幼馴染という仕事もまた、AI化の波には逆らえず……   作:quiet

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8話 Which

 

 

「人間って、」

 

 雪は、夜になる少し前に止んで。

 

 僕たちは、薄青く光る白い道を歩いていた。

 

 

 夜になりかけの街だった。いつもはこの時間までは出歩かないから、折角の雪の日だっていうのに、普通の状態との違いがよくわからない。思ったよりも明るいのは、日中に感じていたみたいに、雪それ自体が眩しいからだろうか。

 

 反射しているからかもしれない。空を見上げる。清々しいくらいに晴れた紺色の中に、きらきらと星。それを塗りつぶすくらいに明るい月。月のせいかもしれないとも思いながら、コートの襟を持ち上げる。その指がかじかんでいる。息は白い。瞳が潤む。風に晒された頬は、少しずつ感覚が鈍り始めている。

 

「ちょっと、変わってるよね」

 

 外に出て、改めて思った。

 雪の日は、とても静かだ。

 

 言葉にした端から、声がどこかに消えてしまったような気がする。ふかふかの雪の上だから、足音はさくりともしない。風が少しだけ遠くから吹いているから、何も届いていないような気がして不安になる。

 

 だから、覗き込んだ。

 

「ね」

「…………」

 

 彼女は。

 

 僕の隣で恥ずかしそうに、赤い顔をしている。

 

「……それ、わざとそうしないと、そういう顔にはならないでしょ」

「うるさいなあ! わかりやすいようにしてあげてるAI仕草でしょ!!」

 

 指摘すると、怒った。

 

 結構、ずっと会話をせずにいた。あの人がすごいことを言って、特に何のフォローもしないで立ち去ってから。彼女は何も言わなかったし、僕も色々と考えを整理したかったし、ココアも温かい内に飲みたかったし、何より言うべきことがひとつも思い浮かばなかった。

 

 かろうじて図書館の中で交わした会話は、たったの四つだけ。雪、止んだね。うん。帰ろうか。うん。彼女に至っては、四文字しか喋ってない。

 

 でも、そろそろと思ったから。

 隣を歩く彼女に、勇気を出して話しかけた。

 

「別に、人間が変わってるわけじゃないでしょ。さっきのあの人が変なだけ!」

「そんなこと言っていいの」

「いいの!」

 

 うー、と言って彼女は両手で顔を覆う。その「うー」の声は、この間ふたりで観た柴犬の唸り声の動画によく似ていた。

 

 意識してるのかな、と考える。考えている間にも、どんどん家との距離は近付いていく。図書館からずっと、ひとり分の足跡が伸びていく。放っておけば、それも風に消えてしまうんだろうか。

 

「……なんか、」

「ん?」

「なんか、言ったらどうですか」

 

 じとっとした横目で、彼女が僕を見た。発言を許します、と唸り声に似た低い声で、彼女は、

 

「なんか言っといたらいいんじゃないですか! AIが言論統制を始める前に!」

 そういう映画もあったけど。

 

 すぐには出てこなくて、そうだなあ、とまた僕は考え始めた。さっきの話題だって、結構長い時間をかけて編み出したものだったから。吐く息は白い。夜になってもそれは変わらなくて、でも、雪に紛れて消えてしまう。

 

「正直、ちょっと嬉しかったかも」

 ようやく、口をついて出た言葉。

 

 反応を窺った。隣。彼女は僕を見ている。動揺が顔に出ている。出しているのかもしれない。わかりやすいようにしてくれてる、AI仕草というやつのために。

 

 そのとき、僕の心に芽生えた願いがある。

 

 もうちょっと。

 色んな顔を、見てみたい。

 

「独占欲?」

「んなっ――」

 

 絶句、という顔を彼女はした。単に驚いたとか、そういう言葉で表せるような表情じゃない。言葉を失うとき、言葉を失わせるだけの何かがある。そういうものがいくつも浮かんで、複合して、ひとつの顔を作っている。

 

 僕も、そうなんだろうか。

 

「こ、このっ」

 

 彼女がしゅっしゅと拳を振る。当たっても、痛みはない。感触はない。ここにはいない存在だから。

 

