懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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幕間:窮奇

 満月が、既に夜空の中央に鎮座していた。

 銃撃音の鳴り止まない山間の深い森、その正面にヴェロニカ陸軍の臨時司令部は設置された。

 辺りは、見渡す限りの荒野である。背の低い灌木と、まばらな草地以外、生命らしきものは見当たらない。その中に巧みに紛れ込むように、遠目では岩の一部にしか見えないようカモフラージュされた行軍用のテントから、不遜なテロリスト7名の捕縛作戦の司令が下されている。

 テーブルをぐるりと囲んで、いくつもの勲章を軍服に縫い付けた壮年の男が座っているのだが、その顔色は一様に厳しかった。任務中であるのだから当然と言えば当然であるが、自分を律する厳しさ以外に、屈辱を噛み苦渋を舐めるような表情が浮かんでいた。

 

『こちらチーム3!本部、応答を願います』

 

 通信機から、攻撃部隊の悲鳴じみた声が聞こえる。

 作戦指揮を司る、大佐階級の男がその声に応じた。

 

「状況を報告しろ」

 

 過酷な訓練に耐え抜いた猛者であるはずの攻撃部隊長は、誇りをかなぐり捨てたように情けない声で、

 

『駄目です!手持ちの武器で標的を仕留めるのは不可能です!』

「どういうことだ!相手は軽装備のテロリストではないのか!」

『違います!一人、恐ろしく巨躯の大男が、最新鋭の機械鎧と大型機関砲で武装し突進してきます!軽火器を中心とした我々の武装では、標的の機械鎧を破壊することが出来ません!重火器の使用許可を願います!』

「最新鋭の機械鎧だと!ばかな、テロリスト風情がどうしてそんなものを!」

 

 何故といっても仕方がない。報告が虚偽でなければ、現実に最新鋭の機械鎧で武装した敵がそこにいるのだ。そして、報告が虚偽である可能性は限りなく低い。

 ベネット大佐は歯噛みした。

 

「……それでも相手はたった一人だろうが!包囲し、一斉攻撃すれば制圧は可能ではないのか!?」

『既に何度も試みましたが、その度に何処からか、原始的な鉄の飛礫や剣による奇襲を受け、悉く失敗しています!加えて、敵にはスナイパーがいます!それも、恐ろしく腕利きの!この闇夜にも関わらず、まるで我々の動きの一部始終が筒抜けのような有様で、被害が拡大しています!』

 

 ベネット大佐は思わず言葉を失った。

 鉄の飛礫、そして剣による奇襲だと?ここは中世の騎士物語の世界なのか?

 スナイパーはともかく、闇夜に潜んだアサシンならば生命探査装置で炙り出して、蜂の巣に変えてやればいいだけではないか。

 

「生命探査装置はどうした!?まさか、ジャミングを受けているのか!?」

『違います!装置は正常に作動しています!しかし、我らと大男以外、人間大の生き物の反応を感知しません!この敵は、センサーでは捕捉出来ないのです!加えて、スナイパーがどこに潜んでいるのかも把握できません!』

 

 鉄の飛礫はともかく、剣を使用して奇襲を仕掛ける敵の場所が、生命探査装置を用いても把握出来ないとは一体どういうことだ。生命探査装置の目を誤魔化すための装備も無いではないが、心音、体温、二酸化炭素、それらの全ての生体反応を完全にシャットアウトする、被服サイズのステルス装置が実用化された話など聞いたことがない。

 

『被害は甚大です!既に、当部隊は作戦遂行能力を喪失しつつあります!このままでは全滅の可能性もあります!』

 

 ベネットは歯ぎしりをした。

 ヴェロニカ陸軍の中でも腕利きの精鋭で構成された対テロ部隊がこの有様とは……。

 事前の情報では、子供を含むほとんど非武装のテロ一味だったはずだ。それが、最新鋭の機械鎧に、生命探査装置の通用しない暗殺者、そして腕利きのスナイパーとは。

 どう考えても、作戦の前提条件に誤りがあったと考えざるを得ない。これは情報部の手落ちではないか。

 

「……仕方ない。一時撤退し、体勢を立て直せ。そこは聖地にほど近い森だ。重火器の使用には教団の許可を求めなければならない」

『……了解しました。一時撤退し、その後指示を仰ぎます』

 

