懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
グラントが正体不明の生き物に襲われた直後のことだったが、一階のロビーでは、アレクセイとクルツが、上階から引き返してきたマクドネル隊と合流していた。
アレクセイは、外面にこそ表さなかったものの、そのことを大いに喜んだ。これほど人気の無い空間に、隣にいるのが自分より年上の頼り気のない軍人だけというのは、どうにも不安だったのである。その点、普段はいけ好かないあのでかぶつが隣にいてくれればどれほどに心強かっただろうと、虫のいいことを考えていたりもした。
それでも、人数が四人になれば野犬など恐れるに足らない。そもそも、きちんと銃で武装している限り、一対一であっても恐れるはずなどないのだ。彼は、当初の心の均衡を取り戻していた。
アレクセイは、新たに合流した二人、マクドネルとラドクリフに対して言った。
『既に聞いていると思うが、地下二階にて、目標らしき生物の痕跡が発見された。イェーガー隊はそのまま探索を続行しているが、それ以降の報告はない。そこで、我々も彼らの後を追って階下に向かい、全員で目標生物の捜索に当たろうと思う。何か異論はあるだろうか』
このメンバーの中で一番若手のラドクリフが挙手をした。
『誰かがこの場所で、退路を確保したほうがよろしいのではないでしょうか』
それは幾つもの戦場を潜り抜けてきた歴戦の戦士らしい意見ではあったが、この場においては彼以外の三人の苦笑を買っただけだった。
『ラドクリフ君、君の意見は貴重だが、相手は野犬だぞ?果たして犬を相手に、退路の確保は必要かね?』
『あっ…し、失礼しました。どうも、いつもの癖が抜けていなかったようです』
どっと四人分の笑い声がおこった。
どうにも陰気になりがちな任務の最中であったから、こんなことですら精神の活力になる。普段のアレクセイであれば忌々しく思うような部下の妄言も、今に限っては有難いものだった。
『では、我々はこのまま階下へ向かう。そういうことでいいな?』
今度は全員が頷いた。
そのことに満足したアレクセイは、一応の格好をつけて、先頭を切って歩き出そうとした。
正に、その時である。
『助けて!』
短い悲鳴が、ただっ広いロビーに響き渡った。
アレクセイはあまりの驚きに硬直してしまったのだが、残りの三人は流れるような動作で腰に設えたホルスターから銃を抜き取り、声のした方に向けて構えていた。そこらへんは、実際に戦場を経験した軍人と、デスクワークで身を立ててきた情報局の人間との歴然たる差であろう。
『誰だ!』
マクドネルが激しい声で誰何した。
それに応えたのは、先ほどの声と同じ、しかし信じられない程に弱々しい、少女の声だった。
『止めて、撃たないで!』
声のした方にある柱の影から、少女が飛び出した。一瞬引き金を引きかけたマクドネルだったが、その少女が裸であり、武器など隠し持っていないことを確認して、その指から力を抜いた。
しかし、こんなところに、何故少女がいるのか。全員が呆気にとられ、直後に頭を捻ってしまったが、口に出してはこう言った。
『君は誰だ!?何故、こんなところにいる!?』
『分からない!何も分からないの!怖いおじさんに車の中に乗せられて、目が覚めたらこんなところにいたの!お父さんは、お母さんはどこ!?わたしをおうちに帰して!』
少女は半狂乱で泣き叫び、腰が抜けたようにその場所にへたり込んでしまった。
その様子は、極限の恐怖を味わった無力な少女が、やっとのことで見つけた希望を前にして安心し、腰が抜けたように見える。
