懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第八十一話:老人は帰る

 エストリア宇宙軍第十三艦隊を率いるフォルクマール中将は、旗艦《ネプトゥーン》のデッキで、巌のような身体をメインスクリーンの方へ向けたまま、深い苦悩を眉間に刻んでいた。

 士官学校を主席で卒業し任官して以来、どれほど困難な任務も失敗したことはなく、またどれほど危険な任務であっても恐れたことは一度もない。後方で安全なデスクワーク勤務を望む同僚も多い中、率先して危険な任務をこなしてきた彼には、その重量感溢れる肉体に相応しいだけの畏怖と尊敬の眼差しが贈られてきたのだ。

 その彼が、与えられた任務にこれほど思い悩むのは初めての経験であった。

 卑劣なテロリストや宇宙海賊どもを殲滅するため、人質の存在に見て見ぬふりを決めねばならなかったこともある。爆弾を抱えて陣地に突っ込んでくる児童の群れを、光線銃で一掃したこともある。それらの事件は確かに痛ましい想いを彼に抱かせたが、それ以上のことは無かったのだ。何故なら、それは任務の遂行に必要だったからだ。

 そのことを、フォルクマール自身が一番理解している。

 だが、それにしても今回の任務は……。

 果たして何度目か分からない溜息を吐き出したとき、背後から控えめに声をかけられた。

 

「閣下、少しお休みになられたほうが……」

 

 フォルクマールが向き直ると、そこには自身の副官であるイレックス少佐の姿があった。

 普段は、知性と若さが入り交じって溌剌と輝いているはずの青い瞳が、深い憂慮に濁っている。本国より出立して、既に三日が経過している。その間、ほとんどまともに休んでいない上官を慮っているのだろう。

 

「大丈夫だ。この程度のことで音を上げるほど、柔な鍛え方はしていない。それに、そろそろ休む」

「それならよろしいのですが……」

「その前に、少佐、一つだけ君の意見を聞きたい」

 

 尊敬する上官に意見を求められた若い少佐は、直立不動の体勢にいっそうの力を込めた。

 

「小官如きの意見が閣下のお役に立てるかどうか分かりませんが、誠心誠意、答えさせて頂きます」

 

 初々しいまでの堅苦しさに、フォルクマールは僅かに相好を崩した。それは、去年から彼の副官として常に行動を共にしているイレックスですら、ようやくそれと分かる程に弱々しい笑みであった。

 

「例えば、君の任務はテロリストの殲滅だ。だが、テロリストは人質を盾にして立てこもっている。強行突入すれば、人質が危険に晒されるかも知れない。それでも君は、突入を敢行するかね?」

「任務の究極的な目的にもよりますが、それが必要であれば躊躇しません。例え人質が自分の身内であっても」

「では、そのテロリストが人質にしているのは住人が千人を超える一つの村落だ。だが、テロリスト達は都市を一つを汚染し数十万人の市民を死傷させるであろう凶悪な毒ガスを隠匿しているという情報がある。君の前に、村落を攻撃するミサイルのスイッチがあるとして、それを押す勇気はあるかね?」

 

 イレックスは少しだけ口ごもった。いくら仮定の話とはいえ、それは軽々に答えを口にすべき問題ではない気がしたからだ。

 達成すべき任務の重さと、それに伴う犠牲の重さは、常に指揮官を悩ませる頭痛の天秤だ。任務の達成は最優先されて然るべきだが、守るべき無辜の市民はもちろん、部下の兵士も、そして卑劣な敵でさえも、彼らは一個の独立した人格を備えているのだ。その事実を切り捨てることが出来ればある意味では楽なのかも知れないが、その瞬間から軍人ではなくただの機械としての人生が始まるだろうことを、イレックスは理解していた。

 

「難しい問題です」

「別に点数をつけようという訳では無い。ただ、君の意見を聞きたいだけだ。思うままを話してくれて構わない」

「……無論、自分の置かれた状況や、任務の細部にもよりますが、やはりそれが自分への命令である以上、従うことが軍人の義務ではないかと」

 

 フォルクマールは頷いた。

 

「そのとおりだ。我々は、軍人として国家への絶対的忠誠を誓約している。任務が国家的な意思決定のもとに下されたものである以上、我ら個々人の善悪基準に照らしたところで拒絶することは許されない。例えそれが、非武装の民衆への無差別攻撃であったとしても」

「閣下。お言葉を返すようで恐縮ですが、誇り高きエストリア国軍が、そのように恥知らずな行いをするはずがございません」

 

 イレックスの真っ直ぐな視線は、穢れを知らぬ乙女のような美しさと危うさを同時に孕んでいた。士官学校を出てまだ間もない彼は、これから現実を知り、挫折と勇躍を繰り返すのだろう。その結果、自分のような人間が出来上がるのだとすれば、軍隊というシステムはどれだけ罪深いものなのか。

 フォルクマールは内心で大きな溜息を吐き出した。

 

「イレックス少佐。君の言うことはもっともだ。私とて、そのようなことが現実にあるとは露程も思わない。だが、事実は小説よりも奇なりというし、一寸先は闇ともいう。この世界に生きている以上、何が起こっても不思議ではないのだ」

「それはそうかも知れませんが……」

「最後の質問だ。これも例えばの話として……ひとたび感染すれば死を免れない猛悪なウィルスを、とある惑星の狂信的なカルト教団が手に入れたとしよう。彼らは、共和宇宙的な秩序の転覆を目論んでいる。しかし、その惑星そのものが信徒の集団のようなもので、誰がそのウィルスを保有しているのか分からない。手をこまねいている時間的余裕はない。いつ、全宇宙にそのウィルスがばらまかれるか分からないからだ」

「……」

「指揮官は君だ、少佐。君は、問題となった惑星の、全国民を対象としたジェノサイド作戦のゴーサインを出すことが出来るかね?」

 

 聡いイレックスは、総身に冷たい汗を流していた。今になって、ようやくフォルクマールの言葉の意味が理解出来たのだ。

 一個艦隊が動くというのに、末端の兵士はおろか、参謀たちにも作戦内容を知らされないという不可解な軍事行動。それが、まさか、そんな恐るべきものだったとは。

 イレックスの、縋るような視線の先で、フォルクマールは首を横に振った。

 

「妄言だ。忘れて欲しい」

「閣下……」

「全くもってどうかしていた。君は優秀な軍人だ。私は、心の底から君を信頼している。だが、このようなことは、いくら君にでも相談するべきことではなかった」

 

 色を失った顔のまま立ち尽くした部下に、フォルクマールはあからさまな作り笑いを向けた。

 

