冴子の話は彼女とトニーが出会った後、保健室での出来事に移った。
「貴方が石井君に自裁を許した時、私は思ったんだ。」
「…」
「ねぇ、何て?と聞いてくれないか?」
「ふぅ…何て思ったんだ?」
「ふふっ…ありがとう♪…私は思ったんだ、これが恋と言うモノなのかなって?」
いつの間にか<壁ドーン>を止めて、胡坐をかいて向き合う体勢になっていた二人。悪戯っぽくトニーの方へ積極的に語り掛けては、妖婦の様にいじらしい流し目で囁く冴子は、それまでとは外見も話し方も変わっていないにもかかわらず、全く別人のように見えた。それを人は<吹っ切れた>という。
「貴方が石井君に銃を握らせて、引き金を引かせて。実は私が彼の介錯をしようと思っていたんだ。貴方が代わりにしてくれたが、生きた人間を、私はまた殺し損ねたことになる。でもね、嫉妬もフラストレーションも感じてなかったよ。今度は違ったんだ。貴方が居ることの方に興奮してた。貴方が生きた人間に止めを刺す姿や敵を殺す姿を見ていて、夢見心地だった。私を夢心地にしたのも貴方。でも…私を現実に引き戻したのも貴方だった。」
冴子の顔から感情が抜け落ちたかと思えば、頬を染めて、爛漫たる歓喜の感情が彼女を覆った。
「貴方と一緒に死にたくなったのは、石井君に銃を譲ったから…かな。私も自分で自分がよくわからなかった…嫉妬したんだ男の子に。貴方から認められた石井君が羨ましかった。自分の手で止めを刺したかったなんて、酷いだろう?でも、驚くほど妬ましかった。銃になど興味がないが、貴方に自分の存在を認められて、貴方の手から貴方の大切な何かを譲り受ける…これほどに私は嫉妬深い女だったのかと、ハッとしたよ。」
「君なら、俺を傷つけることだって出来ただろう?」
トニーの言葉は事実だった。バスから飛び降りた時、バスを急いで追いかけようとしたトニーを転ばせたのも、一時的とはいえ立ち上がるのを抑制したのも冴子によるものだった。一瞬とは言え冴子に動きを制限されたことは、つまりトニーに対しても通じ得る戦闘技術を彼女が有していることの証左に外ならなかった。しかし冴子はきっぱりと首を振った。
「貴方を、貴方を手に掛けるだなんて…そんなこと考えもしなかった。貴方は私の憧れだったから。たった一度切り、顔も良く見えなくて思い出も血生臭いもの。それでも、男性に助けられたことも初めてだったし、異常な方の自分が親近感を感じる相手なんて、それこそ生まれて初めてだったんだ。ずっと一人ならよかった。壊れてるのは自分一人きり、でも孤独じゃないと知った後で…。初めから孤独なら仕方ない、私は耐えられる。だがっ!孤独になることには、私は耐えられないよ。」
「だから貴方と一緒に、そうだね、死のうとまでは思わなかったのかもしれない。でも、二人一緒なら死んでもいいと思ったよ。このまま気づかれないなら、最期に存分に暴れてから逝くのも悪くないと思った。貴方になら殺されても良い。それに、最初で最期の殺しが<奴ら>に噛まれた貴方なら、それなら生まれて死んだその瞬間まで、私の覚えた肉の感触は貴方のものだけになる。想像しただけで濡れてしまうな…。」
ポッと色づく頬の桜色が眩しい。色白だが健康的な生気を感じる瑞々しい身を抱いて、冴子は歯を噛みしめる様に快感に震えていた。トニーは冴子の想いに対して、何ら不快感は愚か気おくれすらも感じてはいなかった。純粋に誇らしいような気持ちだった。冴子の様な女性が初めてではない…というよりも、トニーは冴子と同等の女性としか交際の経験がない故の余裕或いは慣れだった。
「激しい恋だな。だが、俺を殺してそのあとはどうするつもりだったんだ?自力で死ぬのは案外難しいぞ。」
自分を殺したあと、冴子はどうするつもりだったのだろうか?ふと頭によぎった疑問をトニーは口に出していた。聞かれた冴子は懐を探り、パンツの腰の付け根あたりに差していたものを差し出して見せた。
