幼馴染という仕事もまた、AI化の波には逆らえず……   作:quiet

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1話 暮らし

 

 

「――――お。起きた?」

 瞼を開けるとレンズ越しに、彼女の顔が映っていた。

 

 室内灯の橙は夕方の印だった。ぼやけたような天井の色。僕が十年以上ずっと住んでいる、飾り気のない部屋。見慣れた光景。その中に映る彼女の顔も見慣れている。だけどその輪郭は天井と同じくぼやけて見えるから、夢なのか現実なのか、わからない。

 

「も――夜、眠れなく……」

 心配そうに、世話を焼くように語り掛けてくる彼女の調子も、いつもと変わらない。けれど夢の中に見る彼女もいつだってそのままだから、それだけでは何の証にもならない。幻と本物の、区別が付かない。

 

 確かめるために、手を伸ばした。

 

 けだるい腕だった。指先は重かった。なんだかすごく長いこと、水に沈んでいたような気がする。浴槽の中で眠っていたのだろうか? 水の中から身体を持ち上げるように、眠たい冬の朝に夢の淵から意識を引きずり上げるように、右手を上げていく。

 

 彼女の頬に触れる。

 

 

 ものすごく冷たい。

 

 それで、全部を思い出した。

 

 

「――――うわっ!」

「おわっ」

 

 びっくりして跳ね起きる。その拍子に額と額が合わさって、ものすごく大きな、そして間抜けな音が鳴る。

 

 がこーん。

 

 

 

 

「お。熱は下がったね。順調に快復しております。患者様」

 事の始まりが何だったのかと言えば明白で、一昨日くらいから僕は風邪を引いていた。

 

 生まれてこの方初めて罹った病気に、結構苦しんでいた。くしゅんくしゅんとくしゃみをして、こほんこほんと咳をする。ご飯の前では「食欲がない」と途方に暮れて、清涼飲料水をいくら飲んでも喉が渇く。

 

 だから、看病してもらっていた。

 目の前の彼女。僕の体温を手のひらで、その機能を十全に活かしてきっと寸分の狂いもなく測ってくれた、ベッドの傍らに腰掛けた彼女に。

 

「どう? 自分では。お加減は」

「頭が痛い」

「それは外傷だね」

 

 私の鉄の身体に勝てるわけがないでしょ、身の程を弁えなさい。そう言って彼女は立ち上がる。鉄の身体ではないでしょ、と僕は額を擦りながら言う。そんなに重たいものをこの部屋の床で支え切れるわけがない。

 

「食欲は? 何か食べられそう?」

「うん。ちょっとお腹減ったかも」

「お。ほんと? それなら『身体があるとき』じゃないとできないし――」

 

 けれど、鉄の身体ではないのと同時に。

 彼女のそれは、人間の身体でもない。

 

「AIの作る激美味料理、食らわせちゃおうかな!」

「外傷が出そうで怖いんだけど、その言い方」

 あんまりおでこ触らないでね、と言い残して、軽やかな足取りでキッチンへと消えていく。

 

 彼女の身体は、様々な金属や樹脂の組み合わせで出来ている。

 管理センターに申し出て必要と認められれば、こんな風に貸してもらえる。

 

 彼女は鉄でもなければ、人間でもない。

 

 

 昔、人に作られた。

 

 人工的な知能――AI、と呼ばれている。

 とりあえず、今のところは。

 

 

 

 

 僕の世代の人間は、親の顔を知らずに育つ。保育センターである程度まで育てられて、そのある程度に達すると、ひとつの部屋とひとつの人工知能を与えられて、多分それから一生を、そこで過ごすことになる。

 

 ひとり当たり、ひとつのAI。

 それほど広くはない1Kの部屋で、僕たちはふたりきりで暮らしている。

 

 AI時代、と呼ぶらしい。僕は非AIの時代を上手く想像できないから、あまりピンとは来ないけれど。歴史の教材が語ることには、こうなったのも時代の流れで、必然で、科学が発展する中で辿り着いたあるべき社会の最善形態のひとつなのだと言う。

