アイデアというかリクエスト消化
楽しかった
──────向日葵が枯れる夏の終わり、ある喫茶店で本を読んでいた時のことだ。
人気の無い喫茶店で、二人の女性がテーブルで向き合っている。片方の女性は橙のかかった赤毛で、活動的な顔立ちをしている。片方の女性は小柄で茶のかかった赤毛で、自身無さげに俯いている。
彼女達はコーヒーを飲みながら何か話し合っている。
「…………それで、最近どう、ゴッホ先生?」
「…………えと、すみません、調子が悪くて…………」
「そっか、それは残念。まあ、そういう時はあるよね」
「…………エヘヘ、すみません…………」
どうやら、俯いている女性は何かの作家らしい。なら、元気そうな彼女は担当編集か何かだろうか。口ぶりからするに、かなり親しそうだ。
「…………無理せず、ゆっくりと調子を取り戻してくれたら嬉しいな。大丈夫、いつまでも待ってるから…………」
「はい…………」
どうやら、作家(おそらく)さんの方はスランプのようだ。編集さん(多分)の方が優しく宥めてる辺り、人気の作家さんなのだろうか。
好奇心から彼女達を見ていると、編集さんが席を立って作家さんを抱きしめていた。
はて、作家と編集というものはあんなに距離が近いものなのだろうか…………
そう思いながらコーヒーを飲んでいると、いつのまにか編集さんが元の席に戻ってる。
「それじゃ、気を取り直してコーヒーでも飲もうか! ここのコーヒー、美味しいんだよ?」
確かに、この喫茶店のコーヒーは美味い。
「エヘヘ、楽しみです…………すみません、奢ってもらっちゃって…………」
「良いって良いって。私が好きでやってるんだし」
「はい…………」
楽しみという割には、作家さんの顔は暗い。一体何があったのだろうか。
まあ、所詮他人だ。気にすることはない。そう思って、読書に戻る。
読書を終えると、辺りはすっかり暗くなっていた。
周りを見渡すと、二人は店から消えていた。ちょっと印象に残る人達だったな、と思いながら私も帰路に着いた。
「はぁ…………どうしましょうか…………」
わたしの名前はゴッホ。本名は別にあるのだが、どうでもいい。わたしをわたしと定義するのはこの
さて、そんなわたしには一つの悩みがある。
わたしは画家だ。ゴッホの名の通りに。…………そんなに売れてないけど。とにかく、絵を描くことを生業にしてる。…………してるのだけど。
「やっぱり、描けません…………」
そう、描けない。理由はわからない。鉛筆を持っても、絵筆を持っても、手は動かない。動いても、意味のない線を描くだけだ。
「…………でも、描かないと」
それでも、わたしは手を動かし続ける。ゴッホは手を止めないのだから。
翌日。
やっぱり、絵は描けない。意味のない線だけが積み上がっていく。
それでも、まだ。
翌日。
意味のない線だけが積み上がったモノが出来た。そこそこの値で絵として売れた。よかった。
…………こんなもの、わたしの絵と呼びたくない。
翌日。
腕は動かない。それでもわたしは、絵を描き続ける。
翌日。
意味のない線だけが積み上がったモノが出来ていく。そこそこの値で絵として売れる。
…………こんな、絵ですらないものに。心が、ひび割れる音がした。
翌日。
ただ線を描く。
翌日。
ただ線を描く。
翌日。
ただ線を描く。
翌日。
ただ線を描く。
翌日。
ただ線を描く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線を書く。
翌日。
ただ線をかく。
翌日。
ただ線をかく。
翌日。
ただ線をかく。
翌日。
ただ、せんを、かく。
翌日。
…………………………
ある日。
ついに、腕が止まった。もう、線をかくことすら出来ない。
「…………エヘヘ…………」
笑うことしかできない。わたしは、どうすれば良いのだろうか。積み上げてきたはずのものは、崩れて無くなってしまった。
筆を動かそうとしても、ピクリとも動かない。
「…………わたしにこの名はふさわしくないのでしょうか。愚かな小娘の夢だったのでしょうか」
わたしが名前を借りたかの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、精神に変調を来たし、精神病院代わりの修道院に入れられたという。
しかし、それでも彼は筆を止めなかった。
サン・ポール・ド・モーゾール修道院で描かれた糸杉の絵、『星月夜』は、多くの人々を魅了した。彼は狂った精神の中でさえ、素晴らしい絵を生み出し続けた。
