懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「へぇ、こいつは驚いた。狼男ならぬ虎女か。そんなけったいな生き物が、本当にいたんだなぁ」
機械鎧の頭部だけを外したヴォルフが、まじまじと巨虎を眺めながら言った。
巨虎──メイフゥも、形態変化した自分とほとんど視線の高さが変わらない、巨人ともいうべき体躯の男を正面から睨み付け、唸りながら言った。
『花も恥じらう乙女、しかも初対面の相手に、けったいな生き物とはよくぞ言ってくれたもんだねぇ、おっさん。おいリィ、こいつ喰い殺してもいいのかい?』
「おっさんとはご挨拶だな。これでも俺はまだまだ花の二十代だぞ。まぁ素手なら及ぶべくも無いとして、機械鎧付きならどっこいどっこいってところだろう。暴れ足りないなら相手になろうか?」
「止めろよ二人とも。じゃれ合ってる場合じゃないんだってば」
呆れ声のリィが、腰に手を当て溜息を吐きながら言った。
無論、二人とて今がどういう状況かを理解している。じゃれ合いという名の自己紹介は本当に一瞬だった。二人して皮肉な笑みを浮かべ(虎の笑みは凄く凶悪に映った)、和解の合図とした。
「メイフゥ、状況はさっき説明したとおりだ。ウォルを生け贄に捧げる儀式は、満月が中天に差し掛かる時に開始される。もう、時間は無い。今のところ、助けに向かってるのはインユェだけだ。おれ達も何とか助けに行きたいんだけど、残念ながら足がない」
『へぇ、あんたみたいな見事な狼なら、真っ先に助けに行くもんだと思ってたけどねぇ。それとも、その窮屈そうな体じゃあ人並みにしか走れないのかい?』
「全力疾走で馬と同じくらいだ。生憎、ここから目的地までそんなスピードでちんたら走ってたら、日が昇っちゃうよ」
『なら、あんた達の本当の力を解放するわけにはいかないのかい?そこの黒いお兄さん、銀色の坊や、そしてあんた。全員、普通の人間じゃないだろう?』
自分達の特異能力については少しも説明のしていなかったリィは多少面食らった顔をしたが、深くは尋ねなかった。何せ相手は、半分は野生の獣と同じ感覚を備えているのだ。何かしらの理由からそういう結論を導き出せたのだとしても、不思議はない。
「また後で説明するけど、おれ達の能力は使えない。使えば、ウォルやインユェの身が危ない」
『……なるほど、それもこれも、あたしの馬鹿弟のせいってわけか。なら、ここはいっちょ、姉のあたしが一肌脱がせてもらうとしますかね』
べり、と、布地を引き裂くような音がした。次の瞬間、巨大な虎の背に、やはり巨大な翼が生えていた。
先ほど聞こえたのは、翼を出すために毛皮の一部が破れた音だったらしい。
これには、その場に居合わせた全員が唖然とした。
「……何て節操のない生き物なのかしら」
マルゴが、呆然と呟く。
その言葉に、メイフゥはごろごろと喉を鳴らして微笑んだ。
『なんつっても、あたしのご先祖様は白い獅子の体に羽を生やして宙を飛んだって伝説を持ってるんだ。その子孫であるあたしに同じような真似が出来たって、別におかしな話じゃないだろう?』
「そんな伝説を持つ生き物がこの世に存在すること自体、凄く不条理だわ。だいたいその翼で、あなたの巨体が飛べるものなの?」
『まぁこの翼は飾りみたいなもんさ。そもそも、くそ重たい体の獅子やら虎やらが、鳥の翼を生やしただけで空を飛べるはずがないだろう?要は、気合いと根性だ。それがあれば、だいたいのことは何とかなる!』
力強く断言した。
気合いと根性があれば空を飛べるというのは、質量と揚力のバランス以上に物理現象を無視しているはずだが、不思議と説得力がある。だいたい、少女の姿と、今目の前にいる虎の姿では、体重が百倍ほども違っているはずなのだ。そこらへんを気にし始めればきりがないので、一同は曖昧な笑みを浮かべるに止めた。
『まぁそれでも限界はある。今からウォルを助けに行くとして、連れて行けるのは、精々三人までだ。それも、でかい兄さん、あんたは抜きだぜ。フル装備のあんたを載せたら、流石のあたしだって雀よりのろくしか飛べやしない』
「うん、まぁ、俺がそういう役回りに向いてないのは百も承知だから、それは別に構わないぞ」
ヴォルフが苦笑した。
『なら、決まりだな。リィ、ルウ、シェラ。あんたらが体格的にも戦力的にも見合いだ。そうと決まれば是非は無し、さっさと出発するぜ』
願ってもないことである。三人は顔を見合わせて頷き、メイフゥの大きな背に跨がろうとした。
その時である。
「ちょっと待ってくれ!」
その場にいた全ての人間の視線が、一人の男に集中する。
そこには、緊張で顔を赤らめた、テセルがいた。
「私も、私も一緒に連れて行って欲しい」
『……生憎だが、あたしは三人乗りだと言っただろう?だいたい、あんたを連れて行って、何の役に立つんだい?悪いが、これから行くのは切った張ったの鉄火場さ。安っぽい説法でしこたまのお布施をがめていく山師野郎の出る幕じゃないんだよ。ここまで命があったことをてめぇの神様に感謝して、石の裏で縮こまってるんだな』
べぇ、と、巨大で真っ赤な舌を見せながらメイフゥが口にしたのは、何とも辛辣な言葉であった。
そもそも、今から自分達が助けに行くウォルを珍妙な儀式の生け贄に捧げようとしているのは、この国の精神的支柱であるヴェロニカ教団なのだ。その指導者であるテセルに、メイフゥが気安くしてやる必要など微塵もないのである。
それは、テセル自身が痛いほどに分かっていた。
それでも。
「……頼む、どうか私を連れて行って欲しい。もちろん、私が戦力として心許ないことは百も承知だ。しかし、私はヴェロニカ教の僧として、全てを見届けなければいけない。それが、師の教えに背き、師を裏切った愚か者の、果たすべき義務だと思うのだ。どうか、頼む」
テセルは地に伏せ、額を地面に擦りつけて乞うた。
メイフゥは、禿頭の後頭部を見下ろしながら不機嫌そうに牙を剥き、
『そいつはてめぇの自己満足だ。そのせいであたし達が遅れて、ウォルやインユェが死んだとしたら、お前さん、どうやって責任を取るつもりだい?』
「……この命で購えるなら、如何様にも」
虎が、片頬を皮肉気に持ち上げた。
『痩せ坊主の命なんてもらったって嬉しくも何ともないねぇや。そもそも、他人の命の落とし前がつけられるくらい、あんたの命ってやつは偉いのかい?さっすが、偉い偉いお坊様はあたしら庶民とは格が違う、全く、反吐が出そうなくらいだ』
テセルが、心底悔しげに地面を睨み付けた。
反駁の言葉もない。いちいち、メイフゥの言っていることは正しい。人の命に対して、人は如何なる責任も取ることが出来ない。取れると思っているならば、それは勘違いか思い上がり以外の何物でもありはしないのだ。
責任の取りようなどありはしない。そして、今の自分は、例えば神様の視点にでも立つ者が見たならば、駄々をこねて我が儘を叫ぶ幼子に等しいのだろう。どちらに非があるのかなど、議論の余地すらない。
それでも。テセルは顔を上げ、決意を秘めた表情で立ち上がった。
「……わかった。役立たずの私には、指をくわえてここで待っていろと、君はそう言うわけだ
『理解が早くて助かるよ。じゃあな生臭』
「待て。話を最後まで聞け」
『あん?』
「君の理屈で言うならば、役立たずは連れて行けない。だが、その逆に、もしも私が連れて行くに値する、役に立つ存在だと証を立てれば、連れて行ってくれるわけだな」
『……まぁ、それは……うん、確かにそういう理屈だわな』
「それならば話は早い。シェラ君、どうかこの場で、私と立ち会って頂きたい」
視線を、虎の背に乗った銀髪の少年に移してたテセルは、腰を落とし、拳を構えた。
一方、突然に果たし合いを申し込まれたシェラは、この人は何を言っているのか、気でも違ったのかと言わんばかりに目を見開き、リィとルウに対して視線で助けを求めた。理解不能、救援求むの合図である。だが、如何なる場合でも抜群の理解力と行動力を示すはずの金黒天使も訳が分からないという面持ちだ。
