懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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幕間:餓狼

 ──走れ。

 

 ──走れ。

 

 ──俺は、走れ。

 

 ──今、走れ。

 

 ──走らなければならぬ。

 

 少年の頭に、たったひとつの命令が木霊していた。

 命じているのは、他ならぬ彼自身である。

 しかし、彼自身ではない。

 命じているのは、脳髄ではないからだ。

 それは、身体だ。人体を構成する60兆の細胞の尽くが、声を限りに叫んでいる。

 それは、魂だ。少年が少年として生を受けた後に培った魂が、少年が少年として生を受ける前に刻み込まれた魂が、喉を掻き毟りながら吠えている。

 それは、本能だ。少年の中に息づく少年以外の生き物が、己を取り囲む錆臭い檻に体当たりをしながら、怨嗟の声を撒き散らしている。手足に絡みついた鎖を振り回し、涙とともに慟哭している。

 

 ──走れ。

 

 ──走れ。

 

 ──走れ。

 

 ──足が砕けようとも。

 

 ──肺が張り裂けようとも。

 

 ──食い縛った歯が砕けて、血が吹き出し、その血で溺れ死のうとも。

 

 ──走らなければならない。

 

 ──誰のためでもない。

 

 ──他人のため?

 

 ──馬鹿を言え。そんな薄っぺらなもののために、どうして走らなければならないのか。

 

 ──走るのは、己のためだ。己を己であらせるために。己が誇れる己であるために。

 

 ──足が砕けようとも、肺が張り裂けようとも、体中の酸素を消費しつくして脳みそを死なせたとしても。

 

 ──俺は今、走らなければならない。

 

 ──存在の証明。

 

 ──今、この情けない足を止めれば、俺は俺でなくなる。俺が、俺に殺される。

 

 ──嫌だ。

 

 ──死にたくない、と思う。

 

 ──誰だって、死ぬのは嫌だ。死ぬことを受け入れた生き物は、すでに生き物ではない。

 

 ──亡者だ。

 

 ──生きながら死んでいる、この世でもっとも醜い存在だ。

 

 ──嫌だ。

 

 ──だから、走る。

 

 ──走り続けている。

 

 ──走り続けている、はずだ。

 

 ──もう、何百キロ走ったか。

 

 ──何十時間走ったのだ。

 

 ──それにしてはおかしいじゃないか。

 

 ──どうして俺は、いつまで経ってもあいつのもとに辿り着けないんだろう。

 

 ──いつまで走っても、辿り着けないんだろう。

 

 ──俺は、辿り着けないんだろう。

 

『そうだよ』

 

『辿り着けないよ』

 

『お前は、無理』だ。

 

『お前じゃあ、無理だよ』

 

『無理だって、言ってるのに』

 

 ──声が、した。

 

 ──なんだ、この声は。

 

 ──なんと甘やかで、なんと官能的で、なんと安らかな声だろう。

 

 ──魂を揺さぶる、母親のような声だ。全てを委ねて、すがり付きたくなる声だ。

 

『もう、お前は十分に頑張ったじゃないか』

 

『もう、無理だ。大丈夫、少しくらい休んでから行っても、大して結果は変わらないよ』

 

 ──駄目だよ。

 

 ──それでも、俺、急がなくちゃ。

 

 ──あいつを、助けなくちゃ。

 

『ははっ、笑わせる』

 

『お前が急いで何になる?』

 

『急がなければ、あの女が死ぬか?』

 

『じゃあ、お前が走れば、あの女が助かる?』

 

『お前が走っただけで?』?

 

『ははっ、それは自惚れにも程があるんじゃないのか?』

 

『お前は、何様のつもりだよ』

 

『自分の面倒だってもてあます半人前の分際で』

 

『口だけは達者に囀るものだな!』

 

 ──ああ、そうだ。その通りだ。

 

 ──お前の言う事は、至極もっともだ。

 

 少年は、朦朧とし始めた意識の片隅で、首肯した。

 自分がどれほど役立たずで、卑怯者で、唾棄に値する人間かなど、今まで散々思い知らされてきた。

 だから、声の言うことに、一言の不満もなかった。全て、言うとおりだと思った。

 そして甘やかな声は、なおも囁き続ける。少年の耳元をくすぐるように、優しく、優しく。

 少年の心を暗い方向に誘い込もうと、耳障りの良い言葉で、全てを分かっているふりをしながら、囁き続けるのだ。

 

