懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第八十話:老人は祈る

 少女が、逃げている。

 細い足を必死に動かし、泳ぐような有様で闇の中を走り、逃げている。

 黒髪の、少女だ。美しい、少女だ。自分が一番愛する、まるで男のような名前の、ウォルという名前の少女だ。

 その少女が、顔を恐怖で歪ませて、逃げている。

 空気は濃密で、どれほど前に進もうとしても、嘲笑うかのように体を押し返す。少女の逃走は、老人が杖をついて歩むよりも更に遅々とした有様だ。

 発情した獣の体臭を纏わり付かせた男達が、下卑た笑いを浮かべながら、少女を追いかけてくる。少女が捕まればいったいどんな目に遭わされるのか、火を見るよりも明らかだた。

 少女が、絶望的な表情で振り返る。男達は、吐息の届くような間近にいる。

 男達は、少女を嬲るように、ゆっくりと追いかけてくる。それでも彼我の距離は広がらない。どれほど必死に逃げても、結末は変わらないのだ。

 それでも、少女は諦めない。足が動く限り、心臓が動く限り、彼女は逃げ続けるだろう。

 やがて、男達が手を伸ばした。ごつごつと節くれ立った手が、少女の髪を、首を、腕を、腰を、足を、全てを掴む。少女の体が、男達の腕の中に沈んでいく。

 

 インユェ、助けて

 

 少女が最後にそう呟いた。

 男の手が、少女の口を塞いだ。少女の服が、びりびりと力任せに破り捨てられる音が響いた。

 

「ウォル!」

 

 少年は、精一杯に叫んだ。

 

「ん、呼んだか?」

 

 脳天気な少女の声が、深い眠りから目覚めたインユェが聞いた最初の言葉だった。

 

 

 インユェが、ぐるりと首を巡らす。

 無機質な天井、家具がほとんどない質素な佇まいの部屋、薄い灯り。自分が寝ている、簡易な寝台。

 そして、ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けた少女の、柔らかい微笑み。

 

「おはよう、インユェ。よく眠れたか?」

 

 ウォルはそう言って、インユェの額に手を置いた。

 ひんやりと冷たい少女の掌が、得も言われず心地よい。その心地よさが、これは現実なのだとインユェに教えた。

 

「ん、熱も引いたらしい。随分魘されていたから少し心配だったが、これで一安心だな」

 

 ほっとした調子のウォルの声だったが、インユェの耳には届いていなかった。

 インユェの頭の中は、目の前で微笑む少女の笑顔で一杯だったのだ。

 

「ウォル……」

「どうした、何か欲しいものでもあるのか?そうだ、起きたばかりなら喉が渇いているはずだな。少し待ってくれ、こっちに水差しが……」

「ウォル!」

 

 突然、インユェがウォルに飛びついた。ウォルの小さな体はその勢いを受け止めきれず、インユェ共々、ふかふかのカーペットに転がった。流石のウォルも、まさか目覚めたばかりの半病人がこれほど敏捷に動けるなど予想していなかったので、躱しきれなかったのだ

 ごろごろと転がった二人の体はテーブルの脚にぶつかり、その上に置かれた水差しやら手桶やらを床に落としたものだから、かなり大きな音が鳴った。

 その音に驚いた、リィやシェラやメイフゥが、一斉に部屋に飛び込んでくる。

 

「ウォル、どうした!」

「大丈夫ですか、陛下!?」

「目が覚めたのか、インユェ!」

 

 そして彼らが見たのは、仰向けの姿勢で天井を見上げながら乾いた笑みを浮かべるウォルと、その胸に縋っておいおい泣き声を上げるインユェだったのだ。

 

 

「少しは落ち着いたか?」

 

 ウォルが、インユェの頭を撫でながらそう言った。

 インユェは、目を真っ赤にはらしたまま、なんとか頷いた。時折しゃくり上げる仕草を繰り返すあたり、どうやらまだまだ落ち着いているとは言い難いのだが、とりあえず人の話を聞ける程度には平静を取り戻したらしい。

 

「悪い夢を見て泣くとは、インユェ、お前はまだまだ子供だなぁ」

 

 悪気無くウォルがそう言うと、インユェの双眸にじわじわと涙が浮かんでくる。眉間に皺が寄り、鼻をぐすぐすと鳴らし、涙腺が大決壊を起こす寸前だ。

 

「だってよう……しょうがねぇじゃねえかよう……ウォルが……ねえちゃんが……うええぇ……」

「違う、すまんインユェ!そういう意図ではない!俺が悪かった!悪かったから、頼むから泣くな!」

 

 ウォルが慌てて慰めようとするが、インユェはさめざめと泣き始めた。

 ウォルは、天井を仰いで溜息をついた。仕方のない事なのかも知れない。インユェは、まだまだ本当に子供なのだし、子供には到底背負いきれない荷物を無理矢理背負って頑張ってきたのだ。その緊張の糸が途切れれば、幼児退行の一つも起こすものだろう。

 

「ああ、もう、分かった。分かったから思い切り泣け。ほら、胸を貸してやる」

 

 そう言って、ウォルはインユェの頭を掻き抱いた。

 インユェはされるがまま、ウォルの胸の中で大いに泣いた。

 

「……すまねぇ、ちょっと、落ち着いた……」

 

 小一時間ほども泣いたインユェが、途切れがちにそう言った。

 まだしゃくり上げながらなので、その言葉がどこまで本当かは疑問が残るが、本人がそう言うのだから信じる以外無い。

 それにしても、今のインユェは情けない様子であった。ほとんど丸一日ベッドで横になっていたから、自慢の銀髪のあちこちに強烈な寝癖がついて、いくつもの束が跳ね回っているのだし、寝起きの顔はむくれているし、目はなんとも恨めしげに赤く腫れて幽霊かなにかのような有様だし、鼻水と涎の跡で顔の下半分がべたべただ。

 弟のあんまりな様子に、姉が盛大な溜息を吐き出した。

 

「ったく、ちったあマシになったかと思えばいつまで経ってもよちよち歩きのがきんちょじゃねえか。そんな有様で惚れた女を落とせると思ってるのかよ」

「そりゃねぇよ、姉ちゃん……」

 

 また、ぐすぐすと鼻を鳴らし始めた。何せ、インユェはメイフゥが死んだものだと思っていたのだ。それが生きていた。先ほど、インユェはメイフゥの姿を認めるなり、ウォルの胸から離れて全力でメイフゥの胸に飛びついた。まるで、迷子の子猫がやっとのことで母猫を見つけたような姿だった。

 普段ならば、見境無い突進などひらりと躱して、情けない弟の頭に特大の拳骨の一つ二つを喰らわしてやるメイフゥなのだが、この時ばかりは感極まり、抱き合いながら一緒になって泣き声を上げてしまった。

 だから、今のメイフゥにもいつもの切れがない。自身も赤くした目を、明後日の方向に向けて毒づくだけだ。

 そんな姉弟の様子を微笑みながら見守っていたルウが、インユェの頭を撫でながら言った。

 

「本当に頑張ったよ。どうかな、少しだけ、自分のことが好きになれたでしょ?」

「……うん」

「ならよかった。きみは思い切り胸を張って良い。だって、きみはこの世で一番大切な人を守りきったんだから」

 

 インユェは盛大に鼻を啜り、目をごしごしと擦った。

 

「……どうして、俺は生きているんだろう。俺、絶対に助からないと思った。肺に肋骨が刺さってたのが分かったし、寒くて心細くて体中が痛くて、ああこのまま死ぬんだなって思ったんだ」

「そうだね、あのままだときみは絶対に死んでいた。だから、きみはこの子に感謝しなさい」

 

 ルウが指し示したのは、少し不機嫌そうな様子のリィだった。

 気を失っていたインユェには、リィがどのようにして自分を助けてくれたのか、分からない。だが、ルウの言葉に嘘がないのは分かった。そして、自分が何をすべきなのかも。

 インユェは、ベッドの上で居住まいを正し、リィに対して深々と頭を下げた。

 

「助かった。ありがとう、リィ」

「恩義を感じてもらう必要なんてない。お前がおれの同盟者を助けてくれたから、そして同盟者がお前を助けてくれと頼んだから、おれに出来ることをしただけだ。礼ならウォルに言うんだな」

「ああ。ありがとう、ウォル……。それにしても、あの後、何がどうなったんだ?ジャスミンさんや旦那さんは……」

「じゃあ、説明するよ。少し長くなるかも知れないけど、疲れたら早めに言ってね?まだきみの体は本調子じゃないんだから」

 

 

 祭壇は、静けさに包まれていた。広い観客席を埋め尽くす賓客達は、一言を発する事も出来ず、身動ぎをする事すら出来ない。ただ、篝火の燃え盛る音だけが、別世界の出来事のように遠くから響いている。

 戦いは、終わったのだ。それはつまり、神聖なる儀式の裁断が下ったことを意味している。

 曰く、少女に罪は無かった。

 広い祭壇に、剣を一振りだけ与えられて引き出された少女の姿は、あまりにもか弱く、儀式の贄以外の何物でもなかった。剣など、何の役に立つはずもない。狼たちに追い回され、醜く足掻き、最後はその生き餌になるのだと誰もが確信していた。

 しかし、少女はちっとも思い通りにならなかったのだ。

 狼をたった一刀のもとに切り捨て、傷だらけになりながらも正体不明の怪物を打ち倒した。最後の最後まで不撓不屈だったその様子は、生け贄に選ばれるべき、罪に塗れた人間からはほど遠い有様であった。

