懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
みちみちと、ぶちぶちと、寒気のする音を、ウォルは己の右膝から聞いた。
それは、膝の靱帯が引き延ばされ、ついに耐えきれず、一本一本千切れていく音だ。鳥の手羽先を逆方向に捻ってへし折った時に聞こえるあの音だ。
剣を支えにしていても堪えることが出来ず、ウォルは膝を折った。右足を見てみると、爪先が真後ろを向いていた。膝が歪な形になり、ぐにゃりと崩れていた。
あまりの痛みに、笑い出しそうになった。灼けた火箸を頭に突っ込まれて掻き回されているのだと思った。
──もう、立てないな。
左足は大腿骨が砕け、太股の辺りが真っ青に腫れ上がっている。右足は親指を折られ、今、膝関節を壊された。
いくら痛みを我慢するといっても限界がある。この足は、もう二本とも使い物にならない。
足だけではない。全身が、ずたぼろだ。左腕は、骨が折れて明後日の方向にねじ曲がり、そのうえ狼に噛み砕かれて、既に原型を止めていない。右腕はまだ無事だが、狼の頑丈な毛皮と骨格を断ち割った剣は、血と脂と刃毀れに塗れている。
呼吸をする度に気が遠くなるような激痛に襲われる。胸が膨らむ都度、折れた肋骨が悲鳴を上げているのだ。
おそらくは失血と痛みによるものだろう、視界が霞み、意識が絶えずぼやけている。心臓の拍動が、遅く、弱い。
重傷だ。おそらく、いつ死んでもおかしくないほどの。
ウォルは今の自分をそう分析した。それは、今まで幾度となく生と死の狭間に身を置いたことのある、歴戦の戦士の冷徹な視線だ。幻想や願望の立ち入る余地などない。
そして後ろを振り返れば、地響きを立てながらハイハイで近づいてくる、巨大な赤子がいる。ただしその体は肉の腐った緑色で、耐え難い腐臭を辺りに撒き散らし続けながら。動く度に痤瘡を潰し膿を吹き出し、白い芯をにゅるにゅる噴出させるという、悪夢のような様相で。
『え゛え゛……お゛お゛……あ゛ぁ……』
この、既に生き物とは呼べない怪物が、ほんの二週間前には人間の姿だったなど、いったい誰が信じるだろうか。
人であった頃の名残を唯一残しているのが、怪物の頭部にぽつんとついた目玉である。それは、ウォルが地下牢に監禁されていたときに激しい暴行を加えた赤毛の男、ルパート・レイノルズと同じ緑色だ。
ウォルは知っている。その男が、今までどれほどの罪を犯してきたのかを。年端もいかない少女を犯し、嬲り、責め殺してきたのだ。そして罪の意識を覚えることもなく、のうのうと生きてきた。
だから、これは因果応報だ。同情すべき点などどこにもありはしない。
しかし、生き物として最低限の尊厳すら奪われ、生きながら腐乱していくその苦しさは如何ばかりか。
「仕方ない。どうせこの足だ、いつまでも逃げられるものでもあるまい。それにしても、はてさて、どこまで付き合ってやれるものか……」
ウォルは苦笑いを浮かべ、怪物の方に向き直り、その場に座した。
観客には、ついには憎らしい生け贄も覚悟を決めたかと思う者もいた。
それは、怪物も同じ事だったのだろう、歩みを早め、待ちきれぬ様子で自分の花嫁を捕まえようと、無数に生えた腕を伸ばす。
死人の腕だ。皮膚の表面が緑色に腐り、所々がべろりと剥がれ落ちて膿が滴っている。そんなものが自分に向かって差しのばされている光景は、常人の精神に耐えられるものではないだろう。
だが、ウォルは、平然とした様子でそれを見守り、自分の間合いに入るや否や、唯一無傷の右腕を一振り、雑草を刈り取るように全ての腕を切り払った。
『あ゛い゛い゛い゛ぃぃ!』
聞くに堪えない醜い音で、怪物は絶叫した。あれほどの巨体で体中を腐らせながらでも、腕の数本を斬り飛ばされるのはやはり痛いらしい。
怪物の、緑色に腐った顔面が、怒りに紅潮し、緑と赤のまだらに染まる。憤怒の形相でウォルに近づき、無数に生えた腕ではない、丸太のような本来の腕を思い切り振るった。
ウォルはそれを剣の平を構えて受けようとしたが、体重が違いすぎる、少女の華奢な体は木の葉のように宙を舞い、10メートルも飛ばされて、闘技場の壁面に激突し、力無く落下した。
激突の衝撃で体は痺れ、四肢は麻痺している。視界は真っ白に染まり、自分が目を開けているのか意識を失っているのか分からない。耳は、きーんと、甲高い耳鳴りだけを脳に届ける役立たずだ。
折れた肋骨が内臓を傷つけたのか、ウォルは咳き込み、血を吐いた。少量ではあったが、それは紛れもない絶望の色をしていた。
ここらが限界だろうか。ウォルはそう思った。
それでも、自分から諦めるわけにはいかない。ウォルは、歯を食いしばり、滲む視界を叱咤し、震える体に鞭打って起き上がった。
まだだ。まだ、俺はやれる。いや、この体は生きようとしている。少なくとも、この体がリィと同じ生き物のそれならば、まだまだ諦めてなどいないはずだ。つまり、諦めようとしているのは、この体に宿った魂の方で、それは要するに俺だということだ。
許せるのか。こんなに小さな女の子が、まだ諦めていないというのに、どうして大の男が諦められるものか。
