春が始まり,終わりを迎えた。まるでもう直ぐ夏が来るんだぞと教えてくれるように気温も高くなり始めている。この新しい生活も,それと同じように慣れが出始めている。
「もう少しだ,頑張れ」
こちらにあるマットに向かってバク転している生徒にエールを送る。
自分でも感情籠ってないなと思っているが,これが俺の素なのだから仕方がない。
そんな俺のエールに答えてくれたのかは定かではないが,彼はバク転を綺麗な着地で決めた
「良いぞ,形になったな」
「先生ありがと~!!」
7歳の少年は嬉しそうに顔をへにゃと歪ませている。相変わらず色々ブラックな大人の世界よりも純粋な子供は癒される。……弁明しておくと別にロリコンとかの類ではない。今の時代何かあっただけでコンプラ的にアウトだからな。
ま,この子たちも大きくなっていったらブラックの世界に染まってしまうのかもしれないが。
「はい次!」
「はい!」
今度は高そうな繊維が使われている運動着を着ている女の子が,先程の男の子と同じようにバク転を始める。
だけどさっきの奴とは違ってマットの直線から外れてきている。このままでは彼女の態勢が崩れて怪我するかもしれないので,彼女がマットから外れる場所まで向かって回って来た身体を止める
「わわっ!」
いきなり身体を支えられたからか,彼女は身体をビクンとさせたが不可抗力なのだから余り理不尽なことを言われる前に褒めておく
「回転はとても上手いぞ。前よりも上達したな」
「えへへ」
嬉しそうにはにかんでるが,悪かった所も言わなくてはこの子の為にならないからな。ここで調子に乗らせると後々リアルに不味い事になりかねない。最悪一生ものの怪我だってあり得るんだから。
「次はもう少し真っすぐ回る事を意識しよう。そうしたらもっと良くなるから」
「はーい!」
あれ,俺は厳しく言ったつもりなんだが何故嬉しそうに戻る。
他の生徒達の元に戻っていくのを見ながら思う。こいつら才能ありまくりじゃね?
体格とかの問題でミスしそうになっているだけで筋自体は受け持っている生徒は皆良いと言える。
それに,これは俺のクラスだけかもしれないが,自分の才能に鼻をかけない奴が多いのは正直助かった。だってそれだけで言う事聞かなかったりされたらたまったものじゃないからな。あー良かった
俺が受け持っている低学年クラスは17時から18時半までの間でレッスンを行っている。今は18時半になったので生徒達に帰る準備をさせ,玄関まで送って行く。
「じゃあ先生さようなら~!」
「またね~!」
さっきの男の子や女の子がそれぞれのお手伝いさんや運転手さんと一緒に出て行くのを玄関で見送った俺は,今日の業務はほぼほぼ終わったので事務室に戻った。
本当なら子供達が使った用具とかを片付けないとダメなんだが,今日に関しては違う先生のクラスも使うと言う事なので,最後に片付けてもらう事を条件にそのままにしてる。これぞWin-Winの関係って奴だ。
けれど…
「はぁ,でもやっぱり疲れるものは疲れるんだよな」
「ため息は幸せが逃げてしまいますよ獅子先生」
俺の名前を呼びながら近づいてきたのは,このセレブ御用達のフィットネスクラブ「ニルヴァーナ」の水泳を担当している加賀美亜里沙だった。年齢はもう直ぐ40歳行くくらいだと思うが,どうしてかまだ若々しい。
「幸か不幸かなんて興味ありませんよ,加賀美さん」
「あら,そう言うのは結構大事だと思いますよ?」
言いながら加賀美は俺の隣の席に座った。俺は特に何も思わないが,大人の色香を感じる彼女はこのフィットネスクラブでも外でも,結構モテるのかもしれないな。まあ既婚者だから関係ないのだが。
彼女は学生の頃から水泳のインターハイの常連だったりしたそうで,その縁もあってこのニルヴァーナに長く勤めてるらしい。一時期はプロとして活動していたみたいだけども。けど子供のこと考えて頬を緩めまくっているこの人からはそんな威厳微塵も感じない。
「それに子供達可愛いじゃありませんか!」