 無念の声を最後に、部隊長は通信を切った。

 まったく、何と戦いにくい場所を戦場に設定してくれたものか。ベネットは舌打ちを零した。市街地であれば、対テロ戦はかえってやりやすい。テロの撲滅という大義名分の前に、一般市民の犠牲など考慮に値しないからだ。現場で動く兵士には別の意見もあるだろうが、大佐は少なくともそう考えていた。

 しかしこの森では、例えば相手が森に大損害を与える兵器を使用している場合などを除き、こちらから重火器の使用をすることが出来ない。自然保護を第一に掲げるヴェロニカ教団の、お膝元と言ってもいい場所なのだから。

 もしくは、もっと大規模の犯罪集団、あるいは他国からの侵略者を相手取っている等の事情があれば神の与えた規律も緩もうというものだが、相手はたった7人、しかも大型エアカーの輸送能力で賄える程度の武装しか有していないのだ。その相手を制圧するために森を痛めるような重火器を持ち出したとあっては、軍の威信が揺らいでしまう。

 何としても憎むべきテロリストを殲滅しなければ。このままでは、自分の経歴に拭えざる失点がついてしまう。

 ベネットは一度深呼吸をして、背後に設置された簡易寝台に寝転がった人影に向けて口を開き、

 

「……司令、お聞きの通りです。どうか、機甲兵、もしくは戦闘ヘリの投入許可を」

 

 人影は、ぴくりとも動かない。ただ、胸の辺りが一定のリズムで上下するだけだ。

 ベネットは、軍属の我が身を初めて不憫に思った。過酷な戦地で死を覚悟したことなど一度や二度ではない。愛しい我が子の顔を、半年も見られなかったこともある。しかし、それらは国家に忠誠を誓った大佐にとって、労苦ではあったとしても後悔を生み出すものではなかった。

 だが、今、部下が戦場を這いずり回っているこの瞬間に、仮にも自分の上役である男が、寝台に寝そべり高鼾を掻いている。どうして自分は、この男の眉間に銃弾を叩き込んでやることが出来ないのか。それは、偏に自分が軍人だからだ。国家への忠誠と、上官への服従を誓約してしまったからだ。

 噂では、この男は、軍の最高指揮官でもある現ヴェロニカ共和国大統領の懐刀であるという。そして、この作戦を成功に導くため、わざわざ派遣されたのだ。現場指揮官である大佐からすれば、厄介なお荷物を押しつけられたとしか思えない。

 

「……司令、聞いておられますか、司令」

「……ん、ああ、聞いていましたよ、勿論。で、どうしたのですか?標的を皆殺しにしましたか?うん、それならご苦労様です、解散していいですよ」

 

 寝台から体を起こした少壮の男が、気持ちよさそうに伸びをした。

 寝ぼけ眼を擦り、鈍重な口調で、

 

「そうそう、死体だけは回収しておいてくださいね。ワタクシも、敬愛する大統領閣下に事態の成り行きと作戦の成功をお伝えしなければなりませんので」

「……申し訳ありませんが、作戦は未だ続行中です。そのために、戦闘ヘリの投入を……」

「まだそんなくだらないことをしているのですか。なんだ、もうあなた方の任務はとっくの昔に完了したと思っていたのに。作戦開始前の、『二個小隊など必要ない、一個分隊で任務を達成してみせる』などという大言壮語はどうしたのですか?」

「……情報部の把握した敵戦力に重大な齟齬がありました。現在の戦況は、甚だ不本意ながら、我が方にとって芳しいものではありません」

「そうですか、正確な報告をありがとう。では水を一杯頂けますか?」

 

 鬼の形相を浮かべたベネットが合図を送ると、まだ年若い新兵が、駆け足で水の入ったコップを持ってきた。寝台に寝転がっていた少壮の男はのろのろと体を起こしてから水を受け取り、美味そうに飲み干した。

 ベネットは、ひくひくと痙攣しそうになるこめかみ動くのを、表情筋の最大筋力をもって耐え凌いだ。

 まったくもって気に食わない。どうして自分達のような歴戦の勇士が、このような青びょうたんの小僧のあごでこき使われなければならないのか。もしも目の前の男が敵ならば、たとえ素手だったとしても、ものの一分もあれば絞め殺してくれようものを。

 そもそも、大佐格の人間がこのように小規模な軍事行動の指揮を執るなど、通常あり得べき話ではない。それもこれも、目の前の男がここに派遣されたからではないのかと、ベネットは疑っていた。