 それだけではない。

 あの、醜い怪物に追い詰められていた少女を助けた、白い巨狼。あれはまるで、聖女ヴェロニカの説話にある、ヴェロニカを守り天へと誘った神獣ではないか。

 では、あの少女は、聖女たる資格を持つということか。

 そうならば……万が一にもそうであるならば……自分達は、聖女を野獣の生き餌にし、あまつさえそれを見世物として楽しんだということになる。その行為がどれだけ罪の汚辱に満ちているか、あらためて考えるまでもない。今、地獄の獄卒は、この場に居合わせた全ての人間のために大わらわで通行証を用意していることだろう。

 そうでなくても、ヴェロニカ教で罪を犯した人間の死に様は、悲惨というほかない。ありとあらゆる苦痛を味わい、体を人外のそれへと変貌させ、最後は腐った内蔵を吐き出しながら死んでいくのだ。

 普段は、例えば姦淫や肉食程度の破戒など罪とも思わない観客たちが、一様に戦慄していた。何せ、自分達は、神に愛された聖女を、これ以下などないという方法でもって侮辱したのだ。これが神の怒りを買わないならば、あらゆる罪は意味を失うに違いない。

 駄目だ。そんな結論は、許容出来ない。自分達は、選ばれた人間だ。この星に文明を築き、繁栄をもたらしたのは我らの祖先だ。この星は、自分達の祖先の苦労と努力によって、何より神の寵愛によって育まれたのだ。ならば、祖先を愛した神々が、どうして自分達にだけその牙を剥くのか。

 そんな不公平があっていいものか。いや、そんなことが許されるはずがない。神が祖先を愛したならば、その子孫である自分達も愛するべきだ。

 そうだ。あれは、聖女などではない。聖女を騙る淫売だ。だから、この場で始末してしまっても、何の問題もない。仮に聖女だったとしても、天に昇る前であれば神の目も届かないかも知れないではないか。

 どちらにせよ地獄の最下層が口を開けて待っているならば、少しでも幸福への可能性が残る選択肢をこそ選ぶべきではないか。そも、見ろあの少女を。片腕は歪にねじ曲がり、足もどうやら歩けないらしい。巨狼も、まるで今にもくたばりそうな有様ではないか。妙な連中が増えたようだが、なに、数で押し包んでしまえば何とかなるだろう。

 誰が最初にそう考えたのだとしても、その思考が全ての観客に感染するまでそれほど時間はかからなかった。この場には、負の思考を伝染させる魔的な何かが満ちていたのだ。

 

「おい、衛兵。ぼうっと突っ立って、いったい何をしているのかね」

 

 到底植物性の栄養源だけで膨れあがったとは思えない程に腹をだぶつかせた高僧が、傍らに立つ僧兵に言った。

 僧兵は、耳道に氷水を流し込まれたかのように、びくりと体を震わせ男を見た。

 

「見なさい。神聖なる儀式が、無礼なあの闖入者によって掻き乱されてしまった。これは遺憾な事態だ。本来であれば、あの少女は、大統領閣下が神の使いと呼んだあの生き物によって神罰を与えられていたはずなのだ。なのに、本来あってはならないよこしまな助太刀により、まだ生き長らえている。これは到底神のご意志に叶うものではあるまい」

 

 自信満々な様子でそう言い切った。

 僧兵は思った。果たしてそうだろうか。本来の儀式であれば、少女は剣を一つ携えて、狼の群れと戦うのだ。そして、生き残るか否かをもって神の意志とする。いや、本来であれば生き残ることなどない。そして自然から多くのものを収奪した人間の罪は、自然の循環に戻ることを許されるのである。

 だが、少女は狼に打ち勝った。その時点で、儀式の結果は出ているはずだ。闖入者云々を言うならば、むしろその後に現れた、あの奇怪な怪物をこそそう呼ぶべきではないのか。

 

「儀式が、取り返しのつかない程台無しになる前に、在るべき形に修正するのが君たち僧兵の役割だろう?ならば、あの無粋な連中を速やかに排除し、罪深き生け贄の少女を、磔刑でも火刑でも良いから、早急に天へと送り届けるべきだ。違うかね?」

 

 尊大に言い切った高僧であるが、声の端々は不安定に震えていた。端的にいえば、この僧も恐ろしかったのだ。神の怒りが。神の下すであろう罰が。そして、自分の犯してきた破戒が。

 高僧の抱えた恐れは、即座に僧へと伝染した。ヴェロニカの教えに人生を捧げた僧は、男以上に、自分が置かれた立場を理解していた。聖女に唾を吐きかけた儀式に、そうとは知らなかったとはいえ参加してしまったのだ。この罪深さを、きっと神は許さない。

 何とかしなければならない。

 そうだ。そもそも、あれが聖女だなどと、いったい誰が決めたのだ?ただ、剣一本で狼の群れを切り伏せただけ。ただ、白い狼が少女を助けるために現れただけ。その二点しか、あの小娘を聖女とする理由など存在しないのだ。だいたい、あの少女は罪深き肉喰いの星の生まれである。そんな穢れた聖女など、あり得べき話ではない。

 そうだ。あの少女は、偽物だ。聖女を騙る不逞の輩である。誅罰を加えることこそ、神の御心に叶うはずだ。

 決意した僧兵は、マシンガンを片手に、無線機の回線を開いた。

 

 

 テセルは、転げ落ちるようにして、メイフゥの背から闘技場に降り立った。

 体中の筋肉が、かちかちに強張っている。無理もない。落ちればまず助からない高度を信じられない程の速度で疾駆する、翼持つ虎にしがみついていたのである。ここまで無事辿り着けたこと自体、我が事ながら信じがたい。

 生まれたての子鹿のように、両足が細かく震える。しかしそれは、疲労や緊張のためだけではない。

 テセルは、目の前の光景に感動していたのだ。

 傷だらけの少女。傷だらけの巨狼。少女は意識の無い狼の首を抱き締め、我が子を慰める母親のように、緩やかに撫で続けている。それは、神話にある聖女と神獣の邂逅を描いたイコンそのものであった。

 奇跡が起きたのだと思った。信仰の本質を忘れ、名目と惰性を守るだけの存在となったヴェロニカ教の目を覚まさせるために、神が彼女を使わしたのだと。

 その聖女が、ゆっくりとこちらに視線を向ける。漆黒の、底の読めない瞳。我知らず、テセルは跪いていた。聖女の前で伸ばす膝を、彼は持っていなかったのだ。

 

「リィ、ずいぶんと遅かった」

 

 落ち着いた声で、少女が言った。

 その言葉を受けた金髪の少年が、ばつが悪そうに頭を掻いた。

 

「ああ、ウォル、ずいぶんと遅くなった。それにしても、悪いのはおれだけじゃないと思うぞ。家出というには随分遠くまで家出したもんだ。迎えに来る方の身にもなってくれ」

 

 少女は、透き通るような笑みを浮かべた。

 

「それは因果応報というやつだな。家出はお前の専売特許ではないのだぞ。これで、置いていかれる身の辛さというものが、少しはお前にも理解出来ただろう?」

 

 悪戯気な少女の声に、少年は苦笑した。少年が、異世界で少女として生活していたとき、一月や二月の家出は正しく日常茶飯事だったのだ。それを言われると、少し弱い。

 リィは負けを認めるように、両手を挙げた。

 

「わかった。悪かったよウォル。きっと、凄く心配させたんだと思う。これからは気をつける。だからお前も、これからは家出するなら家出するって言ってくれ。それと、出来れば恒星間を跨ぐような家出は勘弁して欲しい。迎えに来るのが、骨が折れて仕方ないんだ」

「ああ、分かった。家出するときは、実家に帰るくらいにしておこうか。亭主の無体な振る舞いに愛想を尽かした妻は、まず実家に帰るものらしいしな」

「それはもっと勘弁してくれ……」

 

 ウンザリしたようにリィが呟いた。今は養子の身分であるウォルの実家とは、当然のことながらヴァレンタイン邸なのだ。家出した妻があの家に引き籠もってしまっては、色々と面倒なことになるのは目に見えている。

 渋面を浮かべたリィの様子を見て、ウォルは少しだけ微笑んだ。

 

「なぁ、リィ、頼む。どうか、インユェを助けてやってくれ。このままでは、死んでしまうんだ」

 

 ウォルは、狼の鼻筋を軽く撫でた。

 狼は、愛しい少女の掌の感触に、少しも反応しなかった。力無いその様子は、正しく死期を迎えた獣そのものだった。呼吸は浅く、速い。その呼吸も、浅い調子のまま少しずつ回数を減らしているのが目に見えて分かる。まるで命を司る蝋燭が、今、燃え尽きようとしているかのようだった。

 

「こいつは、命を賭けて俺を助けてくれたのだ。俺は、命を賭けてもこいつを助けなければならない。口幅ったいながらも、それが戦士の覚悟に対する礼儀というものだと、俺は思う」

「同感だ」

「だから、リィ、俺は何でもする。火の海に飛び込めというなら飛び込もう。命を差し出せと言うなら差し出そう。お願いだ。どうか、インユェを助けてくれ」

 

 ウォルの言葉は静かだったが、そこに込められた覚悟は本物だった。今、そこで死にゆく少年を助けるためであれば、少女は己の命すら容易く捨て去るだろう。

 だが。

 

「ウォル。その言葉はおれに対する侮辱か?」

 

 リィは、苛烈そのものの声でそう問い質した。視線に込められた気迫は、一歩間違えれば敵意に昇華しかねない程である。

 

「おれとお前は、いったい何だ、ウォル」

「婚約者だ。そして兄と妹だ。なにより、戦士の誓いを交わした同盟者だ」

「婚約者ならば、助けあうものだ。兄は、妹のわがままを聞くものだ。戦士の誓いを交わした同盟者ならば、お前の背負った恩義はおれの背負った恩義と同じ意味だ。どうしてお前を助けて傷を負ったインユェを、おれが見捨てられると思う?その行為に対価を求めると思う?お前は、おれを忘れてしまったのか?」