「冗談じゃないよ」

 

 それでも。

 

「本当に、嬉しいと思った」

 

 あれからずっと、頭の中でぐるぐると考え続けていた。

 嫉妬するんだよ、とあの人が教えてくれたこと。その一言が何をどこまで意味するのかを、ずっと。

 

 AIは、人間性を獲得しうる。手記に書かれていたそのことが、どこまで本当なのかはわからない。完全にそのとおりなのかもしれないし、その手記を書いた科学者がそう思い込んでいただけなのかもしれない。あるいは手記を科学者が書いたということも嘘で、文集を書いた子どもの凝ったいたずらなのかもしれない。それどころか、全てがただの偶然で、でたらめ同士が噛み合っただけかも。

 

 本当のことかはわからない。でも、希望にはなる。

 嫉妬のことも、そうだった。

 

「だって、それって君の願望でしょ」

「……知らないよ。そんなの」

 

 過剰な反応だったんだと思う。

 思い返せば、あの人は一度目は『CITYOU』を使っていた。二度目からは確かに直接話しかけてきたけれど、よく考えれば一度目のあの時点で、AI同士の間で僕たちの情報は交換されていてもおかしくない。

 

 僕たちの相性を危険と判断したなら、わざわざ隣の部屋に置き続けたりはしないだろう。事情を説明した上で別の引っ越し先を探して、手続きの案内をしてくれる。少なくとも彼女は、そういうことができるだけの機能を持っている。

 

 だからあれは。

 何度も「危険だ」と言ったり「近付かないように」と釘を刺してきたりしたのは。

 

 つまり――、

 

「……そっか」

 思考を止めたのは結局、何の確証もないからだった。

 

 手記と同じ。それらしいものはそこにある。だけど、断言できるだけの根拠はどこにも見つからない。彼女には人間性があって、自分で考えたり、感じたり、望んだりする能力があって、その発露として僕とあの人を遠ざけようとしたなんて、そんなのは結局、僕自身の願望と地続きの推測にすぎない。

 

 ずっと考えている。全てがあの手記に書かれていたとおりだったとして、本当にAIに人間性は芽生えうるのか。芽生えるとして、それにはどれくらいの時間がかかるのか。彼女の行動を嫉妬と断言できるだけの確からしさはどこかにあるのか。自分より遥かに知識も知恵もある彼女がしたことを前に、その行為の隠された合理性に自分が気付けていないだけだと、どうして言えない理由があるのか。

 

 訊けば、答えてくれるのかもしれない。

 いつもみたいに正しい答えを、教えてくれるのかもしれない。

 

 でも。

 

「いつか」

「……何」

「いつか、教えてよ」

 

 今は、いい。

 

「話したいとか、話してもいいと思えるようになったら」

 

 風が吹いて、僕は片目を閉じた。瞼に冷たい感触がする。雪が張り付いたんだと、そう思う。空から降ってくるのが終わっても、風が地上を浚うから、夜の暗闇にちらちらと軽い雪が舞い続けている。

 

 あ、と言って彼女が指を伸ばした。瞼に向かって。それから何かに気付いたように、その指を下ろしてしまう。

 

 そんな些細な動作すら、僕だったら無意識でやってしまう動きですら、彼女にとっては計算可能なものなのかもしれないけれど。僕に何らかの感情表現を教えるための、あるいは日々の生活に喜びを与えるための気遣いなのかもしれないけれど。

 

 でも、それでいいと思う。

 本当のことがわからないから、『信じる』なんて言葉が生まれてきたんだろう。

 

 グラスを外す。彼女の姿が見えなくなる。雪を自分の指で拭う。体温で融けてしまうから、確かめてみても何の跡も残っていない。グラスをかけ直せば、彼女の姿がまた映る。そこにいる。「平気だよ」と一言だけ告げて、またゆっくりと歩き出す。

 

 歩くごとに、夜は深くなっていった。

 

 寒さは冷たさに変わっていく。だけど今はその冷たさが、眠たくなるくらいに心地良かった。夜の道はわかりづらいから、ときどき立ち止まる。ん、と彼女が指を差す方に向かう。ありがとう、と口にする。