だから、起き上がれ。一分先の事は考えなくても良い。一秒先の事も考えるな。今のことを、今だけを生きてやれ。
壮絶な顔つきで、傷だらけの少女が起き上がる。果たして見えているのかも分からない瞳を、自分に向けて這い寄る怪物に向ける。
「さぁこい!俺はまだ死んでいないぞ!」
頬を緩ませながら、大喝した。
怪物が、一瞬だけ怯んだように身を竦ませる。だが、目の前の獲物は、どう見ても瀕死だ。血と砂埃に塗れ、薄汚れた体。息は荒く、しかし細い。剣は折れ曲がり、この傷付いた体では、もはや木の枝を斬ることも出来ないだろう。
そうだ。あれは、ただの獲物だ。もう、この自分に刃向かうことなど出来はしない。
怪物の表情が、淫らに緩む。口の端が持ち上がり、そこから涎が垂れ落ちる。目の前の少女が、もはや抵抗も出来ない雌であると理解したからだ。
ウォルも、それは十分に見て取った。今から、自分がどれほどおぞましい行為を味あわされるのかも理解した。このまま辱められるならばいっそのこと、と、そんな思考が頭をよぎった。
でも、駄目だ。俺はまだ戦える。まだまだ諦めてなど、やるものか。
不屈の闘志を奮い立たせて、少女は立ち上がった。もはや剣として役に立たない剣を杖として、背中を壁に預け、ナメクジが這うように、ゆっくりと、ゆっくりと。
それだけの動作に、驚くほどの体力を使ってしまった。息が荒い。呼吸をすれば胸が痛む。だけど呼吸をしなければ死んでしまう。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」
無数の腕が迫り来る。その様子は、小魚を捕らえようと群がるイソギンチャクの触手に似ている。
ウォルは腕のいくつかを剣で薙ぎ払ったが、折れ曲がった剣は棍棒以上の働きを為し得ない。腕は僅かに傷付くだけで、先ほどのように斬り飛ばされることなどはなかった。
ついに、腕の一本が少女の体を捕らえた。傷付きボロ雑巾のようになった左腕を力任せに引っ張られ、ウォルの顔が苦痛に歪んだ。
体のバランスが崩れ、ウォルは前のめりに転んだ。その足を、腕を、胴体を、全ての体の部位を、化け物の腕が掴み、少女の体を、まるで見世物かそれとも戦利品のように高々と持ち上げた。
「あ、ぐぅ……!」
全身を締め上げる万力のような力に、ウォルは苦痛の呻きを発した。その視界の中心に、勃起し先端から汚汁を滴らせる、怪物の陰部があった。
今から自分は、口にするのも憚られるような辱めを受けることになるのだろう。自分から死を選ぶつもりは毛頭無い。だが、この幼い体が、どれだけの責め苦に耐えられるのか。
──いよいよか。すまん、リィ、ウォルフィーナ、そして……
半ば諦めの気持ちで見上げた、霞む視界に、見つけた。
夜空に滲む、巨大な満月。
その真円を背景にこちらを見下ろす、巨大な獣の影と、紫色の瞳を。
◇
闘技場が、揺れた。
直後、ごぅん、と、凄まじい衝突音が響き、闘技場の外壁に何か巨大なものが高速で衝突したのだと、ケリーとジャスミンは理解した。
しかし、いったい何が。
そう思った二人が、ふと見上げたそこに、それはいた。
闘技場の最上段。月の光をはね返す、銀色の毛皮。恐るべき巨躯。耐え難いほどの殺気が込められた、紫色の瞳。
狼だった。形が即ち生き物の名前ならば、それは正しく狼だ。
だが、狼とその生き物を呼ぶには、あまりに大きすぎる。そして美しすぎる。見た者の魂を抜き取るほどに、その生き物は見事な美を誇っている。
一瞬、あらゆる感情を忘れて、ケリーもジャスミンも、その生き物に魅入っていた。
何という生き物なのだ、あれは。
そう、二人が思った時、その獣が、咆えた。
◇
それは、人の言語に表すことの出来ない、凄まじい吼え声だった。虎よりも、獅子よりも、なお大きく、威圧的で、何よりも怒りに充ち満ちた。
そうだ、その獣は、怒っていたのだ。最初にその光景を見たときから、耐え難い怒りに全身の毛という毛を逆立てて、牙を剥き、目を見開きながら怒り狂っていた。
怒っていたのだ。自分の愛する女を自分の手の中から奪われて。痛めつけられて。晒し者にされて。
だから、獣は駆けた。観客席を、恐るべき速度で駆け下りた。途中、何人もの人間を踏みつぶしたが、ほんの少しも意に介することはなく、一気に駆け下りた。
そして勢いそのまま、ウォルを捕まえた怪物に、思い切り体当たりを浴びせた。
獣の、自らの体重をそのまま砲弾に変えたような体当たりで、怪物は、奇妙な叫びを上げながら吹き飛び、ごろごろと地面を転がった。
怪物に掴まれたままだったウォルも、怪物と一緒に吹っ飛んだ。途中で怪物が手を離したため、宙に放り投げられた小さな体は、空しく地面に激突して果てるのかと思われた。
もはやここまでか。
固く目を瞑り衝撃に備えたウォルだったが、直後、背中に感じたのは地面の固い感触ではなく、もっと柔らかく、暖かい何かのさわり心地だった。
目を、ゆっくりと開ける。自分が、何か、美しいものの背に受け止められたのだと知る。
それは、巨狼だった。先ほどの、群れの狼などとは比較のしようもないほどに大きな狼。銀色の毛皮に覆われた、馬を見下ろさんばかりの巨体。
