東京の街並みは戦争が終わってから急速に変化をしていった。立ち並ぶビル,天を刺すような東京タワーにスカイツリー……技術の進歩はそれだけで人々を豊かにしてくれる。
その技術の進歩は今や獅子達の世界の日常生活もきっと昔よりも楽にはなっているのだろう。
美夢はそんな技術の結晶である東京の街並みを車窓から眺めながら今日の出来事を思い出していた。
初めて男性のコーチに指導してもらった。彼の本来の指導領域じゃないので何とも言えなかったが,物腰は正直柔らかい方ではなかった。
だけど垣間見える気遣った様子は根底にあるのは優しい心の持ち主なんだなと思えた。だからこそ優しいです……と言ったのだが
『俺は優しくなんかねえ。ただのクズだ』
自分自身の事を心の底から嫌悪してるような重い声。美夢が出会った事のあるどんな人よりも闇を感じた。あの時の一瞬だけ獅子の纏う気配が全く別の物になっていた気がする。
「虎舞……獅子さん」
今日の彼は,いつも個人レッスンをしてくれる加賀美の代理として,自分が事故を起こさないように見てくれただけの人なのは分かってる。獅子本人も言っていたが,彼は今日だけの代理コーチだからこれからも出会う事はないのかもしれない。だけど……
(また……会いたいな)
何故かは分からなかった。だけど獅子の事を助けたい……そう思ったのかもしれない。
少し車を走らせると,他の家とは雰囲気も広さも桁違いの豪邸へ車は吸い込まれ美夢は下車する。運転してくれた老人にお礼を言った後に家の中に入ると
「この靴……」
玄関にある高級そうな革靴を見て美夢の顔が晴れやかになり,自分も靴を脱いでスリッパを履きながらリビングへと向かった。途中お手伝いのメイドさん達にも挨拶をしている辺り育ちの良さが垣間見える。
そしてリビングに入ると,母親と父親がテーブルでお話をしていた所だった。美夢に気が付いた彼らは微笑んだ
「お帰り美夢」
「お父さん!」
美夢の父親は,日本に君臨する桜田財閥の総帥で政財界にも多大な影響を与えている人物である。
それ故に普段から多忙で美夢が幼少期の頃から家にいる時間は少なかったりする。
勿論それがしょうがない事だと美夢も分かっている。だからこそ文句の1つもないし,寧ろそんな父親を尊敬をしてる。
と言う訳で,彼がこの時間帯に家にいる事はとても珍しく,美夢にはとても嬉しかった。
「帰っていたのなら連絡してくれても良かったのに」
「ハハッ,美夢を驚かせたくてね。頑張って仕事を終わらせて帰って来たよ」
「まあこの人ったら」
「まあまあ,美夢も帰ってきた事だしご飯にしよう」
「はい,お父さん」
美夢は足取り軽く自分の部屋に向かって荷物を何時もの配置に戻した後,部屋着に着替えてリビングに戻ると既にこの家に仕えている料理長らが腕を振るい作ってくれた晩御飯が並んでいた。
美夢も両親の前の席に座り,ナフキンを膝上に置いた。
「「いただきます」」
美夢の家では,食事中の会話はそれほどない。それは淑女たるもの食事中の私語など言語道断だからである。美夢もそれ自体は別に嫌だとか思わなかったし当たり前の事だと思っている。
しかし,この暗黙の了解がなくなる時がある。それは美夢の父親がいるときだった。
美夢が口の物を胃に流し込んだのを見ると,父は話しかけた
「ところで美夢,今日の水泳のレッスンは加賀美コーチじゃなかったそうだけど」
「はい。加賀美さんの代理のコーチがレッスンを見てくれました」
「そのコーチの事なんだけどね……美夢からみてどう感じた?」
「どう……っていうのは?」
美夢からしたら少し不可解な言い方だった。確かにこんな代理コーチなんて初めてだったが,何も問題なく終わったし来週の水泳のレッスンは加賀美によるものになる。だから一度きりの獅子の事を気にするのなんて可笑しいなと思った。
「いや,男性のコーチなんて初めてだったと思うから大丈夫だったかなって」
「ああ……私は大丈夫でした。少し不器用な方でしたが,とてもお優しい方でした」
紛れもない美夢自身の感想だ。
「そうか。それなら良かった」
どこかほっとした様子を見せる父親の様子がどこか可笑しい事に気が付いた。だけど,具体的にどこが可笑しいのかと聞かれたら何となくと言うしかない。
美夢は心の中で,これからまた,何かが変わった日々を送るのかもしれないと思ったのだった。