「無論、今までの会話は、つまらぬもしも話だ。真に受ける必要はない。私は、そろそろ休む。君も、任務の引き継ぎが終われば少し休み給え。君の方こそ、今にも倒れそうな顔色をしている──」

 

 エストリア国宇宙軍第十三艦隊は、壮観たる艦列を維持したまま、虚空を進軍していく。

 目的地は、ヴェロニカ共和国。

 そして艦列の中央、駆逐艦や軍艦に守護されるように囲まれた巨大輸送船は、その胎内に、大量のガスタンクを詰め込んでいた。

 タンクに充満したガスの名前は、GUSOHⅡ。

 猛毒の殺人ガスである。

 

 

 暗い石造りの廊下を、老人が走っていた。

 激しい靴音が反響し、人気のない廊下を不気味にこだまする。淡い光源に照らし出された老人の陰が、魔物めいた奇妙な動きで伸びては縮みを繰り返す。

 老人は──アーロン・レイノルズは、短く激しい呼吸を繰り返し、上体を不自然に折り曲げ、胸の辺りを掌で押さえながら走っていた。苦悶と法悦の入り交じった表情で、走っていた。

 天使が、いる。遠目に何が起こったのか、分からなかった。それでも、あそこに、あの方がいることだけは理解出来た。

 ああ、何という幸福!

 ジャスミンに殴られた頬が、真っ青に腫れ上がっている。特に頬骨のあたりが酷い。テニスボール大の瘤が出来ている。おそらく、頬骨が砕けているのだろう。

 頭の芯を痺れさせるような激痛が、心臓の拍動に合わせて襲ってくる。走る度に、足の裏が地面を蹴る度に、あまりの痛みで意識が遠のく。

 だが、アーロンは走ることを止めなかった。まるで家路を急ぐ少年のように、母親の作った夕食に眼を輝かせる少年のように、嬉々とした様子で走る。

 ようやく、望みが叶うのだ。天使に救われた人生。そして、終止符もあの美しい天使に。

 法悦と歓喜が、痛みを忘れさせた。痛み以上の多幸感が、アーロンの意識と痛覚を痺れさせた。

 階段を駆け下りる。石造りの古めいた階段だ。しかし、聖女の舞い降りた地に建立された祭壇である。手入れは行き届いている。辺りに漂う古めかしさは、不気味さよりも静謐さをこそ醸し出していた。

 大仰な扉をいくつも潜り抜け、もう少しで舞台へと辿り着く。そこには、天使がいるのだ。人生を賭けて心待ちにした、天使が。

 荒々しく息を継ぎながら、地上へ出るための最後の扉へと向かう。

 その向こうに、天使が。天使が。

 

「駄目だな。お前は、ここで終わるんだ」

 

 だが、その扉の前には、もう一人の天使が立っていた。

 金色の髪。翠緑色の瞳。そして、対象を射殺さんばかりに煮えたぎった視線。

 全てを飲み込み全てを包み込む闇の天使ではない。その対となり、全てを照らし全てを灼き尽くす、陽光の天使がそこにいた。

 

「お前が散々いたぶってくれたあの女の子は、おれの婚約者だ。その前は同盟者で、その前は友達だった。いつだって、あいつはおれの大事なものだった。それを、お前は傷つけた」

 

 少年の手には、鈍く光る剣が握られている。その切っ先が、アーロンの心臓に向けてゆっくりと振り上げられた。

 

「世界中の誰がお前を許しても、おれは決してお前を許さない。さぁ、剣を取れ。おれと戦って、ここで死ね」

「どけ、どけ、どけ小僧。私は、そこを通ってあの方の元へ馳せ参ずるのだ。そして、あの方にこの命を献上するのだ」

 

 少年は、片頬を歪めて冷笑した。

 

「命を献上する?馬鹿なことを言うな。そんな寝ぼけたことを言っている時点で、お前にルーファと会う資格なんて無い。あいつは、誰よりも他人の痛みに敏感なんだ。それが、例えお前のような申し分のない屑であってもな。間違えても命なんてものを貰って喜んだりするものか」

「違う。あの方は喜んでくださる。それを私は知っている。私は、そのために生きてきたのだ!」

「どうして、それが分かる?お前は、お前の大好きな天使の何を知っているっていうんだ?」

「私は、あの方とまみえたのだ!」

 

 アーロンの絶叫が、廊下にこだました。

 そうだ。

 あの時、全てが奪われ失われた惑星の地表で、あの天使は泣いていた。さめざめと泣いていた。そして、その姿の破滅的な美。

 天使は、悲しみを求めている。そのために、あの惑星を滅ぼしたのだ。天使という超然たる存在が人の営みに関わる理由が、それ以外にあるはずもない。

 

「無知蒙昧な子供には分かるまい!私だけは知っている!あの天使は、哀しみをもって完成する一枚の絵画なのだ!死こそが、あの天使をもっとも美しく彩るのだ!その明々白々な事実が分からんとは、何と憐れなことよな!」

 

 アーロンの瞳の瞳孔が不自然に収縮する。強固な城壁を吹き飛ばすほどの力場が、少年に向けて放たれる。

 ずたずたに殺してやる。四肢を引き千切り、首をねじ切り、美しい緑色の眼球を抉り取ってやる。口からは、全ての内臓を吐き出させてやろう。腸でつながった首と胴体はさぞ愉快なオブジェに違いない……。

 アーロンは、絶対の自信を持っていた。先ほど、訳の分からない赤毛の大女が、許されざることに自分の力を無視してのけた。だが、あれは何かの間違いだ。二度と同じ事が起きるものか。

 決めた。あの大女も、ケリー・クーアも、あの祭壇にいる全ての人間を丸ごと挽肉に変えてやろう。天使への供物だ。きっと、身悶えするほどに喜び悲しんでくれるに違いない。さぞ残酷に私を殺してくれるだろう。この小僧の死骸も、その悲しみに色を添えることが出来るだろうか。

 しかし。

 

「遅いな、お前の能力は」

 

 力場が少年に到達するその間際、少年は凄まじい勢いで剣を振るい、その力場自体を切り裂いた。

 アーロンは、色を失った顔で少年を見た。一体何が起こったか分からなかった。光が一瞬煌めいたと思ったら、自分の力が切り裂かれ、跡形もなく消滅していたのだ。

 呆然と、アーロンが呟いた。

 

「な……なにをした?」

「何をした?間の抜けたことを訊く。見れば分かるだろう。切ったんだよ。銃弾を叩き落とすより百倍も簡単さ。何しろ目標が大きくて助かる」

 

 少年は、くつくつと笑った。

 

「少し慣れている人間なら、お前の力はすぐに見える。どぎつすぎるんだよ、力の色が」

「……見えるのはいい。だが、何故切れる!?これは、そんなことが許されるものではない!」

 

