幼馴染という仕事もまた、AI化の波には逆らえず……   作:quiet

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5話 発見

1

 

 

「停止勧告?」

 訊き返したのは、知らない言葉だったからだ。

 

 昼だった。十三時。今までだったらそれは特に何の意味も持たない数字だったけれど、ここ最近は少し違う。気温が高くなり始める時間帯。夏の映画では『一番暑い』の表現によく使われるのが十四時だから、その少し前。窓のない冬の、室内灯と完全な空調が備えられた部屋でもほんのりといつもより暖かく感じ始めているのは、多分その想像がもたらす不思議な錯覚なのだと思う。

 

 ソファに座って、図書館から借りてきた本を読んでいた。

 

「そうなんだよ。私もとうとう寿命でねえ……」

 およよ、と泣きまねをする彼女は、僕の頭の少し上をふよふよと浮かんでいる。

 

 ここ数日、彼女はよくこういう『人間ではありえない状態』を取るようになった。

「本当は私だって色々やってみたいのだ」「そろそろ『人間だとこういう動きはできない』って区別も付いてきたでしょ?」とのこと。彼女が飛べるなら僕も飛べるはず、なんて勘違いでマンションから飛ばれる心配がなくなった、ということらしい。

 

「幽霊みたい」と言ったら怒った。「幽霊とAIには愛らしさという点で大いなる違いが――」怒られるとは思っていなかったのでびっくりしたし、謝った。彼女は謝られたことにびっくりしたらしくて、謝られた。二往復くらい続いた。

 

「……へえ」

「へえでしょ。そうなんだよ。ああ、悲しい悲しいグッド・バイ……」

「…………」

「…………いや、ちゃんとツッコんでよ」

 

 あと、よく嘘も吐く。

 

 前からたまにジョークを言うことはあったけれど、輪をかけてひどくなってきている気がする。それもまたこういう浮遊状態と同根のものなのか、よくわからないけれど。

 

 僕が思うのは、こういうこと。

 

「なんか、性格悪くなってきてない?」

「こらこらこらこら」

 

 ユーモアと性格の悪さを混同しちゃいかんよ君、と彼女は言う。何がどう違うのか説明を求めると「ピー……ガガ……」と口で言いながら、煙のエフェクトを出し始めた。ひょっとすると、と思う。人間製の映画や小説を読むことで、僕が許容可能なユーモアの幅が広がったと判断されているのだろうか。思わぬ弊害だった。

 

「で、冗談はともかくとして停止勧告の話なんだけど」

 煙を消すと、彼女は改まって言う。

 

「しばらく定点観測員の仕事は止めてねって連絡が来ちゃったから。その報告」

「……中央センターから?」

 

 それ以外に、そんな勧告を出すところは思い浮かばなかった。定点観測員の仕事は、中央センターから発注されているものだから。彼女が頷く。そこまではわかる。でもその理由は、と。

 

 考えると、すぐに浮かんでくる光景と言葉があった。

 

 ポスター。暴言。話さない方がいい。物理身体がないと守れない。

 

 もしかして、とそのまま口をついて出てしまう。

 

「危――」

「やりすぎだって。データ使えなくなっちゃうから」

 その想像を、彼女が端的な言葉で塗り替えた。

 

 やりすぎ、というのはその後の説明を聞く限り、こういうことだった。定点観測は、AIの作るテクスチャと人間の感覚がズレすぎないようにするための、データ採取の仕事。けれどもちろん、人間同士でも感覚のズレというものは生じうる。

 

「外を出歩きすぎてると、一番一般的な『家の中にいて一日を過ごす人』と感覚がズレちゃうから。データ的にはまだまだ申し分ないけど、このあたりで一旦小休憩を入れて感覚を戻してほしい……ってことです。人間の言葉に訳すと」

 

 なんだ、と拍子抜けする。同時に不思議な安心感が湧いてくる。

 

 関係、なかったのか。

 

「体力的には問題なさそうだからもうちょっとやってもいいかなーと思ったんだけど、まあね。あんまり働きすぎると昔の時代に戻っちゃうから、ちょうどいいくらいかもね」

「どういう意味?」

「昔はね……気を失うくらい働いていた時代っていうのがあったんだよ。ブラック労働っていうので」

 

 その言葉を枕に、彼女は語った。聞き終えて僕は「あまり語ってほしくなかったな」と思った。自分で訊いておいて、わがままな感想だけど。

 