『お前は本当に馬鹿だな』

 

『だいたい、少し考えれば分かるじゃないか』

 

『辿り着けないことくらい、お前が一番分かっているはずなのに』

 

『このまま走って、這々の体でたどり着いて、そのお前が一体何の役に立つっていうんだよ?』

 

『ここは一度ゆっくり休んで、それから歩いて行こうじゃないか』

 

『体力は温存するべきだ』

 

『そして、一番必要な時に爆発させるんだよ。そうしようぜ』

 

『そのために休むんだ』

 

『別に、しんどいから、辛いから休むんじゃないんだぜ』

 

『そんなこと、お前自身が一番良くわかっているだろう』?

 

『お前がちっとも卑怯者じゃないことくらい、俺達が知ってるからさ』

 

『だから、お前は一度立ち止まるべきだぜ』

 

 やはり、少年は首肯した。自分が役立たずであることなど、自分が一番知っている。

 目の前が真っ白で、吹雪の中で遭難しかけたことを思い出した。もう苦痛や疲労さえも彼から遠ざかりつつあった。

 地の底を這いずるように走りながら、少年は、雲の上を走っているのだと思った。

 

 ──ああ、この声は、天使の声か、それとも神様の声だ。

 

 ──俺を哀れんだ神様が、俺を慰めてくれているんだ。

 

 ──だから、ああ、そうだ。

 

 ──あなたの言う事はいちいち正しい。

 

 ──非の打ち所が無くて、感動的なくらいだ。

 

 ──それに比べて、この俺のなんと情けなく、なんと愚かしいこと。

 

 ──もう、ほとんど歩くのと変わらないような速度なのに、未練がましく走るふりをしている。

 

 ──舌を突き出した痩犬のような有様で、ふらふらと情けない様子!

 

 ──こんなざまであいつのもとに駆けつけて、何も出来ないことを知りながら、俺は走っている。

 

 ──そもそも、きっと辿り着けないことだって。

 

 ──走っている、ふりをしている。

 

 ──目が霞む。

 

 ──涙が滲む。

 

 ──絶望的に暖かい声が、壁のあちら側から滲み出してくる。

 

 ──大木のうろの暗いところに、洞穴の影の見えないところに、小さなきのこの傘の裏側に。

 

 ──大きな口が、小さな口が、大きな舌が、小さな舌が、無数に張り付いて、唇をめくり上げながら、笑っているのだ。

 

 ──舌と口が自分の周りを取り囲んで、けたけたと笑い転げているのだ。

 

『どうしてそんなに必死なんだ、お前は』

 

『まったく、滑稽な限りじゃないか』

 

『知っているぞ』

 

『それでも俺は優しいから、お前がどうしてそんなに必死なのか、知っている』

 

『お前は、ただ自分に言い訳するために走っているんだ』

 

『走るふりをしているんだ』

 

『俺は、精一杯やったさ』

 

『これだけ走ったんだ』

 

『こんなに辛い思いをしたんだ』

 

『だから、俺は悪くないんだ』

 

『赤く染まった少女の、うつろな死体の前で、そう懺悔するために、お前はよろよろと走るふりをしているんだ』

 

『そうだろう、インユェ』

 

『お前は、たったそれだけのために、苦行に耐えているんじゃないのか』

 

『なんたる無駄!』

 

『自己満足!』

 

『誰もがお前を笑い、蔑み、石を投げつけるだろう』

 

『誰だって、お前は意味のないことをしていると言う』

 

『気がつかないのか』

 

『みんな笑っているぞ』

 

『お前の浅ましい様子を、偽善者め!』

 

『偽善者め!』

 

『偽善者め!』

 

『偽善者め!』

 

『星も、木も、石ころも、森も、大地も、全部がお前を笑っている』

 

『腹を抱えて、指をさして、笑い転げているんだ』

 

 少年の近くから聞こえる優しい声が、みんな、そう言っていた。

 ぐるぐると少年の周囲を漂いながら、優しく少年を罵倒した。

 少年は、焦点の定まらない瞳を綻ばして、笑みを湛えながら、頷いた。

 

 ──ああ、そうだな。

 

 ──知ってるよ。

 

 ──俺が馬鹿で、くずで、どうしようもない役立たずだってことくらい。

 

 ──知ってるよ。

 

 ──知ってる。

 

 

 

 ──だからさ、黙れよ、俺。

 