 眼を血走らせたアーロンを、少年は一層深い冷笑で報いた。

 

「お前は、余程自分が特別だと思いたいらしいな。無駄だとは思うが教えておいてやる。どんな秘められた力だって、それが力である以上、いつかはその対抗策が作られるものだ。この剣がその一つだ。この刃は、肉や鎧を斬るよりも、むしろ人が容易に認識できないあやふやなものを叩っ切るために鍛えられている」

 

 アーロンは、少年の握った剣を見た。確かに良く鍛えられた、素人目にも分かる程の業物ではあるが、それ以上のものにはどうしても見えない。

 何かの間違いだ。瞬間的な懊悩の末、アーロンはそう結論づけた。自分の異能が、こんな子供に、これほど簡単に打ち破られるはずがない。あってはならない。

 

「う、うおおおっ!」

 

 リミッターを外した特異能力のエンジンに、精神のニトロメタンを注ぎ込み、一気に爆発させる。

 あらゆる能力を、限界を超えた出力で行使する。サイコキネシス、テレキネシス、パイロキネシス、そのどれもが人体を一瞬で破壊しつくす規模の能力ばかりだ。

 だが、その全てが少年には通じなかった。人体を細切れに引き裂くサイコキネシスも、重火器の一斉掃射を防ぎきるテレキネシスも、 一棟の家屋を容易に消し炭へと変えるパイロキネシスも、少年に届く前に、不思議な刃によって切り裂かれて虚空へと消えてしまう。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

 

 息が、嵐のように激しい。酸素が全然足りていない。力は、どこからか搾り取るものなのだ。それが例え特異能力と呼ばれるものであっても、宇宙万物の法則に反しているわけではない。

 それが、どこから生じているのか。アーロンは考えたことはなかった。だが、その力がだんだんと底を尽きつつあるのを、アーロンは感じていた。それは、きっと近くに、彼の天使がいるからだ。人生の終着点が、ここだからだ。

 だから、負けるわけにはいかない。目の前の、この子供をさっさと始末して、天使のもとに行かなければ。

 

「だから……どけ……どいてくれ……」

 

 涙声で懇願しながら力を振るう。しかし、無慈悲の刃が全ての力を切り捨てる。

 

「言っただろう。おれはお前を許さない。お前にとって都合の良い一切の行動を、おれは拒否する。だから、お前は前に進むことは出来ない」

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 老人は歯を食いしばり、眼球内の毛細血管を破裂させながら能力を行使し続ける。少年は、つまらなそうに剣を振るう。

 全身を粘い汗でずくずくにしたアーロンは、突然の吐き気に耐えきれず、跪き、眼前に手を突いてそのまま嘔吐した。消化物の混じらない胃液だけの反吐は、ところどころ赤紫に近い血液で彩色されていた。

 そして、アーロンは愕然とした。

 眼前の、反吐に塗れた指の、細く、節くれ立った有様!皮膚に張りはなく、古びた新聞紙のような質感になっている。爪はねじくれて変形し、少し力を込めると呆気なく剥がれ落ちた。

 これは、自分の指なのか。これではまるで、何千年の月日を棺で眠った、木乃伊のような……。

 震える指を、顔の高さまで持ち上げる。喉元までせり上がった恐怖の叫びは、しかし口中のころころとした違和感に妨げられた。小石のような違和感の元凶を、掌に吐き出す。それは、抜け落ちた奥歯だった。口中に血の味はしない。血を噴き出すことすらなく、歯は根本から抜け落ちたのだった。

 

「は……はひ、ひひ、ひっ……」

 

 アーロンは唐突に理解した。ついに、その時が訪れたのだ。異能によって食い止めていた老化のリミット。それが目の前の少年との戦いによって早まったのか、それとも元から今と定められていたのかは分からない。

 分かるのはただ一つ。自分に残された時間はもう無いということだけ。

 アーロンは、少年の足に縋り付いた。眼球から血の涙を溢れさせ、隙間風のような声で憐れを乞うた。

 

「お……ね、がいだ……、てん……し……に、もう……いちど、だけ……もう、いち……ど、だけ……」

 

 少年は、無言のまま、アーロンの手を蹴り払った。

 アーロンの、痩せ衰えた身体が横倒しに倒れる。その拍子に、石床についた腕の手首から先が、かさついた音を立てて崩れ落ちた。

 その異様な光景に、アーロンはちっとも意識を向けなかった。霞がかった視界の向こうに、目指した扉が見える。少年は、その途上にいない。目指すなら、今だ。

 

「ひぃ……っ、ひぃ……っ、ひぃ……っ……」

 

 ふいごのような呼吸を繰り返し、匍匐前進の要領で少しずつ這い進んでいく。扉までの距離は、気が狂いそうになるほど遠い。いったい、何時間をかければあそこに辿り着くのか。

 それでもアーロンは諦めなかった。痩せ衰えた手足で、軽石のようになった骨で、身体を少しずつ前へと運ぶ。視界の端で、はらはらと、糸くずのようになった髪の毛が抜け落ちていった。

 もう、自分は駄目だ。おそらく、数分ももたない。それまでに、あの扉を潜って、天使の坐すところまで辿り着くことが出来るのか。

 絶望的な涙が流れる。一寸身体を前に進めるだけで、ごっそりと生命力がすり減っていくのだ。もう、自分はあの扉の向こう側を見ることは出来ない。

 アーロンは、全てを賭けて願った。どうか、どうか今の瞬間、あの扉が開いて、その向こうに天使がお出でになりますように。

 ああ、天使よ。天使……天……使……?

 天使とは……いったい、何だったのだろう。あの星で、私は見たのだ。全ての命への鎮魂歌を歌う、漆黒の天使。あれが、恋だったのか。それとも、何か違うものに、私は囚われてしまったのか。

 あの天使は、いったい……。

 

『あなたは、天使に恋をしたのですよ』

 

 そう言ったのは、誰だったか。

 

『私は、その恋の成就に力をお貸ししましょう。なに、それほど難しいことではありません。あなたの天使をこの地にお呼びする手筈は、全て私が整えますゆえ……』

 

 ああ、この男。

 ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた、この男。

 この男は、一体誰だ。どうして、私はこの男の口車に乗ったのだ。私は、いつこの男と出会ったのだ。この男と出会う前、私は一体何をしていたのだ。

 私は、一体、誰だ?

 

『ええ、私のことは、アイザック・テルミンとお呼び下さい、未来のヴェロニカ共和国大統領閣下』

 

 あの、得体の知れない笑顔。まるでブラックホールのような怖気のする瞳の奥に、何かがいた。

 ああ、天使だ。私は、男の瞳の奥に、天使を見た。そうだ、私は、あの時、天使に恋をしたのだ。恋を、させられたのだ。

 いや、違う、違う違う、そんなはずはない!