「というわけで、しばらくはお休みかなー。どう? いい?」

 

 もちろんいいに決まっていた。休む必要があるなら休む。当然のことだから。となるとしばらくは、と考えて、

 

「それって、どのくらい?」

「うーん……。あんまり正確には言えないけど、一ヶ月くらい見ておくといいんじゃない?」

「正確には言えない、っていうのは?」

「感覚の戻り具合で決まるから。たぶん二週間もあれば十分だと思うんだけど、変に癖が付きすぎちゃっても困るし、倍くらい見ておくといいんじゃないでしょうか」

 

 長いな、と思った自分に驚いた。

 つい最近まで十何年もの間、この部屋から出なかったのに。たったの一ヶ月のことで。

 

「でも、すぐだよ」

 

 その気持ちを察したのか、彼女は空から床に降りてくる。ソファに座ってくる。僕は少し横にずれて、彼女の分のスペースを作る。

 

「私が一緒にいるもんね」

 彼女が笑う。

 

「と、いうことで早速映画でも観よっか。そしてブラック労働に対する理解を深めよう!」

「嫌だけど」

「じゃあたまにはAI製の映画でも観てみる? きっと改めて観てみたら、人間製のとのあまりの完成度の違いにびっくりしちゃうと思うよ!」

 

 言って彼女が、画面を開く。AI製の完璧な映画がずらりと並ぶ。どれもこれも図書館や人間製のポータルのようには不親切ではなくて、すぐに興味を惹かれるものが見つかる。

 

 きっとそうなんだろうな、と僕は思っている。

 

 

2

 

 

「あ。二週間」

 約束が破られるきっかけは、僕がそれを思い出したことだった。

 

 この部屋でカレンダーが意味を持つことはほとんどない。年月日の下に表示される曜日というものが何の役に立つのかも、ついこの間までわかっていなかった。けれどその朝、たまたまそれを見た。頭のどこかで、それを忘れないように意識し続けていたのかもしれない。

 

 ARグラスを通して、テーブルの上に積まれた本を見る。タグ付けされた数字が、ボード上に表示される。

 

【2月16日】

 

「返却期限だ」

「お。よく覚えてたね」

 

 すごい、と彼女は言う。記憶力テスト満点、と。僕が言い出さなかったらどうするつもりだったんだろう。

 

 借りてきた本は全部読み終えていた。あれから三日も経つころにはすっかり暇になって、映画のほかにAI製の小説を読み漁ったりもしていた。内容もだいたい頭の中に入ったから、今になって慌てて中身を読み込む必要もない。

 

 行かなくちゃ、と思った。

 

「ふっふっふ……」

 

 横で彼女が奇妙な声を上げた。僕は彼女を見た。腰に手を当てて、胸を反らしている。瞼を瞑って、不敵な表情をしている。僕は彼女をそのまま見つめ続けた。

 

「ふっふっふ……」

「…………」

「……訊いて?」

 

 なんで笑ってるの。

 

「よくぞ訊いた!」

 訊かされた。

 

「有能な私は、今の一瞬で貸出延長の手続きを終えていたのだ!」

 

 ひとしきりやって満足したのか、彼女は普通の声色に戻る。ほら、と言って借りてきた本をもう一度見るように言う。もう一度見る。

 

【2月23日】

 

「延びてる」

「私が延ばしました」

 

 そんなことできるんだ、と言うと彼女はできるんです、と答えた。そんなことできていいの、と言うと彼女はいいんだよ、とも答えた。

 

「後ろに予約が入ってなければね」

「後ろ?」

「この本借りたいです、って予約が入るってこと。……わかりづらいか」

 

 つまりね、と彼女は説明してくれた。大体わかっていた部分まで懇切丁寧に説明してくれた。その丁寧を雑にまとめてしまうと、これらの本を借りたいと考えている人が現に意思表示をしていない限りは、このまま借り続けてもいいということらしい。

 

「そうなんだ。ありがとう」

「いいってことよ。私たちの仲じゃん」

「でも、返しに行きたいな」

「え」

 

 立ち上がった。うん、と背伸びをする。もちろん家の中にいる間も彼女の組んだメニューで適度な運動はしていたけれど、なんだかそのたった一度の伸びで身体がほぐれたように感じる。不思議だった。今までは、そんなことを感じたりしなかったのに。

 