 そんな、無言の殺意とも呼べる気配を受けて、しかしブラウンの髪を綺麗に撫で付けた少壮の男は、噛み殺そうともしない大欠伸で口を全開にし、億劫そうに立ち上がった。

 

「で、その甚だ不本意な戦況とやらを教えて頂けますか?」

 

 あまりの屈辱と憤怒に、ベネットは血が出んばかりに手を握りしめたが、軍人の悲しき性と呼ぶべきか、彼の報告は極めて客観的であり正確なものだった。

 

「──以上の現状を打破するためには、連中の使用している以上の重火器を投入する他ありません。どうか、機甲兵、もしくは戦闘ヘリの投入許可を」

「馬鹿を言わないで下さい。あなたは人の話を聞いていたのですか?あなた達に与えられた任務は、まず第一に連中をこの場に釘付けにしておくこと。そして、可能であればその捕殺です。優先順位を間違えないように」

 

 少壮の男は、一切の遠慮無く最も上座の司令官席に腰掛けた。

 

「機甲兵や戦闘ヘリの投入などしてみなさい。間の抜けたあなた方のことだ、連中に移動手段を提供するに等しい。彼らはそれを手ぐすね引いて待ち侘びているのですよ」

「っ我々が、易々と連中に車両を奪われると言われるのですか!」

「それ以外の聞きようがあるなら教えて頂きたいのですが、まぁそういうことですよ」

 

 行儀悪く机に頬杖を突きながら、

 

「よろしいですか、もう一度言いますよ?我々の目的は、テロリスト達が万が一にも儀式の障害とならないよう、奴らをここに足止めすることです。妙な行動が出来ないよう、嫌がらせ代わりに攻撃してやるのは結構。しかし、どれほど小さい可能性であっても、連中に足をわざわざ与えれば本末転倒も甚だしい。そんなことをするくらいなら、即座に部隊を撤退させなさい」

「──しかし、既に部隊には甚大な被害が出ています!今撤退すれば、兵員の士気に関わる!」

「あなた方の犠牲も士気も知ったことですか。そこまで悔しいなら、焼夷弾でも毒ガスでも、あの森のど真ん中にぶち込めばいい。そうすれば速やかに作戦は完了するのでは?」

「それは教義に──!」

「反するのでしょう?教義を冒して復讐するような覚悟もないなら黙っていなさい」

 

 自分よりも一回り以上年若い上役に熱の無い調子でそう言われたベネットは、正しく憤死せんばかりの有様で顔を赤く染めた。彼の長い軍属経験で、これほどの屈辱を味わったのは初めてだった。

 

「……了解しました。それでは、部隊はあの森から引き上げさせて頂きます。それでよろしいですな」

「ええ、それで結構です。ただし、この森をぐるりと包囲し、奴らが一歩でもナハトガルに近づくことのないよう、備えの方はお願いしますよ」

「しかし、そのためには人員が……」

「ワタクシはもっと大規模な部隊の派遣を要請したはずですが、それを拒んだのはあなたでしょう?自分の言葉には自分で責任を持ちなさい。それとも、今から頭を下げて増員を求めるのも、ワタクシは止めたりはしませんが?」

 

 にこりと笑いながらそんなことを言った。

 ベネットの顔は、熱湯を浴びせられてもここまでは、というくらいに真っ赤に染まっている。このままでは本当に、頭の血管が切れて倒れてしまうかも知れない。

 それでも、少壮の男は素知らぬ顔だった。他人の喜怒哀楽に不感症なのか、自分が相手よりも上位であるという優越感がそうさせるのか、それとも全く別の理由からか。

 とにかく、腰に差したホルスターに手が伸びそうになるのをやっとの思いで自制したベネットだったが、その時、天幕の外から銃撃音が聞こえた。

 それも、かなり近い。友軍がテロリストと交戦中の、森から聞こえたような銃撃音では決してありえない。

 そしてそれとほぼ同時に、外から慌ただしい足音が近づいてきた。天幕の入り口に、血相を変えたヴェロニカ兵が一人、顔を覗かせ、

 

「失礼します!」

「どうした!大事な作戦会議中だ!つまらん用事なら承知せんぞ!」

 

 鼻息荒いベネット大佐の怒声は、完全に八つ当たりである。

 普段なら影を踏むことすら許されない、雲の上の階級の人間に怒鳴られ、不幸な兵士は総身を硬くしたが、強張る声で報告をした。

 

「し、襲撃です!当司令部が、攻撃に晒されています!」

「襲撃だと!?」

 

 今、森で部隊と交戦していたテロリストではありえない。奴らがこの場所をそこまで短時間に探り当てられる道理がないし、第一交戦地点と本部までは直線距離で十数キロメートルは離れているのだ。

 それでは、まさか、テロリスト共の別働隊がいたのか!?