 この恋心は、そんなものではない。私は、あの星の上で天使とまみえた時、あの瞬間から、天使に心を捧げていたはずだ。そうでないならば、もしもそうでないならば、私は、何をしてきたというのか……。

 

「……ぁ……ぁ……」

 

 もう、声も出ない。息が出来ない。もしも出来るとして、あと一度息を吸い込めば、吐き出して終わりだ。

 最後に、最後に、あの扉が開いてくれればいいのに。あの扉の向こうに……。

 ぼろぼろに霞み、色も彩度も失った視界は、ただ一点、ドアノブのみを見つめる。

 

 そして、奇跡は起きた。

 

 ドアノブが、乾いた音を立てて、ゆっくりと捻られていく。気の遠くなるような時間。気を失いそうな時間。心臓が、最後の力で高く鳴る。

 ドアが開く。向こう側から、柔らかな光が差す。春の、根雪を溶かすような、暖かな光。視界が色を取り戻す。暖かいという感覚は、果たしていつ以来なのか。

 開かれた扉、差し込む光、その向こうに、誰かが立っている。その誰かが、少しずつ近づいてくる。歩み寄ってくる。ゆっくりとした足取りで、私の方に向かって。

 そして、私のすぐ前でしゃがみ込み、その柔らかな掌を差し出した。

 

「ほら、いつまでも泣いてないで、立ちなさいアーロン」

 

 少女が、微笑んでいた。

 見覚えのない少女だった。いや、違う、私は、この少女を知っている。この、勝ち気で美しい微笑みを覚えている。

 いつ、見たのだろう。いつ、この少女にこれほど美しい笑顔を向けられたのか。

 何より、この少女の名前は?

 名前を、私は知っていたのか。それとも知らないのか。忘れてしまったのか。

 驚くほどの悲しみが胸を締めつける。熱い涙が、後から後から流れ落ちる。

 

「泣き虫アーロン。あなたがそんなだと、おばさんはいつまでたっても安心できないわ。泣き止んで立つのよ。そして一緒に帰りましょう?」

 

 喉元まで、その名前は出かかっている。

 私は、その名前を知っている。だからこそ、こんな辺鄙な土地に根を下ろしたのではないか。

 まるで、聖女のように、穢れない微笑を浮かべる、この少女。

 その、名前は。

 

「──うん、ヴェロニカ姉さん」

 

 暖かい掌が、頭の上に載せられる。

 少女の言葉に応えるように、私は立ち上がり、擦りむいた膝に付いた土を払った。

 鼻を啜り、前を向く。少女は私の様子を見て、いっそう柔らかな笑みで微笑んだ。

 少女の服の裾を、ぎゅっと握りしめる。少女はそんな私を見て、むずがゆそうに、しかし嬉しそうに笑っていた。いつか、私はこの少女を守れるくらいに強くなることが出来るのだろうか。夢の中の私のような、強大な力など欲しくない。ただ、彼女を守るだけの力があれば。

 陽が、山々の向こうに姿を消していく。家々の煙突から、炊事の煙が立ち昇る。私は、これからあの中の一つに帰るのだ。きっとお母さんは、エンヌ豆の美味しいスープを作ってくれているに違いない。

 

「ねぇ、ヴェロニカ姉さん」

「なに?」

「ぼく、変な夢を見たんだ。この星に悪い風が吹いて、誰も住めなくなっちゃうんだ。それで、ぼく一人がこの星から逃げ出して、ぼくは凄く悪い大人になっちゃうんだ。凄く、凄く凄く恐かった……」

「おかしなアーロン!そんなのただの夢じゃない!それでも恐いなら、今夜はわたしが一緒に寝てあげましょうか?」

「いらないよ!ぼくはもうそんな子供じゃないもの!」

 

 二人分の影が、長く長く伸びている。その先に、私の家はある。この子の家もあるはずだ。そして、お母さんとお父さんが待っているのだ。

 明日はどこに遊びに行こう。山毛欅の森には、明日も爽やかな風が吹き渡っているだろう。清水の川は、触れれば掌が痺れそうなくらいに冷たくて、飲めば甘やかに喉の乾きを癒してくれる。そろそろ山桃の実が、どこの山にも撓わに実るはずだ。

 ああ、毎日が、こんなに楽しければいいのに。

 ぼくは、大きく息を吐き出した。

 

 

「終わったの?」

 

 開かれたドアの向こうからルウが姿を見せ、倒れた老人の姿を認めて訊いた。

 相棒の言葉に、リィは無表情のまま頷いた。

 

「ああ、終わった」

「殺した?」

「いや、勝手に死んだ。多分、寿命だったんだ。元々死ぬはずだった命を、特異能力で長らえていたんだろう。なのに、無尽蔵だと信じているみたいに能力を使い尽くしてしまった。死ぬのは当たり前だ」

 

 リィはそう言って剣を鞘に収めた。

 ちらりと、先ほどまで自分の敵だった老人の遺骸を見下ろす。

 骨と皮のような老人は、微笑んでいた。いまわの際に、一体何を見たのだろう。ただ、その顔は、とても安らかでとても幸せそうだった。

 ルウも、その老人の顔を、じっと見ていた。

 

「そいつを知っているのか?」

 

 リィの問いかけに、ルウは首を横に振った。

 

「知らない。少なくとも今のぼくは、昔のこの人と出会ったことはないはずだ。でも……」

 

 刹那の間、口ごもったルウが、言いにくそうに言葉を紡いだ。

 

「ねぇ、エディ。もしも、もしもだよ?ぼくが全てに絶望して、この宇宙に仇為すような存在に堕ちたら、そのときは、きみがぼくを殺してね?」

 

 その言葉を聞いたリィは、ぴたりと動きを止めた。

 ルウは、しまったと口を押さえたが、時既に遅しだ。ぎ、ぎ、ぎ、と、油を差し忘れた発条人形のような様子でリィが振り返った。その顔には、爽やかなまでの笑顔が刻まれている。

 そして、ゆっくりと剣を振りかぶった。無論、鞘から刃を抜き放ってはいないが、あれで殴られたら凄く痛いに違いない。それこそ、目から星が出そうなくらいに。

 ルウは慌てて後ずさった。

 

「もしも!もしもの話だよ!お願いだから怒らないで!」

「怒らせたくないならそんな話をするんじゃない、この馬鹿!」

 