 

 ウォルは、ゆっくりと首を振った。

 

「馬鹿を言うな。忘れられるはずがない。だから俺は、未練たらしくこの現世にしがみついているのだ。お前を忘れてしまえば、俺がこの世にいる意味もまた無い。お前を忘れたときが、きっと本当の意味でこの世を離れるべきときで、今はまだその時ではない。そして、お前をただの便利な道具と勘違いしたときがあるならば、それはお前を忘れてしまったということなのだろう」

 

 だから、少女は命を賭けて助けを乞うた。それが、全てを為しうる奇跡の力を有する少年に、奇跡を乞う時の最低限の礼儀だと知っていたのだ。そうでなくては、奇跡は日常に堕し、少年と少女を結ぶ絆は初めて綻びを見せるだろう。

 リィは、静かに目を閉じ、重々しい息を一つ吐き出した。

 

「……本当に、やっかいな奴と同盟者の誓いを結んじまったもんだ。誓いを結ぶ前にあっさりお前を王座に戻してやれば、気苦労の一つも減っていたのにな」

 

 ウォルは、気持ちよさそうに微笑んだ。

 

「ああ、お互い苦労するな」

「自覚があるなら、これからは少し大人しくしていてくれよ」

「一度鏡の前で、同じ台詞を吐いてみるがいい。どれほどの困難事か、きっとお前でも理解出来るに違いないさ」

 

 リィも、ウォルと同じ笑みを浮かべた。そしてネックレスから指輪を外し、右手の人差し指につけた。

 

「どいてくれ、ウォル」

 

 ウォルは、言われた通り狼から体を離した。

 遠い昔、頼るべき親衛隊長であり無二の親友でもあった青年が重傷を負ったとき、王妃が初めて力を解放したことを、ウォルは思い出した。だが、今のリィには、あの時の危うさがない。少年の体に、もう一つの太陽が生じたように、恐るべき力の奔流を感じるが、それは完全に少年の意思で制御されていることが理解出来る。

 きっと、インユェは助かるのだ。

 そう、ウォルが確信した、その時。

 静寂に満ちた闘技場に銃声が響き、瀕死の狼の前脚から、血飛沫が舞い上がった。

 

「──」

 

 表情と言葉を失ったウォルの眼前に、武装した僧兵が大挙して現れる。そのうちの一人が、声も誇らしげに言った。

 

「見ろ、こいつ、鉛の玉で血を流したぞ!神獣だなんて嘘っぱちだ!もしもこの化け物が神の使者で聖女の守護者ならば、人の作った武器如きで傷なんてつくものか!」

 

 たちまち周囲の僧兵からも同意する声が上がる。

 

「神獣が嘘っぱちなら、聖女も偽物に違いない!」

「あれはただの犯罪者に過ぎん!どうせ、生かしておいても極刑なんだ!この場で殺してしまえ!」

「火刑だ!あの女の罪を、火で清めろ!縛って燃やせ!」

 

 口々に叫ぶ僧兵たちの目は、狂気で満たされていた。如何なる現世の苦難も恐れない彼らだからこそ、死後に魂が鞭打たれることが恐ろしいのだ。現世は一夜の夢だとしても、死後の苦しみは永劫に続くのだから。

 自分達が許されざる罪を犯した自覚があるからこそ、それを認めることが出来ない。罪など無かったものとして走り続けるしかない。立ち止まった自分を見れば、そこには絶望が大きな口を開けて待っている。

 

「殺せ!そこの化け物狼も、得体の知れない連中も、今すぐに!」

「火にくべろ!火にくべろ!聖なる炎で、穢れた肉喰いどもを灰にしてしまえ!」

「ヴェロニカの神を信じぬ異教徒どもを皆殺しにしろ!」

 

 彼らが浮かべているのは、およそ想像しうる最も醜い人間の表情であった。

 己の自尊心を守るための虚勢、他者への寛容を否定する残虐性、己の神の名を借りた正義への盲目的信奉。たった一つでも吐き気を催すであろうどぎつい色彩の感情が、重なり合い渦を巻いているのだ。到底、正気の人間が直視出来る顔ではない。

 僧兵達の表情を、ウォルの背後で跪いていたテセルも見た。

 テセルも、己の人生を捧げた教団が、初めて恐ろしかった。ヴェロニカ教の信仰の輪から、半歩だけ離れて中心を覗けば、これほどおぞましいものが満ち溢れていたのか。それともこれはヴェロニカ教に限った話ではなく、人の作る集団全てに共通する危うさなのか。

 後ずさりそうになる足を叱咤し、テセルは立ち上がった。

 

「控えよ!貴様ら、自分がいったい何をしようとしているのか、分かっているのか!」

 

 テセルの大喝は、狂気に取り憑かれた僧兵達の足を止めた。

 狼狽えた僧兵の一人が、テセルの顔を見、驚愕の表情を浮かべた。

 

「て、テセル老師!」

「何故あなたがここに?」

「た、大病を患われて、床に伏せっておられるのでは……?」

 

 口々に慌てふためく僧兵を、テセルの怒気が鞭打つ。

 

「愚か者どもがっ!私がここにいる理由などどうでも良い!重要なのは、今、この場で何が起きているのか、そして何を為すべきかであろうが!」

 

 再びの大喝に、僧兵達は慌てて膝を折った。

 

「この少女が聖女であるか否かなど問題ではない!それは神のみが知り給うことであり我らが計り知れるはずもなし!ただ重要なのは、この少女は儀式の洗礼を受け、今も生きているということだ!この一事のみ、我らは神のご意志を推し量ることが許されるのだ!」

 

 テセルは、平伏する僧兵を睨み付け、

 

「汝らに問う!この少女に罪があるや否や!」

 

 その問いに、誰も答えない。じっと、地についた己の手を見つめている。

 やがて、一人の僧兵が、決意を眦に刻み、顔を上げた。

 

「恐れながらテセル猊下。あなたの仰ることは一々ご尤もなれど、我ら、この娘を生かしておくわけにはいきませぬ」

「……なんだと?」

「この娘は、神の御使いである狼たちを、あろうことか皆殺しにしたのです。もしもこの娘が神に許されたのならば、狼たちは牙を剥くことすらなかったはず。狼たちが牙を向けた時点で、この娘に罪多きことは明々白々のはず。その上、御使いたる狼たちを殺すとは、最早救いの道など慈悲深き神とて用意出来はしないでしょう」

「それに猊下、あなたには聞こえませぬか、祭壇を埋め尽くす信徒たちの声が」

 

 テセルは、擂り鉢状に盛り上がった観客席をぐるりと観た。

 そこは、当然のことながら、観客で満ちている。その誰もが、ヴェロニカ共和国では名の知れた名士ばかりだ。政治家、投資家、大企業の経営者、学者、果ては記録映像に登場しない日はないという俳優や歌手まで。

 彼らが、一様に押し黙り、狂熱の籠もった視線でじっと自分達を見ているのだ。

 テセルは、気道に何かが閊えているような、異様な圧迫感を覚えた。

 

「テセル猊下。彼らは皆、救いを求めているのです」

「救いだと?ならば、まずは過去の行いを悔い改め、神の許しを乞うのが筋であろうが!」

「それは正論でありますが、そうであるが故に彼らに受け入れられることはないでしょう。何故なら、普通の人間は己の罪をありのまま認められるほど強くはないからです。彼らが求めているのは、真なる魂の救済ではなく、己の罪を覆い隠す程度の詭弁でしかない」

 

 平然とそう言ったのは、まだ年若い僧であったが、つるりとした禿頭であった。それは、出家した僧の証である。

 ヴェロニカ教における出家とは、神に人生を捧げることと同義のはず。ならば、人生を神に捧げたはずのこの僧兵は、いったい何を言っているのか。

 テセルは、咄嗟に言葉を紡ぐことが出来なかった。

 

「我らの使命は、迷い怯える衆生を救い導くこと。であれば、その娘には本来の儀式の主旨に則り天へと還ってもらいましょう。なに、荒野の獣にとって、供されるのが生き餌であろうと死餌であろうと大差があろうはずもないではありませんか。つまり、まだ儀式は終わっていません。その娘が死ぬまで終わらない」

 

 よく見れば、若い僧の視線は恐怖と狂気が混在してどろどろに濁っていた。口では理屈をこね回しながら、彼らも考えていることは同じなのだ。罰が恐ろしい。罪が恐ろしい。助かりたい。救われたい。だから、罪と罰の象徴である少女を目の前から消去したい。

 そんなことで罪や罰が消えるはずがない。寧ろ、業火はその勢いを増すだろう。それでも彼らの理性は目の前の脅威を消去することを選んだ。

 だが、その思考は、例えば、掻っ払いの罪を隠すために人殺しを犯す阿呆のそれと変わるところがないのではないか。

 例えようもない怒りとそれ以上の情けなさがテセルの胸中を灼いた。貴様ら、それでもヴェロニカの僧か!声を限りにそう叫びたかった。

 だが、法衣の袖を引く小さな手が、テセルの嘆きを押しとどめた。

 

「いい」

 

 少女だった。

 体を血と泥で汚した黒髪の少女が、俯き加減で、テセルの法衣を掴んでいた。

 テセルは思わず悲鳴を上げそうになった。それほど、少女の顔からは表情というものが消え失せていた。まるで死人のように。

 固い唾を飲み下したテセルが、ひび割れた声で訊いた。

 

「いい……とは、何がいいと言うんだ?」

「もう、いい。ありがとう、御坊どの。あなたは俺を庇ってくれた。その恩義、一生忘れない」

 

