南リカside
アメリカへと向かう機内で私は気がつけば男に自身の連絡先をしたためたメモを手渡していた。今日初めて会ったばかりの男に。
トニー・主水と名乗った彼は誰がどう見ても日本人にも堅気にも見えなかった。
本来ならその類の人間と関わり合いになるなんてまっぴらごめんなのだけれど、私は窓際のシートで眠る彼を一目見て釘付けになってしまった。理由はわからない。強いて言うなら女の勘かしら?
私は相手が眠っていることを慎重に確かめて、それから彼の顔や体に不躾な視線を向けた。舐める様なという表現が適切だった。私はそれくらい夢中で彼を観察していたのだ。眠り続ける彼のことを実に何時間にも渡って観察していた。時間を忘れると言うのは正にこういうことを言うのだと思った。
自分でも驚きつつ、不思議にも感じていた。なぜなら目の前の男性のカオやカラダが私にとって異性の理想像であるとか、万人受けする様な飛び抜けて素晴らしいものだということは、客観的な視点から言って違うと断言できたからだ。
精悍と言うよりも野性味が勝り、浮薄と言うよりも鋭利な印象を受ける顔は整ってはいるが決して世の女性が熱狂するような「イケメン」には該当しないと感じた。だが間違いなく「男前」だと断言できる顔相だろう。
カラダはボディビルダーの様に磨き抜かれて凹凸がはっきりしている訳ではなく。しかし、かといってだらしなく肥満していたり、極端に痩せぎすでもなかった。中肉中背に見えて、その実は敵対者からすれば滲み出るようなプレッシャーを感じるであろう頼もしさがあった。
眠っているのを良いことに、私は彼の腕や足をつついて実際の筋肉の付き具合を確かめてみた。するとどうだろう、鉄塊もかくやというほどに人間離れした密度の筋肉の鎧をまとっていることがたった一度の触診で想起させられた。私は驚き、そして納得した。この頼もしさや、野性味は彼の肉体が動物の雄として極めて優秀であることに起因しているのではないかと。
彼のもつ秘めたる猛々しさは同性にはかなりのプレッシャーを与えることだろう。それほどまでに彼の肉体は常人離れしてる。それらが外見的な特徴として表面的にはわからないことも私に確信を抱かせる上では重要な要素になった。なぜなら、必死に鍛え上げた上での肉体ならばそれこそボディビルダーや精強な軍人のような筋骨隆々の起伏ある肉体として視覚的に表面化するはずだからである。だが彼の体はそうではない。つまり、特別に体を酷似してしぼる必要性がない、もしくはそうしてこなかったから表面化していないのだ。にもかかわらず、彼の肉体は私が今まで見た如何なる異性の肉体よりも遥かに強靭かつ柔軟だった。それはつまり彼がありのままの状態で人間としての常識から逸脱した身体能力を有している、ということを察するに余りある事実だった。
私はそこまでを一息に考えてから、改めて彼の寝顔を盗み見た。成るほど、確かに人間も動物に違いない。私ははっきりとそう思った。動物の雌はより強い雄に惹かれると聞くし、実際今の私はひどく目の前の雄に惹かれている。そのことを裏付ける様に、私の視線は頻りに彼の肉体の上を這い回っていて遠慮が無い。さっきまでほんの物珍しいだけだった外人が、今ではどうしようもなく興味の対象になっていた。好奇心と共にその好奇心に羞恥を覚える純情な感情が自身の中にも在ることを自覚した私は一つため息を吐いた。
そして残りのフライト時間が一時間を切る頃になって、ようやく彼が目を覚ました。私は強気の笑顔を浮かべて彼に声を掛けた。
「Good morning!Mr.Sleepyhead?I am Rika Minami.Let's get along,shall we?(お目覚めかしら、寝坊助さん。私は南リカよ、よろしくね?)」
「え?なんだ?なんだって?あ~…悪いが日本語で頼むぜ。」
私はぽかんと口を開けて固まってしまった。滑稽な表情で固まる私に彼は申し訳なさそうに苦笑して手を出した。
「おはよう。陽気な挨拶をありがとよ。俺はトニー・主水。日本生まれアメリカ育ちでイタリアと日本のハーフだ。あ、因みに英語とイタリア語は話せないからよろしく。ええと…。」
手を差し出したまま戸惑った彼を見て私はどうにか我を取り戻した。
「こちらこそ、すこし偏見が過ぎたみたい。私はリカ、南リカよ。せっかくこうしてお隣さんになったのも何かの縁だと思って、これからはよろしくね?」
