黙示録狂騒満喫譚   作:ヤン・デ・レェ

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DAY1・14「LIGHTER・4」毒島冴子

酷く静かな夜。虫の声も聞こえない夜。外の地獄を低く這う悪臭は何処へやら、段々と肌寒いくらいに空気が澄んできた。下着だけで目を瞑り、瞑想する冴子の瞼がピクリと震えた。鳥肌が立っていた。アーマーベストの上でペシャンと潰した段ボールを枕にして床で仰向けに寝転がっていたトニーが起き上がった。冴子の変化を目敏く見抜いたトニーは、肩が触れ合う距離に座りなおした。空は曇りで月は出ていない。

 

「風邪、ひくなよ。薬も見つかるかわからない。」

 

「人肌で温めてくれないか?」

 

トニーが窘めるように言うと、冴子は当意即妙、弾む声でこれに答えた。トニーは自身の後頭部を掻いて、そのまま手を顔に持ってくると、顔を洗うように今度は両手でごしごしと拭ってから言った。

 

「いいぞ、だが服を着るより俺の方がクサイと思うが。」

 

「それでもだよ、それでも君と触れ合えることの方が何倍も幸せを感じていられるんだ。」

 

いつの間にか冴子は閉じていた瞼を開き、足を延ばして隣に座っていたトニーの横顔をじっと見つめていた。真直ぐに注がれる視線には愛着と恋慕が深く重なり合うような、眩しいものを視る色が透けていた。眼を細めた冴子が手を伸ばすと、そう進まぬうちに分厚い男の胸板に当たった。手の平を捺すように、撫でると直ぐに力が入ったが、直ぐに抜けた。顔を上げて暗闇で目を凝らすとトニーの瞳の潤いが雲の切れ目から注ぐ月の微かな光を反射させてきらきら輝いて見えた。彼が冴子を見つめている。

 

「遠慮も容赦もなくなってきたな、まあ、生き残る上じゃあ好い傾向だ。服を脱ぐから待ってくれ。よし…上に来い、胡坐をかく。」

 

「ああ…ふふ、私にも春が来たのだな…こんなにも他人の体温で心の底から満たされるなんて。」

 

衣擦れの音がして、髪を巻き込んで服を脱いだことで濃い汗と血の香りが鼻を衝いた。目を凝らせば裸の上半身にはあちこちに古傷とは別に、無数の小さなひっかき傷や鬱血の跡があった。血が滲む箇所も少なくなかった。首筋やデコルテから膨らんでいく胸筋の稜線には汗か頭から被った水を吸ったままの衣服の所為か湿っていて、ぼんやりと青白い光を反射しているように見えた。腹筋にうかぶ線は薄いが薄弱では断じてなかった。見る者が見れば寧ろくっきり浮かび上がる6パックより遥かに頼もしい、分厚い筋骨がコルセットで見苦しくない様にぎゅうぎゅう詰めにされた、そんなマントルにまで根を張る大木を思わせる肉体だった。膝に手を置き、足を開く胡坐に座りなおすと、大柄なトニーに後ろから抱えられるような、ちょっとした操縦席のような空間に冴子は身を縮めて納まった。冴子は目を瞑ると、背筋を伸ばして頬や首同士を擦り合わせたり、トニーの顎の下を頭のてっぺんで小突いたりしてじゃれ合った。

 

「他人じゃない…冴子が望むなら、もう家族だ。チームでもあるが…。」

 

「ふふ…貴方はそうやって女子を口説き落としてきたのか?意外と軟派なのだな。」

 

冴子の言葉にトニーは自分にも彼女にも言い聞かせるように返した。冴子は膝の上で頑として動かないトニーの手に自らのものを重ねた。腕と腕、手と手がしっとりと重なると、結びつきが強くなり、互いの体温に沈む様な錯覚を覚える。冴子は無意識にも、吐息をたっぷりと含んだウィスパーボイスでトニーの耳元で言葉を注いだ。挑発する様な、誘惑する様な声だ。

 

「いいや、俺は受身形男子だぞ。ただ、一回懐に入れるとどっちかが死ぬまで夢中んなるだけだ。」

 

「…にしては、亡くなった御夫人とその忘れ形見に意固地だが…いや、それがトニー・モンドたる貴方の矜持なのか。」

 