 

 もっとも優れた、最新式のAIによって。

 生活の全てをサポートしてもらう。この形が。

 

「おかゆに卵欲しい~?」

「うん」

「そっか。でも駄目。ぷぷぷ~」

「…………」

 

 ろくに使われていないキッチンから、『もっとも優れた最新式のAI』の声がする。本当かよ、と思う気持ちはちょっとある。生まれたときからずっと一緒にいるものだから、余計に。

 

「朝にニラ玉スープ飲んだから駄目だよ。同じものばっかりじゃなくて、色んなものを食べなきゃ」

 

 けれど同時に、知っていることもある。生まれたときからずっと一緒にいるから。少しくらいは歴史の勉強だってしたから。

 

 ここ五十年、世界で戦争はひとつも起こっていない。

 

 それは、AIが代わってくれたから。

 

 煩わしい人と人とのやり取りも。富や権力を求めて行われる闘争も。何もかもを間に入って、公正に。的確に。偏りなく。優しく。傷が付かないように。小さなものから大きなものまで全てを。

 

「はい、出来たっ」

 こんな風に。

 

 彼女が手にお椀を持って、キッチンから部屋に入ってくる。それに合わせて僕は身体を起こす。重い。けれどもう、嫌な重さではなかった。単なる疲労で、すっかり風邪に特有の寒気は消えている。そんなものがあるなんてことも、この数日で初めて体感したけれど。

 

 テーブルの前に座る。湯気を立てているのはひとり分。スプーンを取って、少し冷ましてから口に運ぶ。対面では彼女が自然に座り込んで、頬杖を突いてこちらを見ている。本物みたいな表情で問い掛けてくる。

 

「美味しい?」

「うん」

「そっか」

 

 そんな風に、僕は。

 

「よかった」

 

 結構、幸せに暮らしている。

 

 

 

 

「さよなら、私のダイナマイトバディ……」

 

 風邪がすっかり治れば、物理的な身体は役目を終える。その返却を彼女と並んで見送ったのは、それから二日後のことだった。

 

 

 別に、僕が何をする必要もなかった。彼女が管理センターに連絡して、後は勝手に身体が動き出す。部屋の扉を開けて、礼儀正しく外に出て行く。きい。ばたん。がちゃり。それでお終い。

 

 けれど隣の彼女はいつまでも、わざとらしくハンカチのオブジェクトまで追加して、ARグラスの向こう側で嘆いている。ちらちらと目線を送って、「さあ反応するがいい」と語り掛けてきている。

 

 だから僕は、仕方なく、

 

「共用の汎用モデルでしょ」

「生意気な!」

 

 彼女にいきり立つ機会を与えることにした。

 

 そんなこと言うとね、と彼女が人差し指を立てる。お説教のポーズ。その人差し指が、玄関のすぐ脇のキッチンに向けられる。

 

「もう私、作ってあげないからね! 手料理! お腹減っちゃうから!」

 

 物理的身体を返し終えてなお手料理が作れるなら見てみたい。実体のない仮想空間上の知性体がどうやって食材に関与するのか、興味津々だ。

 

「可愛くない!」

 

 可愛くある必要は別になく、踵を返して部屋に戻る。物理的身体の数は限られていて、特別な場合にのみ貸し出される。だから手料理は、ないのが当たり前のこと。夕食の時間が近付いてきているから僕はソファに腰掛けて、いつものようにテーブルの上に手をかざして幾つかのジェスチャを行う。

 

 食事のカタログ。

 仮想空間に呼び出したそれを、眺めることにする。

 

「人間め~……!」

「…………」

 

 がじがじと、仮想空間上の彼女に頭を齧られながら。

 

 当然それは僕の肉体に何の影響も及ぼさないけれど、こういうのもAIの反逆に含まれるんだろうか。思いながら何度かスワイプをする。白い背景に料理の品名。見本画像。サジェストは日々の生活習慣から形成されているから、何も希望がないときは一番最初に出てきたものを選ぶのが良いのだけど。