「改めて、トニー、トニー・主水だ。こちらこそ、あと…一時間ちょっとの間だがよろしく。」
私が握った彼の手は分厚く、大きく、そして温かかった。私は自身の盛大な勘違いに少し手の平を湿らせていたが、彼のさらさらと乾いて硬い手は私の羞恥心や興奮ごと包み込んでくれたように感じた。少し、自分らしくないなと思う。女々しいような、どこか自分に戸惑ってさえいる。
今まで自分自身のことを常に男よりも強い存在として定義してきたのかもしれない。私は無言の数時間に蓄えた一方的な想いが一度きりの握手で答え合わせをされた様に感じていた。そして続くほんの短い会話だけで、無意識のうちに自分を一介の女性に呼び戻した彼に対して今まで以上に強く惹き付けられてしまった。
アメリカでの観光と勉強を兼ねて、約一週間ほどの日程で動いていた私はこの三日間本来の目的に対して全く身が入らずにいた。
何故なのかはこの際改めて言うまでもない。だが正直に打ち明けてしまえば、私は三日前にターミナルで互いの連絡先を交換することに成功した直後から彼の、トニーのことで頭がいっぱいだったのである。
私が押し付ける様に連絡先を彼に渡したことは、自分自身でもふわふわと浮ついて説明するのが難しい衝動的な行動だった。だがより一層強烈な印象を私に与えたのは、彼が私へと自身の連絡先がしたためられたメモ紙を手渡してきた瞬間である。ぎこちなく笑みをつくったトニーがその私よりも大きく逞しい手で丁寧に二つに折られた紙を両手で持って差し出してきたのだ。
全く望外の喜びを享受した私は、この感覚に深い絶頂にも似た快感を感じてしまった。ほんの数時間前まで全くの赤の他人同士だった私達にとって、私の受け止めている諸々の興奮は私が一方的に感じているに過ぎないことは理解していても。
理解はしても感じたことに嘘は付けない。この時すでに私はこの頼もしくも不器用なトニー・主水という男の虜となっていた。自分の一目惚れに危うささえ感じてしまう。
私は自分で言うのもなんだが情熱的な性分だ。一度火が付いたが最後、自分でも灰になるまで止められるのかわからない。
そんな私が意中の相手からの連絡を待って三日間耐え忍んだことは寧ろ評価するに値するのではないだろうか?
自分に色々な言い訳をしながら、私は彼から掛けてくれるまでは決して触れまいとしていた自身の携帯電話に手を伸ばしかけていた。そして、引いては伸ばし引いては伸ばしを繰り返すこと三度。遂にその時が訪れたのだ。
prrrrr prrrrr
「も、もしもし?」
「リカ、遅くなった。俺だ。」
着信音と同時にテーブルの上の携帯に手を伸ばした。引っ手繰るように掴み、開いた瞬間に前例がないほど滑らかな動きで通話ボタンを押した。少しの緊張と期待で声が震えたけれど、とっさにうるさい胸に手を置いて声を出した。スピーカーの向こうから、夢にまで見た彼の声が聞こえた。ターミナルで分かれた後、彼から掛かってくる電話の第一声はどんなものだろうと何度となく妄想してしまった。一度加速すると止まることが出来なくて、何十種類もの彼の第一声を自分の中で思い浮かべてはどこか違うと、本物が聞きたいと思っていた。
こうして今、実際に彼の声で聞こえてくるスピーカー越しのトニー・主水は私の妄想していたどのトニーよりも遥かに深い納得と感動を私に与えてくれた。これだ、このぶっきらぼうで頼もしい声が聴きたかったのだ。
私は嬉しくなったが、彼の電話の要件が再開の約束を果たすためのお誘いの電話なのか、或いは都合により会えないと言う断りの連絡なのかという不安と期待で表情にこそ出さなかったが今にも泣きだしそうな気持になった。固唾を呑んで待っていると、一向に言葉の出ない私を不審がることもなく、トニーはあのぶっきらぼうで落ち着きのある声で話し始めた。
「なあリカ、こっちの仕事が片付いたから明日にでも一緒に会わないか?今どこにいるのかわからないが、俺は空港からそこまで遠くないホテルに泊まってるんだ。近くに良い雰囲気のシガーバーもあったんだ。そっちに俺が行くのでも構わないんだが。そっちの都合はどうだ?」
「私が貴方の所へいくわ。それと、成人したての私をシガーバーに誘うなんてトニーは意外と押しが強いのかしら?」
