小説版の世界観です。
夢を見ていた。
耳朶を打つ彼女の歌声と、その瞳。ぷらぷらと揺れる水色のプールバッグ。蜜色に染まる空には飛行船が一隻。
衝撃を受けた。心が揺れた。
歌声にではない。歌を歌う彼女の瞳と、その表情。知らない間に求めていた何かの疑問の答えが示されたようで、しかしながらその疑問が何か、自分でもわかってはいなかった。
皆から褒められて、彼女は嬉しそうにはにかんでいた。少し湿った髪に光るのはオレンジの髪留め。
家に帰ってからも、歌声と彼女の表情が忘れられなかった。心の底に溜まっていた澱に漣が起こった。
忘れられなかった──
微かな振動で目を覚ます。
目を開けると、車窓から差し込む夕陽が電車の床を照らしていた。左足のつま先が、四角い夕陽の端に侵入している。
目的地に着いたようだ。
駅のホームに降りると、一陣の風が吹いた。ほんの微かに残っていた冬を全て吹き飛ばすような風は、僅かに春の匂いがして、穏やかな暖かさの底に静かな寒さが宿っていた。それについていくかのように桜の花弁が舞い散った。
五月にもなると枝についている花弁を見つける方が難しくなってくるが、この地域ではまだ桜が残っていたらしい。僕は駅の近くに植えられた、細い桜を見た。花弁をほとんど落とし、新緑が僅かに生えかかっている桜の木はみすぼらしく、数週間前までその美しさを誇っていたであろう面影はそこに残ってはいなかった。
改札から出ると、駅前の広場に事前に知らされていた車を見つけた。近づくと、運転席に座った叔父がこちらを見てにこりと笑った。優しそうな笑みだった。
「久しぶり。疲れてない?」
「大丈夫です」
後部座席に乗るか助手席に乗るか、少し躊躇ったが、結局助手席に乗ることにした。よくわからない恐竜の人形がダッシュボードの上からこちらを見ていた。
「結構街並み変わってるんじゃない?」
ウィンカーの軽い音が響く中、そんなことを聞かれる。はあ、そうですねと気の無い返事をするが、相手からの反応はない。聞いただけのようだった。
昔から、叔父のことはあまり得意ではなかった。何を考えているかわからないし、わかったところで考えている意味もわからないような気がしたからだ。ミステリアスといえば聞こえはいいが、要は変人なのだった。
父が病死してしまい行く宛がなかった僕を引き取ってくれたことは感謝しているが、なぜ引き取ろうと思ったのかとか、自分の家庭は大丈夫なのかとか、色々疑問が尽きない。
「家帰ったらさ、アルバム見ようよ、アルバム。古いのあるんだ」
「はあ……」
嬉しそうに目を細めながら帰宅後の計画について話す叔父を適当にあしらいながら、後方に滑って行く街並みを助手席の窓から眺めていた。
随分変わってしまった。そう思えるのは、この街の景色の記憶がべったりと僕の瞼の裏にこびりついているからだろう。
小学四年生の頃にこの場所から離れ、今が高校一年生なので、年数にしてみれば大した年月ではない。だがなぜか勝手に進んでいく街の景色に、自分だけが小学四年生の頃のまま置いていかれたような気分になる。
ふと、窓の外に小学校が見えた。僕が四年生まで通っていた小学校である。あの時と同じように見えるが、心なしか校舎が少し綺麗になった気もする。校庭の端に植えられた桜は、今にも倒れてきそうなほどに弱々しい。
あの窓だ。僕は校舎を見るともなく見ながら、小学四年生だった頃の教室の窓を見つけた。あの窓からいつも青空を見上げていた。
「蝉は、いるんですか?」
「蝉? そりゃもちろん。都会だってのに夏になったら毎年大声で鳴いてるよ」
独り言のような問いだったが、叔父は律儀に答えてくれた。蝉が、鳴く。僕は心の中で繰り返した。すると、耳の奥で実際に蝉の鳴き声が聞こえるようだった。
あの日も蝉が鳴いていた。
開け放たれた窓、騒がしい廊下、静まり返った教室。その真ん中で彼女は泣いていた。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
涙を流す直前に彼女が言ったその言葉は、一体どれほどの痛みを彼女に与えたのだろうか──
「着いたよ」
