり潰され、唾液と掻き混ぜられて、もはや原型を止めないババロアのような物質となっているに違いなかった。

 そのババロアを嚥下した怪物は、まだ空腹が収まらないのだろう、他の狼を喰うべく口を開いた。露わになった口の中は、かつては狼だった血肉に塗れて、真っ赤に染まっていた。

 そこに、何の躊躇いも慈悲もなく、次々と狼を放り込んでいく。後は同じだ。狼の悲鳴は口を閉じられたときに消え失せ、顎を数度上下させると湿った音が辺りに響き始め、じきに血肉の入り交じったぶくぶくが怪物の口から垂れ落ちた。

 

「え゛、え゛、え゛……げぶぅ……」

 

 怪物は、満足げにげっぷをした。そしてその小さな瞳を、この場にいるもう一匹の獲物に──ウォルに向けた。

 

「お゛、お゛、お゛、……」

 

 腕を前に出し、足を引きずるようにして前進する。それは、赤子がハイハイする様子と寸分変わらない。しかし、前に進もうと体を捩る度に巨大な面皰がぷちぷちと音を立てて潰れ、芯状の黄みがかった肉塊と、緑白色の粘液を撒き散らす。その粘液が、まるでナメクジが這いずったかのように、どろりとした跡を地面に残した。

 

「あ゛、あ゛、あ゛……」

 

 ウォルは剣を杖のように地面に突きつつ、大腿骨の折れた左足を引きずりながら後退した。

 ひょこひょこと、普段の彼女からすれば考えられないほど遅々とした歩みである。無理もない。大腿骨の折れた左足はもちろん、右足の親指も複雑骨折をしているのだ。片足を引きずりながらでも歩けるというのは、常人離れした精神力の賜である。

 しかし怪物の這う速度は、ウォルの歩み寄りもなお鈍重であった。亀が歩むよりも、あるいはまだ遅く見えるほどのスピードである。

 それを見た観客の男が、じれたように叫んだ。

 

「何をしている、この化け物!さっさとその小娘を喰ってしまえ!」

 

 そして手にした杖を怪物に向けて放り投げた。

 男にしてみれば、その正体不明の怪物も、この儀式の演し物の一つとしか思えなかったのである。そして、先ほどの狼も同じだが、自分達はこの儀式の観客であり、当事者ではないと信じ切っていた。

 それが不味かった。

 男の投じた杖は見事な放物線を描き、怪物の頭部に命中した。

 怪物の大きさからすれば、木立から落ちてきた小枝が頭に当たった程度のことでしかないだろう。

 だが、怪物は激怒した。

 その巨大な頭部をくるりと向け、

 

「お゛お゛お゛お゛お゛っ!」

 

 初めて見る者にもはっきりと分かる程の憎悪で満面を赤く染め、体中から膿を噴き出しながら、驚くべき速度で男に向かって這っていったのだ。

 男にとって不運だったのは男の席が観客席のほぼ最前列にあったことだろう。

 怪物は一息で高い壁を這い上り、無数の腕を男に向けて伸ばした。

 

「えっ?」

 

 自分に向かって伸ばされる緑色の腕を、男は、間の抜けた声を出しながら見守っていた。

 

「違う!私じゃなくて、あの小娘を……!」

 

 恐怖よりも理不尽な怒りに駆られた男がそう叫んだのと同時に、腕の群れは男の体を掴み、宙高く持ち上げた。

 その時点で初めて、男の顔に恐怖が浮かんだ。

 

「おい、何を、何をする!無礼だぞ!私はプジャ州の州知事だぞ!貴様、分かっているのか……」

 

 怪物が、大きく口を開けた。

 サメのように幾重にも生え揃った乱ぐい歯と、巨大な海生生物のような舌が露わになる。

 怪物は、自分を侮辱した憎むべき敵を、決して許すつもりはなかった。一息で楽にしてやるつもりもなかった。

 まだ何かを喚き散らしている男の叫びを完全に無視して、男の下半身だけに齧り付いた。

 

