なんでも許せる人向け
「それで? 弁明があるなら聞きますよ、ドクター」
フォリニックはこめかみが膨らむような感覚と共に、見下ろして言った。
ロドス本艦、ドクターの執務室の端。藍色のシンプルなデザインのソファベッドに仰向けで寝そべったドクターは、冷や汗を掻く。
角度のせいだろうか。前髪の影がフォリニックの目元を覆い、金の瞳に不吉な黒を差している。怒気はもはや殺気の域だ。
ドクターは唯一自由に動く右手で、制止のサインを見せる。
「待って、フォリニック……! 誤解だ……!」
「誤解とは? 私が何を誤解していると?」
「君が考えているようなことは何もない。それだけは本当だ……!」
ふたりのやり取りは、声量を最低限まで絞った囁きの応酬となっている。その理由は、ドクターの左右と胸の上にあった。
柔らかく、大きなソファは、背もたれを倒してダブルサイズのベッドの形態。然り、寝ころんでいるのはドクターひとりではない。他に三人、ドクターにぴったりとくっついて、すやすやと安らかな寝息を立てているのだ。
ドクターの右側にラ・プルマ。左側にリード。胸の上にはテンニンカ。
フォリニックは眉間にしわを寄せ、熱波にも似た殺気を強める。ブレイズの熱風を浴びた敵は、もしかしたらこんな気分だったのかもしれないとドクターが思っていると、フォリニックが口を開いた。
「なるほど。はい、そうですか。椅子に座ったまま眠らなくなったのは良しとしましょう。わざわざミニマリストさんとクロージャさんに無理を言ってそのソファベッドを発注した甲斐があるというものですから。……ですが誰も女性を侍らせて眠れなんて一言も言ってません! 何を考えているんですか!?」
「違う、待った、私が仮眠に入った時は間違いなくひとりだった! 気付いたらこんなことに……」
「ではなにか? 勝手にドクターの執務室に入ってきた彼女たちが、仮眠しているドクターと一緒に勝手に眠り始めたと? ドクターは私が入室した時には既に目を覚ましていたように思うのですが?」
「やましいことは何もない……! 私の目が醒めたのはつい数分前だ。ただ……起こすのは少し忍びなくて、かといってこのままでは身動きが取れなくて困っていただけで……。その、フォリニック?」
「なんですかドクター?」
「……テンニンカだけでも、どかしてくれると嬉しい。出来るだけ、起こさないように」
フォリニックはまなじりを逆立て、しばらく唸っていたが、やがて溜め息をつくとテンニンカを抱き上げた。
ようやく起き上がれるようになったドクターは、左右のラ・プルマとリードに気を遣いながら上体を持ち上げ、一息吐く。ドゥリン族の例に漏れず、テンニンカは小柄で体重もさほどではないが、それでも胴体の上で眠られるのは少し辛かったようだ。
ドクターがゆっくりとベッドの端まで移動していると、フォリニックに抱かれたテンニンカが、すんすんと鼻を動かす。
そのまま白衣の胸元に鼻を突っ込むと、薄目を開けて寝苦しそうに呻いた。
「うーん……? ドクターじゃない……?」
「おはようございます、テンニンカさん。今からドクターの健康チェックの時間なので、すみませんが余所に……」
「
テンニンカは寝ぼけ眼のままフォリニックを押しのけ、飛び降りる。
着地の衝撃で軽くよろめきながら鼻を鳴らすと、わななくフォリニックをそっちのけにして、テンニンカは床に足を下ろしたドクターの下へふらつきながら近寄った。
いざ立ち上がろうとしていたドクターは、テンニンカに気付く。危なっかしい足取りの彼女を受け止めようとしてか、腰を浮かせかけたその腹に、しゅるる、と黒い縄のようなものが巻き付いた。先端に炎を灯した、濡れたような光沢のうろこで覆われたそれは、リードの尻尾だ。
人の腕よりも太い尻尾に引かれたドクターは、ソファベッドに腰を落としてしまい、そのままテンニンカにしがみつかれてしまう。
ドクターの肩に顎を乗せたテンニンカは、ふぁーと不明瞭な声を発しながら、頬をふやけさせる。リードはリードで、ぐずる幼子のようにもぞもぞと動いていた。