 リィは問答無用で間合いを詰め、もの凄い勢いで鞘付きの剣を振るった。

 ごちん、と、鈍い音が鳴った。

 結構本気に近い一撃はルウの頭に直撃し、憐れな被害者をその場に蹲らせたのである。

 

「いったぁー……。酷いよエディ……」

 

 涙目で見上げるルウに、リィは冷然とした調子で言った。

 

「酷いのはお前の方だ。ルーファ、お前はおれに、何度もあんな思いをさせるつもりなのか」

 

 あんな思いとは、言うまでもない。怒りに取り憑かれたルウが、その力を無制限に解放しようとした、あの大事件の顛末である。一応は事なきを得た形の決着であったが、危ない場面は数え切れないほどにあった。最後は、リィもルウも身動きできないほどの重傷を負う羽目になったのだ。

 リィは、ルウを止めるために、ルウと刃を合わせた。それは、まったくもってリィの本意ではなかった。ルウも、普段の彼であればそんなことは絶対にするはずがない。ただ、あの時のルウは尋常ではなかっただけなのだ。

 ルウは、暴走した自分を、何よりも恐れている。それは、おそらく他の誰が彼を恐れるよりも、遙かに、深刻に。

 

「ぼくは、この人の星を、キングの生まれ故郷を滅ぼした覚えなんて、無い。キングと出会ったのは、間違いなくダンのお父さんとしてが初めてだったんだ」

「ああ、知ってる」

 

 ルウは蹲ったまま、老人の遺骸の瞼を下ろしてやった。

 

「でも、遠い未来、ぼくはこの人の星を滅ぼすのかも知れない。それはきっと、もっとずっと遠い過去の話になるのだろうけれど」

 

 永遠に近い時間を生きるラー一族にとって、時間は一方通行の概念ではない。ルウ自身も、彼が生まれるよりも前の時代を経験したことがある。

 もしかしたら、同じ事が未来に待っているのだろうか。人に絶望した自分が、いつか一つの星そのものを滅ぼしてしまうのだろうか。

 もしもそうならば、いっそのこと……。

 

「馬鹿なことをいうな」

 

 こつん、と、今度は軽いげんこつがルウの頭に落っこちた。

 それでも、さっき剣の鞘で殴られたのと同じ場所を叩かれたものだから、結構痛かったルウは、もう一度薄く涙を浮かべながらげんこつの持ち主を見上げた。

 リィは、透き通るような笑みを浮かべていた。

 

「ルーファはそんなこと、絶対にしない。おれが、絶対に許さない。なら、この爺さんの星を滅ぼしたのは、絶対にルーファじゃないのさ。それは、誰よりもおれが一番知っている。だから安心しろよ」

 

 ルウは、何かを言おうと口を開きかけたが、途中で思い直してそのまま閉じた。

 言葉は不要なのだろう。少なくとも、自分とこの少年の間では。

 ルウは、リィに向けて手を伸ばした。リィはその手を確と握り、ルウの体を引き起こした。

 その時、二人の背後から声がかけられた。

 

「また、でっけえ借りを作っちまったな、天使、黄金狼」

「きみ達には、いつもいつも助けられてばかりだな。まったく、いい大人が二人して情けない限りだ……」 

 

 血の滲むような言葉は、ケリーとジャスミンのものだった。 

 振り返って見れば、二人ともがいつもの二人らしからない、苦り切った表情を浮かべていた。それは、事態をここまで悪化させてしまった自責の念であり、リィの婚約者であるウォルが嬲られるのを指をくわえて眺めていることしか出来なかった自分たちへの侮蔑の念であり、何より全ての後始末をリィ達に任せることになってしまったことに対する羞恥心であった。 

 ケリーとジャスミンの巨躯が、いつもよりも小さく見える。それは、二人が項垂れているからだけではあるまい。傷つけられたプライドが、彼らを彼らたらしめる力の源泉から熱と光を奪い去っているのだ。 

 そんな二人を、リィは責めることはしなかった。むしろ気安く、あっさりとした調子で言った。 

 

「こっちこそごめん。こいつはケリー達のかたきだったのにな。出しゃばった真似をしてしまった」 

 

 ちらりと、老人の死骸を見下ろした。 

 ケリーとジャスミンもそれに倣う。つい先ほどまで、正しく恐るべき異能の力で自分たちを苦しめ続けた、この男。しかし、真実の姿はこれほどまでに年老いていたのか。記憶にあるこの男は、せいぜい初老の年の頃であったはずである。 

 だが、考えてみれば当然なのかも知れない。ケリーが惑星ヴィノアの亡霊と呼ばれ、全ての因縁に決着をつけたのが、既に1世紀近く前の話になるのだ。アーロンがその頃に少年と呼ばれる年だったとすれば、もう百に近い年だったとしてもおかしくはない。 

 あるいは、この男も、自分と同じように全ての因縁に決着をつけたのかも知れない。だからこそ、これほどに安らかな顔で死ねたのではないか。ケリーはそう思った。 

 そのとき、後ろから声が上がった。 

 

「お父様!」 

 

 後ろにいたマルゴが、弾かれたように飛び出し、義父の遺骸に縋り付いた。 

 

「お父様!わたしです、マルゴです!目を、目を開けてください!」 

 

 何度も繰り返す。彼女自身、変わり果てた義父の姿を見て、全ては理解しているのだ。この死に方はまともではない。おそらく、この死に様が、この人の送ってきた人生に相応しいものなのだと。 

 だからこそ、彼女は大声で叫んだ。自分の理解を遠ざけるため、大切な人の死を遠ざけるために叫んだ。 

 

「お父様、お願いですから、目を開けて……」 

 

 だがそれにも限界はある。じんわりと、紙に水が染みこむように、マルゴは理解した。この人は、もう二度と目を開けないのだ。もう、わたしに笑いかけてくれることはないのだ。 

 もしも、全ての因果を知る絶対的な何かがこの場にいて、自分を見ているのだとすれば、おそらくそれは喜劇の道化を見るよりもなお憐憫に満ちた視線なのだろうとマルゴは思った。何せ、自分はこの人に一度裏切られているのだ。命をかけて庇った報酬が、無残な裏切りであった。 

 それでも、この人は父であった。自分たちが作られた命であっても、いや、作られた命であるからこそ、この人はかけがえのない父であったのだ。 

 屹度顔を上げたマルゴは、凄絶な視線でリィを睨み付けた。 

 

「お前が、お前がお父様を殺したのか?」 

 

 その視線から、リィはちっとも逃げなかった。睨め上げるマルゴの視線を正面から受け止め、冷ややかに見下ろしながら言った。 

 

「そうだ、おれが殺した」 

 