 

「ねえ」

 でも、今日は。

 

「昨日のお粥みたいなやつ、どのへんにあるかな」

 

 問い掛けると、彼女の手が止まった。検索の時間だろうと思ったけれど、長すぎる。見られるのを待っている。察したから、顔を上げる。すると彼女は、

 

「かっ……」

 

 本当にわざとらしく、自分の頬に手を当てて、

 

「可愛い~! 何、気に入ってるじゃん! 私の手料理!」

「そういうのはいいから」

 

 一転上機嫌になって、僕の視界に被さるようにしてカタログの画面を操作してくれた。

 

 そういうのはこのへんとか、と彼女が挙げるのは、当然病人食が多かった。けれど中には随分消化器官に負担が大きそうな雑炊も混じっていて、感じていた以上にすっかり風邪から快復しているらしい。あまり食べ物に気を遣う必要はなさそうだ。

 

「これと、これかな。味の参照元としてはこのあたりが一番近いけど」

 

 彼女が手を止める。最終的な選択肢はそれほど多くない。それは配給の種類が少ないからとか、彼女の検索能力が低いからでは当然ない。僕の選択コストをいたずらに上げないため。

 

 でも、最後の軽口として、彼女はこんなことも言った。

 

「ま、心を込めた手料理には勝てないけどね! どうしても同じものが食べたいなら、自分で作ってみるしかないね~」

 

 なーんて、と言葉は繋がれる。いつもなら僕も軽く流す、その程度の冗談。

 

 だけど。

 

「いいかも。それ」

「なーん……なんて?」

「いいかも。それ」

 

 って、と僕は言う。彼女を見上げる。しばらく処理に時間を要して――あるいは要した振りをして、それから彼女は、

 

「ええっ!?」

 わざとらしく一歩、足を引いて、

 

「――ええっ!?」

「二回やらなくていいから」

 

 さらにもう一歩引いた。

 

 ええっ、と彼女はもう一度口に出して驚き、それから引いた分以上に早足で詰め寄ってくる。彼女の動きはいつも忙しない。それも何かしら、僕の精神に好作用をもたらしているのだと思うけど。

 

「料理するってこと?」

「してみようかな」

「ということは、荒れ狂う世紀末の大地を駆けて食材を手に入れる旅に?」

 

 大袈裟すぎる。

 

 確かに滅多に外には出ない。出る理由がないから。食材だって別に、このままカタログで頼んだってそれで足りてしまう。けれど、

 

「ダメなの」

「いや全然!」

 

 訊けば、彼女は大いに首を横に振った。それから任せなさい、と言って胸を張って、どん、と拳で叩いた。骨伝導のイヤホンが震えた。効果音の音量設定がおかしかった。

 

「任せなさい! この最新式超高性能AIがあなたの旅をサポートします! 行きましょう、約束の地――大型スーパーマーケットへ!」

 

 どういう文化が前提にあったら、こういう知性が生まれるんだろう。

 週に二回くらい、僕は不思議な気持ちになる。

 

 

 

 

「外気温もそんなに変わらないから、そのままの恰好で出て大丈夫だよ」

 

 特に服装にこだわりはなくて、僕は配給される中で一番ベーシックなものを着回している。シャツとパンツ。黒、白、それか灰色。季節に合わせて袖や裾が短くなったり長くなったりする。空調設備は常に室温を二〇~二六度に保つように出来ているから、それ以上の必要は何もない。

 

「靴擦れしないとは思うけど、痛くなったらすぐ言ってね。普段、全然使わないから」

 

 うん、と頷きながら框に座り込んで、靴に足を差し入れる。不思議な感触だった。いつ振りなのか、思い出そうとしても思い出せない。まさかこの部屋に来たきりということはないと思うけれど、具体的な記憶が掘り起こせない。

 