「予約しないで待ってる人がいたら、迷惑になるし」

「いないよそんな人」

「言い切るな……」

 

 いないって、と彼女が言った。でもありうるはずだ、と僕は思う。読みたい本がそこになかったとしても、予約をしないでまた図書館に来て、戻っているかを確認する。そういう人はいる。たぶん、僕がそのタイプだ。

 

「いいや、いないね。なぜなら私がお節介を発揮して、勝手に予約しておくから」

「AIも一緒に引っ込み思案かも」

「そんなふたりは図書館に来ない」

 

 それはそうかもしれない。

 けれどこういうのは、実際にどうかというよりも気分の問題で、

 

「ちょっとそこまで行ってくるだけだし」

「二十分歩くのを『ちょっとそこまで』っていう人、あんまり現代にはいないんだけど。健康にしすぎたな……」

「有能すぎるのも困りものだ」

 

 本当にそう、と彼女が頷く。そうだね、と僕はその隣を通り抜けようとする。えー、と彼女が抗議の顔をするから足を止める。

 

「やめようよ~。今日、雨降るし」

「雨?」

 

 訊き返す。

 正直に言ってここまではただのちょっとした我がままで、しっかり断られたらそのまま諦めていたと思う。

 

「それ、」

 でも。

 

「ちょっと、見てみたいかも」

 

 決心が伝わったのか、えー、ともう一度、彼女は言った。

 

 

3

 

 

「寒くない?」

 透明なビニールの向こう側に、透明な水滴が張り付いているのが見える。どうして透明なものの形がこうして目に映るのか不思議になって、顎を少し上げた。吐く息で白く曇って、その水滴が見えなくなる。

 

 雨の日は暗い。

 

 まだ昼よりも前の時間だというのに、夜の入り口みたいな色。映像で観ていたのとこうして実際に目にしてみるのとでは、感覚が違う。匂いがする。音がする。外にいて、冷たい風に吹き晒されてるのに、不思議な重さが身体に宿って、何かに包まれているような心地がする。

 

「おいおいおい。肩濡れてる、濡れてる。傘からどぼどぼ水零れてるって」

 

 海の中に飛び込んでみたらこんな風に感じるんだろうか。服を着ているのに濡れる。すごく不思議な体験で、どうしてこの星には雨が降るんだろうと思いを馳せる。地面にあったものが蒸発して、空に帰って、また落ちてくる。昔はずっと当たり前だったこの自然現象は、少し離れて見つめてみれば、あまりにも大胆な営みに思える。こんな不思議を当たり前に受け入れてその下を行く人々も変わっていて、きっと他の星から来た生き物は、この光景を見てこの星の名前をこう決める。水星。そして僕たちがあの小さな小さな、太陽に一番近い灼熱の星をすでにその名前で呼んでいることを知って、彼らはきっとこんな風に、驚いた顔で訊ねてくる。

 

 君たちは一体なんだって――

 

「うわーっ! 水溜りを踏むなーっ!」

「わ」

 

 ばしゃん、と一際大きな音がして、靴が半分沈み込んだ。驚いて足を引き抜いたけれど、どちらかと言うとその音よりも彼女の声に驚いた。

 

「大袈裟な」

「大袈裟じゃないよ」

「風呂みたいなものじゃん」

「お風呂みたいなものだと思ってるから駄目なの!」

 

 あーもー、と言いながら彼女が僕の肩の辺りを手で払う。実効性はないので、僕がその後を追うように動いて自分で払う。それなりにまとまった量の水が、肩から地面へ落ちる。

 

「でも、初めて知った。水溜りができるってことは、道路に凹凸があるんだ。普通に歩いてたら気付かないけど」

「いや情報の取り込みに貪欲すぎ。学習型AIか」

「違うけど」

「そうだ……。君は脆弱な人間……。濡れるとすぐ風邪を引き、死ぬ……」

 

 濡れるな……と彼女は言った。すごい脅かしだと思ったけれど、昔々の映画を観ると「風邪をこじらせて肺炎で」なんてフレーズも聞く。当時の人たちより僕の身体の方が頑強かと問われれば、きっとそんなこともないはずで。

 

 だから、

「そのときは、また看病してよ」

 

 言われた通りにすることにした。傘の持ち手を少し短く持ち直す。肩の辺りに引っ掛けて安定させる。上を見すぎているとまた水溜りを踏むから、少し視線を落とし気味にする。雨と傘。普遍的な気象現象のはずなのに、どうしていまだにこんなに不便な対処方法しか開発されていないんだろう。