 いや、しかしそれもおかしい。奴らの目的は、今夜行われる回帰祭に捧げられる予定の巫女を取り戻し、儀式の遂行を阻止することではなかったか。ならば、別働隊がいたとしても、このような場所を襲ったりせず、一目散にナハトガルに向かうはずなのではないか。

 ベネットは、予断を挟むのは危険と判断し、まずは報告の分析をしようと、伝令の兵士を問い質した。

 

「敵の規模は!?被害の程度は!?敵の所属は!?」

「敵……の規模は判明しておりません!被害は、既に十数名の死者が出ており、負傷者はそれに倍します!敵の所属は不明ですが……」

「不明ですが、何だ!早く言え!」

 

 兵士は数瞬口ごもり、ええいままよ、とばかりに背を反らせ、精一杯の大声で、

 

「動物です!おそらくは肉食獣と思しき正体不明の巨大な動物から、現在我が部隊は攻撃を受けています!」

 

 その言葉の意味するところを、ベネットは、すぐに理解することは出来なかった。

 動物。動物。つまり、人間ではない。

 人間ではない動物に、完全武装の軍隊が攻撃を受け、既に死者を出している。

 常識的に考えて、そのようなことがあるはずない。そもそも、このあたりに生息している野生動物といえば、小型の猫化の肉食獣と、その獲物となるガゼル属の草食獣くらいではないか。もちろんそれ以外の生き物も山といるが、少なくとも人間に危害を加えうるような生き物はいない。

 ならば、小型の肉食獣か、その獲物になるような草食獣に、完全武装の軍人が襲われ、殺されたというのか。いや、先ほどの報告では、巨大な肉食獣だと言っていたか。

 違う。大型だろうが小型だろうが、どうでもいいことだ。

 

「巫山戯るな貴様!何が襲ってきたのか知らんが、動物ならば撃ち殺せ!まさか、野生動物の殺生を躊躇っている馬鹿な連中が、この部隊にいるわけではあるまいな!」

 

 自然保護の観念の強いヴェロニカ教の一部宗派には、野生動物の殺生を完全に禁じる教えがある。それこそ、荒野で猛獣に襲われたとして、その宗派の教えを守るならば、許されるのは逃げるだけで、反撃するなどとんでもないということになる。

 それはヴェロニカ教でも少数派の教義であり、主流派は、いたずらに命を奪ったり肉や毛皮などのために狩猟するのでない限り、例えば自衛のための殺生ならば許容している。

 自然が尊い。野生動物は保護すべきである。確かにそうだ。だからこそのヴェロニカ教だ。

 しかし己の命が危険に晒されていて、手にした銃の引き金をすら引かないならば、それは狂人である。少なくとも大佐はそう信じていた。

 剥き出しの怒りに晒された兵士は正しく気の毒であったが、正確な報告を怠れば後が恐ろしい。ほとんど泣きそうになりながらも、事態の成り行きを伝えようとする。

 

「既に討伐隊を編成し、正体不明の生き物の追跡を試みましたが、先ほど、討伐隊の構成員全員の死体が、詰め所に投げ込まれました!いずれの死体にも、大型肉食獣のものと思われる噛み傷が残されており、損傷の激しさから個人の判別が難しいほどの惨状です!」

「死体が、投げ込まれただと!?」

 

 それは、明らかに示威行為ではないか。

 人間以外の生き物が、そのような行動をするものか。

 

「何かの間違いだ!肉食獣の仕業に見せかけて、何者かが我が部隊を襲撃しているのだ!早急に確認しろ!」

「しかし、実際にその生き物の姿を見た人間が、実際に何人も……!」

「うるさい!戯けたことをぬかすな!」

 

 ベネットの激発に兵士は再度の反駁を試み事態を正確に伝えようと試みたが、しかしそれは永遠に叶うことはなかった。

 