冴子の表情は楽しそうだった。そして、トニーの表情は安定して真顔だった。だが、言い換えればそれは真剣に冴子に向き合おうとする彼なりの姿勢だった。そんなことは知らない冴子とて、トニーが軽薄でも軟派でもないことは未だに自身の貞操が瑕疵一つないことから十分体感していた。だが、だからこそやっと踏み出せた一歩を確実にしたいという、脆くも強い乙女心が本来色気を意識した経験のない冴子に、無意識に<艶>と<しな>を振舞わせたのだ。

 

「妻に約束した。俺は息子を守る、そして俺の好きに自由に生きる。どっちも大事で、どっちも守れるかもしれない。」

 

「…お供するよ、私も亡き御夫人に恥じぬ細君とならねば…手始めに、そうだな…その、貴方の猛りを鎮めよう。」

 

瞳と瞳を交わらせ、吐息を絡ませながら。冴子はその手を、トニーの(くるる)の軸に伸ばした。が、触れる寸前に冴子のか細い手は、トニーの分厚く温かい手により絡め取られた。緊張していたのか、冴子の手は冷たいように感じた。単純に体温の違いなのか、それともそれ以上に抒情的要素がそうさせたのか…いずれにせよ乙女の勇気にこれ以上の追及は不要だ。

 

「いいや…競合はしないが夜は常に二人きりだ。安全圏に入ったら、な。こんなところで初めては…酔った静香よりも気の毒だ。」

 

「こらこら、私の前で他の女の話をするとは感心しないぞ?私は嫉妬深いのだ。」

 

トニーは意識して口角を上げ、笑顔を作った。ニヒルで気障な笑顔を作ろうとして、出来たのは人懐っこそうにくしゃりとほほ笑む顔だった。眩しそうに笑っているようにも見える。トニーの温かい表情は、冴子を傷つけずに済んだ。適当に流そうとはしなかった。色気に惑わされてだとか、流されてだとか…トニーがもしもそんな輩であれば、冴子は彼への恋慕の情を数年も温め続けたりはしなかっただろう。そして、案の定トニーは岩山の様に揺るがなかった。困らせたいわけじゃない。でもそう言わずにはいられない。だから冴子は口を尖らせる。人はそれを愛ゆえに拗ねると言うが、そのことを彼女に教えてくれる人は現れるのだろうか?

 

「もったいないんだよ…わかってくれ。俺が悪かった。」

 

「実は…私も布団の上が好いと思っていた。」

 

尚も重ねたままの手に力が籠ったままの冴子に苦笑いを浮かべたトニーが、遂に頭を下げた。少しズルいと理解しつつも、彼は縋るように両手で冴子の手を握ったまま、大きな体を小さくして冴子の眼を見つめながら懇願した。冴子の手は直ぐに熱くなって、強い遂行の意志を感じさせた手もふにゃふにゃになり落ち着いた。トニーは時に軟派やもしれない…が、決して軽薄ではない。そこは取り違えていないし、今後も取り違えることは無いだろう。冴子はトニーの両手と視線から逃れるように肩を抱いた。横を向き、逡巡してから胡坐に戻ったトニーに腰を下ろしてから顔を見上げた。言葉は震えていて、眼は潤んでいて頬も赤いままだった。

 

「嬉しかった。ありがとう。でも、無理はしなくていい。」

 

「…女子を辱めるものではない。」

 

トニーは初めてしっかりと冴子の身を抱きしめた。やたらと抱擁を連発してしまうのは、なんだか目と目を合わせることから逃げている気がする。トニーが勝手に考え戒めているだけなのだが、冴子にとってはトニーが自分自身を強く刻み込む様に承認してくれていると感じ、充足感を得ていた。頭を撫でられて、冴子は羞恥心と慕わしさでおかしくなりそうだった。

 

「違うよ…ちゃんと安全な場所まで送り届ける約束をしたばかりだろ?だから、それまでは報酬は貰えない。そういうものなんだ。」

 

「なら…先払いだ。」

 

むすっとした冴子がくるりと腕の中で振り返った。膝立ちになるものだからトニーは足を踏んづけられて動けない。冴子の顔がじりじり近づいて来る。最後の頼みと冴子を閉じ込めていた両手を彼女の肩を制するように置いた。