「無茶は先刻承知の上だ。しかし彼女は、私が君たち三人の誰かよりも役に立つことを証明しなければ連れて行ってくれないらしい。今この場合の役に立つとは、即ち腕が立つということ。シェラ君、君を侮るわけではないが、君たち三人の中では君が一番技倆が劣るだろう。だから君を選んだ。さぁ、いざ尋常に勝負を!」
テセルの声は本気であった。そして、普段は沈思な目が、完全に座っている。
シェラは、果たして気が狂ったのかと思った。確かに、リィやルウと比べれば自分の技倆が劣ることは事実だから、その点、テセルの目利きは正しい。
だが、それは、常人には想像も及ばない、とてつもなく高いレベルでの話である。例えばこの世界のロッドや格闘技のチャンピオンでも麓にさえ立っていない山峰の頂にいるのがリィやルウならば、自分はその中腹程度にはいるのだと、シェラは自負している。少なくとも、常人に毛が生えた程度の腕前しかないテセルを倒すなど、赤子の手を捻るに等しい。
そのことは、テセル自身が良く理解してるはずだ。この僧、腕っ節の方はともかくとして、人を見る目がそこまで曇っているとは思えない。当然、自分の腕前がシェラに遠く及ばないことなど、百も承知のはずである。
詭弁を弄して、自分の思惑を通そうという腹づもりか。しかし、テセルの目にはある種の決意を抱いた者特有の、烈しい光がある。つまり、ここで死んでも構わないという覚悟だ。
テセルは、本気で自分と果たし合いをするつもりだ。しかも、命がけの。
死に物狂いという言葉があり、また窮鼠猫を噛むという言葉があるとおり、生死を超越した覚悟を有する者は決して侮れない。自分の潜在能力以上の力を時に発揮するからだ。そうでなくても、死を受け入れた人間を死以外の手段でもって止めるのは、不可能とは言わないまでも著しく困難なことは間違いないのである。
それでもシェラにとって、テセルを仕留めるのは困難事ではない。だが、そんなことのために貴重な時間を費やしていいものか。
判断に迷っていると、テセルの後方から、もう一つ、声が上がった。
「じゃあ、そのお坊さんが終わったら、次は私のお相手をお願いしたいわ」
落ち着いた調子でそう言ったのは、赤毛の少女、マルゴであった。
これには、その場にいた全員が驚いた視線を向けた。
「マルゴ、あなたもですか!?」
「ええ、私もよ、シェラ。私にも、どうしてもナハトガルに行かなくちゃいけない理由がある。だから、あなたを倒して私が代わりに行かせてもらう」
悲鳴のようなシェラの声に、マルゴはあくまで素っ気ない。
「あそこには、お父様がいる。間違いない、私には分かるわ。そして私は、何があっても、何を犠牲にしても、もう一度お父様と会わなければいけない。例え一言も口をきけなかったとしても、絶対に会わないといけないの」
「し、しかしそれは今でなくても……」
「駄目よ。だってあなた達、お父様を殺すんでしょう?」
平然とそう言い返されて、シェラは言葉を飲んだ。
確かに、ウォルを攫い、馬鹿げた儀式の生け贄に捧げようとしている集団の首魁は、おそらくこの国の大統領であるアーロン・レイノルズその人である。ならば、ウォルを救出した後で、彼女が受けた屈辱を晴らすためには相応の復讐が必要となる。そして、リィやルウ、もちろん自分も、そんな人間がこの世でこれ以上息をし続ける理由を、どこにも見出してはいない。
「あなた達がお父様を排除するなら、私がお父様と会う機会はこれが最後ということになるわ。それとも、あなた達はお父様を許してくれるの?」
「いや、マルゴには悪いけど、生かしておくつもりは無い」
これはリィの言葉である。そしてルウの気持ちであり、シェラの覚悟であった。それだけ彼らにとってウォルは大事な存在であり、またアーロンがウォルに加えた所業は許されざるべきものであったのだ。
この言葉に、マルゴは一切の動揺を示さなかった。少なくとも表面上は。
ただ静かに頷いただけだ。
「だから、私も、その虎さんに祭壇まで連れて行ってもらう必要がある。そのためには、あなた方の誰かを倒さないといけない。それがルールなんでしょう?ということで、シェラ、そのお坊さんをさっさと殺して、次は私と戦ってよね」
そう言ったマルゴの片手には、少女に似つかわしくない大型の拳銃が握られている。そして、少女の瞳もテセルと同じく、既に己の死を覚悟した人間特有のそれに変化している。
「そういうわけにはいかん。君に譲れん理由があるように、私にも負けられない理由があるのだ。シェラ君を倒して、私がメイフゥ君の背に乗らせてもらう」
「あら、それは楽でいいわねぇ。だって、あなたがシェラに勝ったなら、私はあなたを倒すだけでいいんでしょう?それはとてもいい話だわ。お坊さん、本当に頑張って頂戴ね」
「言われるまでも無し。そして、その後で君に勝ち、それで万事解決というわけだな」
「言ってなさい。そんなに足が震えそうな有様で」
そんなことを言っている。かと思えば、
「……リィ、わたしは本当に、あの二人と戦わなければならないんですか……?」
「どうもそういうことらしいな、話の流れからすると」
「しかし……本当に、あの二人を殺せと?」
「まぁ、仕方ないんじゃないか?だって、メイフゥは三人しか運べないって言ってるんだし、だいたいあの二人がそれを望んでるんだから。もちろん、手加減はしてやれよ。でも、いざとなったら遠慮はいらないと思うぞ。緊急事態なんだから」
「緊急事態……そう言われましても……」
心底弱った声のシェラである。
時間は惜しい。しかし、二人を切り捨てて行くのも憚られる。かといって本当に二人と戦って、万が一にでも殺してしまえば、夢見が悪いし、「目指せ一般市民」の標語を破ることになってしまう。
そも暗殺者として薄暗い半生を送った身である。そんな標語自体、この自分には何の価値もないと理解してはいるのだが、なにせ自らが終生の主人と定めたリィの言葉である。中々反故にしにくいではないか。
「気にすることはないよ、シェラ。何たって彼らが望んでいることだからね。万が一のことがあっても、それは彼らの責任だ。きみが重荷を背負う必要なんて、一切無い」
「いや、ルウ、そうは仰いますが……」
「むしろここで彼らを置き去りにして、悔いを残す方が残酷だ。だけどメイフゥは三人しか運べないって言ってるんだから、僕たち以外の誰かを乗せるわけにはいかないよねぇ。なら、彼らの選択肢は当然のもので、少なくとも彼らには自分の運命を自分で切り開くために、戦う権利があるはずなんだ。なら、シェラは彼らと戦う義務がある。だって彼らは聖地にまで行きたいって言ってるのに、メイフゥは三人しか運べないって言ってるんだから」
「そうだよなぁルウ。メイフゥが三人しか運べないんなら、おれ達で殺し合いをするしかないんだよなぁ」
「そうだよねぇ、悲劇だよねぇ、メイフゥが三人しか運べないばっかりに」
二人の天使が、ちらちらと、巨虎の方を見ながらそんなことを言う。
虎の髭が、不機嫌そうにぴくぴくと動く。
──なるほど。もう一押しか。
それを見た全員は、テレパスのように、視線を合わせることすらせずに一致団結した。
「そうだな、メイフゥ君が三人しか運べないから、我々はこんなくだらん争いをしなければならないわけだな。全く非生産的だ。神も嘆いておられよう」
「っていうか、あんたそんなでかい図体して三人しか運べないってどうなのよ。『ごちゃまぜ』とやらの子孫として恥ずかしくないの?気合いと根性があれば何とかなるとか大見得きってたけど、この分じゃあなたの気合いも根性もたかが知れてるみたいね。その大きな翼が泣いてるわよ」
「そうは言ってやるなよマルゴ。メイフゥだって必死に頑張って三人までなんだから」
「三人なんだよねぇ。もう少し運べればねぇ」
「三人なんですねよね。たったの」
「……まぁ、なんだ、その、気を落とすなよメイフゥ」
ぷちり、と、何かが切れる音がした。
『あぁ、もう、うるっせぇなてめえらぁ!』
