休日の朝。カロスの都市の一画、一人暮らし用のアパートの一室。
いつもよりやや遅く、太陽の暖かい日差しがカーテン越しに届いてくる頃までうたた寝をしてから、その部屋の主のインテレオンは目を覚ました。
今は冬の最中。分厚い毛布から少しばかりの欠伸をしながら体を起こし、まずはいつも通りの日課をこなす。
椅子が二つあるテーブル。時折部屋に訪れる友達以上恋人未満の異性は今は居らず、静かな部屋の中。
顔を洗うと、まずは片手鍋を手に取り、冷蔵庫の中のモーモーミルクを温め始めた。
朝食は昨日買ったパンとジャム、それと木の実を幾つか。それからホットミルク。
そのモーモーミルクをとろ火でゆっくりと温めている間にカーテンを開けると、眩しい日差しと共に、部屋の中に散っている埃が少しばかり舞い上がっていくのが目にとれた。
それから窓を開けると、途端に冬場の乾燥した凍てつく空気が刺すように入ってくる。その風に目を細めながら、金柵に丸められて挟まれている新聞を手に取り、すぐに窓を閉めた。
歩きながら新聞を開き、ぱらぱらとめくる。各ページの表題を眺めれば、またガラル……自分の生まれ故郷がカロスに挑発するような事をしたとの見出しが入ってきた。
無言で溜息を吐く。
……また、住み辛くなる。
新聞ごとコンロに投げ捨てて燃やしたくなる衝動を抑えて、温まってきたミルクをコップに移した。
朝食を食べ終え、今日もまた腹立つような事が書かれている新聞を最後まで読むと、再び溜息を吐いてから冷たい水で食器を洗う。
すっかり冷たくなった手をセントラルヒーティングの暖房器具で温め直す。
それから、外出の準備をする。
人より頑強な体をしているとは言え、流石に冬の乾いた空気の中をそのままで歩くのはタイプ的にも厳しい。
コートを羽織ってから、小さい鞄の中にお金を少しと本を一冊、それからアパートの鍵を追加で入れる。忘れ物などをしていないか、また体の調子を再度確認してから、外に出て鍵を閉める。
階段を降りて、郵便受けを確認して、空っぽである事を確認してから通りに出た。
休日は喫茶店で本を読むのが趣味だ。
とは言え、表通りの開けた、広くて洒落ているような喫茶店に訪れる事はしない。このカロスと緊張状態にあるガラルの出身であり、その中でも各地にてエージェントとして過去から活動してきた歴史のあるインテレオンという種族は、外に出るだけでも石を投げられるような事もあった。
そうでなくても白い目で見られる事は日常茶飯事で、目立つ場所には、一匹だけでは極力行かないように心掛けていた。
住んでいるアパートも裏路地に入った、少しばかり治安の悪いような場所だったりする。
その裏路地の入り組んだ細い道をするすると通って行く。表通りには出ないまま、怪しい店だったり、素性の怪しい人や、誇れるような仕事をしていないポケモンが屯している場所もさっと通り抜けて、また別の表通りに近い路地裏にまで辿り着く。
そこに、一見するとただの民家のような風貌を見せている喫茶店が、表にメニューも出さずにこぢんまりと開いている。
からんころんと目立ちながらも静かな響きを醸すドアベルを鳴らしながら中に入ると、こぢんまりとした店内で、数える程度の客が静かにそれぞれの時間を過ごしていた。
インテレオンという異質な客にも、ここのマスターや客は特に何も口を挟む事も、行動で示してくる事もない。
ポケモンも人間も誰もが注文以外で口を開く事なく、黙々とそれぞれの時間を過ごしている、静謐とまで言えるような、厳かな雰囲気。
しかし、決して堅苦しい空気が流れている訳ではない。
ほっと温かい店内。磨き上げられた硝子に灯る暖色の明かり。湯が静かに沸き立つ音。丁寧に淹れられる珈琲、紅茶の香り。時折混じる、カップとソーサーの硬質な響き。ショーケースには近くのパティスリーから仕入れられてきたであろう各種ケーキと焼き菓子が華やかにしつつも、この空間に合うように落ち着きも伴いながら並べ立てられている。
賑やかな場所を好む者にとってはとても居られない場所だろうが、静かな雰囲気を好む者同士が集まって作り上げているこの空間は、それぞれにとってとても落ち着く、理想的な喫茶店であった。
コートを脱いで壁のハンガーに吊るし、カウンターの端に座る。隅々まで掃除が行き届いている店内は、手の行き届きにくい場所に指を滑らせても埃が触れる事はない。
後ろの黒板に、流暢な字で今日の日替わりのメニューが書かれている。
「今日の紅茶と……タポルの焼菓子を下さい」
ガラルでも見かける事の少ない珍しい紅茶。特別好みという訳でもないが、あったら多少値段が張ろうとも、つい頼んでしまう魅力があった。
「かしこまりました。少々お待ちを」
「はい」
そうして本を取り出す。
背筋を軽く伸ばし、太く長い尻尾を椅子の足に巻き付けて、栞を挟まれているページを開いた。
