懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
ケリーとジャスミンは、ケリーに割り当てられた私室で、膝を合わせるようにして椅子に腰掛けていた。
それほど狭い部屋ではなかったのだが、規格外のサイズの夫婦であるから、みっしりとした肉体が部屋を内側から圧しているように見える。
二人とも、しばらく無言であった。二人がこの部屋に入ってから、既に半時が過ぎようとしているのに、どちらも一言すら話さない。
ただ無言で、じっと相手の目を覗き込んでいる。それは、相手の瞳に映った自分自身と対話をしているかのようだった。
二人にとって、沈黙は苦痛ではない。必要がなければ、一日でもこのままの姿勢でいるだろう。
「黙っていても始まらないぞ、海賊」
しかし今は、時間は何よりも貴重だ。例えどんな選択肢を選ぶのだとしても。
それが分からないケリーではない。
まるで、酸化してしまったヴィンテージワインを口に含んだように、ケリーは苦笑した。
「ああ、あんたの言う通りさ、女王。そして、あんたに言われるまでもないことさ、女王。選択肢は決まってる。あらためて口に出すまでもねぇ」
ジャスミンは無言であった。
じっと、自らの夫の、琥珀色の瞳を眺めている、。
ケリーの、二つの瞳の片方は自前のものだが、もう片方は義眼だ。そのきっかけは、ケリーが全てに裏切られ、全てを失った、ウィノアの虐殺と呼ばれる事件である。
ケリーはあの時、全ての仲間を殺された。その中には、マルゴ・エヴァンスという、ケリーにとって初恋の少女がいた。
そして今、ケリーが何を思うのか。その義眼に何が映り込んでいるのか。ジャスミンには伺い知る術はなかった。
「まったく、つくづく俺たちは疫病神と縁が切れないらしい。エストリアの正規軍だ。しかも、艦隊規模。映画のヒーローなら、たった一人で悪役を片付けちまうんだろうぜ。怒りか悲しみかで、秘められた力に目覚めてな」
くつくつと、ケリーは笑った。その力無い笑みは、極々稀にしかないことだが、わざと酒に呑まれたケリーが浮かべる、破滅的な微笑に似ていた。
「例えば女王、クーアカンパニーの全警備艦隊をこの星に結集させてヴェロニカ軍と一緒に戦ったとして、勝率はどれくらいだろうな」
ジャスミンは毛の先程も表情を動かさず、
「その過程に意味は無いな。宇宙嵐と妨害電波の影響で、我々には外洋宇宙より先と連絡をとる術が無い。万が一その手段が確保出来たとしても、警備艦隊を集結させる時間が無い」
ケリーが、鼻を一つ鳴らした。
「それでもさ。万が一で駄目なら、億が一の確率でそれが成功したとして、勝てるか勝てないか。それを聞いてるのさ」
「……デビュー戦で世界王者に挑戦したボクサーが、果たしてチャンピオンベルトを奪取することが出来るのか。お前はどう思うね、海賊」
「成功したのなら、きっとこう言うんだろうな。奇跡ってよ」
中央から遠く離れ、危機といえばテロリストか宇宙海賊程度しか存在しないヴェロニカ軍と、マースをはじめとした他国との戦争を常に想定し訓練してきたエストリア軍では、その装備も練度も桁が違う。
もしケリーの言葉通り、クーアカンパニーの警備艦隊をヴェロニカ軍と合流させることが叶えば、数の上ではエストリア宇宙軍半個艦隊と拮抗出来るかも知れない。
しかしそれは文字通りの烏合の衆であり、緻密な連携と最新鋭の武装を備えたエストリア宇宙軍にとっては好餌以外の何物でもないだろう。巧妙に誘い出され、分断され、各個撃破されるのが目に見えるようだ。
純粋な戦力でもってエストリア軍を撃退するなど、どだい無茶な話なのである。それを、ケリーもジャスミンも心得ている。
「で、どうするんだ海賊。逃げるのか。それとも戦うのか」
ケリーは答えない。答えず、乾いたにやにや笑いを続けている。
ジャスミンはため息を一つ吐いて、
「一つ、教えておいてやる。連中は、この星の大清掃に毒ガスを使うつもりだ。そして、ガスの名前はGUSOHⅡ。毒性は強力無比、人間が吸えば一呼吸で死に至る。しかし自然分解は早く、一週間もすれば無毒化される。まるで、こういった任務のために開発されたような毒ガスだ」
ジャスミンの瞳が、僅かに金色の輝きを帯び始めた。
ケリーは、ちらりとその瞳を見やった。
「どこかで聞いた名前だな、その毒ガスは」