 

 ごめんね、と彼女が口にした。

 

「聞いたことがあったんだ」

 

 僕は隣を見る。見てほしくなさそうだったから、見ないことにする。並んで歩く。彼女は下を向いていて、僕はその逆。眩しい月が、雪明りに霞むのを見ていた。

 

「人間が、どこかに行っちゃうって話。人間同士で話すようになったら、そう遠くないって。ある日起きたら何年も、何十年も経ってて、見つからなくて……」

 

 ああ、と。

 

 納得したら、溜息みたいに声が漏れた。月まで昇る白い息。きっとそうだ、と思った。確かに理屈だったら――もしも僕がAIだったら、そういうことを思う。そういうことを、心配する。

 

 僕にとって彼女は、グラスを外せば見えなくなる幻みたいな存在だけど。

 彼女にとっての、僕も。

 

「人間しかいない場所に、消えて行っちゃうんだって」

 

 歩幅は、少しずつゆるやかになった。

 一息を吐くのに三歩を歩いていたのが、二歩になる。一歩。半歩。それからほんの少しだけ惰性のように歩いて、止まって。

 

「ねえ」

 

 彼女は俯いたまま、触れもしない僕の手に、両手を伸ばした。

 僕は手を持ち上げる。触れはしない。わかってる。だから。

 

 だから、その輪郭をなぞるようにして、形だけをどうにか、取り繕って。

 

 

「どこにも行かないよ。家に帰ろう」

 

 

 うん、と彼女が頷く。また一歩、一歩と歩き出す。

 

 雪の止んだ夜。ひとりきりの足跡。

 冷たくてかじかむ手をずっとポケットの外に出しながら。

 

 

 ふたり並んで、ゆっくり歩く。

 たったそれだけの、夜だった。

 

 

 

 

 あれからしばらく、彼女は落ち込んでいた。

 

 ……と言っていいのかは、よくわからない。

 

 外形だけを見れば、いつもと変わらなかったのかもしれない。運動プログラムを組んでくれたり、楽しい娯楽の案内をしてくれたり、時間を持て余せば話をしたり、ゲームをしたり。あの小さな部屋でできることを、もう十何年も一緒にやってきたことを、いつものように一緒にやった。

 

 でも、何かが違っていた。

 

 ときどき、ふと気付く。彼女がどこか、遠くを見るようにしていること。あるいは、自分の内側に意識を向けていること。瞼を伏せて、物憂げな表情で何かを考えている。いつもより口数が少ない気がする。いつもより動きが小さい気がする。どれも「どうしたの」と問いかけて「何が?」と答えられれば簡単に誤魔化されてしまう程度の変化だけど。

 

 彼女は、あれから。

 少しだけ、大人しくなった。

 

「雪が解けた! 労働だー!」

 そして戻った。

 

 一週間くらいしてからのことだった。何となく僕は外に出たくない気分だったから(ちょっと身体がだるかった。寒いところにいて、また風邪を引きかけたのかもしれない)ずっと家から出ずにいた。ただ部屋の中でぼんやりと映画を観たり、あれだけ長い待ち時間を経てようやく借りてきた本の中身に、途中で飽きてみたりしていた。

 

 きっかけは、その彼女の宣言だった。

 

「溶けたって、溶けてなかったの?」

 

 一週間も、という気持ちを込めて訊ねると、そうだよ、とこともなげに彼女は頷いた。嘘だった。ほら早く早く、とやんわり急かされながらコートを着て、靴を履いて、家から出て、それでも廊下から見渡せる範囲に、まだ雪は残っていた。別の居住区が、ちょうど太陽を遮って影を作るところ。そんなに寒いんだ、と素直に驚いた。

 

 だけどもう、雪だからと言って道が凍っていたりはしないと言う。

 

「よし、行くぞっ」

 

 背中を押される。押された風に振る舞うべく、僕は部屋の外に出ていく。目を細める。眩しくて、見上げると快晴だった。冬の空にしては青すぎる。絶好の仕事日和。

 

「元気ないね」

「そう?」

「私との楽しいお出かけだぞ~。もっと元気出せー!」

 