 少女は、にこりと微笑んだ。どこにも陰のない、朗らかな笑顔で。

 なのに、何故だろう。テセルの背を、冷たいものが滑り落ちた。目の前にいるのは、小指の先で突けばそのまま死んでしまいそうな程にぼろぼろの少女だというのに、思わず数歩、テセルは後ずさった。

 そして理解した。これは、慮外の生き物だ。そう、例えば今朝方、自分を誘拐した金髪の少年や、その相棒であるという魔的な青年のように。

 テセルを押しのけるように、ウォルは歩を進める。

 足を引きずり、剣を杖として寄りかかり、何度も転びそうになりながらこちらへと向かって来る少女を見て、僧兵は片頬を歪めるように笑った。

 

「肉喰いの割にはずいぶんと物分かりがよい。死後の貴様を灼く浄火も、少しは勢いを弱めようというものだろう。神の慈悲に感謝するがよい」

「最期は貴様自身に選ばせてやろう。火刑がよいか、磔刑がよいか、それとも車裂きか」

「ひと思いという訳にはいかんぞ。貴様は罪に穢れた身。苦痛こそが罪を雪ぐのだからな」

 

 不吉な言葉の数々に、しかし少女は片頬だけを歪めて微笑んだ。

 

「生憎、俺はこの世界の生まれではないのでな。この世界の神とやらには会ったことが無ければ祈ったこともない。当然、貴様らの祈る神など、畏怖もなければ有り難くも無し、興味など小魚の頭ほどもありはしないさ」

 

 僧兵達からすれば致死量の冒涜的な言葉を、少女は事も無げに吐き出し、そのまま続ける。

 

「だが、貴様らが何を望んでいるのかはよく分かるぞ。つまり、戦争だろう。火刑だの磔だの仰々しい。俺が恐ろしいのならそう言え。俺を殺したいのなら素直にそう言え。狼は倒した。怪物も倒した。次は貴様らだ。それだけの話だろうが」

 

 少女は、血塗れの笑みを浮かべた。

 

「さて誰からだ?一人ずつか?それとも全員同時か?どちらでも構わんがさっさとしてくれ。出来れば手早く片づけたいから全員でかかってきて欲しいものだがな」

「強がりを、この愚か者め!そのようにボロボロの体で何を言うか!よかろう、貴様は火炙りだ!聖女は劫火の中から不死鳥の如く再臨されたが、呪われた身で同じ奇跡が起こせるか試してやる!」

 

 僧兵の一人が銃を構え、少女の足を狙い引き金を絞った。殺すつもりはない。ただ、火刑台を組み上げるまで大人しくさせようとしたのだ。

 銃声が轟く。誰しもが、少女の凄惨な姿を予想した。超音速の弾丸が少女の太股を貫通し、有り余る運動エネルギーはその骨を砕き肉を飛び散らせるのだ。ショックで即死しても不思議ではない。即死を免れたとしても、二度と歩けない体になるだろう。

 だが、少女は倒れなかった。それどころか、少女の体は、髪の毛の先ほどの傷も負ってはいない。

 僧兵は、狙いが逸れたのだと思い、再度引き金を引いた。しかし、少女の足には傷一つつかない。それどころか、剣を杖代わりにしてようやく立つことが出来る程に不安定だった少女の歩みが、一歩ずつ、力強く確かなものになっていくのだ。今の今まで血と泥に塗れ、肌の色すら分からなかった体が、少しずつ清められていく。歪にねじ曲げられた腕が真っ直ぐになり、腫れがみるみる引いていく。

 それだけではない。何度洗っても二度と白さを取り戻さないであろう程に汚れきっていた死に装束が、天使の着る羽衣のような輝きを放つ。

 そして、少女は一人、凛然とした姿で僧兵達の前に胸を晒した。時を巻き戻したかのように傷は癒え、目には燃え盛るような烈気が漲る。

 全てを許し全てを救う聖女の瞳ではない。全てを打ち倒し全てを導く、覇王の瞳だ。

 その瞳に射貫かれた全ての僧兵は、一様に畏れを抱いた。自分達が銃口を向けている相手は、もしかしたら聖女という存在よりも遙かに恐るべき、畏るべき存在なのではないか。

 僧達に走った悪寒を打ち消すように、だぶついた腹を豪奢な法衣で誤魔化した高僧が、貴賓席の中段から叫んだ。一番最初に、僧兵を扇動した男であった。

 

「惑わされるな!あれはただの毒婦に過ぎん!蜂の巣になるのが望みならば、よかろう、それをもって儀式の終わりとするまでよ!撃て!あの淫売を親でも見分けの付かない肉片に変えろ!」

 

 僧兵といえど兵士である。そして兵士にとって上官の命令は神の声と同じく絶対服従を要するものである。

 兵士達の銃口が少女に向けられる。そして古めかしい機械式の小銃が一斉に火を噴いた。

 幾重にも重なる銃声が、祭場を圧する。先ほどまで、少女とその騎する狼、おぞましく巨大な怪物の死闘を見て現実感を失いかけていた観衆の鼓膜を、無味乾燥な炸裂音が振るわす。

 だが、それらの銃弾も少女を傷つけることはおろか、触れることすら叶わなかった。動きを止めた弾丸が、少女の目の前の空間に幾百発も浮遊していた。

 それが誰の御業なのかは分からない。分かるのは、銃弾でかの少女を傷つけることは不可能なこと。そして少女もしくは彼女を寵愛する何者かは、常識では考えられない所業を可能としていること。

 つまりそれを人は、奇跡と呼ぶのだ。

 僧兵達は、色を失った顔で、呆然と少女を見た。その手は力無く項垂れ、支えを失った小銃は重力に従って地に落ちた。

 首領格の高僧は、震える声で叱咤を飛ばした。

 

「な、何をしておる!殺せ!その小娘を……!」

「喚くのは結構だが、上の者はまず手本を見せるべきだ。そうでなくては下の者はついて来んぞ」

 

 少女がそう呟いた瞬間、高僧の太った体が、まるで見えないクレーンに吊り上げられたかのように宙を舞い、祭壇へと落っことされた。

 背から地面に落ちた僧は何度も咳き込み、半死半生の態で体を起こしたが、差し出されたのは救いの手では無かった。

 ひんやりとした声と、それ以上に冷たい感触が、だぶついた頬を撫でる。

 息を殺し、おそるおそるその正体を見れば、それは濡れたような輝きを放つ刃先であった。少女が、蹲った僧の前に立ち、剣を突きつけていたのだ。

 

「はっ、ひぃっ、や、やめ……」

「そう言った人間に、今まで貴様はどう答えた?」

「ゆ、ゆるして……たのむ……」

 

 細切れに息を飲んだ僧が、憐れを誘う声で言った。

 少女は、人の悪い笑みを浮かべた。

 

「知っているか?他人に武器を取らせ、自分は安全なところで指示だけを出してふんぞり返り、それを当然と思って恥じることすらしない。そういう人間を卑怯者と呼ぶのだ。俺が聖女の名を騙る不届き者だというのならば、まずは貴様がかかってこい」

 

 すぅと剣が突き出される。頬の皮を裂き脂肪にめり込んだ刃が、冷たいはずなのに灼け付くような熱を放つ。

 生暖かい血が頬を伝い顎先から垂れ落ちるのを感じた僧は、股間の辺りからも同じ熱を感じた。辺りにツンとしたアンモニア臭が立ちこめたが、それは一瞬のことで、夜の帳から吹いた風が不快な臭気を吹き飛ばした。

 ウォルは眉を顰め、溜息を吐き出しながら剣を引いた。もう、殺すのも面倒だと思ったのかも知れないし、無二の友となった銘無き剣をこんなことで汚すのが忍びなかったのかも知れない。

 

「失せろ。そして二度と俺の前に豚のような顔を見せるな。次に会った時が、貴様の命の尽きる時だと思え」

 

 大急ぎで立ち上がった僧は、一度だけ振り返り、それから脇目も振らずに逃げ出した。泳ぐような走り方は不安定で、途中一度盛大に転び、闘技場の門の奥へと消えた。

 ウォルは、僧の無様な様子を見届けることなどせず、傷付いた巨狼のもとへと駆け寄った。その傍らには、少女の最も信頼すべき小さな戦士が立っている。

 

「インユェは?」

 

 リィは微笑んだ。

 

「こいつは曲がりなりにも人狼の端くれだ。なら、この程度でくたばるもんか」

 

 ウォルも微笑んだ。

 

「そうかも知れない。だが、俺は早くこいつを治してやりたいと思う。お願いだ、リィ。俺をそうしたように、こいつの傷も癒してやってくれ」

「なんだ、気が付いていたのか。面白くない」

「それは気が付くさ。俺は生憎、闘神の縁者ではないのでな。少しばかり他人よりも高い椅子に座っていたくらいで自分が神だと勘違いするほど愚かではないぞ」

「その神様に、随分と辛口だよお前は」

「崇め奉って欲しいなら今からでもそうするが?」

 

 リィは両手を挙げた。降参の意思表示だった。

 

「だけど、こいつを治すのはおれの仕事じゃない。それは、おれがするべきことじゃないからな」

「では、いったい誰が?」

「命を賭けて守られたんだ。なら、お前が助けてやれ」

 

 そう言われたウォルは、途方に暮れたように眉を寄せた。彼女には、リィのような不思議な力は備わっていない。少なくとも自身はそう思っている。

 抗議しようかと思ったが、止めた。リィが、ただの意地悪でそんなことを口にするような少年でないことに思い至ったからだ。

 ウォルは真剣な表情で訊いた。

 

「何故、お前が助けてやれない?」

「こいつは月だ。月は、太陽の光を受けて輝く。そして、こいつの太陽はお前で、おれじゃない。なら、おれの輝きでこいつを照らす事は出来ないんだ」

 