転げ落ちそうになったウォルの服の襟首を、巨狼は優しく噛み止めた。その様子は、まるで子猫を運ぶ母猫そのものだ。
そして、地面の上に優しく横たえた。
ウォルは、その時、巨狼の顔を初めて見上げた。
耳まで裂けた口から、ぞろりと鋭い牙が覗く。視線は鋭く、それだけで獲物の命を刈り取るような有様。
だが、それが、どうしてかウォルには、見知った誰かの顔に見えた。
獰猛なはずの顔が、自分を一噛みで殺すことの出来る巨大な牙が、どうしてか恐ろしくない。この生き物は、自分の味方だと分かる。
それは何故か、ウォルにはすぐに理解出来た。自分を見下ろす、巨狼の瞳。どこまでも澄んだ、竜胆色の瞳。泣きながら自分の名を呼んでいた、少年の瞳と同じ色。
ウォルは、唯一無傷の右手で、巨狼の頬を撫でた。巨狼が、気持ちよさそうに、ウォルの手のひらに顔をすり寄らせた。
「そうか、インユェ、お前なのだな」
くぅん、と、巨狼は子犬のように鼻を鳴らした。
そして、ウォルの顔を汚す血と泥を舌で舐め取った。
「その姿が、本当のお前か。お前は、本当のお前になったのか。よかった、インユェ……」
ウォルが、巨狼の頭を掻き抱いた。
巨狼は、何度もウォルの顔を舐めた。ウォルの顔を汚す泥が無くなるまで、何度も何度も。
「わぷ、やめろ、くすぐったい!」
お返しとばかりに巨狼の頭をごしごしと撫でる。巨狼は少しむずがったが、しかしウォルにされるがままであった。
触り心地の良い銀毛がウォルの手で揺れ動く度、銀粉が舞い散るように月光が揺れる。
銀色の月と名付けられた少年は、この姿であることが宿命づけられていたのだろう。そう確信できるほど、少年だった巨狼は、月明かりの元に美しかった。
そして、それはただ美しいだけの存在ではない。百戦錬磨のウォルが見ても震えが起きるほど、危険な生き物でもあった。
『お゛お゛お゛あ゛あ゛ぁぁぁぁっ!』
いつの間にか体を起こしていた怪物が、巨狼に向けて怨嗟に満ちた叫びを上げる。
同じく人以外の存在に成り果てた身なのに、片やこれほど醜く、片やこれほど美しく変貌した彼我を比べて、運命の残酷さを呪ったのかも知れない。それとも、もっと単純に、自分の花嫁を奪われた怒りだろうか。
そして怪物の怒りに呼応して、巨狼も怒りに満ちた唸り声を発し、身を低く構えた。彼とて、怪物の怒りに寸分劣らぬほどに怒っていた。見よ、自分の恋する乙女の無惨な体を。全身を朱に染め、折れた骨、今死なないのが不思議なほどの傷跡。満場の観客の中、このような辱めを受けた無念、誰が晴らさでおくべきか。
怪物が、意味を失った叫び声を発しながら突進してくる。
望むところだ。そっ首今すぐ噛み裂いてやる。巨狼の大樹よりも太い足は、大地を叩き、怪物に飛びかかろうとしていた。
「横に飛べインユェ!」
それを止めたのは、少女の声であった。そして巨狼は、少女の意思が乗り移ったように即座に横に跳ねた。
直後、巨狼がいた空間が、奇妙に捻じ曲がり、撓んだのをウォルは見た。まるでそこだけが、世界の法則を無視したかのように、あちら側の風景がゆがんでいる。立ちくらみを起こしそうな視界は、そのまま能力者の歪んだ精神をあらわしているかのようだった。
ウォルは、観客席の上方から自分達を見下ろす、死んだ魚の目をした老人を見上げた。遠くに見える老人の、わずかに強張った顔を見て、含み笑いをもらす。
「お気の毒様だな。獲物をいたぶるから自分の手の内を曝け出すことになるのだ。一息で仕留めていれば、このようなことにはならなかったものを」
それが、ウォルという戦士が培った経験の為せる業なのか、それともウォルフィーナという少女の身体が可能にした現象なのか、もしくは月が覚醒したことにより太陽である少女もまた目覚めたが故なのか、それは彼女自身分からない。
ただ、老人の発する異能が、まるで一筋の光のように巨狼を襲う様を、彼女は確かに見たのだ。
「それがどのようなものであれ、見えるものならば恐るるに足らん。これでようやく勝ち負けの戦をはじめることができるらしいな」
全身を朱に染めた少女が、獰猛な笑みを浮かべた。
それは、まるで万軍を従える戦王のように。ただ一人の少女が、不敵に微笑んだ。
いや、違う。彼女は一人ではない。今までの彼女が一人でなかったように、今の彼女も一人ではない。
少女の傍らには、万の軍にも決して退かない、不屈の獣が控えているのだ。
「背を借りるぞ!」
ウォルは、巨狼の背にひらりと跨がった。巨狼を騎馬として戦おうというのだろう。
無謀な試みである。両足とも既に使い物にならない上、相手は馬ならぬ狼だ。当然、轡も鐙も手綱もない。普通ならば跨がった瞬間に蹴落とされるのがオチのはず。
しかしこの場合、乗り手の技術が常識外れに卓越し、足の不虞を補って余りあったこと。そして何より、乗られる側の狼が背に跨がる少女を自ら受け入れていたことが、不可能を可能とした。この二点のみにおいて、一人の少女と一匹の巨狼は、人馬一体の境地に至ることが可能であった。
「焦るなよ、インユェ」