叔父の言葉によって現実へと引き戻される。気がつけば目的地に到着していた。
「喫茶店、ですか?」
「うん。まあ、趣味程度のものだけどね」
そこは喫茶店だった。お洒落というよりかは、少し古びた、レトロな店だった。店の前には植木鉢に入った謎の植物が所狭しと置いてある。入り口のガラス扉に、白い文字で『喫茶 マービン』と書かれていた。
「いいだろ? 喫茶マービン。名前が気に入ってるんだ」
楽しそうにそう言うと、叔父は鍵を開けドアを開けた。今日は休業日らしい。ドアに書かれている文字を見ると、休業日:月〜金曜日 と書かれていた。一体いつ働いているのだろうか。
店内は薄暗く、静まり返っていた。暗闇の中に潜む家具が、全ての音を吸収している。
電気がつけられる。薄暗くてよく見えなかった店内が、はっきりと見えるようになった。
まず目に飛び込んできたのはレジカウンターの隣に置かれた大きな植木鉢だった。店に入るとすぐ見える場所に置いてあるので、嫌でも目についた。五十センチほどの苗木が植えられており、白く大きな花弁がついている。桜に似た花だった。もしかしたら桜なのかもしれない。
次に目についたのは、レジカウンターの上に置かれたレコードプレーヤーだった。少し古びているが、とても綺麗な状態だった。革の鞄をモチーフにしているであろうレコードプレーヤーは、下部分がスピーカーになっていた。
小さな喫茶店で、特に派手なものはない。かなりの年数が経っているのか、壁は少しくすんでおり、シャンデリアのような形をした電灯も、埃で黄ばんでいるように見えた。椅子やテーブルなどの家具も、どれもこれも古臭いものであり、ここだけ昭和に取り残されているような気分にさせられた。
「昔から、喫茶店を開くのが夢だったんだよ。二階が居住スペースだから、そこまでお金もかからないし」
レジの奥に階段があり、二階に続いていた。歩くたびに軋む、古い木の階段だ。
僕の部屋は階段のすぐ横にあった。ドアにはプレートがかけられており、可愛らしい文字で物置部屋と書かれていた。物置部屋ならわざわざプレートなんてかける必要はないだろう。
その名の通り、部屋は物で溢れかえっていたが、僕が来るから整理をしたんだろうなと思える程度には整頓されていた。小さな窓から夕陽が差し込んでいる。
リュックサック一つが僕の荷物の全てだった。自分のものなんてほとんどなかったし、あったとしても叔父の家に持ってくるほど大切なものではなかっただろう。
地面の上にアルバムが落ちてあるのが見えた。拾い上げて見てみると、色々な写真が挟まれていた。ほとんとが僕たちの家族の写真で、叔父の顔は見えない。僕の母の写真が何枚か、アルバムから抜け落ちた。
写真の中の母は、嬉しそうに笑っていた。
笑った時の顔がお母さんにそっくりだねと、幼稚園の頃先生にそう言われたことがある。その時は特に何とも思っていなかったが、その後母が理由も明かさぬまま蒸発してしまってからは、母に似ているという言葉は、何か重い鎖のような役割を僕にもたらしていた。まるで自分が母の代わりを演じるように強制されているような息苦しさ、母の忘れ形見として生きなければならないという意味のわからない責任感。
母は僕の笑顔を見るたびに、同じことを思っていたのだろうか? 自分と似ている人間がこの世に存在しているなんて考えるだけでぞっとする。母はそんなところが嫌で、僕を見捨てたのだろうか。
母の悲しそうな顔を思い浮かべてみる。母の顔なんて、ほとんど覚えていないのに。今手に持っているアルバムの中で無邪気に笑っているこの女性は、一体どのような表情を浮かべながら僕から離れ去って行ったのだろうか。多分、苦しそうな表情をしていたのだろうな。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
不意に、彼女の苦しそうな表情が瞼の裏に浮かび上がってきた。まるで暗闇の中でいきなり灯された蝋燭のように、ぼんやりと、それでもはっきりとした輪郭で。
視界の端に、大きな本が見えた。聖書だった。懺悔室みたいだ、と、そんなふうに思った。懺悔室なんて見たことなかったけど。