固まったままのドクターは壊れかけたからくり仕掛けのようなぎこちない動きで硬直したフォリニックの方を見る。
ドクターが滝のような汗を流していると、今度はラ・プルマが目を覚ました。
「あれ、ドクター……? どこか行くの?」
「おはよう、ラ・プルマ。ここにいるけど、ちょっと健診をね」
「ふうん……」
ラ・プルマは眠い目を擦ると、幼いながらどこか蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「じゃあ、終わったらもうちょっと寝よう? ドクターといるとすっごく気持ちよく眠れるから……いいでしょ?」
「あの、ラ・プルマさん。ドクターはこれから健診ですので、寝るのであれば自室で……」
寝ぼけているのか、起きているのか。ラ・プルマはこてんと小首をかしげると、ぼんやりした口調で尋ねる。
「どーして? ここ、ドクターの匂いして、とっても気持ちよく眠れるのに」
「……!?」
凍り付くフォリニックを余所に、ラ・プルマはドクターにすり寄り、あろうことかドクターに抱き着いてそのまま微睡み始めたのだ。
フードの首筋に鼻を寄せ、匂いを嗅いで。
「ドクター……いい匂い」
そしてフォリニックはキレた。
「と、いうことがあったらしくって」
「それであんな機嫌悪かったのかよ、フォリニック……」
「あの人も大変そうだねぇ~」
午後、ロドス本艦のラウンジで昼食ついでの雑談を交わすのは、ハイビスカスとラヴァの双子、そしてクルースの三人だ。
ハイビスカスが持って来た健康食満載のトレイを押しのけ、ラヴァは肉厚のハンバーグを頬張った。
「ま、フォリニックの間が悪かったんだろ。ドクターの傍にはいつも誰かいるし、最近はあそこのベッドを横取りして寝るやつも多いらしいし。今日はたまたま女が寝てたってだけで」
「ラヴァちゃん、ちょっと言い方が……」
歯に衣着せぬ妹の物言いに、ハイビスカスは嘆息する。
しかし、実際のところ事実ではある。オペレータ―であるなしに関わらず、ドクターの周りに女性や子供たちがいるのは珍しくない。
アーミヤ、事務処理担当、護衛担当、プラスアルファといった面子が基本……なのだが、プラスアルファがやたらと多い。しかもどこからか増える。まるで、花の香りにつられた蝶の群れのように。
ソファベッドが執務室に導入されてからは、ドクターの不在をいいことに、わざわざ眠りに行く者さえいるのだという。スズラン曰く、ドクターの匂いがして、優しく守られているような気分になるから安心して眠れるらしい。
ベーコンやレタス、トマトを挟んだパンケーキサンドをもっきゅもっきゅと頬張っていたクルースがごくりと喉を鳴らした。
「でもドクターって、近くまで来たらすぐわかっちゃうよねぇ~。私も、“あ、ドクターが来た”って思うことよくあるよぉ~」
「そりゃ、香水のせいじゃねえの? パフューマーが特別に作ったっていう。そのせいで虫に集られてるみてーになってるけど」
「食事中にそういうこと言わないの」
似たようなことを思った、とは流石に言えず、ハイビスカスは薄味の野菜スープを流し込む。
それをきっかけに、しばし会話が途切れた。
ハンバーグを切り分け、付け合わせを口に運びながら、ラヴァはこっそりとクルースの様子を伺う。
実のところ、この三人が集まるのはだいぶ久しぶりのことだ。
ラヴァに過保護で、事あるごとに職権乱用までして構ってくるハイビスカスはともかく、クルースはかなり忙しそうだ。
時折見かける姿は駆け足で、すれ違っても挨拶だけで終わってしまう。
訓練室で会っても、ドーベルマン教官や後輩たちと話していることがほとんどで、ラヴァもラヴァで自分の訓練があるので会話することはない。
昔、よく彼女が昼寝をしているところを訪れても、悪戯の跡がわずかに残っているだけで、クルースはいない。
