戸山香澄は、小学生の頃のクラスメイトだった。明るく元気な女の子で、特別に仲が良かったわけではなかったけど、たまに話したりする仲だった。
目立つような子ではなかった。誰とでも仲良くなれるけど、クラスの中心ではない。それが戸山香澄という存在だった。
今でもはっきりと覚えている。夏休みのある日、友達と共に河原を歩いていると、誰かの歌声が聞こえてきた。香澄だった。
プールバッグを片手に、楽しそうに歌いながら歩いている香澄を見て、僕は衝撃を受けた。楽しそうに、嬉しそうに、何かの歌を歌う彼女の姿が輝いて見えたからだ。
すぐさま彼女は僕たちに囲まれた。すげえすげえと持て囃される彼女は、恥じらいながらも嬉しそうに笑っていた。褒められて嬉しかったのだろう、香澄は僕たちに様々な曲を歌ってくれた。どれもキラキラと輝いていて、胸を揺さぶられるような感動だった。
家に帰ってからも、布団に入ってから寝るまでの消せない一人の時間の中でも、彼女は僕の瞼の裏で輝き続けた。
彼女が歌っていた歌を、一人の時に口ずさんでみたりもした。とても間抜けな歌で、歌っているだけで恥ずかしくなってしまうような歌だったが、この歌を歌っていた彼女の姿があまりにも眩しかったので、そんなことは気にもならなかった。彼女の歌を歌っている時だけ、僕の知らない彼女をかすかに知ることができるような気がした。何百年に一度、地球に接近してくる彗星のように、香澄の歌を歌っている時は、僕という存在が、何か目に見えない力によって彼女に引き寄せられているような感じがした。それほどまでに彼女の歌は僕に大きな影響を及ぼしていた。
だからこそ、友人たちの間で戸山香澄の歌が馬鹿にされていると知った時は、とてもショックだった。
小学生の男子は常に面白いことを探している獣だ。何か面白い兆候のあるものを見つけたのなら、すぐさまそれを友人たちを共有する。運が悪いことに、香澄のその歌は、数人の悪ガキのせいでクラス全員の男子に知れ渡るほどに有名になってしまっていた。
まるでそれが仲間であることを確認する合言葉であるかのように、彼らは香澄の歌を馬鹿にした。
僕はそれに加担するつもりはなかった。加担することによって何かを見失ってしまうような気がしたからだ。最初は、皆が馬鹿にしていてもその輪の端っこで曖昧な笑みを浮かべる程度だった。実際、数人が馬鹿にすれば皆満足して次の話題に移っていた。しかし次第に皆がそれに面白さを見出してしまった。彼女の歌は、彼らにとって笑いのタネでしかなかったのだ。意地でも香澄の真似をしなかった僕は、段々と友人たちの間で浮いた存在になってしまっていた。
そんな空気に耐えられなくなったからだろうか、ある日、僕は彼女の歌を、友人たちの前で馬鹿にしてしまった。皆は笑っていたが、僕は自分自身のしでかしたことが理解できなかった。
河原でカラオケだから、カワカラ。そんなつまらない呼び名で、彼らはおおはしゃぎをしていた。僕はそんな友人を心の中で軽蔑していたはずだった。他人の好きなものを馬鹿にするその気持ちが理解できなかったからだ。
だが、そんな彼らと一緒のことをしてしまった。自分自身と彼らの境界線が薄れていくようだった。カワカラで大きく口を開けて無理矢理に笑っていた時、僕はどんな顔だったのだろうか。僕の笑顔が母に似ていると褒めてくれた、あの幼稚園の先生は、僕のあの醜い笑い方を見たらどう思うのだろう。そんなことが気になって、胸をかきむしりたくなるような夜が増えた。もし母が僕を捨てた時に、あんな顔をして笑っていたんだとしたら……。そんなくだらない想像が膨らんで、僕の心を締め付けた。
カワカラは、夏休みが終わり新学期になっても変わらずに続いた。変わったことといえば、そこに香澄がいたことだろう。
彼らのカワカラを聞いても、香澄はじっと耐えるように俯くだけだった。僕は、何も言わないように、ただひっそりと教室の端にいるように努めていた。
そんなある日、僕は友人から悪魔のような誘いを受けた。カワカラを、クラスの皆でしようというものだった。もちろん、断りたかった。ふざけるな。つまらないことをするな。そう強く弾劾したかった。しかし、友人たちの輪から外れることを恐れた僕は、力なく頷いてしまった。