ジャスミンは頷いた。
「そうだ。ウィノアの虐殺で使用されたGUSOHの改良版だ」
「どうしてあんたが、この作戦で使用予定の毒ガスの名前まで知っている」
ジャスミンはほんの少しだけ躊躇い、
「……ダイアナが調べた。この最悪とも言える電波状況で、必死になって調べたのだと思う。その上で、この事実をお前に教えるかどうかは私に任せると、そう言ってくれた」
ジャスミンは、ダイアナから託されたのだと思っている。ケリーの、最も弱く最も辛い記憶に触れる権利と義務を。
ダイアナの気持ちを思うと、涙が零れそうになる。いったいどんな想いでその役目を他人に託したのか。
「お前は、全てを知ったうえで決断を下す義務がある。そして私には、妻としてお前の決断を知る権利と義務がある。さぁ、お前の決断を教えてくれ」
ジャスミンの情け容赦ない言葉に、しかしケリーは反応しない。
ただ無言で天井を見上げているのだ。
その様子を見たジャスミンが、瞳を金色にしながら口を開いた。
「仕方ない。海賊。そこに立て」
「……どうしてだい?何だか嫌な予感がするんだがな」
「しかし、こればかりは仕方ないぞ。お前の選ぶ選択肢が何であったとしても、仕方ない事なんだ」
ケリーは天井に向けて細い息を吐き出し、そして立ち上がった。
ジャスミンも、ケリーに続けて立ち上がる。そして宣言した。
「これから貴様を殴るぞケリー・クーア。避けることは許さん。きっちり歯を食いしばれ」
「アイアイサー」
気のないケリーの返事が終わるや否や、ジャスミンの鉄拳がケリーの左頬に突き刺さり、夫の巨体を部屋の壁まで吹っ飛ばした。
船全体が揺れるような、容赦ない一撃であった。
普通の男ならば意識不明のまま救急車で運ばれ即入院という一撃に、しかしケリーは苦笑いを浮かべながら口の端に浮いた血を拭っただけだった。
「痛ぇなぁ、あんたの拳は相変わらずよ」
ジャスミンは、右拳をひらひらさせながら、
「そういうお前は相も変わらず頑丈だ。結構本気で殴ったのだが、そうもケロリとされると自信をなくしそうになる。おまけに拳を痛めたぞ。お前の骨格は超合金製か?」
「ケロリとしてるように見えるなら、俺の痩せ我慢もまんざら捨てたもんじゃないらしい」
「ああ。あとは、その震える膝小僧を誤魔化せれば完璧だな」
ケリーは、震える膝をしゃんと伸ばし、吹き飛んだ椅子を元に戻して腰かけた。
「で、理由を聞いていいのかな?」
「理由?」
ジャスミンが不思議そうに聞き返した。一言の説明も無く人を殴っておいて、何とも無邪気な有様である。
並の人間であれば、この時点で怒り心頭に達していて当然だ。理不尽な暴力に晒された、それが普通の反応である。いや、本当に並の人間であれば怒りたくても怒れない状況にあるのかも知れないのだが。
しかし、ケリーは恨みがましげにジャスミンを見上げただけだった。
「どうして俺は殴られなくちゃならなかったんだい?」
ジャスミンは一つ頷いた。ケリーの質問に、どうやら答えるつもりはあるらしい。顔の前に指を三本立てて、
「まず一つ。お前がこの星から尻尾を巻いて逃げようとしている場合。私は、初恋の少女を見捨てて敵前逃亡を図るような軟弱者を夫にした覚えは無い。つまりお前は偽者ということになる。だから殴ってみた」
指が一つ折られた。
「次に、お前が戦うことを選んだ場合。これは、更に二つに場合分けされる。つまり、私を連れて行くケースと、置き去りにするケースだ。そのうち、私を置き去りにし自分だけで戦いに赴こうとしているなら、先ほどの府抜けた様子は、私に愛想を尽かさせるための擬態ということになる。私は、私の身の安全をお前などに預けた覚えは一度たりとてありはしない。私の命の責任は、ただ私にだけ帰するものだ。その点で、お前は私を侮辱したことになる」
ジャスミンは二本目の指を折った。
「最後に、私を連れて戦いに赴こうとしているケース。この場合、先ほどの問答はただ無用な時間の浪費であり、お前の優柔不断は利敵行為以外の何物でもない。そしてその不要な逡巡は、つまり私の能力への不信であり、妻であり生涯を共にすると誓った私への裏切りだ。だから殴った。以上が、わたしがお前を殴った理由だ。何か質問はあるか?」
そして三本目の指が折られ、ジャスミンの手は大きな握り拳となった。
その様子を、目を丸くしながら眺めていたケリーは、右手で顔を多いながら、肩を震わせて笑った。