「な、なにを、やめんか、この、やめ、う、ぎぃあぁぁぁぁっ!」

 

 ばきばきごきりぶちぶち。

 

 男の周囲に座っていた観客は、男の絶叫と共に、筆舌に尽くしがたいほど不吉な音を聞いた。

 それは、決して後戻りが効かないほど徹底的に、人の体が破壊されていく音だった。

 

「やめろやめろやめろやめてくれぇぇぇぇ!」

 

 男が、涙と鼻水と涎を流しながら叫ぶ。

 怪物が、ゆっくりと口を放した。

 男の下半身は、さながらビーフジャーキーのように平べったく熨され、骨と肉の境が無くなり、ずたずたに引き裂かれ、血に染まって真っ赤だった。

 それは、すでに人であることを止めてしまった人の体だった。

 誰が見ても、もう男が助からないことは明らかだ。

 それでも男自身だけは、まだ生きることを諦めていない。俺が悪かった、助けてくれと、譫言のように繰り返し、両腕で宙を掻き毟っている。

 

「いやぁぁっ、あなた、あなたぁぁぁ!」

 

 そう叫んだのは、凄まじい衝撃に呆然としていた、男の妻である。

 男にとって不幸だったのが、投じた杖が怪物に命中したこと、そして席が最前列にあったことだとすれば、その妻にとって不幸だったのは、怪物の食事が終わる前に虚脱状態から回復してしまったことだろう。

 狂乱した妻の前で、怪物は、もう一度男の下半身に食いついた。そして、男の上半身を、無数の腕で力任せに引っ張った。

 ぶちぶちと、肉のちぎれる音が響いた。骨の砕ける音がしなかったのは、既に折れ砕けるほど原型を止めた骨が存在しなかったからだろう。

 そして男は上半身だけになった。

 切れ目からは、あまり血は噴き出していない。ただ、千切れた大腸や小腸が、ぶらりと間の抜けた様子で垂れ下がっていた。臓物の切断面から、血と一緒に糞便がぼたぼた零れ落ちた。

 それでも男は生きていた。今は目と鼻と口から血を噴き出し、少し笑っているような表情で、ぶつぶつと何事かを呟いている。

 

「私の夫に何をするのっ!放して、放しなさい、この化け物っ!」

 

 妻が、手にしたハンドバッグを投げつけた。怪物と妻とは目と鼻の先の距離である。的を外すはずがない。そのような幸運は、妻には存在しなかった。

 ぎょろりと、怪物の小さな瞳が妻に向けられる。

 後は、言うまでもないだろう。当然の結果がそこにあっただけだ。

 怪物は、夫婦の入り交じった血肉を何度も咀嚼して、飲み下し、満足げにげっぷをすると、再び祭壇へと降りていった。

 怪物の双眸が、再び傷だらけの少女を捉えた。

 

 

 観客席は凄まじいパニックになった。

 先ほどまでは残酷なショーを楽しむだけの観客だったのが、殺戮の当事者となる可能性のあることをまざまざと見せつけられたのだ。今の今まで自分の命を危険に晒したことのない一般人にとって、これほどの恐怖は他にない。

 泣き叫ぶ者、茫然自失に陥る者、我先に逃げ出そうとして出口に詰めかける者、様々な人間がいたが、その顔からは一様に平静さが欠けている。完全にパニックを起こしている。

 

「見苦しいものですな。先ほどまであれほど少女の死を望んでおいて、それがいざ自分の身に降りかかるかも知れないとなれば、斯くも狼狽する……。神に信仰を捧げた敬虔な信徒のはずが、全くもって嘆かわしいものです」

 

 アーロンは心の底から侮蔑したようにそう呟き、立ち上がった。

 

『どうぞ落ち着いて下さい、信徒の皆さん』

 