 

 

 ──声は、消えてくれない。

 

 ──いつまでたっても、俺を優しく罵りながら、どうにかしてこの足を止めようとする。

 

 ──足は、鉛みたいに重たい。

 

 ──粘ついた空気は吸いにくくて、吐き出しにくくて、いつまでたっても肺の奥のほうに沈殿して、一向に酸素を分けてくれないしみったれだ。

 

 ──ちくしょう。

 

 ──みんな、俺の邪魔ばかりしやがる

 

 ──いつだってそうだった。

 

 ──俺はちっとも悪くないのに、みんなが俺の邪魔ばかりしやがるんだ。

 

 ──本当は、もっと上手くやれてたはずなんだ。

 

 ──みんなが俺の邪魔さえしなければ。

 

 ──運だって、悪かった。

 

 ──俺の前には、いつもいつも、姉貴がいた。

 

 ──強くて、賢くて、綺麗で、けちのつけようのない、姉貴がいた。

 

 ──いつもいつも、比べられてたんだ。

 

 ──ちくしょう。 

 

 ──あいつさえいなけりゃ、俺だって、少しはよ。

 

 ──少しはよ。 

 

 ──ヤームルも、いつも比べやがるんだ。

 

 ──一言目にはお嬢様、二言目にはお館様が生きていらしたら、お館様がご覧になったら。

 

 ──胸くそ悪いったらなかった。

 

 ──たまに、考えたさ。

 

 ──姉貴がいなけりゃ。

 

 ──ヤームルがいなけりゃ。

 

 ──俺はもっと、自由にやれてた。

 

 ──もっと、強くなれてた。

 

 ──あいつらがいたせいだ。

 

 ──あいつらのせいで、俺はこんなせこい人間にしかなれなかったんだ。

 

 ──あいつらのせいだ。

 

 ──俺はちっとも悪くない。

 

 ──いつだって、そうだった。

 

 ──いつだって、そうやって。

 

 

 

 ──言い訳ばかりしていた。

 

 

 

 ──違う。

 

 ──そうだ、言い訳を探していた。

 

 ──今日は、雨が降っているから。

 

 ──今日は、少し身体の調子が悪いだけ。

 

 ──明日やる。

 

 ──明後日やる。

 

 ──次は頑張る。

 

 ──俺のせいじゃない。

 

 ──俺が悪いんじゃない。

 

 ──俺は精一杯に頑張った。

 

 ──そう、言い訳をして。

 

 ──自分が守られているのを知りながら、誰からも背を向けていた。

 

 ──背を向けるふりをして、誰かにすり寄っていたんだ。

 

 ──姉貴に、ヤームルに、おふくろに、みんなに。

 

 ──そしてウォルに。

 

 ──この、卑怯者め。

 

 ──吐き気がする。

 

 ──もう、うんざりだよ。

 

「……ちくしょうめ」

 

 ──呟いてみた。二度。

 

「……ちくしょう……ちくしょう」

 

 ──言ってみた。三度。

 

「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……」

 

 ──叫んでみた!四度!

 

「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……!」

 

 ──くそったれ!ふざけやがって!ぶっころしてやる!

 

 ──どうして俺がこんな目に合わなきゃならねえんだ!

 

 ──やってられるかこんちきちょう!

 

 ──全部お前のせいだ、ウォル、この疫病神め!

 

 ──お前のことなんて、だいっ嫌いだ!

 

「……違う、嘘だ、大嘘だ……」

 

 ──そうじゃない!そうじゃないんだよ!

 

 ──ああ、もう、嘘を吐くのはやめだ!

 

 ──自分を偽るのはなしだ!

 

 ──誰に嘘を吐いたって、汚らしく騙したって、自分を騙し通せるはずがはずがないだろう!