 立ち上がる。鍵の開け方も覚えていなかったけれど、それは彼女がもう済ませてくれていて、扉の開け方は、彼女の言うところの『ダイナマイトバディ』のしたことが記憶に新しかったから、なんてことはない。

 

「わ、」

 がちゃり、と開けば目が眩むような自然光が飛び込んできた。

 

 これを浴びるのもいつぶりだろう。額に手のひらで庇を作って、ゆっくりと外廊下に足を出す。十五階建てのマンションの七階。塀は僕の胸のあたりまでの高さしかなくて、それを乗り越えて夕日は湯水のように注がれている。

 

 だから、気付かなかったのだと思う。

 

 

 ――――Can I Talk to YOU?

 

 

 イヤホンが鳴った。

 知っていたのは、その機能の存在とデモ音声だけだった。だから一瞬、何が起こったのかわからなくて、その後にゆっくりと理解する。

 

『Can I Talk to YOU?』――略して『CITYOU(シチュー)』。対話用のアプリケーション。

 

 用途は、人に話しかける許可を取るため。

 

 隣を見ると、そこにいた。

 

「あ。え――と、」

「応答、応答」

 

 いつもの彼女の声で話しかけられれば、少しだけ気分が落ち着いた。ARグラスに諾否の決定ボタンが浮かんでいる。立ち位置を変えながら、目線で選ぶ。

 

 イエス。

 

「こんばんは」

 目の前の人は、妙に慣れた調子でそう言った。

 

 背の高い女の人だった。年齢はきっと僕より少し上。着ているものは僕とそう変わらなくて、一枚、その上に何かを羽織ったくらい。靴は僕のそれよりも汚れて、くたびれて見える。肩から掛けたバッグがやけに膨らんでいる。真っ直ぐ目を見つめてきている――と思ったけれど、たぶんARグラスを見ている。着けている人は珍しいはずだから、そこに注意が向かっている。

 

 人と話すのは、ほとんどない体験だけれど。

 でも、普段から会話する相手には事欠いてこなかったから。

 

「こ、こんばんは……」

 

 こんな声だったっけ、と自分で不思議になる。挨拶。おはようとおやすみ以外を発する機会がなかったから、奇妙な舌触りが残る。

 

 少しだけその人は、微笑んだように見えた。夕日の色に紛れるようにして頷く。それから手を上げると、踵を返して廊下を歩いていく。自然な仕草だった。

 

 しばらく、僕はそれを見つめていた。外に出るとこんなこともある。そういうことを、胸の内で消化しようとしていた。

 

 すると、隣で。

 

「こ、こんばんは……」

 妙な裏声が聞こえてくる。

 

 見るまでもないけれど、一応見ておく。彼女がいる。僕より背が低い。今は屈むようにしているからもっと低い。右の手を口に当てている。

 

「緊張してやんの」

 おい。

 

 にやにやと笑いながらこちらを見上げてくる彼女に、僕は弁明をするか迷った。迷っている間に彼女はすっかりにやにや笑いからくすくす笑いに乗り換えて、さらにはへらへら笑いに、うふうふ笑いに形を変えていく。

 

 あはあは笑いが終わると、不意に彼女は肩を落として、それから背筋を伸ばした。

 

「あー笑った」

 笑うな。

 

「こういうのは隣で笑われた方が早く落ち着くんだよ。……でも、まだ心拍数高いね。風景、穏やかにしようか?」

 

 言って、視界に再びボタンが映る。『視覚補助を行いますか?』の文言。認識するとすぐさまプレビューが始まる。夕日の赤色がすうっと退色する。廊下の形状はそのままに、クリーム色の模様が広がる。音楽のオプションも同時に表示される。

 

 一般的で、誰でもやっていることだった。ARを利用して、街の外装にテクスチャを張り付ける。見たい色で、見たいように景色を見る。外だけじゃない。部屋の中でも。安全性に問題がないと判断される範囲で、形だって変えられる。

 

「いや、いい」

 

