懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
──走れ。
──走れ。
──俺は、走れ。
──今、走れ。
──走らなければならぬ。
少年の頭に、たったひとつの命令が木霊していた。
命じているのは、他ならぬ彼自身である。
しかし、彼自身ではない。
命じているのは、脳髄ではないからだ。
それは、身体だ。人体を構成する60兆の細胞の尽くが、声を限りに叫んでいる。
それは、魂だ。少年が少年として生を受けた後に培った魂が、少年が少年として生を受ける前に刻み込まれた魂が、喉を掻き毟りながら吠えている。
それは、本能だ。少年の中に息づく少年以外の生き物が、己を取り囲む錆臭い檻に体当たりをしながら、怨嗟の声を撒き散らしている。手足に絡みついた鎖を振り回し、涙とともに慟哭している。
──走れ。
──走れ。
──走れ。
──足が砕けようとも。
──肺が張り裂けようとも。
──食い縛った歯が砕けて、血が吹き出し、その血で溺れ死のうとも。
──走らなければならない。
──誰のためでもない。
──他人のため?
──馬鹿を言え。そんな薄っぺらなもののために、どうして走らなければならないのか。
──走るのは、己のためだ。己を己であらせるために。己が誇れる己であるために。
──足が砕けようとも、肺が張り裂けようとも、体中の酸素を消費しつくして脳みそを死なせたとしても。
──俺は今、走らなければならない。
──存在の証明。
──今、この情けない足を止めれば、俺は俺でなくなる。俺が、俺に殺される。
──嫌だ。
──死にたくない、と思う。
──誰だって、死ぬのは嫌だ。死ぬことを受け入れた生き物は、すでに生き物ではない。
──亡者だ。
──生きながら死んでいる、この世でもっとも醜い存在だ。
──嫌だ。
──だから、走る。
──走り続けている。
──走り続けている、はずだ。
──もう、何百キロ走ったか。
──何十時間走ったのだ。
──それにしてはおかしいじゃないか。
──どうして俺は、いつまで経ってもあいつのもとに辿り着けないんだろう。
──いつまで走っても、辿り着けないんだろう。
──俺は、辿り着けないんだろう。
『そうだよ』
『辿り着けないよ』
『お前は、無理』だ。
『お前じゃあ、無理だよ』
『無理だって、言ってるのに』
──声が、した。
──なんだ、この声は。
──なんと甘やかで、なんと官能的で、なんと安らかな声だろう。
──魂を揺さぶる、母親のような声だ。全てを委ねて、すがり付きたくなる声だ。
『もう、お前は十分に頑張ったじゃないか』
『もう、無理だ。大丈夫、少しくらい休んでから行っても、大して結果は変わらないよ』
──駄目だよ。
──それでも、俺、急がなくちゃ。
──あいつを、助けなくちゃ。
『ははっ、笑わせる』
『お前が急いで何になる?』
『急がなければ、あの女が死ぬか?』
『じゃあ、お前が走れば、あの女が助かる?』
『お前が走っただけで?』?
『ははっ、それは自惚れにも程があるんじゃないのか?』
『お前は、何様のつもりだよ』
『自分の面倒だってもてあます半人前の分際で』
『口だけは達者に囀るものだな!』
──ああ、そうだ。その通りだ。
──お前の言う事は、至極もっともだ。
少年は、朦朧とし始めた意識の片隅で、首肯した。
自分がどれほど役立たずで、卑怯者で、唾棄に値する人間かなど、今まで散々思い知らされてきた。
だから、声の言うことに、一言の不満もなかった。全て、言うとおりだと思った。
そして甘やかな声は、なおも囁き続ける。少年の耳元をくすぐるように、優しく、優しく。
少年の心を暗い方向に誘い込もうと、耳障りの良い言葉で、全てを分かっているふりをしながら、囁き続けるのだ。
『お前は本当に馬鹿だな』
『だいたい、少し考えれば分かるじゃないか』
『辿り着けないことくらい、お前が一番分かっているはずなのに』
『このまま走って、這々の体でたどり着いて、そのお前が一体何の役に立つっていうんだよ?』
『ここは一度ゆっくり休んで、それから歩いて行こうじゃないか』
『体力は温存するべきだ』
『そして、一番必要な時に爆発させるんだよ。そうしようぜ』
『そのために休むんだ』
『別に、しんどいから、辛いから休むんじゃないんだぜ』
『そんなこと、お前自身が一番良くわかっているだろう』?