広い背中に身体を密着させて、ウォルは獣の耳に囁いた。耳が、不機嫌そうにひくりと動く。巨狼は、あらぶる怒りを押さえ込みながら、わずかに頷いた。
ウォルは微笑み、無事な右手で狼の鬣を梳いた。嘘のように滑らかな毛並みは、絹を撫でるよりも心地よい感触を少女の指先に残した。
「焦らなければ機は必ず訪れる。俺達は、決して二人だけで戦っているのではない。そうだろう」
ウォルは確信していた。いや、それを知っていたと表現したほうがより漸近だろうか。
近づいてきている。凄い勢いで、ここに向かっているのだ。
自分の同盟者が。またしても、このような危地に陥ってしまった自分を助けるために。
涙が出そうになる。あまりの不甲斐なさに。何よりも、ありがたさに。
だから死ぬわけにはいかない。全てに片が付いた後、あいつの口から、さんざ恨み言を聞かされるのは俺だけの権利なのだ。
ウォルが前を向いた。そこには、腐敗した唇から汚汁を滴らせ、大声で何かを喚き散らしながらこちらへ突進してくる、醜怪な化け物がいる。
巨狼が、殺気とともに牙を剥いた。醜くだぶついた怪物の首を、今度こそ一噛みで引き裂いてやろうとばかりに。
「やめておけ、あれは屍毒の塊だ。いくらお前でも、食えば牙が溶け胃の腑が腐る。そうでなかったとしても、煮ても焼いても到底美味そうには見えない」
ピンと立った耳が、くるりと動いた。それはまるで、狼が苦笑し頷いたような有様だったから、ウォルもくすりと笑みを溢した。
「お前には腹立たしいかも知れないが、今は避けることだけに専念してくれ。特に、目の前の怪物よりもたちの悪い輩が、どうやら他にもいるらしいからな。俺の指示に過たず従うんだ。いいな」
騎馬ならぬ騎狼が、短く一咆えした。
直後、観客席の上方から、鈍色に輝く光の矢が自分達を貫かんと降り落ちる様を、ウォルははっきりと見たのだ。
「左に!」
少女の叫びが短く響く。
だが、言葉は既に不要だった。ウォルが喉を振るわすその前に、騎狼は左に跳ね飛び、凶悪な力場から逃れていた。
理屈ではない。少女から伝わる体温が、鼓動が、感情が、言葉よりも雄弁に巨狼と化した少年へと少女の意思を伝えるのだ。
それは、何という幸福なのだろう。自分が少女の一部となって戦場を駆ける。背中に、自分よりも大切なものを負って戦える。少年は、今、この瞬間のためにこそ現し世に生を得たのだと理解した。
桃源郷に迷い込んだような法悦と、闘争に高ぶる感情が、視界を紅い靄で染め上げていく。その向こう側で、どろどろに腐敗した肉の塊が甲高い悲鳴を上げながら蠢いている。目に見えない、何か危険な力が、矢継ぎ早に射向けられているのが分かる。
怪物は醜悪で、まるで人の負の感情を体現したようにおぞましく、恐ろしい。きっと少し前の自分ならば、その姿を見ただけで足が竦み膝は折れ、一歩も動けずに貪り食われてしまっただろう。
目に見えず鼻にも匂えぬ不可思議な力は危険そのもので、少女の指示がなければこの体でも躱すことは不可能だ。一度捕まれば二度とは抜けられない。全身を締め上げられ、ねじ切られ、微塵の肉片にされることが理解できる。
それでも、恐くなかった。ちっとも恐くない。
それは、背中に少女がいてくれるからだ。少しの恐れも抱かず、自分に命を預けてくれている。
だから恐くない。
少年は、不思議だった。こんな感情が自分の内側にあることを、今の今まで知らなかった。
恋というには激し過ぎる。友情というには甘やかすぎる。その感情につけるべき名前が、どうしても見当たらない。
しかし、自分の中の何がその感情を滾々と湧きたたせているのか、少年は理解していた。
信頼だ。
自分が彼女を信頼している。
彼女が自分を信頼してくれている。
幾千の敵が自分達に剣を向ける戦場で、自分と彼女だけは、背中を預けて戦っているのだ。
その陶酔に、少年は酔った。天上の美酒よりも、その酔い心地は極上そのものであった。
一秒がまるで永遠のようだ。怪物の伸ばした触手の間を潜り抜ける。少女が触手を斬り飛ばし、切断面から腐汁が飛散するが、その一滴一滴すらを避ける。もう、少女の爪の先すらも汚してはならない。
少女が笑っている。それがわかる。今の少年には、少女の全てが理解できる。きっと少女が無垢な顔に貼り付けているのは天使の微笑ではなく、戦陣にて鉾を振るう闘神の、剛胆で不敵な笑みに違いない。
ああ、なんと美しい。
きっと、これからの人生の美の全てを凝縮したより、どれほど美しいのか。
少年は、天に向けて、祈りを捧げた。命を燃やして戦いながら、祈りを捧げた。
神様、もう少しだけ。
時を司る神に、祈りを捧げる。
もう少しだけ、この少女と、二人きりで。
もうすぐ、宝石よりも胸焦がすこの時間が、終わるのは分かっています。
この一瞬を永遠にしてくれなど、言いません。この少女を自分のものにしてくれとも、言いません。
だから、どうか、もう少しだけ。
どうか、どうか。
◇
凄まじい速度は、その風圧で顔の形を変えんばかりであった。
シェラは、一心に、目の前にある豪奢な毛皮に張り付いている。一瞬でも油断すれば一気に引きはがされてそのまま落下し、地面に叩き付けられるだろう。そうすれば決して助からないことを、彼は理解していた。