ならばと部屋に行ってみたが、あまり帰っていないらしい。僅かに使われた形跡のある椅子と、しわひとつないベッドが、うら寂しいもののように感じた。
ラヴァは口元までハンバーグを持って行きかけ、手を止める。
「なあクルース、お前最近ドクターと会うのか?」
「この間の任務でついて行ったけど~……どうして?」
「いや……」
ラヴァは少し考え込む素振りを見せた。次に、クルースの顔をじっと見つめると、少し不自然な話題の振り方をしてくる。
「あの匂い嗅いでるとさ、なんか眠くなってこねえか? こう、上手く言えねえけど」
「う~ん、あんまり? ドクターがいるな~って思うけど、眠くはならないかも~」
「……そっ、か」
改めて、ハンバーグを口にする。
肉汁が湧きだし、デミグラスソースと溶け合って、肉の味を引き立ててくれる。
少し苦味が強いと、ラヴァは思った。
それから数日が過ぎて、夜遅く。クルースはクリップで留めた書類を抱えて、ドクターの執務室に向かっていた。
書類の内容は、保護観察を担当している子供たちのチェックリストや、先日参加した作戦での報告書、その中で思い付いた戦略のフィードバックなどなどだ。
ロドスのオペレータ―は、出動の多い者ほど報告書は膨大になる。故に、まとめるのにもたくさんの時間が必要になる。もっとも、一番書類を大量に抱えることになるのは、そうした報告書を一身に集めることになるトップ3の面々であり、彼らは徹夜するのが普通なのだが。
―――ってことは、ドクターも私とおそろいかぁ~。
他意もなく、そんなことを考える。
近頃、クルースはあまり眠っていない。
各種外勤任務に参加したり、後輩となる若いオペレータ―たちの面倒を見たり、極地訓練に志願したりと、医療部から過密すぎると小言をもらうほどにやることが多いからだ。
“ストレスと疲労が溜まりやすい環境にいるのだから、毎日まとまった時間を見繕って休んでください。これ以上無理をすれば、鉱石病も取返しのつかない段階に踏み込んでしまいます”
数日前の健診の折り、ハイビスカスに言われた言葉だ。友人ではなくひとりの医師として、険しい表情をしていた。
クルースは大丈夫だよ、と笑顔で返した。ハイビスカスだって、夜遅くまで働いているとラヴァが言っていたよ、と。
他人には決して許さないようなクルースのあからさまな論点ずらしに、ハイビスカスは何か言いたげな表情をしていたが、やがて痛みをこらえるような顔で首を振った。
あの時ハイビスカスは、ふたりの……ラヴァも含めると三人の間で共通している、レム・ビリトンの一か月を思い出したに違いない。その時のことを一番引きずっているのがクルースであることを知るのも、ハイビスカスだ。
クルースは廊下でふと足を止める。脳を素早くやすり掛けされるような痛みと共に思い出しかけた光景に、眉根を寄せる。
クルースを優秀なオペレーターとして成長させた、あの日の記憶。椅子に座ってほんの二、三時間目を閉じる時、決まって蘇る思い。無限目覚まし時計よりも大きく鋭くクルースの鼓膜を貫き、眠りを打ち砕く
思わず強く抱きしめた書類に、くしゃっとしわがつく。クルースは我に返ると、慌てて紙を伸ばした。
幸い、それほど深くはっきりとついたわけではない。受け取り拒否されるほどではないだろう……たぶん。
―――いけないいけない。書き直しになったらドクターが困っちゃう。
―――私も時間そんなにないし……。
フラッシュバックを振り切るように、クルースは速足で歩き始めた。
ドクターの執務室は、案外すぐ近くだった。ノックして呼びかけるが、返事はない。扉の隙間から明かりは漏れているが。
「……ドクター、いる~? 寝ちゃったの~?」
軽口を叩きながら、部屋を覗き込む。
やはり返事はない。誰かいるような気配もだ。こんな夜遅くだというのに、どこかに出向いているのだろうか。
ドアを開けて部屋に踏み入る。いつもドクターが使っている仕事机の前まで行くと、書置きが残されていた。
“すぐ戻る”
―――うーん、どうしよう?