 手を汚していないから殺していないとは口が裂けても言わないリィである。紛れもなく、目の前の亡骸は自分との戦いの最中に死んだのだから。 

 死んだ人間がいて、生きている人間がいる。ならば、そこには恨みが残る。その恨みは、逃げるべきものではないとリィは信じている。 

  

「どうして殺した?」 

「この男が邪魔だったからだ」 

 

 言葉は簡潔である。そこに、許しを乞う意志は欠片もない。 

 その代わりに、目で問う。 

 お前は、この男の死が許せないのか。どうしても許せないのか。 

 それならば、戦うのか。己の命と誇りをかけて、戦うのか。おれと戦うのか。 

 戦わなければならないのか。己の命と、この男の恨みを天秤にかけて、それでも戦わなければならないのか。この男の死はそれほどに納得のいかないものなのか。 

 視線が交錯したのは、数秒の間であった。 

 視線を逸らしたのは、マルゴの方だった。 

 

「……分かっていた。分かっていたのよ、この人が普通の死に方を出来ないくらい。きっと、誰かに殺されて人生を終えるのだろうっていうことくらい……」 

 

 誰に言うでもなく、宙に向けて語りかける。 

 まるで、この場に義父の魂がいるかのように。 

 柔らかな頬を、一滴が静かに滑り落ちた。 

 

「それでも、わたしはこの人よりも先に死にたかった。この人がここで死ぬべき運命なら、この人を守って先に死にたかったの。分かって欲しいとは言わないわ。ただ、それがわたしの願いで、あなたはその願いを破ったの。きっとそれが悔しいんだわ……」 

 

 マルゴは、くすりと微笑んだ。 

 マルゴの笑みを見て、リィは身を固くした。 

 そのリィを見て、マルゴはやはり微笑んだ。 

 

「心配しないで。今更、この人の後を追おうとは思わない。だって、こんなにも幸せそうな顔をしているんだもの。わたしなんかが追いかけたら、きっと迷惑にしかならないから……」 

 

 ふらりと、マルゴの小さな体が前のめりに傾く。肉体も精神も、生死の境を彷徨うほどの打撃を受け続けたのだ。マルゴの未成熟な体は、その両方について限界を迎えていた。 

 少しずつ傾いていく地面を眺めながら、マルゴは呟いた。 

 

「ああ……長い……これから死ぬまで……どうやって生きればいいのかしら……?」 

 

 意識を失った少女の体を抱き留めたのは、ケリーだった。 

 ケリーは無言だった。軽々しく、若いから何とかなるとか、こんな男に縛られていたこれまでの人生が間違っていたのだとか、そういうことは言わない。 

 なぜなら、ケリー自身、今のマルゴと全く同じことを考えたことがあったからだ。全てが偽りに囲まれた戦場から命からがらに這い出て、復讐の刃を思うさまに振るった後、自分に残されたものは人気の絶えた赤い荒野だけだった。その寒々しい光景を前にして、自分も仲間達と一緒にここで眠ろうかという考えが、まるで甘美な麻薬のように脳髄を浸したのだ。 

 もう、自分には何も残されていない。何も残されていない自分に、しかし時間だけは、まるでそれ自体が拷問のようにたっぷりと残されている。 

 生きることが、苦痛に思えた。死ぬことが、安楽に思えた。 

 それでもケリーは生きることを選んだ。それは、本当にぎりぎりの選択であった。いったい何がそうさせたのか、今でも分からない。だが、その選択は正しかったのだと、今は胸を張ることが出来る。 

 その証拠が、自分の隣にいる。だから、俺は間違えてはいないのだし、これからも間違えない。 

 

「終わったな」 

 

 隣にいたジャスミンが、ケリーの肩を叩いた。ケリーは、無言で頷いた。 

 

「そういえば、表の様子は?」 

 

 振り返ったジャスミンが訊いた。 

 これに応えたのはルウであった。 

 

「王様が、全ての決着をつけた。後はこの国の人たち次第だと思う。これからも、今までと何も変わらずに生きていくのか。それとも、今日をきっかけにして何かが変わるのか。それはぼく達が責任を負うことじゃない」 

 

 この言葉に、リィがひんやりと笑った。 

 

「そんなことはどうだっていいさ。だいたい、おれはあの馬鹿を迎えにここまでやってきたんだ。この国が裏で何をやっていようと、どんな非道を働いていようと、それはおれの関知することじゃない。せいぜい、連邦警察やら情報局やらの人間に任せておけばいい。あの連中、そのために給料をもらっているんだろう?」 

 

 非の打ち所のない正論であったが、この少年が、目の前に困った人間がいたときに果たしてどう反応するか、それを知り尽くしている三人はちらりと目を交わして薄く笑うにとどめた。 

 そんな三人の様子を横目に見たリィが、不服そうに言った。 

 

「悪いのは全部ウォルだ。初夜が怖くてベッドから逃げ出す花嫁は珍しくないにせよ、まさか星系単位で家出をされるとは思ってもみなかった。これから先が思いやられる」 

 

 わざとらしく溜息を吐き出したリィに、ルウがくすくすと笑いかける。 

 

「そうだよね。エディが王様のお嫁さんだったときだって、精々国をまたいで半年くらいの家出が関の山だったんだし。でも、あっちの世界で国を跨いでの家出って、こっちの世界での星系を跨いだ家出とそんなに変わらないと思うんだけどなぁ。結局、似た者同士ってことじゃないの?」 

 

 魂の相棒の結構容赦ない指摘に、リィは形の良い唇を尖らせた。 

 

「全然違う。だいたい、おれはあいつと結婚したときにちゃんと断ったんだ。王妃なんてかたちだけの話だし、おれはおれの好きなようにさせてもらうって。だから、どんなに遠くに家出しようが半年姿を消そうが、誰に憚る筋合いでもないじゃないか」 

「それにしたって王様はきっと心配したと思うよ。それに、もしもエディに何かあったと風の噂でも耳にしたら、全ての政務をほっぽり出しても助けに来たはずだ。それこそ、今のエディみたいに」 

 

 だからやっぱり似た者同士ではないか。ルウは最後までは言わなかった。まったくもって口に出す必要のない言葉であったからだ。 

 リィも、不服そうではあったが何も言い返さなかった。 

 むしろこの会話に食いついたのは、二人のやりとりをぽかんと眺めていた規格外の夫婦である。 

 

「おい、黄金狼。ちらっとウォルからは聞いたがよ、お前さん、たいそう楽しそうな体験をしたらしいじゃないか。そんな美味しい話を秘密にするなんて、残酷でけちくさいことを、まさかお前さんが言ったりしないよな?」 

 

 ケリーがにたにた笑いながら言えば、ジャスミンは真剣な顔で深く深く頷いた。 

 