『お前がちっとも卑怯者じゃないことくらい、俺達が知ってるからさ』
『だから、お前は一度立ち止まるべきだぜ』
やはり、少年は首肯した。自分が役立たずであることなど、自分が一番知っている。
目の前が真っ白で、吹雪の中で遭難しかけたことを思い出した。もう苦痛や疲労さえも彼から遠ざかりつつあった。
地の底を這いずるように走りながら、少年は、雲の上を走っているのだと思った。
──ああ、この声は、天使の声か、それとも神様の声だ。
──俺を哀れんだ神様が、俺を慰めてくれているんだ。
──だから、ああ、そうだ。
──あなたの言う事はいちいち正しい。
──非の打ち所が無くて、感動的なくらいだ。
──それに比べて、この俺のなんと情けなく、なんと愚かしいこと。
──もう、ほとんど歩くのと変わらないような速度なのに、未練がましく走るふりをしている。
──舌を突き出した痩犬のような有様で、ふらふらと情けない様子!
──こんなざまであいつのもとに駆けつけて、何も出来ないことを知りながら、俺は走っている。
──そもそも、きっと辿り着けないことだって。
──走っている、ふりをしている。
──目が霞む。
──涙が滲む。
──絶望的に暖かい声が、壁のあちら側から滲み出してくる。
──大木のうろの暗いところに、洞穴の影の見えないところに、小さなきのこの傘の裏側に。
──大きな口が、小さな口が、大きな舌が、小さな舌が、無数に張り付いて、唇をめくり上げながら、笑っているのだ。
──舌と口が自分の周りを取り囲んで、けたけたと笑い転げているのだ。
『どうしてそんなに必死なんだ、お前は』
『まったく、滑稽な限りじゃないか』
『知っているぞ』
『それでも俺は優しいから、お前がどうしてそんなに必死なのか、知っている』
『お前は、ただ自分に言い訳するために走っているんだ』
『走るふりをしているんだ』
『俺は、精一杯やったさ』
『これだけ走ったんだ』
『こんなに辛い思いをしたんだ』
『だから、俺は悪くないんだ』
『赤く染まった少女の、うつろな死体の前で、そう懺悔するために、お前はよろよろと走るふりをしているんだ』
『そうだろう、インユェ』
『お前は、たったそれだけのために、苦行に耐えているんじゃないのか』
『なんたる無駄!』
『自己満足!』
『誰もがお前を笑い、蔑み、石を投げつけるだろう』
『誰だって、お前は意味のないことをしていると言う』
『気がつかないのか』
『みんな笑っているぞ』
『お前の浅ましい様子を、偽善者め!』
『偽善者め!』
『偽善者め!』
『偽善者め!』
『星も、木も、石ころも、森も、大地も、全部がお前を笑っている』
『腹を抱えて、指をさして、笑い転げているんだ』
少年の近くから聞こえる優しい声が、みんな、そう言っていた。
ぐるぐると少年の周囲を漂いながら、優しく少年を罵倒した。
少年は、焦点の定まらない瞳を綻ばして、笑みを湛えながら、頷いた。
──ああ、そうだな。
──知ってるよ。
──俺が馬鹿で、くずで、どうしようもない役立たずだってことくらい。
──知ってるよ。
──知ってる。
──だからさ、黙れよ、俺。
──声は、消えてくれない。
──いつまでたっても、俺を優しく罵りながら、どうにかしてこの足を止めようとする。
──足は、鉛みたいに重たい。
──粘ついた空気は吸いにくくて、吐き出しにくくて、いつまでたっても肺の奥のほうに沈殿して、一向に酸素を分けてくれないしみったれだ。
──ちくしょう。
──みんな、俺の邪魔ばかりしやがる
──いつだってそうだった。
──俺はちっとも悪くないのに、みんなが俺の邪魔ばかりしやがるんだ。
──本当は、もっと上手くやれてたはずなんだ。
──みんなが俺の邪魔さえしなければ。
──運だって、悪かった。
──俺の前には、いつもいつも、姉貴がいた。
──強くて、賢くて、綺麗で、けちのつけようのない、姉貴がいた。
──いつもいつも、比べられてたんだ。
──ちくしょう。
──あいつさえいなけりゃ、俺だって、少しはよ。
──少しはよ。
──ヤームルも、いつも比べやがるんだ。
──一言目にはお嬢様、二言目にはお館様が生きていらしたら、お館様がご覧になったら。
──胸くそ悪いったらなかった。
──たまに、考えたさ。
──姉貴がいなけりゃ。
──ヤームルがいなけりゃ。
──俺はもっと、自由にやれてた。
──もっと、強くなれてた。
──あいつらがいたせいだ。
──あいつらのせいで、俺はこんなせこい人間にしかなれなかったんだ。
──あいつらのせいだ。
──俺はちっとも悪くない。
──いつだって、そうだった。
──いつだって、そうやって。
──言い訳ばかりしていた。
──違う。
──そうだ、言い訳を探していた。
──今日は、雨が降っているから。
──今日は、少し身体の調子が悪いだけ。
──明日やる。
──明後日やる。
──次は頑張る。
──俺のせいじゃない。
──俺が悪いんじゃない。
──俺は精一杯に頑張った。
──そう、言い訳をして。
──自分が守られているのを知りながら、誰からも背を向けていた。
──背を向けるふりをして、誰かにすり寄っていたんだ。
──姉貴に、ヤームルに、おふくろに、みんなに。
──そしてウォルに。
──この、卑怯者め。
──吐き気がする。
──もう、うんざりだよ。
「……ちくしょうめ」
──呟いてみた。二度。
「……ちくしょう……ちくしょう」
──言ってみた。三度。
「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……」
──叫んでみた!四度!