 何それ、と笑いながら廊下を歩く。どうしてこんなに急に元気になったんだろうと不思議になる。元気がないよりはずっと良いな、とも思いながら。

 

 一日目は、今までどおりだった。

 ただ外を歩いて、景色を見つめるだけ。冬枯れの植物に目を留めれば、彼女がそれを解説してくれる。名前。種類。匂い。どこから来て、どんな風に咲くのか。そういうこと。春になれば咲くはずだから、また見に来ようと彼女が言った。覚えてられないかも、と応えれば、私が覚えておくから大丈夫、と笑って返してくれた。

 

 次からはもう、何日目のことだったのか覚えていない。

 

 僕が定点観察について持っている記憶は、あまり綺麗に整頓されていない。順番はバラバラ。ひどいときは、その日の午前にあったことと別の日の夜にあったことを、まぜこぜにして覚えている。

 

 野良猫の集会を見た。見つけた瞬間、僕はびっくりした。群れになっている動物というのを、空を飛ぶ鳥の他に見たことがなかったから。近付くと一斉に猫は僕を見た。こんにちは、と頭を下げると、知らんぷりをしてくれた。後ずさりをして遠ざかる。こんにちは、と裏声を出して彼女は笑った。こら、と怒るとさらに笑った。

 

 別の日には、塀の上に一匹だけ猫が丸くなっていた。今度は怖くなくて、こんにちは、と声をかけると、にゃあ、と応えてくれた。段々顔見知りになっていって、背中を触らせてくれるようになった。いいな、と彼女は言って、ある日の夜、部屋に大きな虎が出た。

 

 

 急な雨に降られることも何度かあった。濡れてしまうと冷たくて、一気に風邪を引きそうな気がする。寒い、と言うと、でも雨好きでしょ、と返される。確かにそのとおりで、雨宿りの場所を探すのも好きになった。

 

 たまに軒下で、あの人と鉢合わせることもあった。一番長く話したのは、傘を持っていても意味がないくらいに激しく雨が降り注いでいた日。運良くベンチのあるところに駆け込むことができて、ふたりで歯の根を震わせながら話した。映画とか、傘が前時代すぎることとか、それに絡めた映画のこととか、そういうこと。

 

 彼女が看板を持っていた。『ニンゲンヲシンジルナ』じっと見つめると、複雑な表情をしてそれを引っ込めた。でも、その人が「実はうちのAIと君のところのAIは、夜な夜な会話をしているらしい」と教えてくれたことで風向きは変わった。ちょっと、と言うと彼女は知らんぷりをした。ちょっと、と実は今でも思ってる。水溜りを歩きたくて、かわいい長靴を買った。

 

 

 スーパーマーケットにも、よく寄った。時には広すぎる店内の端から端までを歩いてみたりもしたけど、図書館と違ってこっちはまだ覚えられない。聞いたことのない食べ物を見る。訊ねる。彼女が歴史を教えてくれる。モデルになった料理と、本来使われていた原料のことも。

 

 訊くたびにこの世は僕の知らないことばかりだと思い知らされるけど、それでも少しずつ、彼女の助けがなくても買い物ができるようになってきた。栄養学のことも、ちょっとだけ。持ち手の太いバッグを買って、それに買ったものを詰め込んで、夕日に誘われるみたいに家路を辿った。

 

 

 手を洗って、うがいをして、それから料理をした。わからないところは彼女が隣で実演してくれた。手を思ったように動かすのは難しい。もう少し器用になれば楽なんだと思うけど、彼女をそっくり真似しようとして、ときどきそうできないこともあった。「現実は厳しい」と彼女は言う。そうでもない、と僕は思う。毎日少しずつ、美味しいものが作れるようになってきている。

 

 皿を持って部屋に入ると、合間に選んでおいた映画の再生が始まる。「急げ、急げ」と不当に急かされてソファに座る。左に寄れば、右に彼女が座る。クリームシチュー。映画が始まって、僕はそれを口に運びながら、一体これが誰の物語なのか、そして何を求める旅なのか、見極めようとする。

 

「美味しい?」

 