 首を横に振ると、そのプレビューが消えていく。音もなくなる。元の景色が戻って来る。誰の姿もない。少しくたびれて、色褪せて、夕日の色だけが乗せられた、そんな視界が戻ってくる。

 

 スーパーマーケットに着くまでは、と断りを入れてから、僕は、

 

「このままでいいよ」

 うん、と彼女が頷いた。

 

 

 

 

「来たぜ、スーパーマーケット!」

 

 入り口の自動ドアを潜ると、元気良く彼女はそう言って、道の真ん中で賑やかなポーズを取った。一方でそれ以外はひどく静かなもので、人の姿は全くない。小さな街だからなのか、それともカタログを使えばいくらでも配達があるからなのか。自分の生活を鑑みると、後者なのではないかという気がしてくる。

 

 静かだった。

 

「ここからの案内は私に任せて――お?」

 

 それは、聴覚的な話。

 

 久しぶりに見た広大な建物だった。住んでいるマンションも巨大と言えば巨大だけれど、部屋の中で暮らしているものだから、こういう仕切りのない巨大な空間はとても見慣れない。

 

 ARグラスの向こうでは、デフォルトの商品表示が色鮮やかに踊っている。端から端まで何歩分あるだろう。ひとつの小さな居住区と言われても信じてしまうかもしれない。昔はこんな場所にたくさんの人が、すれ違うこともできないくらいにたくさん集まっていたなんて、とても想像が付かない。

 

 へえ、と息を吐いた。

 

「スーパーマーケットって、こんな――」

「無視すなっ」

 

 ひょいひょいとジャンプしながら、彼女が僕の顔の前で手を振った。もちろん無視するつもりはなかった。ここに来たのも、こういう場所で買い物をするのも初めてのことなのだ。何もわからない。だから訊ねる。

 

 最初はどこから?

 

「材料はそんなに多くないから、簡単だよ」

 安心させるように、彼女は微笑んだ。

 

 まずはこっち、と言って先を歩いてくれる。きゅむきゅむ、と不思議な音がするから何かと思ったけれど、足音を出してくれているらしい。その理由は、ついて歩けばすぐにわかった。

 

「情報量、多いね。デフォルトでこのテクスチャの量なの」

 目がチカチカするから。

 

 商品の並ぶ棚を抜けるだけで、とにかくたくさんの色が目に入ってくる。情報にまとまりがない。うっかりすればすぐに彼女を見失ってしまいそうで、確かに音でサポートしてくれた方が不安は少ない。

 

「もう全然使われてないからね。昔からこんな感じなんだよ」

 

 試しにARグラスを外してみる。一面にただ灰色の、空っぽな棚が並ぶばかり。確かめて、すぐに戻した。色が戻ってくる。

 

「テクスチャ、もっと大人しいのに変えようか?」

「ううん。このままでいい。珍しいし」

 

 きょろきょろと辺りを見回していると、文字が目に留まった。『期間限定』冬プリン。あれ何、と訊ねると説明してくれた。昔は季節によって食べられるものが違ったりしたのだという。温度とか、そういう話だろうか。

 

「今はもう食糧配給センターのおまけの部屋になっちゃったね。昔……まだ私たちが普及したてのころは、もうちょっと賑わってたんだけど」

 

 今ではもうすっかり、と明るい床を歩きながら、彼女は言う。足が止まる。「ほらここ」と言って振り返る。

 

「お米のコーナー」

「…………」

 

 ずももも、という音が聞こえてきそうなくらいだった。

 

 だって、随分棚の背が高い。上の方は僕が手を伸ばしても届かない。もっとも実際はそうする必要はないわけだけど、それでも棚に並ぶ土嚢のような袋の数々には、圧倒されざるを得ない。正直な感想が口に出る。

 

「持って帰れる気がしない」

「愛と勇気で解決だ!」

 

 無理だ。

 