メイフゥが、半径1キロ圏内全ての木々を震撼させるような声で、大いに咆えた。
鳥が大慌てで逃げ飛び、肉食と草食を問わず全ての獣が全速力で逃げ出し、虫の幾匹かが気絶して木から落っこちた。
『わあったよ!運べばいんだろ運べば!四人だろうが五人だろうが百人だろうが連れてきやがれ!このあたしが、『窮奇』のメイフゥがてめえら全員、まとめて聖地まで運んでやらぁ!』
その言葉を待っていましたとばかりに、テセルとマルゴがメイフゥの背に飛び乗った。
しかし、飛び乗らなかった者がいる。
『……なんだ、でかぶつ、てめぇは乗らねぇのか?』
ヴォルフは、いつものように、指先で頭をこりこりと掻いた。
「お誘いはありがたいんだがなぁ、俺は俺でやるべきことが見つかっちまったんだよ。ウォルはあんたらに任せる。俺はここでリタイア、別行動を取らせてもらうぜ」
手をひらひらと振りながらそう言った。
「分かった。死ぬなよ、ヴォルフ」
「生意気な。ガキのくせに大人を心配するんじゃねぇよ、リィ。俺が殺して死ぬようなたまに見えるのか?」
リィは軽く微笑んで、それを別れの挨拶とした。
メイフゥが、その巨大な翼をはためかす。凄まじい風圧が巻き起こり、草木が揺れ軋み、落ち葉が急き立てられるように舞い上がる。そして最後に、ヴォルフを除く全員を乗せたメイフゥの巨体が、ふわりと浮いた。
そのメイフゥが、首をぐるりと回し、恐ろしげな顔で言った。
『いいかてめぇら!これから全速力で、風より速くお前らをウォルのところまで運んでやる!だが、あたしが運べる限界が三人ってのは掛け値無しの本当だ!だから、もしも無事にてめえらを運べたとしても、その時のあたしは出涸らしさ!戦力としてはこれっぽっちも当てにならねぇ!それで構わねえんだな!』
リィが、容易く頷いた。
「ああ、構わない。おれも、何から何までメイフゥにおんぶに抱っこのつもりはないんだ。そんな調子じゃインユェにぶん殴られても文句が言えなくなる。あの時偉そうに説教したのは何だったんだってな」
「エディの言うとおりだ。あなたの仕事は僕たちを聖地まで運ぶこと。そしてそこから先は僕たちの仕事だ。僕は、僕の獲物を、他の誰かに手出しをさせるつもりは、毛頭無い」
◇
雲一つない、満天の星空の中の進軍だった。
満月と無数の星に照らされた空は明るく、荒野の続く空はどこまでも暗い。正面から吹き付ける風が無ければ、果たして自分達が前に向かっているのか、それともずっと静止しているのか、それすらも分からなくなりそうだ。
ばたばたと、服が烈しく翻る。その風圧をものともせず、リィは、じっと前だけを見据えていた。
月が、既に中天に差し掛かっている。
刻限は迫っている。それとも、既に儀式は始まってしまっているのだろうか。
間に合うのか。まだあいつは生きているのか。
間に合う。生きているに決まっている。絶対に死なせてなるものか。
火に炙られるような緊張が、一行を支配する中、逆巻く風の音の中に、ぜぃぜぃと、荒々しい吐息が混じりはじめた。
それが誰の吐息なのか、全員が理解している。彼らが触れている虎の体は、まるで火の玉のように熱く、嵐の海のように絶え間ない脈動を繰り返しているのだから。
ふいごのような呼吸が、まるで彼女の悲鳴のように聞こえた。
最初に、彼女自身が言っていたのだ。三人が限界であると。ならば、この行程が彼女の限界を超えたものになることは、最初から分かっていたことである。
全員が、無言であった。
頑張れ、など言えない。彼女が必死に頑張っていることなど明らかだからだ。すまない、とも言えない。全てを承知で彼女が彼らを背に負ったからだ。
その苦痛を引き受けてやることも出来ない。その役目を引き継ぐことも不可能だ。
ならば、出来るのは信じることだけだ。そして決して裏切らないこと。
全員が、重々しい沈黙に耐えていた。
『……おい、リィ、起きてるか?』
食いしばった歯の間から絞り出したような声が、リィの耳に届いた。
他ならぬメイフゥが、全速力で駆けながら、声をかけてきたのだ。
荒々しく息を継ぎながら、途切れ途切れの声だった。
「ああ、起きてる」
『インユェはさ、間に合ったかな?ちゃんとウォルを助けてやってるかな?』
メイフゥの気性にそぐわない、弱々しい声だった。疲労がそうさせるのか、それともそれ以外の何かか。
「間に合ってるに決まってる。あれだけお膳立てをしてやったんだ。それでも自分の本当の姿に気が付かないなら、おれはインユェを絶対に許さない」
リィは歯を軋らせながら言った。
メイフゥが、鼻を鳴らすように笑った。
『あんたは、インユェが嫌いなのかい?』
「嫌いじゃない。ただ、どうしても気にくわない」
『どうして?』
「自分がどれだけ恵まれているのか、気が付いていないからだ。気が付こうともしないからだ。それで、自分はついてない、周りが悪いっていじけてる。そんな人間をどうして好きになれるんだ?」
美貌の少年の容赦ない舌鋒に、猛虎は苦笑いを溢した。
『厳しいねどうも。でも、反論の余地がない。全部、あんたの言うとおりさ』
「おれは、黒狼アマロックの息子だ。でも、何の因果か、人の体に生まれてしまった。俺を産んでくれた人達には感謝してるけど、いつだって、この体が自分の体じゃないような違和感を抱えて生きてきた。全身を艶やかで立派な毛皮に包まれた父の姿を見るときはいつだって、どうして自分はそうじゃないんだろうって悔しかった。だからおれは、そういう体に生まれたインユェが羨ましい。メイフゥもそうだ。お前の姿も、凄く綺麗で、凄く羨ましい」
『はっ、綺麗か、そいつは嬉しいねぇ。でもねリィ、あたしの故郷でも、この姿は畏怖されこそすれ恋愛の対象にはならなかった。翼持つ虎、『 窮奇 』のメイフゥって言えば、古強者の爺様方だって震え上がったもんさ。だから、どんなにあたしを好きだっていってくれた男も、この姿を見れば飛んで逃げ出すんだ。寄るな化け物って叫びながらね』
「それは見る目の無い臆病者ばかりだからだ。メイフゥはこんなにも綺麗なのに。毛皮はこれ以上ないっていうくらい艶やかで滑らかで、ずっと触れていたくなる。歩く姿も、飛ぶ姿も、言葉に表せないくらい颯爽としているし、何より瞳が宝石みたいにきらきらしてる。こんなに可愛い女の子、共和宇宙中を探したってそうそう見つかるもんか」
『くくっ、あんたみたいな別嬪さんにそこまで言われるとむずがゆいったらないねぇ。お世辞でも嬉しいよ』
翼持つ巨虎の姿をしたメイフゥは、相変わらず、夜の闇の中を凄い速度で飛んでいる。
その声が、微妙に震えているのに、リィは気づかないふりをした。
『でもね、リィ、あたしはやっぱり化け物なんだ。特に、この姿になって一度血を見ると駄目なんだよ。もう、飽きるまで血を見ないと、殺さないと元に戻れない。血に狂っちまうんだ。我に帰った時は、いつだって死体の山の中にいる……』
「……」
『あの時もそうだった。小さいとき、インユェと二人、狼の群れに襲われた』
それは、メイフゥの原風景である。月夜の晩。蛍を見せてやるために、寝台から連れ出した体の弱い弟。風の鳴く草原。自分達を囲む、餓狼の群れ……。
『別に大したことじゃない。腹を空かした狼を追い散らすくらい、この姿で一咆えしてやればすむことなんだ。なのに、欲が出た。弟に格好良いところを見せてやろうと、生意気に咆えかかってきた狼の一匹を、軽く撫でてやった。そしたら、いつの間にか一つの群れを丸ごと食い散らかしてた。弟が、まだ小さかった弟が、震えながらそれを見てたのに』
おねぇちゃん、こわい……。
ばけもの……。
「メイフゥは悪くない。インユェを守ろうとしただけじゃないか」
『いや、悪いのはあたしさ。そして、インユェは、化け物のあたしを拒絶し、自分に流れる同じ血を拒絶した。とっくに年頃になってるのに、形態変化を覚えることが出来なかった。それは全部、あたしのせいなんだ』
低く恐ろしい虎の声が、何故か、年相応の少女のように、細く脆かった。
リィは、メイフゥは泣いているのだと思った。
