それまで抑えていた感情が一気に溢れて来た。
涙がとめどなく流れてきて、吐くみたいにえづいて、過呼吸が段々ひどくなる。声はあっという間に掠れて裏返った。寒気がして体が震えた。反射の様に自分で自分の肩を抱いた。
怖かった。
怖かった。
誰も助けてくれなくて。暗くて寒いところで体を乱暴に触られて、胸も揉まれた。快感なんかない。痛くて気持ち悪くて今にも消えてしまいそうなほど心細かった。
自分の無力感に絶望して。それでも嫌で嫌で仕方なかったから、ほとんど体が勝手に抵抗していた。とにかく必死で相手の手を押しのけて、押し返されて、また押しのけて。逃げ場なんてないのに逃げようと藻掻き続けた。
だけど現実は甘くない。例え事実がどうであれ、あの男たちが語った内容を完全に否定できなかった時点で私は自身の肉親に対して絶望したのだ。
震えて、泣き続けていると突然車が止まった。私は顔を上げる気力こそなかったが、トニーさんが私の方を向いてくれていることが何となくわかった。これまでだってこの早熟なカラダが無数の視線を集める所為で、私は人の視線を人一倍敏感に感じ取れるようになってしまっていたから。
車内には私が鼻をすする音だけが響いていた。
「少し聞いてくれるか?君とは全く事情が違うんだが、俺もある意味早熟な方でな。イタリア人の親父の遺伝子なのか、日本人のお袋の遺伝子のお陰なのかは分からない。でも5歳の時からいきなりぐんぐん成長しだして10歳の頃には身長が今より数cm低いだけだったんだ。な?かなりキモイだろ?」
「それから両親が事故で亡くなって7歳の頃にはアメリカで暮らしたんだが、アッチの学校では随分いじめられてな。体が大きくて力が強くたって使い方がわからければ何もできないのと一緒だと学んだよ。俺は今と違って気持ちが弱かったし、なにより日本の当たり前がこっちじゃ弱い者いじめの為の最高のネタだったせいで集中攻撃をくらったんだ。体が頑丈でも心はそうもいかない。しばらく辛い日が続いて、遂に俺は噴火した。」
「それは酷いもんだった。自分を虐めてたやつらと、見て見ぬふりをしてた教師連中をまとめて病院送りにしてやったんだ。俺は人を殴ったってちっとも楽しくなかったし気持ちよくなかった。結局、俺は小学校を飛び出してスラムに屯し始めたんだ。根無し草の天涯孤独だ。死にたくはなかったから生きなくちゃならない。でも生き残るのは大変だった。」
トニーさんが話し始めたのは自分自身の身の上だった。とても信じがたいが、トニーさんは小学生の頃には既に180cmに届いていたらしい。両親を7歳で亡くし、過酷な幼少期を過ごしたという話に少し安堵を覚えた私は酷い人間なのかな。共通点と言えるかわからないけれど、トニーさんは決して恵まれた身の上ではなかったんだと知って、実の親に売られた時に私が感じた絶望感や無力感を思い出す。それから、トニーさんに救われた時の歓喜も。
胸の辺りがきゅうっと痛んだ。
ボロボロだったトニーさんはどうやってここまで生きてこれたのだろう?どうしてそんな境遇から立ち上がれたのだろう?私はとても興味が湧いた。私はもっとトニーさんについて知りたくなった。トニーさんの事を外ならぬトニーさんの口から語って聞かせて欲しかった。
「…それから、どうしたんですか?」
「それからは…少し大人の話になるんだが、大丈夫か?」
「はい。聞きたいです…。」
「OK、それから俺は簡単に言えば不良になったんだ。いや、正確にはアウトロー…法律の向こう側で暮らし始めたというのが正しいな。」
法律の向こう側。そこにはきっと避けては通れない醜いものが山の様にあった筈だ。それを見て、聞いて、嗅いで、味わったトニーさんが、私の目の前で今も優しい穏やかな表情を浮かべてくれているのはどうして?
私は自分がいつのまにか顔を上げてトニーさんの顔を見つめていたことに少し経ってから気がついた。トニーさんは私の視線を受け止めながら続きを紡ぐ。
「結局、俺に酒や薬やらを売り捌いたり人を騙すだなんて器用なことは出来なかったんだ。だから10歳だというのを偽って普通に働きはじめたんだ。その時にはもう今みたいな身形だったから誰にも疑われなかったよ。」
「建築会社の下請けみたいなところで朝から晩まで働いた。十人が並んで横になるだけの場所がベッドルームだったし、食事は量が多かったけど美味しくはなかったな。味も薄かった。トイレも共用で正直屋外の方が清潔なくらいだった。顔が怖いうえに英語もイタリア語もわからないから人とも全く話せない。そのせいで仲間も友達もいなかった。女の子に話すのは憚られるんだが、女性からはよく声を掛けられたな。不思議なことに…未だに謎だよ。」
「人生の転機は些細なことだったんだ。たまたま気が立ってた俺が言いがかりをつけて来た町のギャング達を全員のしちまったのさ。お陰で俺は腕っぷしが買われて用心棒になった。そんでもって、そのうち話題になって個人のボディガードとしても雇われるようになった。それからはあっという間さ、名うてのギャングやらヒットマンを次々に倒した所為でまだ20にも成ってないのにその世界にその人ありと言われるように迄なってた。」
「アメリカの大統領だって俺に守られて演説に行ったり、家族とバカンスに行ったんだぜ?すごいもんだろ。やりたくて始めた訳じゃなかったが、「ひょん」なことから気がつけば一角の人間になってた。金も山ほど稼いだ。女にもモテた。…いや、金が無い頃から変わってないな。そこは。」