 声が、まるでスピーカーで増幅されたように、観客席の全てに響き渡った。

 アーロンは、マイクの類は一切使用していない。つまり、自らの異能で、声を会場の隅々に響くまで拡大させているのだ。

 

『あれは決して恐ろしい怪物などではありません。この儀式のために神が使わされた、神聖なる使徒なのです。その証拠にほら、無礼を働いた観客に誅罰を与えた後は、皆様に一切の危害を加えることなく、既に闘技場に戻っているではありませんか』

 

 半狂乱だった観客の全てが、呆けた様子で闘技場に目を遣る。

 そうすると、なるほど確かにあの怪物は他の観客に目を向けるでもなく、生け贄の少女に向かって這いずって行っているのだ。

 もしもあれが、単純に食欲を満たすために暴れ回るだけの生き物ならば、むしろ観客席にこそ多くの餌があるのだから、そちらを狙うのが普通である。

 では、大統領の言葉通り、あれは自分達に危害を加えるものではないのだろうか。

 

『皆さん、御使いのお姿を履き違えてはなりません。あの醜い外見は、御使いの本質ではなく、寧ろ我らの罪そのもの。罪を背負った我らであるからこそ、本来は輝かしいまでの美を放つ天使が、あれほど醜悪に映るのです。御使いのお姿を濁らせているのは、我らの魂そのものなのです』

 

 その場凌ぎでまかせ、全くの詭弁である。

 しかし、アーロンの声は、理屈を抜きにして人を惹き付ける強烈な魅力──俗な言葉で表すならばある種のカリスマと呼ぶべきもの──に満ちていた。

 普段であればそれに抗うことの出来る人間も、このような異常事態を目の前にすれば、冷静な判断を下すことなど出来るはずもない。そして、自らの判断を放棄した人間は、本能的に誰かの指示命令を欲するものなのだ。

 であれば、誰がその声に抗うことが出来ようか。まして、その声はこの国において最も強大な権力を有する指導者の声であるというのに。

 

『赤子の姿は我らの無垢性を、撒き散らされる腐った体液は我らの罪を体現しておられるのです。そして御使いは穢れの巫女と一体になり、我らの罪と共に天へと還られるのです。その奇跡を、皆さん、決して恐れてはなりません。目を逸らしてはなりません。どれほど惨たらしくとも確と見届け、その奇跡を民衆へと伝えるのです。それが、この場に集まった高貴な方々に課せられた使命なのです』

 

 アーロンの涙声が会場に響いた後、そこには、先ほどまでの騒乱が嘘のような静けさがあった。

 逃げ出していた観客も静かに自分の席に戻り、そこに座り、闘技場に向けて祈りを捧げていた。この場にいた全ての人間が、静かに祈りを捧げ、祝詞を呟いていた。

 その様子を、椅子に腰掛けたアーロンは、片頬を歪ませながら見下ろした。

 

「人は自らの信じたいものを信じる生き物だというが、正しくそのとおりですな。見て下さい、ケリー、ジャスミン、あの醜悪で不快な臭気を撒き散らす生き物の、どこをどう見れば神聖なる神の御使いに見えるのですか。見えませんよ。あれはどう見ても地の底から蘇った亡者の類です。しかし、彼らは今日の出来事を、神の奇跡として伝えるのでしょう。滑稽だ、喜劇だ、お笑いぐさ以外の何物でもない……!」

「そうか、安心したぜ。あれは、あんたのところに降臨した天使なんかじゃないわけだ」

「ええ、勿論ですとも」

「じゃあ、あれは何だ。俺はこの年になるまで海賊として宇宙を駆け回り、クーアカンパニーの経営者として多くの物事を見てきたが、あんな気持ち悪い生き物を見たのは初めてだぜ。まさかてめぇ、本当に地獄の亡者をひっ捕まえてきたのか?」

 

 アーロンは、ケリーの方を向いて、にっこりと微笑んだ。

 