「いや、残念ながらあんたの意見は一々正しいみてぇだ。反論の余地もありゃしねぇさ」
当たり前のことを言うなとばかり、ジャスミンが鼻を一つ鳴らした。
ケリーは立ち上がった。そうすると、ほんの僅かだが、ケリーの視線のほうが高い。
「だがな、敢えて言わせてもらうなら、俺が迷っていたのはそんなこんなことじゃない」
「ほう。では、何をぐちぐちと迷っていたのか、聞かせてもらうとしようか」
ギラリとしたジャスミンの視線を受けて、しかしケリーは皮肉げに頬を歪め、
「マルゴは確かに、俺が初めて惚れた女だよ。だから、あんたをどうやって口説き落とそうかと思って悩んでたのさ。仮にも、あんたは俺の妻だろう?」
「仮にもとはご挨拶だな」
「言葉の綾ってやつさ。とにかく、あんたにはマルゴを助けるために戦う理由はない。だが、あんたの力を借りずにこの戦いに勝つ算段が俺は立たない。つまり、俺はどうにかしてあんたを言いくるめてその気にさせなきゃならんわけだ」
「なるほど」
「さて、一つ尋ねるんだが女王、妻に、夫の初恋の女を助けるために命をかけさせる。そんな魔法の言葉を、あんたは聞いた事がないかい?」
一瞬呆気に取られたジャスミンが、生真面目ば顔になって、
「さぁ、そんな状況自体、見たことも聞いたこともないから何とも言えんな。ただ、今はお前が一番愛してるんだ、とか、俺を信じてついて来い、とか、そんな舌先三寸の台詞でもって丸めこむものなんじゃないのか?」
今度はケリーが目を丸くする番だ。端正な顔に驚きを貼り付け、しかしそれがだんだんと不敵な笑みに塗りつぶされて行く。
「じゃあ女王。俺は、俺の思い出の女を助けるぜ。おそらく、生き死にの戦いになる。それでも、今の俺にはあんたが一番だ。だから俺を信じてついて来い」
ジャスミンは涼しい顔で頷いた。
「当然だ。夫の昔の想い女を助けるために命を賭ける。これぞ女冥利に尽きるというやつだな。喜んで助太刀させてもらうさ。なんだ、本当にそんなことで悩んでいたのか。殴って損をした」
「おいおい、殴られたのは俺だぜ。その言い草はねぇんじゃねぇか?」
「わたしも拳を痛めたんだ。文字通り痛み分けということにしておけ」
ジャスミンはケリーに手を差し出した。ケリーは何の衒いも無くその手を取る。
手のひらから伝わる、力強い熱。その灼熱たる様子は、今までケリーの手を握った如何なる男よりも激しかった。
ジャスミンはひょいとばかりにケリーの巨体を引き起こし、
「しかし海賊。本当に勝算はあるのか。それとも、マルゴだけを助けて逃げるつもりか」
ケリーはにやりと頬を歪めた。
「やるからには半端な真似はしねぇよ。俺とあんたで、エストリア宇宙軍一個艦隊をとっちめてやろうじゃねぇか」
ジャスミンが口を開きかけた時、部屋のテレビ画面に光が灯り、妙齢の美しい女性が映し出された。
その挑戦的な笑顔を、誰と見間違えるはずもない。
ダイアナが、似た者同士の夫婦に笑いかけながら、
『あらあらお熱いわね。ひょっとしてわたし、お邪魔虫かしら。貴方たちが仲良く戦っている間、一人寂しくお茶でも飲んで待っていればいいの?』
ケリーが慌てて、
「ちょっと待てダイアン、そいつは困る。とても困る。お前の力無しでエストリア宇宙軍とどんぱちなんて出来るわけねぇじゃねぇか。心臓に悪い冗談は無しだぜ」
ダイアナが画面の向こうで、口を手で抑えながら笑っていた。その可憐な様子を見て、いったい誰が彼女を感応頭脳だと見破ることが出来るだろう。
二人(?)のやりとりを眺めていたジャスミンが、億劫そうに溜息を一つ吐き、
「悪いのはお前だな、海賊。さっさと謝って許しを乞うがいい」
「じゃ、こう言えばいいんだな?俺とダイアンとあんたとで、エストリア宇宙軍をぶっ飛ばすぜ。今の俺にはあんたらが一番だ。四の五の言わずについて来やがれ」
◇
そして、ケリーとジャスミンが食堂に戻ったとき、彼ら以外の全員は既に揃い、席に腰掛け二人を待っていた。
「悪い、待たせちまったらしい」
大して悪びれるふうもなくケリーがそう言い、大柄な体を椅子に沈めた。左頬が赤く染まり唇の端に血が滲んでいるが、そのことには誰も触れない。
ジャスミンもそれに倣う。下船したマルゴを除いて、全員がこの場に揃ったのだ。
誰が最初に口を開くのか、探るような空気が一瞬流れたが、それを打ち破ったのはケリーだった。