『あたしが、インユェを弱くした』
リィは、何も言わなかった。そうだ、とも、違う、とも言わない。メイフゥは、そんな言葉を求めてはいない。
『あたしが、インユェから牙を奪った』
だから、沈黙を守った。
『だから、あたしがインユェを守るんだ!何からも、何があっても、絶対に!』
虎が、咆える。
リィの頬に感じる風の勢いが、さらに烈しさを増す。その勢いは、メイフゥが今し方解放した感情の奔流そのもののように思われた。
リィは、メイフゥの、豊かな毛並みに覆われた首を抱きかかえながら、言った。
「メイフゥは、インユェのお母さんみたいだな」
そっと、そんなことを言った。
「おれには、母親はいないんだ。もちろん、産んでくれた人はいる。父親の配偶者もいた。二人とも、おれを大事にしてくれてる。でも、どうしたって二人は母親じゃない。母と呼ぶべき人はいない」
『……』
「おれは、おれの人生に何の後悔もないし、恥ずべきところもないけど、やっぱりインユェが、ほんの少しだけ羨ましいよ」
メイフゥは何も言わない。
ただ、嗚咽を堪えるような低い唸り声を上げて、更に速く宙を駆けた。
そんなメイフゥに、慈愛の微笑みを浮かべたルウが語りかける。
「ねぇ、メイフゥ。君はさっき、血に狂うって言った。自分が化け物だとも」
『……それが、どうした?』
「僕もそうだったんだ。僕も、血に狂う化け物だった。この子達に出会うまでは」
自分を化け物だと呼ぶルウの声は、どこまでも優しく、そして誇らしげだった。
「昔の僕も、何年かに一度、自分を失って血を求めてしまう時期が訪れた。意識を取り戻せば、目の前には血の海が広がっている。その度に死にたくなった。それでも、そんな僕を受け入れてくれる友人がいた。自分なら頑丈だから、襲うなら自分にしておけって言ってくれたんだ」
『……羨ましい話だな。ルウ、あんたはきっと、神様に愛されてるのさ』
「そうかも知れない。そしてメイフゥ、きみもきっと、神様に愛される資格がある。そうじゃないとおかしい。こんなにも優しくて可愛くて、素敵な女の子なんだから」
ぐぅ、と虎が笑った。
『まるで、自分が神様みたいな口ぶりだな』
「違うよ、僕は神様なんかじゃない。でも、神様じゃなくても、血に狂ったきみの相手をするくらいはできる。僕だけじゃなくて、この子もね」
ルウは、自分の相棒をちらりと見た。
金色の髪に翠緑色の瞳を持つ少年は、力強く頷いた。その気配は、暖かな体温とともにメイフゥの魂に伝わった。
「だから、僕もあの時の彼と同じことを言うよ。メイフゥ、血に狂いそうになったら僕たちのところにおいで。僕たちは頑丈だから、きみが暴れ回っても、まぁ、多分大丈夫だ。少なくとも、目を覚ましたきみの目の前に僕たちの死体が転がってるってことだけは、絶対にない」
「その代わり覚悟しろよメイフゥ。この姿のお前じゃ手加減は出来そうもない。骨の一本や二本折られても文句は受け付けないからな」
「その時はインユェも連れてくるといいよ。あの子も、初めてきみと同じ姿になったなら色々ともてあますだろうからね。溢れた力の受け皿がいずれ必要になる。その時は僕たちを頼ってくれればいい」
虎が、呆気にとられたように、宙に立ち止まった。
束の間の静寂。
そして、虎は笑った。呵呵大笑に笑った。遠吠えを、いずこかの仲間へと運ぶように笑った。
『そうか、そうか、なるほど、ウォルが仲間と、同盟者と呼ぶわけだ!こいつは強敵だ!インユェがウォルを誑かそうとしても、一筋縄にいかないはずだぜ!』
ぐん、と、メイフゥに乗っていた全員が、体が浮きあがる程の加速感を覚えた。
景色が、色を失うような速度で後方へ吹き飛んでいく。視野が中央に狭まり、周囲のほとんどを認識できない。それは、極端な加速が生み出す生体現象だ。
『こいつは是が非でもウォルを死なせるわけにはいかなくなった!リィ、あんたとインユェ、ウォルがどちらのもんになるかを見届けないと、死んでも死にきれない!』
その速度が、メイフゥの最後の力だということは全員が承知していた。
ぎしぎしと、軋み声の悲鳴を上げる筋肉。喉が鳴るような呼吸。毛皮が、その下にある筋肉が、火傷しそうな程に熱を帯びている。
涎を滴らせ、視界をぼやけさせながら、虎は宙を疾駆した。
そして、見つけた。
空と地の境に、僅かに灯る光。星でも月でもないその光が、一駆け毎に、少しずつ大きくなっていく。
それは、聖地に点された、儀式を祝う灯火であった。
◇
少女と狼が、戦っている。
少女は、その可憐な口元を引き絞り、真剣な面持ちで目の前の怪物を睨み付けながら。
狼は、地に伏せるように低い姿勢で、どこからどう攻められても背中に乗せた少女を傷つけないよう細心の注意を払いながら。
怪物が、悪夢のような腕を伸ばし、彼らを捕まえようとしても、あたかも宙を舞う蝶のように、ひらりひらりと身を躱す。
その様子は、戦いというより上等の舞いのようであり、語弊を恐れずに言い表すならば、まるで遊んでいるようにさえ見えた。
少女と狼の戦いは、歴戦の勇士であるケリーとジャスミンをして、心を奪う程に美しく、そして雄々しいものであったのだ。
ジャスミンが、苦笑とともに呟いた。
「しかし驚いたな。あの狼、ウォルを喰い殺すために来たのかとさえ思ったが、そこらの猟犬よりもしっかりと躾けられている。まるでウォルの意思が読み取れるみたいだ。それとも、あの子は実は魔女で、あの狼は使い魔か何かなのかな?」
不謹慎なのではない。軽口がきける程、ウォルと狼の戦いぶりは安心して見ていられるものだっただけだ。
「いや、違うぜ女王。あの狼があんなに従順な理由は、よく躾けられているからでもなければ契約で逆らえないからでもない。もっと単純な理由だぜ」
「それは?」
ケリーは、不敵な笑みを浮かべて言った。
「世の男性のほとんどが、女に頭の上がらない理由と同じさ。いわば惚れた弱みってやつだな」
「惚れた弱みだと?」
「惚れた女の窮地を救い、惚れた女を背負って一緒に戦っている。それで燃えないなら男じゃねえさ」
「ちょっと待て海賊。お前はいったい何を言っているんだ?」
ジャスミンの言葉に、ケリーの瞳が若々しく輝いた。それは、裏山に築いた秘密基地の存在を親友に打ち明ける、悪童のような輝きだった。
「まだ気が付かないのかい?あの狼は、俺よりもむしろあんたの方がよく知ってる、例のがきんちょさ。ウォルに特大のほの字の、銀色の髪で紫色の瞳の……」
「まさか、インユェか!?」
思わず大きな声を上げたジャスミンが、あらためてその狼を見直す。
透き通るように輝いた、銀色の毛並み。人を乗せてなお余裕を有する程の巨躯。全身にバネを仕込んだように躍動する筋肉と、何より濃密な野生を漂わせた鋭い顔つき。
どこにも、あのなよなよしさの抜けない少年の、甘えた様子はない。あれは完成された生き物だ。人とは別の世界で生きることを宿命づけられた故に美しい、そういう研ぎ澄まされた生き物のはずだ。
だが、ジャスミンは理解した。あれは、確かにインユェなのだ。あの、拗ねた目つきで自分を睨み付けた少年。ロッドで打ち倒されて、反吐を吐き散らしながら地面をのたうち回った少年。それでも、ウォルを助けるのだと歯を食いしばりながら立ち上がった少年。
「そうか……」
そうか。そうか。ならば、あの少年は、自分の望むものになることが出来たのだ。
ジャスミンの頬が、我が子を見守る母親のように、優しい曲線を描いて持ち上がった。
だが次の瞬間、二人に冷や水をかけるように、耐え難いまでの不快な含み笑いが聞こえた。
「なるほど、あれはあなた方の知り合いですか、流石は神の愛し子、理解はしているつもりでしたが、中々にしぶといものだ、最後まで楽しませてくれるものですね」
痩せた背を痙攣させるように、アーロン・レイノルズは笑っていた。その淀んだ視線の先では、狼と少女が、ぶよぶよとした巨大な赤子の、無数に生えた腕の一本を斬り飛ばしていた。
闘技場に響く、鼓膜をやすりかけるような、甲高い絶叫。