「まさか。あれは、ただの人間ですよ」

 

 ケリーとジャスミンは息を飲んだ。

 

「……馬鹿な。あれが人間だと?冗談も休み休み言いやがれ」

「冗談などではありませんとも。ええ、そうですね、確かに今はただの人間などではない。全身を腐らせ、それでも生き長らえる、おぞましく醜悪な肉塊です。でもね、あれは二週間前までは、本当にただの人間だったのですよ。私が、そのことを一番よく知っている。誰が否定したとしても、私だけが、この世で只一人、それを保証できる……」

「貴様だけが……保証出来るだと……?」

 

 その言葉が、先ほどのアーロンとの会話をケリーに思い出させた。

 そうだ、確かこの男は、こう言っていたのではなかったか。

 これはただの儀式などではなく、最後の子孝行である……。

 

「貴様、まさか……」

 

 アーロンは、堪えきれないというふうに笑っていた。

 

 

 怪物が、ウォルを目指してじりじりと近づいてくる。

 四つん這いの体勢でも、その怪物とウォルとは倍以上の身長差があるのだ。体重差でいえば果たして何十倍、何百倍の差があるのか想像も出来ない。ウォルの視点からすれば、怪物の歩み寄る様は、肉の壁が己を押し潰そうと迫ってくるに等しい。

 悪夢のような光景であった。しかしこれは悪夢ではない。悪夢よりなお残虐な、現実なのである。

 だとすれば、自分はあの怪物に黙って喰われてやるわけにはいかないのだ。何としても生き延びなければならない。

 

「え゛、え゛、え゛……」

 

 怪物が、鼓膜を腐らせるほどに不快な声で嘶く。嘶きながら追いかけてくる。

 それならば、今は足を止めないことだ。ウォルはそう考えた。

 足を動かす。いや、もっと端的に言うならば、逃げ続ける。それも、直線に逃げるのではない。この闘技場をいっぱいに使って、円を描くように逃げるのだ。

 ウォルは、逃げた。足を動かす度に思わず呻き声が漏れ出すような激痛が走るが、それでも逃げた。剣を杖代わりにしたその様子は、負け戦のしんがりを務める敗残兵にも似ていた。

 それでいい、とウォルは思った。

 どれほどみっともなくとも構わない。潔い死や名誉の自決などに比べれば、精一杯に足掻いて足掻いて足掻きまくって生きるほうがどれほど上等だろう。

 生きることだ。決して諦めないことだ。そうすれば、何か状況が変わるかも知れない。しかし、死んだらそこまでなのだ。その先でどれほど状況が変わろうとも死という結果を覆すことは誰にも出来はしない。

 だからウォルは逃げた。全身に刻まれた深傷が、心臓の拍動と共に、皮膚を食い破らんばかりの様子で痛み続ける。失血は体温を奪い、意識を朦朧とさせる。朦朧とした意識は、決意や信念を容易くへし折ろうと、耳元で甘く囁くのだ。

 もう、いいじゃないか。

 もう、休もう。

 お前は十分に頑張ったよ、と。

 

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……くそっ、ふざけ、るなよ……!」

 

 駄目だ。生きる。俺は、生き続ける。その義務がある。

 この体が俺のものならば、諦めるのも良かろう。恥辱を受ける前に自裁するのも一つの選択肢で、それは、あるいは俺の権利なのかも知れない。人は自分の人生に終止符を打つ権利を、誰しもが有するのだと、そう主張する人間もいるだろう。

 だが、この体は俺のものではないのだ。俺が借り受けているだけなのだ。だから、間借りしているだけの俺は、最後の最後まで足掻き続ける義務がある。

 滲む視界に活を入れ、よろよろとした足取りで逃げる。ちらりと後ろを振り返ると、怪物はやはり鈍重に這いながら、自分の後を追っている。

 

「お゛、お゛、お゛、……」

 