それに比べてわたしはどうだ。
一応、画家として生活出来てはいるだろう。それだけだ。それ以外は彼に遠く及ばない。
現に今、わたしの腕は絵を描こうとしない。彼は狂気の中でさえ描き続けたのに。
「…………絵すら描けないわたしは、だれ」
名前を借りた理由なんて忘れてしまった。ただ、どうしようもなくこの名前が好きだった。本当の名前より。この名前に相応しくあろうとしていた。
でも。
絵を描けないわたしにゴッホの名前はもはや相応しくなく。自分の名前を捨ててしまった名無しの小娘にはもう名乗るべき名前がない。
名前とは自分を定義するラベルだ。それを無くしてしまうことは、自己の喪失に等しい。
「……………………ぅ」
静かな嗚咽が漏れる。
わたしはだれ。もう何も出来ない無能の愚図はどうすれば良いの。
独り部屋の中で泣き、ある結論に至る。
「…………愚図は愚図なりに、迷惑をかけないようにしないと…………」
キャンバスを片付ける。
画材を纏めて、ゴミ袋に入れる。今日は確か、燃えるゴミの日。よく燃えるだろう。資料も全部、纏めて縛って資源ゴミ。絵筆も捨てないと。
わたしという痕跡を消す中、一つの絵筆が目に止まる。
「…………これは…………」
その絵筆は、わたしの愛用の品で、わたしのファンが贈ってくれたものだ。数年前、わたしを見つけた最初のファン。
名前を、立香。明るい女性で、いつもわたしを支えてくれた。わたしの絵をいつも褒めてくれるし、役立つ批評もしてくれた。それに、わたしが欲しいものをいつもくれた。そういえば、彼女にしばらく会っていない。
…………この絵筆は、捨てられない。返しに行かないと。
そんな建前で、最後に彼女に会いに行くことにした。
全ての痕跡を処分し、ゴミ捨て場に出した後、わたしの部屋は──────空っぽだった。
「…………これで、空っぽですね、エヘヘ…………」
わたしの痕跡を示すものは立香の絵筆以外何もない。何もかもをゴミ箱に放り捨ててしまった。
空っぽの女は、最後の痕跡を貴女に返して消えることにします。
「…………今、行きます…………」
朝。
仕事に行く時間なので用意してた時、ベルが鳴る。
こんな忙しい時間に誰だろ、と少し苛立ちながら見てみると、ゴッホちゃんがいた。しばらく振りだ。
「…………ゴッホちゃん?」
「…………はい…………その、少し時間をお借りしても良いでしょうか…………エヘヘ…………」
「…………わかった。ちょっと玄関で待ってて」
ただならぬ様子のゴッホちゃんに、何かあると思い、急いで会社に休みの連絡を取る。幸い、普段真面目にやってることもあり、すんなり休みが取れた。
「ゴッホちゃん、入っていいよ」
「はい、失礼します…………」
ゴッホちゃんは私が好きな画家だ。ある時見かけた絵に見惚れて、買ったのが出会いのきっかけだ。以来、ちょくちょく会っている。そういえば、最近は会っていないような。確か、喫茶店でお茶したのが最後だっけ?
「えっと、どうしたの、ゴッホちゃん?」
「…………今日は、返すものがあって来ました…………すぐに帰るので…………」
「返すもの?」
はて、ゴッホちゃんに何か貸してたっけ。
そう思っていると、ゴッホちゃんに見覚えのある絵筆を渡される。絵筆は使い込まれているけど、ちゃんと手入れされていることがわかる。
「これって…………」
「はい。立香、貴女がわたしに贈ってくれた絵筆です」
「そう、だよね。なんで私にこれを?」
これは昔、ゴッホちゃんの誕生日か何かに贈ったはずの筆だ。贈ったモノだから、返さなくても良いのだけど。
なんだか嫌な予感がする。
「…………もう、わたしはゴッホでは無いのです。わたしは名前を無くしてしまったのです…………」
「それって、どういう…………」
「わたしの腕は、もう動かないのです……………………絵は、描けなくなったのです……………………もう、ゴッホとは呼べないのです……………………」
その言葉を聞いて、後悔した。調子が悪いとは言っていたけど、ここまで追い詰められていたなんて。私は何をやっていたんだ。もっと早く彼女に会っていれば。
「だからって、これを返さなくても…………」
「…………もう、わたしは絵を描けないので…………それに、もうこの絵筆以外のものは全部、捨ててしまいましたから…………」
「……………………え?」
頭が真っ白になる。呆けて何も考えられなくなる。ぜんぶ、捨てた? あのゴッホちゃんが?