「あっ」

 

 兵士が、間の抜けた声を上げ、天幕の入り口から姿を消した。

 自分の足でその場を離れたのではない。大佐は、兵士の肩に、巨大な生き物の手が置かれ、兵士を暗がりに引きずり込んだのを確かに見たのだ。

 

「うわあああぁぁぁ!」

 

 劈くような悲鳴、そして、ばきばきごりごりと、固いものを咀嚼し噛み砕く音。

 

「あああぁぁぁ、止めろ、やめてくれぇっ!」

 

 半狂乱の叫びが、天幕の向こう側から聞こえる。

 百戦錬磨を誇るベネット大佐は、しかし一歩も動けなかった。腰に差した拳銃を引き抜くことすら出来なかった。

 悲鳴はやがて小さくなり、すぐに途絶えた。それでもなお、ぴちゃぴちゃと、何かを啜り舐め取る音がしばらく響いた。

 

「何だ、何が起こっている!」

 

 天幕の向こう側からは、如何なる返答もない。

 静寂が、大佐の質問に答えるべき人間は既にこの世の者ではなくなっていることを雄弁に伝えた。

 ベネットは、今まで経験してきた如何なる恐怖とも異なる、最も根源的な恐怖に震えた。つまり、自分の肉で飢えを満たそうとする捕食者と対峙した時に感じる、原始の恐怖。

 その時、強い風が吹き込み、天幕の入り口を揺らした。

 風に乗って運ばれてきたのは、濃密な血臭と臓物臭、それらを上塗りする強烈な獣臭だった。

 そして、捲れた天幕の向こう側、闇夜の奥に不吉に光った、二つの光源。

 自分を獲物として見つめる、無感情な獣の瞳。

 

「う、うわあぁぁ!」

 

 半狂乱になったベネットが、反射的な動作で銃口を獣に向け引き金を絞った。何度も何度も、弾倉が空になるまで。そして、ベネット以外の、このテントに居合わせた全ての軍人も、上官と同じように撃ちまくった。

 引き金の引いた数だけ、天幕に小さな穴が空いた。しかし、闇の向こうにいた獣に命中した気配はない。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 先ほどの怒りに赤く染まった顔はどこへやら、真っ青な表情で細かい呼吸を繰り返しているベネットは、まるで重病人のようにすら見えた。他の人間の顔色も似たり寄ったりだ。

 

「まったく、見苦しいですねぇ……」

 

 呆れたような少壮の男の呟きも、今のベネットには届かないようだった。

 ベネットが予備の弾倉を空になったそれと交換している間にも、ずしり、ずしりと、天幕の周囲を重量感のある足音が歩き回る気配がする。ふぅふぅと、獣臭い息が吐き出される。

 その、絶望的な有様。焦り怯えたベネットは、何万回と繰り返したであろう、弾倉交換の作業の途中で、危うく拳銃を取り落としそうになった。

 そうこうしている間に、獣は天幕をちょうど一周し、再びその入り口に差し掛かろうとしている。

 今度は仕留める。絶対に外してなるものか。ある程度の冷静さを取り戻したベネットが、タイミングを計り、銃口を向ける。

 あと三歩、あと二歩で、獣が天幕の入り口に姿を現すだろう。ベネットはその瞬間を心待ちにした。

 しかし、あと一歩というところで、獣は歩みを止めた。いや、それだけではない。息遣いが聞こえない。獣臭がしない。その瞬間、獣の気配そのものが、外から消え失せたのだ。

 一体何があったのか。依然として緊張と共に銃を構えたベネットだったが、次の瞬間、全く予期せぬ出来事が起きた。

 天幕の入り口をはらりと潜って、姿を見せたのは猛獣などではない。

 

「夜分遅くすまねぇなぁ、ちょいと邪魔するぜぇ」

 

 何とも気安い様子で姿を現したのは、裸体の少女であった。

 危うく引き金を引きかけたベネットだったが、標的とそれ以外を撃ち分ける訓練が功を奏したのか、寸でのところで指は引き金を引ききらずに止まった。もしもこれが、例えば軍服の男であれば──仮に友軍だったとしても──おそらく銃弾は発射されていただろう。戦場に裸の少女という異常性が、彼の指を制止させたのだ。

 

「な、何者だ、貴様!」

 

 ベネットの大喝に、しかし少女は微笑み、

 