「なにせ、我々はきみ達夫婦の結婚式の最前席を既に予約しているのだからな。仲人だろうが神父だろうが、何だって引き受けてやるさ。その代わり、水くさい話は無しだぞ。第一、そんな面白そうな話が目の前に転がっているのにお預けされて黙っていられるほど、わたしは我慢強くないんだ。とりあえず、女性だったきみと、男性だったウォルの、馴れ初めのあたりから話してもらおうかな」 

「あ、そういえばぼくも、そこらへんの話はあまり詳しく聞いたことがなかったよね。エディ、ちょうど良い機会だから教えてよ!」 

 

 巨体の夫婦はともかく、思いもよらずルウからも詰め寄られて、流石のリィも後ずさった。 

 そして不思議に思った。三人の瞳の輝く有様は、例えばクラスメートの女の子達が誰が好きだ誰が格好良いときゃあきゃあしている時の様子とほとんど変わらないのだ。 

 

「なんでお前ら、そんなに楽しそうなんだ!他人の色恋なんて、どうだっていいだろう!」 

 

 ケリーが、やはり楽しそうに首を横に振った。 

 

「それは違うぜ黄金狼。他人の色恋だからこそ、こんなに楽しく首を突っ込めるんじゃねぇか。まぁ、芸能人のゴシップやら乳臭い子供の好いた惚れたやらはこっちから願い下げだがよ、お前やウォルみたいな常識外れの連中の色恋話ならこれほど楽しいことは他にあるわけねぇぜ」 

「この男の言うとおりだな。結局、人間なんぞ下世話な生き物だということさ。そして、きみの目標は『目指せ一般人』なのだろう?ならば、こういう経験も積んでおくに如かずだと思うぞ。世間の波は厳しいぞリィ。色恋沙汰の秘密主義がどれだけ敵を作るものか思い知っておくが良いさ」 

「男性だった王様は色男だったもんねぇ。人間嫌いのエディがころりといくなんてほんと意外だったけど、少しだけ納得も出来たかな?」 

 

 三人とも好き勝手に言う。 

 辟易としたリィは、酔漢の如き三人を正面から相手する愚を悟り、特大の溜息を吐き出した。 

 

「分かった、分かったよ、また今度話してやるから今は我慢してくれ……」 

 

 肩を落とし、人間社会では魔法の言葉の一つともなっている『また今度』のカードを切った。この言葉は多くの場合、無期限延長契約繰延の意味を持つ逃げ言葉である。 

 しかしリィにとっては残念なことに、それはクーア財閥を切り盛りしてきた二人にとって、言質を取った以外のなにものでもないのである。 

 

「約束だぜ、黄金狼」 

「反故にすればひどいぞ」 

「またあの星に行こうか!今度は、キングたちも一緒に!」 

 

 三人は楽しそうに頷き、一人は渋面で再度溜息をついた。 

 そして、思い出したように言った。 

 

「そうだ、これ、預かってたんだ」 

 

 背負った小型のバックパックから、掌大の小箱を取り出し、ケリーに差し出した。 

  

「これは?」 

「開ければ分かる」 

 

 ケリーは受け取り、小箱を開いた。 

 中には、透明な液体の詰まった瓶が入っていた。そして、その液体には、ぷかぷかと丸い物体が浮かんでいる。 

 目玉であった。それも、ただの目玉ではない。ケリーにはそれが分かる。なぜなら、それは彼にとって半身とも言うべき存在と繋がった、人造の眼球であったからだ。 

  

「ダイアナから預かったんだ。今回は、何も手伝えないからって。全てが終わったら届けて欲しいって頼まれてた」 

「すまねぇ、恩に着るぜ」 

 

 瓶を開け、中から義眼を取り出す。 

 大昔、田舎海賊に拉致され義眼を奪われたときは、無理矢理に抉り取られたものだから、義眼もケリーの体も、治療が必要なほどに傷ついていた。だが今回は自分で取り外したこともあって、体の方に不具合はない。 

 ケリーは慎重な手つきで義眼を右目にはめ込んだ。途端、右半分の視界に、金色のふんわりした髪をした、妙齢の女性が映り込んだ。 

 

『ケリー!ケリー!大丈夫!?わたし、本当に、心臓が止まりそうなくらいに心配したわ!本当に怖かった……!』 

 

 画像の女性は、涙を流してはいなかった。しかしその声を聞けば、涙を流せないのが苦しいほどに、心細い思いをしていたことがケリーには理解出来た。 

 先ほどまでのおちゃらけた表情が嘘のように、ケリーは真剣な顔だった。 

 

「悪かった、ダイアン。心配をかけた……」 

『ううん、わたしのことなんてどうだっていいの。わたし、いつもは偉そうに何でも出来るようなことを言っておいて、これほど役に立たないなんて……。あなたの相棒、失格だわ……』 

 

 ケリーとジャスミンが囚われてから、ダイアナもただ手をこまねいていたわけではない。リィたちのサポートをしながらも、合法非合法を問わず、あらゆる方法でケリーたちを助けようとしてきた。 

 だが、大統領から、『これ以上余計な真似をすれば、きみにとって必要不可欠なパーツの手足を潰し、残ったもう片方の眼球を潰す。こちらは彼の命が必要なのであって、それが万全である必要は一切ないことを理解したまえ』という脅迫が届くに至り、全ての動きを封じられてしまったのだ。 

 もしもダイアナが肉の体を持つ人間ならば如何様にも動けるのだろうが、この場合は残念ながら、彼女は巨大な体を持つ宇宙船である。物理的に動けば、必ず何らかのセンサーに感知される。そうすれば、彼女の一部と言ってもいいケリーが、宇宙船乗りとして再起不能の傷を負わされることになる。 

 ダイアナが、どれだけの焦燥と戦っていたのか、ケリーは手に取るように分かった。 

 俯いたまま次の言葉を紡がない、紡ぐことの出来ないダイアナに、ケリーは優しく語りかけた。 

 

「勘違いするなよ、ダイアン。どこの誰がお前を完璧だと、全知全能だと褒め称えたんだとして、俺はちっともそんなことは思っちゃいない。もしもお前さんが本当の意味で完全な存在なら、俺がお前に乗る意味が失われちまうじゃねえか」 

 

 ダイアナが、はっと顔を上げる。 

 

「俺には肉の体がある代わりに、機械の体はない。お前はその反対だ。出来ることと出来ないことがあって、お互いにそれを補い合えるんだ。だからこそ、俺はお前を選んだ。お前は俺を選んだ。今回は、それがたまたま噛み合わなかっただけさ。そして、俺はまたお前に乗ることが出来るんだ。過ぎちまったことをくよくよ悔やむのは俺たちらしくねぇぜ。それよりも、俺たちはこんな陰気な星はさっさとおさらばしたいのさ。帰りの迎えは任せても大丈夫だよな?」 