 

 絶息寸前の少年の叫びは、囁き声と変わるところがない。

 誰の耳にも届かない、消え入るような声は、ただ一人、少年の耳にだけ届いた。

 少年の耳にだけは、届いてくれた。

 

「やい……ウォル……いいか……よく聞けよ……」

 

「俺は……お前に……惚れたんだ……」

 

「好きだ……」

 

「大……好きだ……」

 

「愛し……てる……」

 

「奴隷じゃ……なくて……いい……」

 

「お前が……俺の……ご主人様でも……構わない……」

 

「他の……女じゃ……駄目なんだよ……」

 

「お前が……お前だけが……隣に……いて……欲しいん……だ……」

 

 ──息を吐く代わりに、思い切り叫んでやる。

 

 ──そうすると、不思議なことに力が湧いてくる。

 

 ──もう少し、走ってみようと思う。

 

 ──あと一歩だけ、足を踏み出してみようと思う。

 

 ──そのために、叫ぶ。

 

 ──恥も外聞もなく、想い人を、愛していると叫び続ける。

 

 ──叫びながら、薪をくべるのだ。

 

 ──燃え盛る炎の中に、燃える物は何だって投げ込むのだ。

 

 ──それがどれほど醜いものでも、燃えてくれればいい。

 

 ──あの時の、赤面ものの失敗を、炎の中に投げ込んで。

 

 ──あの時の、情けない自分を、炎の中に投げ込んで。

 

 ──あの時の、自分に向けた殺意を、炎の中に投げ込んで。

 

 ──あいつを助けられなかった、あいつに守られるしか出来なかった俺を、炎の中に投げ込んで。

 

 ──今の、歩きながら走るふりをする、今の自分を投げ込んで。

 

 ──今だけは、お前の顔を、憎しみと一緒に思い浮かべてやる。

 

 ──それも、一緒に燃やす。

 

 ──情けない自分の声を、鼓膜から引き剥がして、火にくべる。

 

 ──断末魔の悲鳴が、良い気味だ。

 

 ──この、今にも燃え尽きそうな炎を、少しでも長く燃やしてやるんだ。

 

 ──一番重要なのは、火を絶やさないこと。

 

 ──火があれば、人は生きていける。

 

 ──人は、火で生きる獣だ。

 

 ──それが、例え己の内に燃え盛る炎であったとして、燃えてさえいれば凍えないですむのだ。

 

 ──だから、燃やせ。

 

 ──ありったけに燃やせ。

 

 ──今燃やさないで、いつ燃やすというのか。

 

 ──燃やして、燃やして、燃やし尽くして。

 

 ──最後に、自分の全てを。

 

 そして火種は燃え尽き、ほの赤い熾りを残すのみ。

 少年は、全てを失った。

 何もかもを無くした、黒焦げの死体になった。

 次の一歩で止まってしまう、止まってしまえば二度と動けない。そこで朽ちていくだろう。

 もう、何も無い。全てを燃やし尽くし、全てが灰がらになってしまった。灰は、崩れ落ちるだけだ。風に吹かれ、風に砕かれ、風の中に溶けて消え去る。

 

 ──駄目なのだろう。

 

 ──きっと、俺は、駄目になる。

 

 ──それがわかる。

 

 ──悔しくて歯を軋らせる。

 

 ──それでも、次の一歩が限界だ。

 

 ──恐ろしい。 

 

 ──次の一歩を踏み出した後、地を駆けることの出来なくなった自分が、恐ろしい。

 

 ──全てを諦めて、生きた屍となった自分の一生が、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

 

 ──体中の力が抜けて小便が漏れそうになる。

 

 ──どうすればいいのだろう。

 

 ──ああ、誰でもいい。

 

 ──どうか、俺を助けてくれ。

 

 ──助けて下さい。

 

 ──助けて下さい。

 

 

 

『──か?』

 

 

 

 ──声。

 

 ──どこからか。

 

 ──足を止めようとする甘やかな声ではなく、自分を笑う誰かの声でもなく。

 

 ──自分の知らない声が、しかし自分の一番近くから。

 

 ──自分の奥の奥の、一番奥の方から。

 

 ──まるで獣の唸り声のような。

 

 ──声が、聞こえる。

 

『──が、欲しいか?』

 

 ──欲しいか?

 

 ──ああ、欲しい。

 

 ──欲しい。

 

 ──そりゃあ、欲しいさ。

 

 ──眠たいことを言ってるんじゃねえよ。

 

 ──力が、欲しい。

 

 ──速さが、欲しい。

 

 ──あいつを助けられる自分が、欲しくて欲しくて堪らない。

 

 ──そのためなら、何だってする。

 

 ──魂だって、炉にくべてやる。

 

 ──悪魔にだって大バーゲンで売り渡してやる。

 

『なら、燃やせ』

 

 ──何を?

 

 ──もう、残ってないんだ。

 

 ──徹底的なくらいに、何にも。

 

 ──何を思いだしても、どこをかき集めても、次の一歩を走るための力が。

 

 ──残っているのは燃えかすばかり。

 

 ──燃えかすみたいな、俺ばかりだ。

 

 ──そんな俺に、何を燃やせっていうんだよ?