それは紛れもなく、自身の息子の泣き声なのだ。腐った肉塊と化した我が子が腐汁の涙を流しながら助けを乞うているのだ。
だが、それともやはり、父親たるその男は、煉獄の炎に身を焦がしながらそれでも戦う息子の姿を見て、心底嬉しそうに微笑んでいた。
まるで、一流の演劇を楽しむ観客のように。
ケリーが、酸味の強い唾を吐き捨てながら言った。
「……てめぇの血を分けた子供があんなざまで這いずり回ってるのが、そんなに可笑しいのかよ」
「いえいえ、別におかしいわけではありませんよ。何せ、あの姿は愚息が望んだもの。意中の娘と添い遂げるためにね。私はその手伝いをしたに過ぎません。全ては彼の自己責任。感謝されこそすれ、恨むなど筋違いも甚だしい。違いますか?」
ケリーは最早アーロンの言葉に応える必要性を見出さなかった。
この男は、穴なのだ。深く、光すらを飲み込み、底を見通すことが出来ない巨大な穴。
穴と人が話すことが出来るだろうか。人の声は穴に吸い込まれ、意味を為さない残響となって返ってくるだけ。それは自分の声の残骸であっても、穴そのものの意思ではない。聞こえるのは、人を狂気へと誘う乾いた風の音だ。見えるのは自分の無力さだけだ。
そんなものと意思疎通を図ること自体、不可能なのだ。
ケリーの、侮蔑に満ちた沈黙をどう受け取ったのか、アーロンは気持ちよさそうに続ける。
「ただ、こうもあからさまな不公平がこの世にあるとは、知っていたにせよ、何とも残酷で滑稽だと思いまして、それが可笑しくもありました。我が目を疑うとはこのことでしょうか」
「不公平だと?」
ジャスミンの声に、アーロンは頷く。
「そうではありませんか?愚息が拐かし、いたぶり殺した少女は百人を超えようかというのに、あの少女は未だ純潔を保ち、ああも生命力に充ち満ちている。何故か。それは、あの少女が神に愛されているからだ。彼女達は皆、同じ人間として生を受け、同じ人間として育ってきたというのに、これは何たる不公平か。そうは思いませんか、ミズ」
「……わたしの知らない間に不公平の意味は書き換えられたのか?それとも、この国では犯罪の被害者たちが全員等しく凄惨な目に遭わされることを公平と呼んで尊ぶのか?いずれにせよ、わたしの理解の及ぶところではないな。そして貴様のような人間のことを、盗っ人猛々しいとか面の皮が厚いとかいうのだろうさ」
「ええ、仰りたいことは分かりますよミズ。しかし、私が言わんとするところを、聡明なあなたならば理解しているはずだ。もしもあの少女が、いわゆる一般市民と変わらぬ星のもとに生まれていたのであれば、他の大多数と同じように、今頃薄暗い地下室で男達の慰み者となっていたに違いありません。しかし彼女は、ほら、ああも美しく、煌びやかに輝きを放ち続けている。まるで、世界を照らし出す太陽そのもののように。ならばその差異はどこから生じたのか。それは詰まるところ、その人間がどれほど天に愛されているかという一点に集約されるのですよ」
アーロンは、うっとりとした視線で闘技場の少女を愛でていた。怪物と化した息子を見るよりも、むしろ暖かな視線で。
「太陽を地に落とす。不可能事ではないにせよ、人に為しうる業ではないということか?それとも、これもまた天使が私に課せられた試練というべきか……」
老人の独り言を、ジャスミンが鼻で笑い飛ばした。
「何が試練か。貴様の嗜虐癖が自分の首を絞めただけだろうが。そんなにウォルを殺したければ、捕らえた時点で早々に首を刎ねるべきだったのだ。ここまで隙を作っておいて神の課した試練とはよくぞ言ったものだな」
だがアーロンは、寒気のするにやにや笑いを浮かべながら、
「あなたの仰るとおりですよ、ミズ。しかし、太陽を堕とすということは、ただこの世から排除するだけでは不十分なのです。太陽の輝きを奪うということは、その輝きを人々の記憶から消し去るということ。黒く塗りつぶし、夜空の漆黒の中に埋めて沈めるということ。崇拝するに値せぬと、高きところより引きずり下ろし唾をかけて汚すということ。そのためには、かの少女を公衆の面前で犯し、その処女性を奪い、穢し、嬲り、よがり狂わせ、髪の毛の先の先、爪の欠片のそのまた一片に至るまで羽化登仙の快楽と涜神の堕落を覚え込ませねばならない。その様をこの星の全ての人間のまなこに焼き付け、この気高き少女が、娼婦以下のけだものにすぎないことを民に教えなければならない。それでこそ、太陽の神性を奪いさることが出来ようというもの」
「……一応は聞いてやる。そこまでの労苦を厭わず、それでも太陽とやらを穢さねばならない理由は、いったい何だ?」
アーロンは、全身を法悦に振るわせ、官能の視線で宙空を舐めて、言った。
「無論、むろんむろんむろん、言うまでもなく、当然の如く、我が人生の悉くがそうであるように、全ては天使のためです……」
目の前に浮かんでいるであろう、天使の虚像を抱き締めるように、両腕を交差させ。
情熱に打ち震えながら、しかし囁くような声で、歌い上げるような調子で。
「そうです。全ては、天使の御心のままに。かの方が、この世に太陽は一つでいいと、己の愛する太陽だけで構わないと仰るならば、否やがあろうはずもなし。このアーロン、偽りの太陽を地に落とし、この宇宙に唯一の太陽を輝かせるために、身を粉にして働きましょう。断腸の想いで我が子を怪物に貶めましょう。そう、我が子ルパートよ、憐れなルパート、しかし何と羨ましく妬ましいルパートよ!お前は天使のために働くことが出来たのだ!何という光栄!何という名誉!誇らしかろう嬉しかろう、この世にこれほどの喜びがあろうはずもない!そのために、人を止めたことなど如何ほどのことだというのか!腐りゆく体、人の肉を喰らわねば生きていけない運命、誰しもがお前を遠ざけ、誹り、愛さない!だが、お前はたった一度だけ天使の役に立った!それだけで、貴様の残り滓のような人生に、光り輝く栄光が充ち満ちたのだ!」
アーロンは滂沱の涙を流していた。
ケリーとジャスミンにとって、人の流す涙がこれほど不快で醜く、何より不吉に映ったのは、これが初めての経験だった。
闘技場では、既に勝負の趨勢ははっきりとしていた。先ほどまで、アーロンの横やりがあっても五分五分だったのだ。今や、怪物と化したルパートは少女の剣に刻まれるだけの憐れな獲物でしかない。
膾斬りにされた怪物の、悲しげな叫びが闘技場に響いている。
「分かっている!分かっているぞルパート!嬉しいのだろう!身悶えし、泣き叫ぶほどに!当然だ!その喜びを、父はようく理解しているぞ!」
少女の振るう切れ味鈍い剣が、怪物の脇腹を切り裂いた。
裂けた肉の隙間から、ぼとぼとと、ゼリー状に腐敗した腸がこぼれ落ち、その裂け目から半分消化された人間の顔面がころりと転がり落ちた。
とろけた怪物が、更に苦悶の絶叫を上げた。
「ほら、敵が道具を使っているのだ!貴様も使わんでどうするルパート、お前は本当に、昔から頭が悪かった!」
アーロンが指をくいとしゃくると、怪物の腹の裂け目から、ずるずると腸が引きずり出された。
噴き出す大量の血液とそれ以上の血膿に塗れて、メデューサの頭のような、それとも無数の寄生虫が団子状に絡まり合ったような、怖気のする臓物が地面に溢れた。
怪物は溢れた内臓を両手で抱え上げ、自分の腹の中に戻そうと必死だ。だがそれは溢れたミルクをグラスに戻そうとするようなもので、一度体外に露出した内臓を自力で元に戻すなど不可能である。
それでも何とか腹の中に戻った極々一部の内臓が、怪物を嘲笑うように、しゅるしゅると、蛇のような動きで宙を駆け、少女と狼を包囲した。その光景を、まるで魂が抜かれたような様子で、怪物はただ黙って見ているしかなかった。
その不可解で冒涜的な動きが、アーロンの意思と能力によるものであることは明らかであった。
「貴様の望みがその少女を我が物とすることならば、ここで命を落としても何ら後悔は無いはずだろう、ルパート!だから、その無駄に多い腕など、千切り捨ててしまえ!」