「ああ、そうだな。でも…私にはコレがあった。」
出てきたモノはトニーが石井かずに譲り、そのまま放置しておいたはずのM49ボディガードだった。シリンダーの中は空。銃身のJフレームもスチールではなくチタンにカスタムされており、口径も357マグナム用に拡大してある代物だ。間違いなく、それはトニー・モンドの愛銃だった。
「…回収したのか?」
トニーが問うと冴子は項垂れるようにこくりと首肯した。
「貴方には悪いと思ったよ。だが、殺されるなら曲がりなりにも貴方の匂いがついたもので死にたかったから…。貴方に殺される、そうして死んでからもしもその先があったらこの事で貴方に叱って貰えるかもしれない…そう思ったら、拾わない手はなかったんだ。それに純粋な嫉妬もあったからね。」
トニーは見聞を終えると冴子に銃を返した。腕を組んで少し深く息を吸う様子を、冴子は恐る恐る見ていた。
「そうか…。」
「叱らないのかい?」
顔を上げたトニーの表情に怒りはなかった。眉毛の描く弧に不満も失望も載せてはいなかった。
「こんな状況下だ、センチメンタルだけで事を乗り越えられないことは理解してる。一時的でも俺は石井君に譲った。その事実だけで充分だ。あとそれはもう俺のじゃない。だから君の持ってる銃は偶然落ちてるのを君が拾ったものだ。叱ったりしないよ。」
「それは、優しいのかな?」
口元を震わせる冴子の表情はぎこちなかった。トニーは横を向きながら格好つけるように言った。
「さあな、恋も矜持も人それぞれだ。まあ恋の場合…危険好きでも普通なら不良に憧れる程度が相場だろう。」
「貴方は優しいんだね。」
「好い女にだけだ。」
柔らかい笑い声が冴子の口から洩れた。冴子の評に、口元をくいッと上げたトニーは満足そうに答えた。
二人で隣あって壁に背中を預けていると冴子が言った。
「…私からも一ついいだろうか?」
「ああ。いいさ。」
「どうしてあの日、あの場所にいてくれたのかな?」
あの場所と言って、二人の間で該当する場所は一つだけだ。トニーは向かいの壁を向いたままで冴子の疑問に訥々と答えた。
「…人殺しは好きでやったわけじゃない。妻が死んで直ぐだったんだ…だから気が立ってた。浩一も家を出て、独りになって。それで久しぶりに家で酒を飲んで酔ってたんだ。煙草とライターを持って、家を出た。体が熱くて暑くて、それで当てどなく夜の散歩に出た。そして…まあ、やっちまったわけだな。」
「…殺さずとも、貴方の技量とコネなら警察に突き出すだけで済んだのではないか?」
自嘲気味に語るトニーに冴子は首を傾げた。すると、トニーは冴子の顔をじいっと見つめて言った。
「…歩いてると、向かいの電柱の近くで君が歩いてた。後姿が死んだあいつに見えて、目の前で男が後ろから君に覆いかぶさったのを見て、それで気がつけば体が動いてた。どっか血管が切れたのかと、そう思うくらいいきなり目の前が真っ赤になって、頭に血が昇った。君の顔を視て、妻じゃないと理解できても、そうしたら今度は冷静なまま男を殴り殺してた。」
「愛情深い人柄は得難いもの…貴方に思われる女性が羨ましい。再婚はしているのかな?」
予想の斜め上の回答に、冴子は内心で狼狽した。だが、同時にその単純な正義感で力を振るった訳ではない…トニーの歪なトコロ…に酷く惹かれた。常ならば口にしないようなことも、今ならするすると口から出て行くようだ。だが、誘いを受けた当のトニーは手を顔の前で振った。ゆるゆると振る手に力は込められていない。だが口ぶりは全く参ったと言う具合だった。そこには満腹の腹を摩るような緩慢な響きが現れていた。
「してない。結婚はもうしないよ。こんなご時世じゃ法的な邪魔も入らない、そもそも…元から俺に誰か一人と一緒になる感覚がしっくりこなかったんだ。まあ、あいつと一緒に暮らした時はただただ穏やかで、悪くなかったな。…もとから、妻とか何とかよりも、家族っていう括りに執着してるもんでね。」