 

『まだ、残っているじゃないか』

 

 ──残っている?

 

 ──違う。

 

 ──それは、勘違いだ。

 

 ──ここには、俺の中には、何も。

 

 ──何一つ。

 

『違う。残っている。たった一つだけ。一番重たくて、一番固くて、一番古い……』

 

 ──だから、さっきから何度も言ってるのに。

 

『思い出せよ、インユェ』

 

 ──思い出す?

 

『お前が、一番最初に覚えていることさ』

 

 ──一番最初?

 

『そして、力尽くで忘れたことだ』

 

 ──力尽く。

 

『そんなに怖がるなよ、臆病者』

 

 ──そうだ、俺は怖い。

 

 ──戦うのも、逃げるのも。

 

 ──生きることも、死ぬことも。

 

 ──俺を取り巻く、何もかもが。

 

『違う。お前が恐れているのは、そんな気の利いたものじゃなくて、たった一つの情景じゃないか』

 

 ──さっきから、お前はいったい、何を……

 

『肌を切り裂く寒風。宝石を鏤めたような夜空。月は、無い。草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く』

 

 ──それは。

 

 ──その、情景は。

 

『遠くに聞こえる、狼の遠吠え。近くに聞こえる、狼の唸り声。闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れ』

 

 ──知らない。

 

 ──俺は、そんなものは、知らない。

 

 ──一度だって、見たことはない。

 

 ──聞いたこともない。

 

『お前の、紅葉みたいに小さな掌を、誰が守ってくれていたのか』

 

 ──違う。

 

 ──違うんだ。

 

 ──あれは、姉ちゃんじゃあない。

 

 ──あんなに大きくて、あんなに恐ろしくて、あんなに狂っていて。

 

 ──あれは、ぼくのおねえちゃんじゃ、ない。

 

『あの時、お前は、自分の姉を、何と呼んだ?』

 

 ──おねえちゃん、こわい……。

 

『何と、呼んだ?』

 

 

 ばけもの。

 

 

 ──ああ。

 

 ──思い出した。

 

 ──全てを。

 

 ──そうだ、力尽くで、全てを俺は、忘れていたんだ。

 

 ──異形と化した姉が、狼の群れを次々と喰い殺していく。

 

 ──その、血塗れの有様。

 

 ──嬉しそうに牙を剥き出した顔。

 

 ──大地に溢れた血を啜る、じゅるじゅるという音。

 

 ──そして、月明かりに照らされた、巨大な体躯。

 

 ──恍惚と微笑んだ獣の顔。

 

 ──美しい体毛の先から、粘ついた液体がぼとりぼとりと垂れ落ちている。

 

 ──そうだ、恐ろしくて、恐ろしくて、堪らなかった。

 

 ──アレが、俺の姉ならば。

 

 ──俺も、姉と同じアレなのだろう。

 

 ──俺も、いつか、姉と同じように、喜びながら誰かの命を奪うのだろう。

 

 ──肉を喰らい、血で乾きを癒し、悦びの遠吠えを夜空に放つのだ。

 

 ──嫌だった。

 

 ──どうしても、嫌だった。

 

 ──だから、蓋をした。

 

 ──俺の中で一番頑丈な箱に、鎖をぐるぐると巻き付けて、鋼鉄の南京錠で鍵をかけた。

 

 ──そして、一番奥底に、海底に沈めて、見て見ぬふりを決め込んだんだ。

 

 ──自分は違う。

 

 ──姉とは違う。

 

 ──俺は化け物なんかじゃない、と。

 

 ──お前から、逃げ出した。

 

 ──自分から、逃げ出した。

 

 ──全てから。

 

 ──そうか。

 

 ──そうだよ。

 

 ──そうだったんだ。

 

 ──分かったよ。

 

 ──燃やすよ。

 

 ──これが、うまく燃えてくれるのか、とっても不安だけれども。

 

 ──燃えかすだらけの溶鉱炉の中に、錆の浮いた箱ごと投げ込んで。

 

 ──中から出てきた、暗紅色の煙を、灰一杯に吸い込んで。

 