山が、湖が、ぽつぽつとした人家が、それら全ての景色がすごい勢いで後ろの方向にすっ飛んで行く。風を切る音が、そのまま鼓膜を劈かんばかりである。
シェラは、初めてこの世界に来てエアカーや飛行機に乗った時の衝撃を思い出していた。
どれだけスピードが出ているのか、それすら分からない。ただ、自分や馬の全速力など及びもつかないだけの速さであることだけは分かる。
そして、そのスピードを生み出しているのが、自分たちの跨がった、翼を持ち人の言葉を話す、恐るべき巨虎なのだということも。
そう、この巨虎は、翼と脚でもって自在に天を駆けるのだ。その虎の背に、自分達は今、跨がっているのだ。
虎は言った。自分は化け物であると。
それは違うとシェラは思った。この生き物はきっと、古代の人が、天の門を守ると神話に謳った守護獣に違いない。そうでないならば、どうしてこれほど美しく、そして猛々しいまでに魂の根源を揺さぶるのか。
『どうだい、あたしの乗り心地は、リィ!』
轟々とした風の音の向こう側で、シェラはそんな言葉を聞いた。何故この速度、この轟音の中で、その声だけがこうもはっきり聞こえるのか、それは分からない。
ただ、地の底から響くような恐ろしい声は、不思議と聞き心地が悪くなかったのだし、それに応える金色の狼の声も、いつになく楽しげに弾んでいたことも聞き取れた。
「凄いよ!速い!速いなメイフゥは!」
シェラが恐る恐る顔を持ち上げ、隣にいるリィを見れば、彼はその翡翠色の瞳を喜びに輝かせ、身を乗り出すようにしてメイフゥに跨がっていた。
夜空の下でも分かるほどに見事な金髪が、横向きの重力に引かれるようにたなびいている。それはまるで、生まれたての、ようやく目の開いた幼獣が、巣から顔を出して初めて世界を目にしたときのように、全身で感動を体現していて、そして不安定な様子だった。少しでもバランスを崩せば、このまま地表に向けて真っ逆さまである。
「リィ!危ない!」
あまりの危なっかしさに、それこそ母親のような心持ちで、シェラが叫んだ。
だが、リィはにんまりとした満面の笑みをシェラに向けただけで、ちっとも諫める雰囲気がない。
それなりに長い付き合いだ。これは何を言っても無駄だとシェラは悟った。
「こんなに速いのは初めてだ!凄く楽しい!ありがとうメイフゥ!」
「うん、これは凄いよ!まるで夢みたいな速さだねぇ!」
はためく黒髪を押さえたルウが、彼に似合いのおっとりとした口調で、しかし嬉しげに言った。その声に応えるように、虎の細い尾がくるりと動く。
『嬉しいことを言ってくれる!ならもっとサービスさ!リィ、シェラ、ルウ、マルゴ!それとおまけのお坊さん!あたしの自慢の毛皮を、しっかりと掴んでおくれよ!』
嬉々と叫んだ虎が、その巨大な翼を持ち上げ、驚くべき速度で振り下ろした。
空気が叩かれ、まるで小さな爆発が起きたような音が響く。
その刹那、顔を叩く風の速度と厚みが、いっそう勢いを増した。もはや呼吸をするのも辛いレベルだ。速度はそのまま寒さになり、指の感覚が少しずつ薄らいでいくのが分かる。
この分では、自分達はともかく、一般人とさほど変わらない程度の身体能力しかないテセル、そしてマルゴには、相当きついだろう。そう思って後ろを見れば、顔を青ざめさせた若い僧侶と少女兵士が、必死の面持ちで毛皮を握りしめている。
シェラはぎゅっと目を閉じた。そして、先ほど、この虎と出会ったときのことを思い出していた。
◇
夜の帳の降りた森が、その瞬間、空気を変えた。
もう、ウォルの処刑までそう時間がない。なのに、木々の隙間に獣が如く身を隠し、虫の襲来に耐えながら耳を欹てているのは、シェラにとっても気が狂うほどの苦行だった。
森の静寂は深い。敵も、やはり自分達を封じ込めることに注力し始めたのか、既に戦闘の音は絶えて久しい。時折、虫の鳴き声や鳥の羽ばたく音が聞こえるだけで、あとは耳が痛くなるような静けさが世界を支配しているようだ。
見上げれば、枝葉の間から、降り注ぐような星が見える。もうどれほどの時間が経ったのだろう。もしかしたら、既にウォルは祭壇の露と消え、自分達は道化のようにここで戦い続けているのかも知れない。誰かが、お前達は無駄な戦いをしているのだと、笑い転げているのかも知れない。
それでも構わない。それでも、自分に与えられた任務は待つことだ。行者として生きていた頃は、待つことこそが一番の苦行で、その空しさに耐え続けることこそが良い行者の条件だと教え込まれてきた。
待つことには慣れている。じっと耐えるのだ。自分が木石に変化したと思い込め。
じりじりとしながらも、しかし機会を待ち続けていたシェラは、遠くで何か、音が聞こえた。それは、音と言うよりは声のようであり、声というよりは悲鳴と言った方が正確な気がした。
それも、一つや二つではない。たくさんの悲鳴がどこかから聞こえ、散発的な銃撃音が鳴り響いた後で、必ず静寂が訪れるのだ。
さほど遠くない何処かで、何かが戦っている。それも、おそらくは一方的な蹂躙を加えている。蹂躙されているのは、おそらくこの国の軍隊だろう。では、もう片方は?