「しちめんどくさい腹の探り合いは無しだな。まず、俺は戦おうと思ってる。この星がどうなろうと知ったことじゃないが、マルゴは俺が昔惚れた女だ。正確に言うなら、惚れた女のクローンだ。例え遺伝子から複製したクローンだったとしても、あいつはマルゴに違いないんだ。もう、二度と見捨てるつもりはない」
ケリーの強い言葉に続き、ジャスミンが、
「わたしも夫に付き合うつもりだ。まず、軍人が、守るべき無辜の民衆を虐殺しようという気概が気にくわない。それに、夫を助けるのは妻の義務だからな」
赤毛の前髪を掻き上げながらそう言った。
言葉は気楽なものだが、表情は流石に緊張を帯びている。無理もない。相手は田舎海賊の一味程度ではないのだ。歴とした、エストリア正規軍の一艦隊である。練度も武装も、ごろつき海賊どもとは桁が違う。ごろつき海賊を痩せ犬とするなら、エストリア正規軍は獅子か猛虎か、はたまた巨象か。
いずれにせよ、いかに卓越した操船技術と戦闘能力を誇るケリーとジャスミンであっても、まともに戦って勝ち目のある相手ではない。圧倒的な火力と物量の前に磨り潰されて果てるだろう。
それが分からない二人ではない。ならば、敢えて戦うという選択肢を選んだということは……。
「勝ち目があるのか」
短く鋭い問いは、リィのものだった。翠緑石のような瞳は、炎を孕んだような烈気で輝いている。少年が少女だったとき、一軍を叱咤する戦女神だったときの瞳の色だ。
ケリーは、その瞳を向けられ、少しも怯むことなく頷いて見せた。
「勝ち目の無い殺し合いに参加する奴は、自殺志願者かそれとも頭の線の切れた異常者だけだぜ。そしてリィ、俺はまだ、そのどちらでもないつもりだ。もちろん、女王も含めてな。最初から死ぬのが分かってる戦なんて誰が参加するかよ、それならすっ飛んで逃げ出すさ」
飄々とした言葉に、むしろリィは頷いた。リィは、勝ち目の無い戦いに参加するのを、例えば男気だとか覚悟だとか破滅の美だとか、そういう訳の分からない言葉で誤魔化すことを好まない。
勝ち目がないと分かっているなら逃げるべきだ。生きてこそ再戦の機会もあるのだし、名誉挽回の機会もあるだろう。無論、生きて恥辱に塗れるのは苦しい。それよりは、目前の死に飛び込むほうが楽なこともあるだろう。しかし、それはただの逃避でしかないのだとリィは確信していた。
つまり、目前の敵から逃げるのか、待ち受けているだろう苦しい未来から逃げるのか、そのどちらかでしかない。どちらを選んでもそれが逃げることならば、より建設的な方向に逃げるべきだ。
リィは、きっとケリー達も同じ考えを持っているのだと確信していた。彼らが、英雄的破滅願望の精神的罹患者であるとはどうしても考えにくい。どうにも酔狂に見える二人だが、だからこそ根底には現実的で粘り強い精神が息づいているはずなのだ。
「ケリーとジャスミンがそう判断したなら、おれも逃げるのは無しだな。だいたい、おれとルーファを出汁にして旨いところを掠め取ろうっていうエストリアのやり方がいけ好かない。どうしたって一泡吹かせてやらないと気が済まないじゃないか」
◇
テセルはまんじりともせず、薄暗い天井を見上げていた。
遠く、虫の鳴き声が聞こえる。夜の帳は降りて久しく、じきに明ける。朝が来る。誰もそれを望んでいなくとも。
果たして自分は、この星は、どうなるのだろうか。不安と焦慮と無力感に苛まれたテセルは、何度目か知れない寝返りを打った。何が恐ろしいのではない。明日が、ただ不安なのだ。
テセルの、固く閉じられた瞼の裏に、自らが師と仰いだ老人の死に様が焼き付いていた。
少女の、無表情に突き出した切っ先が、ビアンキの薄い胸板を貫く。自分はあの時、何と叫んだのだろう。あの後、何をどうしたものか、全く覚えていない。どうして今、寝床にいるのか、それすらが不思議だった。
そもそも……あの光景は、本当に現実だったのだろうか。いや、近頃自分に起きた全ての出来事が、曖昧模糊として、まるで胡蝶の夢のように思えてしまう。もしかすると自分は悪夢の中にいて、目が覚めればいつもの朝が訪れ、いつも通りの修行が待っているのではないか。
違う。そんなはずはない。あれは、全てが紛れもない現実だ。ならば、それを否定することは、ただ逃避というだけではない。命を賭してヴェロニカの教えを守った、ビアンキ老師への侮辱だ。