その様を見て、四人は銃を下ろした。
彼らの中では最年長であり、目の前の少女と同じ年頃の娘を持つクルツが、彼女の元へと駆け寄った。
『私は、共和宇宙軍第三軍第七航空大隊所属のゲルハルト・クルツ中尉だ。君の身に何があったか知らないが、もう大丈夫だ。我々は君の味方だ。安心しなさい』
クルツの現在の肩書きは、あくまで連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官という身分なのだが、少女を安心させるためにも軍人たる身分を明らかにした。
泣きじゃくっていた少女は、目の前にたった壮年の男性を、如何にも弱り切った視線で見上げた。
『私の味方…?』
『ああ、そうだ。君が誰なのかは知らないが、我々は決して君に危害を加えない。安心したまえ』
『本当に…?』
その声はどこまでも疲れ切っていた。きっと余程に酷い目にあったのだろう、その漆黒の瞳にも力がない。普段ならばきっと黒絹のような流れる髪も、埃と脂に塗れ、鳥の巣のように酷い有様だった。
クルツは、少女と同じ年頃の愛娘のことを思い浮かべ、そして、もしも娘がこのような目に遭わされたらと想像し、あまりのおぞましさに奥歯を噛み締めた。しかしその感情を一切顔には表さず、あくまでにこやかに笑いながら、自分の上着を裸体の少女に掛けてやった。
『ああ、本当だとも。今、何か欲しいものはあるかね?お腹が空いているなら、携帯用のブロック食料くらいはあるのだが…』
少女は、首を横に振った。
『ううん、ついさっき食事をしてきたばかりだから。でも、とても寒いの。おじさん、手を握ってもいい?』
『ああ、もちろんだ』
クルツは、少女の小さな手を、自分の大きな手で包み込んでやった。すると少女は、もう片方の手でもクルツの大きな手を握り、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
クルツは、心底痛ましそうに、少女の肩を抱いてやっていた。
その様子をアレクセイは冷ややかに見守った。彼の内心では、猛烈な勢いで損得計算が行われれた。
このような事態は完全に想定外だ。今日中に案件を片づけられなかったのは残念だが、少なくとも野犬狩りにうつつを抜かしている場合ではないようだ。この少女をこんな場所に連れてきたのが誰かは知らないが、未成年者の誘拐事件となれば共和政府の警察機構が動くような重大事件である。これは早々に調査を引き上げ、事態の対処方法を上役と協議すべきであった。
『ラドクリフ君、階下の二人に連絡を。我らはこの少女を保護し、可及的速やかにこの場を離れねばならん』
『は。しかし、犯人の確保は…?』
『それは我らの任務ではない。我々は、この憐れな少女を安全な場所に連れて行き、然るべき機関に引き渡す。それ以上のことに首を突っ込むべきではないだろう』
『はっ、了解しました』
ラドクリフは短く頷き、無線機のスイッチを入れようとした。
その時だ。
少女を慰めるクルツの様子が、どうにもおかしいことに彼は気がついた。
『…おいおい、そんなに強く握らなくても、私はどこにもいかないぞ』
『そう?わたし、とても不安なの。こうでもしていないと、またひとりぼっちになってしまいそうで』
『また、ひとりぼっちに?大丈夫だ、君はもう一人になることなんかないんだ。すぐに、お父さんとお母さんのところに連れて行ってあげるからね』
クルツは平静を装っていたが、しかしその額にはぽつぽつと大粒の汗が浮かんでいた。
脂汗であった。
彼は、想像を絶するような痛みと、密かに戦っていたのだ。
では、その痛みを与えているのは誰なのか?