 怪物の、開きっぱなしになった口から、呻き声と一緒に緑色の涎が垂れ落ちる。おそらく、怪物はその口中も腐らせているのだ。あの分では、内蔵も、おそらく脳も、全てが腐りつつあるのだろう。そんな脳みそで、複雑な思考が出来るはずがない。

 それならばしめたものだ、とウォルは思った。あの怪物は、それほど知性が高くないのかも知れない。単純にこちらの後を追ってくるだけ、まるで生まれたてのヒヨコのように。

 これでもし、あの怪物が狼程度に賢ければ、巨体を利用して徐々に自分を追い詰めることも出来ただろう。しかしそんな様子は微塵もない。なら、こちらが円を描いて逃げ続ける限り、そう易々と追いつかれることはない……。

 そこまで考えて、ウォルははたと気が付いた。

 

「……どう、して……」

 

 ぜぇぜぇと喘ぎつ喘ぎつ、途切れ途切れの思考をつなぎ合わせていく。

 おかしい。そうだ、どう考えても腑に落ちない。

 先ほどあの怪物は、自分に危害を加えた観客に対して怒り狂い、あまりに惨い有様で喰い殺した。

 あの時の、寒気がするような怒りの咆吼と、目を見張るほどに俊敏な動き。

 もしもあの速度の半分も出すならば、今の自分では容易く捕まってしまうだろう。なのに、どうしてあの怪物は、こうものったりとした様子で自分を追いかけているのか。

 

「あ゛、あ゛、あ゛……」

 

 怪物が、叫ぶ。叫びながら、ウォルを追いかけてくる。一心不乱に、母を追いかける赤子のように。

 ウォルは、その叫びが、何故かひどく悲しげに聞こえた。

 振り返り、もう一度怪物をよく観察する。

 緑色に腐敗し続ける巨大な頭部。そのほぼ中央にある、探さなければ見落としてしまうほどに小さな、普通の人間ほどの大きさの目。きょろきょろと不安定に動き、まるで体とは違う意思を持っているかのよう。

 そういえば、と、ウォルは思った。

 あの瞳。あの緑色の瞳は、どこかで見覚えがある……気がする。

 瞳の色など、あまりにもあやふやで、かつありふれていて、それだけで個人を判別できるほどウォルも器用ではないのだが、しかしどこかで見覚えがある。見れば見るほど、そう確信できる。

 

「え゛、え゛、え゛……お゛、お゛、お゛……あ゛、あ゛、あ゛……」

 

 その瞳が、はっきりとウォルの方を見た。初めて怪物とウォルの視線が交わる。

 怪物は、何かを訴えかけていた。視線だけで、ウォルに、何かを懇願していた。

 

「え゛え゛……お゛お゛……あ゛……」 

  

 そして、ウォルは全てを理解した。

 自分を追ってくる怪物。あれが、いったい何なのか。そして、どうして自分を追いかけてくるのか。

 ウォルは、痛みでも苦しみでも嫌悪でもなく、ただ哀れみに顔を曇らせた。

 

「……エレオノラ、か。そのような姿になっても、貴様は母親が恋しいのか。それとも、人を止めてもその性は変わらないのか。貴様の犯してきた鬼畜にも劣る所業を思えば当然の報いかも知れんが……あまりにも……あまりにも、憐れな……」

「え゛え゛……お゛お゛……あ゛ぁぁ……」 

 

 怪物の小さな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

 

「お二方もご承知のとおり、この国には高度な遺伝子改良技術がありますからな。その中には、体細胞の成長を劇的に促進する遺伝子改良というものもございまして。生き物の体を大きくするだけならばそれほど難しいことではございません」

 

 アーロン・レイノルズは──今や怪物と成り果てたルパート・レイノルズの父親たる男は、頬を緩ませながら語った。

 