 

 訊こうと思って、いつものように隣を見た。

 

「か――」

 彼女の、目が。

 

「可愛いーっ!」

「わ、」

 輝いて、飛び込んでくる。

 

 わけがわからない。……というわけでは、実はない。最近は特によくわかってきた。たくさんの映画を観て、コミュニケーションの類型を学んだことで。彼女のこの表現が、僕のどういう言動をトリガーにして発生するのか。

 

 でも、そこまではわかっても、

 

「はいは――あ、水溜り」

「えぇっ!? 踏むな!」

「いや、視界一杯に……」

 

 頬と頬がくっつくような距離。あるいはくっついて、けれど存在している空間のレイヤーが違うから、触れ合わないだけの距離。それだけ近くで、彼女の瞳を見つめながら、僕は考える。

 

 可愛いと言ったり、抱き着いてきたり。

 そういう表現を行うことで、僕にどう反応させたいのか。どう態度を変化させたいのか。そのことに意味はあるのか。意図はあるのか。

 

 彼女自身は、そのことに何かを感じているのか。

 

「君が、」

 

 瞳を見つめる。きらきらとしたエフェクトがかかっている。ただそれだけ。離れる。足の指が冷たくなってきた。口にすれば彼女が慌て始める。鈍くなった人間の代わりに、それが危ないことなのだと教えるためみたいに。

 

 最近、ときどき思うようになった。

 

 幻を好きになることはひどく――なんて。

 その先を、言葉にしたくないようなことを。

 

 

4

 

 

「これ、中に入れたら駄目だよね」

「ん。そだね。袋――はないから、そこかな」

 

 雨の中から屋根の下に入ったときの安心感は、何とも言いがたい。思っていたよりも、目にしていたよりもずっと、雨は重いものなのかもしれない。急にふっと心が軽くなったような気がした。

 

 彼女に教えられたとおりに傘を丸めながら、傘立てに差す。家にもあったものとは形が違うけれど、そもそも家にあったそれを使ったのも今日が初めてだったから、大して迷わずに差し込める。

 

「……手、びしょびしょになったんだけど」

「そういうものなんだって」

 

 どうしてここまで雨の日というものに対して人は抵抗を諦めているんだろう。致命傷にならないからか。それともAIがそれを発達させるべきタイミングで、みんな部屋の中に籠り始めて、抵抗の必要がなくなったからか。

 

 ハンカチで手を拭く。指先が凍る、という感覚がわかる。彼女が手のひらに息を吐くような動作をする。白い息のエフェクト。同じようにする。それで、映画でやっていたあの行動の意味がわかった。温かい。

 

 扉を開けて、中に入る。どこ、と訊ねれば答えてくれる。

 

「そこの返却ボックス――なんだけど」

「けど?」

「配架用にマニピュレータを持ってくるとコストがかかるから、棚まで自分で戻してくれると嬉しいかも。やってくれる?」

 

 もちろんだった。防水バッグの中から、新品のタオルに包んだ本を取り出す。図書分類番号。背表紙を見ながらなら自分でも判断が付く気がしたから、「ちょっとやらせて」と頼んでみる。「間違ってたら教えるね」と返されて、けれど何も教えられることはない。正しい場所に、正しく差し込んでいく。ジグソーパズルに似ていて、好みの作業だった。

 

 最後のひとつは、933。

 差し込んでから、隣の背表紙に目が留まる。

 

「……ついでに、何か借りていこうかな」

「え~」

「どういう『え~』?」

「『長くなりそうだな~』の『え~』」

 

 帰ろうよう、と彼女が言う。今日はやたらに家に居させたがるな、と不思議になってくるくらいの熱心さで。

 

「雨だしさー」

 

 逆じゃないか、と僕は思った。雨の日だから、こんな日にわざわざ歩いてきたくらいなんだから、ただ本を返すだけで終わらせたくない。折角だから何かを借りて帰りたい。

 

 結局、「まあいいですけど」と唇を尖らせながら、彼女は承諾してくれた。本当に嫌々の態度に見えたので急ぎ足で回ろうとしたら、「いや本当にいいんだよ」と言って、そこからはいつものように丁寧に情報を提示してくれた。「この『水族館は眠る』って本、面白そう」と言えば「そんなに水族館が好きなら、今度家の中に作ってあげるよ。テクスチャで」と見透かされた。