しかし、あれが現実に起きたことならば、明日からは蜂の巣を突いたような騒動の渦中に、自分は放り込まれるに違いない。その嵐を、俺は、そしてヴェロニカ教は乗り越えることが出来るのか。それとも、海の藻屑と成り果てるのか……。
眠れないことなど、分かっている。それでも眠ろうと、ゆっくり深く、息を吐き出した。空気が、どこか甘ったるく、果実の腐敗したような匂いがする。粘ついたそれが、肺に籠もり、上手に吐き出すことが出来ない。
目眩を覚えたテセルがむくりと体を起こしたとき、信じられない光景がそこにあった。
己の足下に、ぼんやりと立ち尽くす人影。まるで骸骨のように、痩せ衰えた体つき。
どくりと心臓が一度跳ね上がり、声が喉元までせり上がったが、口から出たのは恐怖ではなく驚きと歓喜の声だった。
「ろ、老師……!」
そこにいたのは、紛れもない、昨晩の儀式で、生け贄である少女の剣によって心臓を一突きにされた、ビアンキであったのだ。
「老師、何故ここに……?いや、そも、生きておられたのですか!?ならば、今すぐ皆の衆を……!」
喜び勇むテセルに、しかしビアンキは微笑みながら首を振った。
「いや、それには及ばぬ。テセル、良くお聞き。これは夢じゃ。儂は、既にこの世の者ではない。それは、誰よりもお主が一番理解しておるじゃろう」
テセルは言葉を飲んだ。ビアンキの言葉の通りであった。彼の心臓に切っ先が突き立った光景を、誰よりも近くで見たのはテセルだったのだ。
「儂は地獄に落とされて当然の身。しかし、彼らが、ほんの一時の猶予を与えてくれた。有り難いことではないか」
「彼ら……とは?」
「お主をあの祭壇へと導いた、天使達じゃよ。彼らの温情をもって、儂は今、お主と話しておる」
天使。確かに、口を開きさえしなければ、あの子供達はそう評して過分でないほどに美しい顔立ちをしていた。
しかし、それはあくまで外見だけの話である。
もしもビアンキの語ることが正しければ、彼らは本当に、死者の魂を自在に操ることすら出来るということか。
それは、神にのみ許された所業ではないのか……。
「老師。お言葉ですが、私はどうしても、老師の仰ることを信じることが出来ませぬ。彼らは、確かに決して並の人間ではなかった。それは認めましょう。しかし、同時に彼らは人間でした。決して、死者の魂を己が意のままにするような、そのような冒涜を犯すような存在には見えませなんだ」
ビアンキは、笑みを崩さないままに頷いた。
「彼らは恐るべき存在ではあるが、恐ろしい存在ではない。儂の魂も、乞うて今ここにおるだけで、彼らがそれを利用しようとしたことなど、一度だってありはしない。それを間違わぬようにな」
「はっ……」
「ふふ……しかし、このようにお主と話していると、昔日を思い出してしまっていかん。儂がここにいるのはもっと差し迫ったことのためなのに、いつまでもこうしていたいと思ってしまう……」
そう言ったビアンキの目に、涙が湛えられていた。
テセルは、例えようのない罪悪感に襲われた。この、無上の師との離別の責めは、全てが自分に帰するのだ。
「老師……私は、私は……」
跪き、肩を振るわしたテセルに、ビアンキは、
「今は儂の影に縋るのもよかろう。しかし、お前が一人で立たねばならぬ時が、今、そこに差し迫っておる。心して聞け、テセル。ヴェロニカ教に、いや、この星そのものに、未曾有の危機が訪れるじゃろう。我らにはその危機を迎え撃つ義務があり、お主にはその責任がある……」
◇
「これはこれは、お久しぶりでございますな師匠。どうされましたか、黄泉路の道行きが、一人では心細くなられましたか」
寝台から体を起こした老人は、闇に輪郭の滲んだビアンキの姿を見ても、露程も動じず、晴れやかに笑いながらそう言った。
ビアンキの矮躯が、かつての弟子の堂々たる様子を見て、震えるように笑った。
「相も変わらずじゃなカスパー小僧。お主は一際手のかかる弟子じゃったものなぁ」
「昔話ならば、私がそちらに行ってから心ゆくまで出来るでしょう。老師、あなたがここに現れたのは、まさかそのような些末事のためですか?それとも、最後のお別れとやらをしにわざわざここまで?もしかすると、私を道連れにするおつもりでしょうかな?」
恩人の亡霊によくぞここまでという発言であったが、ビアンキはむしろ嬉しげであった。