 リィの言葉を完全に理解出来たわけでは無かったが、ウォルは頷いた。つまり、自分が助けなければいけないということ。

 

「どうすればいい?俺には、やり方が分からない」

「両手で体にさわれ。そっとでいい。そして目を瞑って、こいつを助けたいって念じろ。元気だった頃のこいつのイメージを忘れるな。あとは、おれがやる」

 

 ウォルは頷き、巨狼の前に立った。

 傷付き、ぼろぼろになった大きな体。新雪の上に銀の粉を散らしたように美しかった毛並みは、怪物の体液と自身の血と泥に塗れ、ドブネズミよりも汚らしい色に染まっている。

 その毛皮の中に、ウォルは顔を埋めた。そして両手を精一杯に広げ、狼の体を掻き抱いた。

 とくん、とくん、と、弱々しい鼓動が聞こえる。暖かい血液の流れを感じる。呼吸の度に上下する体が、何故か愛おしい。

 我知らず、涙が流れた。ウォルは知っている。この涙は、自分が流した涙ではない。自分が流して良い涙でもない。これは、少女の体が流した涙なのだ。

 

「シャムス……」

 

 その声も、自分の声ではなかった。自分の声であっても、自分の声ではないのだ。誰がそれを知らずとも、自分だけは知っている。

 これは、あの少女の声だ。夢の中で、何度も憑依した少女。

 そして、横たわった狼は、あの少年。

 そうだ。あの少年だ。何度も夢の中に現れ、その度に自分が宿る少女と交わっていった少年。太陽の如き金の髪と、森の精を集めたような翠玉色の瞳をした少年。

 彼は、太陽の化身だった。それがいつの時代なのか分からない。もしかしたら原始の太陽なのかも知れないし、未来のそれであってもおかしくはない。

 ただ、少年は太陽で、少女は月だった。月で、そして狼に体を変じることのできる一族だった。その彼らが結ばれ、子供が生まれた。その先は知らない。彼らが幸福だったのか、それとも不幸だったのか。ただ、青年となった太陽は、少女を守るための戦いに出立した。それが帰路のない旅路であることを知りつつも。

 そして彼は生まれ変わった。今度は、自分の愛した少女と、同じ種族として。もう誰にも邪魔をされないよう、少女と同じ月として。

 ウォルの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。切なさと愛おしさで胸が張り裂けそうになる。嗚咽とともに、何度も何度もその名を呼ぶ。

 

「シャムス……シャムス……死なないで……お願いだから……わたしを、この子を、置いていかないで……」

 

 その声には、どこまでも深い愛情と母性、それらと同量の哀れっぽさが含まれていた。決して、男という生き物に許された声ではない。

 ウォルは、泣きじゃくる自分を不思議な視点で眺めていた。胸を締め付けられる想いで狼のぬくもりに縋り付いている自分がいて、それを冷静に観察している自分がいる。多分、それは肉の体に支配されている自分と、形のない魂に支配されている自分という領分の違いなのだろう。どちらが上でどちらが下なのではない。ただ、そういう区分けが出来るというだけ。

 ふと、暖かいものが体の内側に満ちていく。その熱を、ウォルは知っていた。遠い昔、不幸な偶然によって瀕死の重傷を負った親友が、黄金色の狼に助けられたとき、あの部屋の内側に満ちていた熱と同じだ。ただ、あの時のような不安定さは欠片も無い。春の陽だまりで寝っ転がっているような、とろんとした暖かさ。

 その熱を与えてくれているのが誰なのか、ウォルは知っていた。その熱を与えるべきなのが誰なのか、ウォルは知っていた。自分は、この熱の運び手なのだ。

 体に満ちた熱を、掌から、腕から、体そのものから、狼の内側へと伝える。熱が少しずつ失われ、そのぶん狼の体が暖かくなっていく。しゃくり上げる声が少しずつ小さくなっていくのは、狼がそれだけ死から遠ざかっていることを知っているからだ。

 

「カマル……ありがとう……」

 

 誰かの声が聞こえた気がして、ウォルは弾かれたように顔を上げた。

 そこには、優しく眼を細めた、大きな狼がいた。毛並みは新雪の輝きを取り戻し、その体には生命力が充ち満ちている。

 もう大丈夫だ。その安堵が、新たな涙を流させる。嗚咽も嘆きもない、静かな涙。

 狼は、透明な雫を、甘露のように舐め取った。そしてもう一度少女の頬を舐め、それからゆっくりと地に伏した。程なくして安らかな寝息が聞こえる。

 上手く行った……のだろうか?ウォルは鼻を軽く啜り、重い溜息を空に向けて放つ。

 そして、軽く肩を叩かれて振り返った。

 

「初めてにしては上出来だ。ウォル、お前はこういう力を使う素質もあるのかも知れない」

 

 ウォルは、手の甲で目元をぐいと拭った。

 そして、笑いながら言った。

 

「有り難いことだが、辞退させてもらうとしようか。俺は、お前と違って心の弱い人間だからな。手に余る力を得て、それが幸福に繋がるとは思えない」

 

 リィは、驚いたように目を大きくして、それからいつものように微笑んだ。この少年が、気を許す数少ない人達の前だけで見せる、邪気の無い笑顔だ。

 

「さぁ、帰ろうか。みんな心配してる。それに、山ほどの補習も待っているぞ」

「それは楽しみだ」

 

 頬を綻ばしたウォルが、リィに歩み寄ろうとした、その時。

 

「お待ち下さい」

 

 地に伏した僧が、そう言った。無論、先ほど逃げ去った小便漏らしとは別の僧である。

 ウォルが振り返り、

 

「なんだ、まだ何か用か。俺を淫売だの悪女だの付け狙うのは別に止めんが、それならばあらかじめ時と場所を指定しろ。いつだって挑戦には応じてやる」

 

 僧は、頭を上げることすらなく、地面に視線を落としたまま応えた。

 

「滅相もございません。我々は聖女ヴェロニカの使徒であり、あなた様は紛れもなく聖女の生まれ変わりたる御方。神獣を従え、その傷を癒す。それが聖女以外の何者に許された御業でありましょうや」

 

 ウォルはさすがにウンザリした。先ほどまで儀式の生け贄だの火炙りにしろだの喚いておきながら、この変節はいくら何でも節操がなさ過ぎると思ったのだ。

 

「今更貴様らの宗教的価値観に口を挟もうとは思わんが、だからどうしたというのだ?俺がその聖女とやらの生まれ変わりだとして、何が望みだ?」

 

 その言葉に、僧達はいっそう体を低くした。それは地に伏せるというよりも、地面に体を投げ出していると表した方がしっくりくる姿勢である。五体投地とでも言うべきか。

 

「聖女よ。どうか、愚昧なる我らに許しを与え給え」

「我らは許されざる罪を犯した。罪には罰を。我らが犯したに相応しい罰を、どうか」

「罰は許しなり。我らの魂が無間地獄に落ちぬよう、この体を滅し給え」

「死を。聖なる死を、我らに」

 

 殺してくれ、と、僧達は言ったのだ。

 彼らの声には感情というものが無かった。生への執着もない。そこにあるのは、昆虫の鳴き声めいたある種の無機質さだった。

 それを殉教の潔さと呼ぶには、あまりに冷たすぎた。狂っていても間違えていても、人間が命を賭けるために必要なはずの熱が、そこには一分すら無かった。

 それも当然なのかも知れない。彼らは、ただ恐れていたのだ。死の後に己を灼くであろう業火が。今の今まで、それはただのお伽噺であり、子供向けの説話でしかなかった。だが、目の前の聖女がいる。神獣がいる。そして奇跡がある。ならば、どうしてその説話だけが偽りだと信じることが出来るだろう。

 ふと気が付けば、そこにいるのはウォルに銃を向けた僧兵だけではない。まだ年若い僧、既に老境を迎えた僧、武装した者も非武装のものも、全ての僧がそこに跪いていた。いや、僧だけではなかった。先ほどまで、愉悦とともにウォルの処刑劇を楽しんでいた観客が、続々と闘技場に降り、僧達の後ろに跪いた。

 彼らは一様に無表情だった。何故なら、彼らは既に死んでいるのだ。現世を去るための苦痛は一瞬である。しかし、死後の苦痛は永遠に課せられる。どちらが恐ろしいか、考えるまでもない。死後の安寧を得るために必要な罰が死ならば、彼らの選択肢は一つしかない。

 年端もいかない子供が、いったい何が起きているのか分からず、ただ周囲の大人達の真似をして跪いていた。その傍らで、おそらくは子供の母親らしき人が、無機質めいた表情で跪いている。我が子だけは助けようなどという気配は一切無い。むしろ、せめて我が子だけには罰を与えて欲しい、死後の苦しみを免じて欲しいという心情なのだろう。

 宗教が人を幸福にするのか否か。その結論を待たず、今ここにあるのは、宗教という色彩の最も醜い側面であった。先ほどの、弱き者をいたぶる嗜虐性も、今の、現世を軽んじ己や他者の命さえも軽んじる盲目的服従も。

 ウォルは無言であった。それは、あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失っていただけではない。目の前で繰り広げられる喜劇の醜さに、耐え難い吐き気を催していたのだ。

 

「どうか、罰を」

「どうか、罰を」

「どうか、罰を」

 

 声が、輪状に広がっていく。静かに呟かれた声が、さざめきとなり、振動となり、激流のようにウォルの体を圧した。

 目眩が、した。

 なんだ、これは。この国の神とやらは、どれほど阿呆臭い小芝居に俺を付き合わせれば気が済むのだ。

 歯を噛んでいたウォルが口を開こうとした瞬間、それよりも早く、怒りに満ちた声を発した者がいた。

 リィだった。

 リィが、翠緑色の瞳を軽蔑と怒気で染め、毛を逆立てるような面持ちで叫んだ。

 