『ほんとに?』
『あ、ああ、ほ、ほんとうだ…だから、この手を離して…』
『だって、お父さんもお母さんも、私を捨てたわ。それ以来、十年間も、私は暗い地の底で繋がれて、ずっと犯され、嬲られ、切り刻まれていたの。それなのに、もう一人になることはないなんて、貴方は保証できるのかしら?』
『じゅ、じゅうねん…?き、きみはいったい…ぐ、あぁぁぁ!』
壮年のクルツの口から、情け無い悲鳴が漏れだした。
クルツと少女以外の何者にも、一体何が起きているのか分からなかったに違いない。
しかし、当のクルツにしてみれば、事態は余りに明白だ。
少女は、自分の手を握りしめている。
それだけ、だ。別に特別なことではない。
ただ、一点。
その力が、まるで万力で締め付けるような異常なものであるという一点を除けば、の話であるが。
最早クルツの顔からは、一切の余裕が消えていた。クルツは、激痛に濡れた絶叫を溢しながら、恥も外聞もなく叫んだ。
『は、はなせ、はなしてくれぇ!』
『あら、駄目よこれくらいで軍人さんが悲鳴を上げては。私は、これよりももっと痛いことを、ずっとされてきたのよ。十年間、絶え間なく、ね』
『はなせはなせはなせはなせはなせはなせはなせえええええぇぇぇぇぇぇ!』
獣の叫び声のようなクルツの声が響いた、その直後。
ぽきり、と、枯れ木の折れるような音を、残りの三人は聞いたような気がした。
それも、一度や二度ではない。
ぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきり。
火のついた爆竹が次々と破裂するように、その音は収まることがなかった。
『ぐぎゃああああああぁあぁぁぁぁぁぁ!?』
調子の外れたオペラ歌手のようなぞっとする声が、ホールを満たした。
やがて肺腑にため込んだ空気を全て吐き出したクルツが、白目を剥きながら気絶した。あまりの激痛に歪みきったその顔は、涙と鼻水と涎でデコレーションされ、とても正気の人間のそれとは思えないふうであった。
しかし、それも無理はあるまい。
倒れ伏したまま痙攣した彼の右手が、もはや手としての機能を失ってしまったことは明らかだった。指はそれぞれが明後日の方向にひん曲がり、本来であれば折れ曲がるはずのない箇所で直角に折れ曲がっている。所々から飛び出した鋭く尖った白いものは、開放骨折をした指の骨だろう。
『もう、これくらいで壊れちゃったの?人間って、脆いのね』
少女は、自分の手についた自分以外の人間の血を、丁寧に舐め取り、そして顔を顰めた。
『…やっぱり不味いわ。さっきの人もそうだったけど、どうしたって人間って食べられたもんじゃあないわね』
少女は、足下に転がったクルツを、思い切り蹴飛ばした。
軍人としてはやや小柄な、それでも十分に平均的な成人男性以上の体格を誇るクルツの体は、サッカーでいうところのゴールキックをされたボールのように吹っ飛び、壁に当たって、そのまま落ちた。
最早、ぴくりとも動かなかった。
『さて、残りの方々はどうかしら?わたしを一人にして置いていかないでくれるの?』
指先についたクルツの血で紅を引いた少女の唇が、妖艶に歪む。
アレクセイを含めた三人は、生まれて初めて、自分が狩られる側の生き物であると自覚した。
◇
簡単だったわ。
呆れるくらいに、簡単だった。
人間は、もっと強いと思っていたのに。
この世界を支配しているは、人間なのに。
どうしてこんなの弱いんだろう。どうしてこんなに弱いものに、私は痛めつけられ続けたんだろう。
もう、飽きた。きっとこんなものじゃあ、あの人へのお土産にすらならないわ。
『た、助けて…』
一番小さな人が、泣いている。
遠い昔に教わった。自分よりも弱い人を虐めてはいけません。
でも、虐めるという言葉には、その対象が自分より弱いという意味を含んでいるはず。
自分より強いものに立ち向かうとき、虐めるという言葉は不合理だわ。
だから、私は立ち向かったのに。
これじゃあ、単なるいじめっこじゃあないか。
私は、不機嫌になった。
『つ、妻が…幼い娘がいるんだ…頼む、助けて…』
私は、その弱い生き物に、顔を近づけてみた。
その弱い生き物は、まるで鬼か悪魔を見たように、怯えきっていた。
すんすんと、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