裏路地には、多種多様な店が多く存在している。
夜になったらパブに変身するような荒くれ者が集いながらも不思議と居心地の良い店から、このように整った空間でひたすらに上質な時間を過ごす店まで。
裏の世界にでも精通してそうな程に価値のありそうな骨董品ばかりが並んでいる雑貨屋から、絶大な効果を代償に絶大な苦味を伴う漢方の店まで。
常連客しか入らず余所者を受け付けないような食事処から、べたついたテーブルと驚く程に不味い珈琲が出迎える喫茶店まで。
歩くにはそれなりの心得が必要だが、それさえ身につけてしまえば、余所者にとっては表通りの煌びやかさに興味がなくなる程に心地良い場所となる。
本のページを幾つかめくった後にマスターが動いたのが視界の隅で見え、本を一度閉じる。
上質である主張をしながらも、質素な佇まいを崩さないティーカップに紅茶がなみなみと注がれる。
そのティーポッドも隣に静かに置かれると、保温の為の分厚いティーコージーを被せられた。何とはなしに家庭的な刺繍を宛てがわれたそれに触れてみると、優しさを感じさせるような厚さと柔らかさがあった。インテレオンの両親は優しさとは無縁のような存在ではあったが、もし柔和な家庭に生まれていたら、きっと私はこの感触に通じるような愛情を身に受けていたのだろうと思った。
そんな事を思った自分に、インテレオンは思わず息を吐いた。
それから頼んだ複数枚のタポルの焼菓子が皿に並べられて手前に置かれ、最後に伝票が伏せて置かれる。
表通りの賑わいを見せる上品な喫茶店とそう変わらない値段がそこには記されているが、余所者である事を問わずにただの客として振る舞いながら、気品を伴いながらも落ち着ける空間でゆったりとした時間を過ごせるのならば、インテレオンにとっては十二分に支払える金額であった。
ティーカップを摘んで一口。焼菓子を一枚口に運ぶ。独特な香りと、複雑な渋み。カリッと心地良い食感の中から、ねっとりとした甘味。
目を閉じてそれらを味わった後、本を開き直す。
片肘をついて、少しリラックスした姿勢で本を読み始める。時折、無意識のように紅茶を口に運び、焼菓子を食べる。僅かに口周りについた粉を舐めとる。
傍から見れば、その読書に没頭している姿はとても絵になるようで。
時折訪れるミステリアスな風貌のインテレオンは、この喫茶店において密かに噂になっていた。
けれども客はそう強く長居する事なく、静かに入れ替わって行く。
からんころんとドアベルが鳴る度に、僅かながらに冷たい風が中に入ってくる。しかしながら、それはまた空気が淀むのを防いでくれているようで、居心地の良さは変わらない。
昼時が近付いてくれば、軽食を頼む人もぼちぼちと。マスターに続いてもう一人のウェイターが狭い厨房の中で軽い調理を始めて、音に少しばかりの賑やかさが混じり始める。
インテレオンも、ティーコージーに包まれようともすっかり冷めて渋みの増した紅茶を飲み干せば、そろそろ会計をしようかと、集中を解く。
顔を上げて、からんころんとまた音が。
新しい客はゲッコウガだった。良く親しくしているどころか、共に出かけたり、時に交わる事もある程に親密な間柄の彼だった。
目と目が合う。それぞれが軽く手を振りゲッコウガが隣に座ってきた。
入れ替わりに客がまた出て行く中、ゲッコウガが小声で言った。
「奇遇だな。いや、出るところだったか? 悪いな」
「いえいえ。それなら昼もここで食べていくわ」
メニューを見る。キッシュか、サンドイッチか。
「すみません、サンドイッチ下さい。飲み物は……それ、何だ?」
「今日の紅茶」
「それで」
「じゃあ、私はキッシュで。飲み物は……オレンジジュースで」
飲み物としては、複雑な渋味と香りの後はそれまた複雑な味と香りより、シンプルな甘味が欲しかった。
それぞれ頼み終えると、ゲッコウガは肘を着く。どこからか知恵の輪を取り出したが、金属音が響いてしまって止めると、どことなく手持ち無沙汰にしていた。
ゲッコウガはここまで静かであることを強いるような空間を好む性格でもなかった。もう少し、談笑出来るような場所の方が好きなはずだ。
……奇遇って、見え見えの嘘を吐いちゃって。
きっと、私がここに入るのを見て、悩んだりした末に入ってきたのだろう。
そう思いながらも、けれど自分に似合わない場所でも努力して合わせようとしている姿は、少しばかり滑稽ながらも微笑ましかった。
程なくしてサンドイッチとキッシュがやってくる。
ゲッコウガなら一口で食べ切ってしまいそうなそれが四つ。値段の割には少ないといった表情が一瞬顔に露骨に現れていた、が口に運べば。
「お、美味い」
思わず口に出していた。そんな様子を見ながら食べるキッシュは、いつもより美味しかった。
外に出ると、容赦ない空っ風が二匹を撫でて行く。
共にコートを着ていても隙間から入ってくる風が体を震わせる。