ほらこんな風に。セリフだけ聞くのならちょっと危ない人に見える。それに,俺がそんなセリフを言えない理由はまだある。
「それを万が一『可愛い』って言ったら今の時代コンプラ的にアウトなんですよ」
面倒くさい,ほんとに面倒くさい。さっき女の子の身体を支えて体勢を直したのも本当は余りよろしくない。
あの子が怪我するからしただけで,本当はしたくない。あれをもし親が見ていてその親が何にも理解していない親とかなら速攻でここも辞めさせられる。如何せん,ここのニルヴァーナの系列の株主とかもいるだろうしセレブとその子供しか来ないからそいつらに気に食わない事があればすぐに辞めさせられる。
加賀美もそれは分かっているのか,俺に同調するように深く頷いた
「まあ確かにね……そんな優しい獅子君にお願いしたい事があるのだけど」
「待て,何故今の流れでそうなる」
「来週の木曜日の16時くらいお時間あったりします?」
「無視かい。無いけどなんですか?」
「私が昔から受け持ってる個人レッスンの子がいるんだけど,私の方にどうしても外せない用事が出来ちゃって……」
なるほど,言いたい事は大体分かった。
「だが断る」
「そこを何とか!」
その日だけ加賀美に代わってその子のレッスンを見てくれとでも言ってるのだろうが,そんなのはお断りだ。色々あるが,仕事じゃない日も行くのは時間が取られてしまうし,何より
「そもそも俺は水泳やった事ないですし,そんなに長い事加賀美さんに指導されてる子に教えられる事なんて何もない」
加賀美の代役として,その子に指導してほしいと言う事なのかもしれないが今言った通りだ。
俺に教えられる事は何もないし,その子だって困るだけだろ。元プロの加賀美にいつも教わっているのなら,水泳の素人の俺が何か言ったところで余計に混乱させるだけ。
却ってその子を潰してしまうかもしれない。
だけど加賀美は何故か胸を張って自信満々に言ってきた。
「大丈夫! レッスンメニューは渡すし,その子自身がもうする事を分かってるから問題ないわ! 獅子君に頼みたいのはその子に万が一の事が起こらないように見張ってるだけでいいから! ちゃんと給料も出るからぁ!」
「問題大有りだろ。今の状況だって本当は問題ありなのに」
「それはまあ,獅子君の実力だから?」
フィットネスクラブで指導員をすること自体に,特別な資格はいらない。極論だが聞きかじった程度の事でも指導をしてもいい事にはなっている。
勿論そんなことがやっているとバレたら信用がた落ちだし,怪我させるのがオチだからそんな事は普通ない。だから通常スポーツインストラクターの資格を取って来るのが普通なのだが……
加賀美はニヤリとした表情で言った
「なんてったって,ここに無資格で入った一人だもんね」
その通りで,俺は唯一の無資格者。如何せん,ここには所謂富裕層にいる人たちが来るため面接のときには資格は必須と条件が設けられていた。だったら何故俺は無資格で入れたのかとなるのだが
「俺だって,こんな所で働くなんて思いませんでしたよ」
俺がここら辺に引っ越してきた頃,1通の住所が書かれた紙と,堅苦しい推薦状なんてものが送られてきた。
便宜上送って来た人物をXにするが,Xが何故こんなものを俺に送って来たのかいまだに分からない。
だけど別にしたいバイトとかもなかったからここに来てみれば
「お,獅子君に加賀美さん,今日はお二人とも終了ですか!」
陽気な声でデスクの向こうから近づいてきた大男は,ここのフィットネスクラブのオーナー,大船
その底抜けに明るい声はきっと生まれ持ったものだと思うと少し羨ましかった。俺自身は別に明るい方じゃないからな。
「はい,オーナー。後は事務作業だけです」
「そうかそうか,いつもありがとう!」
俺がニルヴァーナに初めて来た時,迎えてくれたのはこの大船だった。初めて来たのは3月ももう終わろうとしていた時で,ここの受付で推薦状なるものを見せると大船がきて
『君が獅子君か! 待っていたよ!』
そんな調子で声をかけられ,何故か次の日にはここのスタッフの一員になっていた。……あれ,おかしくね?