ぱちりと痩せた指が鳴った拍子、怪物の背から生えた無数の腕が、一斉に千切れ飛んだ。
『あぎゃあ!』
素っ頓狂な叫びが、怪物の歪んだ口から溢れ出た。
怪物の背から、血が噴き出す。怪物が苦痛にのたうち回り、血と泥が混じり合い、あたりからヘドロのような悪臭が漂う。
身を起こした怪物が、助けを乞うような視線で、アーロンを見上げた。
「痛いかルパート!だが父も痛いのだぞ!貴様よりも、もっと痛いのだ!だが見よ!天使の御心は叶えられん!貴様の想いも、間もなく成就する!」
怪物から切り離された無数の腕は、重力に逆らって宙に浮かんでいた。
その腕が、一斉に、少女と狼に向けて襲いかかった。
四方から掴みかかる腕の群れを、狼は巧みに避け、少女は果敢に切り払った。腕の群れは、空しく地に落とされた。
しかし、彼らの足下に、怪物の腹から垂れた腸の切れ端が、鎌首をもたげた蛇の速度で忍び寄っていたことには気が付かなかった。
そして、気が付いたときには、巨狼の脚に、その一部が絡みついていたのだ。
狼は、即座に怪物の腸を噛み切ろうとした。だがそれよりも、怪物が自らの腸を握り、壁に向けて振り回す動作の方が早かった。狼の巨体は宙を舞い、少女を庇いながら、為す術無く鋼鉄の壁に叩き付けられた。
狼が、力無く落下する。少女がそれに駆け寄ろうとするが、既に両足を潰されてしまった彼女が駆け寄る前に、狼の体は再度振り回され、何度も何度も地面に叩き付けられた。
まるで、子供が虫螻を弄ぶように、狼は痛めつけられた。
最後に一度、怪物は渾身の力を込めて、狼を再度闘技場の壁に投げつけた。ごぉん、と重たい音が響き、鋼鉄の壁が大きく歪曲した。土埃と自らの吐血で銀色の毛並みを汚した狼は、ずるずると地面に這い落ちた。
「インユェ!」
少女の、悲鳴のような叫びが闘技場に木霊した。
アーロンは、嗤った。
「ざまをみるがよいわ!偽りの月などこの程度のもの!似非の分際で調子に乗るから無惨に死ぬことになるのだ!さぁルパート!その犬ころの首をねじ切れ!その小娘をずたずたに犯し殺せ!それが貴様の生まれた意味だ!」
怪物が、苦痛に身を捩りながら、伏したままぴくりとも動かない狼の元へと這い寄っていく。少女は、刃が欠けて既に剣とは呼べない剣を構えて、狼を庇い立ちはだかった。
もう、彼女達に抵抗する力が残されていないことは火を見るよりも明らかだった。この勝負は、怪物の勝利で終わるだろう。怪物は己の歪んだ欲望を満たし、少女を力尽くで自分のものにするのだろう。
だが、怪物は泣いていた。それは、歓喜の涙ではない。苦痛と絶望と、それ以上に後悔の涙だった。人を止めてしまった自己を認識する、最後の知性が流させる涙だった。
涙を垂れ流した怪物が、一歩一歩這い寄る。
「ひでぇ……」
ケリーが、嘔吐感を堪えながら呟いた。眼前で繰り広げられているのは、凄惨な生け贄の儀式でも無ければ、勇者と怪物の征伐劇でもない。これは、あらゆる意味を失ったただの見世物だ。例えば毒蛇と鼬をガラスケースに入れて喰い合わせるように、観客を楽しませるだけに彼らは殺し合いを演じさせられている。痩せた老人ただ一人を楽しませるためだけに。
そして、その役者の片方は、彼の血を分けた息子なのだ。その息子が、勝利を前にしながら絶望の涙を流す様を見て、親は喜び狂っている。
「おい、海賊」
隣から発せられた声に、ケリーの嘔吐感が吹き飛んだ。
寒気と緊張感。あらゆる生き物に共通の感覚。生命の危機。
背筋に絶対零度の針金を突っ込まれたような心地で、ケリーがその声の主を見る。
そこにいたのは、自らの妻である、ジャスミンだ。だが、その瞳は、黄金も斯くやというほどの鮮やかな金色に染まっていた。
「女王──」
「先に言っておく。しばらく見境が無くなるぞ、わたしは」
ケリーが言葉を飲んだ。自身の妻の、瞳の色を見たからだ。
その、圧倒的なまでの鮮やかさ。
ジャスミンの瞳の金色が、彼女の怒りを示す警戒色だとするならば、今の彼女は正に危険そのものであった。引き金の絞られた拳銃であり、既に発射されたミサイルであり、導火線が根本まで焼け焦げた爆弾であった。
「ふぬぅぁっ!」
ジャスミンの総身に力が充ち満ちた。筋肉という筋肉に血液が流れ込み、一気に膨れあがる。大柄な彼女を包むゆったりとした服が、内側からの圧力で緊張し、今にも千切れとばんばかりになる。
指、手の甲、首筋、顔、素肌の見える全ての部位が紅潮し、血管が浮きあがる。口を大きく引き絞る。食いしばった歯はぎしぎしと不快な音を立てて軋み続ける。
その様を見たアーロンの唇が、さも楽しげにめくれ上がった。
「おやおや、無駄なことを、ミズ。あなたの体を縛る力が、どれほど慮外のものかを今更教えて差し上げねばならぬのですか?そも、あなた方の用意した策の全てが、全ての兵器が、私に毛の先ほどの傷をつけるにも能わなかった。聡明なあなたらしくもない。今のあなたに許された選択肢は、このショーを最後まで見届けるか、それとも目を瞑って惨劇を拒絶するかのいずれかなのですよ」
「うぐぅぅぅああああっ!」
アーロンの嘲弄に、ジャスミンは応えない。鼻腔を膨らませ目を血走らせた、女性らしからぬ鬼の形相で力を込め続けている。
その無様な様子を見たアーロンが、溜息混じりにケリーに言った。
「ケリー、あなたからも言ってあげてくださいな。人には出来ることと出来ないことがあり、それは恥ではないのだと。私の異能は、あなた方がどう足掻こうと抵抗出来るものではないのです。それは、あなたが一番良くご存じでしょうに」
「ああ。それは重々理解してるぜ大統領。だが、重々理解した上で忠告しておいてやる。この女は本気でぶち切れたぞ。そして、俺は本気でぷっつんしたこの女ほど危険な存在を、この宇宙で見聞きしたことがねぇ。つまり、さっさと逃げるんだな。それも、尻尾に火がついた鼠よりも必死にだ」
「それはそれは、何とも面倒なことだ」
ケリーの忠告をあっさりと聞き流したアーロンは、再び眼下の舞台に目を落とす。
その時。
「うおおおおおおおあああっ!」
凄まじい咆え声と共に、ばしばしと、ガラスの砕けるような音が辺りを満たした。
その音が何なのか、誰に分からなかったとしてもアーロンにだけは理解出来た。自身の異能が、自身の意思以外の何かによって破られたのだ。
驚愕の表情を貼り付けながら振り返った大統領が見たのは、瞳を金色に、眼球を深紅に染め、大量の鼻血を流しながら自分を睨み付ける大柄な女性の異相と、迫り来る巨大な拳だった。
咄嗟にその危険な飛来物を静止させようと、能力を集中させる。しかし、対物ライフルの鉄甲弾の斉射すらを凌ぎきるテレキネシスは、その女性の豪腕を止めることが出来なかった。
「──ッ!」
声にならない声をアーロンが上げた。だが、拳は止まらない。
空を裂く勢いの拳が、腰を浮かしかけた痩せた頬にめり込み、骨と骨が衝突する音が響く。衝撃に負けたのは、当然の如く痩せた老人だった。老人の軽い質量は、憐れなほどに呆気なく宙を舞い、そのまま壁に叩き付けられた。
「がはっ……!」
呻き声とともに、折れた奥歯と大量の血が溢れ出た。それを法衣の袖で拭いながら、被害者は加害者を見上げた。
そこにいたのは、赤毛の魔女ではない。燃え盛る怒りで頭髪を紅く染めた、魔王がいた。
アーロンは、体が勝手に震えていることに気が付いた。それは、彼が生まれて初めて抱いた、他者への畏怖であった。
「ど、どうして……」
血塗れの口で、アーロンは呟いた。
「何故、私の特異能力が……」
「知ったことか」
魔王の形相で、ジャスミンが吐き捨てた。
「そう、知ったことではない。貴様が怪しい宗教に傾倒しようが、天使とやらを狂信しようが、知ったことか。わたしの目の届かないところで外道の所業に手を染めるのも知ったことか。だが、わたしの目の届くところで、わたしのよく知る子供達が貴様如きの玩具にされて我慢が出来るほど、わたしはお淑やかではない」
眼球を紅く染めているのは、破裂した毛細血管から硝子体に流れ出した血液だ。そして、感情の奔流とともに青灰色から黄金色に変じた虹彩。