「ふざけるな!」

 

 生気を失った瞳の群れが、顔を起こした。それほどにその叫びは凄まじいものであった。

 

「どうして自分の生を神なんかに押しつける!どうして自分の死を他人に押しつける!こいつは聖女なんかじゃない!縦しんば聖女だったとしても、お前達の身勝手な死に責任を持たなきゃならない謂われなんて一つもない!お前達が地獄に堕ちる程の罪を犯したと思うなら、その償いは自分でしろ!いい年をした大人が駄々を捏ねるな気色悪い!」

 

 牙を剥いた狼のような形相に気圧され、最前列にいた僧のほとんどは腰を抜かして尻餅をついた。

 だが、中には肝の据わった僧がいたのだろう、辛うじて平静を繕った表情で言った。

 

「聖女の従者らしき少年よ。貴様は塵ほども理解しておらん。我らがどれほどに罪を恐れ、どれほどに罰を希っているかを。この少女は聖女の生まれ変わりであらせられる。ならば、我らを救うためにその罪を飲み干して下さるに違いないのだ」

「伝説でもそうだった。聖女は、ヴェロニカの民が罪に塗れ、その有り様を忘れかけたとき、それを思い出させるために天より使わされたのだ。この少女も、我らの罪を許すために使わされたはず」

「ヴェロニカの神は偉大なり。我らここで果て、清らかなる魂と共に偉大なる大地へと還らん」

「己が手を汚されるを望まれぬならば、たった一言お命じを。死ねと。さすれば我ら、見事この場で果てましょう」

 

 跪いた人間は、百という桁に収まる人数ではない。その全ての人間が、冷たい覚悟と期待を宿した視線でウォルを見上げている。

 その異様な光景を、しかし一度見たことのある者がいた。

 シェラは、耐え難い怖気に必死で耐えていた。

 シェラは、この場にいる人間の、魂の籠もらない視線を確かに見たことがあった。それは、例えば自分の生まれ故郷で。例えば尊敬すべき師、頼るべき同輩、父母代わりの人。彼らが笑ったとき、怒ったとき、ほとんど見たことはなかったが泣いたとき。表情こそ変われど、薄皮一枚の下には、今自分が見ている信徒達と同じ顔が隠れていた。

 それは、鏡に映った自分の顔にも。

 だからこそ分かる。もしも、今や彼らの信仰の対象となってしまったウォルが『死ね』と命じれば、彼らは何の疑いも恐怖心すらもなく己の心臓に短剣を突き立てるだろう。夫は妻を絞め殺し、母は子を刺し殺すだろう。自分が呪われた一族の命脈を絶った、あの一言のように。

 己の命を誰かに依存させた人間というものは、斯くも醜いのか。かつての自分もその一人だったのか。青ざめたシェラは、己の肩を掻き抱いた。体が、寒くもないのにがたがたと震えていた。

 

「……死にたいならば勝手に死ね。貴様らが死のうが生きようが、俺には興味はない」

 

 ウォルが、吐き捨てるように言った。

 今は少女となったウォルだが、かつて男の身体で生きていた頃は賢王、名君として遠い異国にまで名を馳せたことがある。

 一度だって民に無体な仕置きをしたことはない。しかし、彼女は無制限の平和主義者や博愛主義者であったわけでもない。自分に敵対した者には苛烈な処断を必ず行ってきたし、寸毫もそれを躊躇しなかった。

 ならば、難しいことではない。今、彼女の目の前にいるのは紛れもなく自分と敵対した人間だ。自分を儀式の生け贄に捧げ、それを見世物として楽しんだ。報復の対象としたところで、誰も非難はし得ないだろう。これほど下劣な人間に同情する者などいないに違いない。

 だからたった一言『死ね』と言えば全ては片付く。

 だが、胸の底に一滴だけ沈殿した、この名状し難い後味の悪さは何だろう。例えば、夢の中で抵抗出来ない弱者や老人に暴力を振るった後、目覚めた時に残る罪悪感。親しい人間と言い争いをして、その夜の寝床で感じる後悔。

 その悪寒が、ウォルから決定的な一言を奪っていた。

 死ねと言えば、彼らは迷わず死ぬだろう。一切の躊躇すらなく。

 では、死ぬなと言えば。彼らの罪を許すと言えば。罰を与えられることなく罪を許された彼らは、また同じ過ちを繰り返すのか。信徒以外を人として扱わず、少女を拐かして虐待する。罪なき人間をこのようにくだらない儀式の生け贄に捧げ、酒の肴として楽しむ。

 ここで全てに決着をつけるべきか。

 しかし、ここの集まった人間がいなくなっても、他の信徒達はどうか。何も変わらないのではないか。そうならば、この連中にとどめを刺すのはただの憂さ晴らし、自己満足にしかならないのではないか。

 煩悶に苦しむウォルが、それでも最後の答えを見つけ、口に出そうとした、その時である。

 這いつくばった信徒の群れ、その奥の方から、小さなざわめきが起こり始めていた。

 先ほどあった、死を望む言葉が作り出したざわめきではない。もっと、驚きと困惑に満ちたざわめきだ。死を受け入れた亡者の群れが、人間として何かに面食らっている。

 ウォルも、そのざわめきに気が付いた。そして見た。聖者が歩く海のように真っ二つに割れる信徒の群れ、その裂け目をこちらに向かって歩いてくる枯れた老人を。

 

「ビアンキ老だ」

 

 誰かが言った。

 

「あの、乞食のような爺が?」

「いや、間違いない。ビアンキ老だ」

「そうだ、ビアンキ老ではないか」

「大統領派に暗殺されたはずでは」

「どうしてここに」

 

 口々にそう言った。

 周囲で巻き起こるその声に、当のビアンキは一切の反応を示さなかった。泰然自若とした有様で、もしくは耳が聞こえていないような様子で、少しずつウォル達のいるところに向けて歩いてくる。

 何とも見窄らしい格好であった。身につけているのは垢じみたボロ切れ一枚で、少し良い暮らしをしている物乞いならばまだましなものを着ているだろうという按配である。本来老師が纏うべき紫紺の法衣の絢爛さと比べれば、憐れを通り越して滑稽と言ってもいい。

 皮膚は鉛色に染まり、かさかさに乾いている。頬骨が、薄皮一枚を破って外に飛びでそうな程に尖っている。落ちくぼんだ眼窩に、黄ばんだ白目と濁った瞳が浮いている。

 道端に寝そべり、明日の朝日を見る前に死を迎える老人。ビアンキを見た誰しもが、そのような印象を抱いた。

 その瀕死の老人が、歩く。

 誰に指図された訳でもなく、信徒はビアンキのために道を空けた。彼の、あまりに異様な風体は、それだけの迫力に満ちていた。

 ビアンキの視線は、しかし伏した信徒には向けられていない。ただ、その向こう、剣を携えた少女に向けられている。

 その視線を、ウォルは真正面から受け止めた。ウォルにとって、それは初めて見る老人だ。名前はおろか、素性や役名も分からない。だが、彼の老人が尋常ならざる覚悟をうちに秘めてこの場に現れたことだけは理解出来た。

 ビアンキは、しっかりとした足取りでウォルの前に立った。ウォルは、同年代の少女達と比べても中程度の背丈しかないが、それでもウォルの視線の方が高い。

 近くで見ると、ビアンキの顔が老人性の染み以外の黒ずみで汚れていることに、ウォルは気が付いた。それが内出血の跡であり、誰かに暴力を振るわれた跡であることも。

 

「ご老人、その顔、どうなされた」

 

 ウォルが訊いた。

 ビアンキははにかみながら、生々しい傷跡を摩った。

 

「お気に召されるな、王よ。これは、儂が師として如何に未熟であったかの証左のようなもの。詰まるところ、身から出た錆ですじゃ。聞かぬが武士の情けというものですぞ」

 

 かっかと、ビアンキは口を開けて笑った。

 つまり、顔の傷はビアンキと同じ神を信じるヴェロニカ僧が拵えたということだろう。ウォルは、老人の手首に、やはり痣のようなものがあることに気が付いた。もしかしたら、どこかに監禁されていたのかも知れない。

 

「どうしてここへ」

 

 ウォルが、再び訊いた。老人の身体が、切実に休息を必要としていることは明らかだ。無理をすれば、本当に命に関わる。

 その老人は、己の身体のことなど歯牙にもかけない様子で、

 

「この乱痴気騒ぎに幕を下ろすため」

 

 囁くように、そう言った。

 ウォルは頷いた。老人の言うことは尤もだ。

 

「あなたは、俺を聖女と崇めないのか」

 

 幾分皮肉な調子の言葉に、老人は再び笑った。

 

「聖女とは、教義に敬虔であり人の身には許されざる奇跡を起こした者を指す言葉。その点、あなた方はまさしく奇跡のような身の上の御方ばかりじゃが、教義に対する敬虔さは幾分欠けておると言わざるを得ますまい。残念なことではあるがのう」

 

 ウォルは、真剣な顔で頷いた。

 

「俺はウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。老人、お名前を伺ってよろしいか」

「ミア・ビアンキと申します、王よ」

 

 ビアンキはそう言って、深々と頭を垂れた。

 何故、彼が、少女にしか見えないウォルを王と呼んだのかはウォル自身にも分からない。だが、それを納得させるだけの不思議な知性が、ビアンキの濁った瞳の奥にあった。

 

「ビアンキ翁は、事の道理をきちんと理解しておられる。俺が為したのは、ただ狼共を剣で薙ぎ払い、怪物を一匹退治しただけのこと。しかも、その怪物も元は憐れな人間であったのだ。たったそれだけのことが奇跡などと呼べるものか」