その日の昼休みに、香澄は泣いた。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
絞り出すように言葉を吐いた彼女は、耐えられなくなったのか号泣し始めた。窓の外では油蝉が鳴いていた。
皆が揶揄い、それが嫌だったから泣いてしまった。香澄が保健室に連れて行かれた後、僕らは担任にそう叱られた。今まで見たこともないくらい怖い顔で怒っていた。僕はその言葉を他人事のように聞いていた。
彼女は本当に揶揄われて悔しかったから泣いたのだろうか? もしそうなんだとすれば、なぜあの瞬間、歌が好きではないと言った瞬間に泣いたのだろうか。彼女の涙には何か違う意味があったのではないかと、そう思えて仕方がなかった。
彼女のその涙の意味を知りたかった。しかし、それは叶わなかった。
それからすぐに、僕は父親の都合で引っ越してしまったからだ。結局僕はそれから香澄と話すことも、カワカラについて弁明することもできずに彼女から離れてしまったのだ。クラスの皆に別れの挨拶をする時、僕はなぜか香澄の顔を見ることができなかった。
助手席に座り、これから行く新しい家について父親から説明されているときも、荷解きをしながらその多さにうんざりしているときも、僕の頭の中には香澄の歌と、彼女の涙が幾度となくフラッシュバックしていた。彼女の歌を思い出すと胸が熱くなり、彼女の涙を思い出すと胸が張り裂けそうになった。この気持ちが何なのか、僕にはわからなかった。多分、一生わかることはないのだろう。そう思ってしまうほどに、僕は全てのことにおいて諦めてしまっていたのだ。
「カワカラ……」
呟く。それだけであの日の彼女の涙が浮かび上がってくる。
ふと見上げると、今まで窓の縁にしがみついていた黄昏色が見えなくなっていた。もう夜だった。
あれから彼女はどうなったのだろうか。今も昔と変わらず、元気に歌を歌っているのだろうか。満面の笑みで歌を歌う彼女を思い浮かべる。彼女のえくぼをもう一度見てみたい。
ノックの音が部屋に飛び込んだ。
「晩御飯だよ」
晩御飯はオムライスだった。何か他のおかずはないのかと尋ねたかったが、図々しい人間だと思われそうだし、美味い美味いとオムライスを食べる叔父のスプーンに何の躊躇いも存在していなかったことから、多分この家ではこれが普通なのだろうと割り切ることにした。おめでとうとケチャップで書かれたオムライスは、何だかひどく滑稽に見える。何に対してのおめでとうなのだろうか。
この家にリビングはないらしく、僕たちは店の奥にある丸いテーブルでご飯を食べていた。
「あ、そうだ」
叔父はそう言って立ち上がり、レジカウンターまで歩いていく。
「せっかくだから、BGMでも流しながら食べよう」
しばらくすると、何かの音楽が聞こえてきた。叔父がレコードをかけたらしかった。僕たちの間で共有されていた静謐の中に、軽やかな音楽が紛れ込む。不思議なことに、レコードがかけられただけで、今僕がいる場所が、日常の中の非日常へと早変わりした。
洋楽だった。優しげな男性の声が静かに流れていた。胸の中にスッと入ってくるような、悲しみを湛たたえた声だった。
「誰の曲ですか?」
「マーヴィン・ゲイの曲だよ。僕、好きなんだ」
「この喫茶店の名前の……」
「お、気づいた? マーヴィン・ゲイが好きだから、喫茶マービン。いいでしょ?」
席に戻ってきた叔父が誇らしげに笑う。マーヴィン・ゲイも自分が死後に寂れた喫茶店の看板を背負わされているとは夢にも思っていないだろう。なぜマービンだけなのかと聞くと、さすがに喫茶店の名前にゲイはまずいでしょ、と返された。何ともいい加減である。
「そういえば、父もよくレコードをかけてました」
記憶の中には、父が嬉しそうにレコードをかけていた背中が埃を被ったまま眠っている。思い返せば、母がいなくなってから父はレコードを聞かなくなってしまった。なぜなのかはわからなかった。