ふと感じた気配に振り返れば、そこには顔に泥でペイントしたリィがいた。
「リィ」
「シェラじゃなかったのか。なら、あれはいったい何の音だ?あいつら、いったい誰と戦っている?」
「ルウ……でもなさそうですね、あの派手な戦いぶりは。もしかしてヴォルフ?」
「いや、それも違うと思う。あいつは囮役を買って出てくれたんだ。なら、あそこで戦っているのは別のやつだし……第一、この匂いはヴォルフのじゃない」
そう言われて、シェラも鼻をひくつかせた。
確かに、火薬や草木、そして濃密な血臭に混じり、不思議な匂いが風に乗って運ばれてくる。この世界ではほとんど馴染みのないその匂いは、しかし野生の中では当然の匂いだった。
獣臭だ。
それも、肉を食む生き物特有の濃密な獣臭。
理屈ではなく本能が、シェラの体を震わせた。背筋が薄ら寒くなる。このままここにいてはいけない。すぐに逃げなければ、自分が餌にされる。喰い殺される。
「行ってみよう」
リィの呟きに、シェラが目を剥いた。
「リィ」
「おれ達は変化を求めていた。そして、それが向こうから来てくれたんだ。この臭いの先にいるのが何であれ、この機を逃すべきじゃないと、おれは思う」
「しかし……」
「僕も行くよ」
聞き慣れた声にもう一度振り向けば、長髪に木の葉や蜘蛛の巣を絡みつかせたルウが立っていた。
「このまま待っていても状況は変わらない。僕達に出来るのは精々敵の目をひき付けるために暴れるくらいだ。行っても行かなくても変わらないなら行くべきだ。例えそこに何があってもね」
「同感。じゃ、行こうか。シェラはここで待っていてくれ」
二人が、音もなく姿を消した。今更であるが、どうすれば一流の行者よりも速く、そして静かに動けるのか、一度二人に問い質してみたくなる。
だが、それをすべきなのは今ではない。シェラは、諦めの吐息を一つ吐き出して、二人の後を追った。
夜の闇は、彼らの足を止める材料になり得ない。張り出した鋭利な枝を避け、大きな石を飛び越え、三人は駆けた。虫も目を覚まさないくらいに、密やかな足音で。
そして、血臭が鼻を刺し、吐き気すら催す濃度になったとき、彼らは見つけた。
「……これは」
シェラが思わず口元を覆った。熟練の暗殺者であった彼にそうさせるほど、それは酸鼻を極めた光景であったのだ。
そこは、食事場だった。
ボロ布と化した軍服を纏った肉片が、そこらに散乱している。先ほどまで人間として動いていたのだろう手足が、ゴミ捨て場に散らかされた野菜クズのように辺りに散らばっていた。
ぴちょん、ぴちょん、と液体の垂れる音がする方を見てみれば、まだ湯気の立つ臓物が、枝に絡みついて垂れ下がっていた。
思わず数歩後ずさると、こつりと足に何かがぶつかり、ころころと転がっていく気配がした。それを見て、後悔した。半分欠けた人の頭部が、砕けた脳髄を少しずつ溢しながら、恨めしげな顔でこちらを見ていたのだ。
夜であってよかった。そうでなければ、ここは呪わしい程に赤一色の世界だったに違いない。そして、血と肉とはらわたと糞便の臭気。血の滴る音。ここには不快な五感しか存在しない。
「ずいぶん派手に食い散らかしたもんだ」
リィは呆れながら呟いた。そしてシェラは思い出した。かつて、王妃であった頃のリィが己の身を守るためにその牙を剥いたとき、どれほど凄惨な光景がそこに現出したかを。
そう考えてみれば、今自分の目の前に広がっている惨状は、あの時のそれに似ているかも知れない。あの時と唯一違う点を挙げるならば、それはリィが己を守るためにその牙を使っただけなのに対して、この惨状を作り上げた誰か──もしくは何かは、獲物を狩るためにその牙を使い、そしてそれを、おそらくは楽しんでいることだろう。
「いったい、何がこんな……」
「しっ」
思わず呟いたシェラを、リィが制した。
真剣な顔で、茂みの奥の闇を睨み付ける。
「あっちから、何か聞こえる……」
「本当だ。行ってみよう」
何の躊躇いもなく、リィとルウが駆けだした。
これほどの惨状を見せつけられて恐れの少しも抱かないのは流石と言うべきなのだろうが、付き合わされる方はそういうわけにはいかない。この二人よりはまだ人間寄りだという自負があるシェラはたまったものではない。最終的な決断はともかく、そのための覚悟というものが常人には必要なのだから。
しかしここまで来ておいて置いて行かれるなど間抜けにもほどがある。
舌打ちを一つ堪えて、シェラも二人に続いた。
『……寄るな、……け物!』
叫び声と、散発的な銃声。声は一つだけで、もしかしたらそれが最後の生き残りなのかも知れない。
流れ弾を避けるため、大樹の幹に隠れて様子を伺っていると、茂みを掻き分ける音がどんどん近づいてくる。
足音が、そして荒々しい息遣いが聞こえ、そして最後に兵士が姿を現した。汗で前髪を額に貼り付けた兵士が、三人の隠れた大樹のそばを、よろよろとした様子で走り抜けていく。
「くそっ……何かの、間違いだ……。こんなの、ありえない……。俺は、敬虔な、ヴェロニカ教徒だ……戒律だって、今の今まで、一度だって破っていないのに……。どうして、その俺が、こんな目に……。神よ、私は、悪鬼に貪り食われるほどの罪業を、冒してしまったのですか……」
青ざめた顔。焦点の定まらない視線。ぶつぶつと、訳の分からない独り言を呟く。