 と思っていると注文方法について彼女が解説してくれた。展示されているのはあくまで見本用のビジョンなので、銘柄だけを決めれば後は必要な量だけパックに入れてくれるらしい。

 

 スーパーマーケットは食糧配給センターと併設されていて、在庫は共通している。昔はこうして足を運ぶような形式の店舗にも需要があり、今でもその名残として、消えないままでここに残っている。

 

「ちなみに、一食分ってどのくらいなの。重い?」

「んー……五キロくらい?」

「鍛えようとしてない?」

 

 折角だから一番派手なパッケージのものを選んだ。彼女がそれをカートに追加した瞬間に、ギラギラと七色に光ってすごい音を出した。確かに一定の面白さはあり、こういう形式の店舗にも需要があったのだと思う。毎日通うとうんざりしてきそうだけれど。

 

「じゃあ、お米は出入り口で受け取りにして。後は……」

「具材?」

 

 そう、と彼女は頷いた。混ぜるもの、と言ってにやりと笑って、

 

「プリン?」

 そんなわけがない。

 

 どうした人間、独創性とやらがあるんじゃないのか――謎の挑発を彼女が仕掛けてきたけれど、それに乗ろうとは思わなかった。変なものを入れて変なものができて、それで苦しむのは僕と地球環境だけなのだ。

 

 僕が食べたいのは、

 

「たまご」

「お。あれが一番好き?」

 

 思い出してから、頷いた。確かにあれが一番好みだったように思う。それに最後の風邪の日に食べられなかったから、余計に今、興味がある。

 

「いいと思うよ。お肉とかお魚とかは、今は合成品だから衛生面の問題はないけど、やっぱり調理過程が少し複雑だし。その点たまごなら、」

 

 そこまで言って。

 ふ、と彼女は口元を押さえる。それからにや~っと前屈みになって、下から覗き込んでくる。

 

「ちゃんと、割らずに持って帰れるかな~?」

 

 

 

 

 結論から言うと、持って帰れた。

 

 そして結論以外に語るべきところは何もない。普通に歩いて、普通に帰った。特別なことをしたから割れなかったのではなく、特別なことが何もなかったから割れなかった。たったそれだけのこと。

 

 部屋の前。

 扉ががちゃり、と音を立てて開く。

 

「おかえりー」

 部屋の中から、彼女が出てきた。

 

 廊下で姿を消したのはこのためだったらしい。ただいま、と僕は言う。今日だけで二度も使い慣れない挨拶を口にした。框に座って、手荷物を脇へ。靴を脱ぐ。圧迫感が消える。清々しいような気持ちだった。

 

「よし。それじゃあおかえりの儀式だね」

「儀式?」

「ritual」

 

 別に日本語が聞き取れなかったわけではない。

 

 彼女は廊下を歩く。キッチンの逆側へと消えていく。僕はそれを追いかける。

 

 洗面台。

 

「まずは流水で手をお清めください……」

 

 言われたとおりにした。水に手を晒す。擦る。ハンドソープを付ける。擦る。その間の水は彼女が止めてくれている。泡を立てて、指の付け根までじっくり擦る。水が流れ出したのは「もういいよ」のサインで、洗い流す。

 

「次は口をお清めください……」

 

 言われたとおりにした。コップに水を入れる。口に含む。彼女が隣で首を上げる。がらがらがら、と奇妙な音を出す。僕も同じポーズを取って、同じ音を立てる。

 

 がらがらがら。

 

「以上で儀式は終了です……」

「前準備だけで終わってない?」

「お風呂まで入っちゃう? それでもいいけど」

 そういう話をしたつもりじゃなかった。

 

 水を吐いた後は、洗面台の自動清掃が始まる。感染予防。風邪を引いたばかりなのもあるから、確かに入浴まで済ませてしまってもいいのかもしれない。けれど。

 

「ご飯、食べてからにしたいかな」

 

 そして食べるからには、その前に作る必要がある。いつもならあまり考えないことだけれど、今日だけは自分で。

 