「だろうね。今かけてるレコード、兄さんからもらったやつだから」
もうすぐで四十代になるとは思えない表情で叔父がにこりと笑う。あまり父とは似ていなかった。寡黙で厳格だった父と、真面目ではあるがどこか抜けているこの叔父に関わりがあるという事実が僕には少し面白く思えた。関わりどころか、血の繋がりもあるんだけれど。
ふと、視界の隅に植木鉢が見えた。この店には植木鉢が至る所に置かれている。多すぎて逆にストレスになってしまうほどだ。
「観葉植物、多いですね」
「ん? ああ、これ? 何かを育てるのが好きでね。植物は水やるだけで勝手に育ってくれるからありがたいよね」
驚くほど無責任な発言だ。しかしまあ、植木鉢の中の植物は元気そうにやっているので特に悪い行為ではないのだろう。行く宛てがなくなった僕を引き取った理由も、そのような適当なものなのだろうか。聞いてみたかったが、少し怖かった。
そういえば、と僕は思い出す。
「あの、入り口に置いてある桜はなんの種類なんですか?」
「桜? ああ、あれ? あれは桜じゃなくてアーモンドだよ」
「アーモンド?」
意外な言葉が叔父の口から飛び出したので、思わず聞き返してしまった。あの茶色の種のような形の食べ物が、こんなに華麗な花を咲かすことが僕には不思議だった。
「僕も桜を育ててみたかったんだけどね……何でかわかんないけどいっつも枯らしちゃうんだ。だからもう見た目が似てるアーモンドでいいかなって」
振り返ってみる。アーモンドの花は確かに桜によく似ていて、聞かなければその違いはわからない。それなのに、なぜだろうか、僕はそのアーモンドの花が好きにはなれそうになかった。
来週から僕が行く学校の話や、好きなものの話などをしているうちにある程度楽しい夕飯の時間は終わった。部屋に戻ると、思い出したみたいに寂しさが纏わりついてくる。世界に自分一人だけ取り残されてしまったみたいな、焦燥感。微かに開いたドアの隙間からマーヴィン・ゲイの優しい声が聞こえた。
部屋の隅に置かれていた布団を敷く。側には、律儀に畳まれたパジャマも置かれていた。冷たい春の夜の空気で、パジャマはしんと冷えていたが、叔父の優しさが温かく手に沁みた。
父はどんな思いでレコードをかけていたのだろうか。そんなことを考えて、少し笑ってしまう。思えば、この家に来てからまともに父のことについて思い出そうとしたのはこれが初めてかもしれない。僕の中の父という存在は、かなり薄くなってきている。それは、僕たちの関係が、お世辞にも良好とは言えなかったせいもあるだろう。
母がいなくなってから、父はどことなくよそよそしくなった。今までは静かながらも、その中に優しさと愛を感じていたのだが、母が消えた瞬間にそれらも消えたのだ。
子供というものは、大人が思っているよりも勘が鋭い生き物で、そういった些細な変化に目敏く気づいてしまうのだ。だからこそ、僕は気づいてしまった。母がいなくなって、父は僕に対する愛情を失ってしまったのだと。
結局僕に向けていた愛情は母ありきのものだったのだろう。母を失くした瞬間、僕に対する興味も失ってしまったわけだ。お菓子を買ったらおまけのおもちゃがついてきたけど、別におもちゃが好きというわけではない、そんな感じだったのだ。だとすればなぜ、母がいる時だけ僕を愛したのだろう。別に愛してなんて、頼んでもないのに。どうせ興味をなくすくらいなら、最初から愛されなかった方がマシだった。
愛というものはなんなのだろう。僕は誰に愛されているのだろう。そんなことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのはわかっているのだが、考えずにはいられなかった。父は、僕が母に似ていたから僕を愛していたのだろうか。だとすればいよいよこの母親似の顔が自分自身の無価値さを押し付けてくる足枷のように思えてくる。
母に似てるけど、母ではない。僕はまるで、桜になれなかったアーモンドのような存在なのだろう。
父も多分、アーモンドの花は嫌いなんだろうな。そんなことを考えた。