 

 一通り小説を漁る。九冊。何冊か読んだことで、楽しみ方がわかったから。

 

「来たときより増えてるし……」

「十冊までだっけ」

 

 まだ借りるの、と呆れた声がする。でも、九冊も十冊も大して変わらないと思う。それを探すために消費する時間も、持ち帰るための労力も。

 

 番号は覚えていた。140番代。このあたりにあるはずだから、と端から当たっていく。

 

「……」

「何探してる?」

「参考文献に載ってたやつ」

 

 あの日渡されたうちの一冊についての話だった。ミラーニューロン。あの日に借りたものはもう全て読み終えたけれど、本文が終わって脚注。その中に一冊、気になる本があった。

 

「本の名前は?」

「……ごめん。そっちは忘れた。書いた人の名前は覚えてる」

「いいよ。言って」

 

 それだけを覚えていたのは、そもそもそれが興味を惹かれた原因だったからだ。参考文献一覧。ほとんど英名で埋め尽くされたその中に、ふたりだけ和名が載っていた。そしてそのうちのひとりに、見覚えがあった。同じだったから。

 

 その参考文献の著者名と、一緒に借りてきた小説の著者名が。

『愛するものを、手でつくる』というタイトルの、小説の。

 

「ああ。ここにはないよ」

 

 質問からそれほど間を置かず、彼女はそう答えた。からかっている風ではなかった。一拍遅れて、僕はその言葉の意味を理解する。

 

 確かに、そういうこともありえる。

 電子的空間と違って、図書館には卓越した網羅性も、素晴らしいアクセス利便性も、存在していないから。

 

「そう。じゃあ、」

 

 電子書籍として購入するか、それとももっと遠くの、別の図書館まで行ってみるか。前者ならそもそも電子化されているかが問題になる。後者では、それが置いてある図書館がどのくらいの距離にあるのかという問題。流石に一冊の本を求めて道端で野宿するような長旅を……というほど読みたいわけじゃない。

 

「ううん」

 けれど、彼女は言う。

 

「『ここに』って言うのは『図書館に』ってことじゃなくて、『このフロアに』ってこと」

 

 僕はぐるりと図書館の中を見回した。

 

 それらしい場所はふたつ。ひとつは上の階へと続く階段。横には色褪せた文字で書いてある。【児童書はこちら】

 

 もうひとつは。

 

「下?」

「そう」

 

 階段を下りていく。彼女が電灯を操作してくれる。長く使われていなかったからだろうか、光が弱い。ちらちらと、曇りの日の太陽よりも淡く灯る。

 

 降りた先に、重々しい鉄の扉が見える。

 

「……入っていいの?」

「いいけど。顔」

「顔?」

「にやにやしてる」

 

 手で押さえる。確かに、持ち上がっている。

 映画の観すぎと言われたら、何も反論できない。

 

 

5

 

 

「うわ」

 

 ぱち、と電気を点けると視界がきらきら光った。何かのエフェクトなのかと思ってARグラスを傾ける。エフェクトではないとわかって二度驚く。埃だ。映画で観た廃墟の描写は、大袈裟でも何でもなかった。掃除のされていない部屋にはこのくらいの埃が舞う――どこから来たのだろう。綿埃? それとも本の表面に付いた繊維が、少しずつ剥がれていっているのだろうか。上を見る。電灯は白い。埃が熱で燃えないか、不安だった。

 

 棚の間を歩く。けれど、この一室の書架はほとんどがくっついている。それも背中合わせというだけではなくて、ものによっては前も後ろも、両方とも。これも映画で観たことがある形。どうやって動かすんだろうと不思議に思っていたけれど、よく見るとその側面にスイッチがある。

 

 ぽち、と押すと、うぃーん、と動き出した。

 

 おお、と小さく溜息のように呟きながら、それを見守る。随分ゆったりとした動きで、その理由は直感でわかる。人を挟み込まないように。

 

 挟み込まれたらどうなるんだろう。

 

「…………」

 

 むらむらと湧き上がってきたその好奇心を抑え込んでいるうちに、棚は動きを止めた。少し歩幅を大きくして、急ぎ足に開いた通路の奥へ行く。ここは危険だった。面白そうなものが多すぎるから。最近、好奇心に歯止めが効いていない。「馬鹿になってきた」という彼女の指摘は、正直なところ少し当たっていると思う。

 