「むろんそれは作物や家畜などに使われてきた技術であり、人にそのまま応用できるものではないのですが……意外と上手くいったものです。なにせ、ああして今も元気に生きている」

 

 あまりのおぞましさに言葉を失っていた二人だったが、最初に激発したのは、かつて、自分のお腹を痛めて産んだ子を守るために獅子奮迅の戦いぶりを見せた、ジャスミンであった。

 

「貴様……自分の子供を何だと思っている!子供は、決して親の玩具ではない!まして、非道な人体実験の被験者に供するなど以ての外だ!」

「おや、ミズ・クーアは不思議な言い様をなさる。自分の子供に人体実験をするのが駄目ならば、人様の子供に人体実験をするのは問題無いということですかな?」

「問題をすり替えるな!それとこれとは話が別だ!」

「すり替えてなどいませんとも。私は、遺伝子改良技術と医学の発展のため、正しく断腸の想いで我が子をその礎に差し出したのです。民衆は良く言うではないですか。捨身の犠牲を尊ぶならば、まず為政者とその家族が犠牲に選ばれるべきである、と。だから私は涙を飲んだのですよ。それは賞賛されこそすれ、非難に値するものではないと思いますが如何?」

「詭弁を口にするな!どこの世界に、我が子を犠牲にしてそれを尊ぶ文明があるか!親は、子にとって最後の味方なんだ!どれほど愚かな子供でも、親は最後まで信じ守らなければならない!それを貴様……!」

「やめろ女王。この男に何を言っても無駄だ。この男は、スタート地点からして普通の人間とは違う。人並みの情や理屈を理解すること自体不可能なんだ。あんたがどれほど親の条理を説こうとも、この男にはどうしたって飲み込めないんだ。この男の理屈をあんたが理解出来ないのと同じでな」

 

 吐き捨てるようにケリーが言った。

 隠しきれない侮蔑に満ちたその言葉を聞いて、アーロンは嬉しそうに頷いた。

 

「正しく仰るとおりです、ケリー。私は普通の人間とは、そしておそらくあなた方とも違う価値観のもとに生きている。ですが、それはちっとも恥じるべきことではないはずだ。かの連邦大学でも、入学時にこう教えるそうではないですか。この世界で最も重要なことは、他者の個性を重んじそれを尊重することだと。ですから、これは私の個性なのですよ。誰に認めてもらおうとも受け入れてもらおうとも思いませんがね」

 

 ケリーは、心底うんざりとしたふうに、

 

「知ってるか、大統領。その理屈にはいくつも注意書きがあるんだが、一番大事なことは、他人に迷惑を及ぼさない範囲でしか認められないってことだ。そしてあんたはいの一番にその注意書きを破っているんだぜ」

「ええ、ええ、その通りですねケリー。しかし、私は今まで誰にも迷惑をかけた覚えなどありませんよ?」

「……ああ、そのとおりだな。あんたは清廉潔白さ、誰にも迷惑をかけずに今までを生きてきたに違いないぜ」

 

 頭痛色の溜息をケリーは吐き出した。

 

「しかし、解せねぇな。いくらこの国の遺伝子改良技術が優れているって言っても、それは他の大国に比べて見劣りしないっていうレベルでしかないはずだ。いくらマースやエストリアでも、世代を跨がずに個体のサイズをああまで肥大化させる遺伝子技術は開発出来ていなかったはずだが……」

 

 アーロンはしたりと頷いた。

 

「確かに、かの二大国とはいえ、そのような技術はまだ実現出来ていないはずですな。しかしケリー、私が息子に施術したのは、それほど複雑な実験ではないのですよ。遺伝子中に存在する成長因子を超活性化させ、分裂・増殖に関する制御機構を取り払ったうえで、当該遺伝子の運び役となるレトロウィルスを被験者の体内に注入しただけ。しかし、その結果があれです。僅か二週間の間に体長は約8倍、体重に至っては約500倍のサイズに成長しました。その分、あれはとんでもない大食漢でしてな、餌の確保には苦労させられましたよ」