クルースは迷った。
ドクターがすぐ戻る、というなら、それほど時間はかからないのだろう。けれど具体的にどれだけ待てばいいのだろうか。そもそも、ドクターはいつ出て行ったのだろうか。
結論はすぐに出た。
―――ま、いっか~。この後はちょっと寝るだけだし、ここで待ってても。
そうと決まれば、座る場所を探して執務室をぐるりと見まわす。目的のものはすぐ見つかった。ハイビスカスの話にあった、藍色のソファベッドが。
クルースはそちらに向かい、腰を下ろした。ずむ、と思ったより深く尻が沈む感触に驚く。背もたれに体重を預けると、柔らかく包み込まれるような気がした。
―――あ、これ、すっごく気持ちいいかも~。
―――ドクター、こんなの使ってるんだ~……。
恐ろしく柔らかいソファは、五人か六人並んで座れそうなほど幅が広い。
ひじ掛けは片側の端にだけあって、それが枕の代わりになるのだろう。ちょっと興味が湧いて、そちらまでずれてみる。手が軽く押し込むと、ふかふかとした感触が返ってきた。
―――すご~い、やわらか~い。
―――ここで寝たら、よく眠れるのかなぁ~。
―――……昔の私なら、絶対、放っておかなかったなぁ~……。
そんなことを思っていると、香りが鼻にふわりと触れた。
甘いのに、しつこくなく、鼻孔を爽やかな風のように吹き抜ける匂い。ハイビスカスの話を思い出すまでもなくピンと来た。ドクターがいつもつけている、香水の匂いだ。
幼い子供や、女性を惹き付けるという匂い。気付けばクルースは枕に顔を埋め、緩やかにそれを吸い込んでいた。
ロドス本艦でドクターと会った時、決まって嗅ぎ取る匂いではある。だが、いつもは“ドクターの匂いだから危険はない”という情報として処理していたため、じっくりと嗅いでみたことはなかった。……飽きない香りだ。いつまでも、嗅いでいられそうな。それでいて、安心できるような。
―――あ……ちょっと、まずいかも……?
そんな風に思ったのも束の間。
本人すらも気付かぬうちに、クルースは眠りに落ちて行った。
数あるロドスの窓際で、クルースは穏やかな昼寝を楽しんでいた。
差し込む陽射しが温かく、
このままごろごろしていたら、そのうちフェンかラヴァがやってきて、無限目覚ましで無理やり叩き起こすだろう。目覚めは最悪になってしまうが、今は不思議と、それもいいという気がしている。
むしろ、そうやって起こされたいと思っている自分を、クルースは意外に思った。
半分起きて、半分寝ている。そんな状態で、クルースは仲間を待ち構えることにした。
なんとなく芽生えた悪戯心だ。起こしに来た誰かの前で跳ね起きて、“ばぁ!”と脅かしたらどんな顔をするのだろう、という。
みんな驚くのは当然として、きっとラヴァは怒って、ハイビスカスは呆れるだろう。フェンも怒るだろうか。もしかしたら、溜め息を吐いて文句を言うかもしれない。ビーグルも同じだろうか。
あれこれ想像しながら、わくわくして待つ。けれど、一向に誰も来ない。
陽射しが少しずつ強くなって、じりじりと服越しに肌を撫でるのがわかる。熱の当たり具合から、日が傾いているのを察した。
何かがおかしい、と思ったところで、頭にポンと手が置かれた。
どきりと心臓が跳ねる。寝たふりをしているとはいえ、すぐ近くに誰か来ればすぐわかるはずなのに、全く気付かなかった。
誰だろう。タイミングを逃して、どぎまぎしながら寝たふりを続けていると、手はゆっくりとクルースの髪を撫でる。
優しく暖かい指の感触。そこに何か、申し訳なさのような想いが籠もっているように感じられた。罪悪感? 何に対して?