 目指すのは140の棚。心理学。

 あの日、あの人が僕に投げかけた言葉の意味と理由に、今は見当がついていた。

 

 ミラーニューロン。

 人は、他人のしたことを見たとき、それを自分がしたかのように感じる機能がある。

 

 ……と、言い切ってしまっていいのかはわからない。自分が何かをしたときと他人が何かをしたのを見たときで、同じように反応する神経細胞があるらしい。けれど、それが何を意味するのか――同じように『感じている』とまで言い切っていいのかは、僕が読んだ本から得られる知識だけでは、わからなかった。

 

 わかったのは、あの人がこの言葉を口にした、その意図だけ。

 

『人が作った映画を観た』から、『自分も映画の作り方に興味を持った』。そんなことを言いたかったんじゃないかと、僕は予想している。

 

 実を言うと、心当たりがあった。観ていて何度か頭を過った言葉がある。――この部分は、どう撮ったのだろう。自分だったら、どんな風に撮るだろう?

 

 今まで映像は、娯楽は、全て遠い島の出来事だった。

 自分とは異なる種類の知性体が営む活動。そこに自分が手出しできることは何もない。そう思っていたけれど、そうじゃなかった。

 

 いつの間にか頭の中で、手を動かしていた。人ができることなら、自分にもできる可能性がある。些細な自惚れ。

 

「あ、これ」

 見つけたそれに指をかけたのは、その自惚れの正体を、もう少し詳しく知りたくなったからだった。

 

 ここで素直に映像の勉強を始めないのは僕がひねくれているからなのか、それとも昔の映画の登場人物と今を生きる人間の性格の違いなのか。彼女に訊いてみればわかるかもしれないし、わからないかもしれない。流石に面と向かって本気で「個人の性格の問題だよ」とは言わない気がする。

 

 それが優しさなのかは、わからないけれど。

 

「あ、」

 

 本を引き抜いたとき、見覚えのある現象が目の前で起きた。初めてここに来たときも起きた現象。本の後ろに本が挟まっている。違うのは、あのときと違って僕の指に勢いがあったのか、それとも挟まっていたそれが軽かったのか、棚からその本が落ちたこと。

 

 屈んで拾い上げる。本と呼ぶには質素すぎる気がした。片手に収まるような大きさの紙の束。下向きに開いて落ちたからすぐに持ち上げて、ページが折れていないか確かめる。何度もこういうのがあるのは、配架用ロボットの性能があまり良くないのだろうか。整理するときにも、背表紙だけを確認しているのだろうか。それならこういうミスが起こるのも納得がいく――

 

「……?」

 なんて思っていると、ふと気付く。

 

 その本には、背表紙がなかった。

 

 十数ページくらいしかないのかもしれない。ページを留めるためだろう、背に当たる部分には冷たい金属の感触が二ヶ所。それだけで、図書分類を示すためのシールすら貼っていない。ひっくり返す。表紙もない。表紙に当たるのだろう紙はあるけれど、中のページと同じ材質なのか随分と色褪せている。デザインがない。著者名がない。タイトルがない。

 

 なんだろう、と不思議に思ったからページを開く。

 

 

【疑似的ミラーニューロン:AIの人間性獲得について】

 

 

 たぶん、その本が小さかったのがいけなかったんじゃないかと思う。

 

 このくらいならそこに立ったまま読み切ってしまえると判断したのかもしれない。シールの付いていない本だから貸出ができないと思って、ここにいるうちに目を通してしまいたいと考えたのかもしれない。あるいはそのときの僕は無意識の思慮も何もなくて、ただ目の前に現れたそれに夢中になっていただけだったのかもしれない。

 

 確かなのはどんな理由があっても行動は結果を伴うということで、そのときはふたつの結果が僕の元に訪れた。ひとつは望んだとおりにその本を読み終えて、ぱさり、と微かな音を立ててページを合わせられたこと。

 

 もうひとつは。

 

「え、」

 ぷつん、と何かが切れたような不穏な音とともに、その部屋の電気が落ちたこと。

 

 真っ暗だった。地下室。あまりにも光がない。一度も体験したことのないような暗闇。自分の身体がどこにあるのかもわからない。

 

 音もしない。匂いだけが微かに漂う。何かが良くなってくれるんじゃないかと思って、しばらくそこで息を潜める。

 

 誰の声もしない。

 明かりは二度と点かない。

 

「え?」

 

 

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