「何者も糞もないさ。見ての通り、見目麗しい乙女が、寂しい夜を過ごす軍人さんを慰労に来たんだよ。ほら、物騒なもんはしまいなって」

 

 武器の無いことをアピールするかのように、両手を挙げ足を広げ、くるりと一回、回って見せた。

 確かに、少女は一切の武器を身につけていない。裸体の少女に、武器を隠す手段などありはしない。

 だが、武器がないからといって警戒を緩めていいはずがない。このような時間、このような場所、そして何よりこのような状況で、年端もいかない裸体の少女が姿を見せること自体、どう考えても尋常の事態ではない。その程度のことは、大佐を始めとした全ての人間だって承知している。

 しかし、厳格で軍規に厳しいはずのベネットは、ごくりと喉を鳴らし、少女の裸体をまじまじと凝視してしまっていた。まだ年は幼いが、豊満な体つきといい、浅黒く艶やかな肌といい、硬質な輝きの金髪といい、男の欲望を煽るに十分な牝の要素を兼ね備えていたからだ。

 それは、非現実的な美であり、媚であった。

 

「と、とにかくそこを離れてこっちに来い!今、この天幕の周囲には、得体の知れない猛獣がうろついている!君が何者かは後で尋問するが、今はそれどころではないからな!」

「おっと、そいつは参ったね。じゃあ、あんたに守ってもらうとしようかね」

 

 少女は、猫を思わせるしなやかな足取りで天幕に立ち入り、そのままベネットに近寄り、しな垂れかかった。まるで、夜に春を売る女共が、街行く男に己を売り込む時のように。

 本来であればそのような行動を許すはずのないベネットだったが、少女の醸し出す雰囲気に完全に飲まれ、まるで蛇に睨まれた蛙のように総身を固くし、少女を撥ね付けることをしなかった。

 ベネットの分厚い胸板に体重を預けた少女は、男に媚びる甘い声で言った。

 

「恐い恐い猛獣から、あんたがあたしを守ってくれるのかい?」

 

 豊かな乳房を押しつけられ、切ない瞳で見上げられると、ぬらぬらとした欲望が背筋を這い上がってくる。この女を自分のものに出来るなら、何を捧げても良いような気がしてくる。

 既に妻帯し、子供もいる自分が、どうしてこのような感情を抱いているのか。相手は自分の子供と同じほどの年頃の少女で、今はそのような状況ではないというのに。ベネットはあまりの非現実感に、これは夢ではないかと疑い始めていた。全てが夢で、自分は自宅のベッドで熟睡しているのだ。ならば、この少女は淫魔の類で、夢の世界に侵入してきたとでもいうのか……。

 少女から漂う、麝香のような不可思議な香りが、脳髄の奥の奥を痺れさせていた。

 

「あ、ああ、分かった、私が君を守ろう……」

「じゃあ、その恐い恐い猛獣を、やっつけてくれるの?」

「そ、そうだ、倒すとも、一撃で仕留めてやる……」

「ふぅん、じゃあ、あんたはあたしの敵だってことだね」

 

 先ほどの、男に媚びるような調子ではない。氷で出来た刃物のように、冷ややかな声。

 ベネットは、本当に夢から覚めたような視線で少女を見た。しかし、彼に許された行動はそこまえだ。少女の、歪に変形し長く尖った爪が、真横から男の顔に向けて振るわれ、彼は最後の瞬間を迎えた。

 爪は、金属よりも鋭利にベネットの頭部に突き刺さり、顔面をそのまま斬り飛ばした。顔面の前半分、こめかみのあたりから先を失った男の体は、横倒しに倒れ、数度痙攣して生命活動を停止させた。

 己が死体に変えた人間を、少女は一瞥し、そして肩を一度竦めた。我ながらつまらないことをした、とでも言わんばかりに。

 この異常事態に、周囲の軍人は、一斉に銃口を少女に向けた。しかし、既に少女はそこにいない。唖然と口を開けた軍人が正気を取り戻す前に、少女は全ての仕事を終えていた。つまり、少女に銃口を向けた全ての人間が、そのまま死体となったということだ。

 ひっそりと静まりかえった天幕の中で、少女は満足げに伸びをした。

 

「さて、すまねぇな、待たせただろう?」

 

 少女の視線が、この場に残された最後の人間に向けられる。

 その人間は、目の前の変事に少しも動じず、柔和な表情のまま髪を掻き上げた。

 