「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……!」
──くそったれ!ふざけやがって!ぶっころしてやる!
──どうして俺がこんな目に合わなきゃならねえんだ!
──やってられるかこんちきちょう!
──全部お前のせいだ、ウォル、この疫病神め!
──お前のことなんて、だいっ嫌いだ!
「……違う、嘘だ、大嘘だ……」
──そうじゃない!そうじゃないんだよ!
──ああ、もう、嘘を吐くのはやめだ!
──自分を偽るのはなしだ!
──誰に嘘を吐いたって、汚らしく騙したって、自分を騙し通せるはずがはずがないだろう!
絶息寸前の少年の叫びは、囁き声と変わるところがない。
誰の耳にも届かない、消え入るような声は、ただ一人、少年の耳にだけ届いた。
少年の耳にだけは、届いてくれた。
「やい……ウォル……いいか……よく聞けよ……」
「俺は……お前に……惚れたんだ……」
「好きだ……」
「大……好きだ……」
「愛し……てる……」
「奴隷じゃ……なくて……いい……」
「お前が……俺の……ご主人様でも……構わない……」
「他の……女じゃ……駄目なんだよ……」
「お前が……お前だけが……隣に……いて……欲しいん……だ……」
──息を吐く代わりに、思い切り叫んでやる。
──そうすると、不思議なことに力が湧いてくる。
──もう少し、走ってみようと思う。
──あと一歩だけ、足を踏み出してみようと思う。
──そのために、叫ぶ。
──恥も外聞もなく、想い人を、愛していると叫び続ける。
──叫びながら、薪をくべるのだ。
──燃え盛る炎の中に、燃える物は何だって投げ込むのだ。
──それがどれほど醜いものでも、燃えてくれればいい。
──あの時の、赤面ものの失敗を、炎の中に投げ込んで。
──あの時の、情けない自分を、炎の中に投げ込んで。
──あの時の、自分に向けた殺意を、炎の中に投げ込んで。
──あいつを助けられなかった、あいつに守られるしか出来なかった俺を、炎の中に投げ込んで。
──今の、歩きながら走るふりをする、今の自分を投げ込んで。
──今だけは、お前の顔を、憎しみと一緒に思い浮かべてやる。
──それも、一緒に燃やす。
──情けない自分の声を、鼓膜から引き剥がして、火にくべる。
──断末魔の悲鳴が、良い気味だ。
──この、今にも燃え尽きそうな炎を、少しでも長く燃やしてやるんだ。
──一番重要なのは、火を絶やさないこと。
──火があれば、人は生きていける。
──人は、火で生きる獣だ。
──それが、例え己の内に燃え盛る炎であったとして、燃えてさえいれば凍えないですむのだ。
──だから、燃やせ。
──ありったけに燃やせ。
──今燃やさないで、いつ燃やすというのか。
──燃やして、燃やして、燃やし尽くして。
──最後に、自分の全てを。
そして火種は燃え尽き、ほの赤い熾りを残すのみ。
少年は、全てを失った。
何もかもを無くした、黒焦げの死体になった。
次の一歩で止まってしまう、止まってしまえば二度と動けない。そこで朽ちていくだろう。
もう、何も無い。全てを燃やし尽くし、全てが灰がらになってしまった。灰は、崩れ落ちるだけだ。風に吹かれ、風に砕かれ、風の中に溶けて消え去る。
──駄目なのだろう。
──きっと、俺は、駄目になる。
──それがわかる。
──悔しくて歯を軋らせる。
──それでも、次の一歩が限界だ。
──恐ろしい。
──次の一歩を踏み出した後、地を駆けることの出来なくなった自分が、恐ろしい。
──全てを諦めて、生きた屍となった自分の一生が、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。
──体中の力が抜けて小便が漏れそうになる。
──どうすればいいのだろう。
──ああ、誰でもいい。
──どうか、俺を助けてくれ。
──助けて下さい。
──助けて下さい。
『──か?』
──声。
──どこからか。
──足を止めようとする甘やかな声ではなく、自分を笑う誰かの声でもなく。
──自分の知らない声が、しかし自分の一番近くから。
──自分の奥の奥の、一番奥の方から。
──まるで獣の唸り声のような。
──声が、聞こえる。
『──が、欲しいか?』
──欲しいか?