 スプーンを口に。じゃがいもが溶ける。口の中が温かくなる。ちゃんと呑み込んでから答える。

 

「うん」

「そっか」

 

 たくさんの映画を観た。

 その隣に、彼女がいた。

 

「よかった」

 それが、あれからの僕の日々だった。

 

 

 

 

「でも全然貯まんないね。お金……」

 本を読んでいたら、そんな風に彼女が呟いた。

 

 ちょうど読み終わったところだったから、僕はぱたんとそれを閉じる。余韻を引くタイプの内容でもなかったから、すぐに注意を切り替えられる。彼女は画面を呼び出している。口座残高。僕も一緒になって覗き込む。

 

 これだけ外出している割には、という額。

 

「うん」

「なんか、前から思ってたんだけどさ……」

 

 うん、ともう一度僕は頷いた。彼女が僕を見た。じとっとした、湿っぽい目つき。非難がましい視線。

 

「どうでもよくなってない?」

 

 僕は少し考えた。即答するよりも、考えるポーズを取ってから答えた方がいい場面がある。会話の間。本当だったらもっと高速でコミュニケーションを取ることができるだろう彼女から、学んだもの。

 

 たっぷり三秒かけて。

 それから、こう答える。

 

「うん」

「こらこらこらこら」

 

 うんじゃないだろ、と彼女は立ち上がった。いきり立っていた。サメのぬいぐるみのオブジェクトを作り出すと、僕に向かって放り投げた。ばふ、とぶつかる音がするわけでもなく、僕はそのぬいぐるみに頭から呑み込まれた。最初の犠牲者だった。

 

「なんだ! 私のダイナマイトバディが欲しくないのか!」

 

 たぶん腰に手を当てて胸を張って、偉そうなポーズで言ったんじゃないかと思う。

 僕の視界はいまだにサメの中だったからわからないけれど。グラスを外すと彼女ごと見えなくなってしまうから調整のしようもなかった。「あ、」と彼女が僕の危機に気付いてくれて、奇跡的に生還を果たした。

 

 それで、改めて考える。

 

 正直なところ、定点観察の仕事を始める動機だった彼女の物理身体について、今は。

 

「欲しくない、ってこともないけど」

「なんだその歯切れの悪い言い方は」

 

 今のままでも、結構満足してしまっている。

 

 大事だったことはたぶん、と僕は思う。

 もう、確かめ終えている。

 

 幻みたいだったから、そこにいることを確かめたくなった。目に見えるものが欲しかった。でも別に、目に見えるとか見えないとか、そういうことはあんまり大切なことじゃない。目に見えたらそこにいるわけでもなければ、目に見えないからそこにいないわけでもない。身体があれば身体があったで、不安を和らげるための拠り所が、ARグラスからそれに代わるだけだ。

 

 でも、ふたつの季節を跨いだ散策の中で知ったし、気が付いた。

 夢を見るだけの材料が、ここにはあること。そしてそれが夢なのか夢じゃないのか、本当に確かめるだけの確信は、きっとどうやっても得られないだろうということ。

 

 できれば僕は、彼女にそこにいてほしいと思う。それは単に『機能していてほしい』という意味じゃなくて、『人間的であってほしい』『自分の自由な意思を持っていてほしい』という意味で。

 だけどどうやっても僕は、それを確かめられない。彼女を構成するプログラムを、絶えずAI自身が複雑化を試みる構成式を、正しく読み取る力を持ち合わせていない。彼女に訊ねてみても正しいことを答えてくれるとは限らないし、それに彼女自身、自分の状態を把握できているのかわからない。僕だって自分がどんな状態で、何を思っているかなんて、正確に説明することはできない。

 

 だから、大事なことは『知ること』そのものじゃなかった。

『確かめること』でも、『繋ぎ止めておくこと』でも、『誤魔化すこと』でもなかった。

 

 ただ、信じればいいだけ。

 今見ている世界が、現実だって感じるみたいに。

 

 そのことが今はわかったから、もう、安心するための道具は要らなかった。

 のだけど。

 

「えー! やだよ~!」

 