かつての愛弟子が、変わらずにいてくれた。それが嬉しいのかも知れない。
「ありがとう、カスパー小僧。儂は、お主のような人間を弟子に持つことが出来た。それだけで、天の国で胸を張ることが出来よう」
「なるほど、つまりあなたは厄介事を私のところに持ってきたらしい。あなたが私を褒めるのは、決まってそういう時でしたからな」
不敵に笑った老人の目尻に、光るものがあった。
その雫に気が付いているのか否か、ビアンキは頷き、
「お主の言うとおりだ。いいか、よく聞いておくれ。これは、この世で儂がする、最後の願いじゃ。お主には、どうしたとしても大きな迷惑がかかるじゃろう。それを、儂はお主に強いねばならぬ。許してくれとは言わぬ。いつかお主が儂と再会したとき、如何様にでも儂を罵るがよい。それでも、たった今だけは、その耳を傾けておくれ……」
◇
暁闇を最初の陽光が照らし出す頃合いであった。
昨晩からヴェロニカ宇宙軍アーモン基地の検問所に詰めている兵士は、生欠伸を噛み殺しながら青みがかる空を眺めていた。最近は夜明けも早まり、また朝方の冷え込みも、寒さから涼しさへと変化しつつある。
暑さが近づいてきているのだろう。暑さの盛りの訓練は、中々に堪えるものだ。嫌な季節がやってくる。兵士は溜息を吐き出した。こればかりは神頼みも通じないのだ。当然、厳しい上官は神よりも無慈悲である。
ぼんやりとそんなことを考えていた兵士の視界に、薄い砂煙が遠くで立ちのぼっている様子が見えた。
何かがこちらへと向かって来る。
流石に眠気を吹き飛ばし、背筋をしゃんと伸ばして双眼鏡を覗き込むと、こちらへと向かって来るのは軍用のトラックだった。
ヴェロニカ軍で正式採用されているその車両には、遠目では偽造とは思えない認識票が張り付いている。無論、精巧な偽物はいつも時代も識別者を悩ますものだから、油断など出来ようはずもないが。
果たして現在、この基地がテロ行為の対象となる可能性は如何ほどか。不吉なことを考えつつ、兵士はトラックに停止の合図を送った。
トラックは重厚な門扉の直前で完全に停止し、検問所側のドアガラスを下げた。
「所属と認識番号、そして姓名と階級を」
そう言った兵士だったが、直後に、思わず顔に出るほどの驚きを味わった。それでも眉を一筋動かしただけで済んだのは、日頃の弛まぬ鍛錬の賜だろうか。
トラックを運転していたのは、少女だった。まだ、高等教育も修了していないだろう、幼い少女。当然のことながら入隊資格を満たしていよう筈もない。
しかし、直後、兵士は思い出した。ヴェロニカ軍には、大統領虎の子の特殊部隊があり、その構成員は年端もいかない少年少女だということを。
「大統領直属特殊部隊所属、W-S1232500、マルゴ・レイノルズ中尉よ」
手持ちの携帯端末に情報を端末に叩き込むと、まさしく目の前の少女の顔が画面に現れた。
センサーが感知した電子認証式個人識別タグも、少女の身分を証明している。
兵士は慌てて敬礼した。子供とはいえ、中尉階級など雲の上の存在だ。
「失礼しました。どうぞお通りください」
少女は軽く頷き、門扉のゆっくりと開かれる様子がもどかしいように、トラックを急発進させて基地の中に消えた。
門番を務める兵士はその姿を見送り、溜息を一度吐き出した。
一方のマルゴは、ハンドルに寄りかかるようにしながら安堵の息を吐き出した。
下手に潜入を試みるよりも、寧ろ堂々と正面から乗り込むべきである。そう判断したのは、部隊長であるマルゴであった。自分達は、正式なヴェロニカ軍人であり、ヴェロニカ共和国を守るためにこれから命を賭して戦おうというのだ。どうして卑屈なコソ泥のように、電撃有刺鉄線の切れ目を探して這いずり回らなければいけないのか。
しかし、そういった自負は別にして、危険は確かに存在した。もしも大統領の死が公にされ、さらにそのお抱え部隊であった自分達の軍籍が剥奪でもされてしまえば、門前払いを喰らうのは間違いない。それどころか、身柄を拘束される可能性すら存在した。
賭けではあったのだ。そして、それに勝利した。やはりアーロン・レイノルズの死は、少なくとも限られた上層部を除けばまだ極秘事項らしい。
それはそうだろう。ヴェロニカ教でも最も神聖な筈の儀式の最中に、この国の最高権力者が、あのように異常な死に方をしたのだ。事実を事実として発表すれば、少なからぬ混乱が起きるのは目に見えている。そして、事実を虚構で糊塗しようとすれば、それなりの時間が必要になるものだ。