──ああ、欲しい。
──欲しい。
──そりゃあ、欲しいさ。
──眠たいことを言ってるんじゃねえよ。
──力が、欲しい。
──速さが、欲しい。
──あいつを助けられる自分が、欲しくて欲しくて堪らない。
──そのためなら、何だってする。
──魂だって、炉にくべてやる。
──悪魔にだって大バーゲンで売り渡してやる。
『なら、燃やせ』
──何を?
──もう、残ってないんだ。
──徹底的なくらいに、何にも。
──何を思いだしても、どこをかき集めても、次の一歩を走るための力が。
──残っているのは燃えかすばかり。
──燃えかすみたいな、俺ばかりだ。
──そんな俺に、何を燃やせっていうんだよ?
『まだ、残っているじゃないか』
──残っている?
──違う。
──それは、勘違いだ。
──ここには、俺の中には、何も。
──何一つ。
『違う。残っている。たった一つだけ。一番重たくて、一番固くて、一番古い……』
──だから、さっきから何度も言ってるのに。
『思い出せよ、インユェ』
──思い出す?
『お前が、一番最初に覚えていることさ』
──一番最初?
『そして、力尽くで忘れたことだ』
──力尽く。
『そんなに怖がるなよ、臆病者』
──そうだ、俺は怖い。
──戦うのも、逃げるのも。
──生きることも、死ぬことも。
──俺を取り巻く、何もかもが。
『違う。お前が恐れているのは、そんな気の利いたものじゃなくて、たった一つの情景じゃないか』
──さっきから、お前はいったい、何を……
『肌を切り裂く寒風。宝石を鏤めたような夜空。月は、無い。草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く』
──それは。
──その、情景は。
『遠くに聞こえる、狼の遠吠え。近くに聞こえる、狼の唸り声。闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れ』
──知らない。
──俺は、そんなものは、知らない。
──一度だって、見たことはない。
──聞いたこともない。
『お前の、紅葉みたいに小さな掌を、誰が守ってくれていたのか』
──違う。
──違うんだ。
──あれは、姉ちゃんじゃあない。
──あんなに大きくて、あんなに恐ろしくて、あんなに狂っていて。
──あれは、ぼくのおねえちゃんじゃ、ない。
『あの時、お前は、自分の姉を、何と呼んだ?』
──おねえちゃん、こわい……。
『何と、呼んだ?』
ばけもの。
──ああ。
──思い出した。
──全てを。
──そうだ、力尽くで、全てを俺は、忘れていたんだ。
──異形と化した姉が、狼の群れを次々と喰い殺していく。
──その、血塗れの有様。
──嬉しそうに牙を剥き出した顔。
──大地に溢れた血を啜る、じゅるじゅるという音。
──そして、月明かりに照らされた、巨大な体躯。
──恍惚と微笑んだ獣の顔。
──美しい体毛の先から、粘ついた液体がぼとりぼとりと垂れ落ちている。
──そうだ、恐ろしくて、恐ろしくて、堪らなかった。
──アレが、俺の姉ならば。
──俺も、姉と同じアレなのだろう。
──俺も、いつか、姉と同じように、喜びながら誰かの命を奪うのだろう。
──肉を喰らい、血で乾きを癒し、悦びの遠吠えを夜空に放つのだ。
──嫌だった。
──どうしても、嫌だった。
──だから、蓋をした。
──俺の中で一番頑丈な箱に、鎖をぐるぐると巻き付けて、鋼鉄の南京錠で鍵をかけた。
──そして、一番奥底に、海底に沈めて、見て見ぬふりを決め込んだんだ。
──自分は違う。
──姉とは違う。
──俺は化け物なんかじゃない、と。
──お前から、逃げ出した。
──自分から、逃げ出した。
──全てから。
──そうか。
──そうだよ。
──そうだったんだ。
──分かったよ。
──燃やすよ。
──これが、うまく燃えてくれるのか、とっても不安だけれども。