ああ、もう、なんだか酸っぱい臭いがする。これはきっと食べ物じゃあない。
食べ物じゃあないなら、もういらない。
私は、興味を失って、自分の巣に帰ろうとした。
そしたら、太腿の辺りを、何か熱くて痛いものが通り抜けていった。
それはもう、懐かしくて、愛おしくて、涙が出るような感触だった。
振り返る。
さっきの小さくて弱い生き物が、その手に武器を持って、やはり小さく震えていた。
ああ。
なんて、可愛らしい。
◇
『そのへんにしといてやってくれねえかい?いけすかねえ野郎だが、それでもそいつは俺の上官なんだ。簡単に死なすわけにはいかねえんだよう』
一階まで駆けてきたヴォルフガングの息は、さすがに少し荒い。
そんな彼を見ながら、少女は言った。
『まぁ、大きなお兄さんね。まるで熊さんか、それとも象さんだわ』
『よく言われる』
ヴォルフガングは苦笑した。それは、全くの事実だった。
『ところで、俺のお願いは聞いて貰えないのかい?』
『うーん、ちょっと難しいかな。だってこの人、折角見逃してあげたのに、後ろから私を撃ったのよ。すっごく痛かったんだから』
片手でアレクセイの顔面を鷲掴みにし、高く吊り上げている少女。その左足に、明らかな銃創が認められた。彼女の言っていることは事実だろう。
ヴォルフガングは、あちゃあというふうに、片手で顔を覆った。
『おいおい、ルドヴィックさんよ。あんた、まさかそんなドジこいたのかい?怒り狂った虎が、折角見逃してくれたっていうのに、わざわざ豆鉄砲撃って挑発してどうするんだよ。こんなのを一撃で仕留めようと思ったら、それこそロケットランチャーか何かを用意しないと無茶ってもんだ』
『ええ、その通りね。よく分かっているじゃない、大きなお兄さん』
『それが俺の呼び名かい?』
『ええ、ご不満かしら?』
『いやいやとんでもない。あんたみたいなべっぴんさんに呼ばれるなら、どんな名前だって大歓迎だよ』
その時、少女の細腕で宙吊りにされたアレクセイが、呻くように言った。
『イェーガー、た、たすけ…ぐ、ああああぁぁぁ!』
『ねえ、小さなひと。私はこのお兄さんと話してるのよ。黙っていなさいな』
少女は、僅かに力を込めたようだった。それだけで、アレクセイの顔面の各所から血が噴き出した。少女の指の先が、肉の中にめり込んだのだ。
その刹那、アレクセイの目がくるりと裏返り、口から泡を吹き始めた。
『あら、この人って蟹さんだったの?』
少女はまじめくさった調子でヴォルフガングに尋ねた。
ヴォルフガングも、まじめくさった調子で答えた。
『さぁ、もしかしたらそうだったのかも知れねえな。全部、あんたが判断すりゃあいい』
『そうね、じゃあこれは蟹さんだわ…あら?』
少女が蟹さんと呼んだ男の股間の部分が、重たく濡れていた。
少女は、漂ってきたアンモニア臭に顔を歪め、汚いものを投げ捨てるようにアレクセイを放り投げた。彼の体は当然のように宙高く跳び、長いすの上に軟着陸した。運の強い男である。このぶんであれば、死んでいるということはあるまい。
ヴォルフガングは、少女が突然に襲いかかってくる様子がないのを確認してから、注意深く辺りを見回した。
少女の足下に、二人の人間が倒れている。二人の体格から判断して、おそらくラドクリフとマクドネルだ。両方ともぴくりとも動かないが、一応息はしているらしい。
『おい、嬢ちゃん。クルツはどうした?』
『クルツ?』
『ほら、少し小柄なおやじのことだよ』
『ああ、あの人。あの人なら、ほら、あそこ』
少女は一度手を打ってから、自分の背後を指さした。
そこには、ボロ切れのようになって動かないクルツがいた。おそらく、既に呼吸をしていないか、していたとしてもひどく浅いものになっているのだろう、胸の部分が全然動いている様子がない。
この中では、明らかに一番重傷だった。
『さっき、思い切り蹴ったのよ。そしたら動かなくなっちゃった。ごめんなさいね、持って帰るのが大変でしょう?』
『なら嬢ちゃんは、俺をここから帰してくれるのかい?』
ヴォルフガングの言葉に、少女はしまったという表情を浮かべた。
『ああ、そうだったわ!うっかりしてた!私、目が覚めてから最初に見つけた人間は、絶対に許さないって決めてたの。だから、あなたを帰すわけにはいかなかったのよ。ごめんなさい!』