「左様でございますな。野暮を承知で申し上げるならば、その傷を癒し服を繕ったのはそこにおわす小戦士どのの御業。あなたの為した、そう、奇跡などではございません」

 

 ビアンキは、悪戯気な笑みとともにリィをちらりと眺めやった。

 かつてビアンキと顔を合わせたことのあるリィは、少しだけ居心地悪そうに肩を揺すった。

 その様子を見て、まるで自身の孫を愛でるようにビアンキは微笑んだ。

 

「ではビアンキ翁。俺が聖女などという戯けたものではないとご存じで、どうしてこの場に足を運ばれたか」

「先ほど申し上げました通りでございます。不肖の弟子共が起こしたこの乱痴気騒ぎに、幕引きを」

「翁には、この茶番劇を終わらせる算段がおありか?」

「無くて、どうしておめおめこの場に顔を晒せましょうや」

 

 ウォルが頷いた。

 

「では、翁に任せる。如何様にでも彼らを言いくるめて欲しい。そのための協力は惜しまん」

「それは心強いお言葉です。が、最早言葉をもって彼らを納得させるのは不可能でございます。相応の犠牲無くば、この場は収まりますまい」

 

 そろそろ、二人の会話を聞き取ることの出来ない信徒たちが、焦りを帯びた小声でざわめき始めている。それでもビアンキは、あくまで飄々とした様子で言った。

 

「例えば、あなたが、自身は聖女ではないのだと証明することが出来たとして、彼らはならば良しと矛を収めることはないでしょう。あなたが聖女を侮辱したとして、あらためて血祭りにあげることを望むはず」

「だろうな」

 

 ウォルは苦々しく首肯した。

 

「聖女であることを否定しない以上、あなたは彼らを許すか、それとも罰するか、もしくは捨て置くか、それを選ばなければなりません。許せば、彼らは過ちを繰り返すでしょう。罰するか、それとも捨て置けば、彼らはこの場で果てるでしょう。いずれも、あなたの望むところではないはず」

「望む望まざるの話ではない。ただ後味が悪いだけだ。それに、その結末を望まないのは誰よりも、翁、あなたでしょうに」

 

 ビアンキが、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「我ながら、分不相応なことを企んでいると自覚しております」

「誰かの血を見なければ収まらない場ならば、どうやって納めるおつもりか?」

「決まっております。組織の罪は、詰まるところその頂点に立つ人間の罪。そこさえ断じてしまえば、他に類を及ぼさずに罪を免ずることが出来る。これは人類社会の原始より定められた原理原則であり、最も犠牲を少なく争いを諫める優れた方法であるはず」

 

 ウォルは、老人の枯れた瞳を見た。

 皺が浮いてさえ見える老人の眼球に、確固たる決意が迸っていた。

 

 

 テセルは遠巻きに、ウォルと、その眼前で跪くビアンキを見ていた。

 遠目でも、ビアンキが、どれほどの労苦を背負い、辛酸を舐めたのかが分かる。それほどに、己の師は酷い有様だったのだ。

 おそらく、一人で教団本部へと乗り込んだのではあるまいか。この、狂った茶番劇を止めさせるために。それがどれほど無謀なことかを、十分に理解した上で。そして捕らえられ、痛めつけられ、監禁された。老師として、ヴェロニカ教の位階の最高を極めた者が。

 余人は、その行為を愚かと詰るかも知れない。そして、おそらくそれは真実だろう。

 だが、誰がビアンキを非難しても、自分にだけはその資格が無いことを、テセルは理解していた。痛いほどに、身を捩るほどに理解していた。

 テセルは、必死に涙を堪えていたのだ。

 

 ──俺は、馬鹿だ。

 

 血が出るほどに手を握りしめる。噛み締めた奥歯がばりばりと不快な音を鳴らすが、今のテセルはその音にすら気が付かない。

 この馬鹿げた儀式を止めさせるために、自分は何をしたか。何もしなかった。回り始めた歯車を止めるのは不可能だと、知ったふり、賢しいふりを決め込み、見ざる言わざる聞かざるを決め込んだ。

 果たして、本当にそうだったのか。

 お飾りであろうとも、自分は組織の最高指導者だったのだ。ならば、精々見苦しく大声で喚き散らし、利かん坊のように首を振り続けて地団駄を踏めば良かった。そうすれば、あるいは儀式は行われていなかったかも知れない。そうすれば、最初の儀式で犠牲になった少女は、今も生きていたかも知れない。師がこれほどみじめな姿を晒すことも無かったかも知れない。

 全ては、自分の責任だ。

 そう思ったとき、決壊した涙腺からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、地面に小さな染みを作った。

 俯き加減の姿勢で肩を振るわせていたテセルに、後ろから声がかけられた。

 

「泣くのは構わない。自分を責めるのも止めはしない。でも、あなたにはこの場で起きる全てを見届ける義務がある」

 

 優しい声色だったが、その奥に有無を言わさぬ厳しさがあるのをテセルは感じ取った。

 その厳しさが、今のテセルには有り難かった。

 

「分かっている。言われるまでもない」

 

 子供のように目元を拭い、唇の端をひん曲げて、それでも気丈にテセルは言った。師が、今、全ての信徒に道を指し示そうとしているのだ。それを見届けなくて、何のための弟子か。師に師の義務があるならば、弟子には弟子の果たすべき責務がある。

 その姿を見て、ルウは眼を細めた。何も言わず、もう一度テセルの肩を、今度は優しく叩いた。

 そんな二人の前でビアンキは何かを呟き、数瞬の後、ウォルが固い表情で頷いた。

 ビアンキは皺だらけの笑みを浮かべ、頷き返し、そして立ち上がった。

 

「さて、皆の衆。夜も遅く、ご苦労である」

 

 ビアンキは、振り返り、言った。

 全ての信徒が一斉に平伏した。ビアンキが既に老師の位階を追われたことを知らない人間がいるはずもなかったが、誰も疑問や不平を投げようとはしない。ビアンキが老師であることの正統性を認めたと言うよりは、この場を取り仕切るべき人間を無意識に求めていたのだろう。

 己に対してひれ伏した信徒たちを、ビアンキは無感動な視線で眺めた。

 

「我ら、聖女ヴェロニカに信仰を捧げる者にとって、最も神聖な儀式、回帰祭も酣である。今年は例年とは些か趣の異なるものとなってしまったが、そろそろ、誰かがこの祭を締め括らねばならない」

 

 本来であれば厳かであるはずのその声が、津々とした哀しみに満ちている。その一事で、信徒たちはビアンキが、今の今まで執り行われてきたこの儀式に対してどのような感慨を抱いているのかを理解した。

 唐突に、信徒たちの胸を深い後悔が襲った。何故、自分達は年端もいかない子供を生け贄に捧げ、それを喜んでいたのか。美酒だと思って煽った杯には、心地よい酔いをもたらす毒酒が注がれていたことに、今更ながらに気が付いたのだ。

 しかし、誰かを恨むことなど出来るはずがない。他者を虐げ愉悦に浸っていたのは他ならぬ自分達なのだ。

 幾人かが、声を押し殺して啜り泣き始めた。

 

「この場にいる全ての人間ではないにせよ、幾人かは己が罪深きことを既に理解しているのだと儂は信じている。そこで汝らに問う。汝らの罪、那辺にありや?」

 

 ビアンキの言葉に、信徒の最前列にいた僧の一人が、泣き濡れた顔を上げて応えた。

 

「我ら、我らの信ずべき聖女を辱め、その恩寵に仇をもって報いました。その罪、正しく万死に値します」

 

 その言葉に、幾多の賛同の声が上がる。

 

「然り。聖女が再臨するという奇跡に気づかず、その神性を見抜くことが出来ませんでした。我らの血の滲むような修練は全く意味を為さなかった……」

「聖女の傷付く姿を見て、まるで獣の喧嘩を楽しむような声で囃し立てました。どうしてあのように愚かな真似をしてしまったのか、私は私が許せません」

 

 涙声で、彼らは一頻り続けた。

 その声が収まったところで、ビアンキは静かに首を振った。

 

「汝らの言い分は尤もだが、儂は、罪の在処はそこではないと信じておる」

 

 信徒たちは何も言わなかったが、その瞳が不安げに揺れた。

 ビアンキは、静かに続ける。

 

「そも、汝らはこの少女を聖女と呼ぶ。しかし、この儀式が始めるまでは、生け贄と呼び異教徒と蔑んだ。何故、この少女を聖女であると思い至ったのか?」

 

 先ほど答えた僧とは別の僧が、固い表情で口を開いた。

 

「考えるまでもないことではございませぬか。かの少女は、常識では考えられない剣技をもって狼の群れを退け、得体の知れない化け物を切り伏せ、神獣を従え、そして己と神獣の傷を癒すという奇跡を起こしました。これを聖女の奇跡と呼ばず、なんと呼ぶでしょうか」

 

 然り然りと、僧を後押しする声があちらこちらから上がる。

 しかし、というべきか、それともやはりというべきか。ビアンキは、再び首を振った。

 

「それがどうした。かの少女は、常識では考えられないほどの剣の使い手であり、その腕前でもって狼の群れを退け、得体の知れない化け物を切り伏せたのだ。あの巨獣を神獣と呼ぶが、広い宇宙にあのような生き物がいないとどうして言い切れる。かの少女は、その巨獣を手懐けただけのこと。傷を癒したというが、そういう不思議な能力をもった人間がこの世にはいることを、汝らならば知っていよう」

 

 特異能力者という存在は、一般人のレベルでは眉唾物のオカルトとしてしか語られていないが、一定以上の水準の社会的地位を持つ人間の間ではその存在が確固たるものとして知られている。この場にいるのはヴェロニカの社会でも相当に高い身分を有する者たちであったから、ビアンキの言葉は的外れなものではなかった。