──燃えかすだらけの溶鉱炉の中に、錆の浮いた箱ごと投げ込んで。
──中から出てきた、暗紅色の煙を、灰一杯に吸い込んで。
少年は噎せ返った。
走りながら嘔吐し、口の端から黄色い胃液を垂らして、それでも次の一歩を踏み出して。
そして、あまりにもよろよろとした様子で、少年は走る。走り続ける。
遅々とした、なんとも頼りない足取りで。
少年が、嘆く。もう、あらかたに燃やし尽くして、燃え殻になった少年が、嘆く。
──それにしても、ああ。
──この身体は、なんと走るに適さない、なんと醜いそれなのだろう。
──燃やすものも、ついに、無くなってしまった。
──どうすれば、間に合うのか。
──もう、こりごりだ。
──誰かを見捨てるなんて、誰かを守れないなんて。
──足が、欲しい。
──俺は、俺をあいつの元に運び届ける、足が欲しい。
──二本では足りない。
──三本は不安定だ。
──四本なんてケチくさいじゃないか。
──虫のように六本。
──蜘蛛のように八本。
──烏賊のように十本。
──もっともっと。
──もっとたくさんの足が欲しい。
──もしも俺に百足のように足があれば、これほど遅々とした歩みでも、あいつのもとに辿りつけるだろうに。
──涙が出そうになる。
──舌を出して喘ぎ、ふらつく足で一歩一歩。
──ああ、俺は、なんて不恰好な生き物なんだろう。
──人が万物の霊長だなんて、どこの誰が恥ずかしげもなく言ったのか。
──それが本当ならば、どうして俺はこんなにみっともなくて、惨めな思いをしなければならないのか。
──くそっ、くそっ、くそっ。
──一体どうすればいい。
──どうすれば、この鈍重な亀みたいな身体を、あいつのもとに届けてやれるんだろう。
──一刻も早く、一歩でも早く、一呼吸でも早く!
──足が、欲しい。
──たくさんの足が欲しいんだ。
──違う。
──欲しいじゃ駄目だ。
──欲しいじゃ、どうしたって間に合わない。
──持ってこい。
──間に合わせろ。
──騙して、誤魔化して、煽てて、振りをさせればいい。
──そうだ。
──ここに、あるじゃないか。
──百本には到底及ばないし、とても足とは言えない貧弱な様子だけど、もう二本。
──この肩から、阿呆みたいな様子で、ぶらぶらと。
──お前だけ楽しやがってと、二本の足の罵声を聞き流しながら、ぶらぶらと馬鹿みたいに。
──お前も働けよ、おい。
──不公平じゃないか。
──ならば、お前だ。
──お前が、足だ。
──今からお前は、足と呼ばれる存在になるのだ。
──彼女のように。
──姉のように。
──俺という存在を紡いでくれた、全ての祖先と同じように。
──自分の身体に言い聞かせろ。
──贅肉を筋肉と偽って、やせ我慢を信念だと偽って、自己満足を己の使命と偽って。
──それでも走り続けろ。
──命が果てるまで、走り続けろ。
そうして、黒焦げの少年が走り始める。
ありとあらゆるものを燃やす尽くした彼は、正しく黒焦げの死体そのものだった。
それでも。
黒焦げの死体が、息を吹き返す。
ひび割れた唇が、血塗れの雄叫びをあげる。
灰の中から、濡れ濡れとした生命が立ち上がる。
少年は、駆けた。
二本の腕を、前足に。二本の足を、後ろ足に。犬のように舌を出して喘ぎながら。
生まれたての赤子のように。
豹のように駆けた。
いつの間にか、少年の衣服が、内側から張り裂けていた。少年の身体を、柔く豊かな毛皮が覆っていた。鼻が突き出て口は耳元まで裂け、ぞろりと巨大な牙が生え揃っていた。
少年の頭部が、異形へと変じていく。
四本の足は、最初から手ぐすねを引いていたかのように、少年の身体を疾き風とし、少年の魂を迅き雷とする。
それは、既に少年と呼べる生き物ではなかった。
四つ足で疾駆する少年は、既に少年ではなかったのだ。
それは、獣と呼ばれるかたちであった。