それよりも,今隣で社員とオーナーの会話をしてる2人に言った
「お二人とも,別に今俺だけなんですからスタッフとオーナーの禁断の恋愛ごっこしなくても良いですよ」
「あらあら,獅子君何のこと?」
「そうだぞ,私が一スタッフの彼女と恋している筈が……」
「あらそれは本当かしら?」
「いや,すまん。つい流れで」
この2人は仲が良い。2人はこのフィットネスクラブにいる間は別姓を名乗ってはいるが実は夫婦だったりする。何で別姓にして結婚してるのを隠しているのかを聞いたら
「「その方が燃えるではないか!」」
とのことだった。知るか。
加賀美と話をしていた大船だったが,何かを思い出したようにこちらに身体を向けて来た
「あ,そうだ獅子君。来週の木曜日だがね……」
「その話なら今してました。お断りです」
「そうかそうか,狭く引き受けてくれるか」
「話聞いてました?」
ついでに言うとこの人は押しが強すぎる。俺がここでバイトを始めた時もそうだがものすごいスピードで物事を進めようとしてくる。本当なら素人の俺に低学年のクラスを持たせることも普通あり得ないのに…俺が一体何をしたって言うんだ。
「そうだなぁ……断られるなら1カ月位居残りは禁止になるかなぁ」
「こんにゃろ……」
俺がその文面に弱い事知ってやがるのに……
2人とも満面の笑みだった。
あー……くだらねえ
★
夜21時,結局加賀美の仕事を引き受ける事になってしまった。俺は加賀美の生徒まで把握はしていないが,昔から受け持っていたって事は30代位かもしれないな……いや加賀美の受け持っている子って言っていたな。ってことはまだ子供の可能性も一応あるのか。
「はぁ……マジであの人ら強引すぎる」
だけどやる事になってしまったものはしょうがない。ここの指導員として働く以上,例え加賀美の代行だろうと俺にはしっかりと役目を果たす義務がある。
1人結論に至り,俺はたった1人のこの体育館を見渡す。
それにしても,人気のなくなったこの体育館はやっぱり寂しいものがある。
空手の道場一つ分の面積を誇るこの体育館は,本来ならさっき俺がやっていた体操だったり,室内競技をする為の部屋だ。けれど今だけはこの広場に似つかわしくないごつい大砲型の機器が,俺を囲むように四方八方に鎮座している。
「じゃあ,今日も始めますか」
手元にある装置の遠隔操作でスイッチを入れると,機械が稼働した音と振動がそれぞれ約7m程度離れた俺のところまで伝わってくる。この実質最新鋭の機械をこうやって4台も独り占めできるのはこのニルヴァーナにいる特権だ。
ドンッ!!
凄まじい音共に目の前にある機械……世界最高峰のピッチングマシンが誇る最高速度,時速320kmの超剛速球が放たれてきた。
それを機械から放たれる瞬間から弾道を見極めて首をひねる最小限の動きで躱した。躱したは良いが,この首筋を超スピードで突っ切られる時の風圧はやっぱり凄まじいものがある。
これが硬式のボールだから良いものを……加賀美達に言わせればこれも良くないらしいが。
だけど,これは最小限で躱さないとダメなんだ。何故なら
ドンッ!!
今度は右のピッチングマシンから時速240㎞のボールが射出された。それを左足を軸にして身体右側を逸らす事で躱す。ここまでの動きが半月で出来るようになった。だけどもここからが難問だ。例え動きを最小限にしたとしても,次々に放たれるボールの動き,それに対応した自分の動きも全てを考えて動かなければならない
「セイッ!!」
背後から放たれたボールをしゃがんで回避し,目の前から迫って来たボールをそのまま横に転がる事で躱したが起き上がった瞬間に凄まじい衝撃が俺の背中を襲った。どうやら一発貰ってしまったらしい。だけどもここで某立ちしていては良い的な為痛みを堪えて次を見る。
「ガハッ!」
だけど,一度眼を逸らした剛速球を見極める事は困難で正面からとてつもない衝撃が走る。一撃一撃が普通なら骨を粉砕するほどの威力を誇る。だから球は完全に避けるか受け流すかしなければ,何度もダメージを受ける事になってしまう。そうなれば次々別のスピードで迫って来るボールに対応できなくなる。
「しまっ!」
そんな事を思ったら左わき腹から衝撃が始まり吹き飛ばされた。ピッチングマシンはバッティングの練習をする為にあって人に向けるものじゃない。
「チっ!!」
痛みを堪えて直ぐに飛び上がりながら立ち上がる。
「もっと冷静に……!」
今日はこのボールの嵐を100手躱すまで帰らねえ!!