 

「先払いでも半分だ。」

 

「なら半分だけ……。」

 

冴子は肩を抑える手を、ぬるりと抜けて、その勢いのままトニーに顔を寄せた。ガチッ!と歯が当たることも覚悟していたが、唇にそして舌に滲んできたのは血の味ではなかった。トニーと冴子、二人共に同じ味…夕飯に食べた香ばしい小麦の味…それからどこかで透けるような甘い味だった。砂糖なのかチョコなのか、どちらでも無い何かなのか。冴子には想像もつかなかった。一瞬うっとりとして、それから一拍遅れて肩を掴んだトニーの手が、ゆっくりと二人を引き離した。ちろり。冴子のぬめった舌が帰り際にトニーの唇の重なり合う場所を犯した気がした。トニーは真顔だが、一息、かなり荒く息を吐いた。細く長く。

 

「んッ…ん…。」

 

「…嫌だったか?」

 

冴子の不安げな表情を見てもトニーは怒りも失望も発情も歓喜も見せない。ただ、ゆっくりと息を吐いて、吸って。それからまた吐いて、吸ってを繰り返していた。冴子の表情が曇りそうになる。眉尻が下がりそうになると、トニーの手が伸びて冴子の頭を包むと、彼の親指が彼女の眉を押し上げた。

 

「…俺の周りに、俺からするのを許してくれる女は居たことが無いんでな。いつものことさ。」

 

「くっ…そうか、ならもう一度…。」

 

トニーは思いつく限りで一番情けない、漢らしくないことを正直に打ち明けた。悪びれる様子もなく堂々と言い放つ様に冴子は笑いをかみ殺した。そして手をトニーの胸についた所で、トニーに正面から抱きすくめられた。すっぽり包まれて冴子の動きが停まる。硬直する体をほぐす様な、穏やかなトニーの声が耳元で聞こえた。髪を撫でられるのが心地よくて、冴子は好きだった。

 

「いいや、お預けだ。…明日は早い。体が疲労を持ち越す前に、速く寝た方が良い。」

 

「む……承知した。でも…どこにもいかないでくれ。」

 

トニーの今の顔はどんな感情を浮かべているのかな?失望?肯定?否定?…ほんの僅かな間にぐるぐると頭の中で考えが廻った。今日あったばかりなのに、それ以前に一度会ったきりなのに。だというのに冴子の中でトニーの存在がどうしようもなく根を張っていた。深く深くまでも。トニーの天性の素質か、或いは二人の持つ共通の非凡な本質か、はたまた黙示録の顕現した極限の環境下での運命的偶然の悪戯か…誰の眼にも明らかではないことだ。だが、確かなことが一つ。二人は今日交わした一つの約束に対して、決死の覚悟で臨むということだけは確かなことに数えてもいい筈だ。常識が崩壊した世界に、常識通りの愛の形は存在しない。もしも常識的世界に生きる者が覗けば、この箱庭に渦巻く重たく劇的な情の交感は、何処までも滑稽に映ることだろう。しかし、この終末の箱庭の中にあっての非常識は寧ろ深淵を覗く我々の方である。

 

「いかない。ここに居る。ずっと傍にいるよ。」

 

「トニーおやすみなさい…。」

 

「お休み。冴子。」

 

縋る冴子を強く抱きしめたまま、トニーは一睡もせずに夜を越す。浅くか細い呼気が、深い呼吸に変わると温かい寝息がトニーの胸を敲いた。擽るように身を捩る冴子を、その度に抱えなおして、自分は身じろぎの一つもせずに銃を抱いて朝日を待った。息を殺し、周囲への警戒の為に、研ぎ澄まされた意識の網を張り続けた。女を腕に抱いている、その紛れもない現実こそが、トニーと言う男が手にし得る最大の兵器と呼んで差し支えなかった。自分の女を守る。自分の家族を守る。そのことを意識した時、トニー・モンドは紛れもなく人間の限界を超越することができた。それは彼の意志に関係なく、その肉体と精神にこびりついた本能や本質そのものによって引き起こされる現象だった。金剛石の肉体と精神によって、トニーは気配を完全に殺した臨戦態勢のまま夜を越え、静かな朝を迎えた。

 

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