 鍋や調理器具は元々ある。キッチンと同じく基本配給だ。それ以外は全て、スーパーで買ってきた。棚のどこそこに何がある、と彼女が指示するのを聞きながら屈む。必要なものを取り出す。

 

「まずはお米を鍋の中に入れてください」

「はい」

「で、洗う」

 

 細かい方法を指示されながら、言われたとおりにする。指先がかじかんできた。これをするための器具もあるらしい。

 

「それが終わったら水を入れてください。そのくらい」

「はい」

「で、スーパーで買ってきた顆粒だしを入れる。そうそれ」

「はい」

「中火で加熱する」

 

 はい、と言ってボタンを押した。この部屋に来てから初めて、自分の指で押したと思う。次の指示を待つ。

 

「ふつふつ言い出すまで待ちます」

「はい」

「……ふつふつ言ったら一回混ぜる」

「どれで?」

 

 どれでもいいよ、と言うので一番近くにあったものを取った。木べらと言うらしい。へえ。

 

「そうしたら弱火にして、蓋を閉める」

「はい」

「待つ」

 

 待った。

 待ち続けていたら、どんどん時間が過ぎていった。

 

「……あのさ」

「なに」

「これ、もしかして暇?」

「手抜き料理AIと申すか」

 

 ここを離れても彼女が管理してくれるとわかってはいたけれど、折角なので僕はそのままそこに留まることにした。「本当はもっと複雑な料理もできるところを初心者に合わせてるだけなんだからね。侮るなよ」そんな言葉を投げかけられながら三十分。料理というのは、随分気長な営みだと思った。

 

「そうしたら最後に卵を割って――待った待った。こっちの別のお椀にして」

「わかった。なんで?」

「固まっちゃって綺麗に散らばらないから。……ふふ。さてどうかな。卵、ちゃんと割れるかな~?」

 

 割れた。

 

 彼女はとても不服そうな顔をしていた。元々は人間がやれていたことなので何の不思議もないと思う。というか別に難しくも何ともない。片手でやれ、と言われたらちょっと戸惑うけれど。

 

 指示に従って、それをかき混ぜる。鍋に上から注ぎ込む。もう一、二分待つ。蓋を取る。

 

「かんせーっ!」

 

 

 

 

「どうどう? 初めて自分で作った料理の味は?」

 いつものテーブルの前にいた。

 

 僕は座っていて、彼女も座っている。お椀はひとり分。彼女は何も食べないから、ただテーブルに肘をついて、にこにこと、笑いながらこちらを見ている。

 

 僕はスプーンを手に取っている。卵粥に突き入れている。掬っている。口に運んでいる。咀嚼する。

 

 これではない、と思った。

 

「あれ? もしもーし。聞こえてる?」

 

 スプーンを置いた。不味くはないでしょ、と彼女が心配そうに言う。うん、と答える。本当に不味くはない。彼女が見てくれただけあって、それは風邪のときに食べたものと同じ味がした。だからかえって、はっきりわかる。求めていたのは、これではなかった。

 

 では何だったんだろう。どうして急に、今まで一度も料理なんてしたことがなかったのに、外出だってしなかったのに、今日に限ってそんなことをする気になったんだろう。思い出す。風邪を引いて、看病してもらって、

 

 それで――、

 

「あの汎用ボディって、」

「え?」

 

 彼女が首を傾げる。本当にできるんだろうか。わからないけれど口に出す。わからないから、口に出す。いつものように。

 

 教えて。

 

「どうやったら、ずっと家に置いておけるのかな」

 

 僕は静かで、変わり映えのしない部屋に住んでいる。

 

 外に出ることはほとんどない。他の人と話すことも、めったにない。明日への不安なんて前時代的なものはここにはない。ただあるのは、凡庸で、穏やかな生活だけ。

 

 当たり前のように、結構、幸せに暮らしていて。

 

 

「――ろ、労働する、とか?」

 

 だからなのかはわからないけれど。

 僕は、彼女のことが好きだ。

 

 

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