「ちょっと待て、分裂と増殖に関する制御機構を取り払っただと?それはまるで……」

「ええ、その通りです。あれを構成する99パーセント以上の細胞が、所謂がん細胞と呼ばれるものに近しい性質を備えている。無論、そんな細胞が人の形を保てるはずがない。あの無数に生えた醜い腕は、どこかで遺伝子の転写にバグが生じた副産物でしょうな」

 

 ケリーは思わず息を飲んだ。

 がん細胞で構成される生き物だと?それは、生物として成り立っていない。そんな生物がこの世にいるはずがない。

 もしそんな研究が成功しているならば、それは即ち不老不死が実現することになる。

 

「言うまでもないことですが、がん細胞にはアポトーシス機能が欠如している。あれは、無限に増殖し無限に成長を続ける肉塊なのです」

「不可能だ。そんな生き物が、生き物として成立するはずがない。仮に試験管の中でそんな生き物を作れたとしても、三日も持たずに死ぬのが関の山だ」

「そうでしょう、普通の遺伝子操作ならば。しかしお忘れですかケリー、私には不可能を可能に変える、お伽噺の力が宿っていることを」

 

 ケリーは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、しかし内心では納得せざるを得なかった。

 なるほど、この男の、常識外れの出力を誇る特異能力があれば、たいていの不可能は可能になるのかも知れない。一夜で死ぬべき生命を生き長らえさせることも可能だろう。

 だが、それを、人としての尊厳を奪われた我が子に対して使うのは、どうしても理解出来ない。それが例えば不治の病に冒された我が子大事というならばまだしも、この男は明らかな愉悦と共に行っているのだ。

 そんなケリーの内心を読み取ったかのように、アーロンは言った。

 

「私としても苦渋の選択でしたよ、ええ。目の前に、全身を腐らせながら、殺してくれ、殺してくれと懇願する我が子がいるのですから。しかし、我が子には最後まで生き続けて欲しいと願うのが親心。違いますか?」

「……あんたの言ってることは正しいさ。しかし、あんたの言ってることは根本的に間違えている。俺の言いたいことが分かるかい?」

「ええまぁ、一応は。しかし、私も本当に、あれには死んで欲しくなかったのですよ。そして、想いを遂げさせてやりたいとも思っていた。不肖の息子は、あの娘にたいそう執心していましたからね。今もきっと、花嫁を迎えに行く花婿の気持ちなのでしょうね」

「花嫁……ウォルがそうだというのか?」

「一度は結婚式を執り行おうとしたのに、逃げられてしまったと。悲しい、悔しい、何とかして取り戻したいと頼られたのです。ならば、親として、目の前で花嫁を奪われた不憫な息子の願いを叶えてやるのは当然の義務でしょう」

 

 ならば、あの怪物は、食料としてではなく番いとして、雌として、ウォルを求めているということか。

 そう言われて見てみれば、四つん這いになった怪物の尻の下に、まるで三本目の足のように巨大なペニスらしき物体が、大きく膨張し、黄濁した粘液を垂れ流している。

 つまり、あの怪物は、発情しているのだ。満身創痍で満足に歩くことも出来ず、剣を杖代わりに逃げる少女に対して。

 だから、本当ならば先ほど怒り狂った時のように、もっと早く動くことも出来るのに、あれほどゆっくりと追いかけている。

 きっと、逃げ回るウォルを少しずつ追い詰めるのを、少女の絶望を、楽しんでいる……。

 あまりのおぞましさに、ケリーは吐き気を覚えたが、同時に一つの可能性に気が付いた。

 それは、度を超した残酷さと、悲惨さに満ちた可能性だった。

 

「アーロン、もしもお前の言うとおり、あれがそういう意図をもってウォルをいたぶっているなら……お前の息子は、あんな姿になっても、まだ自我が残っているのか……?」

 