「うー、寒。まあ、半年に一回くらいは来て良い店だな」
初めて来た事を明らかにするその言葉は、奇遇だなという言葉が嘘であるという事を既に隠していない。
インテレオンも気にせずに返す。
「少しは気に入って貰えたようで。それで、これからどうする?」
「いやー、何にも考えてない」
「あ、そう言えば。貴方の知恵の輪、どこで買ったの? 見かけない形だったから」
「ああ、知り合いに売れない発明家が居てな。そいつの手製の代物だ」
「他にあったりする?」
「そいつは気難しくてちょっと直には会えないが、俺の部屋にはもう幾つかあるな。来るか?」
「ええ、そうするわ」
そうして、同じ方向へと歩いていった。
*
日も暮れる頃。どれだけこねくり回しても中々に解けない知恵の輪に双方くたびれ果て、和む雰囲気にも、盛る雰囲気にもならないまま、その日は解散となった。
「送ろうか?」
「嬉しいけど、私、守られるばかりのか弱い女じゃないわ。ゆっくり休んでなさいな」
「そりゃ、言葉に甘えて」
そうしてゲッコウガのアパートを出た。
夕暮れの静まろうという雰囲気が裏路地を包み込んでいく中、さっと夕飯の買い物に寄り道をしてアパートにまで何事もなく辿り着く。
郵便受けを確認し、中には手紙が一枚だけ。
開いてみれば、今年は燃料が値上がりしたから、家賃が少し高くなるとの旨が書いてあった。
溜息を吐きながら階段を上り、ドアの前へ。
開ける前に、ドアの上下を見た。誰も入ろうとした痕跡はない。
鍵を開けて中に入る。荒らされた形跡は見当たらない。家具や小物の位置から、ベッドの寝具の皺、カーテンのよれ具合まで、今朝しっかり記憶した通りに変わったところはない。
「何も、なし、と」
再び溜息を吐いた。
インテレオンはスパイだった。
とは言え、何かの破壊工作をした事などは一度もない。ただただカロスに住んで働き、時折、秘密の発信機を使って、足を稼いで体で感じたカロスの実情を同じカロスに居るどこかの誰かに送っているだけ。
ただ、それだけ。
それ以外に何もしていない。何も命令が届く事はない。誰からも褒められる事も、貶される事もない。
木端過ぎるスパイ活動を、もう五年は続けていた。
明かりを付け、簡単に夕飯を食べる。
一匹ばかりのアパートの中。黙々と食べながら、今日の出来事を振り返る。
あの喫茶店は、やや離れた場所にある、カロスにとって重要な産業を担う企業の上役達が時折来る場所だった。
休日を問わずに働く彼等にとって、静かな時間を過ごせる重要な憩いの場であるのだろう。
勿論、そんな彼等があの場所で重要な仕事の会話をする訳もない。だが、仕草や振る舞いから感じ取れる事は幾らでもあった。報じられる出来事などと照らし合わせれば、それがその会社にとって実際どの程度の影響となっているのか、より詳細に推し量る事が出来た。
だがゲッコウガが来た瞬間、その上役達は去っていった。珈琲を飲み終えていた事もあって、それが偶然なのかどうかはまだ分からない、が。
……きっと、彼は秘密警察。
何年も付き合ってきて、八割方そうだろうと感じている。
そしてまた、自分と同じような境遇なのだろうとも。
彼は冷蔵庫の氷を冷凍ビームで補充する仕事をしていた。毎日のようにヒメリの実を何個も食べながら、沢山の家庭を回っている。
反乱分子を炙り出す秘密警察としては、うってつけの仕事だった。
そしてインテレオンと同様に、暗殺や防諜といったイメージが持たれているが故に、それに適した能力を持っていようとも、存在そのものが怪しまれて真にそのような能力を発揮出来る場所はもうこの世界にはないという事実。
「……私の憧れは、親から植え付けられた代物だったんだよなあ」
テーブルを指で叩きながら、ふとした本音を小さく呟く。
彼も、そうなんだろうか。
聞ける事はない。せめて、もっと平和な時代に、もっと別の形で出会えていたら。
そんな事を時折思うが、願望でしかない。平和な時代だったら、何がどうあれ出会える事はなかっただろう。
一緒に過ごす時間は何であれ楽しいものだ。
けれど、隔たりがずっと、ずっとある。どうしようとも崩せない薄い壁が出会った時から今になろうとも確固として在り続けている。
この壁といつまで付き合い続ければ良いのだろう? 私はこんな日々をどれまで続けるのだろう?
答えてくれる誰かは居ない。それどころか聞ける相手も居ない。
溜息ばかりが出てくる夜。
そんな日には、さっさと見切りとつけて床に就く事にした。
ただ、分かる事としては……壁がもし崩れるとしても、それはきっと良い形でもないという事。
だから、こんな現状でも維持するのが最も幸せなのかもしれない。
明かりを消して、布団に潜り。
けれど、そう分かっていても、思ってしまう。
「……私、今、幸せなのかなあ」
答えてくれる誰かは、やはりどこにも居なかった。