「いいえ、待っていませんとも。このままお帰り頂いても、ワタクシとしては一向に構わないのですが?」

「つれないことを言うなよ、こちとら、あんたに会うために、遠いところをわざわざ来てやったんだ。恋女を無碍に扱う奴には罰が当たるぜ?」

 

 少女は、血の滴る爪をぺろりと舐めた。爪は、依然として人間の爪ではありえない形状だ。古木の幹のように節くれ立ち肥大化した指から、まるで骨がそのまま突き出たような太く鈍い爪が伸びている。

 その一事だけで、少女が尋常の存在でないことが分かる。それでも、少壮の男は相も変わらず平然としたまま、少女を愛おしげに眺めている。

 

「驚かないんだな、あんた」

「何に驚けと?」

「あたしが生きていることに、さ。心臓を銃でぶち抜かれ、土手っ腹に風穴を開けられて、とどめに崖の下に蹴り落としておいてさ。普通の人間なら、もっと慌てふためくもんさ。亡霊が地獄から蘇った、恨み晴らさでおくべきか、ってね」

「何を馬鹿なことを。亡霊如きがこの世の人間に何をすることが出来ますか。精々、じめじめした恨み言を漏らすことくらいでしょうに。そんなもの、耳を閉じてしまえばそれまでですよ」

 

 少女は、嬉しげに首肯した。

 

「あんたの言うことは正しいさ。じゃ、どうして驚かない?あたしが普通の人間だったなら、間違いなくくたばってたことくらい分かってるだろう?」

「言葉にはしにくいのですが、そう、何となく、ですかねぇ。奇しくも、あなたの弟さんに指摘されました。お前は、姉が恐かったのだろう。だから崖の下に蹴り落としたのだ、と。中々目の良い弟さんをお持ちだ。そう、私は、あなたを殺すことが出来そうになかった。だから、出来るだけ遠くに行ってもらおうと思った。それだけなのですよ」

「狙った場所が不味かったね。仕留めるつもりなら、ここを狙うべきだった」

 

 少女は、自分の眉間を指し示した。

 

「ここをぶち抜かれりゃ、いくらあたし達だって一発でお陀仏さ。それに、普段であれば心臓だって土手っ腹だって、立派な急所だ。でも、あの瞬間だけはいけない」

「あの瞬間?」

「そう。その時、あたしらの体内は、どろどろのシチューみたいなもんなんだろうな。内蔵も、骨も、肉も血も脂肪も、全部が一緒くたのね。散弾銃や手榴弾ならともかく、小さな小さな鉛玉くらいじゃ、鍋底を掻き混ぜることも出来やしないのさ」

「失礼ですが、たしか、メイフゥさんでしたね、あなたの仰ることが上手く飲み込めないのですが……」

「分かるよ、すぐに、嫌でも、嫌と言うほどに」

 

 メイフゥと呼ばれた少女は、口の端を存分に持ち上げ、にんまりと笑った。

 

「あんたみたいに肝の据わった人間は初めてだ。こいつは、きっとあの晩、あたしが可愛がってやった時の情けない姿も、擬態だね?」

 

 少壮の男は、片頬だけを吊り上げて皮肉な笑みを浮かべ、

 

「買いかぶりですよ。あの時のあなたは、本当に恐ろしかったのですから」

「じゃあ、もっと怖がらせてやるさ。あたしのもう一つの姿形、確と見届けることだな無形種の雄よ」

 

 次の瞬間、少女の身体は変態を始めた。

 腰まで届く髪がざわざわと蠢き、少女の褐色の肌に絡みついて黒と黄の縞模様を作っていく。皮膚の下の筋肉が盛り上がり、骨格が変形し巨大化していく。

 美しい少女が、じわじわと異形へと変じていく。

 瞳が縦に裂け、口が耳元まで裂け、そして顎まで届くほどに長く太い牙が生え揃う。

 膨張した少女の身体が、周囲に散乱したテーブルや椅子を押し潰していく。

 全身を、艶やかな縞模様の毛皮が覆い尽くす。巨木の幹より太い四肢と、その先に生えた恐ろしい爪が、確と地面を踏みしめる。

 少女の身体が、いつの間にか、行軍用テントの内側いっぱいに、みっしりと広がっていく。

 そして吐き出される、獣臭い吐息。大気を振るわすような威圧感。

 そこにいたのは、獣だった。それも、図鑑に載っている、あらゆる生き物とも合致しない、未知の生き物。それを敢えて既存の知識で表すならば、恐ろしく巨大な虎だ。

 目の前で、少女が、巨虎へと変じた。

 その巨虎が、嬉しげに呟いた。

 