いつの間にかそこにいた、知らない手の感触の持ち主は、撫でるのを一度やめてクルースの名を呼んだ。
「―――――――――!!」
クルースはガバッと跳ね起きる。手の感触が引っ込み、驚きの声が上がる。頭を撫でていたのは……。
「ドクター?」
「あ、ああ。おはよう、クルース。起こしてしまったかな」
すっぽりと被ったフードの奥で瞬きを繰り返すドクターがいた。
ドクターの執務室に設置されたソファベッドの上。壁掛け時計の示す時刻はそろそろ明朝に差し掛かる頃。暖かい陽射しの差し込む甲板ではなかった。夢を見ていたようだった。
ソファの近くで腰を落としていたドクターは立ち上がると、心配そうな面持ちで問う。
「待たせてごめん。報告書かな。受け取るよ」
「う、うん……おねが~い」
眠っている最中でも抱えていた書類の束を渡して、クルースは夢の残滓を手繰り寄せる。
随分と久しぶりに夢を見た。それも昔の自分の夢。愚かで、弱くて、何も守れなかった、新米オペレーター・クルースの。
最後に名を呼んだのは、誰だったのか。ひとりのようにも、ふたりのようにも聞こえた声は、遠い陽炎のように曖昧に揺らいで判然としない。ただ、胸を切なく締め付ける痛みだけが、しっかりと残っていた。
ドクターの、書類をめくる手が止まる。ふとクルースが見上げれば、彼は心配そうな顔をしていた。
「クルース? 泣いているの……?」
「え……」
目元を拭うと、雫の感触があった。それだけでは止まらず、ふたつめの雫がまなじりから頬を伝って顎に達する。
涙だ。拭っても拭っても、あふれて止まらない。
「あ、あれ~……? 変だなぁ~……ごめんね、ドクター。なんでもないから……」
「……クルース」
ドクターは書類の束を脇に挟むと、少し腰を落としてクルースと視線を合わせた。
雪のように白い瞳は、一瞬言葉に迷って揺れる。だがすぐに、透き通るような優しい微笑みに変わった。
クルースの鼻孔に、爽やかな甘い香りが流れ込む。
「君さえよければ、そのベッド、いつでも使っていいから」
「……ううん、大丈夫だよぉ~。ありがとね、ドクター」
クルースは立ち上がると、軽い足取りで執務室を出て行った。ドクターは引き止めずに彼女を見送り、やがて小さく溜め息を吐いた。
執務室から遠ざかる。昇ってきた日が窓をすり抜けて廊下を照らし、クルースの涙に反射してきらりと輝く。
引き結んだ唇がひん曲がって、震える。頑張って堪えていなければ、そのまま声を上げて泣き出してしまいそうだ。
理由はきっと、あの夢のせい。既に内容も朧な幻。醒めねばならなかった夢。醒めて欲しくなかった頃の夢。醒めない夢を求めていた頃の夢。
クルースは足を止め、俯いた。鼻を啜り、大粒の涙をいくつも落としながら、胸を刺す痛みを堪える。
この涙は、押し込めないといけない。
でなければ、あの頃に戻ってしまう気がした。愚かで、弱くて、何も守れず、失うばかりだったあの日のクルースに。
ロドスのみんなは、クルースが泣いても許してくれるだろう。あの時そうだったように、クルースは悪くないと慰めてくれる。
だからこそ、これは自分ひとりで抱えなければ。胸の奥に押し込んで、忘れないようにしなければ。でないと、何もかも無駄になってしまう。遠い昔の思い出も、あのレム・ビリトンの出来事も、積み上げてきたものも、全て。
クルースは服の袖で涙を拭って、誰もいない廊下を走り出した。
朝焼けに染まる廊下に、点々と輝く道しるべを残して。
そして、数か月を経て、とある荒野にクルースは潜伏していた。
作り物のブッシュに身を潜め、ボウガンを構えて狙撃の時をひっそりと待つ。耳に着けたインカムから、
『目標確認! クルース、見えるか!?』
「もちろん、見えてるよ~」
『よし、それなら予定通り頼む!』
返事の代わりに、引き金に指を添える。きりり、と弦の張り詰める音がした。
視界の先には、土埃を挙げて移動する輸送車が見える。今回の任務はあの輸送車を止め、人身売買の証拠を突き止めること。ご丁寧に、護衛の車までついている。
目標地点では既に他のオペレータ―たちが待機していて、クルースの狙撃で車が止まればすぐに包囲、必要とあらば武力制圧する体勢が整っている。外せばそのまま逃げられ、二度と捕縛の機会が得られなくなってしまうだろう。
クルースは鼻から小さく息を吸う。ほんのわずかに、甘く吹き抜けるような香りがした。鼻先の地面にほんの一滴落とした香水の匂い。あの後、ドクターから贈られたものだった。
贈った理由について、ドクターは何も言わなかった。ただお守りだと言って、目薬の瓶ほどの大きさをした入れ物を手渡してきたのだ。なんとなく、察しはついた。
―――もぉ、ドクターったら。こんなもの渡してたら、そのうち勘違いされちゃうよ~?
―――でもありがとうね。
クルースは大きく息を吸って止め、全身に気を漲らせた。
そうして、矢が放たれる。
目の覚めるような一撃は、狙いの的を違わず射抜いた。