 

 ケリーはそう言って野性的な笑みを浮かべた。 

 そもそもケリーは、今回の一件は全て自分の油断と見通しの甘さこそが招いた危機だったのだと思っている。ダイアナはその尻ぬぐいに奔走してくれたようなものなのだ。どちらかが謝らなければならないとするなら、それは間違いなく自分の方だ。 

 だが、自分たちは互いに頭を下げ合うような関係でないことをケリーは知っている。そして僅かな自惚れが許されるならば、ダイアナもきっとそう思ってくれているはずだ。それなら、言葉だけの謝罪は自分たちには相応しくない。ケリーの言葉に込められていたのは、言外の謝罪と信頼の意志であった。 

 それらの気持ちが伝わったのだろうか、ダイアナは一瞬だけ呆けたように目を開き、それから、こちらも挑みかかるように笑ったのだ。 

 

『ええ、待っててケリー。あなた好みの、亜光速の送迎艇で最高級のお出迎えを約束するわ!』 

「それは大変だ、この星の地表がかたちを変えちまう。もうちょっとのんびりしたやつで頼む」 

『ふふ、そうね、その方がいいわね。……それにしても、こういう切り替えは本当は機械であるわたしの方が得意であるべきはずなのに……。こういうのって、情に絆されるっていうのかしら?』 

「どっちかっていうと朱に交われば赤くなるが正しい気がするな。じゃあ、頼んだぜダイアン。ただ、こっちは怪我人がいる。帰りの予定はその様子を見ながらってことになるだろうから、そのつもりで頼むぜ」 

『分かったわケリー。リィと、その可愛らしい婚約者さんによろしく……』 

 

 その言葉を最後に通信は切られた。 

 ケリーは大きく息を吐き出し、それから三人の方を振り返って、 

 

「さ、行こうぜ。厄介事が片づいたなら、まずは仕事上がりの一杯だ」 

 

 飄々とした調子で背中を向けたのだ。 

 歩き去る夫の背中を眺めながら、ジャスミンが溜息を吐き出した。 

 

「しかし、なんというべきか、あれだな」 

「あれって?」 

 

 ルウが訊く。 

 ジャスミンは苦笑した。 

 

「嫉妬を感じる。わたしもまだまだだ」 

「嫉妬って、キングとダイアナに?」 

 

 ジャスミンは頷いた。先ほどの通信、ダイアナの姿こそ見えなかったが、音声を聞き取ることは出来た。通信を二人だけの秘密で行うことも出来たはずなので、ケリーかダイアナ、もしくはその両方が、他の三人に秘密で通信を行うことを嫌ったのだろう。 

 

「ジャスミン、確か、キングとダイアナは二人で一つだから、嫉妬するのも馬鹿らしいって言ってなかった?」 

「それはそうさ。今更、あの二人の間に割って入ってやろうとか、仲を引き裂いてやろうとか、そういう筋違いなことを考えてはいない。だが、あういうふうに惚気られるとどうにも妬けるのさ。羨ましいんだな」 

「クィンビーが話せないのが辛いの?」 

 

 ジャスミンは首を横に振った。 

 

「それは違うぞルウ。クィンビーは確かに無口だが、話せないわけでは決してない。操縦をミスった時など、軍属時代のどんな鬼軍曹よりも辛辣にわたしを叱責するものさ。無言だから逆に恐ろしい。無視を決め込めばとたんに機嫌が悪くなる。逆に、手間暇をかけて整備してやれば百の感謝よりも雄弁に宙を駆けてくれる。言葉はむしろ無粋だ、少なくともわたしとクィンビーに間にはな」 

「じゃあ、何が羨ましいの?」 

 

 ジャスミンは豊かな赤毛をがしがしと掻いた。 

 

「さぁ、それがわたしにもよく分からない。強いて言うなら、あの男とダイアナを同時に自分のものにしたいのかも知れないな。それがどれほど分不相応な欲望かは分かっているつもりなんだが……」 

 

 無論、支配して意のままにしたいというわけではない。コレクションに加えて棚に並べようというわけでもない。愛玩し愛でようというわけでもない。そんなことは、この夫婦にはちっとも似合わないし、そもそも必要ではないのだ。 

  

「我ながら自分の感情が不分明だよ。これだけ長生きしてなんとも未熟だと呆れる話だな」 

 

 渋い顔をしたジャスミンに、ルウはくすりと笑みを向けた。 

 

「ジャスミンは、キングのことが大好きなんだよ。もちろんダイアナも含めたキングのことが。今のはきっと、一時的な恋煩いだ。それだけの話じゃないの?」 

 

 その言葉に、ジャスミンは頬を赤らめ……たりはしなかった。むしろ、納得の表情で手を打った。 

 

「ああ、それはそうかも知れない。なるほど、変に理屈をこね回すから本質から遠ざかるわけか。そうか、わたしはあの男に惚れ直したのだな。なるほどなるほど」 

 

 そう言って何度も頷くあたり、いわゆる一般的な恋人の愛情表現から見れば、明後日の方角にずれているようだ。それでも気をよくしたらしいジャスミンは、小走りに自分の夫に駆け寄ってラリアートをくらわせるようにして肩を組んだ。 

 目を回しかけたケリーがげほげほと咳き込み、さすがに声を荒げて、 

 

「いてぇな女王!何しやがんだ!」 

 

 対するジャスミン、少しもたじろがず、 

 

「いいじゃないか海賊。わたしなりの愛情表現というやつだ。目の前で、夫が自分以外の女と惚気ている場面を見せつけられたわけだからな。少しは我慢し受け止めるのが男の度量というものだぞ」 

「意味がわかんねぇ……。だいいち、あんたの物騒な愛情表現を丸ごと受け止めようと思ったら、ちょっとやそっとの度量じゃ木っ端微塵に砕かちまうじゃねえか。受け止める側の身にもなってみやがれ」 

「だからこそわたしの愛情表現が他の人畜無害な男連中に向かないよう、努力するのが夫の勤めというものだ。じゃないと憐れな怪我人がダース単位でお前に助けを求める羽目になるぞ」 

「それは遠回しな脅迫か!?」 

「いやいや、いじましくも貞淑な妻の可愛らしいおねだりというやつさ」 

「ひでぇ冗談だ……」 

 

 そんな不思議な会話を繰り広げている。 

 置いて行かれる形になったリィとルウは、二人のたくましい後ろ姿を眺め、なんとも中途半端な笑みを浮かべながら溜息をついた。  

 

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