紅玉に浮いた金色の瞳は、視線だけで対象を殺すことが出来たという神話の魔神を彷彿とさせた。
つまり、ジャスミンは怒っているのだ。それも、心の底から。
「その上、自分の子供の生まれた価値を、意味を、親が決めるだと?よくぞほざいたものだ。わたしは、そのような傲慢を認めない。貴様の存在価値を、認めない。今すぐ、貴様の存在を、この宇宙から抹消してくれる」
髪の毛を殺気で波打たせたジャスミンが、その巨躯を一歩進めた。
分厚い軍用ブーツの靴底がコンクリートの地面と擦れて、重々しい音を奏でる。左拳を右拳で包み、ごきごきと鳴らす。口元を汚した鼻血を、ぺろりと舐め取る。全ての所作が、例えようもない禍々しさに充ち満ちている。
ケリーは、心中でアーロン相手にお悔やみの言葉を贈った。もはやこの女を止めるのは、人間に許された業では無い。
「さぁ、お仕置きの時間だ、大統領」
「ち、近寄るな、化け物!」
アーロンが手のひらを翳す。ケリーは、ジャスミンの周囲の空間がねじ曲がったのを確かに見た。
ジャスミンの立った地面がえぐれ、重力に反して浮かび上がった小石が粉々に砕け散る。大気が、ジャスミンを中心にして竜巻のように巻き上がる。
それでも、彼女のどっしりとした歩みを止めることは、一秒たりとも叶わなかった。
あんぐりと口を開けたアーロンが、欠けた前歯を戦慄かせながら、誰に問うでもなく呟く。
「な、なぜ……」
「一つ、良いことを教えてやろうか、大統領」
追い詰められたアーロンは、助けを乞うような視線で発言者を見た。その視線を受けて、自身も異能から放たれたケリーは苦笑を浮かべながら、
「あんた、ラー一族を知ってるか?」
「ラー一族……」
声の調子から、答えを聞くまでも無いことをケリーは悟った。
「ご存じなら重畳だ。そして、その人智に外れた力は、大統領、あんたの桁外れの特異能力を水鉄砲か何かと見間違えちまうくらいさ」
「それが、いったいどういう──」
「俺や、あんたの目の前で仁王立ちしてるその女は、あの連中に心を読まれない」
アーロンが、驚愕に目を見開いた。
「あの連中は、人間が呼吸をしたり腕を動かしたりするように特異能力を行使する。彼らにしてみれば、ビルを一つ吹き飛ばすのも人の心を読むのも、精々欠伸を我慢するくらいの難しさでしかないんだろうぜ」
「だからどうしたというのだ!」
「なら、彼らにも心を読めない人間がいるんだ。特異能力の一つも通じない人間がいたってちっともおかしくない。そうは思わないか?」
そんな馬鹿な。アーロンはそう叫ぼうとした。今の今まで、自分の異能に平伏さなかった人間などいない。自分は、全ての人間の頂点にいるのだ。何故なら、自分は天使に愛されているのだから。
だが、そうなら、もしもそうならば、今、どうして自分は追い詰められているのか。多少腕っ節が強いだけで他に何の取り柄もないような、ただの女に。
それに、前は確かに特異能力が通用したのだ。他の人間と同じように。自分はこの女の首を絞め上げ、気絶させたのだ。あの時の、魂の抜けたような無様な顔をまだ忘れてはいない。
それが、どうして今、同じ人間に追い詰められているのか。自分は勝ったはずなのに。
這々の体で、アーロンは逃げた。異能の通じない人間が恐ろしかった。自分の理解の及ばない存在が恐ろしかった。自らを射貫く金色の瞳が、心底恐ろしかった。
だが、足音は無情に追いかけてくる。這いずりながら逃げるアーロンを、決して許しはしない。
その足が、アーロンの、肋骨の浮き出た腹を蹴り上げた。
「ぐぇ」
カエルを押し潰したような声を発して、アーロンは床を転げた。そのまま思うさま転げ回り、苦痛を吐き出したかった。
だが、ジャスミンはそれをすら許さなかった。アーロンの鳩尾を踏みつけ、体を地面に固定した。
涙と鼻水で顔を汚した老人は、その足を持ち上げようとした。だが、異能を失った彼は、正しく普通の老人であった。足は、岩地に根を張った大樹のように、びくとも動かなかった。骨と皮だけのようなその腕で、ジャスミンの強靱な足が持ち上がるはずなどなかったのだ。
「き、きさま、わたしを、ころすというのか……」
ジャスミンは、首を振った。横ではなく、縦に。
「終わりだ、アーロン・レイノルズ。貴様は私の靴底に張り付いていろ」
そう呟き、足を振り上げ、その踵をアーロンの顔面に思い切り振り下ろそうとした。
その時。
『駄目だよジャスミン!ちょっとだけ待って!』
声が、した。
咄嗟に動きを止めたジャスミンが、その声の方向を、見た。
そして、その声を同時に聞いたケリーが、堪えきれない笑みを浮かべて、一言、呟いた。
「遅いぜ、天使」と。
◇
狼が、吐血した。げぼげぼと、大量の血を吐き出した。反吐のようなそれが、土の地面に赤黒い水たまりを作っていく。
尋常の量では無かった。見る者に恐怖を覚えさせる量であった。
おそらく、いや、間違いなく内臓が傷付いたのだ。それも、致命的な程に。何度も何度も地面に叩き付けられ、鋼鉄の壁が拉げる勢いで投げつけられた。無事なはずがない。むしろ、生きているのが不思議なくらいだ。
それでも、狼は立ち上がろうとした。血を吐き出しながら、震える四つ足で立ち上がり、ウォルの前に立ちはだかった。狼を守ろうと剣を携えた、傷だらけのウォルの前に立ちはだかり、竜胆色の瞳で怪物を睨み付けている。
「もういい。もう十分だ。お前は休んでいてくれ、インユェ。このままでは、お前が死んでしまう」
必死の制止は、狼に届いたはずだ。その証拠に、狼の耳がぴくりと動いたのだから。
だが、狼に──狼の姿を取り戻した少年に、ウォルの言葉に従うという選択肢は存在しなかった。今更自分の命を惜しんで、愛しい少女を怪物に差し出せというのか。そんなことを許せるはずがない。
雄は、命を賭けて雌を守るのだ。勝ち取るのだ。命を賭けて雌を守った雄にこそ、次代に子孫を残す資格がある。そうやって、全ての生き物は世代を重ねてきたのだから。
だから、狼は一歩も退かなかった。吐き出すべき血を強引に飲み下し、威圧の唸り声をあげた。
それでも、その姿は正しく死に体である。その程度のこと、理性を失い知性のほとんどを失った怪物でも理解出来る。
全身を膿汁でずぶ濡れにした怪物は、おんおんと啼きながら這い寄る。絶望の嘆き声を上げながら、しかしその巨大な陰茎はそれ自体が意思を持つように打ち震え、先端から汚汁を垂れ流している。少なくともその部分は、ウォルの幼い肢体を今も貫かんと欲しているのだ。
狼は、最後の力を前足に込めた。あの怪物の全身が屍毒だというならそれもいい。一撃で喉笛を噛み砕き、一緒に地獄に落ちてやる。姉を死なせ、最後まで役立たずだった自分に、それはきっと似合いの最後だろう。
しかし。
狼のたてがみを、柔らかな手のひらが、そっと撫でた。
「分かった。よく分かったインユェ。そうだな、もしも俺がお前と逆の立場なら、もう休めと言われて休めるはずがないものな。それが男で、そうさせるのが女だ。何とも難儀な立場になってしまったものだ、俺は」
苦笑と共に、ウォルはそう呟いた。今までの自分は、ただ守れば良かったのだ、命を賭けてでも。しかし今の自分は、自身の意思とは関係なく、守られる存在になったのだ。遠い昔、そのことをとびきり微妙な渋面で嘆いていた少女を思い出す。そしてその少女は、今のウォルの将来の夫候補なのだ。
そうだ。あの娘は、守られるだけで良しとするような存在では決してなかった。全ては自身がどう在りたいかなのだ。
「俺も行く。俺も連れて行け。ここまで来たのだ。死なば諸共、死して開ける道もあるだろう」
無邪気に微笑みながらそう言った。無論、こんなところで死ぬつもりなど微塵もない。だが、命を惜しんで逃げ回るよりも、死を覚悟して戦ってこそ開ける道の方が多いのだと、歴戦の戦士である少女は知っていただけだ。
ウォルは、狼の背に飛び乗った。狼の足には、怪物の腹から伸びたはらわたが、今も絡みついている。このまま振り回されれば、先ほどの二の舞だ。そして狼の背にしがみついていれば、一緒に叩きつぶされてしまうかも知れない。蠅かそれとも蚊蜻蛉のように。