 だが、まるで取って付けたかのようなビアンキの言葉に、素直に納得する者はいなかった。

 恐れながら、と、僧の一人が信徒の意見を代弁した。

 

「それでは、老師はかの少女が聖女ではないと仰せになられるか?」

 

 信徒の目に、危険なものが宿る。

 ビアンキは含み笑いを漏らした。

 

「もしそうなら、今からでも儀式を再開するつもりか?」

「いえ、それは……」

 

 僧が狼狽して声を詰まらせたが、ビアンキはそれ以上を追求はしなかった。

 

「よいか、皆の衆。聖女の起こした奇跡とは、業火の中から再生したことでも神獣を従え天に昇ったことでもない。真の奇跡は、彼の女性がこの地に現れ、我らにこの星で生き抜く術を伝え給うたこと。そして何より、信仰を失い絶望に半ば身を沈めていた我らの祖先に、ヴェロニカの神の教えを伝え給うたこと。これこそが聖女の偉業である真の奇跡なり」

 

 ビアンキの声は深々と沈んだ夜に染みこむように響き渡った。

 僧も、信徒の、誰も反駁しなかった。それどころか一声すらなく、身動ぎすらない。人の形をした石像のように、そこにあった。

 

「この少女が、果たして聖女の生まれ変わりなのか、それを知り給うのは聖女をこの地に遣わす神のみ。儂にも、そなたらにも、おそらくは聖女本人にも知りうるところではない。しかし、もしもこの少女が聖女たる役目を負ってこの地に降臨されたのであれば、今、我らが真に嘆くべきなのは聖女を傷つけ侮辱したことなどではなく、神が聖女を使わさざるを得ない程に荒廃した我らの信仰である」

 

 浪々とした声は、ほんの少しの淀みも無かった。まるで、神託を伝える預言者のように、老人は続けた。

 

「そもそも我らの信仰が万全であり神の教えが十全に守られているならば、神が聖女を再びこの地へ使わすことなどあり得べき話ではないのだ。そして、汝らがこの少女を聖女であると信ずる必要もまた無い。何故なら神は我らの隣にあり、その声は我らに届いているからだ。神が聖女に使命を与えるのは、神の声が我らに届かなくなった時のみ。汝らがこの少女を聖女と呼び畏れ敬うならば、それは汝らが、無論儂自身も含めて、神に対して後ろ暗い想いがある証左に他ならぬ。我らは、何よりもそのことを恥じるべきであろうな」

 

 信徒たちは、深く垂れた頭を、撓わに実った稲穂よりもさらに深く垂れさせた。

 啜り泣きを含んだ静寂が、静かに流れる。そのうち、決意を込めた僧の一人が、頬を涙に濡らしながら顔を起こした。

 

「老師。老師の仰ること、一々ご尤も。我らは、罪を犯した上に、その罪の本質にすら気がつくことができませんでした。この罪、如何様に償うべきでありましょうや」

 

 この問いに、ビアンキは応えた。

 

「神に対する罪は、神に対してのみ償うべし。これより先、汝らの信仰心が試されるであろう。しかし、それとは別に、我らは罪を償わねばならない。言うまでもないが、この少女を拐かし、鎖に繋ぎ、傷つけた罪である。それ以外にも、我らは如何にも非道を行ってきた。それは、進んで行った者もいるだろう。遠巻きに傍観した者もいるだろう。それらの罪に大小はない。全て、我らヴェロニカ教徒が一様に償うべき罪である」

 

 この場にいたほとんどの人間が、一度ならずヴェロニカの神を信じない者を迫害し、それを寧ろ誇っていた。

 この場にいた少なからずの人間が、例えば異教徒の少女や少年を拐かし、口に出すことも憚られるような愉悦に浸っていた。それは、例えば中世の腐敗した貴族たちのように。或いは、ウォルを虐待し、最後は怪物となり果てたルパートのように。

 誰しもが、それを罪とは思わなかった。だが、聖女はついに降臨した。

 ビアンキが何を言おうとも、あれが聖女の現し身なのだと、全ての者が心の深奥で認めている。

 聖女は、神の声を失った我らを導くために降臨されたのだ。その事実が、今まで犯してきた罪が、やはり紛う事なき罪なのだと罪人達に教え諭した。

 無言の静寂と懺悔を、ビアンキは確かに感じた。嗚呼、この一事のみが、あらゆる意味で馬鹿馬鹿しかった乱痴気騒ぎに、ただ一つ救いを求めることが出来るだろうか。

 ビアンキは、総身から力を抜き、天を仰ぎながら大きく息を吐き出した。まるで、何か大きな荷物を肩から下ろしたように。

 

「罰を与える得る人間は許しを与えうる人間、つまり我らが非道の犠牲になった者たちのみ。しかし、その多くは今この場にはおらぬ。故に、我らは全ての裁きを、あなたにこそ求めたい」

 

 呆けた調子でビアンキが言った。

 その視線の先には、凜と佇む少女がいて、その少女は只一度、こくりと頷いた。

 

「この場にいる全ての人間を皆殺しにするつもりは無い。一罰百戒、我こそは最も罪深いと思う者は一歩前に出ろ」

 

 少女が剣を構えた。濡れたように妖しく輝く白刃が、月明かりに艶めいた。

 ごくりと誰かが唾を飲み下した。今、立ち上がれば、間違いなくあの刃の贄になるのだ。それこそが望むこととはいえ、目の前で形をもった死は、確かに恐ろしかった。

 一瞬の静寂の後、声が上がった。

 

「俺だ!俺が、最も罪に塗れている!俺が、地獄に一番近い!」

 

 涙声でそう叫んだのは、テセルであった。

 

「俺は、全てを止められる立場にいながら全てを諦めた!責任の所在を言うならば、全ては俺に帰するはずだ!」

 

 肩をルウに押さえられながら、まるで猛牛のように咆えた。

 しかし。

 

「テセル。それは違う。お前の理屈が正しいならば、お前の犯した全ての罪は儂に帰することになるだろう。そして、ついこないだ老師になったお前と、長いだけで意味の薄い一生のほとんどを老師として生きてきた老いぼれ、どちらが真に裁かれるべきか、考えるまでもない」

 

 皺だらけの顔に、不思議なほど透明感のある笑みが浮いている。

 それは、人生の終着駅を見定めた人間のみが浮かべる、笑顔だった。

 自分に向けて微笑んだ老人に、テセルは、駄々っ子のように首を振った。

 

「いやだ、老師、俺は、あなたに何一つ許されていない。何一つ、恩を返していない……」

「それも違うぞテセルや。儂は、お前に対して許しを与えるべき何物も背負ってはおらぬ。お前は儂に、全てを与えてくれた。お前がいるから、儂は安心して旅立つことが出来る。もうお前は子供ではない。儂や、これまでの老師連中の頸木を逃れ、己の信ずる信仰の道を探りなさい。それは、他人の足跡を辿るよりも遙かに厳しい道に違いないが、お前には出来ると信じておるよ」

「先生ッ!」

 

 全身の力で暴れようとするテセルを押さえながら、ルウが言った。

 

「駄目だ。あれは、あなたの役割じゃない。あなたがあの場所に立っても、何も収まらない」

「放せっ!そんなことはどうでもいい!俺は、俺はっ!」

「今はあなたの出番じゃない。今、あなたがするべきなのは、お師匠さんの身代わりになることじゃない。ただ、この光景を眼に焼き付けることだ。そして、この星の人達を正しい方向に導くこと。それがあなたしか出来ないことで、あなたの義務だ」

「──っ!」

 

 悲壮な顔で振り返ったテセルに、ルウは無言で首を振った。

 そしてテセルがもう一度正面を向いたとき、老人は、ウォルの前に跪いていた。

 

「茶番に付き合わせましたな。もう、結構でございます。どうぞご存分に」

「……何か、言い残すことがあれば聞こう」

 

 老人の視界に、いつか見た、少女が映り込んだ。

 遠い昔、もう霞の向こうにぼんやりとしか見えない、ずっと昔。

 大海賊シェンブラックと、二人の少年。長く暗い地下道。荒廃したスラムの中でもさらに荒廃を極めた廃屋。

 まるで化け物のような姿になって、全身を痙攣させながら大量の血を吐き出して死んだ、少女。ビアンキの祝福によって天に旅立っていった、憐れな少女がいた。

 その少女が、微笑んでいた。自分に向けて。自分のような人間に向けて。

 許されたのだとは思わない。だが、もう、十分だ。

 ビアンキは、童子のように無垢の笑みを浮かべた。

 

「この星に、どうか神様の教えが、永く伝わりますように」

 

 ウォルは、老人をいたぶるつもりはなかった。

 ビアンキの言葉が途切れた瞬間、鋭い切っ先は疲れた心臓を深々と貫き、背中からその姿を覗かせた。

 ビアンキは、満足げな表情のまま、横向けに倒れた。まるで草が倒れたような、乾いた音がした。

 テセルがルウの手を振り払い、老人の亡骸に駆け寄る。

 指先が、鶏のように細い首筋に触れる、その瞬間、目映い光が辺りを包んだ。

 眼を強く瞑る。蹲りそうになる身体を、強引に立たせる。

 そして、眼を開いたとき。

 ただ、月に照らされた祭壇だけが、のっぺりと広がっている。

 そこには、誰もいなかった。

 老人の骸も、少女も、少女を守った狼も。

 人の気配の失せた祭壇に、怪物の死骸だけが、先ほどの儀式の証拠のように残されている。

 彼らは天に還ったのだろうか。まるで伝説にある聖女ヴェロニカとその守護聖獣のように。

 演者を失った舞台に残された観客達は、しばし呆然として宙を眺めていた。

 

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