少女は、慌てた様子で頭を下げた。
どうやら、真剣に謝っているようだった。
ヴォルフガングは唖然とした。しかし同時に確信もしていた。この、見た目にはまるで天使のような外見を誇る可憐な少女こそが、グラントの腕を一撃で食い千切り、四人もの軍人かそれに類する大人を、容易く半殺しにしてのけたのだ、と。
ヴォルフガングは上着を脱いだ。それはごわごわして着心地が悪いが、極端なまでの対刃処理を施した、特注の軍服だった。それを左前腕にぐるぐると巻き付ける。どれほど頼りになるかは未知数だが、溺れる者が掴む藁よりは頼りなると思いたかった。
『なぁ、嬢ちゃん。あんた、名前は?』
『大きなお兄さん、貴方になら教えてあげてもいいけど、そういうことって男の人から名乗るのがマナーじゃないかしら?』
『ああ、それもそうだ、なっと!』
突然、火線が少女に向けて走った。
ヴォルフガングは、銃を構える、標準を合わせる、引き金を引くの動作を同時にやってのけた。それも、桁外れのスピードと正確性で、だ。
それでも、身を躱した少女の、黒髪のほんの一房を切り飛ばしただけに終わった。
少女は、感嘆の表情で、自分に銃を向けた巨軀の男を眺めた。
『…貴方、凄いのね』
その言葉に対して、ヴォルフガングは苦笑を浮かべた。
これは最早、銃は通用しないと思ったほうがいいかもしれない。少なくともあのタイミングで躱されたのであれば、彼の操る銃では、この少女を傷つけることは不可能だろう。
『躱した奴が言うなよ。これでも、早撃ちで負けたことは無かったんだがなぁ。傷つくじゃねえかよう』
拗ねたように頭を掻く男を見て、少女は本心から微笑った。
『俺の名前は、ヴォルフガング・イェーガー。親しい奴はみんな、ヴォルフって呼ぶ』
『そう。私の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。親しい人は、ウォルフィーナって呼ぶわ』
『親しい人?』
『ええ、研究所のみんな。私の体を、微笑みながら切り刻む人達』
刹那、少女の身体が、ヴォルフガングの視界から掻き消えていた。
次の瞬間、ヴォルフガングの体は斜め下から突き上げられたとんでもない衝撃に、完全に宙に浮いていた。
腹の中心を抉る衝撃と痛みに目を丸くした彼は、しかし自分がウォルフィーナに殴られて宙を浮いているのだと理解した。
正直に言うならば、信じられなかった。彼は恵まれた、もしくは恵まれすぎた体躯を有していたから、腕っ節の強さで人後に落ちたことはない。無論今の今まで誰にも負けなかったとは言わないが、しかしそれは極少数の例外であり、少なくとも正面から戦って力負けしたことなど、ただの一度とてなかったのだ。
なのに、このか細い少女の一撃で、大人三人分にも及ぶ自分の体重が完全に宙に浮かされている。到底信じられることではなかった。
これはいよいよ、自分が戦っているのは化け物だ。彼は認識を新たにした。
ヴォルフガングはそのまま盛大に床に倒れたが、追撃の気配がないことを不思議に思った。さして急ぐでもなく体を起こした彼の目に、殴ったほうの手首をさすりながら、顔を顰める黒髪の少女が映った。
『…ねぇ、ヴォルフ。貴方、重たいわ。それに固いわ。貴方、本当に人間?』
『…一応はそのつもりだが、あんたが違うと思うなら違うのかもしれねえなぁ』
少女は、いっそう眉を顰めた。
『あんたじゃないわ。ウォルフィーナよ』
『ああ、そういやそうだったっけか』
ヴォルフガングは立ち上げり、ズボンの尻の辺りを数回払った。
『折角女の子が名前を教えてあげたのに、失礼な人ね』
『すまねえなぁ。俺、頭が悪いんだよぅ』
そして、構えた。
左足が前、右足が後ろ。
足下に肩幅程度の正方形があることを意識し、その対角に足を置く。
固く握った拳で頭を挟み、顎を引き、背を軽く丸める。
太腿は内に絞り、金的を狙われにくいように。
何より、視線だ。相手を、それだけで射殺す。実際に射殺せなくても、その意志が何より重要なのだ。
『うん、待たせたな。じゃあ、やろうか』
男は、微笑った。
『そうね、待ったわ。じゃあ、始めましょう』
少女は、微笑った。
死闘が、始まった。
◇
楽しいんだろう。
なんて、楽しいんだろう。
楽しい。
呆れるほどに楽しい。
喜んでいるのは誰?