尋常でない様子の男であった。体中に細かい傷を負い、濃密な血臭を振りまいている。それだけではない。左腕の肘より先が、まるで猛獣に噛みつかれたようにずたずたに引き裂かれ、夥しい量の血液が滴り落ちている。あれでは、きちんと血止めをしなければ、遠からず失血死するだろう。
シェラは、反射的に男を取り押さえようと思った。助けるためではない。ここで何が起きたかを聞き出すためだ。
だが、シェラが手を伸ばそうとした瞬間、森の奥から、凄まじい重量感を持った物体が音もなく飛び出し、憐れな兵士の体を噛み咥え、やはり森の奥へと消え去った。
意味の分からない悲鳴が、森奥から木霊し、やがて途絶えた。
手を出す暇すらない、一瞬の早業だった。
シェラの全身から、冷たい汗が噴き出した。
「り、リィ、今のは……?」
我知らず声が震える。しかしシェラはそれを恥とは思わなかった。今の出来事で震えないなら人間がいるとすれば、剛胆や勇猛なのではなく、恐怖心が故障した人間だ。それは生き物として、欠陥でこそあれ誇るべき点ではあり得ない。
リィの面持ちも、流石に緊張している。手は、腰に履いた剣の柄へと伸びている。
しかし、彼にとって、そこから退くという選択肢は存在しなかった。
「行こう」
シェラは頷いた。
この人と一緒にいて、危険な目に遭ったことなど数えればきりがない。そして、この人と一緒にいて、後悔したことなど只の一度もありはしない。ならば取るべき選択肢は決まっている。
慎重な足取りで、影が兵士を連れ去った方へと足を進める。暗い森の中から吹いてくる向かい風は、濃密な血肉の臭いと熱を運んでくる。その先で何が行われているか、予測するまでもないことだった。
ぴちゃぴちゃと、嫌らしい音が聞こえる。子猫が、盆に開けられたミルクを啜るような音だ。ただ、啜られているのはミルクよりもどぎつい紅色の液体だろう。啜っているのは子猫のように可愛げのある生き物ではないはずだ。
少しの物音が、そのまま生死の境を決める。普段より、何倍も足音に注意して、彼らは歩を進めた。
そして、見た。小山のような質感の何かが、月の光に照らされながら、先ほどの獲物を貪っていた。
それは、虎だった。
象と見紛わんばかりの、おそるべき巨躯。鋼条を束ねて精錬したかのようにうねる筋肉。見事に際立った縞模様。血塗れの口と牙。何よりも、視線で射殺さんばかりの鋭い眼光。それは、間違いなく百獣の王たる風格を備えている。
その虎が、惨劇の憐れな被害者の死体を貪り、噛み砕き、四肢を引き千切っていた。はらわたを爪でほじくり返し、寸刻みにして、まるで用を足した犬がそうするように、土と掻き混ぜてばらまいているのだ。
食事をするために殺しているのではない。防衛のために殺しているのでもない。それは、愉悦のために殺しているように見えた。その証拠に、ほら、虎の、耳まで裂けた口が、にんまりと嗤っている……。
吐き気を覚えたシェラは、その時、一陣の風が吹いたことに気が付いた。それも、先ほどのように向かい風ではなく、自分達の背中の方から。
不味い。風は匂いを運ぶ。自分達の居場所を、あの危険な生き物に知らせることになる。
虎が、その尾をぴくりとさせ、のそりと顔を持ち上げた。
虎の、血に酔った金色の瞳が、シェラの視線と交わった。
怖気のする感覚が、シェラの脳髄から脊髄、そして爪先までを一気に貫く。この世界に来て初めてかも知れない、濃密な死の予感を覚える。あの巨体に、分厚い毛皮に、強靱な筋肉に、人間用の鉛玉や銀線が通用するのだろうか。
絶望的な気持ちで彼我の戦力を分析したシェラだったが、次の瞬間、おやと思った。
血に狂っていたはずの虎の瞳が、少しだけ、ほんの少しだけ、動揺したように宙を泳いだのだ。それは、予想外の事態に驚いているようでもあり、何かに怯えたようでもあった。
あの獰猛な虎からすれば、自分達などか弱い獲物にしか見えないだろうに、何故。
シェラがそう思ったとき、隣に立っていたリィが、驚くべき行動に出た。
無防備に両手を下ろしたまま、あっさりと虎の方に歩み寄っていったのだ。
「リィっ!」
シェラが、悲鳴のような声をあげてリィを引き留めようとしたが、ルウがその手を押しとどめた。
「ルウ!どうして!」
抗議の声と視線を、ルウはやんわりと諫める。
「あの子なら大丈夫だよ」
「しかし!」
「いいから」
シェラはルウの人柄を良く知っている。ルウとリィの間に、どれほど強い絆があるかも弁えている。だから、きっとこの人は、何か理由があってリィを行かせたのだ。そうでないならば、真っ先にこの人がリィの安全弁になる。
「こんなところで彼のお仲間に会えるなんてねぇ」
嬉しそうに、そして懐かしそうにそう言った。
ルウが果たして何のことを、誰のことを言っているのか、シェラには皆目検討もつかない。分かるのは、人食い虎と比べればまるで子猫のようにか細く頼りない姿のリィが、あまりにも無造作な歩調で、虎のすぐ目の前まで近づいてしまったことだけだ。
あれでは、もう逃げられない。虎が本気で襲ってくれば、それを迎え撃つことが出来るかどうか、だ。リィは、かつて飼い慣らされた虎ならば、その拳で叩きのめしたことがあるのだという。ウォルを助けるため、獅子を投げ飛ばしたのも、シェラは自分の目ではっきり見た。
しかし、あそこにいる虎は、この星の固有種なのか、あの時の獅子よりも二回り、いやそれ以上に大きい。それどころか、シェラがテレビや図鑑などで知ったどの猛獣よりも巨大なのだ。
そして、ついにリィは虎の鼻先に立った。彼らの距離は、もはや数十センチだ。飛びかかるまでもなく、虎はリィに襲いかかることが出来る。