「金が出来てから病院に行くと、俺は脳に問題があるらしい。日本語は問題ないんだが、他の言語がからっきしなのはその所為じゃないかって俺は医者に聴いたんだが、医者もわからんらしくて俺の体は脳みその方も早熟すぎて、色々追いついてないんだとよ。医者の言う事も八分目だなと思ったよ。そんで、少し働きすぎて疲れた俺は生まれ故郷の日本で暮らし始めたって訳だ。結婚して子供もいて、でものんびりする暇もなく心を患った嫁を看病して息子を育てて…俺、意外と頑張ったんだぜ?似合わないだろ?」
「数年前に嫁が死んで、息子も家を出て。仕事を受けて海外に飛んだり。たまに人を守ったり。暇したり。そして今はこうして今日初めて会った女の子に自分の半生を掻い摘んで語ってみたり…で、美玖は俺の話を聞いてみてどう思った?」
トニーさんの人生は壮絶の一言だった。そして、物語よりも尚物語のようだった。身一つで成り上がり、人を愛し、人を育てる。別れを経験し、新たな出会いを結ぶ。そのどれもが私には余りにも眩しく見えた。でも最初から最後まで私が感じたことは変わらない。トニーさんはきっと誰よりも強い人なのだと、そう思った。だから、私はそのままを伝えることにした。
「トニーさんは、きっと誰よりも強い人なんです。だから、大変だったこともいっぱいあった自分の人生のことを、そんなに楽しそうに私に語って聞かせてくれたんだと…そう私は思いました。」
トニーさんは頷いた。そして、私の目をしっかりと見つめ返しながら言った。
「美玖はきっと、その生まれ持った色んなしがらみの所為で苦労してきたことだろう。でも、本当に、美玖の人生が最悪のものだと初めから決まっていたのだとしたら。今頃俺とこうして話すこともなかっただろう。美玖はあの時に声を上げず。俺たちは出会わずに人生を終えていただろう。」
「だが、現実は違った。絶対はないが奇跡は常に起き得るんだ。そして、美玖と俺は出会えた。何の因果か、俺は美玖を助けて今はこうして話をしてる。これは、もとはと言えば美玖があの時叫んだからだ。あの時の美玖の声が、俺と美玖を繋いだんだ。美玖は自分の人生を自分で切り開いたんだ。美玖は自分の人生を生きるために、自力で自分の運命を変えた。俺はそれを必然とは呼ばない。きっと幾つもの可能性の中から、偶然にも美玖は自分にとって少しはマシな選択肢を掴み取ったんだろう。」
トニーさんは私の瞳を強く覗き込んでいる。そして、私の中に直接語り掛ける様にゆっくりと、でも強く強く言葉を投げかけた。
「美玖の人生はこれからだ。俺の人生だってまだまだこれからだ。俺は早熟な分苦労もしたが、それ以上に人生を楽しんでるぞ。どんな状況でも楽しめるまで、俺が傍にいて守ってやる。だからもう泣かなくていい。お前を縛るものがあれば俺が何とかしてやる。」
「自由になれ。俺は死んだ妻と約束したぞ、自由に生きるって。」
「美玖の言う通り俺は強い。だから俺は俺が助けたいやつだけを助けて、俺が守りたい奴だけを守るだけの力がある。」
「その俺が美玖、お前の拾った偶然が数ある中で最高の選択だったってことを証明する。お前を守ってやる。喜べ、普通なら俺の依頼は10万ドルが最低ラインなんだ。そんな俺がタダで中坊の専属ボディガードをやるなんざ、世界広しといえどもお前一人だけだぜ?ヤクザの事だが…まあ心配には及ばんとしか言えんな。安心できるがわからんが、デルタフォースの急襲を受けても俺は死ななかったぞ。」
「この際俺はお前の全部を貰うことにした。俺も鈍感じゃない。リカの時にもうこういうのには吹っ切れた。全員貰うぞ!俺は!こう見えて俺は無類の女好きなんでな。お前みたいなイイ女を俺以外の奴に譲れるほど俺は錆びちゃいない。まあ、今のお前はちと若すぎるがな。」
トニーさんは「落ち着いたか?」と言って一度話を切った。
その時にはもう、私はただただ全身が熱かった。どうしようもなく熱くて、顔からは今にも火が吹き出そうだった。羞恥心だったり、安堵だったり。色々な感情がごちゃ混ぜになっていて整理できない。バラバラの気持ち。でもそれが行きつく先は一つだけだった。
停まっていた車がまた動き出す。慣性の法則で前のめりになっていた私の体は後ろに倒される。高級なのが一目でわかる外車の左ハンドルを握るトニーさんは様になっていた。カッコいいなぁ…。
「少し寝ててもいいぞ。」
トニーさんはバックミラーに映った私の眠そうな顔をチラリと視て言った。彼にはたったそれだけでお見通しなのだ。私はトニーさんの言葉を有難く受け取り、シートベルトを外して体を優しく受け止めてくれる広くて快適な後部座席に身を横たえた。少し足を曲げて、深い水の中に沈むような感覚と共に意識を手放した。
眠りに落ちる瞬間に私は小さく口を動かして見せた。ミラー越しには彼がどんな顔をしているのか見えないだろう。でも、たぶん私の為に優しいため息をついてくれるかもしれない。そう思って、ほんの少しイタズラをした。
「トニーさんならイイよ。」
きっとトニーさんは私の気持ちを受け止めて、呑み込んでくれる。だから隠さない。今日初めて会ったとか、そんなことは関係ない。
私はすっかり無防備な状態で、少しの間寝息を立てた。
次に起きた時には、寝る前には掛かってなかったブランケットが体にかかっていた。
トニーさんは前を向いたまま、私に小さく「おはよう。」と言った。