「んん?ああ、いやそうじゃないんだ。ただ、飛行機の中で話した時に葉巻に興味があるって言ってただろ?俺も葉巻は好きだし酒はもう飲んだっていうから、なら折角だし堂々と二人で葉巻を楽しめる場所が良いと思ったんだ。俺は食事は正直何でもいいから、リカと合流してから店を選ぼうと思ってな。変な気を張らせたのなら謝る。悪かったよ。」
「ふふふ、そういうことならいいわ。許してあげる。言ってみただけだから気にしないでね?それに…機内での話のことを覚えていてくれて嬉しいわ。予定は問題ないから安心して。明日の夜6時に空港のターミナルで会いましょう?私、楽しみにしてるから。」
「ん、ああ分かった。じゃあまた明日、午後6時にターミナルで。」
ブツッ…ツー…ツー…ツー…
「はぁ~…。」
時間にすれば十分も経っていない。だと言うのに、私は全身を覆う心地よい高揚と疲労に身をまかせてベッドに身を投げた。仰向けに寝転がり、先ほどまで彼とスピーカー越しに繋がっていた自身の左耳に触れた。熱い。
明日、トニーと再会する。三日前に会ったばかりの男性。私よりも背が高く、私よりも逞しい男性。落ち着いていて、ぶっきらぼうな声の男の人。私は明日、彼と会ってどんな時間を過ごすのだろうか。どんなことを話すのだろうか。葉巻を味わってみたい、そのたった一言を彼は覚えていてくれた。私たちはお互いのことを名前以外はほとんど何も知らない。そんな赤の他人に毛が生えた程度の関係値の私が楽しんでくれるように、一緒に楽しめる様にとシガーバーへ行くことを提案してくれたトニーのことを誰もいない部屋で一人考える。
私は自分自身の人間としての在り方に対して明確な意志や覚悟をもってきた。そのことは自負している。自分の魅力だって理解しているつもりだ。私は他よりも十分以上に整った容姿をもって生れて来た。このカラダだって人並み以上に大半の異性にとっては魅力的に映るものだと、これまで自分に言い寄って来た男たちの事を考えれば経験則として理解できる。舐め回すような視線も、これまで何度となくこの身に浴びて来たことなのだ。その事実に、高揚と不快感を同時に感じて来た自身の在り方は決して異端ではないはずだ。
だからこうして今、私は初めてのことに戸惑っている。私はトニーに、彼に自分がどのように視られているのか、そのことが気になってしょうがない。こうして思考の渦にのみ込まれることははっきり言って無意味だと理解している。だけれど、どうしても彼が自分に対して異性としてどんな感情を抱き、どんな評価を下しているのかが無性に気になるのだ。初めての経験にくらくらしそうだ。突拍子の無いことばかりが頭に浮かんだ。
もしも私が突然彼の目の前で裸になったとしたら彼はどんな目で私を視るのだろう。
もしも私が突然彼に胸を押し付けたら彼はどんな反応を魅せてくれるのだろう。
もしも私が突然彼の鼠径部に手を伸ばし、ゆっくりとここを撫で上げたのなら彼の体はどんな匂いを放つのだろう。
もしも…もしも私が彼をベッドに誘ったのならば彼は私を受け入れてくれるのだろう、か…。
耳だけが熱を持っていたはずなのに、気がつけば私は全身に熱を感じていた。顔が、躰が熱くてたまらない。
私はベッドから飛び起きると服を脱ぎ捨てた。それから水分を含んで重たくなった下着を脱ぎ捨ててホテルに備え付けてあったシャワーの栓を開いた。冷たいシャワーが私のカラダを追い立てる様に打った。朝霧が立ち込めるこの季節に冷たいシャワーは体に毒だ。でもそんなことは今の私にはどうでもよかった。頭を躰を冷やさないといけない。そうして明日に向けて決めてしまおう。人間としての覚悟は今まで通り変わらない。ただこれからは「女」としての自分の覚悟を決めるのだ。明日彼と、トニーの顔を見た時に私が私で居られるように。私が私自身の為の選択を迷いなく執れる様に。
きっと、恋は我儘で強引なものなのだ。私は誰のためにでもなく自分の為に恋をしている。だから相手の為であろうと恋をみすみす逃す手はない。自分が恋する相手にすら嫌われる覚悟、それこそが真の意味で互いを愛し合う上での最初の試練を乗り越える為の鍵になるから。
冷たいシャワーが私のカラダから余分な熱を捨てさせてくれた。シャワーの栓を締め、タオルで体を包んだ。鏡の前に立った私の冷えたカラダには心地よい痺れだけが残っていた。こちらを見つめ返すのは我ながら美しい微笑を浮かべる自分の姿だった。