トラックは程なくして、大型の格納庫の前に停止した。軍の中でも極秘扱いをされている兵器を格納している場所だ。当然、警備の厳重さは他とは比べものにならない。本来であれば中尉階級の人間には立ち入る事の出来ない場所であるが、マルゴに与えられたアクセス権はそれを可能とした。
何故なら彼女達は、その兵器の操縦者なのだから。
TYPHON零型試作機。
クーアカンパニーの軍事部門が極秘裏に開発した、宇宙戦闘を念頭にした大型機甲兵である。
超々小型化に成功したクーアシステムの搭載されたジェネレーター。搭乗者の神経組織と機体を直接繋ぐ新しい操縦システム。20センチ砲なみの威力を備えた荷電粒子ライフル。共和宇宙の水準から言えば一歩も二歩も遅れているヴェロニカ宇宙軍の兵装の中で、唯一の超最新鋭の兵器といえる。
これならば、エストリア軍を相手に、半泡くらいは吹かせることも出来るだろうか。
マルゴは苦笑した。どう考えても、出来るはずがない。四方を埋め尽くす艦隊の砲撃に、一瞬で蒸発するのが関の山だろう。
それでも構わない、と、マルゴは思った。
自分を造り、そして育ててくれた父はもうこの世にいない。同時に、自分の生きる意味の大半も失われたのだ。それを新たに見つけることも出来るかも知れないが、その道程が、マルゴにはあまりに果てしなく思える。
だから、最後に残された己の証、ヴェロニカ軍人として死のう。それが彼女の辿り着いた結論であった。
その結論に辿り着いたとき、マルゴはむしろ晴れ晴れとした感情を覚えた。頭の内側に張り巡らされた蜘蛛の巣が一息で取り払われ、燦々とした陽光が差し込んだようだった。もう思い煩う必要がないというのは、自由と同義だった。
そして、それは彼女の友人であり、兄弟であり、そして戦友である少年少女も同じだった。
「ねぇマルゴ、上手く行ったの?」
荷台から、おそるおそるといった調子の声がした。
声の持ち主も、マルゴと同じくらいの年の頃なのだろう、何とも幼い声だ。到底、軍の基地の中で聞こえるべき声ではない。
「ええ、アネット。とりあえずは第一関門は突破といったところね。もう、銃はしまってもいいわよ」
ほう、と安堵の吐息が漏れる。
「よかった。今からするのはわたしたちの我が儘なんだもの。そのために誰も殺したくなんてなかった。それに、仮にもわたしたちの仲間なんだし」
「仲間だって?あの、のろまで愚図な亀どもが?あいつらがもう少しマシな頭を持っているなら、俺達がこんなことをしないでも済むんだ。あんな連中と仲間扱いされるなんて怖気が走るぜ」
「ザックス、それは言い過ぎよ。わたしたちが全滅した後、この国を守るのは彼らなんだから。あまり貶すとわたしたちが死に損じゃない」
「それはそうだけどさぁ……」
唇を尖らせた少年の、なんとも不服そうな声がマルゴの苦笑を誘った。
エストリア軍がこの星に攻め込み、住民の虐殺を計画している。その情報を、当然のことながらマルゴは上官に伝えた。
そして、当然のように、上官はマルゴの訴えを一笑に付した。
無理もないことである。マルゴの情報は、ダイアナやリィからの伝聞であり、具体的な証拠の一つもないのだから。
そも、戦乱をほとんど経験したことのないヴェロニカ軍の監視網は、他国と比べれば浅く目が荒い上、最近の宇宙嵐の影響か、監視衛星もほとんど役に立たない。そんな状況ではヴェロニカ軍がマルゴの情報の正誤を確認することなど出来よう筈もないし、軍が確認できない情報を何故マルゴ個人が持ち合わせているのかを疑問視するのが当然である。
第一、マルゴの言うところの残忍なる侵略者であるエストリア軍は、長年ヴェロニカの最友好国なのだ。どうしてそのエストリアが、何の前触れもなくヴェロニカに牙を剥くのか。そんなことをして何の得があるというのか。
そう詰問された瞬間、マルゴはこれ以上の説得の無意味を悟った。エストリアがヴェロニカを占領する危険性を説明するならば、この星に埋蔵された膨大な量のトリジウムの存在を立証しなければならない。
それ自体は不可能なことではないが、きちんとした地質学上の調査を行い、トリジウムの正確な埋蔵量を計算して証明し、エストリアの侵略の動機を裏付けるまで、いったいどれほどの時間を浪費するのか。その間に、きっとこの星の住人は一掃されていることだろう。