『ほうらな、こういうことだよ。人の身体が、こうなっちまうんだ。あたしらは、こうなのさ。お前らノンフォーマーの常識は、一切通じない。化け物の姿だ』

 

 常識の世界ではあり得べからざる、悪夢のような情景に、少壮の男は思わず立ち上がった。

 しかし、その口から漏れだしたのは恐怖の叫びではない。

 

「……素晴らしい。なんと、なんとあなたは……美しいのだろう……」

 

 忘我の表情のまま、よろよろとした足取りで巨虎に近づいていく。

 巨虎は大きく口を開け、恐ろしい唸り声を上げた。人間を一呑みに出来そうな口には、象牙と見紛うばかりに巨大な牙が生え揃っている。獅子であっても一噛みで仕留めるに違いない。

 だが、男はちっとも恐れない。ちっとも恐れず、一歩一歩、巨虎へと歩み寄る。

 

『……けったいな奴だな、お前は。このあたしの姿を見て、美しいというのか?恐れ戦き、命乞いをしないのか?』

 

 獣の声帯が、人の声を紡ぎ出す。その耐え難い違和感とおぞましさに、しかし男は眉一つ動かさなかった。

 ゆっくりとした足取りで巨虎の足下に歩み寄り、深い毛皮に全身を埋めるように、力一杯に抱き締めた。

 

「これほど美しい生き物に、どうして命乞いなどをしなければならないのでしょうか。ああ、あなたは、今まで私が見てきた全ての美しいものよりも、遙かに美しい。それに比べれば、人という生き物の、なんと醜く愚かしいこと……」

『……お前は、何者だ。本当に、人間なのか?』

「人間ですとも。ええ、この世でただ一人、最も混じりっけのない、人間です……」

 

 巨虎は、鼻を蠢かして男の体臭を嗅いだ。そこに、人間以外の匂いは混じっていない。

 そして巨虎はその場に蹲り、我が子にそうするように、前脚を使って少壮の男を抱きかかえた。

 

『ありがとよ。あたしを怖がらないでくれて、あたしを綺麗だと言ってくれて』

 

 男は何も答えない。ただうっとりと、巨虎の腕の中で目を閉じている。

 

『でもね、分かるだろう?けじめはつけなくちゃいけないのさ。あんたとあたしは、敵同士だ。そしてあたしは、復讐のためにここまで来た。なら、血を見ないで終われる話じゃない。振り上げられた拳は、誰かに振り下ろされなくちゃいけないんだ』

「ええ、とても残念ですが、理解しています。ですから、最後に二つ、お願いを」

『なんだい、言ってご覧よ』

 

 男は、煌めいた瞳で巨虎を見上げ、少し恥ずかしそうに、

 

「どうか、私の名前を忘れないで欲しい。私の名前は──」

『アイザック・テルミンだ。役職なんてどうだっていい。あんたは、確かそういう名前だった。そうだろう?』

「覚えてくださっていたのですか?」

『忘れないさ』

 

 男は、瞳を薄く塗らして頷いた。

 

『あと、もう一つは?』

「どうか、私を食べて下さい。殺すだけなどという、残酷なことをしないでください。私の血肉を、あなたの一部にして、どうかあなたと共に生きさせてください」

『……ああ、分かったよ。簡単な話だ。食い散らかすなんて残酷なことはしない。あんたの髪の毛の一本、骨の一欠片まで、あたしの血肉になって生きるんだ』

 

 そして、巨虎は大きく口を開けた。

 少壮の男は目を閉じた。

 巨虎が、男の頭部を一息で噛み砕き、溢れ出る血を啜り、肉を咀嚼し飲み込んだ。

 圧倒的に巨大な虎に比べれば細く小さな男の身体は、それほど時を置かずに虎の口の中に消え失せた。

 食事ではなく、死者を慰めるための儀式を終えた巨虎は、口の周りについた血を舐め取り、

 

『さて、残りもんの掃除だな』

 

 そう呟いて、無人の天幕を後にした。

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