「…………では、失礼しますね…………最期に会えて、良かった…………」
「あ、待っ──────」
ゴッホちゃんを止めようとするけど、言葉が出ない。そのまま、ゴッホちゃんは出て行ってしまった。
「…………………………」
残された絵筆を眺める。後悔に囚われ、動けなくなる。
どれほどそうしていただろうか。ふと、視界に何かが映る。
「あ……………………」
それは、絵だった。ゴッホちゃんが最初に描いた絵。私とゴッホちゃんが出会った絵。
大きな向日葵が咲く、夏の絵だ。
「…………行かないと」
気づいたら、駆け出していた。
わたしを構成するものは、全部無くなってしまった。
正真正銘、空っぽだ。
そんな空っぽの女が最後に望んだのは──────向日葵だった。
「懐かしいですね…………」
町外れにある大きな向日葵畑。そこにわたしは来ていた。この向日葵畑はわたしの絵の原点だ。
これを捕らえたいと思ったから、わたしは絵を描いた。…………もうどうでもいい話だが。
夜の向日葵畑を眺める。太陽が無くなった向日葵達は元気がない。まるで、わたしのよう──────いや、空っぽのわたしには関係ないことだ。
「じゃあ、いきましょう。愚図は愚図なりに、するべきことをしなければ」
不思議と不安はない。家から持ち出したナイフを取り出す。
「拳銃ではないですが…………いえ、関係ありませんね」
もう誰でもないわたしにはゴッホもただの他人だ。ナイフを首に当てる
「……………………立香」
最後に頭に浮かぶのは、わたしの最初のファンだった、立香の顔だ。
「──────さようなら」
「──────呼んだ?」
「……………………え?」
腕を掴まれる。首を狙ったはずのナイフは、微塵も動かなかった。
この声の持ち主を知っている。それは、わたしが会いたかった人。
「…………なんで、ここに」
「そりゃ、君のファンだからね」
立香が、いた。
「全くもう、全部捨てちゃうなんて。おかげで、回収するの大変だったんだからね?」
「はい…………すみません…………」
夜の向日葵畑で、わたしと立香は向き合っていた。
立香の手には、わたしが捨てたはずの画材達が握られていた。
「事情を説明して、どうにか回収出来たけど…………」
「…………なんで回収を?」
「そりゃ、君の絵が見たいし」
ある意味予想通りの返答に苦笑する。
でも。
「…………わたしは、もう…………」
絵を描けない。道具があっても、描くことはきっとできない。
「別にそれでも良いよ。今描けなくても、いつか描けるようになってくれたら。…………だから、自殺なんてやめて」
そういう彼女の顔はあっけからんとしてて、自殺を止めたとは思えないほどの軽さだ。
「…………なんで」
だから、つい疑問が漏れ出る。
「ん?」
「なんで、そこまでわたしに…………」
なんで立香はここまでわたしにしてくれるのだろう。
「んー…………そうだなぁ」
「わっ…………」
立香にいきなり抱き締められる。
「君の絵が好きなのもあるけど…………同じくらい君のことが好きだから、かな?」
「…………へ?」
予想外の返答に立香の顔を見ようとするも、強く抱き締められて見れない。
「だーめ。恥ずかしいから顔見ないで」
そう言われると、逆らえない。
「…………別にこれが惚れた理由! とかはないよ。ただ、君と一緒にいたいんだ。ずっと君の描いた絵を見て、君と一緒に笑っていたい。…………だから、君がいなくなるのは嫌だ」
「絵が描けないっていうのは残念だけど、それでも良いんだ。君と、一緒にいることが出来たら。…………クリュティエちゃん」
──────それは、捨てたはずのわたしの名前だった。辛い記憶と共にあるが故に捨てた名前。それでも、わたしの名前だ。もう最初のファンである、立香くらいしか知らない名前だ。
「…………………………ぁ」
涙が出る。名無しの小娘に名前が戻る。それが辛い記憶を呼び起こすとしても、わたしを見つけてくれた嬉しさが上回る。
「…………わたしは、名乗って良いのでしょうか、自分が捨てた名前を。名乗って良いのでしょうか、相応しくない名前を」
「大丈夫。例え君が落としても、私が拾って君に返すよ。だから、君の好きな名前を使って」
その言葉に安心する。わたしは名乗って良いのだと。わたしは空っぽではないのだと。
「わたしは…………わたしはクリュティエ。…………そして、わたしはゴッホ。どっちも、わたしの名前。…………エヘヘ、欲張りですかね?」
「ううん、全然。良い名前だよ、どっちも。…………ところで、さ」
「?」
「さっきの返事、もらえるかな」
そういえば、わたしは立香に告白されたのだった。
胸に聞いてみる。
返事はすぐに決まった。
「はい、もちろん──────」
──────向日葵が咲き始める、夏の始まり、ある喫茶店で本を読んでいた時のことだ。
人気のない喫茶店に、見覚えのある二人の女性がいた。いつぞやの作家さん? と編集さん? の二人だ。
しかし、この前見た時と雰囲気が違う気がする。
「この前の新作、凄く良かったよ、ゴッホちゃん!」
「エヘヘ…………ゴッホも自慢できる、会心の一作でした…………」
どうやら、作家さんはスランプから抜けたらしい。編集さんも喜んでいるようだ。
「ここのコーヒー、美味しいですね…………」
「でしょー? 私も時々このコーヒー目当てで来るんだよねー」
うむ。ここのコーヒーは美味いのだ。
しばらく眺めていると、コーヒーを飲み終えたのか二人が立つ。
「今度は、この前のお礼に、ゴッホが奢りますね…………」
「うん! ありがとう、ゴッホちゃん!」
会計を終えて、二人が店から出て行く。
二人は手を繋いでいて、その後ろ姿は──────とても、眩しかった。
ある、夏の日の話だ。
強火ファンぐだ子