マルゴは折り目正しく敬礼し、侮蔑塗れの冷笑を背中に感じつつ、上官の部屋を退出した。扉を後ろ手に閉じた瞬間、既に上官の不快な笑みは意識の底に沈めている。
結局、自分達だけで戦うしかないのだろう。勝ち負けの戦が出来ないことなど百も承知だ。それでも、戦闘行為が惑星ヴェロニカの近接した宙域で行われれば、平和ぼけした軍上層部も異常に気が付くかも知れない。無論、気が付いたところでエストリア軍は強大であり、ヴェロニカ軍の勝ち目など万に一つあればいいほうだろう。
だが、今のままでは万に一つも勝ち目はなく、惑星ヴェロニカは死の星となる。
マルゴは、国家に忠誠を誓った覚えはない。忠誠の対象だったのは常に一人の人間であり、彼は既に黄泉の国へと旅立った。自身を父親と呼び慕う数多くの子供達を残して。
それでも、自分に残された最後の記号が軍人であることならば、この国を守るために死ぬのが最も筋道正しく、誰に後ろ指も指されない死に方なのではないだろうか。
その考えを、マルゴは自分の兄弟達に伝えた。戦いを、その先にある不可避の死を強制するつもりはなかった。アーロンが死んだ時点で、自分達が軍にいる意味の大半は失われたのだ。除隊を希望する者がいれば希望を叶えてやろうと思った。
そして、今、トラックの荷台には、彼女の兄弟が全て揃っている。誰一人として、除隊を、希望に満ち溢れる明日を選ばなかった。
つまり、そういう生き方しか出来ないのだ。そういう生き方が、死に方が、安楽であると、そう魂に刻まれて生まれてきた欠陥品なのだろう。
マルゴは、名状しがたい清々しさを覚えていた。もしかしたら運命に対する皮肉や神に対する怨嗟もあったかも知れないが、それは彼女の心の極々一部を占領していたに過ぎない。ある目的のために作られた道具は、その目的が失せた時に役目を終えるべきだ。それが一番しっくりくる。
「もうすぐよ、みんな。準備はいい?」
マルゴの問いかけに、無言の頷きが気配で伝わった。
厳重なセキュリティ確認を終えたトラックは、既に格納庫の中に入っている。このまま電撃的に格納庫を占拠し、TYPHON零型試作機を根刮ぎ奪取。どうせ自分達にしか操縦出来ない機体だ。無くなっても誰に迷惑がかかるものでもない。
そして、奪取した機体を駆り、最寄りの宇宙港を占拠し、停泊中の高速型の貨物船を拝借してエストリア軍を迎え撃つ。
マルゴはトラックを停止させ、ホルスターから拳銃を引き抜き、慎重な動作で運転席から地面に降りた。同時に、荷台から完全武装の兄弟達が姿を現す。
頷いたマルゴは壁に設置されたパネルに暗号を打ち込み、格納庫へ至る最後のシャッターを持ち上げた。
「行くわよ」
部隊を先頭で率い、マルゴは格納庫に突入した。
そして、直後にその足を止めた。
「どうした、マルゴ?」
マルゴのすぐ後ろに続いていたザックスが、奇異を感じて問い質すと、マルゴが呆然と呟く。
「……無い」
「無いって、一体何が……」
「TYPHON零型が……全部……無くなってる……」
部隊の全員が、はっとした様子で辺りを見回す。
確かに、TYPHON零型が、一台も無い。本来、機甲兵が納められているはずの整備台には空しいスペースがあるだけで、TYPHON零型の黒い機体はどこにも無いのだ。
どうして。誰が。作戦が漏洩した?いや、それならば基地の入り口で身柄を拘束するはずではないか……。
マルゴは瞬時に思考を展開させたが、結論はただ一つだ。この作戦は失敗である。失敗したからには、速やかにここから脱出しなければ……。
「おい、貴様らそこで何をしている!」
突如、大音声と共に投光器の激しい光がマルゴ達を捕らえた。
視界を真っ白に染められ、一瞬、思考力を奪われる。しかし激しい訓練は、非常時の対処法を反射の域にまで刷り込む。マルゴは銃を抜き、投光器の方に向けて構え、そして……。
「待て待て、冗談だ冗談。その物騒なもんをしまいな」
今度は、明らかに笑いを含んだ声だった。
どこかで聞き覚えのあるその声に、ぎりぎりのところでトリガーを引く指を止めたマルゴは、銃を庇にして投光器のある方を見遣る。
そこには、男がいた。巨体の男。そして、その隣には、赤毛の、男と比べてもおさおさ見劣りしないほどに巨体の女。
見間違えるはずがない。
ケリーとジャスミンが、そこにいた。