私?いや、私の体。
十年間、鎖に繋がれ続けた私の体が、喜んでいる。
咆吼している、猛り狂っている。
これは、こういうものだと、叫んでいる。
自分はこういうものなのだと、証明している。
足が動く。冷たい鉄の枷のない、自由な足が地面を蹴る。
肺が苦しい。どんなに酸素を取り込んでも、瞬く間に消費してしまう。
頭がちかちかする。あまりに鮮烈な感動で泣き出しそうだ。
これが、戦いだ。これが、生きるということだ。ならば、これが私だ。
ついぞ、太陽の下で大地を駆けることが出来なかった。ついに、兄弟達には出会えなかった。
風の匂いはどんなだろう。草の匂いは?咲きたての花の香りは?
同胞の毛繕いをするための舌は、ぜえぜえと喘ぎ、苦しそうに垂れ下がるだけ。
彼らの体に寄り添う安らぎは、どんなものかと夢想して、誰にも教えて貰えなかった。
でも、やっと教えてもらった。
これが、生きるということだ。今、私の中を駆け巡る鮮烈な感動が、即ち生だ。
戦うということは、憎むことというは、怒るということは、喜ぶということは、許すということは、悲しむということは、愛するということ。
この男との戦いには、生きるという全てがある。
まるで、宝石だ。
きらきらと光る宝石を、丸ごと飲み込んでいるような。
自分という存在が、目の前の男と交わって、そのまま宝石になったような。
肉の塊を、思い切りぶん殴る。拳に伝わる、肉の潰れた感触が嬉しい。
そのお返しと、風を切り裂いて拳が飛んでくる。躱そうとするが、失敗する。頭を強かに殴られた。悔しい。
ならば、お返しの蹴りだ。爪先を、男の鳩尾に、めり込むように。
ごう、と、熱い息が漏れだした。これは効いただろう。もう、倒れるだろう。
それでも、男は倒れない。チアノーゼに顔を青ざめさせながら、それでも私を睨んでいる。
拳で挟んだ頭の奥、その小さな瞳を殺気で燃やしながら、私を睨んでいる。
ああ、その瞳。
その瞳が、愛おしい。なんて美しい。宝石のようだわ。
私は貴方を殺そうとしている。こんなに愛おしいのに、自分でも不思議だけど。
殺したくない。でも、殺すつもりでやらないと愛おしくない。愛おしむためには、殺さなくちゃいけない。
その矛盾を、なおさら愛おしく思う。
これが命だ!
私は、吠えた。鳴き声が、この世界に響き渡る。
それと、もう一つ。
男も、吠えていた。腹の底から響くような、低く低く、深い声で。
ああ、わかった。分かってしまった。
これも、獣だ。
目の前のこれも、私と同じ。この世界に生まれるべきでなかった、獣の一匹だ。
そうか。
彼は、私を救いに来てくれたのか。
この地の底に繋がれた、私を助けに来てくれたのだ。
なんと、有難い。涙が出そうだ。
ありがとう、と殴る。男の鼻血が飛び散る。
ありがとう、と投げ飛ばす。男の頭蓋骨の軋む音が聞こえた。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
数え切れない感謝の合唱。
気がつけば、いつの間にか、男は血みどろだった。
全身を自分の血で染め、赤いシャワーを浴びたような。
きっと、骨の一本や二本はいかれているだろう。それでも男は、私を睨んでくれていた。
私は、泣いた。泣きながら喜んで、泣きながら悲しんだ。
泣きながら殴った。
終わってしまう。このままでは、終わってしまう。
貴方との戦いが、私の生まれた意味が。
止めないで、止めないで。
私とずっと、ここにいましょう。
貴方と戦っているとき、私は私でいられる。
さぁ、貴方。私をここから連れ出して。