そんなこと、ウォルも当然分かっている。しかしウォルは何の躊躇もなく狼の背に跨がった。
「いくぞインユェ!」
狼は、嬉々と駆けだした。満身創痍の体で、後ろ足を引きずりながら牛よりも遅々とした速度で。
体は血と泥で汚れ、尾は力無く垂れ下がっている。片方の目は塞がり、閉じられた瞼から血が流れ出ている。怪物を圧倒していた時の、雄々しい獣の面影はどこにもない。いや、目の前の敵を睨み付ける、片目の視線の鋭さだけが以前のままだ。
そしてその視線を受けた怪物は、狼を敵と認識した。今度こそとどめを刺さんと、自らのはらわたを握る。狼が、脚に絡みついた肉の鎖を噛み切ろうと牙を向けるが、それは徒労に終わるだろう。再び狼の巨体は宙を舞い、そして地面に叩き付けられる。今度こそ、その生命が尽きるまで、何度も何度も。
怪物が、はらわたをぐいと引く。
しかし、狼の体が宙を舞うことはなかった。怪物と狼を繋ぐはらわたの、ちょうど中間あたりに深々と剣が突き刺さり、縫い止めていたのだ。
誰が剣を突き刺したはずもない。闘技場にいるのは、少女と、巨狼と、怪物だけなのだ。
その剣は、天より飛来した。無骨な造りの、剣であった。しかし、その剣をウォルは知っていた。そして、その剣を投じたのが誰か、ウォルは何よりもはっきりと知っていた。
夜空の向こうの漆黒を睨み付ける。そこにあるのは、ガラスの破片をちりばめたような星空だけだ。しかし、例えば目を閉じていても太陽の暖かさを感じられるように、ウォルはそこに誰がいるのかを理解していた。
そして、声を限りにその名を叫んだ。
「リィ!」
その声に応えるかのように、星の一つが、風に揺らめくように動いた、かに見えた。
次の瞬間、その星がぐんぐんと大きくなり、星以外の像を結ぶ。
それは、金毛の虎だった。空を飛び、凄い速度でこちらに向かって来る。もちろんただの虎ではない。翼を持つ、巨大な虎だ。
その背に、小さな影が見える。一つではない。何人かの人影が、そこにある。
だが、ウォルの視線が捉えたのは、あまりに美しい金色の髪と、苛烈に輝く翠緑色の瞳だけだった。
ウォルは、今度はこそ確信と信頼を込めて、その名を叫んだ。
「リィ!」
「ウォル、このばか!」
リィが、満身の力を込めて、何かをウォル目掛けて放る。それは、放たれた矢よりも鋭く宙を裂き、ウォルの眼前に突き立った。
それは、剣だった。造りそのものはリィの剣とさほど変わらない。ただ、刀身から漏れ出す気配が違う。リィのそれは、孤高で、リィ以外の人間を寄せ付けないような、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのに、この剣は、まるで自分を呼んでいるような、自分の手に収まるのを待ち望んでいるような気がするのだ。
誘われるように、ウォルが剣に手を伸ばす。柄に指が触れると、じんわりとした優しい熱が伝わってくる。生まれたての、産着でくるまれた赤子を抱いたような、得も言われぬ暖かさ。
ウォルは理解した。これは、自分の剣だ。いや、もっと正確に言うならば、自分だけの剣だ。他の誰の手に収まることもきっと拒絶するだろう、自分にだけ心を許した剣。
つまり、リィやルウと同じ、心を持った剣。
「お前の剣だ!ラー一族随一の刀工の、心血を注ぎ込んだ逸品だぞ!無碍に扱うなよ!」
無碍に扱うなどとんでもない。ウォルの内側の戦士としての部分が、あまりの歓喜に恍惚とした。今まで、名剣宝刀の類を手にして心打ち震えたことは数在れど、これほどの剣を手にしたことは一度だって無い。あるとすれば、闘技場で餓えた獅子と対峙したときにリィの剣を目の当たりにしたときだが、あれはあくまで自分の剣ではなく、リィの剣を借りただけだった。
全身を覆う酷い苦痛を忘れるように、刀身をじっと見つめる。鏡よりも磨き込まれた不思議な金属は、星の光を凝縮したような輝きでウォルを見つめ返した。
そして剣は無言でウォルに語りかけた。共に戦おうと。これから、全ての戦場を共に歩むのだ、と。
契約は成った。この瞬間、担い手と剣は、主従の誓いを結んだのだ。
おそるべき戦慄が、ウォルの背を走り抜けた。
「何を呆けている、ウォル!まずは目の前のでかぶつを片づけるんだ!その程度の相手にいつまでももたついていたら、同盟者の契約は白紙に戻させてもらうからな!」
「それは御免願いたいな!俺はまだ当分の間、お前にも背中を守ってもらうつもりなのだ!」
それはつまり、お前の背中は俺が守るという言葉だ。
ウォルが、笑いを噛み殺しながら叫んだ。
リィも、おそらく微笑んだに違いない。
「隙はこっちで作ってやる!一撃で仕留めろ、ウォル!」
「応っ!」
ウォルが、折れた方の腕で傷だらけの巨狼を撫で、
「さぁ、最後の一仕事だぞインユェ!勝利の女神は俺達に微笑んだ!あとは、約束された勝利を拾いに行くだけだ!」
巨狼が、最後の力を振り絞るように、嘶いた。
そして、全速力で怪物に向けて駆け出す。それと同時に、猛スピードで宙を疾駆する虎から、リィが躊躇無く飛び降りた。
常人であれば間違いなく墜落死する高さを落下したリィは、ウォルと対峙する巨大な怪物の背に降り立ち、深々と剣を突き立てた。それは、リィの相棒であるルウの剣だ。
怪物が、苦痛に満ちた叫びを放ち、竿立ちに立ち上がる。背に張り付いた苦痛を振り払おうとする。
その隙を、ウォルは見逃さなかった。
「頼む、インユェ!」
狼は乗り手の意思を汲み、無言で地を駆け、そして怪物目掛けて跳躍した。
ウォルは、怪物とのすれ違いざま、剥き出しになった首筋に向けて剣を振った。
手応えは、ほとんどなかった。ただ、後ろの方で、ごとりと重たい音がした。それが、怪物の首が地面に転がった音であることを、ウォルは知っていた。
──……りが……とう
背後から、虫の羽音のように甲高い調子で、そんな声が聞こえた気がした。
怪物の崩れ落ちる重々しい音が響く中、ウォルを背にした狼は、地に着地すると同時に崩れ落ちた。勢いそのままに顔面から地面に突っ込み、ぴくりとも動かなくなった。
舌を力無く垂らし、呼吸は浅く、焦点の合わない瞳はぼんやりと宙空を見つめている。もう、立つ力も残されていない。
着地の瞬間、地面に投げ出されたウォルは、新しい剣を杖代わりとして、何とか狼のもとに這い寄った。
狼は、ちらりとウォルを見上げて、微かに、本当に微かに、笑ったようだった。
「よくやった、インユェ、ありがとう、お前のおかげで俺は生きている。本当にありがとう……」
ウォルが、狼の太い首を掻き抱いた。伝わる拍動は弱々しく、今にも途切れそうだ。
突然、狼が大きく咳き込んだ。げぼげぼと、大量の血液を吐き出す。やはり、折れた骨が肺を傷つけているのだろう。生暖かい液体が、ウォルの顔を汚した。
狼が、少し申し訳なさそうな様子で眉間に皺を寄せ、ウォルの顔を舐めた。ウォルも、同じ事をした。狼の、口元についた血を舐め取った。
「絶対に、俺がお前を死なせない。死なせてなるものか。だから、安心して眠れ。大丈夫、俺がお前を守るから……」
その言葉に応えるかのように、狼の瞼がゆっくりと降りる。
ウォルは、異国の言葉の歌を歌った。遠い昔、妻が、眠りに落ちる前の我が子をあやした、それは歌だった。
狼は──インユェは、耳心地の良いその旋律に誘われ、漆黒の眠りに落ちていった。それは、二度と這い上がることの出来ない、底なし沼のような眠りだ。それでもいい。自分は、為すべき事を為したのだ。
鼻先に触れる、暖かく柔らかい感触。まるで、別れの時に少女と交わした口づけのような。
もしも死出の旅路の送別ならば、これ以上のものはないだろう。地獄の鬼にだって胸を張れる。俺は、愛しい少女を守りきって死んだのだ。そして最後に接吻を贈られた。どうだ、まいったか。
インユェは、満足げに微笑みながら、最後の意識を手放した。ゆっくりと、深いところへと沈み込んでいった。