然り、虎は威嚇の表情と共に、リィの胴体を一噛みで食いちぎれるほどに大きな口を持ち上げた。その隙間から、象牙と見紛わんばかりに巨大で、刀剣のように鋭い牙が、幾本も覗いている。
これはもう、一刻の猶予もない。あの巨虎に通用するとは思えないが、それでも目くらまし程度にはなるかも知れない。こちらに注意が向けば、あるいはリィならば逃げおおせてくれるかも知れない。そんな絶望的な気持ちで、シェラは鉛玉を掴み、投擲しようとした。
その手を、やはりルウが押しとどめた。
「止めないで下さい、ルウ!」
「だから邪魔しちゃ駄目だよ。彼らは今、大事なコミュニケーションの真っ最中なんだから。それに、ほら、もう終わる」
ルウがそう言った時、リィもまた口を開いた。
「で、どうするんだ?やるのか?」
険を含んだ声で、そう言った。
野生の獣に何を、シェラがそう思ったとき、目の前で信じがたいことが起きた。
口元を血塗れにした虎が、にやりと笑ったのだ。
『止めておくさ。今は、あんたとじゃれてる暇はないみたいだし、そもそもこっちの勝ち目が薄いらしいしね』
地の底から響くように、低く、不吉で、恐ろしい声だった。人の言葉を、人以外の声帯が発したのだ。それは、信じがたい不協和音だった。
だが、紛れもなく人の言葉だった。
人食い虎が、人語を話したのだ。
『あんたが、ひょっとしてウォルの言っていた婚約者かい?』
「そういうお前は、もしかしてインユェの肉親か?」
巨虎が、軽く目を剥いた。小さな瞳が少しだけ大きくなり、金色の瞳がさも露わになる。
そして、巨虎は笑った。自慢の髭を振るわせて、ぐぅぐぅと腹を収縮させながら、不気味な調子で笑い続けた。
『慧眼にも程があるね、あんた。こんな化け物をつかまえて人の子の姉だなんて、どうして分かった?』
「難しい話じゃない。あいつと同じ匂いがした。それだけだよ」
『……なるほど、あの子が黄金の狼って呼んだ理由がよく分かる。中々いい男じゃないか。もしあんたが顔だけで女を弄ぶようなくだらない輩なら、後腐れ無くここで喰い殺してやろうかと思ったんだけど、残念だ』
「あの子ってウォルのことか?」
『ああそうだよ。あの子が何て思ってるか知らないけど、あたしは、ウォルはあたしの妹だと思ってるんだ。あたしの妹をたぶらかす悪い虫がいるなら、付く前に駆除するのが優しさってもんさ。ついでに、ここで始末すりゃ連邦警察だってお目こぼしくれるだろうしねぇ』
「それはそうだ。おれだって、自分の家族に変なのが近づいたり、侮辱を加えたりすれば、問答無用で叩きのめしてやるからな」
『だろう?』
やはりぐぅぐぅと、喉を詰まらせるように巨虎は笑った。
『しかし何だね、この姿で会話するのは、お互いに疲れるねぇ』
「なら、おれの方に合わせてくれないか?おれは、お前みたいな姿になれないんだ」
リィが、唇を尖らせるように言った。
虎が、もう一度目を丸くした。
『変身できない?冗談はおよしよ。あんた、そんなにも見事な黄金の毛並みで、自分の姿を隠すなんて勿体ないにも程がある。それとも、狼族はいつの間にか、変身を人前では恥ずかしがるようになっちまったのかい?』
「狼族?何を言ってるのか分からないけど、おれは本当に変身なんて出来ないんだ。インユェみたいに、出来るのにしないわけじゃない。本当に出来ないんだよ」
リィが、少しだけ寂しそうに、そう言った。
シェラは、この数奇な運命のもとに生まれた少年の身の上話を思い出していた。
人の親を持ちながら、人狼と狼の群れに育てられ、その人狼を人の手で殺されたのだ。そして、自分は人ではなく狼の変種であると定義しており、自分が狼に変身できないことを心底残念がっている。
そこまで考えて、ようやくシェラは気が付いた。
目の前の、人語を解する巨虎の正体。
それは、もしかすると……。
『……嘘は吐いていないのか。どうやら、悪いことを言ったらしい。謝るよ。それと、失礼ついでだ。後ろのお二人さん、あんたらは人間かい?どうも、この子と違って、あたしらのお仲間ってわけじゃなさそうだけど』
突然水を向けられたシェラは、些か慌てて、
「私は人間です!混じりっけ無しの!」
力強く、精一杯に断言した。
一方ルウは、人懐っこく微笑みながら、
「僕は、ラー一族のルウだよ。人間かそうじゃないかで分類するなら、あなたの言うとおり人間じゃないね。それより、こんなところでアマロックの仲間に会えるなんて光栄だ。是非、僕と友達になってほしい」
巨虎は小首を傾げた。
『アマロック?聞いたことのない名前だ。あたしの一族なら、全員の名前と家系図をそらで言えるからね、もしかしたら遠い昔、あたしらの星から移住した一族なのかも知れない』
ふ、と、辺りが一瞬、柔らかな光に照らされた、気がした。
そして次の瞬間、巨虎は、リィの前から姿を消していた。その代わりに、巨虎がいた場所に、裸体の少女が立っていた。
豊満で強靱な体つきの、美しい少女であった。
その少女が、自分の裸を隠そうともせず、むしろ見せびらかすように胸を張り、硬質な輝きの金髪を掻き上げながら、こう言った。
「自己紹介が遅れたね。あたしの名前はメイフゥ、美しい虎って書く。全く、こんな醜い化け物に美しいって字を当てるあたり、あたしの名付け親のセンスはどっかおかしかったに違いねぇ。父は海賊王、母は『ごちゃまぜ』の血を引く由緒正しきインシード。そしてあたしは、あんたらに迷惑をかけてる、インユェってぇはな垂れ坊主の姉なのさ」