 怪物の父たる男は、さも当然というふうに頷いた。

 

「無論ですとも。人たる意思を奪ってしまえば、それは本当の怪物ではないですか。ケリー、私は冷血漢かも知れませんが、そこまで非道なことは出来ませんよ。人は、人としての意識を保ってこそ人たり得るのですからね」

 

 違う。逆だ。そう、ケリーは思った。

 あれほどまでに人から懸け離れた存在に成り果ててしまったのならば、人の意思を失って発狂することは、寧ろ救いである。それが、人間に残された最後の逃げ道であり、尊厳を保つための方法であるはずだ。

 それなのに、その最後の逃げ道すらも奪われてしまったというのか……。

 

「私は、あれの意識が消えて無くなることのないよう、しっかりと処置をしたうえで治療を施しました。ただ、杖をぶつけられた程度で怒り狂い、何の躊躇もなく人間を喰らうあたり、すでに意識と体は切り離されてしまっているようですがね」

「意識と体は切り離される……」

「体は、食欲や性欲などの原始的な欲求のみを求めて行動し、精神はそれを為す術なくじっと傍観している……。あれの全身は、がん細胞に類似する細胞で構成されています。がん細胞、つまり無限に増殖しようとする細胞は、そのため常時大量のエネルギーを必要とする。つまりあの怪物……失礼、我が愛息子は、慢性的で強烈な飢餓感に苛まれているのですよ。そんな状態では、例えば同族の肉を食べてはいけないなどの禁忌感は、何の役にも立ちません。しかし、精神はそれを強く拒絶しようとする。そこに肉体と精神の乖離が生まれるのです」

「同族の、肉だと?」

「はい。不思議に思われませんでしたか?この惑星ヴェロニカの上で、どうやってあれほど巨大な生き物を養ってきたか。当然ですが、短期間にあれ程の成長を促すには、大量の餌、動物性タンパク質が必要です。しかしこの惑星ヴェロニカでは、いくら大統領とはいえ、息子に肉を食わせれば職が危うくなるそうなので。まぁ、自然から収奪しないかたちで肉を食わせる分には戒律に触れないだろうという苦肉の策から、人間の肉なら大丈夫かな、と……」

 

 そして、親は、子に、人肉食を強制したというのか……。

 

「幸い餌には困りませんでしたよ。息子はたくさんの少女を拉致監禁していて、その少女のほとんどが他惑星の出身、つまりヴェロニカ教徒ではありませんでしたからな。その少女達も、身内の恥を曝すようでお恥ずかしいのですが、我が息子に乱暴され純血を奪われてしまった憐れな娘達でした。であれば、不憫な少女達にとっても、これから好奇の視線の中で生き続けるよりは、いっそのこと──」

「もういい。貴様は、もうしゃべるな」

 

 喉から絞り出したように、ケリーは呟いた。

 もう、この男からどんな情報を聞き出したところで、胸くそが悪くなるだけだと悟ったのだ。

 アーロンも、鷹揚な調子で頷いた。別に気分を害したふうでもなく。

 そして、再び闘技場に視線を下ろす。

 

「ああ、なんだ、まだ鬼ごっこが続いていたのですか。いくら想い人と再会出来て嬉しさが先立つとはいえ、据え膳喰わぬは男の恥だというのに。まったく、お節介な親と笑われもしましょうが、少し手助けをしてやるとしましょうか」

「何だと!?」

「そういえば、先ほど、最後の狼を仕留めたときのペナルティをまだ頂いていませんでしたから、ちょうどいいでしょう」

「やめろ、てめぇ、やめやがれぇ!」

 

 ケリーの絶叫が、空しく宙に響いた。

 喜悦を浮かべたアーロンが、痩せた手を伸ばした。

 剣を杖代わりにした少女の、比較的無事だった右足の爪先が、真後ろに向けて半回転、ゆっくり捻られていった。

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