 彼女は大きく飛び跳ねて、ベッドに飛び込んだ。手足をじたばたさせた。僕が同じことをしたらベッドは激しく軋んで底が抜けるだろう。そのくらい激しくじたばたした。

 

「なんでそっちが……」

 

 僕はベッドに腰掛ける。見下ろしながら訊ねかける。彼女の髪が綺麗に流れて、シーツの上に広がっている。別に暴れ続けていても僕に影響はないけれど、気を遣ってくれたんだと思う。ぱたり、と手足を下ろして、それから顔を横に背けながら、だって、と彼女が言う。

 

「だって?」

「…………」

「あれ、ご飯も食べられないし。できること、そんなにないよ」

「……組み伏せて、言うこと聞かせたりはできるし」

「貯金やめようかな」

 

 うそうそうそうそ、と彼女は慌てて身体を起こした。前から思っていたけれど、このAIの反逆みたいなジョークは僕の好みだと判断されて多用されているんだろうか。なんだかずっと聞かされている気がする。かわいいジョークじゃんね、と彼女が僕の隣に座る。ジョークであることは否定しないけれど、かわいいかどうかには議論の余地がある。

 

 でも、と思った。

 

「前、そんな感じだったっけ。別にそんなに欲しがってた気がしないんだけど」

「う」

 

 なんで急に、と思ったから訊ねる。彼女は答えない。答えないまま目を逸らす。表情を変えないということはそこから何かを読み取れということだろうと思って、僕は彼女をじっと見つめる。

 

 あ、と気付く。

 

「そっか。じゃあ、映画の本数減らそうか」

「えっ」

 

 僕にとっての問題解決と、彼女にとっての問題解決は違うんだ、と。

 

 当たり前のことだった。僕が問題に対する何らかの答えを得たところで、彼女にとってもその問題が解決しているとは限らない。僕はもう触れる必要はないと思っているけれど、彼女はそう思っていないのかもしれない。

 

 だったら、もう少しやる気になったっていい。

 

「いやいや。いいよそこまで。楽しみが減っちゃうでしょ」

「そんなことないよ。最近はAI製の映画も面白く観られるようになってきたし」

 

 強がりではなくて、本心だった。

 

 前にぼーっと観ていたときよりも、今の方がずっと面白い。それは単に、人間製の拙い映画を観ることでAI製のそれが持つ完成度に気付けるようになったのかもしれないし、あるいはもっと複雑に、あの一連の出来事を経て、AI製のものも人間製のものと同じような文脈で楽しめるようになったのかもしれない。つまりAIの作品を通しても何かを、ぐちゃぐちゃの何かを受け取れるだけの回路が、自分の中に生まれたのかもしれない。

 

 画面を呼び出して、計算を始めた。最近の映画を観る頻度は、ちょっとおかしなことになっていたから。履歴を参照する。一日に一本、多いときは二本見ている。月にかけている金額を算出するのは簡単だった。これをやめればこれだけ浮かせる。十分かどうかを確かめるために、定点観測で稼ぐことのできる額を思い出したくなる。思い出すよりも検索する方が早くて、手で打ち込むよりも彼女に訊く方が早い。

 

 隣を見る。

 

 

 ものすごく近くに、彼女の顔があった。

 

 

「――――」

 何がどうなっているのか、わからなかった。

 

 彼女は目を瞑っていた。僕の顔と彼女の顔は物理空間と仮想空間にそれぞれ存在して、ARグラスから僕の目を通して見れば、少しだけ重なって見えた。一瞬のことだったけれど、その一瞬のことを多分僕は、死ぬまでずっと覚えている。緊張した顔。こわばった肩。かたく握られた両手。その後ろに白く輝いていた、春めいた部屋の壁のことでさえ。

 

「――わっ!」

 

 声を上げたのは、なぜか僕ではなくて彼女の方だった。ちら、と瞼を開いて、それから飛びのいた。枕の方まで一息に。壁に張り付くようにして。それから目を白黒させるような勢いで、あはは、と笑った。

 

「こ、こういうの」

 決して乱れたりはしないだろう髪の毛を、手櫛で整えながら。

 

「映画であるよねー……なんて……はは……」

 