 少年は噎せ返った。

 走りながら嘔吐し、口の端から黄色い胃液を垂らして、それでも次の一歩を踏み出して。

 そして、あまりにもよろよろとした様子で、少年は走る。走り続ける。

 遅々とした、なんとも頼りない足取りで。

 少年が、嘆く。もう、あらかたに燃やし尽くして、燃え殻になった少年が、嘆く。

 

 ──それにしても、ああ。

 

 ──この身体は、なんと走るに適さない、なんと醜いそれなのだろう。

 

 ──燃やすものも、ついに、無くなってしまった。

 

 ──どうすれば、間に合うのか。

 

 ──もう、こりごりだ。

 

 ──誰かを見捨てるなんて、誰かを守れないなんて。

 

 ──足が、欲しい。

 

 ──俺は、俺をあいつの元に運び届ける、足が欲しい。

 

 ──二本では足りない。

 

 ──三本は不安定だ。

 

 ──四本なんてケチくさいじゃないか。

 

 ──虫のように六本。

 

 ──蜘蛛のように八本。

 

 ──烏賊のように十本。

 

 ──もっともっと。

 

 ──もっとたくさんの足が欲しい。

 

 ──もしも俺に百足のように足があれば、これほど遅々とした歩みでも、あいつのもとに辿りつけるだろうに。

 

 ──涙が出そうになる。

 

 ──舌を出して喘ぎ、ふらつく足で一歩一歩。

 

 ──ああ、俺は、なんて不恰好な生き物なんだろう。

 

 ──人が万物の霊長だなんて、どこの誰が恥ずかしげもなく言ったのか。

 

 ──それが本当ならば、どうして俺はこんなにみっともなくて、惨めな思いをしなければならないのか。

 

 ──くそっ、くそっ、くそっ。

 

 ──一体どうすればいい。

 

 ──どうすれば、この鈍重な亀みたいな身体を、あいつのもとに届けてやれるんだろう。

 

 ──一刻も早く、一歩でも早く、一呼吸でも早く!

 

 ──足が、欲しい。

 

 ──たくさんの足が欲しいんだ。

 

 ──違う。

 

 ──欲しいじゃ駄目だ。

 

 ──欲しいじゃ、どうしたって間に合わない。

 

 ──持ってこい。

 

 ──間に合わせろ。

 

 ──騙して、誤魔化して、煽てて、振りをさせればいい。

 

 ──そうだ。

 

 ──ここに、あるじゃないか。

 

 ──百本には到底及ばないし、とても足とは言えない貧弱な様子だけど、もう二本。

 

 ──この肩から、阿呆みたいな様子で、ぶらぶらと。

 

 ──お前だけ楽しやがってと、二本の足の罵声を聞き流しながら、ぶらぶらと馬鹿みたいに。

 

 ──お前も働けよ、おい。

 

 ──不公平じゃないか。

 

 ──ならば、お前だ。

 

 ──お前が、足だ。

 

 ──今からお前は、足と呼ばれる存在になるのだ。

 

 ──彼女のように。

 

 ──姉のように。

 

 ──俺という存在を紡いでくれた、全ての祖先と同じように。

 

 ──自分の身体に言い聞かせろ。

 

 ──贅肉を筋肉と偽って、やせ我慢を信念だと偽って、自己満足を己の使命と偽って。

 

 ──それでも走り続けろ。

 

 ──命が果てるまで、走り続けろ。

 

 そうして、黒焦げの少年が走り始める。

 ありとあらゆるものを燃やす尽くした彼は、正しく黒焦げの死体そのものだった。

 

 それでも。

 

 黒焦げの死体が、息を吹き返す。

 ひび割れた唇が、血塗れの雄叫びをあげる。

 灰の中から、濡れ濡れとした生命が立ち上がる。

 少年は、駆けた。

 二本の腕を、前足に。二本の足を、後ろ足に。犬のように舌を出して喘ぎながら。

 生まれたての赤子のように。

 豹のように駆けた。

 いつの間にか、少年の衣服が、内側から張り裂けていた。少年の身体を、柔く豊かな毛皮が覆っていた。鼻が突き出て口は耳元まで裂け、ぞろりと巨大な牙が生え揃っていた。

 少年の頭部が、異形へと変じていく。

 四本の足は、最初から手ぐすねを引いていたかのように、少年の身体を疾き風とし、少年の魂を迅き雷とする。

 それは、既に少年と呼べる生き物ではなかった。

 四つ足で疾駆する少年は、既に少年ではなかったのだ。

 それは、獣と呼ばれるかたちであった。

 

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