「引く手数多という訳だね。甲斐性は男児の誉れだ。大きければ大きいほど良く、優れた雄の証だと私は思っているよ。」
冴子は今の自分が女豹のような表情をしているとは思ってもみない。彼女は姉の様な包容力で、トニーの在り方を肯定した。ここにはいない南リカがみれば、幾許かの同族嫌悪か、はたまた同門として意気投合したやも知れない。冴子の吐息が湿度を増して色が混じると、トニーは目を瞑り頭を壁に預けた。
「…もう十分だろう。お互い、吐き出したいものは全部。」
トニーの言葉に冴子は頷くほかなかった。
「ああ、そうだな。」
「…」
「なあ…あの、モンドさ…」
沈黙に耐え切れず、早速切り出そうとする冴子に、トニーは待ったをかけた。
「トニーと呼べ。俺は相手を名前で呼ぶ。冴子もそうしろ。」
それは彼なりの承認だった。そしてそれこそが冴子が求めていたものでもあった。
「あ、ああ!承知した、トニー。」
冴子は心底嬉しそうにトニーの名前を呼んだ。
冴子が幸せの余韻にひたっている間に、トニーは倉庫内部のいくつかの段ボールを物色していた。目ぼしいものを見つけたトニーは、戻って来るなりポーっとしていた冴子に声を掛けた。
「よし、話し疲れただろ?そろそろ夕飯にするとしよう。向こうも向こうで楽しくやってる筈だ。俺達の夕飯はこっちだがな…。」
「こんな世の中だから上等なほうではないか。」
段ボール箱の封を剥がすと、中には乾パンとペットボトル入りの水が入っていた。どちらも長期保存向きの、ベストではないがベターな食事である。災害時の為の備蓄が手つかずで残っていたことで二人のモチベーションは上がった。
「そうだな。静香のレーションで使わなかったヒーターがあったな…これを使ってお湯を用意しよう。これからのことは飯を食ってから話す。タオルはあるか?」
「いいや、だがハンカチならある。少し、血で汚れてはいるが。」
「構わん。俺も止血用以外だとポケットタオルしかないんだ。ウェットティッシュはこれからの為にとっておこう。」
「ああ、ここからの道のりは長くなりそうだからな。」
トニーは腰にある二つのポーチの内、弾薬の入っている方とは別の、救急キットなどを入れてある方のポーチからMREのヒーターを取り出して冴子の目の前で揺らして見せた。ウェットティッシュは今後を想定して使わずに手つかずにしておき、ペットボトルの水を少量ヒーターに入れ、水の詰まったペットボトルを二本袋に入れた。
湯が沸くまでの間に冴子は服を脱ごうとした。トニーの目の前で。突然の奇行…特にストリップ関連…には静香で耐性が鍛えられていたトニーは、冴子の生着替えを、彼女のお望み通りにガン見しながら見守った。
「湯が沸いたら全部使っていい。」
「そうか…ならお言葉に甘えて。ふふ、視てくれても構わないぞ。」
「ここで見守ってる。安心して汚れを落とすといい。」
「…そうも見られると照れてしまうな。」
「だろう?…俺は外を警戒しておくから。」
「かたじけない。終わったら呼ぶよ。」
誘惑が失敗に終わった冴子だったが、彼女の表情は爽やかだった。何か春を感じる様な、そんな気安い掛け合い。互いに互いの言葉に思い遣りやウィットを込めて積んでいくような会話。それは冴子にとって本当に欲していた物の一つなのかもしれない。自分自身の欲求を詳しく言語化することは難しい。だからこそ、上手く言い表せない楽しさや温かさが、冴子にとっての誰にも譲れない大事な時間だった。
自分の黒い部分を見せられる相手、それは家族と呼べるかもしれない。そして、トニーは正にそんな存在だった。家族にも言えなかった自分を打ち明け、共有し、通じ合ったことを考えれば、冴子にとってトニーとの関係性は家族と言う括りすら窮屈だと思った。感情と欲求が膨れ上がる。それはこれまでと同じ。だが、そこからが違った。今の世界に冴子を停める者はいないから。