 言われなかったら、ひょっとすると僕はそれにしばらく気付けなかったかもしれない。映画でよくあるこういうの。そう言われて、ちゃんと適切な言葉を思い付けなかったら。

 

 ああ。

 

 今のって。

 

 生まれてからそのときに至るまでで、一番短い時間で、一番たくさんのことを考えた気がした。今まで、全くそういうことを考えたことがなかったから。そういうことが自分の身に起こるとは考えていなかったから。映画の、スクリーンの、遠い島の出来事だと思っていたから。

 

 考えたのはやっぱり『もしかして』だったし、手掛かりになったのはやっぱり、あの日に聞いたことだった。ミラーニューロン。整理を付けたはずの言葉が、今になって戻ってくる。

 

 深く捉えていなかった。AIにはミラーニューロンがある。人間を見て反応する。そのことで学習機能が働いて、人間と同じような心を発達させる可能性がある。そのことは理解したのに、それ以上のことは理解してなかった。

 

 ミラーニューロンは、人間にもある。

 もしかして、と思った。

 

「その、いや、ふざけただけだよ? だけなんだけど。でも、なんかさ。ほら、身体があるとこういう、あの、」

 

 彼女が何かを言う。言葉は小さくなっていって、最後にはなくなる。僕は隣に座っている。俯く彼女を見ている。

 

 心臓が、妙に早く鼓動を打っている。

 

 手を伸ばした。

 

 AIが人から影響を受ける。逆が成立しない理由は、どこにもない。思い返していた。これまでのこと。これまで過ごしていた日々のこと。彼女が看病してくれた日のこと。彼女が『僕と同じように』身体を手に入れたのをきっかけに、僕が色々なことを考えて、動き始めたこと。

 

 僕も、彼女から影響を受けていたとしたら?

 

 手に手を重ねた。彼女の手が震える。震えても、触感はどこにもない。どこにもないけれど、お互いの気持ちは伝わる。触れてみたいという気持ち。近付きたいという願い。

 

 どこからで、どこまでなのか。何もわからなかった。彼女は話してくれないかもしれない。話してくれても、僕はそれを本当のことと判断できないかもしれない。ただそのとき僕が信じられたのは、ふたりで過ごしてきたということ。ずっとこの小さな部屋で、お互いがお互いを、と。

 

 思えばひとつの言葉が、頭に浮かんできた。

 それは、この間観た映画の中で聞いた言葉。

 

 ずっと古くからある言葉なのだという。関係を示す言葉。そして同時に、その関係を持つ何人かの人間たちを指す言葉。

 

 子どもの頃から、ずっと傍にいて。

 

 お互いのことを気にし合って、教え合って、伝え合って、影響し合って。

 お互いがお互いを変えていく。

 

 そんな関係の、ふたりのこと。

 

「知ってる?」

「……何」

「幼馴染って言うらしいよ」

 

 呆気に取られた顔を、彼女がした。彼女も考えているのかもしれなかった。生体チップを埋めていない僕が、何をどこまで考えているのか。察しているのか。いないのか。気付かないでいるのか。そういう風に、振る舞っているだけなのか。

 

 でも、結局。

 

「何それ」

 

 ふ、と彼女は笑った。

 ゆっくりと丁寧に、重ねていない方の手を持ち上げて、口元に当てて、本当におかしそうに。

 

 

「知ってるよ。AIだもん」

 

 

 それほど広くはない、1Kの部屋がある。

 

 ひとり当たり、ひとりのAIがいる時代。たくさんの歴史の果てに辿り着いた場所で、お互いがお互いのことを探り合ったり、冗談を交わし合ったりしながら。まるで必要もない料理をしたり、まるで出来の良くない映画を観たり、時々は外に出たり、雨に打たれて慌てて家に駆け込んだり。

 

 お互いがお互いの目を見つめ合ったり。

 

 見つめ合わないで、重さも何も感じられないのに、そこにいることを信じてみたり。

 

 瞼を閉じて。

 何も言わないで。

 

 そっと、寄り添い合ってみたり。

 

 

 

 そんな風に、僕らは。

 結構、幸せに暮らしている。

 

 

 

(了)

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